村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:なわばり争い

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ウクライナのゼレンスキー大統領が3月23日、日本の国会でオンライン形式で演説をしました。
アメリカ議会での演説では真珠湾攻撃を取り上げたので、日本の国会ではヒロシマ、ナガサキや東京大空襲などに言及するのではないかという予想があり、私自身は、ソ連が日ソ中立条約を破ったことや日本兵捕虜のシベリア抑留などに言及するのではないかと予想しましたが、そういうのはありませんでした。
きわめて穏当な内容でした。
ゼレンスキー大統領にとって日本は「復興資金を出してくれるATM」というところかもしれません。

2014年、クリミア半島をロシアが併合しそうになっているとき、オランダのハーグでウクライナを支援するためカナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、アメリカの7か国による会議が行われ、安倍首相は約1500億円の経済支援を表明しました。
NATOとロシアが角突き合わせているとき、NATO以外で唯一日本が参加して金を出すとは、日本外交の愚かさを見せつけられた気分でした。
ですから、ウクライナにとって日本はATMという認識であっておかしくありません。


ゼレンスキー大統領は演説の中で「ウクライナへの残忍な侵略のツナミ」という言葉を使いました。
ほかに「世界のほかの潜在的な侵略者」「地球上のすべての侵略者たち」とも言っています。
「侵略」がキーワードです。

ロシアがやっているのは「侵略戦争」で、ウクライナがやっているのは「防衛戦争」です。
これほどわかりやすいことはありません。ですから、世界からロシア非難とウクライナ支援の声が上がっています。

しかし、国際政治の世界では「侵略」と「防衛」というわかりやすい区分がありません。「集団的自衛権」があるからです。
プーチン大統領は今回の戦争を、ウクライナ東部にある「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」をウクライナの攻撃から守るための集団的自衛権の行使だと主張しています(「ネオナチとの戦い」だとも言っています)。

バイデン大統領はプーチン大統領のことを「侵略者」だけでなく「残忍な独裁者」や「戦争犯罪者」とも呼んで、問題をわかりにくくしています。
「侵略」と「防衛」というわかりやすい区分を使うと、アメリカにとって不都合なことがいっぱいあるからです。
安倍首相も「侵略の定義は定まっていない」と発言したことがあります。日本の戦争を侵略と認めたくなかったからです(安倍氏にロシアの行為は侵略ですかと聞いてみたいものです)。


今のところウクライナ軍は善戦しているようですが、その主な理由は、ウクライナにとっては防衛戦争で、ロシアにとっては侵略戦争だからです。
防衛戦争をする兵士は士気が上がりますが、侵略戦争をする兵士は士気が下がります。
これは動物の本能によって説明できます。

なわばりを持つ動物は、基本的には互いのなわばりを尊重して争わないようにしていますが、ときどき食料や異性を探して、ほかのなわばりに侵入することがあります。
そのとき、なわばり主が侵入者を発見すると、侵入者に猛然と襲いかかります。侵入者は自分のほうが強い場合でも、ほとんど闘わずに逃げ出します。

このときの動物の“心理”のメカニズムを、日高敏隆著『日高敏隆選集Ⅱ 動物にとって社会とはなにか』は次のように説明しています。

「他人の」なわばりに入りこんでいるな、と感じた個体(むしろ、ここは自分のなわばりでないなと感じている個体)は、あえて擬人化すればそのやましさのゆえに、なわばり所有者から攻撃されるとすぐ引きさがってしまう。そこではけっして組んずほぐれつの闘いなどおこらない。だが問題はこれですむほど単純ではない。なわばりの所有者は引きさがっていく侵入者を追いかけてゆく。しかし深追いは動物においても危険である。なぜなら、追跡が進む間に、両者の心理状態が刻々と変化していってしまうからだ。
動物の「闘志」は、なわばりの中心すなわち巣からの距離に反比例する。なわばりの境界近くまで侵入者を追いかけていった所有者には、もはや攻撃のはじめほどの闘志はわいてこない。闘志と同じくらい逃避の衝動が強くなっているのである。
この比例関係は、自分のなわばりに逃げこんだ動物についてもあてはまる。そこでこちらのほうは、自分の巣に近づくにつれて、闘志がみなぎってくるのである。
深追いしすぎて相手のなわばりに侵入した追跡者は、相手ががぜん反攻に転じると急いで後退して自分のなわばりへ逃げこむ。もし相手がそこまで深追いしてくると、事情が逆転する。こうしてしばしば一対の動物は、ふりこのようにふれながら、ついになわばりの境界線でとまることがある。

人間は集団で狩りをするサルで、集団でなわばりを持ちます。そのなわばりが拡大したものが国家です。
ですから、ウクライナのなわばりに侵入したロシア兵はあまり闘志がなく、深く侵入するほど闘志がなくなります。
反対にウクライナ兵は、なわばりを守るために最初から闘志が盛んで、ロシア軍に押し込まれればますます闘志が高まります。

闘志があるのは兵士だけではありません。非戦闘員である国民も同じです。
つまり防衛戦争というのは、兵士と国民が一体となって戦われるものです。


ここが従来の戦争の常識と違うところです。
従来の戦争は戦闘員と非戦闘員が明確に区別されるものでした。制服や徽章などで外見からも区別されなければなりません。
これがはっきりと変わったのがベトナム戦争です。
南ベトナム解放民族戦線は農民と同じ服装でゲリラ戦をしました。
兵士と農民の区別がむずかしいからといって米軍が無差別に攻撃すると、民衆の反発が高まり、国際社会からも非難されます。
結局、ベトナム戦争は泥沼化して、アメリカ軍は敗退しました。

解放戦線と北ベトナムにはソ連や中国の支援もありましたが、世界最強のアメリカ軍が敗れたのは、アメリカがしたのは侵略戦争で、ベトナムがしたのは防衛戦争だったからです。

ベトナムからアメリカ軍が撤退した6年後、ソ連はアフガニスタンに侵攻しましたが、これも泥沼化し、10年後にソ連は敗退しました。
ソ連がアメリカと同じ失敗を繰り返したのは不思議です。

そして、9.11テロをきっかけに今度はアメリカがアフガニスタンに侵攻し、これは20年にわたって戦いを続けましたが、結局敗退しました。
今度はアメリカがソ連と同じ失敗を繰り返したわけです。

イラク戦争も、実質的にアメリカ軍の敗退です。

アフガニスタンでもイラクでも、武装勢力と民衆の区別が、銃を持っているか否かぐらいでしかつきません。銃を持たない自爆テロ犯の見分けはきわめて困難です。
侵略者の目には民衆すべてが敵に見え、しばしば無差別攻撃をして民衆の反感をさらに高めるということの繰り返しで自滅しました。


ウクライナ戦争においても、ウクライナ軍と民衆は一体化しています。
民衆は火炎瓶をつくって、実際にロシア軍の車両に投げつけている映像もありました。
ゼレンスキー大統領は、市民に銃を取って戦うように呼びかけました。

そして、「民間人が武器を使ってロシア兵を殺害しても罪に問わない」とする法案が可決されたというニュースがありました。

ウクライナのジャーナリストであるIllia Ponomarenko氏は3月10日、「新しい法案は、ウクライナに配備されたロシアの軍人を民間人が殺害することを公式に完全合法化します」というキャプション付きで、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領が署名した法案のスクリーンショットを投稿しました。文書の日付は2022年3月3日となっており、Newsweekは法令の発効が「公布の翌日から」となっていると述べています。
法令の内容は、ウクライナに対して武力侵攻を行っている者に対して、ウクライナの民間人や滞在中の外国人が銃器を使用して排除したとしても、その刑事責任を問わないというもの。法令が有効なのは戒厳令が出されている間であり、その間は民間人も銃器の使用が許可されるものの、戒厳令が終了したら当局に銃器を引き渡す必要があるとのこと。
https://gigazine.net/news/20220311-ukraine-bill-legal-kill-russian-soldiers/

このように市民の武装を公然と認めると、今度はロシア軍に市民を攻撃する口実を与えることになります。
とはいえ、ロシア軍が無差別に市民を攻撃すると、やはりロシア軍が非難されるので、ロシア軍は苦しいところです。


ロシア側は、ウクライナは“人間の盾”を使っていると非難しています。

人間の盾というのは、「戦争や紛争において、敵が攻撃目標とする施設の内部や周囲に民間人を配置するなどして、攻撃を牽制すること」と説明されます。
だいたいは捕虜や人質を盾にするというイメージでしょう。
そういうことは行われていないはずです。

しかし、ウクライナ軍は都市を防衛拠点としていて、そこに住民がいます。
その住民は、ロシア軍から見れば人間の盾になります。都市を攻撃すれば住民に被害が出るのは確実だからです。
今のところロシア軍は主要都市を占領していません。
意図せざる人間の盾があるからかもしれません。

ウクライナ側のやり方に対しては、住民のいる都市を防衛拠点にするなという批判もあります。
あらかじめすべての住民を避難させるべきで、それができないならその都市に関して「無防備都市宣言」をするべきだというのです(ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約に規定があります)。
つまり戦わずしてその都市を敵に明け渡すわけです。
第二次世界大戦のとき、ドイツ軍の侵攻を受けたフランス政府はパリに関して無防備都市宣言を行い、パリを戦火から守りました。

しかし、都市というのは防衛拠点に最適です。
独ソ戦においてはソ連軍はスターリングラードやレニングラードを防衛拠点にし、ドイツ軍は攻めきれなくて、結局ここが戦局の転換点になりました。
ただし、住民のいる都市での市街戦は悲惨です。

ロシアはウクライナ東南部の港湾都市マリウポリに対して降伏するように勧告しましたが、ウクライナ側は拒否しました。
どうやら徹底抗戦するようです。

そうするとロシア側の判断もむずかしくなります。本格的に攻撃すれば、スターリングラードやレニングラードの悲劇を逆の立場から演じることになり、国際的な非難を浴びます。


ともかく、ウクライナでは軍と市民が一体となって戦っています。
戦闘員と非戦闘員を厳密に区別するべきという戦時国際法は、騎士や傭兵だけが戦争を担った伝統の上に、列強が植民地獲得戦争をするときに現地の武装勢力と民衆の区別がつかなくて困るという必要性から生まれたものです。
国民国家が総力戦をする時代には合わなくなっています。


ロシア軍の総兵力は約90万人、ウクライナ軍は約26万人です。
軍事費については、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によると、2020年のロシアは約617億ドル(約7兆970億円)で、約59億ドル(約6780億円)のウクライナとは10倍以上の差があります。

それでもロシア軍が苦戦し、ウクライナ軍が善戦しているのは、侵略戦争と防衛戦争の違いからです。

これはある意味、天下分け目の戦いです。
ウクライナが勝利すれば、今後ロシアやアメリカのような侵略戦争をしようという国はまず出てこないでしょうから、世界は平和になります。



近代兵器を使った大規模な戦争も、所詮は動物のなわばり争いが発展したものです。
高度な文明も、人間の動物としての本能を土台として築かれています。
文明と本能の関係については「道徳観のコペルニクス的転回」で論じています。

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人間が戦争をするのは、本能や人間性によるのでしょうか、それとも人間がつくった文化によるのでしょうか。

アインシュタインはナチスの勃興期にこの疑問をフロイトにぶつけて、それは『ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインとフロイトの往復書簡』と題する本になっていますが、フロイトは「攻撃的な性質は人間の本性で、取り除くことはできないが、文化によって戦争を防ぐことができる」という考えを示しました。

人間の深層に“悪”があるとするのは、フロイトの基本的な思想です。
エディプスコンプレックスは、男の子に母親への近親相姦願望があるという考え方がもとになっています。
また、多型倒錯といって、幼児の性欲には方向性がないとも言っています。つまり人間は生まれつき変態で、教育やしつけで型にはめることによって正常な性欲になるというわけです。
アインシュタインは質問する相手を間違ったかもしれません。

フロイト説はともかく、人間に闘争本能があるために戦争が起こるのだという考え方は広く存在していました。


そうした考え方を根底からくつがえしたのが、動物行動学者のコンラート・ローレンツです。
ローレンツの著作は世界で広く読まれ、人々は「刷り込み=インプリンティング」という概念をローレンツの著作によって初めて知りました。
また、人々は、ライオンやオオカミなどの猛獣は獰猛で、残忍で、無慈悲なものだと思っていましたが、ローレンツは『ソロモンの指環』において、まったく違う考え方を示しました。
それは、同種の動物同士は殺し合わないということです。

たとえば二頭のオオカミが激しく闘って、やがて優劣がはっきりすると、ぴたりと闘いが止まります。劣勢なほうは自分の首筋を無防備にさらし、優勢なほうはかみついて致命傷を与えることができる体勢にもかかわらず、かみつかないのです。一方が“服従の姿勢”をとると、もう一方は本能的に攻撃を止めます。オオカミは相手を殺すだけの攻撃力を持っていますが、こうした本能のおかげで殺すことはありません。
このように攻撃を停止する本能は多くの動物に備わっています。
ローレンツは、同じ種の中で殺し合っていては種の存続があやうくなるので、牙や角などの武器の発達した動物は、同時に攻撃を社会的に抑制する本能も発達したのだと言います。

そうすると、人間が殺し合いをするのは本能を逸脱した行為だということになります。
ノーベル賞学者であるローレンツのこの説は広く知られて、最近では「人間には闘争本能があるから戦争をするのだ」ということは言われなくなりました。

ただ、『ソロモンの指環』は1949年に出版された本で、今となっては古くなったところがあります。
たとえば、ローレンツは動物の攻撃が抑制されるのは「種の保存」のためであるとしていますが、現代の生物学では動物の行動は個体や遺伝子のレベルで説明され、「種の保存」のための行動というのはないことになっています。実際、ライオンの子殺しのように「種の保存」に反した行動が存在することも明らかになっています。
ただ、同種の動物は闘っても殺すところまではいかないというのはおおむね事実です。





ローレンツは動物の攻撃性や“悪”についてさらに考察して、1963年に『攻撃―悪の自然誌』を著しました。
ここでローレンツは大きな間違いを犯しました。
はっきり言って『攻撃』は失敗した著作です。
それは、弁解めいたおかしな「まえがき」がついていることからもわかります。

「まえがき」の冒頭はこうなっています。
この本の原稿に目を通して、気付いた点を言おうと約束してくれた親切な友人が、半ば過ぎまで読み進んだところで、つぎのような手紙をくれた。「これはもう、第二章のあたりから感じていることなのですが、読んでいておもしろくてたまらないと思う一方では、不安になってもくるのです。なぜかというと、読んでいる部分と全体とのつながりがはっきりしないからです。その関係をもっとよくわかるようにしてください」。これには、しごくもっともないわれがある。そこで、この本を読んでくださる方々に、前もって、本書のねらいがどこにあるか、またそのねらいとそれぞれの章とがどのような関係にあるかを知っておいていだだくために、このまえがきをそえておきたい。

しかし、残念ながら7ページの「まえがき」を読んでも、本書のねらいがどこにあるかも、各章が全体とどうつながっているかもわからないので、多くの人は読んでいてうんざりするに違いありません。
要するに最初から最後まで論理の歯車がかみあっていないのです。
ローレンツはどこを間違ったのでしょうか。


ローレンツはフロリダの海に潜り、サンゴ礁にいる魚の生態を観察し、魚のなわばり争いに注目しました。
なわばり争いとは、いいところに目をつけたと思います。お互いに相手のなわばりを尊重していれば、争いは起こりません。どのようにしてなわばり争いが起きるのかがわかれば、争いを回避して平和を実現する方法もわかるはずです。

ローレンツは魚の動きを細かく描写しています。

ついに見えた。はるか向こうから、とはいえ水がよく澄んでいる場合でも、たかだか一〇から一二メートルしか見通しがきかないが、第二のボー・グレゴリーが、明らかに餌をあさりながら、だんだん近づいてくるのだ。わたしの近くに定住しているほうのボー・グレゴリーは、わたしの発見よりはるかに遅れて、その侵入者が四メートルほどの所に迫ってきたとき、ようやく相手の姿に気がつく。すると、もとからいたほうは、世にも恐ろしいかんしゃくを起こして、よそ者にとびかかり、攻撃されたほうは、自分のほうが少し大きいにもかかわらず、すぐさま向きを変えると、必死に打ち込んでくる切先を激しいじぐざぐでかわしながら、全速力で逃げていく。その突きのひとつでも身に受けたなら、重傷を負うだろう。だが少なくとも一度は命中したのだ。うろこが、きらきらしながら枯れ葉のように舞い落ちてゆく。そのよそ者が、薄暗い青緑色のかなたへ姿を消してしまうとみるや、勝ったほうはすぐさま自分の穴へ戻ってくる。かれは、穴の入口のまん前に密集して餌をあさっているクチアカの子の群れの中を、しずかに身をよじって通り抜けていく。その無関心なようすは、まるで石とかその他の、とるに足りない無生物の邪魔物をよけているようにしか見えない。それどころか、色と形の点でボー・グレゴリーとそれほど違いのない小さなブルー・エンジェルですら、かれにかけらほども攻撃する気を起こさせないのである。
その直後、指の長さにもたりないブラック・エンジェルが二匹対決しているのに出会ったが、その経過は何から何まで前と同じで、その上もう少し劇的だった。攻撃する側の憤激はいっそう大きく、逃げていく侵入者の恐慌はいっそうあからさまだ。しかしそう見えるのはたぶん、ゆっくりとしか動かないわたしの肉眼にはエンジェルの動作のほうがよく追跡できるからだろう。ボー・グレゴリーのほうは遥かに速くて、度の過ぎた低速度撮影機でとった映画を見るようだ。

なわばりへの侵入者は、なわばり主によって必ず撃退されるということです。
これもまた、同種の動物が殺し合うことを回避するメカニズムです。

このような動物のなわばり争いの実態は、今では生物学界の常識となっています。
日高敏隆著『日高敏隆選集Ⅱ 動物にとって社会とはなにか』からも引用しておきます。

さらにすばらしいことには、なわばりに関する闘いは、殺しあいにまで発展することがまれである。
前にも述べたように、「他人の」なわばりに入りこんでいるな、と感じた個体(むしろ、ここは自分のなわばりでないなと感じている個体)は、あえて擬人化すればそのやましさのゆえに、なわばり所有者から攻撃されるとすぐ引きさがってしまう。そこではけっして組んずほぐれつの闘いなどおこらない。だが問題はこれですむほど単純ではない。なわばりの所有者は引きさがっていく侵入者を追いかけてゆく。しかし深追いは動物においても危険である。なぜなら、追跡が進む間に、両者の心理状態が刻々と変化していってしまうからだ。
動物の「闘志」は、なわばりの中心すなわち巣からの距離に反比例する。なわばりの境界近くまで侵入者を追いかけていった所有者には、もはや攻撃のはじめほどの闘志はわいてこない。闘志と同じくらい逃避の衝動が強くなっているのである。
この比例関係は、自分のなわばりに逃げこんだ動物についてもあてはまる。そこでこちらのほうは、自分の巣に近づくにつれて、闘志がみなぎってくるのである。
深追いしすぎて相手のなわばりに侵入した追跡者は、相手ががぜん反攻に転じると急いで後退して自分のなわばりへ逃げこむ。もし相手がそこまで深追いしてくると、事情が逆転する。こうしてしばしば一対の動物は、ふりこのようにふれながら、ついになわばりの境界線でとまることがある。

なわばりへの侵入者は、自分が“他人”のなわばりに侵入していることを理解しています。だからこそなわばり主と対峙すると、ほとんど闘わずに逃げ出すのです。

すべての個体が自分のなわばり内だけで生活し、ほかのなわばりに入らなければ、争いは起こらず、世界は平和です。
しかし、おそらくは餌を探すために、ほかのなわばりに侵入する個体がときどきいます。
この行為をたとえて言えば“不法侵入”です。そして、そのときそこにある餌を取ったら“窃盗”です。なわばり主に発見されて格闘になったら“強盗”です。
これは、自然界に“悪”が存在するということを意味します。
と同時に、“悪”の行為をやましく思う気持ち、すなわち“良心の呵責”や“罪の意識”が存在するということでもあります。

“不法侵入”でなくて“侵略”にたとえることもできます。
そうすると、なわばり争いは、侵入する側からすれば“侵略戦争”で、なわばり主からすれば“防衛戦争”です。そして、侵略軍は必ず防衛軍に撃退されるので、この戦争はそれほど深刻になりせん。

ちなみに、なわばりを持つ動物は、糞や尿を残す、体のにおいをつける、爪痕を残すなどのマーキングをし、鳥の場合はなわばりを主張するさえずりをし(テリトリー・ソング)、そこが自分のなわばりであることを他の個体にわからせます。しかし、他の個体となわばりの認識がつねに一致するとは限らないので、お互いに相手を侵入者と見なして争うこともあるでしょう。これは“国境紛争”です。

そうすると、動物の世界には“侵略戦争”と“防衛戦争”と“国境紛争”があることになります。

このような動物のあり方が人間性につながっていることはもちろんで、人間社会を考える上でもきわめて重要です。
たとえば人間は、他人のなわばりをどんどん併合していって「帝国」を築きますが、これは本能ではなく文化だということになります。
また、戦争を侵略戦争と防衛戦争と国境紛争に分類するときわめてわかりやすく、平和構築に役立つはずです(今は集団的自衛権というものが戦争の把握を困難にしています)。


ローレンツは動物のなわばり争いに注目しましたが、なわばり争いを「侵入対防衛」というふうにはとらえませんでした。
彼はもっぱら「攻撃性」に注目しました。
そうすると、なわばりを防衛するほうが攻撃的で、侵入するほうは平和的に見えます。防衛するほうは激しく攻撃して侵入者くを傷つけることがあるので、防衛するほうが加害者、侵入するほうはむしろ被害者になります。

つまり本来は侵入するほうが“悪”なのに、ローレンツは防衛するほうを“悪”としたのです。
そのため、まったく論理性がなくなり、『攻撃』を読んでいると終始わけのわからない感じがするのです。
失敗作と断じたゆえんです。


なわばり争いは同じ種同士で行われるので、ローレンツは「種内攻撃性」ととらえ、「種内攻撃性」は生存に役立つ本能だとしました。
生存に役立つ本能ならなくすことはできません。

ローレンツは「希望の糸」と題した最終章において、「わたしには種の変遷の偉大な設計者が、人類の問題をその種内攻撃性を完全にとり払うことによって解決してくれることは、どうしても信じられない」と書いています。
そのあとで、「私は人間の理性の力を信じており、淘汰の力を信じており、理性が理性的淘汰を進めていくと信じている」とも書いていますが、こんな言葉では希望は持てません。


ところで、ローレンツは若いころナチス党員でした。第二次大戦では軍医として東部戦線に行き、ソ連軍の捕虜になりました。
ドイツ軍は一方的にソ連に侵攻し、ソ連軍の激しい抵抗と反撃にあいました。
侵入側を“悪”ととらえるのではなく、防衛側の反撃を“悪”ととらえるのは、その体験が影響したのかもしれません。
また、先ほど引用した文章に「理性的淘汰」という言葉がありますが、これはどう考えても優生思想ではないでしょうか。


生物学をもとに人間と社会を研究することは、社会生物学や進化心理学として近年盛んになっていますが、ローレンツはその先駆者です。
ローレンツの業績の功罪を改めて検証する必要があります。

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