村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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AIが進歩して人間の知能を超えると、人類を支配したり人類を滅ぼしたりするのではないかという議論があります。

チェスでは1997年にAIが人間の最強プレーヤーに勝利しました。
将棋では2013年にAIがプロ棋士に初勝利し、2015年に名人に勝利しました。
囲碁では2016年にAIが当時世界トップクラスとされていた韓国人棋士に勝利しました。
AIが人間を超えたこれらの世界はどうなっているのでしょうか。

私は囲碁が趣味で、大学時代は囲碁部に属して全国大会でベスト8になったこともあります。
最近は人と囲碁を打つことはありませんが、テレビ対局のNHK杯戦と竜星戦を録画して見て、新聞の囲碁欄を読み、囲碁関係のニュースはだいたいチェックしています。

今では囲碁のAIは圧倒的に強くなり、トッププロでもハンデがなければ勝負にならないとされます。
NHK杯戦では対局者が次の手を考慮中に、AIの推奨手が画面にA、B、Cで表示されます。
AIが意外な手を推奨して、解説者が「こんな手がありますかねえ」と首をひねることがあります。
そんなときに対局者がAIの推奨手を打つと、解説者や聞き手の女流プロ棋士が「さすがですね」と感嘆の声を上げます。人間がAI並みになると賞賛されるのです。

人間がAIを超える手を打つこともあります。
テレビ対局ではAIが判定した形成判断が勝率のパーセントとしてつねに表示されています。対局者が悪い手を打つと勝率が低下します。よい手を打っても通常は勝率は上がりません。それはAIの想定内だからです。
ときたま対局者が一手打つと勝率が上がることがあります。それはAIを超えた手ということです。しかし、そういうことはめったにありません。一局のうちに一度もないことのほうが多いでしょう。
つまりほとんどの場合、AIの手のほうが人間の考えた手よりよいのです。
AIのほうが人間より強いのですから、当然です。


今のプロ棋士は、一部の年配の棋士を除いて、みなパソコンでAIを使って研究しています。
AIは、その手がいい手か悪い手か、すぐさま勝率の数字で示します。
今までの常識にない手、自分の感覚に合わない手をAIがよしとすることもあります。AIはなんの説明もしないので、自分で判断するしかありませんが、自分よりAIのほうが強いのですから、誰でもAIの手を選ぶことになります。

囲碁では序盤の決まった打ち方を「定石」といい、定石を覚えることが上達の王道とされてきました。
ところが、AIはまったく定石外れの打ち方をし、それを「AI定石」といいます。
今はプロ棋士もみなAI定石を打ち、アマチュアも真似をしますから、昔の定石はほとんど打たれなくなりました。
私なども、せっかく勉強して覚えたことがほんどむだになったわけです(定石のもとにある考え方は役に立ちますが)。

その結果、どういうことになったかというと、棋士の個性がなくなりました。みんな同じAI定石を打つからです。
一昔前は、たとえば武宮正樹九段は“宇宙流”と呼ばれる独特の布石をして、序盤の盤面を見るだけでそれが武宮九段の碁だということがわかりました。
また、ちょっと古くなりますが、木谷実九段は石が低いところにいく独特の打ち方をして、“木谷定石”といわれるものがいくつもありました。ほかの棋士は木谷定石を打つことがめったになかったので、盤面に木谷定石が現れれば、それは木谷九段の碁だと判断してほぼ間違いありませんでした。

つまり昔は多様な打ち方があって、そこに棋士の個性が出ていました。
しかし、今はみんなが“偉大な師匠”であるAIの真似をするので、みんな同じ打ち方になっているのです。
これははっきりいって、つまらないことです。
中盤の打ち方も、AIの真似をするので似ています。
私は対局の録画を見ていて、前に見た録画をまた見ているのではないかと思ったことが何度もあります。


こんな小話があります。
「二人の神様が碁を打つことにした。一人の神様が第一手を打つと、もう一人の神様は少し考えて『なるほど。それでわしの負けじゃな』と言って投了した」という話です。

運の要素がなく、すべてが論理で割り切れるゲームは、いずれ最終的な結論、必勝法ないしは必然的に引き分けになる方法にたどりつくはずです。つまりそのゲームは“クリア”されるわけです。

AIが人間よりも強くなると、将棋や囲碁の人気がなくなるのではないかという説がありましたが、今のところそういうことはなさそうです。日本の囲碁人気は低下していますが、世界的に人気は上向いています。将棋は藤井聡太八冠のおかげで人気があります。チェスはもっとも早くAIが人間よりも強くなりましたが、チェスの人気が衰えることはなく、Netflixのドラマ「クイーンズ・ギャンビット」の影響もあって、現在は空前のチェス人気だそうです。
しかし、必勝法が解明されると、さすがに人気はなくなるかもしれません。


将棋は囲碁よりも必勝法の発見は早いはずです。
私は将棋の実力はぜんぜんたいしたことはありませんが、たまに将棋のNHK杯戦を見ることがあります。そうすると、序盤を両対局者がすごい早さで指しているのにびっくりします。
今はAIによって序盤の指し方の研究が進んで、最初に戦法が決まれば、そのあとの変化の余地がほとんどないのです。
まだ研究が確定していない中盤になって、やっと考えながら指していくことになります。
どんどん研究が進めば、最終的に玉を詰ますところまでいく理屈です。


現在、若手棋士はAIの示す手を積極的に取り入れていますが、年配の棋士は心理的な抵抗からあまり積極的ではありません。
その結果、若手棋士が活躍し、年配の棋士は片隅に追いやられています。

今やほとんどの棋士がAIに盲目的に従っています。
「盲目的に」というのは、AIはなにも説明しないので、わけもわからず従っているからです。
これは神を信仰するのに似ているかもしれません。

人間は人工知能をどうしても擬人化して理解しようとします。
そうすると、人間の知能を超えた人工知能を神にたとえるのは自然なことです。


『創世記』における神は人間に残酷です。
神は自分の言いつけにそむいて善悪の知識の実を食べたということでアダムとイブを楽園から追放します。罰する神で、許す神ではありません。
神はアベルの供物は受け取りますが、カインの供物は受け取らず、兄弟の一方をひいきします。
神は人間が堕落したといって大洪水を起こし、ノアの一家以外の人間をみな殺しにします。

ですから、キリスト教圏の人々は神に潜在的な恐怖を抱いています。
AIが人間の知能を超えると人類を支配したり滅ぼしたりするのではないかという声はもっぱら欧米から聞こえてきます。日本人はそんなことは考えません。


AIに意志はないので、人類を支配したり滅ぼしたりしようとするはずがありません。
AIが悪用されることは警戒しなければなりませんが、それはAIの問題ではなく人間の問題です。

AIは人間にとって、今のところ使用人であり、人間の知能を超えたときには、支配者ではなく師匠になるはずです。

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AIが人間の知能を超える瞬間を「シンギュラリティ」といって、それが2045年ごろにくるのではないかといわれています。
しかし、進化するのはAIだけではありません。社会のあらゆる領域が高度化、複雑化していて、人間の知能では対応できなくなりつつあります。

前回の『「究極の思想」の威力をお見せしよう』という記事で、「どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる」と書きました。
ですから、文明社会は赤ん坊を一人前の文明人に教育するシステムを必ず備えています。
文明が発達すると必然的に教育も強化されます。
昔は多くの人は中卒、高卒で働いていましたが、最近は専門学校卒、大卒、さらには大学院で学ぶことが求められるようになりました。

この傾向が限りなく進行していくと……ということはありえません。人間には寿命があるからです。


新しいパソコンを買うと、必要なアプリケーション・ソフトをインストールし、設定をし、必要なデータを入力するという作業をしなければなりませんが、データを古いパソコンから移すという手段が使えず、クラウドも利用していなくて、全部手作業で入力するとすれば、かなりの時間がかかります。すべての作業が終わり、いざ、これからそのパソコンで仕事をしようとしたときにはパソコンの耐用年数がわずかしか残っていないとなれば悲劇です。
人間の教育も、知識をまとめて子どもの頭に移行するということはできず、ひとつひとつ“手作業”で頭の中に入れていくわけですから、文明がさらに発達すると貴重な青春の時間だけでなく壮年の時間までも教育に費やすことになります。これでは文明の発達はむしろ人間にとってマイナスです。

車の自動運転技術のように、文明が進むことで人間が楽になるということもありますが、それはごく一部のことです。文明が発達するほど社会に適応するために学ぶべきことは増えます。

そのしわ寄せがとくに子どもと若者に表れて、不登校、いじめ、引きこもりなどが増加しています。
少子化が進むのも、多くの人は子どもを生んでも子どもは幸せな人生を送れないだろうと予想するからでしょう(日本に限らず先進国は一般的に少子化になります)。


ローマクラブは1972年に「成長の限界」と題するレポートを発表し、世界的な人口増加と経済成長が続いた場合、資源と環境の制約によりあと百年程度で成長は限界に達すると予想して、世界に衝撃を与えました。
それまで文明というのは限りなく発達していくものだと漠然と考えられていたのです。
このレポートの翌年に第一次オイルショックが起こり、レポートの信憑性がいよいよ高まりました。
しかし、このレポートは重要な事柄をもらしていました。それは「人間の能力」です。成長は「人間の能力」によっても制約されるのです。
資源と環境の問題は、リサイクルの徹底と再生可能エネルギーの利用などである程度対処が可能ですが、「人間の能力」については対処のしようがありません(いずれは遺伝子テクノロジーで人間の能力向上が可能かもしれませんが)。

シンギュラリティとは別の意味で、文明の発達が人間の能力を超える瞬間が近づいています。



「人間の能力には限りがある」というのは当たり前のことですが、これまではっきりとは認識されてきませんでした。
逆に「人間は脳の30%(20%)しか使っていない」などという俗説が流布されていました。

若者に対して「君たちには無限の可能性がある」ということもよく言われます。
これは「君たちの可能性は未知数だ」と言うべきところ、「未知数」を「無限」に取り違えたものです。

人間の能力は遺伝で決まるか環境で決まるか、氏か育ちかという議論もよく行われてきました。
つまりこんな基本的なこともわかっていなかったのです。

しかし、これは昔のことです。今はさすがに多くのことがわかっています。

遺伝か環境か、氏か育ちかという二者択一の議論は間違っていて、氏も育ちも、つまり人間は遺伝と環境のふたつの要素で決まります。
昔は環境の要素が強いと考えられていました。
ラテン語のタブラ・ラーサ(空白の石板)という言葉で表されますが、生まれたばかりの人間は白いカンバスと同じで、教育によってどんな絵でも描けるという説がありました。これは今でも教育界に根強くあります。
しかし、科学的研究によって遺伝の要素の大きいことが次第にわかってきました。
一卵性双生児で、生まれてすぐ引き離され別の環境で育った兄弟を調べることで、遺伝と環境の影響の割合がわかります。それによると、IQや学業達成は三分の二までが遺伝によって決まります。
また、神経質、外向性、協調性などの性格や気質もかなりの程度遺伝で決まります。

ただ、「遺伝で決まる」というと、子どもは親の能力や性質をそのまま受け継ぐのかと誤解する人がいます。
実際は、同じ親から生まれた兄弟でも、能力も性格も違いますし、顔にしても「言われてみれば似ている」程度のものです。親ともかなり違いますから、「トンビがタカを生む」ということもありえます。つまり遺伝の影響はあるにしても、個人差がひじょうに大きいのです。
ですから、私は「遺伝」ではなく「生得」という言葉を使ったほうがいいと思っています。
つまり「人間は遺伝で決まっている面が大きい」ではなく「人間は生まれつき決まっている面が大きい」というのです。
そうすれば個性を尊重することにもつながります。

親は、子どもが活発な性格の子だと、おとなしい子にしつけようとしがちですが、間違った考え方です。これはこの子の持って生まれた性格だと思って受け入れると、子育ては楽になります(持って生まれた性格は固定しているわけでなく、変わっていきますが、親が自分につごうよく変えようとしてもうまくいきません)。


子どもの外見や性格が親の遺伝の影響を受けることは誰でも認めます。
しかし、子どもの知能が親の遺伝の影響を受けると公言することはタブーとなっています。
「生まれつき頭のよい人と生まれつき頭の悪い人がいる」と言うこともタブーです。

なぜこんなタブーがあるかというと、「黒人は知能が低い」という言説があったように知能と人種差別が密接に結びついていて、さらに「生まれつき頭の悪い人がいる」と言うと優生思想を喚起しかねないという問題があるからです。

たとえばアメリカで1950年代に、スプートニク・ショックを機に国民の教育水準を高めるために巨額の連邦予算を投入して「ヘッドスタート計画」という早期教育プログラムが全国的に展開されました。有名な教育番組「セサミ・ストリート」もこのときの産物です。プログラムが開始されて約十年たったとき、心理学者のアーサー・ジェンセンがこのプログラムは失敗したと結論づける論文を発表しました。この早期教育の知能に与える効果は一時的なもので、プログラムを離れるともとに戻ってしまう、その理由は、知能の遺伝規定性が80%もの高さを持つからだとジェンセンは説明しました。さらに彼は、白人と黒人の知能の差について論じ、その原因も遺伝的であることを示唆したことでアメリカの世論に火をつけてしまいました。「ジェンセニズム」は人種差別主義の代名詞とされ、世間のバッシングの中、彼は文字通り外を一人で歩くことすら危険な状況であったといいます(参考文献『遺伝子の不都合な真実』安藤寿康著)。

その後も、「知能は遺伝する」と主張する人は出てきましたが、そういう人は決まって右派の科学者で、左派の科学者が「知能と遺伝を結びつけるな」と反論するということが繰り返されてきました。


今も「知能は遺伝する」と言うことはタブーですし、「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」と言うのもタブーです。


しかし、「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」というのは事実ですから、事実を認識しないと不都合が生じます。
たとえば教室には頭のいい子と悪い子がいるのに、教師は全員に向けて同じ授業をするので、頭の悪い子は授業についていけず、教師の話が頭に入ってこないということになります。頭が悪いといってもほんの少し悪いだけなのに、実質的に授業を受けていないことでさらに頭が悪くなります。つまり一人一人に合わせた授業をしていればみなそこそこの成績になるのに、一斉授業をするために“落ちこぼれ”となり、教室の“落ちこぼれ”はさらに社会の“落ちこぼれ”となるのです(最近“落ちこぼれ”という言葉はいわれなくなりましたが、一斉授業のもとで学習内容が高度化すれば“落ちこぼれ”は増えているはずです)。

ベストセラーとなった『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治著)には、少年院に入るような少年は知的障害とまではいかない境界知能の持ち主が多いと書かれています。学校でちゃんと対応していれば社会生活を営む程度の知能はあるのに、学校でずっと放置されてきたために、計算もできない、漢字も書けない、ケーキを三等分することもできないという状態となり、みずから犯罪に手を染めるか、犯罪組織に利用されたりして少年院に入ってくるのです。
ですから、こういう少年に反省させても無意味なことで、その子にあった教育(認知機能トレーニング)をすることだと著者は述べます。

『累犯障害者』(山本譲司著)には、刑務所にも知的障害者や境界知能の人が多く収容されていて、出所しても再犯してまた戻ってくるということが書かれています。
つまり「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」ということを認めないために、学校や社会が適切な対応をせず、犯罪を生み、刑務所や生活保護など福祉に負担をかける結果になっているのです。


今、シンギュラリティによって人類はAIに支配されるのではないかという議論がありますが、こうした懸念を表明しているのは科学者、大手IT企業経営者、欧米の政治家などです。
彼ら頭のいい人たちが世界の覇権を握っていたところに、AIが台頭してきて、覇権を奪われるかもしれないと思って、あわてているのです。
これは一般大衆にはどうでもいいことです。支配階級に支配されるのもAIに支配されるのも同じです。

一般大衆にとって興味があるのは「AIは人間の仕事を奪うか」ということでしょう。
世の中には雇う人と雇われる人がいて、雇う人は人間を雇うかAIを導入するか、コストの安いほうを選択します。AIのほうが人間よりコストが安ければ、人間は失業します(これは「AIが人間の仕事を奪った」というより「雇用者が人間の仕事を奪ってAIに与えた」というべきです)。
AIが仕事をしてくれれば、人間の労働時間がへってもよさそうなものですが、雇う人は利益を追求するので、そんなことにはなりません。


「生まれつき頭のいい人と悪い人がいる」と言うことがタブーなので、成功した人たちは努力を誇り、社会の底辺の人を努力しない人と見下します。
そのため福祉はないがしろにされます。

今のシンギュラリティの議論は、いわば天上界の覇権争いのことです。
私が述べてきたのは、社会の底辺のことです。
学校教育や福祉を改革せずにAIなどがどんどん進化していくと、社会に適応できない“落ちこぼれ”が増え続けます。

文明の発達は人類に恩恵をもたらしますが、一方で人類の負担も増やします。
頭のいい支配階級はどんどん文明を発達させますが、頭の悪い下層階級は「文明の負担」が「文明の恩恵」を上回るもうひとつのシンギュラリティに直面しつつあります。

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マイクロソフトのマージャンAI(人工知能)「スーパーフェニックス」が、プロを含む33万人が参加する日本のオンラインマージャン対戦プラットフォーム「天鳳」において、トッププレーヤーに匹敵する成績を達成したというニュースがありました。
すでにチェス、将棋、囲碁でAIは人間よりも圧倒的に強くなっていますから、今さら驚きません。

囲碁では2016年にAIが世界のトップ棋士を負かし、その後ネットの世界で60連勝した、100連勝したという話題があり、今ではトッププロでもハンデをもらわないと勝負にならないといわれています。
AIが打ち出した常識にない手は「AI定石」と言われ、若手プロはみな真似をしています。しかし、なぜその手がいいかをAIは説明しません。わけもわからずAIの真似をしている人間の姿になにか危ういものを感じるのも事実です。


AIがどんどん進化して産業界で利用されるようになると、人間は仕事を奪われるという説があります。
その一方で、AIが人間の代わりに仕事をしてくれるので、人間は楽をして豊かな生活が送れるようになるという説もあります。
いったいどちらが正しいのでしょうか。

AIの話題のときは、「AI対人間」というとらえ方が多いようです。囲碁、将棋、マージャンなどのゲームでは必然的にそうなります。
しかし、社会の中にAIが入ってくるときは、事情が違います。社会の中ではもともと「人間対人間」の争いがあるからです。
もちろん人間は互いに協力し、助け合いもしますが、根底は利己的な存在として、互いに生存闘争をしています。

たとえば人を雇用する側は、少しでも安く人を雇って利益を上げようとし、雇用される側は、少しでも高い給料をもらおうとします。
そこに労働者の代わりになるAIが登場したとします。
雇用する側は、人を雇うかAIを使うかを比較して、AIが安くつくと思えば人をクビにして(あるいは新たに雇うのをやめて)、AIを導入します。
これが経済合理的な選択です。
雇われる側は、クビになるか、AI導入並みの安い給料でがまんしなければなりません。

雇われる側にとっては、世の中にAIが導入されてサービス価格が安くなったりするメリットはありますが、自分の雇用が奪われたり給料が安くなったりするのでは、デメリットのほうが大きいといえます。

ですから、労働者の代わりをするAIの登場は、雇う側には有利ですが、雇われる側には不利です。

これは外国人労働者を増やす政策に似ています。
雇う側は、外国人労働者と日本人労働者を比較して、安いほうを雇えるので得をします。
日本人労働者は損をするだけです。

こうしたことは、雇う側と雇われる側の対立としてとらえると、簡単にわかります。
しかし、日本では冷戦終結以降、社会主義思想は破産したと見なされ、同時に階級対立もないことにされました。
そのため、雇われる側の不利益はないことにされ、雇う側の利益が日本全体の利益と見なされ、外国人労働者やAIの導入が進められています。

今は、「AIが雇用を奪う」というように、「AI対労働者」という図式でとらえることが多いようです。
これは19世紀初頭にイギリスで産業の機械化が進み、機械に仕事を奪われると思った労働者が機械を打ち壊したラッダイト運動に似ています。
このときは社会主義思想が未成熟だったのですが、一周回って同じことになっています。


AIといえば、AIが人類の知能を超える「シンギュラリティ」が2045年にも到来するということが問題になっています。
シンギュラリティによって人類は豊かな生活を得られるという説もありますが、ホーキング博士などは、AIが人類をほろぼす危険性があると警告していました。
私はAIの専門家ではありませんが、この問題も、社会には「人間対人間」の争いがあるということを認識しないと危ういことになる可能性があると思っています。

たとえば、労働者の労働意欲を高める労務管理AIが効果を発揮するようになったとします。そうすると、それを経営者にも使ったらいいのではという発想が出てくるかもしれません。
労務管理AIは、「経営者のため」のものですから、本来そんな発想は出てきません。しかし、タテマエとして「労働者のため」とか「人間として必要なもの」などと言っているはずで、間違ってタテマエを信じてしまったり、タテマエを押し通さざるをえなくなったりしないとも限りません。

あるいは、子どもの勉強意欲を高めるAIができると、勉強は何歳になっても必要なことだからと、おとなにも適用しようということにもなるでしょう。

道徳教育を効果的にするAIもできるかもしれません。
私は道徳教育で道徳的な人間ができるとは思いませんが、アメとムチで人間に道徳的な行動をさせることは可能ですし、そこに「国のため」とか「人類のため」とか「人格向上のため」という名目をつけることでより効果的にすることはできると思います。
そうすると、その道徳教育AIを全国民に適用して、「道徳国家建設」をしようという主張が出てきてもおかしくありません。


人間社会には、雇う側と雇われる側だけでなく、富裕層と貧困層、おとなと子ども、男と女、知識階級と一般大衆、健常者と障碍者など、あらゆる場面に対立と支配の関係があります。
社会主義思想は資本家と労働者の関係を諸悪の根源と見なし、それさえ解決すれば万事うまくいくと考えたのですが、それは間違いでした。あらゆる対立と支配の関係を解決しなければうまくいきません。
今はそうした対立と支配の関係がないことにされ、人間はみな自立して、対等の関係を結んでいるという嘘が社会をおおっています。

この嘘を嘘と認識していればまだいいのですが、嘘に自分がだまされると危険です。
人を支配するためにつくったAIに自分が支配されるという悲喜劇が起こりかねないからです。

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