村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:その他社会学

このところ、セクハラや大相撲の女人禁制など、性差別からくる問題がクローズアップされていますが、議論は迷走しがちです。
その根本原因は、性差別がどうして生じたのかについて明確な認識がないからです。
なにごとも発生の過程がわかると、ことの本質もわかるものです。
 
男と女では、体の強さが違います。
体の強さといってもいろいろあって、たとえば持久力では男女差はそれほどありません。
マラソンの世界最高記録は、男子は2時間2分57秒、女子は2時間1525秒です。
男の走る速さを100とすれば、女の走る速さは90というところです。
 
重量挙げの世界記録は、男子の69キロ級のスナッチは166キロ、女子の69キロ級のスナッチは128キロです。
男子の持ち上げる力を100とすれば、女子の持ち上げる力は77です。
こちらについてはかなり男女差があります。
 
平均寿命は、女性のほうが男性よりも長いです。
“長生き力”というものを想定すれば、女性のほうが強いことになります。
 
ですから、男と女の体の強さの違いは一概には言えませんが、もし男と女が喧嘩をすれば、男が圧倒的に強いでしょう。重量挙げのような筋肉の力が直接に働くからです(あと、骨の強さなども関係するような気がします)
それに、攻撃性や闘争心も男のほうがはるかに強いので(男性ホルモンのテストステロンが影響しています)、それも喧嘩には有利です。
 
世の中にはか弱い男もいて、たくましい女もいますが、男と女が喧嘩して女が勝つということはきわめてまれだと思われます。
 
こうした違いは、女は妊娠、出産、授乳などに体の資源を使わねばならず、一方男は、狩りにおいて獲物と格闘して仕留めなければならないという生物学的条件からきています。
ですから、こうしたことは人間だけではなく、ある程度高等な動物では雄のほうが雌よりも一回り体が大きくてたくましいのが普通です。
 
しかし、動物においては、雄のほうが力が強いからといって雌をレイプするようなことはありません。
男が女をレイプするのは人間特有の“文化”です。
 
もともとどんな動物も、公平よりはほんの少し利己的に振る舞う傾向があり、そのためつねに生存闘争をしています。
しかし、動物は同じ本能レベルの生存闘争を繰り返しているだけですが、人間の場合は、「ほんの少し利己的に振る舞う傾向」が文化に蓄積され、「大いに利己的に振る舞う傾向」を有するようになりました。
そのため戦争したり、帝国を築いたり、奴隷制をつくったりしてきたわけです。

男と女の関係においても、生殖のためにお互いを必要としつつも、いっしょに生活していると利己的な傾向がぶつかり、闘争が起きます。闘争においては体の強い男が有利ですが、男にも利他的な本能があるので、男がほんの少し利己的に振る舞う程度でした。
しかし、男がほんの少し利己的に振る舞う傾向が文化の中に蓄積され、男の中のやさしさや思いやりという利他的な本能は抑圧され、男は女に対してきわめて利己的に振る舞うようになりました。こうした文化を性差別と呼ぶわけです。
 
これが生物学的性差=セックスと社会的文化的性差=ジェンダーの関係です。
 
ところが、フェミニストなどは男女平等を主張するあまり、男女の生物学的性差を認めようとしない傾向があり、そうするとどこから性差別が生じたかを説明できません。
そのため性差別や男女平等などの議論は混迷しがちです。
 
「男は女より生物学的に喧嘩が強いためにわがままに振る舞い、性差別が生まれた」と考えると、レイプやセクハラが横行する世の中がうまく説明できますし、それがバカバカしいものであることもわかります。

「日本時間」という言葉がありました。日本標準時のことではありません。それとは別の意味の「日本時間」という言葉があったのです。
 
「ブータン、これでいいのだ」(御手洗瑞子著)という本を読んでいたら、ブータン人はきわめて時間にルーズだということが書かれていました。
時間にルーズなのはブータン人だけでなく、途上国ならどこも同じでしょう。
そして、昔の日本人も同じだったのです。
 
私は京都の生まれですが、子どものころ、母親が待ち合わせの相手がなかなか来ないと「『京都時間』やなあ」と言っていました。バスが遅れたときなどにも言っていたような気がします。もちろん母親だけでなく父親やほかの人も言っていました。
京都人は時間にルーズだということを「京都時間」という言葉で表現していたのです。
 
しかし、考えてみると、京都人がほかの土地の人よりも時間にルーズだったということはなさそうです。おそらく京都だけでなく、全国各地に同じ「○○時間」という表現はあったはずです。
そう思って検索してみると、やはりありました。
「博多時間」でグーグル検索をすると、上位四つのサイトが「博多人は時間にルーズだ」という意味のことを書いたものです。
「仙台時間」で検索すると、いちばん上のサイトがそうでした。
「名古屋時間」で検索すると、いちばん上と5番目のサイトがそうです(ただ、流行が東京や大阪よりも遅れて入ってくるという意味の「名古屋時間」という言葉もありました)
「島根時間」「静岡時間」もありました。「青森時間」はありませんでしたが、「津軽時間」はありました。
 
やはりほとんどの日本人が、自分たちは時間にルーズであるということを自覚して「○○時間」と言っていたのです。
ということは、当然「日本時間」という言葉もありました。私は親などが言っているのを聞いたことがあります。
つまり日本人は時間にルーズだということは共通認識だったのです。
より正確に言うと、時間には正確であるべきだという認識はあるのですが、現実の行動はそうなっていないということを自嘲気味に「○○時間」や「日本時間」と言っていたわけです。
当時、1950年代、日本人が唯一時間に正確だとして誇りにしていたのは国鉄でした。外国の鉄道はそれほど正確ではなかったようで、日本人は外国人に対して国鉄のダイヤの正確さだけは自慢していました。というか、日本の伝統文化は別にすれば、それぐらいしか自慢するものがなかったのです。まだ「メード・イン・ジャパン」が粗悪品の代名詞であった時代です。
 
今回、「日本時間」を検索しましたが、日本人は時間にルーズだという意味だとするサイトは発見できませんでした。標準時とまぎらわしいので、「京都時間」や「博多時間」と違って早くに絶滅してしまったのでしょう。
 
ところで、「ブータン、これでいいのだ」という本によると、ブータン人は会議に遅刻してきてもぜんぜん悪びれず、堂々としているそうです。そして、遅刻を怒る人もいないそうです。そういうことを怒る人は徳の低い人と見なされる傾向すらあるといいます。
もっとも、ブータンの中ではそれでいいのですが、外国と交流するときに当然摩擦が生じます。年内に空港ができる予定だったのに、まだ基礎工事の段階で、すでにツアーを企画していた外国の旅行会社からクレームが入るなどは日常茶飯事だということです(著者の御手洗瑞子さんはブータン政府の観光担当スタッフとして働いていた人です)
 
今の日本人はきわめて時間に正確です。ということは、年中遅刻してはいけないと気をつかい、遅刻しそうになるとあせり、遅刻すると恐縮してペコペコと謝ります。時間に正確なおかげでビジネスはうまく回り、日本は豊かな国になりましたが、時間に正確であるための気苦労もたいへんです。
つまり物質的豊かさと精神的貧しさを引き換えにしているわけです。
最近、日本人はそういうことに気づいてきました。ブータンについての関心が高まっているのも、そういうことが背景にあるのではないかと思われます。
 
 
ところで、麻生太郎元首相の著書「とてつもない日本」の「はじめに」に日本人についてのエピソードが紹介されています。インドの地下鉄公団総裁がこのように語ったということです。
 
――自分は技術屋のトップだが、最初の現場説明の際、集合時間の八時少し前に行ったところ、日本から派遣された技術者はすでに全員作業服を着て並んでいた。我々インドの技術者は全員揃うのにそれから十分以上かかった。日本の技術者は誰一人文句も言わず、きちんと立っていた。自分が全員揃ったと報告すると、「八時集合ということは八時から作業ができるようにするのが当たり前だ」といわれた。
 悔しいので翌日七時四十五分に行ったら、日本人はもう全員揃っていた。以後このプロジェクトが終わるまで、日本人が常に言っていたのが「納期」という言葉だった。決められた工程通り終えられるよう、一日も遅れてはならないと徹底的に説明された。
 いつのまにか我々も「ノーキ」という言葉を使うようになった。これだけ大きなプロジェクトが予定より二か月半も早く完成した。もちろん、そんなことはインドで初めてのことだ。翌日からは、今度は運行担当の人がやってきた。彼らが手にしていたのはストップウォッチ。これで地下鉄を時間通りに運行するよう言われた。秒単位まで意識して運行するために、徹底して毎日訓練を受けた。その結果、現在インドの公共交通機関の中で、地下鉄だけが数分の誤差で運行されている。インドでは数時間遅れも日常茶飯事であり、数分の誤差で正確に動いているのは唯一この地下鉄だけである。これは凄いことだ。
 我々がこのプロジェクトを通じて日本から得たものは、資金援助や技術援助だけではない。むしろ最も影響を受けたのは、働くことについての価値観、労働の美徳だ。労働に関する自分たちの価値観が根底から覆された。日本の文化そのものが最大のプレゼントだった。今インドではこの地下鉄を「ベスト・アンバサダー(最高の大使)」と呼んでいる――。
 
麻生氏は時間に正確なことは「日本の文化」だと認識して誇りに思っているようです。しかし、すでに述べたように、もともとの日本の文化は時間にルーズなものだったのです。
日本人がインド人よりも時間に正確なのは、単に先に近代化したということにすぎません。そんなことを日本文化の誇るべきことと思っているとすれば、思想が薄っぺらすぎます。
 
この手の思想の薄っぺらさは右翼全般に見られます。明治時代に欧米から輸入した文化を日本固有の文化だと勘違いしているのです。
 
 
話は変わりますが、橋下徹氏の日本維新の会と石原慎太郎氏の太陽の党が合併しました。原発、TPPなど重要な政策で一致しないのに合併するのは野合だとマスコミやほかの党は批判しますが、それでも合併するのはより本質的なところで一致しているからです。
たとえば2人の共同記者会見の場において、石原氏は橋下氏の衆院選出馬について、「次は殴ってでもやらせようと思っている」と語りました。
「スパルタ教育」の著者で戸塚ヨットスクールの支援者である石原氏と、体罰肯定論をテレビで公言してきた橋下氏は、「殴ってでも」という言葉で通じ合うことができるのです。
また、日本維新の会と太陽の党の合意文書の冒頭にはこう書かれています。
「強くてしたたかな日本をつくる」
タカ派の思いが集約された言葉です。
つまり橋下氏と石原氏はタカ派という点で強く結びついており、原発、TPPなどは大した問題ではないのです。
 
しかし、「強くてしたたかな日本」において日本人は幸せになれるでしょうか。
そもそも「強くてしたたかな日本」は日本本来の姿でしょうか。明治時代に輸入した欧米の価値観ではないでしょうか。
 
東日本大震災のとき、被災地の人々は悲惨な状況の中で互いに助け合い、その姿は世界の人々を感動させました。これこそが日本人の本来の姿であり、誇るべきものだと私は思います。
「強くてしたたかな日本」はいわば外に対しての強さであり、被災地の人々が示したのは芯の強さです。
どちらを選択するのかというのは、今回の総選挙の隠れた争点だと思います。
 
ところで、「日本時間」「京都時間」「博多時間」「津軽時間」などの言葉には、「自分たちは時間にルーズだがそれでいいじゃないか」というひそかな誇りがあったと思います。それがあるので、日本人はブータン人に親近感を持つことができるのだと思います。

最近、「こだわりの一品」とか「こだわりのラーメン屋」という表現をよく耳にします。この「こだわり」はいい意味で使われています。しかし、もともと「こだわり」という言葉はほとんどの場合、悪い意味で使われていました。
 
三省堂「大辞林」で「こだわる」を引くと、こうなっています。
 
(1)心が何かにとらわれて、自由に考えることができなくなる。気にしなくてもいいようなことを気にする。拘泥する。
「金に―・る人」「済んだことにいつまでも―・るな」
(2)普通は軽視されがちなことにまで好みを主張する。
「ビールの銘柄に―・る」
 
「こだわる」の意味が変遷した経緯については、たとえばこちらのサイトを。
「『こだわる』の意味の変遷について」
 
私自身は、「こだわる」には用法がふたつあるのだと思っています。
つまり、「こだわる人」という場合には悪い意味になりますが、「こだわる人がつくった物」にはよい意味があるというわけです。
 
たとえば職人気質という言葉がありますが、職人には物づくりにひじょうにこだわりを持った人がいます。こういう人はしばしば採算を度外視してまでいい物をつくったりしますから、そういう人のつくった物は、商業主義が蔓延する世の中においてはひじょうに貴重です。まさに「こだわりの一品」であるわけです。
 
また、芸術家や作家もなんらかのこだわりを持っていることでその作品に特徴が出ます。というか、なんらかのこだわりなしに芸術家や作家になることはないというべきでしょうか。
「神は細部に宿る」という言葉がありますが、これはとりわけ芸術にいえることで、芸術作品においては些細な瑕疵が見えただけで感動がなくなってしまうことがあります。
そのため黒澤明監督は撮影のときは細部にまでこだわり、制作費と制作日数がかかりすぎて、一時は映画を撮ることができなくなってしまったほどです。
 
ということで、「こだわる」ということが物づくりに発揮された場合はよい物ができるので、「こだわる」という言葉がいい意味になってきたのは理解できます。
しかし、グルメレポーターが「ご主人のこだわりはなんですか」などと聞くことが普通になってきて、今では「こだわる人」までがいい意味になってきているような気がします。
しかし、「こだわる人」は決していいものではありません。
 
たとえば、職人気質の人というのは、たいていは頑固で気むずかしいものです。そのため頑固親父として妻や子どもから煙たがられているのが普通です。また、職人気質の人とは友だちづきあいもしにくいでしょう。
芸術家や作家も同じです。こういう人はそれなりの見識があるので、社会的には評価されますが、家族には敬遠されているに違いありません。
美しい作品がつくれる人は繊細な美意識を持っています。繊細な美意識とはキメの細かいフィルターのようなもので、みにくさと美しさが入り混じった現実をそのフィルターでこすことで美しい作品をつくりあげるわけです。そういう繊細な美意識の持ち主にとっては、現実の人間は受け入れがたいものであるのが当然です。
作家においても、よき家庭人であった人はきわめてまれです。夏目漱石にしても妻を殴っていました。
 
なんらかの「こだわり」を持っていることは、社会的成功のひとつの条件になるかもしれませんが、「こだわり」を持っていることと「円満な人格」とは相容れません。
私は前から「道徳を家庭に持ち込むな」と主張していますが、それと同じで「こだわりや美意識を家庭に持ち込むな」と主張したいと思います。

また成人式の時期となりました。成人式というと、マサイ族の男子は1人でライオンを仕留めないと成人になれないという話を思い出します。私はテレビでもこれを見たことがあります。
こんなサイトにも載っています。
 
マサイ族の若者はだいたい14,5歳になると1人でサバンナに出かけます。そしてライオンを仕留めると立派な成人と認められ、大事な部落の会議へも参加を許されます。尻込みしてライオン狩りへと出かけられない若者は、いつまで経っても成人と認められず、会議への参加はおろか結婚もできないといいます。
 
 
しかし、どこかあやしい感じがします。1人でライオンを仕留めるというのはハードルが高すぎる気がするのです。
そこでもう少し調べてみると、間違いだと主張するサイトがありました。
  
マサイ族の成人の儀式は「割礼」です。
男性だけでなく女性も行います。
ライオン狩りは行いません。
ライオンに立ち向かう勇気は必要とされますが、積極的に倒しには行きませんし、今は動物保護区になっているので、禁止されています。
 
 
調べてみましたがライオン狩りが現在は行われていないというのはどうやら本当のようです。
以下のような明確な記述がありました。
 
『ケニヤに26年滞在し、アフリカで最も多くの野生動物を殺した1人にあげられる J.A. ハンターはマサイ族のライオン狩りは既に1920年代には見られなくなったと書いている。
 グッギィスベルクは50年代にもまだ行われていたという。
バートラム(1978)は現在ではこの種のライオン狩りは禁じられているので、めったに行われないと言っている。
小原秀雄氏(1990)は最近やめになったとしている。
ライオンを狩ることは英雄になるための通過儀礼だったが、ライオンが少なくなったため、この儀式にこだわっていては戦士がもう生まれないからだという。
マサイ族のライオン狩 olamayio はもはや行われていないことになっている。ケニヤ、タンザニア両政府によって禁じられているからだ(bluegecko.org)。
 しかしマサイ族が家畜を殺された時には、禁令に反していまだにライオン狩りを行っているともいわれる(forests.org)。』
 
 
ちなみにウィキペディアの「マサイ族」の項目には、成人の儀式として割礼のことは書かれていますが、ライオン狩りのことは書かれていません。
もっとも、テレビでやっていたぐらいですから、多少それに似たことはあったのでしょう。
 
 
マサイ男子は1213歳ころになると割礼を受け、その後戦士の時代に入る。戦士だけの集落を作り、長老から立派な大人になるための修行を受ける。野生の中で家畜や家族を守るための知恵を学び、体を鍛える。そんな修行も十分だと長老たちが判断した頃、戦士の卒業式「エウノト」が行われ、彼らは大人になる。
 
 
おそらくこうした修行の中にライオン狩りもあったということでしょう。成人になる男子全員がライオン狩りで一匹ずつ仕留めていたら、その地域のライオンはいなくなってしまうはずです(ウィキペディアによるとマサイ族の人口は推定20万から30万人)
 
マサイ族はアフリカでもっとも勇猛な部族とされています。そういう部族の一部で行われていたらしいことを全体で行われていたことにして、それが未開社会における成人儀式の代表例のようにいうのは、大きな間違いです。
 
また、南太平洋のバヌアツ共和国では、足首に木のツルを巻いて高いやぐらから飛び降りるという、バンジージャンプの原型とされる成人の儀式がありますが、これなども世界でもっとも特殊な成人の儀式でしょう。これを成人の儀式の代表例のようにいうのも誤解を招くことです。
 
なぜ私たち文明人は、こうした特殊な成人の儀式を好んで取り上げるのかというと、未開社会も私たち文明社会と基本的に同じだと思いたいからでしょう。
 
実際のところは、文明社会と未開社会は大きく違いますし、中でもいちばん違うのは成人のあり方です。
未開社会では成人になるのにあまり苦労はありません。狩猟採集社会では、木の実などを取ってこられて、(ライオンでなく)シカなどを狩れるようになれば1人前ですし、農耕社会では、ある程度畑が耕せるようになれば1人前です(種まきの時期など技術的なことは経験ある人の真似をしていればいいのです)。しかし、今の文明社会で1人前になるのはたいへんです。長い期間教育を受け、人間関係のスキルも学び、規則正しい生活ができるようになり、それでちゃんとした職業につくか、つくことが可能な状態になって初めて1人前とされます。
文明が高度化するに従って成人になることの困難は増していきます。
もちろんこれは儀式の問題ではありません。儀式とは入学式に出席するようなことで、問題は入学試験に受かることであるわけです。
 
現在の日本では、若者は社会に適応するのにアップアップして、ちょっとしたつまずきで不登校や引きこもりやニートになってしまいます。
また、親も子どもを1人前にすることにたいへんな負担を感じていて、それも少子化の一因になっていると思われます。
 
文明はどこまでも進歩するものではありません。資源や環境の制約があるからです。
それにプラスして、人間の能力も制約になります。
未開社会の赤ん坊も文明社会の赤ん坊も、生まれたときの能力は同じです。ですから、文明が進歩するに従って1人前になるまでに時間がかかります。
人間はスペックの決まったコンピュータのようなものです。たくさんのソフトをハードディスクにインストールし、やっと仕事に使おうと思ったら、作業が複雑でメモリーが足りず、もうコンピュータの寿命が迫っているというのが今の文明人です。
 
「人間の能力は無限だ」みたいな考え方は幻想でしかありません。
能力の限界は教育で対応しようというのが文明社会の基本戦略ですが、それも限界に近づいています。
つまり、これ以上教育できない状態になっているのです。
そのため教育改革は「ゆとり」と「学力」の間を行ったり来たりしています。
 
これからは教育を改革するのではなく、少ない教育でも適応できるような社会にすることを目指すべきです。
 
人間は生まれつき能力が決まっているということを認識すれば、文明の進む方向もおのずと決まってきます。
人間観と文明観を転換する時期です。

「ゲーム理論による社会科学の統合」(ハーバート・ギンタス著)という本が今年7月に出版されました。内容はタイトルの通り、ゲーム理論によってさまざまな社会科学はひとつに統合されるべきだというもののようです。
「ようです」と言ったのは、書評を読んだだけで、中身はまだ読んでいないからですが、読まなくてもわかります。ゲーム理論によって社会科学を統合できる可能性はありますが、現状では不可能です。なぜなら道徳が正しく位置づけられていないからです。利己的な人間が「人に迷惑をかけてはいけない」「人のために尽くしなさい」という利他的な言葉を発する矛盾を解明しない限り、ゲーム理論は限定的にしか使えません。
 
私は、人間の行動を決定する三要素として愛情、権力、道徳(宗教、思想などを含む)があると考えています。愛情、権力は客観的に把握しにくく、科学の俎上にのせにくいものですが、それでも私たちはだいたいのことはわかっています。しかし、道徳のことはまったくわかっていません。
私たちが利益を求めて行動しているのはわかりきった話です。問題は愛情、権力、道徳が行動にどう影響しているかです。この点に関してゲーム理論は今のところまったく無力です。
 
例を挙げてみましょう。
「囚人のジレンマ」というゲームがあります。一時は盛んに研究されて、ゲーム理論の本には必ずといっていいほど載っていましたから、ご存じの方も多いでしょう。
 
2人組の泥棒が逮捕され、別々に取り調べを受けています。警察は、2人組は過去にもっと大きな犯罪をしたに違いないと考え、こう持ちかけます。
「今のままだと1年の刑だが、過去の犯行を自白すれば、相棒を3年の刑にして、お前を無罪にしてやる。ただし、2人とも自白すれば2年の刑だ」
 
自白するのが有利か、自白しないのが有利かという問題です。もちろん2人の泥棒はもっぱら利己的にふるまうという前提です。このゲームでは、利己的な人間が利他的な行動をする場合があり、それが多くの研究者の心をとらえたのでしょう。
しかし、私にとってはまったくつまらないゲームです。このゲームで扱っていないことこそたいせつだと思うからです。それが愛情、権力、道徳です。
この三要素抜きの研究など意味がないと思えるほどです。それを具体的に見てみましょう。
 
まず、この2人組の泥棒が恋人同士という場合があります。男同士であっても、友情で結ばれている場合があります。その場合、利己的にふるまうだけでなく、利他的にふるまう可能性があって、当然ゲームの結果が違ってきます。
また、2人の泥棒は対等の関係とは限りません。むしろ親分子分、兄貴分と弟分というように上下関係がある場合のほうが多いでしょう。出所してから顔を合わしたときのことを考えると、上下関係によっても当然泥棒のふるまいは変わってきます。
そして、泥棒という無法者の世界にも道徳があります。道徳という言葉が適切でなければ掟といってもいいでしょう。仲間を裏切れば、良心の呵責や罪悪感が生じます。それももちろん行動に影響します。
 
三要素のたいせつさを示すために、もうひとつ例を挙げてみます。
戦場で兵士は「突撃!」の命令を聞いたら、敵の銃弾が飛び交う中、塹壕を飛び出していきます。この行動はなにによって説明できるでしょうか。
 
まず権力があります。軍隊で上官の命令は絶対で、命令違反は重罰ですし、敵前逃亡は銃殺です。こういう権力関係の中にいるから兵士は塹壕を飛び出すのです。
そして、愛国心、祖国愛があります。また、戦争に負けて国が占領されると家族がつらい目にあうということも想像されます。国や家族への愛という理由で兵士は塹壕を飛び出すのです。
国民は国家のために身を捧げるべしという道徳もあります。臆病、卑怯、裏切りは非道徳的な行為です。また、革命などなんらかの大義のためという理由でも兵士は塹壕を飛び出します。
 
戦場での兵士の行動は、もっぱら権力、愛情、道徳によって説明するしかありません。ゲーム理論はどこまで有効でしょうか。
いや、もしかして権力や愛情はゲーム理論でも扱えるのかもしれません。しかし、利己的な人間が利他的な内容の言葉(道徳)を語ることは矛盾ですから、それは扱えないでしょう。
ですから、ゲーム理論で社会科学を統合することは不可能なのです。
 
もっとも、道徳が解明できれば話は別です。ゲーム理論の適用範囲は飛躍的に広がることになり、社会科学の統合も不可能ではないかもしれません。
 
このブログを読んでいれば、道徳とはなにかがおのずとわかってきます。

東大を退職した上野千鶴子さんの特別講義が79日、東大で行われ、最後はこの言葉で締めくくられたそうです。
「私はフェミニズムの評判がどんなに悪くなっても、この看板は下ろさない。語る言葉を持たなかった女たちが、言葉をつくるために悪戦苦闘してきた。その先輩たちのおかげで私はいる」(「朝日新聞726日夕刊)
(講義のネット配信はhttp://wan.or.jp/)
 
私がこれを読んで思ったのは、やっぱりフェミニズムの評判は悪くなっているのだなということです。それは感じてはいたのですが、当事者が言うとまた重みが違います。
どうしてフェミニズムは評判が悪くなったのでしょうか。私はフェミニズム理論を参考にして「フェミニズムの帝国」という近未来SF小説を書き、これが私の唯一ともいえる評判作なので、人ごとではありません。私なりの考えを書いてみます。
 
日本では、女子差別撤廃条約批准に伴い男女雇用機会均等法が制定されたことでフェミニズムは一気に勢いを増し、マルクス主義なきあとは思想界で一人勝ち状態になりましたが、最近は確かに逆風にさらされています。その理由は、フェミニズムが科学の分野に足を突っ込んだことにあると私は考えています。
フェミニズムでは、生物学的性差をセックス、社会的・文化的性差をジェンダーといい、セックスは肯定しますが、ジェンダーは差別的だとして否定します。つまりフェミニズムはセックスという人間の生物学的要素を視野に入れた点で画期的な思想であるといえます。
しかし、そこに問題がありました。セックスとジェンダーが無関係であるはずはありません。セックスを土台にしてジェンダーが生まれたと考えるのが普通でしょう。そうすると、非差別的なものから差別的なものが生まれた、よいものから悪いものが生まれたという理屈になります。
つまりセックスとジェンダーの関係が不明確なのです。これがフェミニズムの理論的欠陥です。
 
もっとも、どんな思想にも欠陥はあります。むしろ思想とは欠陥の塊だといってもいいくらいです。しかし、フェミニズムの場合は生物学的要素という科学の分野に踏み込んでいるところに違いがあります。
 
おそらく初期のフェミニズムでは、マーガレット・ミードの著作などの影響から、性差においてはセックスの要素はきわめて小さく、ほとんどがジェンダーだと考えられていたのでしょう。ですから、セックスとジェンダーの関係はたいして問題にならなかったのです。
そもそも社会科学、人文科学においては、人間の生物学的要素などというものはまったく無視されていました。フェミニズムは無視しないだけまだましなほうです。
 
ところが近年、進化生物学や脳科学の進歩により、セックスの要素が意外に大きいことがわかってきました。セックスについての科学的知見が次々と付け加えられていくとともに、これまでフェミニズムに抑えられてきた男どもが反撃するようになり、フェミニズムは退却戦を余儀なくされているというわけです。
 
したがって、この事態を打開するには、セックスとジェンダーの関係を理論構築しなければなりません。
これは動物と人間、自然と文明の関係を理論構築するのと同じことですから、たいへんスケールの大きい問題になってきます。
それについては、私のホームページで重要なヒントになることを書いていますので、参考にしていただけたらと思います。
 
「思想から科学へ」村田基(作家)のホームページ
(現在このホームページは休止中です)
 
 
フェミニズム再生のための具体的なプランも書いてみます。
それは「子ども差別」という概念を導入することです。
おとなと子ども、親と子どもの関係は、強者と弱者の関係です。そこに支配、差別、抑圧が生じるのは、フェミニストなら普通に理解できることでしょう。
おとなが子どもを差別し、差別された子どもは自分がおとなになるとまた子どもを差別する。これが無限に世代連鎖していくのが子ども差別です。
人種差別や性差別では、たとえば黒人や女性は永遠に差別される立場なので、不公平であることは明らかです。しかし、子ども差別においては、差別された者が次は差別する側に回るので、不公平とはいえません。たとえば、先輩が後輩を一発殴る。殴られた後輩は自分の後輩を殴る。こうしてどんどん後輩を殴っていけば、1人の人間は一発殴られて一発殴っているので、不公平ではないというわけです。
そのため子ども差別はこれまであまり認識されてきませんでした。
しかし、殴り殴られる関係がよいはずはありません。これを差別と認識して、正しい人間関係に戻すべきなのは当然でしょう。
 
年齢差別(ageism)という言葉がありますが、これは主に高齢者差別という意味で使われているので、私は「子ども差別」という言葉を使っています。
 
ひとつの家庭には、男が女を差別する性差別があり、同時に親が子どもを差別する子ども差別があり、ふたつの差別がクロスしています。このように認識してこそ、すべての人間関係が正しく把握されることになります。
 
マルクス主義は、持てる者と持たざる者の関係を問題にしました。フェミニズムは男と女の関係を問題にしました。そして今、おとなと子どもの関係を問題にすることで、すべての人間関係を視野に入れた思想が誕生することになります。
そこにフェミニズムの完成もあるのではないでしょうか。

高校の教科書で大家族や核家族について学んだとき、なんとなく核家族というのは家族の最終形態なのかなと思いましたが、まだまだ先があるようです。7月4日の朝日新聞「天声人語」によると、NHKの「きょうの料理」が始まったとき、材料は6人分だったそうですが、それが4人分になり、今は2人分が多くなっています。昨秋の国勢調査の抽出速報によると、家族構成では1人暮らしが31%で首位になり、家族の平均人数は2・46人と最少を更新しました。
 
リーマン・ショック後の不況のとき、派遣村ができて、大きな話題となりました。このときはあくまで失業問題ととらえられ、派遣村に集まった人に対して、なぜ貯金がないのか、仕事をえり好みしているのではないかといった非難が浴びせられました。しかし、私はむしろこれは家族の問題ではないかと思いました。会社の寮を追い出されたとき、20代、30代の独身者で帰るべき実家のない人が思いもかけず多くいたということなのです。
両親が亡くなっていたら帰るべき実家がないのは当然ですが、そのケースはそんなに多くないでしょう。親がいるのに、親は住むところをなくした子どもを受け入れようとしない。これはまさに家族の絆が崩壊した姿です。
 
去年はNHKが取り上げたことで「無縁社会」が大きな話題になりました。年間3万人以上が無縁死しているそうです。これに対しても、高度成長期に自由で豊かな生活を求めて都市に集まり、みずから無縁化したのだから、悲惨なこととして報道するのはおかしいという批判がありました。こうした批判もまた、家族の問題を無視しています。
子どものない高齢者が無縁死するのはある程度やむをえないことですが、無縁死する人はみんな子どもがいないのでしょうか。たぶんそんなことはないと思います。子どもがいるのに、子どもと縁が切れているというケースも多いはずです。自由で豊かな生活を求めて都市に集まったことで地縁は切れてしまうかもしれませんが、自分の子どもとの血縁まで切れたとすれば、それはやはり家族の問題としてとらえないといけません。
 
昨今、引きこもりが大きな問題となっているのは、今さらいうまでもありません。引きこもりは、社会との接点をなくした状態と見なされますが、実は家族との接点もなくした状態です。引きこもりの子どもは自室に閉じこもり、家族との会話を拒み、食事も夜中に1人でインスタントラーメンをつくるなどして、極力家族との接点を持たないようにします。家庭内に単身世帯をつくっているような状態といえましょうか。
 
文明の進展とともに家族関係は崩壊していきます。アジア的なところに西欧的なものを取り込んだ日本、韓国、中国でその崩壊のスピードが顕著です。
しかし、日本にはその現実から目をそらす人がまだまだ多いようです。

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