村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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オリンピックが近づくにつれてゆううつな気分になります。
マスコミがオリンピックを盛り上げるために「感動」を演出し、「感動」を押しつけてくると思うからです。

「感動をもらう」という言葉があります。
「感動をありがとう」とも言います。
どうやら感動というのは、人からもらったり、人にあげたりできるもののようです。

私が小説のいちばんいい読者であった高校生のころ、1冊の本を必死で選んで買い、たいてい一晩で読み、深く感動するとその小説の世界にはまり込んで、なかなか現実の世界に戻ってこれないほどでした。
ほかの人も同じ小説を読んで感動したとしても、私の感動とは質も深さもまったく違うと思っていました。
私の感動は私の心からわき上がってくるもので、人の心にわき上がってくるものと同じであるはずがありません。

ところが、今は感動は人からもらえるものとされています。各人の心から切り離されているようです。
感動だけではなく、「勇気をもらう」とか「元気をもらう」という言い方もよくされます。
こういうことはスポーツ関係から始まった気がしていましたが、ネットで調べると、1998年の長野オリンピックからで、シドニーオリンピック、日韓ワールドカップで広がったという説がありました。
この説が正しいかどうかわかりませんが、スポーツの世界から始まったのは間違いないでしょう。

それから、焼肉の牛角が「感動」という言葉を使っていて、それも感動という言葉の意味の変化を感じさせました。
ただ、牛角は「感動創造」ということを言っていて、多少感動に対するリスペクトがあったかもしれません。
しかし、そのあと居酒屋チェーンなどでも「感動」という言葉を普通に使うことがふえていきました。

感動は各人の心から切り離されてやり取りできるものになり、しかも居酒屋の料理にも使われるような安っぽいものになったわけです。

こうした傾向、つまり「感動をもらった」という表現が横行することに違和感や嫌悪感を表明する人がかなりいます。
私自身もそうでした。
しかし、時代が変われば感動の意味が変わってくるのは当然だと今は考え直しました。


まず、小説や映画の感動は、その人の価値観によって変わってきます。しかし、スポーツの感動は身体的、感覚的なものなので、価値観はほとんど関係ありません。
それに、スタジアムでは観客が一体となりますから、自分の感動もほかの観客の感動も同じという意識になって当然です。

それに、昔は同じ小説を読んだ人と出会って語らう機会はめったにありませんでした。
しかし、今はネットに小説や映画のレビューがいっぱい投稿されており、SNSでも感想のやり取りがされているので、自分の感動は自分独自のものではないと気づきやすくなりました。
私も、高校生のころは孤独な読書家でしたが、やがて同好の人たちと交流を持つようになり、自分と同じ読書傾向の人がいると、それだけで深くわかりあえた気がしたものです。

今の時代、「自分の感動は自分だけのもの」という意識がなくなって当然です。
そして、感動は互換性のあるものとしてやり取りされるようになったのです。

「感動をもらった」という言葉に文句をつけるのは時代遅れの感覚だというのが私の考えです。


ただ、感動は安っぽくなり、商業主義やマスコミが利用しやすいものになりました。
個人が「感動をもらった」と言っている分にはいいのですが、マスコミが「感動」という言葉を使うときには、心がともなっていない可能性が大です。
そういう中身のない「感動」の押し付けはやめてほしいものです。

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明けましておめでとうございます。
今年もこのブログをよろしくお願いします。

今年の日本はどうなるかと考えてみましたが、あまりいい見通しがありません。
安倍長期政権が完全に行き詰まっているからです。
安倍首相自身はこの状況をどう考えているのでしょうか。
安倍首相の「年頭所感」を読んでみました。

安倍内閣総理大臣 令和2年 年頭所感
新年あけましておめでとうございます。

 いよいよ、東京オリンピック・パラリンピックの年が幕を開けました。

 1964年、10歳の時に見た東京五輪は、今も、私の瞼に焼き付いています。身体の大きな外国選手たちに全く引けをとらない日本人選手の大活躍は、子どもたちに、未来への希望を与えてくれました。

 「人間、夢があるからこそ成長できる。
      いつの時代も『夢見る力』が大切なんです。」

 東京五輪、重量挙げ金メダリスト、三宅義信選手の言葉です。

 半世紀を経て日本に再びやってくるオリンピック・パラリンピックも、子どもたちが未来に向かって、夢を見ることができる。わくわくするような、すばらしい大会にしたいと考えています。

 昨年、ほぼ200年ぶりの皇位継承が行われ、令和の新しい時代がスタートしました。オリンピック・パラリンピックを経て、5年後には、大阪・関西万博。

 未来への躍動感があふれている今こそ、新しい時代に向けた国づくりを力強く進める時です。

 3歳から5歳まで、全ての子どもたちの幼児教育が無償化されました。この春からは、真に必要な子どもたちの高等教育の無償化が始まります。未来を担う子どもたちの未来に、大胆に投資していきます。

 人生100年時代の到来は、大きなチャンスです。働き方改革を進め、女性も男性も、若者もお年寄りも、障害や難病のある方も、誰もが活躍できる一億総活躍社会をつくりあげていく。

 全ての世代が安心できる社会保障制度へと改革を進め、最大の課題である少子高齢化に真正面から挑戦していきます。

 我が国の美しい海、領土、領空は、しっかりと守り抜いていく。従来の発想に捉われることなく、安全保障政策の不断の見直しを進めます。激動する国際情勢の荒波に立ち向かい、地球儀を俯瞰しながら、新しい日本外交の地平を切り拓いてまいります。

 未来をしっかりと見据えながら、この国のかたちに関わる大きな改革を進めていく。その先にあるのが、憲法改正です。令和2年の年頭に当たり、新しい時代の国づくりへの決意を新たにしています。

 安倍内閣に対する国民の皆様の一層の御理解と御協力をお願いいたします。本年が、皆様一人ひとりにとって、実り多き、すばらしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

令和二年一月一日
内閣総理大臣 安倍 晋三
https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2020/0101nentou.html

全編が“ポエム”になっています。
ポエムというと小泉進次郎環境相が有名ですが、安倍首相はそれ以上かもしれません。
要するに中身がないので、言葉で飾るしかないのです。
「対米従属」を「日米は完全に一致」と言い換えたり、モリカケ問題や桜を見る会問題で嘘をついたりしているうちに、言葉で飾る能力が発達したようです。

なにかをやろうという意欲が感じられません。改憲に言及していますが、言葉だけです。
まったく空っぽでは具合が悪いので、東京オリンピック・パラリンピックを前面に打ち出して、格好をつけています。
日本政府があまり前面に出るとスポーツの政治利用になりますが、安倍首相はリオデジャネイロ・オリンピックの閉会式にもスーパーマリオの格好をしてサプライズ登場したくらいですから、当時から利用する気満々でした。


事実の誤認もあります。
安倍首相は1964年の東京オリンピックについて、「身体の大きな外国選手たちに全く引けをとらない日本人選手の大活躍」と言いましたが、そんなわけはありません。日本人選手が活躍したのは、ほとんどが体重別階級のある種目です。

1964年の東京オリンピックで日本人選手が活躍した種目は、体操、レスリング、柔道、ウエイトリフティング、バレーボールといったところです。
レスリング、柔道、ウエイトリフティングはもちろん体重別です。体操は体重別ではありませんが、相対して戦うわけではないので、身体の大きさはほとんど関係ない種目です。
そうすると、身体の大きな外国人選手に引けをとらずによく戦ったと言えるのはバレーボールだけです。
バレーボール以外の球技はまったくだめでしたし、陸上、水泳は各銅メダル一個でした。

逆に、柔道無差別級で日本人選手がオランダのアントン・ヘーシンク選手に敗れるというショックな出来事がありました。
当時、日本人の身体は今よりかなり小さくて、それは日本人のコンプレックスでしたが、「柔よく剛を制す」「相手の力を利用して勝つ」という柔道は日本人にとって精神的なよりどころでした。それが体の大きな外人選手に日本人選手が負けたので、日本人はみなパニック状態になるほどのショックを受けました。

ですから、安倍首相が「身体の大きな外国選手たちに全く引けをとらない日本人選手の大活躍は、子どもたちに、未来への希望を与えてくれました」と言ったのは、事実に反します。
ただ、バレーボール、とくに女子バレーは例外でした。安倍首相は女子バレーのことを言っているのかもしれません。

金メダルを取った女子バレーチームを率いた大松博文監督は、猛烈なスパルタ式指導で、体の小さかった日本人選手のチームを世界一にしました。大松監督は大人気になり、著書はベストセラーになって映画化もされました。のちには自民党の参議院議員にもなっています。
大松監督のスパルタ式指導、根性主義、精神主義は、日本のスポーツ界にひとつの流れをつくりました。
しかし、「身体の小ささを精神主義で補う」というやり方がうまくいくのは一時的現象です。日本のバレーボール界も結局長身の選手をそろえています。

大松監督は大河ドラマの「いだてん」にも登場しました。安倍首相(かスピーチライター)はそれを見て、年頭所感に取り入れたのでしょう。
しかし、大松監督のやり方は完全なパワハラで、今の時代にはまったく合いません。
やはりスポーツは精神主義ではなく合理主義でなければなりません。


精神主義にも存在理由はあります。昔、日本軍がアメリカ軍に対したとき、力の差を補うために精神主義を用いるしかありませんでした。それが戦後も惰性となって続き、とくにスポーツ界に生き残りました(大松監督はインパール作戦の生き残りでもあります)。
そして、安倍首相の頭の中にも生き残っているようです。

安倍首相のポエムは、内容のなさをごまかすためと、あと戦前的な精神主義からもきていると思われます。



安倍首相のポエムだけでは後味が悪いので、最後に天皇陛下の年頭の「ご感想」を張っておきます。

天皇陛下のご感想(新年に当たり)
令和2年 
上皇陛下の御退位を受け,昨年5月に即位して以来,国民の幸せを願いながら日々の務めを果たし,今日まで過ごしてきました。即位関係の諸行事を無事に終えることができ,安堵するとともに,国内外の多くの方々とお会いし,折々に温かい祝福を頂く機会も多かったこの1年は,私にとっても皇后にとっても誠に感慨深いものでした。
その一方で,昨年も台風や大雨により,多くの尊い命が失われたことに心が痛みます。寒さも厳しい折,住まいを失い,いまだ御苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じております。本年は、災害がない1年となることを祈ります。
新しい年が,日本と世界の人々にとって幸せな年となることを心より願いつつ,務めを果たしていきたいと考えています。
https://www.kunaicho.go.jp/page/gokanso/show/3

12月6日は、世界が戦争に近づいているのではないかと予感させるニュースが相次ぎました。
 
国際オリンピック委員会(IOC)は国家ぐるみでのドーピングを理由としてロシアの平昌冬季五輪への参加を禁止すると発表しました。
ロシアは潔白を主張していますが、かりにIOCの言い分が正しいとしても、国単位の参加禁止はやりすぎでしょう。そもそも参加禁止にする理由がよくわかりません。
 
IOCのトーマス・バッハ会長は、ロシアの国を挙げてのドーピングは「五輪とスポーツの高潔性に対する前代未聞の攻撃」だと言いました。
 
「高潔性」という言葉もへんですが、「攻撃」という認識は間違っています。
 
オリンピックでメダルを取ると大きな富と名誉が約束されます。ドーピングは多少健康にマイナスですが、両者を天秤にかけると、ドーピングに走る人間が出てくるのは当然です。つまりこれは経済合理的な行動で、「攻撃」ではありません。ですから、これを阻止するには、厳格な検査を実施し、発覚した場合には大きな罰を与えることですが、もちろん罰は恣意的なものではなく、あらかじめ罰則は決めておかなければなりません。
 
ロシアが大規模なドーピングをしていたとすれば、それを取り締まる体制に不備があったわけで、IOCはむしろ批判される側です。
試合で反則を見逃した審判が批判されるのと同じです。
 
スポーツの世界のいいところは、正義だの悪だのがないところです。
サッカーの試合で反則をすれば、相手方にフリーキックやペナルティーキックが与えられ、反則した選手にはイエローカード、レッドカードが与えられ、出場停止になったりしますが、それ以上のことはありません。
もし反則行為を悪と見なし、反則した選手に謝罪や反省をさせるという制度になったらどうなるでしょうか。
「あの選手は心から謝罪してない」とか「向こうが先にラフプレーをしたからだ」とか言い合いになって、チームもサポーターも感情的になり、サッカーの楽しさが大幅になくなってしまうと思われます。

ジャイアンツとタイガースが正義と悪の戦いだとされたら、わけがわかりません。
北朝鮮のチームとも対等であるのがスポーツのいいところです。
だからこそオリンピックは「平和の祭典」と言われるのです。

ドーピングは反則として対処するべきものです。
ところが、今回、IOCはスポーツの世界に刑事司法と同じ“正義の裁き”を持ち込みました。
「高潔性」と「攻撃」という言葉によってロシアを「悪」と認定しているのです。

そもそもIOCに“正義の裁き”を行う資格があるとは思えません。
冷戦時代のイデオロギーにとらわれているのかもしれませんが、IOCはスポーツの精神を破壊しているといえます
 
 
IOCがロシアの出場禁止を決めたのと同じ日に、トランプ政権はイスラエルの首都をエルサレムと認めた上で、アメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転すると決めたということです。
エルサレムはイスラム教にとっても聖地なので、イスラム世界の反発を招くことは必至です。
 
それにしても、トランプ大統領はなにを目指しているのでしょうか。
今回の決定は、テロの危険性をふやすだけで、アメリカの国益になることはなにもないと思われます。
アメリカファーストにも反します。
ということは、トランプ大統領の宗教的信念というしかありません。
 
この決定が原因でアメリカ人をねらうテロが起きたら、多くの人はトランプ大統領よりはやはりテロリストを非難するでしょう。
こうしてどんどんテロ戦争が激化していきます。
 
この決定に対して、菅官房長官は「重大な関心をもって注視している」と述べただけです。
毎度のことながら、情けない限りです。キリスト教とイスラム教の対立の外にいる日本は、こうしたときこそ果たす役割があるはずです。「反対」とか「世界にとって好ましくない」と言えないなら、せめて「理解できない」くらいは言うべきです。
また、安倍首相がトランプ大統領と親しい関係なら、考え直すように忠告するべきです。
 
今回のふたつの決定は、ロシアやイスラム世界に屈辱を与えることで戦争の危機を高めるものです。
テロよりもこういうことのほうが非難されるべきです。

リオ・オリンピックが終わり、日本のメダル獲得総数は史上最多の41(12、銀8、銅21)でした。
ロンドン・オリンピックのときも日本は38個で、史上最多でした。
つまり少子化が進んでいるにもかかわらず、このところ日本のスポーツ界は健闘しているのです。
 
ゆとり世代が力を発揮しているのだという説があります。そうかもしれません。
 
水泳の男子800メートルリレーで銅メダルを獲得した江原騎士(えはら・ないと)選手は、いわゆるキラキラネームです。キラキラネーム世代も活躍する時代になりました。
 
国別メダル獲得数ランキングを見ていると、圧倒的な偏りのあることに気づきます。
 
リオデジャネイロ・オリンピック国別メダルランキング
 
上位を占めるのはほとんどがヨーロッパ系の国です。
 
一方、インドは人口が多く、経済成長も著しいのに、順位が67位、メダル総数が2個です。
スポーツがその国の文化と深く関わっていることがわかります。
 
アフリカの国で上位なのは、
ケニア15位、13個、
南アフリカ30位、10個、
エチオピア44位、8個。
 
中東の国で上位なのは、
イラン25位、8個、
トルコ41位、8個。
 
ヨーロッパ系の国が上位を占める中で健闘しているのが儒教系のこの3国です。
中国3位、70個、
日本6位、41個、
韓国8位、21個。
 
要するにヨーロッパ系の国に交じって儒教系の国もがんばっているという構図です。
 
ヨーロッパ系の国と儒教系の国がオリンピックで成績がいいのは、教育熱心、とりわけ幼児教育や早期教育に熱心だからだと思われます。
たいていのスポーツは、幼いころから始めるほど有利です。オリンピックのレベルはどんどん高くなっているので、幼児教育に熱心な国が好成績を出すのは当然です。
 
クラシック音楽もひじょうにレベルが高いので、幼児期から始めないと一流の域に達しません。スポーツもクラシック音楽に似てきたわけです。
 
そう考えると、最近の日本がオリンピックで好成績なのは、若い世代ががんばったからというより、その親の世代ががんばって子どもを教育したからといえるかもしれません。
この場合の教育というのはもちろんスポーツの早期教育です。
 
卓球の福原愛ちゃんの母親が愛ちゃんを熱心に指導したのは有名な話ですが、最近は似たようなことがいっぱいあるようです。「リテラ」がそのことを書いています。
 

伊藤美誠、白井健三、池江璃花子…五輪選手の親はみんな“毒親”なのか?感動物語の裏で虐待スレスレの英才教育

 
もちろんオリンピックなどで脚光を浴びるのはごく少数の人だけです。一流を目指してスポーツの早期教育をされた子どものほとんどは、やったことがむだになってしまいます。
いや、むだだけならまだいいのですが、きびしい早期教育は人格形成に問題をもたらします。
 
ゆとり世代がのびのびとやって好成績を出したならいいのですが、早期教育で多数の若い人が押しつぶされているなら問題です。いったいどちらでしょうか。

リオ・オリンピックが始まりました。
開会式を生放送で見ましたが、森林破壊、地球温暖化、海面上昇など環境問題を前面に出し、サンバやカーニバルなどブラジル風の祭りの要素も入れて、なかなかいいものでした。
聖火ランナーが登場したときは、風が強くてトーチの火が吹き消されそうでした。もし消えたら、ライターでつけるわけにもいかず、予備の火を持ってくるのを待たないといけません。大丈夫かなと心配しましたが、火は消えることなく、すばらしいモービルつきの聖火台に着火しました。
開会式はとくにトラブルはなかったそうです。
 
考えてみれば、風でトーチの火が消えるなんていうドジなことが起こるわけありません。
このところリオについての報道は、治安が悪いということと、選手村でお湯が出ないとか、トイレが流れないとか、クーラーが動かないとか、そんなことばかりでした。偏見に満ちた報道に影響されていたのかもしれません。
 
上海ディズニーランド開業のときの報道が客のマナーが悪いということばかりだったのを思い出しました。日本のマスコミは一斉に同じ方向に走るという習性を持っているので、うっかりするとそれが偏見と気づかないことがあります。
 
 
偏見といえば、オリンピック自体がヨーロッパ的偏見に満ちたものです。
 
今の若い人は知らないかもしれませんが、昔のオリンピックはアマチュアリズムということにひじょうにこだわっていました。プロ選手はもちろん排除され、アマチュア選手が企業からわずかでもお金や便宜を提供されるときびしく処罰されました。共産圏の選手はステートアマと呼ばれ、アマチュアリズムに反するものと批判的に見られていました。
 
しかし、1974年にオリンピック憲章からアマチュア規定が削除され、プロも参加できるようになりました。そうなったからといってなにも問題はなく、それまでこだわっていたアマチュアリズムはなんだったのかということになりました。
今ではアマチュアリズムという言葉は死語です。
アマチュアリズムとは、お金や商業主義に対する偏見の別名だったのでしょうか。
 
オリンピックの標語は「より速く、より高く、より強く」です。
昔はオリンピックというと必ずこの標語が紹介されました。
しかし、最近この標語を目や耳にすることはほとんどなくなっています。
考えてみれば、これも「人類は進歩するべきだ」という進歩主義思想の現れでした。
 
五輪のマークは、5つの大陸を表し、全世界の人がスポーツのもとで手をつなごうという意味だそうです。
しかし、5大陸が平等ということではなさそうです。
というのは、入場行進の先頭はギリシャと決まっていて、聖火の採火式が行われるのもギリシャのオリンピア遺跡です。
これはもちろん近代オリンピックが古代オリンピアの祭典をもとに考案され、第1回大会がアテネで開かれたことからきています。
しかし、参加国はみな平等であるべきです。ギリシャだけ入場行進の先頭という特権的な地位を得ているのは不当です。
 
ヨーロッパの人たちは古代ギリシャの文化に特別な価値を見出しています。そして、自分たちはその流れをくんだ特別な存在だと思っています。
つまりヨーロッパ文化は世界の文化に優越していると思っているのです。
 
今、ヨーロッパ人が人種的に優越しているなどと言うと、人種差別だとして批判されます。
ヨーロッパ文化がほかの文化よりも優越していると露骨に言うと、やはり批判されるでしょうが、さまざまな形で巧妙に表現されています。オリンピックにおけるギリシャの特権的な立場はそのひとつです。
 
ヨーロッパ(とアメリカ)の文化はほかの文化に優越しているという考え方は、植民地主義、帝国主義を生み、今もイスラム諸国や中国などとの対立を招いています。
 
リオ・オリンピックの開会式はとてもカラフルで、いかにも熱帯の国という感じがしました。
今やオリンピックは世界のものです。ヨーロッパ中心思想はさっさとゴミ箱に捨ててしまいたいものです。

新国立競技場建設計画は白紙になりましたが、東京オリンピックについてもうひとつ気になることがあります。それは日程です。
2020年の東京オリンピックは、開会式が7月24日、閉会式が8月9日となっています。ちょうど今の時期です。こんな暑いときにやるのは殺人的です。
 
前の東京オリンピックは1010日が開会式でした。オリンピックをやるのにいちばん気候のいい時期を選んだのです。
今回はなぜこんな暑い時期になったのか調べてみると、秋はサッカーやアメフトなどの大きなイベントとぶつかり、またアメリカのテレビは9月から10月に新番組がスタートするので、この時期が好都合だったようです。日本は立候補した最初からこの時期の開催をうたっていたので、これは公約みたいなものです。ちなみに10月開催をうたっていたドーハは一次選考で落選しました。
 
結局、テレビ放映権の問題で、とりわけアメリカの力が強いわけです。アスリートの健康などそっちのけです。
 
今はまだ先のことですから、あまり真剣には考えられていませんが、開催時期が近づくにつれて問題化しそうな気がします。
「喉元すぎれば熱さ忘れる」という言葉とは逆に、これから喉元が近づくにつれ、忘れていた熱さ(暑さ)がだんだん思い出されてくる格好です。
 
新国立競技場建設計画も公約みたいなものでしたが、結局白紙になりました。開催時期も変更できないはずがありません。どうせ変更するなら早い目に手を打ったほうがいいと思うのですが。
 
 
ところで、新国立競技場問題では今のところ誰も責任を取らないようです。いつもながらの無責任体制ですが、責任追及にはマスコミの役割がたいせつです。
朝日新聞の次の記事はいろいろなことを考えさせてくれました。
 
 
(日曜に想う)肥満のトカゲ、垂れたカキ 特別編集委員・山中季広
 
「白紙撤回にどう臨む」「再コンペに挑む気は」。新国立競技場問題で局面が動くたび、ロンドンのザハ・ハディド建築事務所に問い合わせをした。
 
 返事らしい返事はもらえなかった。代わりに別の建築家から、ハディド事務所幹部がフェイスブックに投じた謎の一文を教えられた。「槇と伊東はこの件で記憶されるだろう」
 
 捨てゼリフらしい。名指しされた建築家、槇文彦氏と伊東豊雄氏についてはハディド氏当人が昨年暮れ、英デザイン専門サイトに怒りをぶちまけている。両氏ら5人を日本の「偽善者」と呼び「自分たちは海外で盛んに仕事しながら、東京の国立競技場は外国人に建てさせようとしない」と非難した。
 
 槇氏は2年前の夏、競技場事業の進め方に疑問を投げかける論考を発表した。東京都豊島区の多児貞子さん(69)は深く共鳴した。槇氏の講演を聴いた知人らと「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」を立ち上げた。
 
 多児さんはかつて東京駅赤レンガ駅舎保存に黒衣として携わった。「日本では歴史ある建物を深く考えずに壊してしまう。保存を求めて担当者にかけ合うと困った顔をされる。『もう決まったこと』『上が決めたこと』。国立競技場問題でも似た顔をされました」
 
 「手わたす会」は旧競技場を改修して使うことを目標にすえた。解体された後は、ハディド案の見直しを訴え、勉強会を開いた。「これから先が大切。やり直しコンペで、同じお偉方が市民の声を吸い上げないまま同じ感覚で選ぶとしたら大問題です」
 
 たしかにイチからやり直すというのに、混迷を招いたお偉方はだれも退場していない。「明確な責任者が誰かわからないまま来てしまった」と文科相が言えば、「誰に責任があるとかそもそも論は言わない」と首相がかばう。60億円近い大金をムダにされた下々には納得しがたい展開である。
 
 大艦巨砲、干拓、ダム、五輪。戦前から日本では国策となるとお上がブレーキを失う。破綻(はたん)するや「内心は反対だった」と言い訳する。あげく「状況が変わった」「誰も悪くない」とかばい合う。これを無責任の体系と呼ぶ。
 
    *
 
 改めて調べてみると、ハディド作品は海外でも盛んに物議を醸していた。
 
 たとえばスイスの古都バーゼルでは音楽堂だった。コンペで選ばれたハディド案に「宇宙船みたい」と批判が噴出。有志が4千人の署名を集めて住民投票に持ち込んだ。反対が6割を超え着工は見送られた。8年前のことだ。
 
 有志代表のアレクサンドラ・ステヘリンさんは「奇怪な設計を見て立ち上がった。中世以来の街並みが台無しにされるところでした」と振りかえる。進むも引くもお上が決めてしまう日本とは好対照ではないか。
 
 お隣韓国では、ハディド建築に対し完成後も不満が尾を引く。東大門デザインプラザという公共施設だ。
 
 現地を見た。曲線がうねうねと波打ち、巨体が周囲を圧する。住民たちは「不時着した宇宙船」と酷評した。私の目には「肥満のトカゲ」と映った。
 
 「外観だけなら天下一品。でも建築士たちは曲面ばかりの難工事に泣き、館内で働く人々は使い勝手の悪さに泣いています」。建築家の兪ヒョン準・弘益大学教授(45)は容赦ない。
 
 そんなハディド作品が数々の国際コンペを制するのはなぜか。「流線形のデザインがお偉方の功名心を刺激するからです。斬新な建物を自分の治績にしたい、後世に名を残したいと思う政治家が飛びつく外観なのです」
 
    *
 
 さて森喜朗・元首相はあさって28日、マレーシアで始まる国際オリンピック委員会(IOC)の会合に出席する。2020年の本番に向け進捗(しんちょく)や意気込みを語る晴れ舞台である。だがその場でなぜハディド案をほごにしたか説明を求められるのは必至だ。
 
 「ドロッと垂れた生ガキのよう」「実は好きじゃなかった」。稚拙な言い訳は切に控えていただきたい。
 
 
責任問題を考える上で参考になりそうな情報がいろいろあって、なかなかいい記事だなと思って読んでいましたが、最後のところでズッコケてしまいました。
 
『「ドロッと垂れた生ガキのよう」「実は好きじゃなかった」。稚拙な言い訳は切に控えていただきたい』というのが記事の締めくくりですが、ということは、巧みな言い訳をしろということでしょうか。
私などは、森元首相がIOCの会合でも例の調子でしゃべってくれたら、日本のオリンピック組織の問題点が浮き彫りになって、かえって好都合だと思うのですが。
 
国際的会合でへんな発言をされると国の恥になるからという理屈かもしれませんが、「国の恥」なんていうことを考えているようでは、責任の追及はできません。むしろ恥をさらけだす覚悟が必要です。
 
そもそも森元首相は、いちばん責任がありそうな人間です。その人間に対してアドバイスをしようという発想が理解できません。
要するにこの特別編集委員の山中季広という人は、森元首相に同じ支配階級としての仲間意識を持っているのでしょう。だから、うまくやってくれとアドバイスするのです。
 
日本の無責任体制は、マスコミもその一翼を担っているのだなということを改めて感じました。

ソチ冬季オリンピックが終わりました。私は夜型の生活をしているので、テレビ中継を見るには好都合でしたが、ほとんど見ませんでした。冬季オリンピックの種目にあまり関心がなかったのです。
 
そういう冷めた目で見ていると、マスコミの報道が自国中心、メダル中心であることを改めて感じてしまいます。これは関西のスポーツ新聞がタイガース中心であるのと同じで、ある程度しようがないことです。
 
開会式と閉会式の中継を見ましたが、このアトラクションがたいへんに見ごたえのあるものでした。視覚的にもすばらしく、間延びすることなく次々と出し物が出てくるのに感心します。
 
アトラクションの内容は、ロシアがいかに素晴らしい国であるかを訴えるもので、要するにお国自慢です。
ロシアはヨーロッパでも遅れた国とされていましたが、近代以降は世界史でも重要な位置を占めてきましたし、世界的な有名人もいっぱい輩出しています。ロシアの有名人の名前を並べていくだけでも圧巻です(もっとも、ナボコフ、カンディンスキーなどはロシア人に数えていいのか疑問ですが)
 
思い返せば、北京オリンピックのときもロンドンオリンピックのときも、開会式と閉会式のアトラクションはひたすらお国自慢でした。そして、そのお国自慢がちゃんとさまになっていました。中国もイギリスも一時は世界をリードした国ですし、今も大きな存在感を持っています。
 
ここで考えてしまうのは、6年後の東京オリンピックのとき、どんな開会式をやればいいかということです。
日本には世界に誇るほどの文化や伝統があるのでしょうか。
 
世界中の人が知っている日本人といえば、トージョー、ヒロヒトぐらいではないでしょうか。
日本の文化にしても、サムライ、ゲイシャ、ニンジャ、ハラキリ、カミカゼなどは知られているかもしれませんが、世界に対してそれほど誇れるものとは思えません。
 
日本には世界に誇れるような文化や歴史がないということは、長野冬季オリンピックの開会式のアトラクションを思い出せばわかります。
 
ウィキペディアの「長野オリンピック」によると、開会式はこのようなものでした。
 
長野オリンピックの開会式は、今上天皇・皇后臨席の下、27日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出は劇団四季の浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、森山良子と子供達によりテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」が披露された。
 
開会式のとき、私も一応テレビをつけていましたが、これがうんざりするほど退屈なものでした。
御柱の建御柱や土俵入りなどは、日本人にとっては価値あるものですが、外国人にとって価値があるとはいえません。しかも、視覚的にそんなにおもしろいものではありません。外国人は日本人以上にうんざりしたでしょう。
また、森山良子さんはすばらしい歌手ですが、世界的な歌手というわけではありません。ポール・マッカートニーを登場させたロンドンオリンピックと比べものになりません。
 
中国やイギリスやロシアはお国自慢をしてもさまになるが、日本はお国自慢をしてもさまにならない――これが現実です。
 
東京オリンピックの開会式をどうするかということをこれから考えなければなりませんが、幸い東京オリンピックの前に平昌冬季オリンピックがあります。
 
ソチオリンピックの閉会式のとき、平昌オリンピックを紹介するための韓国のアトラクションもありましたが、このとき流れた曲が「アリラン」です。
日本人は「アリラン」を知っていますが、おそらく世界のほとんどの国で「アリラン」は知られていないでしょう。
韓国もまた世界に誇るほどの文化を持たない国です。
 
内田樹氏は日本を「辺境国家」と規定しました。中国文明の辺境にあって、その文化をたくみに取り入れ、近代以降は西洋文明の辺境にあって、その文化をたくみに取り入れてきた国家だというわけです。
そういう意味では韓国もまったく同じです。日本も韓国も辺境国家です。
 
おそらく韓国は平昌オリンピックの開会式で、日本が長野オリンピックでやったのと同じ失敗をしそうな気がします。
日本はその失敗を見て、同じ失敗を繰り返さないようにしたいものです。
 
ヒントとしては、長野パラリンピックの開会式のアトラクションが挙げられます。これは作曲家の久石譲氏が演出したもので、お国自慢の要素はいっさいなく、自然と文明の共存がテーマだったそうですが、たいへん感動的なものでした。
 
このところ、週刊誌には嫌韓記事があふれています。
しかし、日本と韓国は、「ドングリの背比べ」といったところです。相手の悪口をいうのは、「目くそ鼻くそを笑う」の類です。
 
嫌韓記事を喜んで読んでいる日本人は、自己中心的で、自分を客観的に見ることができない人です。
韓国ばかり見るのではなく、ちょっと視点を高くして、日本と韓国を同時に見ると、認識はガラリと変わるはずです。
ソチオリンピックはそのいい機会だったと思いますが、相変わらず嫌韓記事があふれているところを見ると、進歩のない日本人が多いようです。

前の東京オリンピックがあったのは私が中学2年生のときですが、子ども心にもおかしいと思ったのが聖火リレーというやつです。
「聖火」といっても、火に違いのあるわけがありません。聖火リレーの途中でトーチの火が消えた場合、マッチやライターで火をつけ直したらなにがいけないのか。同じ火ではないかと思いまし。
とはいえ、そんなことは誰だってわかっているわけです。わかっていながらやっているのだから、こんなことはおかしいと主張するのもおとなげないということになります。
それでも、なにかもやもやとした気分が残るのも事実です。
 
そうしたところ、聖火リレーが初めて行われたのは1936年のベルリンオリンピックだということを知りました。つまりこれは、麻生太郎財務相の言葉を借りれば「ナチスの手口」なのです。ナチスのオカルト趣味に由来するということがわかって、納得がいきました。
近代オリンピックといいながら、近代的合理主義とは相容れないオカルト趣味がまぎれ込んでいたのです。
 
京都の八坂神社では、大晦日から元旦にかけて、神前の火を参拝者が火縄につけて持ち帰り、その火で雑煮をつくる「おけら参り」という風習があります。これなどまさに「聖火」ですが、あくまで宗教的なことです。
宗教と関係ないはずのオリンピックに「聖火」が存在するというのは、やはり妙なことだといえます。
オリンピックは世界的な行事なのですから、政教分離にならって、“スポ教分離”が行われていいはずです。
 
とはいえ、聖火リレーはオリンピックを盛り上げるのにはなかなか有効なイベントだといえます。
最近は国体でも聖火リレーが行われています。
といっても、国体の場合は「聖火」とはいわず「炬火」(きょか)といいます。
オリンピックの聖火はギリシャのオリンポス山で採火されますが、国体の炬火は適当な場所で採火されるようです。
ちなみに今年の国体は東京都で9月28日から行われますが、炬火の採火イベントは各区市町村で行われ、それぞれの火を炬火リレーで集めて、その火で開会式において炬火台に点火することになります。
どうやって採火するかというと、木の摩擦熱を利用するまいぎり(舞錐)方式で行われるということです。
 
ところで、最近のオリンピックの聖火リレーは世界的規模で行われていましたが、2008年の北京オリンピックのときは、中国のチベット弾圧に抗議する運動で聖火リレーが妨害され、そのためIOCは世界規模の聖火リレーは廃止し、主催国内のみで行うことを決定しました。
ですから、次の東京オリンピックでの聖火リレーは国内だけとなるわけです。
 
しかし、オリンピック憲章で「オリンピック聖火とは、IOCの権限の下にオリンピアで点火された火をいう」と規定されているので、おそらくIOCの役員が火のついたランプかローソクをかかえて、飛行機に乗って運んでくるのでしょう。なんだかバカバカしいことです。
 
なぜギリシャのオリンポスで採火しないといけないのでしょうか。
 
ヨーロッパにはギリシャ文明至上主義みたいなものがあります。それがヨーロッパ文明至上主義につながり、植民地主義、アメリカの黒人奴隷制などにつながっていったのです。近代オリンピックもその流れをくんでいます。
 
また、国際オリンピック委員会(IOC)の委員の配分はヨーロッパに偏っています。
ウィキペディアの「国際オリンピック委員会委員一覧」によると、次のようになっています。
 
20126月現在、IOC委員の数は111名。
ヨーロッパ(EOC) - 47
アジア(OCA) - 24
パンアメリカン(PASO) - 20
アフリカ(ANOCA) - 15
オセアニア(ONOC) - 5
 
人口比率を考えると、アジアの委員の数は圧倒的に少ないですし、経済力を考えるとアジアとパンアメリカンの委員の数が少ないことになります。
“スポーツ力”とか“スポーツ水準”によって委員が配分されているのだという説があるかもしれませんが、ロンドンオリンピックのメダル獲得数はアメリカが1位、中国が2位です。
つまり、どう考えてもIOC委員の配分はヨーロッパに偏りすぎています。
 
確かに近代オリンピックは古代ギリシャに起源があるとされ、もともとヨーロッパ的なものですが、今では全世界的なイベントになったのですから、ヨーロッパ偏重は改めなければなりません。
ただ、委員の配分というのは既得権益ですから、そう簡単に変えられないでしょう。そこで、日本はとりあえず聖火の採火場所はギリシャのオリンポスではなく主催国内で行うべきだと主張すればいいのではないでしょうか。
日本の場合、国体の方式を見習って、富士山頂とか高天原とか原爆ドームとか知床とか、いろんなところで聖火の採火式を行い、それを聖火リレーして、それぞれの火をひとつにまとめて開会式で点火するというやり方が盛り上がると思います。
 
採火をギリシャのオリンポスでやらないということについては、ヨーロッパなどの委員が反対するでしょう。そのときにはオリンポスでの採火は「ナチスの手口」だと主張すると、言い分が通りやすくなるのではないでしょうか。
 
また、東京オリンピックの2年前に韓国の平昌で冬季オリンピックが行われるので、韓国と日本が共闘してオリンピックのヨーロッパ偏重を是正していくのがいいでしょう。共通の目標があると、日韓友好も進めやすくなります。
開会式の入場行進でギリシャが先頭に立つという習わしも、欧米人以外には無意味なことですから、やめてもらいたいものです。
 
日本が韓国や中国とうまくやっていけないのは、実は日本が欧米に対してものが言えないからです。日本が欧米に対して植民地主義を反省しろと言えるようになれば、自然と日本は韓国や中国とうまくやっていけるようになります。
とりあえずオリンピックの聖火を取り上げて、欧米に対してものを言う練習を始めるのがいいのではないでしょうか。

ロンドン・オリンピックが始まりました。私は夜型の生活をしているので、テレビで見るには好都合です。といっても、積極的に見るのはサッカーぐらいです。サッカーの試合はおもしろいですが、柔道や重量挙げなどはもともと興味がないので、テレビをつけて、“ながら視聴”をしているだけです。
 
私の場合、東京オリンピックが中学2年生のときにありました。そのときは私も世間とまったく同じに盛り上がっていましたが、終わったあとは、こんな国を挙げてのお祭り騒ぎは一回経験すれば十分だと思いました。
ですから、大阪万博のときはまったく白けていましたし、その後、花博やらなんやらの万博のときも同じです。札幌と長野の冬季オリンピックのときは、なんか遠くでやってるなというような感じでした。
 
ですから、石原都知事がやっている東京へのオリンピック招致など、私にとってはとんでもない話です。大金をかけて、ただ国を騒がしくするだけではないかという気分です。
今のところオリンピック招致はほとんど盛り上がっていませんから、私と似たような思いの人も多いのではないでしょうか。
ちなみに2020年にはトルコのイスタンブールも立候補しています。どう考えても、東京よりはイスタンブールのほうがいいのではないでしょうか。こういう新興国でのオリンピック開催は、かつての東京オリンピックと同じで、国民の自信にもなりますし、国際社会にとってもトルコについて認識を深めるきっかけになります。
 
オリンピックといえば、「平和の祭典」と称されますが、天邪鬼な私は、なんでこれが「平和の祭典」なんだよと思っていました。
オリンピックがほかの国際スポーツ大会と違って特別に盛り上がるのは、メダル獲得選手の国籍に応じて国旗掲揚と国歌演奏があり、国ごとにメダル獲得数を競うという形式のせいではないかと思われます。つまり必然的にナショナリスティックな感情がかき立てられるのです。ですから私は、これは「平和の祭典」ではなく「擬似戦争」か「戦争の代用品」とでも言うべきではないかと思っていたのです。
しかし、よく考えてみると、オリンピックは戦争と違って人は死にませんし、家が焼かれたり、難民が出たりすることもありません。この違いは決定的に大きいといえます。
人がはオリンピックに熱狂することで戦争願望()を満たし、戦争の起こる可能性が低くなるなら、「平和の祭典」という言い方もありかなと思えます。
 
サバイバル・ゲームというのがありますが、あれを表面的に見ると戦争そのものです。しかし、サバイバル・ゲームでは絶対に人が死んだり傷ついたりすることはありません。それにゲーム参加者は自分の意志で楽しみのために参加しているので、この点でも戦争と決定的に違います。ですから、サバイバル・ゲームに目くじら立てたりするのは愚かなことです。オリンピックにならって「平和の遊戯」と呼んでもいいかもしれません。
 
 
このところ世の中は、イジメだ自殺だと騒いでいて、私もブログでもっぱらそのことを書いてきましたが、オリンピックが始まったことで変わるかもしれません。
 
1989年、連続幼女誘拐事件の容疑者として宮崎勤が逮捕され、8月10日に供述通りに遺体が発見されたことから世の中は大騒ぎになり、マスコミは連日その事件の報道に埋め尽くされた感がありました。私はこの報道の嵐は当分は沈静化しないだろうと思って見ていましたが、意外と早く沈静化しました。
その理由は、認識している人は少ないかもしれませんが、8月26日、礼宮さまと川嶋紀子さまの婚約内定が報道されたからです。当然、そのおめでたい報道が連日行われ、そうすると連続幼女誘拐事件の報道が目に見えてへってしまったのです。
皇室の婚約と、市井の猟奇犯罪事件とはなんの関係もなく、それぞれ別に報道するべきことですが、受け止めるほうはそうはいきません。こちらでおめでたい気持ちになって、あちらで猟奇犯罪はけしからんという気持ちになってと、素早く切り替えられるものではないのです。
 
今回も、オリンピックが始まり、連日日本人選手の活躍が報道され、人々が選手を賞賛したり、激励したりする気持ちになると、イジメはけしからんという気持ちとの両立が困難になります。たとえば、テレビのワイドショーで日本人選手の活躍を伝えたあと、「さて、大津市のイジメ事件ですが、またまたこんなひどい実態が明らかになりました」と続けられても、視聴者はなかなかついていけません。
 
ですから、イジメ事件の報道はこれから沈静化すると私は予想しています。
 
もっとも、イジメについて考えるのは大いに意義のあることだと感じています。
多くのおとなは、イジメを子どもの世界のことととらえています。つまり、イジメる子どもが悪いから、その子どもを罰すればよいという認識です。おとなについては、せいぜい教委や学校の隠蔽体質を批判するぐらいです。
しかし、私の認識としては、社会や学校や家庭のあり方が悪いから子どもの世界にイジメが発生するのです。そういう認識から書くべきことはこれからもありそうです。

東京都が夏季オリンピック開催地に立候補することになりました。日本の復興を世界に示すという理由が挙げられていますが、それなら東京ではなくて仙台あたりで開催するべきでしょう。それでも、スポーツ関係者はこぞって賛成しています。日本は原発利権やスポーツ利権で動く国になってしまったようです。
私は日本で開催する必要はまったく感じませんが、オリンピックを見るのは好きです。しかし、昔はオリンピックを単純には楽しめませんでした。というのは、昔は東西冷戦という時代背景もあって、今よりもはるかに国威発揚の場になっていたからです。
それに加えて、アマチュアリズムというものがありました。これがひじょうに厄介なもので、オリンピックの楽しみをそいでいたのです。
 
アマチュアリズムというのは、オリンピックの出場者はアマチュアでなければいけないというものです。しかし、アマとプロというのは、もともと明快に区別できるものではありません。
まず、共産圏の選手は国から援助を受けていたのでステート・アマと呼ばれましたが、これは実質的にプロと同じだとして西側の国は批判しました。
しかし、西側の国も、たとえば日本では多くのアマチュア選手は企業か役所に属し、給料をもらいながら練習したり試合に出たりしていたので、これも実質的にプロに近いものでした。
そのため、ことあるごとにアマチュア規定に抵触するか否かが問題となり、多くの選手は窮屈な思いをしましたし、一般の人も不明瞭な線引きに納得いかない思いがしていました。
 
そして、価値観の転換が起きました。1974年にオリンピック憲章からアマチュア規定が削除され、プロ選手が参加する流れができ、1992年のバルセロナ大会でアメリカのバスケットチームは一流プロを集めてドリームチームと呼ばれ、大きな話題となりました。
今となってはアマチュアリズムは死語です。
 
アマチュアリズムをいいだしたのはオリンピック創始者のクーベルタンで、ウィキペディアによると、ブルジョアジーによる労働者階級排除を目的とする意味があったということです。
 
「オリンピック出場者はアマチュアであるべきだ」という考え方は、スポーツ界において、野球やボクシングなどプロが確立された種目を除いて、プロであることはいやしいことだという風潮を生みました。
今は、プロもアマも区別することなく、プレーするほうも見るほうもスポーツを楽しむことができています。
「スポーツ選手はアマチュアであるべきだ」という考え方がなくなったのはほんとうによいことでした。
 
今、「人間はこうあるべきだ」という考え方がいっぱいあって、私たちはそれに縛られています。しかし、それらは「スポーツ選手はアマチュアであるべきだ」とどこが違うのでしょう。
「人間はこうあるべきだ」という考え方がなくなったほうが私たちは幸せに生きられるのではないでしょうか。
 

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