まだ11月だというのに、街にはすでにクリスマスムードが漂っています。クリスマスとはなにかというのを今のうちに確認しておきましょう。
 
クリスマスがキリストの誕生日だということになんの根拠もないということは今や常識でしょう。キリスト教以前からクリスマスはあったのです(クリスマスという名前ではありませんが)
もともとクリスマスとは冬至のお祭り、あるいは冬至明けのお祭りでした。
冬至はだいたい1222日ごろです。どんどん日が短くなり、寒さが募ってきて、とくに北の国では生活がきびしくなってきます。そんなとき、冬至がすぎると、また日が長くなりだします。まだ寒さはきびしくなりますが、また春がくることの確実な予兆です。
ですから、冬至がすぎたときを「太陽復活の日」として祝ったわけです。
そして、「太陽復活の日」は1年の区切りの日ともなりました。1年の区切りの日をどこかに設けるとしたら、当然冬至か夏至しかありません。冬至か夏至かといったら、やはり太陽が復活する冬至でしょう。
 
ですから、冬至明けのお祭りは、キリスト教以前から広く行われていて、これは1年でも最大の行事であったわけです。
しかし、キリスト教の立場にすれば、キリスト教と関係のない行事が盛大に行われているのは具合が悪い。かといって、やめさせることもできない。そこで、この日をキリストの誕生日だということにして、キリスト教の中に取り込んだというわけです。
 
1年の区切りの日といえば、日本においては正月がそうです。正月もまた冬至のすぐあとです。ですから、クリスマスも正月も同じようなものなのです。
欧米のクリスマスも日本の正月も、普段は離れて暮らしている家族が一堂に会し、御馳走を食べ、敬虔な気持ちになって、しみじみとした時間をすごします。これも同じです。
 
クリスマスや正月に家族が一堂に会し、しみじみとした時間をすごすのはなぜでしょうか。これについては私なりの考えがあります。
 
クリスマスや正月は1年の区切りの日ですから、そのときにひとつ年を取ったことを自覚します。言い換えれば、ひとつ死に近づいたことになります。
私たちは普段、死を意識せずに生きています。しかし、クリスマスや正月には意識せざるを得ないのです。そのとき、私たちは自分の遺伝子や自分の思いが次の世代に伝わっていくことを確かめることで少し死の恐怖を軽減することができます。ですから、家族が集まって、思いをひとつにするのです。
自分の個体としての死の恐怖を、家族や次世代への愛で乗り越えるとでもいいましょうか。
ですから、クリスマス(とくにクリスマスイブ)や正月(とくに大晦日)には敬虔な気持ちになり、生や死や愛についてしみじみと思いを馳せるわけです。
 
ちなみに誕生日にも私たちは年を取ったことを自覚しますが、このときは周りの人と思いをひとつにすることはできませんから、クリスマスや正月とはまったく違います。
 
欧米人がクリスマスを迎えたときの思いと、日本人が正月を迎えたときの思いはほとんどいっしょです。
となると、日本人はクリスマスをどうすごせばいいのでしょうか。
昔の日本人は、クリスマスはドンチャン騒ぎをしていました。しかし、欧米人にとっては敬虔な日であるクリスマスにドンチャン騒ぎをするのは不謹慎であるという考えが強まってきて、今では日本人もクリスマスをけっこう敬虔な気持ちですごすようになっています。つまりプチ正月みたいになっているのです。
しかし、クリスマスも正月も同じような気持ちですごすというのはへんです。これでは正月の敬虔な気持ちが分散してしまいます。
 
欧米人はクリスマスを敬虔な気持ちですごし、対照的に正月にドンチャン騒ぎをします。これが自然な姿でしょう。
ですから、日本人としては、クリスマスにドンチャン騒ぎをして、正月を敬虔な気持ちですごすというのが自然な姿なのです。昔のやり方が正しかったのです。そもそもクリスマスは忘年会の時期です。
 
日本人はクリスマスにドンチャン騒ぎをするという正しい習慣を取り戻したいものです。