村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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ドラマ「明日、ママがいない」をきっかけに児童養護施設への関心が高まったと思われますが、反面、全国児童養護施設協議会などが放送中止を求めて抗議したことでマスコミは児童養護施設を扱いにくくなったとも思われます。
 
そうした中、朝日新聞が児童養護施設についての記事を2日続けて掲載しました。
 
(養護施設の子ども、自立への壁:上)ほしいのは、自分でおれる場所
 
これは児童養護施設全般についての記事ではなく、施設からの自立がどうなっているかということに焦点を絞った記事です。このあたりに腰の引けた感じがあります。
高校を卒業した者が上の学校に行く進学率は全国で77%ですが、施設を出た者が高校より上の学校に行く進学率は約2割で、大きな差があります。こういうデータで示された部分についてしか書けないのでしょうか。
 
この記事で私が注目したのは、この部分です。
 
名古屋市の男性(20)は高校を中退した3日後、15歳で施設を出された。その施設では、高校へ進学しなければ退所するのが「慣例」だった。
 
 小学校で授業についていけなくなっていたが、生きる場所を失うのが怖くて高校へ。なじめずに喫煙や無断欠席を繰り返し、1年生で中退した。
 
 職員の一人(57)は「定員も、職員の数にも限りがある。高校に行かなくても喫煙しても、同じように施設にいられるのか。他の子への影響も考えざるを得ない」。そう言いながら、「学歴も、家族の支えも、お金も持たない子どもが一人で生きていくのはどれほど過酷か」と悩む。
 
高校を中退すると施設を出なければならないとする「慣例」が存在するということ自体、間違っています。
親に代わって子どもを育てるのが施設の役割です。子どもが高校を中退したとか喫煙したとかで親が子どもを家から追い出すということはありません。
高校中退や喫煙という“悪いこと”を裁くのは「司法の論理」です。施設は子どもがどんな“悪いこと”をしても受け入れるという「愛と寛容の論理」で運営されなければなりません。そうしてこそ子どもは安心感を持つことができ、人との信頼関係を築くこともできるのです(もっとも、最近は「司法の論理」が持ち込まれている家庭も多いようです)
 
 
朝日新聞の記事は中途半端でしたが、月刊「選択」4月号に載っていた記事はかなり強烈でした。
 
日本のサンクチュアリシリーズ 475
児童養護施設
ドラマの比ではない「犯罪行為」の巣窟
 
全文の紹介は具合が悪いと思うので、適当に選び出して紹介します。
 
 
「地獄から抜けたと思ったら、ついた場所は別の地獄だった」
 
  埼玉県内の児童養護施設で八歳から十八歳までを過ごした二十代前半の男性は、絞り出すように語った。
 
  現在は、工事現場の警備員をして糊口を凌ぐこの男性は、幼い頃に実の親からの虐待を受け、児童相談所に保護された。その後高校卒業まで私立の施設で育ったが、職員や他の入所児童からの壮絶ないじめを受けたという。
 
  児童養護施設を舞台とした日本テレビのドラマに対する批判が出てCM放映が見合わされたことは記憶に新しい。抗議をしたのは、いわゆる「赤ちゃんポスト」を設置する熊本市の慈恵病院と全国児童養護施設協議会。
 
  しかし、北関東の児童養護施設で働いていた元職員は「協議会はどの面を下げて抗議できるのか」と憤る。恵まれない境遇にいる子どもを社会で育てる―。極めてシンプルな役割を担う児童養護施設の現場は、ドラマ以上の壮絶な状況にある。
 
 
 
施設によってその環境は千差万別だと断ったうえで、前出元職員が語る。
 
 「一部の恵まれた施設を除いて、ほとんどの施設でなんらかの暴力が恒常的に行われている」
 
  児童養護施設での暴力は、職員から子どもへのものだけではない。冒頭の施設出身男性は、「ありとあらゆる暴力を受け、目撃してきた」と重い口を開く。
 
  小学校低学年の頃から、とかく職員の「せんせい」は恐怖の対象でしかなく、約束事を破ったなどとして暴力を受けた。約束というのも就寝前に歯を磨くのを忘れたといった些細なことで、廊下に正座させられ、時には殴られた。
 
  仲間であるはずの入所児童も敵だった。年長者からは恒常的にいじめ抜かれ、成長するとともに暴力はより過激に、陰湿になった。この男性は、通学していた学校ではいじめの対象になることはなかったため、とにかく学校に長時間居残り、毎日施設に帰るのがいやだったという。
 
  また、中学生、高校生になると、児童が職員に対して暴力を振るうこともあった。特に若い女性職員がターゲットになりやすい。すぐに辞めることも多く職員の入れ替わりは激しかった。
 
  この男性の経験したことは珍しいことではなく、時折事件化してこれまでも問題になってきた。深刻だったのは、一九九五年に発覚した千葉県の恩寵園事件や、九八年に愛知県東海市の私立施設で入所中の児童が集団暴行を受けた揚げ句に障害が残った事件だ。
 
  こうした例では施設運営者側に問題のあるケースが多い。〇六年に発覚した長崎県島原市の太陽寮の事件では、施設長が二千八百万円を横領していたほか、入所女児への性的暴行で告発された。〇九年には神奈川県の幸保愛児園でも、施設長による使い込みや、児童への虐待が行われていたことがわかっている。
 
  これらは氷山の一角だ。たとえば、福岡市内のある施設では最低限の職員しか置かずに人件費を切り詰めている一方、園長が暴力団と見まごう黒塗りの外車を乗り回しているという。
 
  愛知県内の私立の施設では、運営する社会福祉法人理事が関係する食料品店からのみ随意契約で物品を購入している。「より安いルートがあると訴えた職員があっという間にクビになった」(施設関係者)という。児童養護施設に補助金を払っている自治体の監査は形だけで、なぜか市の福祉課OBが事務長に天下っている。
 
  施設協議会の会長を務める鳥取こども学園施設長の藤野興一氏は〇七年の厚生労働省の委員会で、施設内での虐待の存在を認めたうえで「暴力事件を起こした施設職員を排除しても起きてしまうのは、やはり構造的な問題にほかならないわけです」と発言している。
 
  また、厚労省からの改善通知が出ても「全然守られていない」とうちあけ、こう語っている。
 
 「皆さんがどの程度と思っておられるかわかりませんが、本当に壮絶に近い状態だと私は思っています」
 
  これは正直な現場の声なのだろう。一般に虐待を受けて育った子どもは、将来、自らの子どもに虐待を行う傾向が強い。「虐待の連鎖」が施設でも拡大再生産されているのだ。
 
 
 
施設、職員による隠蔽は、染みついた体質だ。児童養護施設を取材したことのあるフリーライターは、「施設内で子どもの話を聞いても、どこかオブラートに包まれたような、杓子定規な答えしか返ってこない。職員から余計なことを話すなと直接言い含められているか、目を気にして自主規制しているという印象だ」と語る。
 
  施設内での虐待を防止するために、〇八年に児童福祉法が改正されて、虐待事案の通告制度が設けられたが機能していない。養護対象児童への虐待を「被措置児童等虐待」と定義し、これを発見した場合に速やかな通告を義務付けた。虐待を発見するのは職員か児童だが、実際に子どもが県や市などの自治体へ通告することは難しい。窓口だけではなく、手紙などでの通報も可能だというが、「犯人探し」を恐れて動けない。
 
 
 真に子どものことを思う熱心な職員が少なからずいることは動かしがたい事実だが、一方で人手不足は恒常的で保育士の資格を持った専門職員の定着率も悪い。
 
 
もちろんこの記事はネガティブな面を強調した記事ですから、これだけで全体像を判断するのもどうかと思いますが、大手メディアの腰の引けた記事とは大違いです。
 
全国児童養護施設協議会が「施設長や職員が、暴力や暴言で子どもたちの恐怖心を煽り、支配・従属させることはありません」という嘘をついてまで「明日、ママがいない」の放送を止めようとしたのは、やはり施設の内実が明らかになることを恐れたためではないかと思われます。
 
とはいえ、施設側を批判すればいいというわけではありません。むしろ施設側には予算と人員をふやさないといけないわけです。
 
心に傷を負った子どもの世話をするのはたいへんです。職員は規律を保つためについつい力によって押さえ込もうとします。そうすると、子ども同士のイジメを生んだり、場合によっては職員に暴力が向かってきます。
全国児童養護施設協議会が「このドラマは甘すぎる。現実はこんなものではない。われわれの仕事はもっとたいへんだ」といって抗議していたら、世の中の共感が得られ、施設の改善にもつながったのではないでしょうか。 

3月12日に「明日、ママがいない」の最終回の放送がありました。
最終回の視聴率は12.8%だったそうです。全9話の平均も12.8%でした。
よけいな横槍が入らなければ、もっと視聴率が取れたのではないかと思います。
また、横槍が入ったために、ストーリーが変わってしまった可能性があります。とくに最終回はそんな思いが強くしました。
 
最終回では、「ドンキ」は前から順調にいっていた松重豊と大塚寧々の家庭に引き取られ、「ボンビ」はあこがれの「ジョリピー」(アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピット似の夫婦)の養子になり、「ピア美」は父親とともに暮らすことになり、その才能を見込んだピアノの先生によってピアノのレッスンも続けられることになります。これらは予想通りの展開です。
 
間もなく18歳になる「オツボネ」は看護学校の寮に入ることにしますが、最後に「魔王」の意向で「ロッカー」と同様に「コガモの家」に職員として残ることになります。これは少し安易な結末ではないかと思いました。
児童養護施設は18歳で出ていかなければならないというルールがあり、同じ境遇であるがゆえに「オツボネ」に共感していた児童養護施設の子どもは、ハシゴを外された格好になります。
私としては、外に出ていってがんばるという結末にしたほうがいいのではないかと思いました。
 
意外なのは児童相談所職員の「アイス」です。金持ちと婚約して専業主婦になるはずだったのですが、「魔王」とこんな会話をします。
 
「この仕事を辞め、まずは市議会議員に立候補する準備を始めます」
「市議?」
「子どもの居場所を自分たちの目で見つけさせる。その意志を遂げるためにはどうすればいいか。私なりに考えた結果です」
「まだまだこの国には課題はたくさんある。子どものために戦うくらい」
「ええ」
 
この会話は、全国児童養護施設協議会などに対する批判が込められていると察せられます。ですから、もし横槍がなければ、こうした会話は存在しなかったかもしれません。
 
芦田愛菜ちゃんの「ポスト」は、安達祐実さんのもとに里子に行くことになりそうだったのですが、最終的に「魔王」に止められます。なぜ「魔王」が止めたかというと、こんなセリフをいいます。
 
「寂しい。お前がいなくなると、俺が寂しいんだ」
 
これはちょっと気恥ずかしいです。今までのストーリーの流れや「魔王」のキャラクターと違う感じがします。
最終的に、「魔王」が「ポスト」の親代わりになるというのがこの物語の結末です。
2人で撮ったプリクラには、「パパ」と「キララ」という名前が入っています。「ポスト」は「キララ」という名前になったのです。
 
「魔王」が「ポスト」の親代わりになるというのは、私はまったく予想していませんでした。これはもしかして、むりにハッピーエンドにするために、予定変更が行われたのではないでしょうか。
私の漠然とした予想では、「コガモの家」にまた新しい子どもが入ってきて、「ポスト」と「魔王」はうわべは互いにいがみあいながらもまた同じような日常を続けていくみたいな結末でした。
 
もし全国児童養護施設協議会などの抗議があったためにストーリーが変わったとすれば残念なことです。
また、「魔王」のキャラクターがちょっといい人になりすぎた気もします。もっと毒を吐くキャラクターであったほうがおもしろくなったはずです。
 
ともかく、児童養護施設の子どもが主人公のドラマが放送されたのは大いに評価するべきことです。
しかし、その一方で、全国児童養護施設協議会などの抗議によってスポンサーが撤退し、今後同様のドラマやノンフィクションがつくりにくくなりました。その点で、全国児童養護施設協議会などは児童養護施設をタブー領域にするという所期の目的を達成したことになり、今後が懸念されます。
 
 
ともかく、今回の騒ぎで、全国児童養護施設協議会などの抗議は不当だと主張するマスコミや有識者がほとんどいなかったことが印象に残りました。
なぜそうなるかというと、子どもを独立した人格として認めていないからです。
子どもを親の付属物とか、児童養護施設の付属物と見なしていると、「このドラマで子どもが傷つく」と児童養護施設が主張すると、反論することができません。
 
子どもを独立した人格と認めないことには根の深い問題があります。
その始まりは、少なくとも1776年の「アメリカ独立宣言」にまでさかのぼれます(ほんとうは文明の始まりまでさかのぼれる理屈です)
 
「アメリカ独立宣言」にはこう書かれています。
 
我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ.
 
「すべての人間」という言葉があるので、これをもって「普遍的人権」といいます。これは1789年の「フランス人権宣言」に引き継がれ、人権思想こそが近代社会の基礎となりました。
 
しかし、「アメリカ独立宣言」の「すべての人間」という言葉には、実は先住民や黒人や女性や子どもは含まれていませんでした。つまり先住民や黒人や女性や子どもは人間以下の存在と見なされていたのです(これは「フランス人権宣言」でも同じです)。当然、選挙権もありません。
ですからこれは、「白人成年男性の支配宣言」とか「先住民、黒人、女性、子どもに対する差別宣言」と称するのが正確です。
これによってアメリカの白人成年男性は先住民の虐殺や黒人奴隷の使役や女性差別を心置きなくできるようになったわけです。
 
「普遍的人権」の内実が実は「差別」であることは、思想の混乱を招いて、それは今も尾を引いています。
 
その後、アメリカでは1920年に女性に選挙権が認められます。黒人については、1965年に投票権法が成立しますが、文盲テストというものが行われ、これによってほとんどの黒人が投票できないのが実情でした。文盲テストが廃止されたのは1971年のようです(先住民の選挙権のことは調べてもわからなかったのですが、黒人と同じ扱いだったのではないかと想像されます)
 
しかし、子どもにはいまだに選挙権が認められていません。
アメリカだけでなく世界中がそうです。
子どもに選挙権を認めない合理的な理由はなにもありません。これは明らかに「差別」です。
 
ことは選挙権だけではありません。子どもの人格を認めない惰性の思考がいまだに続いています。
子どもにも判断力があり、自己決定権があるということを理解していれば、全国児童養護施設協議会などの抗議が不当なものであることはすぐにわかります。
 
今回の「明日、ママがいない」を巡る騒動は、単なるテレビドラマのつくり方の問題ではなく、人権思想の理解度をはかるバロメーターであり、また、子どもを犠牲にしてでも自分の利益をはかろうとするおとなと、子どもの幸せを考えるおとなとの対立でもありました。

3月5日に「明日、ママがいない」の第8話がありました(次回が最終回)
今回は、「ドンキ」のママが「ドンキ」を迎えにきます。しかし、このママは「ドンキ」を幸せにできるとは思えません。
そのとき、第1話で「ポスト」が「ドンキ」に向かって言った「今日、あんたが親を捨てた日にするんだ」という言葉が生きてきます。
 
それから、「魔王」がなぜ刑事を辞めてグループホーム「コガモの家」を始めたかが明らかになります。
「魔王」は児童相談所職員の「アイス」とこんな会話をします。
 
「仕事が生きがいだったんですよね。そのあなたがどうして」
「むなしくなったからだ。人をだまし、傷つけ、果ては殺めてしまう。捕まえてみればどうだ。どんな凶悪犯でも、どこか共通しているものがある」
「それは?」
「顔が浮かばないんだ。愛する人の顔が。衝動的な事件を別にすれば、普通の人間は、愛する人の顔を思い出せれば、思いとどまる。その人を失望させ、傷つけたくない。そう思って、思いとどまれる」
「その顔を子どものうちに見つけてあげるべきだと」
「実の親、里親、両親、教師でもいい」
「愛してくれた人の顔を」
「決して裏切ることのできない顔だ」
 
今回、「魔王」は「ドンキ」のためにとても“いい人”の姿を現します。
 
全国児童養護施設協議会などが「明日、ママがいない」の放送中止を求めたのは、施設長である「魔王」が悪役だったことが大きな理由ではないかと思われました。しかし、このストーリー展開を見ると、放送中止を求めたほんとうの理由は、「魔王」がとても“いい人”だからかもしれないと思えてきました。というのは、「魔王」が“いい人”すぎて、現実の施設長や職員がみんなだめな人間に見えてしまうからです。
 
 
ところで、「発達障害と呼ばないで」(岡田尊司著)という本を読んでいたら、「ホスピタリズム」という言葉が出てきました。昔は心理学の本を読むと、ホスピタリズムという言葉が当たり前のように出てきたものですが、久しぶりに目にしました。いつのまにか死語になっていたのでしょうか。
 
ホスピタリズムというのは、施設病と訳されますが、親から引き離されて病院や施設で育った子どもに身体・知能・情緒の発達に遅れや障害の生じることをいいます。
戦後、孤児院の子どもの死亡率が高いことから、親との関わりが子どもの発達に重要であることが認識されて発見された病気です。
 
ですから、現在の児童養護施設においてもホスピタリズムがあることは当然考えられるわけですし、それをどう克服していくかが児童養護施設における最大の課題であるに違いありません。
 
それを考えると、全国児童養護施設協議会は「明日、ママがいない」の放送中止を求めるのではなく、これを機会に児童養護施設の充実を社会に対して訴えるべきだったでしょう。
 
また、今回の騒動において、マスコミや有識者から児童養護施設の改善をはかるべきだという意見はほとんど出なかったように思います。多くの人の頭にホスピタリズムという言葉がなかったのでしょう。やはりホスピタリズムは死語と化していると思われます。
 
その理由は、「発達障害と呼ばないで」という本から類推することができます。
 
「発達障害と呼ばないで」という本は最初、自閉症やADHD(注意欠陥/多動性障害)などの発達障害が最近増加しているのはなぜかという疑問を提起します。
 
最近、自閉症やADHDなどがよく話題になると感じている人は多いでしょう。「おとなの発達障害」という言葉もよくいわれます。
実際、自閉症やADHDと診断される件数が増え続けているそうです。
自閉症やADHDは主に遺伝要因によって発症するとされる病気です。とすると、その件数が増えるというのはおかしな話です。
 
最近、みんなが自閉症やADHDについての知識を持つようになり、多くの人が医師の診察を求めるようになったので、今まで見逃されていたものが表面化してきたのだということは当然考えられます。しかし、もともと見逃されにくい知的障害を伴う自閉症がイギリスの調査で4年間で35%も増えるなど、実際に増えているというデータがいくつもあるといいます。
 
著者は、自閉症やADHDは遺伝要因だけで発症するのではなく、親の養育態度という環境要因によっても発症するといいます。また、親の養育態度によって発症する「愛着障害」も、自閉症やADHDなどの「発達障害」という診断名がつけられているといいます。
 
つまり、遺伝的要因は今も昔も変わらないが、親の養育態度という環境要因が変化して、「発達障害」と診断される件数が増えているというわけです。
 
では、なぜ「愛着障害」と診断されるべきものが「発達障害」という診断名になってしまっているかというと、親は子どもが「愛着障害」と診断されると、自分の育て方が悪かったということで傷ついてしまいますが、「発達障害」と診断されると親は免責されるので、「発達障害」と診断されるケースが増えているというわけです。
 
「親が悪い」というわけにいかないので、代わりに「子どもが悪い(子どもは「発達障害」だ)」といっているわけです。
 
ホスピタリズムという言葉が死語になったのも、「施設が悪い」というわけにいかないからでしょう。
 
子どものことよりも親や施設が優先されているのが今の世の中です。

全国児童養護施設協議会などがドラマ「明日、ママがいない」の放送中止・内容変更を要求したことに対して、そうした要求は不当であるという世論が高まらないのはなぜなのかということを考えています。
前回の「“親なき子”への差別」という記事では、おとなたちは子どものことを差別していて、施設の子どものことはもっと差別しているのだというふうに書きましたが、それは理由の一部です。今回はほかの理由について書いてみます。
 
児童養護施設は社会のセフティネットのいちばん下のネットです。どうしてもなくては困るものですし、むしろ改善・向上させていかなければなりません。
したがって、いくら全国児童養護施設協議会がけしからんといって、かつての小泉首相みたいに「児童養護施設をぶっこわせ!」と叫ぶわけにはいきません。
つまり、親が子どもを虐待する事件があった場合、そんな親は刑務所に入れてしまえと叫ぶことはできますが、その子どもが児童養護施設で虐待された場合、もう打つ手がないのです。
いや、子どもを“悪い施設”から“よい施設”に移すことはできますが、全国児童養護施設協議会として束になってかかってこられると、どうしようもありません。
もちろん、放送中止の要求は不当だと全国児童養護施設協議会を批判して、一方で養護施設の改善・向上をはかっていけばいいわけですが、このふたつはベクトルがまったく逆ですから、両立させることはむずかしく、世論としては盛り上がらないのかと思われます。
 
それから、慈恵病院、全国児童養護施設協議会、全国里親会というフォーメーションがうまくできていたということが挙げられます。
慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」を運営していて、子どもの命をたいせつにするところというイメージができています。慈恵病院が先頭に立ったことで世の中の人の印象がまったく違ったと思います。
 
それにしても、芦田愛菜ちゃんのあだ名が「ポスト」だということだけで、物語は「こうのとりのゆりかご」とも慈恵病院ともまったく関係ありません。慈恵病院が先頭に立ったのは不思議です。
 
また、日本子ども虐待防止学会も日テレに要望書を送って、ドラマを批判しました。
私は背後で厚生労働省が糸を引いていると思うのですが、これでフォーメーションがさらに強化され、マスコミが批判しにくい状況がつくられたといえるでしょう。
 
 
それから、これがいちばん大きな理由だと思うのですが、この問題は「トラウマ」と関わっています。
 
全国児童養護施設協議会は「放送を見た女子児童が自傷行為をして病院で手当てを受けた」という事例を公表し、全国児童養護施設協議会の藤野興一会長は記者会見で「自殺するものが出たらどうしてくれるんだ!」と語りました。全国児童養護施設協議会の応援団長役を務める水島宏明教授は繰り返し「フラッシュバック」という言葉を使って、ドラマを見たことがきっかけになってリストカットが起きたし、今後も繰り返されるかもしれないと主張しました。
 
「フラッシュバック」「自傷行為」「リストカット」「自殺」という刺激的な言葉の前で、たいていの人は思考停止してしまいます。
なぜ思考停止するかというと、これらの言葉の根底には「トラウマ」があるからです。
とりわけ虐待された子どものトラウマは深刻ですから、多くの人が目をそむけたいという気持ちになるのは当然です。
そのためマスコミも一般の人も反対の論理を組み立てることができず、全国児童養護施設協議会などの主張に流されてしまっているのだと思います。
 
ですから、こういうことについては心理学の専門家などがコメントするといいのですが、日本子ども虐待防止学会が全国児童養護施設協議会側につくように、学会とか業界になにかの力学が働いているのか、専門家のコメントはまったくありません。
トラウマというようなむずかしい問題に、専門家の助けなしに世論が対応できないというのは、ある程度しかたがないかもしれません。
 
しかし、トラウマに対応できていないのは、世論だけでなく全国児童養護施設協議会のほうも同じです。
全国児童養護施設協議会の基本的な言い分は、「ドラマの視聴をきっかけにフラッシュバックが起こり、自傷行為などが生じるので、ドラマの放送はやめてほしい」ということです。
つまりフラッシュバックということを強調しています。
 
ウィキペディアによると、フラッシュバックはこう説明されています。
 
フラッシュバック (flashback) とは、強いトラウマ体験(心的外傷)を受けた場合に、後になってその記憶が、突然かつ非常に鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりする現象。心的外傷後ストレス障害(PTSD)や急性ストレス障害に顕著である。
 
フラッシュバックが起こる根本原因はトラウマの存在です。なにがきっかけで起こるかは人それぞれです。
 
「明日、ママがいない」の第6話では、「ロッカー」がたまたま暴力場面に遭遇したことでフラッシュバックが起こり、自分も暴力をふるってしまいます。
第4話では、「ボンビ」が里親候補の家で食事中に原因不明の失神をします。「ポスト」はその里親候補の家に行き、さらに「ボンビ」の郷里にも行って、その原因を突き止めます。その原因というのは、電気炊飯器からご飯をよそう父親の姿でした。「ボンビ」の亡くなった父親は肉体労働者で、いつもご飯をいっぱいよそっていて、たまたま里親候補の家で同じ場面を見て、フラッシュバックが起こったのです(あとで知ったのですが、意識が飛ぶことはフラッシュバックでなく解離症状というようです)。
 
フラッシュバックを起こすきっかけをすべてなくすということは事実上不可能です。
フラッシュバックのきっかけをなくすことに努めるよりは、トラウマそのものの解消に努めるほうが本筋であることはいうまでもありません。
フラッシュバックが起こっても、それをきっかけにトラウマと向き合えるということもあります。
「明日、ママがいない」にはトラウマをかかえた子どもが出てきますから、それを見て共感し、それが自身のトラウマの解消に役立つこともあります。
 
フラッシュバックばかりを強調する全国児童養護施設協議会は、施設にいる子どものトラウマに向き合っているのかと疑問に思わざるをえません。
 
「明日、ママがいない」は虐待された子どものトラウマを描くドラマです。
全国児童養護施設協議会も一般社会も、虐待された子どものトラウマに向き合うことから逃げていて、そのために「明日、ママがいない」を排除しようとしていると考えると、腑に落ちます。

2月19日に「明日、ママがいない」の第6話の放送がありました。今回は夫婦間のDVと、それによって子どもが受けるトラウマが主に描かれます。こういう題材を扱うことだけでも、このドラマの価値があるというものです。
 
これまでは、全国児童養護施設協議会などが抗議したことを受けて、どうドラマが変わったのかよくわかりませんでした(第1回は「グループホームコガモの家」という看板だったのが、2回目以降は単に「コガモの家」に変わっていましたが)
しかし、今回のシナリオは、抗議を受けて書かれたものだと思います。つまり、抗議に対する返答と思われるセリフがあるのです。
 
「ロッカー」がトラウマが起因することで暴力事件を起こして警察に逮捕され、ほかの子どもたちは「ロッカー」を追い出そうとします。それに対して「魔王」というあだ名の施設長(三上博史)が子どもたちに異例の長ゼリフをしゃべります。全部は書けませんので、印象的な部分だけ抜き出してみます。
 
「お前たちは世間から白い目で見られたくない、そういうふうにおびえているのか。だから、そうなるかもしれない原因になるあいつを排除しよう、そういうことなんだな。だが、それは表面的な考え方じゃないのか。もう一度この状況を胸に入れて、考えることをしなさい」
「世の中がそういう目で見るならば、世の中に向けてあいつはそんな人間じゃないって、なぜ戦おうとしない。あなたたちはあの人のことを知らないんだって、一人一人目を見て伝えようと、そう戦おうとなぜ思わない」
「くさいものに蓋をして、自分とは関係ない、それで終わらせるつもりか。おとなならわかる。おとなの中には価値観が固定され、自分が受け入れられないものすべてを否定し、自分が正しいと声を荒げて攻撃してくる者もいる」
「そんなおとなになったらおしまいだぞ。話し合いすらできないモンスターになる。だが、お前たちは子どもだ。まだ間に合うんだ」
「つまらん偽善者になるな。つまらんおとなになるな。つまらん人間になるな」
「お前たちは傷つけられたんじゃない。磨かれたんだ」
 
このセリフは、全国児童養護施設協議会など抗議してくる勢力に対して半ば向けられたものだと私は思うのですが、どうでしょうか(「魔王」が急にいい人になってしまって違和感はあるのですが)
 
 
ところで、私はこのブログで、慈恵病院・全国児童養護施設協議会・全国里親会が日テレに対して「明日、ママがいない」の放送中止、内容変更、謝罪を要求するのは不当であるということを一貫して主張してきました。こんな要求が通ったら、ドラマだけでなく映画も小説も自由に発表できなくなるので、当たり前のことです。
しかし、一般の人々はこうした不当な要求にほとんど反論しません。
これは一般の人々のほうにも問題があるということです。
どういう問題があるのか、私なりに考えてみました。
 
まず、「明日、ママがいない」は子どもが主人公のドラマです。そのため多くのおとなは自分とは関係ないので、どうでもいいと思っているのでしょう。
 
これは、安倍政権が進める道徳の教科化などの“教育改革”についても同じです。教育がどう変えられてもおとなには関係ないので、安倍政権の“教育改革”についての反対の声はあまり大きくなりません。
 
「おとなさえよければ、子どもはどうなってもいい」というのが、多くのおとなたちの基本的な認識です。
 
それに加えて、「明日、ママがいない」の主人公である子どもは児童養護施設にいる子ども、つまり親から虐待されたり捨てられたりした子どもです。
おとなたちは“普通の子ども”ならある程度共感することができますが、施設にいる“特別な子ども”についてはあまり共感することができません(もちろんこれは表面的な認識だからで、このドラマを見るとか実際に触れ合うとかすれば変わってくるはずです)
 
私は今の社会を、おとなが子どもを差別する社会だと思っているのですが、施設にいる子どもは一般の子どもよりもさらに差別される存在です。
 
たとえば、親が子どもを虐待して、子どもが大ケガをしたという事件が新聞に載ることがあります。その後、親が裁判にかけられ、懲役何年の判決を受けたという記事が載ることはありますが、ケガをした子どもがどうなったかということは決して新聞に載りません。
つまり、実質的に親のいない子は、多くの人にとって“厄介者”で、関心もないし、関わりたくもないのです。
 
昔、福祉制度がろくになかったころ、親が亡くなって孤児になった子どもがいると、親戚の誰かが面倒を見なければなりませんでした。誰も面倒を見たくない場合、親戚同士が互いに“厄介者”を押し付け合って、子どもは親戚の間で“たらい回し”にされるということがありました(連続射殺事件で死刑になった永山則夫の子ども時代もそうです)
この場合、子どもを引き受けている親戚に対して、ほかの親戚は引け目を感じることになります。
 
今、親のいない子どもを“厄介者”と思っている人たちは、その子どもを引き受けてくれている児童養護施設に対して引け目を感じているはずです。
 
野島ドラマは今回、「家なき子」から“親なき子”へと進化しました。「家なき子」も一般の人々から相当な反発を受けましたから、“親なき子”がそれ以上の反発を受けるのは覚悟の上だったでしょう。一方で共感してくれる人もいるので、確実に話題作になります。しかし、慈恵病院・全国児童養護施設協議会・全国里親会が厚生労働省のバックを得て抗議してくるのは誤算でした。
 
慈恵病院・全国児童養護施設協議会・全国里親会の行動に対する批判の声がほとんど出ないのは、多くの人たちが施設の子どもを厄介者と思っているからではないかと思います。
そういう人は、「くさいものに蓋をして、自分とは関係ない、それで終わらせるつもりか」という「魔王」のセリフをかみしめてもらいたいものです。

2月12日にドラマ「明日、ママがいない」の第5回目の放送がありました。
これまでは虐待や里親候補家庭の欺瞞などが主に描かれてきましたが、今回は親子の絆の修復へと、ベクトルが逆になった感じがします。これはクレームがついたための路線変更というよりも、予定の展開ではないかと思います。もともと子どもたちが幸せを求める物語だからです。ただ、刺激的な場面は少なくなった気がします。
 
「明日、ママがいない」のドラマとして出来のよし悪しについては、人によって評価が違って当然です。ただ、それは今回の騒動とは関係ありません。
全国児童養護施設協議会(全養協)などがドラマの放送中止、内容変更、謝罪などを要求したのは正当か否かというのが問題の本質です。
 
ネットの世界には、“マスゴミ”はとにかく批判したいという人がいるので、そういう人は全養協に便乗して日テレ批判をするでしょうが、一般の人は全養協の主張をおかしいと思う人が多いのではないでしょうか。
 
全養協は日テレに対して「公共の場での謝罪」を要求しましたが、これについて「ヤフー意識調査」が行われています。
 
意識調査「明日ママ」公の場での謝罪は必要?
 
現時点の結果は、
「必要ない」71.1%
「必要ある」23.1%
「分からない/どちらともいえない」5.8%
となっていて、全養協の謝罪要求には否定的です。
 
しかし、私は新聞の社説や論説委員のコラムなどが全養協を批判するのを見たことがありませんし、有識者や評論家などで全養協を批判する人も見たことがありません。
芸能人などで「明日、ママがいない」を擁護する人はいますが、必ずしも全養協側を批判しているわけではありません。
 
その結果、全養協、全国里親会、慈恵病院は無人の野を行くがごとくになっています。
 
たとえば、全養協は次のようなプレスリリースを発表しています。
 
「明日、ママがいない」の放送内容について
児童養護施設で生活する子どもたちを傷つけ、
誤解や偏見を生むことを、私たちは強く危惧しています。
 
その中にこんな言葉があります。
 
施設長や職員が、こうした暴言を子どもたちに言うことは、決してありません。
 
施設長や職員が、暴力や暴言で子どもたちの恐怖心を煽り、支配・従属させることはありません。
 
田村憲久厚生労働相も「現場でも年間数十例の虐待事案がある」と国会答弁で語っていますから、これは明らかに事実に反します。
“児童養護施設健全神話”みたいなものをでっち上げて、それを前提に抗議しているわけです。
しかし、こうしたことも批判されていないようです。
 
なぜマスコミや有識者が全養協側を批判できないかというと、人権というものを理解していないからです。
 
施設の子どもの人権をもっとも侵害しているのは全養協自身です。たとえば全養協は施設の子どもを調査して、「明日、ママがいない」を視聴したあと自傷行為に及んで病院で治療を受けた子どもがいるなどの結果を発表しました。
 
「明日、ママがいない」の放送内容について
施設の子どもたちを、これ以上傷つけないでください
 
しかし、この調査は、「都道府県の本会役員に対しアンケートを実施しました」というもので、子どもに直接行ったものではありません。しかも、これはマイナスの反応ばかりが紹介されて、「おもしろかった」とか「共感した」というプラスの反応については紹介されていません。
 
さらに問題なのは、子どもは放送中止についてどう考えているかという「意見」についての調査が行われていないことです。
 
子どもの権利条約は、「子どもの意見表明権」を規定していますし、「表現の自由」も有するとしています。
 
「児童の権利に関する条約
12
 
1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
 
2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。
 
13
 
1 児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
 
2 1の権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。
a) 他の者の権利又は信用の尊重
b) 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護
 
第1回の放送直後に子どもの意見を集約できなかったのは仕方がないとして、そのあとまったく子どもの意見を聞いていないのは子どもの権利を無視しているといわざるをえません。
 
普通は放送中止に賛成する子どもがいるとは考えにくいことです。いやなら自分が見なければいいだけだからです。ただ、全養協がいうには、クラスメートから「ポスト」と呼ばれるなどして傷つく子どもがいるということなので、そういう子どもは放送中止を望むかもしれません。
 
もし多くの子どもが放送中止を望んでいて、全養協がそうした子どもの意見をバックに日テレに放送中止や内容変更を要求してきたなら、それに対して批判しにくいのは当然です。
しかし、もし多くの子どもが放送継続を望んでいて、全養協がそうした子どもの意見を無視して要求してきたなら、これは子どもの見る権利を侵害するもので、全養協の不当性は明らかです。
 
現実には、全養協は子どもの意見を調査していないので、どちらかわかりません。しかし、子どもの意見を調査しないこと自体、子どもの意見表明権を侵害するものです。
児童養護施設が舞台のドラマが放送されるか否かは、「その児童に影響を及ぼすすべての事項」に含まれることは明らかで、これについて子どもは意見表明権があります。
 
「子どもの人権」をまったく無視してテレビ局に要求する全養協と、それをまったく批判することができないマスコミや有識者。
人権小国日本の情けない姿です。

ドラマ「明日、ママがいない」について、全国児童養護施設協議会は2月5日に記者会見を開き、日本テレビに対して、「文書ではすまない。公共の場で謝罪してほしい」と主張しました。これは子どもが傷ついているからなんとかしてほしいという当初の要望からずれています。要はメディアを萎縮させて、二度と児童養護施設を題材にしたドラマをつくらせない、つまり児童養護施設をアンタッチャブルな領域にしてしまおうという狙いでしょう。
 
そもそもドラマにクレームをつけるというのが異例です。ハリウッド映画ではいつもイスラム教徒やアラブ人が悪役のテロリストとして描かれるので、イスラム教徒やアラブ人はクレームをつけたいでしょうが、フィクションなのでそういうわけにいきません。
 
ただ、事実に重要な間違いがある場合は、フィクションでもクレームのつく場合があります。たとえば、ドラマなどで刑事が図書館を訪ねて、図書館員から利用者の貸出履歴を聞き出すというシーンがある場合、日本図書館協会はそのつどクレームをつけていますし、テレビ局もたいてい訂正や謝罪をしています。貸出履歴を見れば、その人の思想信条がわかってしまいますから、令状なしにそれを教えることはありえないわけで、誤解が広がると図書館にとっても利用者にとっても困りますから、こうした場合のクレームは当然といえるでしょう。
 
しかし、全国児童養護施設協議会などはそうした事実の間違いを指摘しているわけではありません。あくまで「子どもが傷つく」からよくないという理屈です。
 
そうすると、「子どもが傷つく」か否かの基準はなにかということになりますが、客観的な基準はなく、子どもの反応を見るしかありません。しかし、養護施設にいる子どもは養護施設の管理下にあるわけですから、結局、養護施設側が「子どもが傷つく」といえば、誰も反論できません。
ということは今後、児童養護施設側の意向に反したものは、ドラマであれノンフィクションであれ、放送できないということになります(クレームをつけられるとスポンサーが撤退してしまうので)
 
ところで、全国里親会というのも、「明日、ママがいない」へのクレームに一枚かんでいます。YouTubeで1月21日の記者会見の映像を見ていたら、全国里親会の星野崇会長という人がひどいことをいっていました。その部分を書き起こしてみます。
 
【芦田愛菜】全国児童養護施設協議会記者会見
 
 
 
人間は犬ではありません。小動物といっしょくたにするっていうことを子どもに教えちゃいけないんですね。ところが、このドラマは率先してそれを教えている。私ははっきりいって、主演した芦田愛菜ちゃんがかわいそうですね。彼女は9歳半にして、こういう思想を植え付けられてしまっているんですね。
これがどんどんどんどん周りに広がっていってしまうっていうことは、人間の尊厳っていうものを無視する、メディアそのものが人間を無視する方向に動いているなということで、激しい憤りを感じております。
 
新聞記事は要約になっていますから、そんなひどい感じはしませんが、こうして読むと無茶苦茶なことをいっています。
 
人間を犬にたとえるのは、ドラマの登場人物のセリフです。ドラマがそれを教えているわけではありません。星野会長は、ドラマの特定のセリフをとらえて、それをドラマの主張と勘違いしているのです。
 
また、芦田愛菜ちゃんはあくまで演技をしているので、なにかの思想を植え付けられているわけではありません。
小さい子どもが見れば、演技する芦田愛菜ちゃんと実際の芦田愛菜ちゃんと区別がつかないということがあるかもしれませんが、立派なおとなである星野会長がそんな間違いをしているのです(「思想を植え付けられている」などということこそ芦田愛菜ちゃんを「傷つける」行為です)
 
あとで記者が「人間を犬にたとえるのは、フィクションであるし、肯定的ではなく、やっちゃいけないことだよねっていうことではないか」ということを質問しますが、それに対して全国児童養護施設協議会の副会長が「おとなならフィクションとわかるが、子どもはそういう判断ができないので、そのまま信じてしまう」というふうに回答します。
まさに「空白の石版」理論です。
 
ともかく、ドラマも演技も理解できない人間が記者会見でそのバカバカしい見解を披露して、それをそのまま通しているのですから、マスコミもだめになったものです。
 
もっとも、YouTubeのコメント欄には、星野会長も全国児童養護施設協議会の藤野会長も態度が悪いといったコメントが並んでいます。
 
 
ところで、こんな人間が会長をしている全国里親会とはなにかというと、れっきとした公益財団法人です。
星野会長自身ももちろん里親で、「私も16人ぐらい今まで経験があるんですけども」と語っています。
16人も里子を取ったというのも驚きです。十分に世話できるのだろうかと思ってしまいます。
 
里親制度というのもアンタッチャブルな領域です。
里親には里親手当が支払われますが、これがかなりの額になるようです。
 
里親支援Webサイト 4.里親への手当て等
 
1人当たり年間200万円支払われるという説もあります。
16人里子がいたとなると、1人10年としても、3億2000万円ということになります(2人目からは減額されますから、そうはなりませんが、1人10年以上ということは十分に考えられます)。すごい里子ビジネスです。
 
野田聖子衆議院議員は里子をもらうことを望んだのに叶わず、結局卵子提供による人工授精を選んだということで、里親になる道はかなり狭いようです。その一方で、星野会長のように16人も里子を取っている人がいるということは、一部の人が独占しているということでしょうか。
 
私は基本的に、児童養護施設で子どもが十分な世話を受けていないと思っているのですが、里親も同じようなものかもしれません。
星野会長のような子ども観を持っている親がまともな里親になれるとは思えません。
 
里親制度の実態について書かれたサイトを紹介しておきます。
 
里親家庭を「家」と呼ばないで
 
里親から里子への児童虐待~搾取される子供たち~
 
実際の里親制度がどのようなものであるかは、星野会長のような里親側からではなく、里子側から見ないとわかりません。
同様に、児童養護施設がどのようなものであるかも、施設側からではなくそこの子どもの側から見ないとわかりません。
「明日、ママがいない」は子ども目線のドラマであるゆえに、おとなたちから攻撃されるのでしょう。
 
 

日本テレビは2月4日、全国児童養護施設協議会に対して、「明日、ママがいない」の内容変更計画を記した文書を手渡しました。ドラマに圧力がかかって改変を余儀なくされるとは前代未聞のことではないでしょうか。なぜこんなことになってしまったのか、出発点にさかのぼって考えてみました。
 
熊本県の慈恵病院が「明日、ママがいない」の放送に抗議し、放送中止を訴えて放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会に審査を求めたことがそもそもの発端でした。
慈恵病院は「赤ちゃんポスト」(正式名は「こうのとりのゆりかご」)を運営しているところです。慈恵病院は2007年に「赤ちゃんポスト」の運営を開始しましたが、当時はかなり反対の意見が強かったことを覚えています。第一次安倍政権のときの安倍首相も、「『ポスト』という名前に大変抵抗を感じる。親として責任をもって産むことが大切だ」というコメントをしています。
そうした反対を押し切って「赤ちゃんポスト」の運営をしてきたということは、慈恵病院は赤ちゃんの命を守ることに相当に強い信念を持っているということでしょう。その慈恵病院が「明日、ママがいない」に抗議したということで、その言い分にそれなりの信ぴょう性がありました。ドラマの初回の視聴率は14%ですから、ほとんどの人は見ないで判断したわけです。そのためひとつの流れができてしまったように思われます。
 
慈恵病院はフランシスコ修道会によって創設され、理念は「キリストの愛と献身の精神を信条とします」ということです。
病院のホームページには、「明日、ママがいない」についての病院の見解がひじょうにていねいに説明されています。
 
現在放送中の「明日、ママがいない」放送に当たりまして
 
しかし、それを読むと、やはり認識に致命的な問題のあることがわかります。
 
たとえば、子どもに「ポスト」「ロッカー」「ドンキ」などのあだ名がついているのがよくないといいます。しかし、これは前にも指摘しましたが、「ポスト」という名前は本人が受け入れているのです。なぜ本人がよしとしていることを慈恵病院はいけないというのでしょうか。
つまり慈恵病院は、「子どもの意志」というものがまったく眼中にないのです。
 
これはあらゆるところに見られます。
「魔王」というあだ名の施設長が子どもにさまざまな暴言を吐くのは子どもが傷つくのでよくないといいます。
たとえば、施設長が「イヌだって、お手くらいの芸はできる。分かったら泣け」というシーンについてこのように書いています。
 
このような発言は施設の子や里子の名誉を傷つけるものです。「施設では泣く練習をさせられるの?」という質問だけでも、子どもは傷つきます。
 
ドラマの中での発言が現実の子どもを傷つけるかというと疑問があります。むしろドラマの中の子どもが傷つくのを見て、自分にも同じことがあったと共感して、救われることも多いでしょう。それに、『「施設では泣く練習をさせられるの?」という質問だけでも、子どもは傷つきます』というのも一方的な決めつけです。「施設では泣く練習をさせられるの?」という言葉から会話が始まって、施設がどんなところであるかを友だちにわかってもらえるということも十分に考えられます。
 
「子どもが傷つく」という言葉がまるで水戸黄門の印籠のように使われています。
 
確かにいろいろなことで子どもは傷つきますが、子どもはそれに対処する能力も持っています。傷つける相手に反抗したり、傷つけられた者同士で慰め合ったりします。
そのように能動的に行動する子どもの姿を描くのが「明日、ママがいない」というドラマです。
ところが慈恵病院は子どもが傷つくか否かというところしか見ていないのです。
 
ここには大きな子ども観の対立があると思われます。
 
従来の子ども観は、子どもはおとなによって教育されることで初めて人間となるというものです。この考え方は「空白の石版」(ラテン語のタブラ・ラーサ)という言葉で表されます。つまり、子どもは白紙の状態で、おとなが自由に書き込めるものだというわけです。
この考えだと、子どもの個性も能力の差もありません。教室でなにを教えるかは大人の自由です。現在の教育はこの考えで営まれています。
 
それに対して、子どもは生まれつき学習能力を持っていて、その学習の方向性も決まっているという考え方があります。これは認知科学や脳科学や発達心理学や進化生物学などによって次第に確立されてきたものです。
 
「客体としての子ども」対「主体としての子ども」というとわかりやすいでしょう。
 
これについてはこの本が参考になります。
 
人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か ()スティーブン・ピンカー著 (NHKブックス)
内容(「BOOK」データベースより)
人の心は「空白の石版」であり、すべては環境によって書き込まれる。これは、二〇世紀の人文・社会系科学の公式理論であり、反対意見は差別や不平等につながるとして、今なおタブー視される。世界的な認知科学者が、人の心や行動の基礎には生得的なものがあることを最新科学で明かし、人間の本性をめぐる科学が、道徳的・感情的・政治的にいかにゆがめられているかを探究する。米国で大反響のベストセラー、待望の翻訳。
 
また、子どもの権利条約も、おとなによって保護されるだけの子どもから「権利の主体としての子ども」へと子ども観の転換をしています。
 
このドラマは「ポスト」が主人公で、仲間の傷ついた子どもを助けたりして活躍する物語ですが、慈恵病院のサイトにはそういう部分についての言及がまったくありません。つまり、慈恵病院の人の目には、子どもの受身の部分だけが見えて、子どもが主体的、能動的に行動する部分は見えないのでしょう。これではドラマを見ていることにはなりません。ですから、「明日、ママがいない」というドラマについての全体的な評価がありません。
本来なら、「赤ちゃんポスト」出身の子どもが主人公として活躍するドラマですから、細かいところに注文はつけても、全体としては積極的に評価していいはずです。
 
また、施設の子がドラマを見る場合も、ただ傷つくだけでなく、ドラマに共感したり、反発したり、批判したりすることによって得ることも多いはずですが、慈恵病院の人の目にはそうした能動的な面もまったく見えていません。
 
さらにいうと、施設の子どもがテレビを見る場合、自分でチャンネルを選ぶことも、見ないでいることもできるはずです。ですから、もし自分が傷つくようなドラマなら、子どもはすぐに見るのをやめるでしょう。
ですから、慈恵病院の放送中止という要求は、子どもにとって大きなお世話です。
世間が勘違いするということはあるかもしれませんが、世間はなにかにつけて勘違いするものですし、子どもはその勘違いを正していく可能性も持っています。
 
ちなみに、青少年の健全な育成のために「有害図書」を規制すべきだという議論も、青少年は自分で選ぶ能力もなく、「有害図書」を見たらそのまま受け入れてしまうだろうという前提に立っています。
 
ともかく、慈恵病院は古い子ども観に立って、子どもの能動的、主体的な面を無視して「明日、ママがいない」を評価し、ドラマの放送中止、内容改編という、してはならない要求をしました。
慈恵病院は社会的な評価が高いために、世論をミスリードした面があることは否めません。
 
TBSは昨年、「こうのとりのゆりかご~『赤ちゃんポスト』の6年間と救われた92の命の未来」というドラマを放送しました。これはフィクションという形をとりながら慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」を描いたもので、ドラマの制作過程では当然ながら慈恵病院も関与し、さまざまな要求をしました。
しかし、「明日、ママがいない」は慈恵病院をモデルにしたものではありません。ここに要求するのは、TBSドラマのときの連想が働いたのかもしれませんが、筋違いというべきです。
 
慈恵病院は赤ちゃんの命は救いますが、そのあと育てたり、教育したりするところではありません。専門でないところに口を出したのは残念でした。 

日本テレビはドラマ「明日、ママがいない」について、ドラマの内容に抗議していた全国児童養護施設協議会に対して、後半のドラマ内容を改善すると伝えました。改善の内容は2月4日までに文書で回答するということです。
“改善”というのは、毒にも薬にもならない方向に変えるに決まっています。それでは確実に感動がそがれてしまいます。
 
こんなことでドラマが変えられてしまうとすれば、今後ドラマに限らず映画、小説なども自由につくれないということになりかねません。日本テレビの対応は残念ですし、全国児童養護施設協議会に同調して日本テレビを批判している人たちも残念です。
 
親に捨てられたり虐待されたりした子どもたちが、児童養護施設を舞台に、互いに助け合って、幸せになるために奮闘するというドラマが「明日、ママがいない」です。施設の子どもが主人公のドラマを施設のおとなたちがつぶそうとしているのが今回の騒動の本質です。
 
施設がその施設の子どもの味方かというと、そうとは限らないというのが現実です。これは学校がそこの生徒の味方とは限らないのといっしょです。
イジメ事件や体罰事件が起こるたびに、学校(教師)や教育委員会が隠蔽や責任逃れをしてきたことは誰もが知っているはずです。児童養護施設は例外だと思っている人がいれば、それはよほどおめでたい人です。
 
施設の側に立つか、施設の子どもの側に立つか、それによって判断はまったく変わってきます。
そして、マスコミは明らかに施設の側に立っています。
もちろん例外もあります。たまたま今日届いた「選択」1月号の「マスコミ業界ばなし」は、慈恵病院がBPOの放送人権委員会に審査を求めたことについて、フィクションであるドラマが審査に持ち込まれることは異例だと指摘したあと、こう書いています。
 
一方でこんな声もある。「養護施設の職員による児童への虐待や性暴力は枚挙に暇がない。現実はドラマよりも奇なり、だ」(教育関係者)。「施設をタブーにすることで、自分たちへの今後の批判を封じる狙いもみえる」(施設元理事長)。さらには「朝日や毎日は、この件が表現の自由に対する重大な挑戦だという認識がないのか」(新聞OB)との疑問も。人権栄えて国滅ぶ。新聞が、暗い時代へ逆戻りさせようとしている。
 
この文章が問題の構図を的確に捉えています。
ただ、「人権栄えて国滅ぶ」というくだりは違うと思います。逆に人権に対する無知が問題を引き起こしているというべきです。
 
日本も批准している子どもの権利条約は、子どもを「権利の主体」ととらえるもので、「子どもの意見表明権」も規定しています。
ところが、慈恵病院、全国児童養護施設協議会、全国里親会は「子どもの意見表明権」をまったく無視して、自分たちが子どもの代弁者として行動しています。
たとえば全国児童養護施設協議会の次のマスコミ発表は、まったく子どもを無視したものです。
 
「明日ママ」つらい思い15件、日テレ、協議会と面会へ
 児童養護施設を舞台にした日本テレビ系ドラマ「明日、ママがいない」をめぐり、全国児童養護施設協議会は29日、「同級生から(主人公のあだ名で、赤ちゃんポストを意味する)ポストと呼ばれるなど、ドラマのために子どもがつらい思いをした事例が15件ある」と公表した。
 
 協議会は同日、ドラマの内容改善を求める2度目の抗議文を日テレに送付。同局は「30日に番組責任者が直接お目にかかり、誠意を持ってお話をさせていただく」などとコメントを発表した。
 
 協議会は初回放送後の17日から、全国の施設長ら役員67人に対し、ドラマの影響や子どもたちの感想を報告するよう求めている。27日までに109件が寄せられ、このうち施設の女の子が同級生に「ポスト」と何度も呼ばれたケースや、同級生の男子グループから「おまえもどこかにもらわれるんだろ」などとからかわれたケースなど、子どもがつらい思いをした事例が15件あったという。
 
 残り94件は、「気にならない」「あり得ない設定」「面白いけど、ちょっと嫌な気持ちがした」といった感想や、ドラマが原因と明確に判断できないケースなどとしている。
 
 協議会は15件のうちの1件として、第2話の放送後に自傷行為をし、病院で治療を受けた子どもがいることも明かした。同協議会の武藤素明副会長は「子どもは最近、落ち着いていた。職員が視聴を止めなかったのは、大勢の子どもがテレビを見ている中、1人だけ制限するのが難しかったためだ」と話している。
 
 日テレに抗議している熊本市の慈恵病院は29日、170件の賛同や非難の声が病院に寄せられ、誤解にもとづく批判もあったとして、「改めて考えを知っていただきたい」と見解をホームページで公表した。
 
この記事を漫然と読むと、全国児童養護施設協議会が広範囲にアンケート調査を実施したと思うかもしれません。しかし、実際は、役員67人に子どもたちの感想を報告させたものです。つまり、子どもたちの感想そのものが客観的に提示されているわけではありません。こういうところに「子どもの意見表明権」をないがしろにしていることが表れています。
また、児童養護施設は全国に600近くあるということで、67人の役員がカバーできるのはその一部ですし、しかも役員という立場から組織防衛というバイアスがかかっていることは十分に考えられます。
このようないい加減な調査をもとにテレビ局に要望を突きつけるのはまともなこととは思えません。
 
また、協議会はこのようなこともいっています。
 
 協議会は20日に抗議書を送付したが、22日の第2回放送でも子どもをペットと同列に扱い、恐怖心で子どもを支配するなどの表現が多く見られたと指摘。抗議書では「子どもたちを苦しめる事例が報告されている。人権に配慮した番組内容に改善するよう要請する」とし、2月4日までに文書で回答するよう求める。
 
これは「魔王」というあだ名の施設長の言動を指しているものと思われます。
たとえば第2話では、「魔王」が「パチ」という小さな男の子に「お前はかわいいトイプードルだ。ほれ、お手でもしてみろ」といいます。
その「魔王」を「ポスト」(芦田愛菜ちゃん)がにらみつけると、「魔王」は「ポスト」に対して、「なんだ、その目つきは。母犬にでもなったつもりか」といいます。
「魔王」はそうした会話の途中で、持っている杖で床を突いて音を立て、子どもたちを脅したりもします。
 
こうした場面は確かに、「子どもをペットと同列に扱い、恐怖心で子どもを支配するなどの表現」と指摘できるところです。ところが子どもたちは、それに屈することなく、互いに助け合って生きていくわけで、そういう子どもたちの姿を描くのがこのドラマの主眼です。
施設の子どもたちはきびしい現実を生きています。「魔王」という施設長はそのきびしい現実の象徴でもあります。主人公はそうしたきびしさを乗り越えていくからこそドラマになるのです。
 
それに、「魔王」は単純に悪い男ではありません。「パチ」はシャンプーボトルをつねに肌身離さず持っています。それは実の母の匂いがする唯一の思い出の品なのです。しかし、「パチ」は里親候補の家に行ったとき、そこの母親にシャンプーボトルをむりやり捨てられてしまい、傷ついて施設に戻ってきます。しかし、「魔王」はこっそりとゴミ置き場からシャンプーボトルを拾ってきていたのです。
「魔王」はいったいどのような人間なのかということも、連続ドラマのおもしろさになっています。
 
協議会の人たちは「魔王」をただの「恐怖心で子どもを支配する」人間にしか見えないのでしょうか。ドラマを理解する能力もなしにテレビ局に抗議するとは笑止千万です。
 
協議会の人たちは、施設長や職員はみな子どもをたいせつにし、子どもたちはその愛情をいっぱいに受けて、毎日笑顔ですくすくと育っていますというような、社会主義国のプロパガンダみたいなドラマを望んでいるのでしょうか。
 
ともかく、こんないい加減な抗議を受け入れていたらそのうち、トウシューズに画鋲が入っていたという場面は子どもが傷つくのでやめてほしいと、子どもバレエ教室から抗議されて受け入れるハメになるかもしれません。
 
今回、「明日、ママがいない」というドラマを巡って、なぜこんなバカバカしい展開になっているかというと、全国児童養護施設協議会もマスコミも一般の人も、子どもの権利条約でも認められた「権利の主体としての子ども」ということを理解していないからです。
とりわけマスコミは、子どもの人権を尊重するのか、全国児童養護施設協議会の言い分を尊重するのか、判断する力を持たねばなりません。

日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」の第3話が1月29日に放映されましたが、番組提供のスポンサー8社はすべてCMを自粛したということです(番組提供ではないのか、数社のCMは見られました)。最後まで放映されるか危ぶまれますし、あだ名で呼ぶシーンを少なくするなど、ドラマの内容が変更されるという話もあります。
これはまさに表現の自由の侵害であり、知る権利の侵害です。特定秘密保護法に反対した人たちがここで黙っているとすれば、おかしな話です。
 
それにしても、児童養護施設側の手口は悪質というしかありません。
 
「明日ママ」見て女児が自傷行為か
 全国児童養護施設協議会は29日、日本テレビの連続ドラマ「明日、ママがいない」の放送を見た児童が不安を訴えるなど実際に悪影響が出ているとして、新たな抗議書を日テレに送った。
 
 協議会によると、放送を見た女子児童が自傷行為をして病院で手当てを受けたり、別の児童がクラスメートから「どこかにもらわれるんだろ」とからかわれたりした。
 
 協議会は20日に抗議書を送付したが、22日の第2回放送でも子どもをペットと同列に扱い、恐怖心で子どもを支配するなどの表現が多く見られたと指摘。抗議書では「子どもたちを苦しめる事例が報告されている。人権に配慮した番組内容に改善するよう要請する」とし、2月4日までに文書で回答するよう求める。
 
 
これを読むと、女子児童が自傷行為をしたのはドラマを見たからだといわんばかりですが、施設の人間がほんとうにそんな決めつけをしていたら、その人間は児童の心理がわかっていないといわざるをえません。
 
そもそも児童養護施設がそこにいる児童の代弁者や代理人のようにふるまうことが根本的に間違っています。
これは老人ホームがそこにいる老人の代弁者や代理人になれるかを考えてみればわかるでしょう。
 
老人ホームでは、しばしば高齢者虐待が発覚して問題になります。虐待はしないまでも、十分なサービスや介護がなされていない施設はいっぱいあります。
有料老人ホームの場合は、入所者やその家族はさまざまな施設を見比べて、いいと判断したところに入所するわけですが、それでもサービスが悪いとか、職員の態度が悪いとか、虐待があるなどの問題が出てきます。
児童養護施設の場合は、実質的に子どもは選べないわけですから、もっと問題があっておかしくありません。発覚しない虐待はいっぱいあるはずです(普通の家庭にもあるわけですから)
 
そういうことを考えれば、児童養護施設は子どもの代弁をする資格がないどころか、むしろ子どもと利益相反関係にあるとさえいえるでしょう。
つまり、児童養護施設にとって都合のよい子どもは、虐待や手抜きのケアでも文句をいわない子どもです。
子どもが主体性を持って意見を表明するようになると施設は困るでしょう。
 
そういうことを考えると、児童養護施設協議会が「明日、ママがいない」の番組つぶしを狙うのは、ある意味合理的な行動でもあります。
というのは、「明日、ママがいない」は、子どもが主人公で、子ども目線から子どもやおとなを描くドラマだからです。
 
子ども目線からおとなを見るとどうなるでしょう。当然、「よいおとな」と「悪いおとな」がいます。そして、「よい施設」と「悪い施設」も見えるでしょう(このドラマにはひとつの施設しか出てきませんが、施設の子が見ると比べることができます)
 
今回の第3話には、「魔王」というあだ名の三上博史扮する施設長が子どもに対して「出ていけ!」とどなります。児童養護施設協議会はそんなことはありえないというのかもしれませんが、絶対にないとはいえません。いや、感情に任せて「出ていけ!」とどなってしまうのは、むしろ十分にありそうなことです。
理想的な施設しかドラマに登場させてはいけないとなれば、まともなドラマはつくれません。
 
日本では精神病院の出てくるドラマや映画はめったにありません。外国では、「カッコーの巣の上で」みたいな社会派映画だけでなく、精神病院を舞台にしたB級ホラーもいっぱいあります。
このままでは日本では児童養護施設を舞台にしたドラマや映画はつくれないということになってしまいます。
 
ともかく、施設と子どもは利益相反関係にあるということを認識しないと、この「明日、ママがいない」というドラマを巡る問題を正しく理解することができません。
ほんとうは施設の子どもの意見がどんどん出てくるといいのですが、今の世の中はそういうふうになっていません。
ただ、施設出身者の意見は出てくるので、こうした記事もあります。
 
『明日、ママがいない』 施設出身者から劇中の子供に共感も
 ドラマ『明日、ママがいない』(日本テレビ系)は児童養護施設を舞台に、子供目線で描かれているが、初回放送時から存続が危ぶまれるほどの賛否が巻き起こっている。
 
 熊本市の慈恵病院の蓮田太二院長は「養護施設の子供や職員への誤解、偏見を与え、人権侵害だ」と厳しく批判した。
 
 児童養護施設の出身者に取材すると、実際の施設とはほとんど異なる設定だとの声が多数上がる一方で、施設出身者たちの間では劇中の子供たちの目線には共感できるという意見は少なくない。
 
<実際と違うところがあるけれど、里親のことをママと呼べないのは、本当のことです。他にもお金持ちのところへひきとってもらいたいのも本当です>
 
<ドラマに出てくる子役達の演技を見て共感できる部分があって昔の自分と重なって見えました。本当に感動しました>
 
 同ドラマのホームページには施設出身者という視聴者からこんな書き込みが寄せられているが、その点に関して、名古屋市内の児童養護施設に勤務した経験を持ち、現在は、教員や施設職員、地域ボランティアと連携し、障がい児や児童養護施設・里親・ファミリーホームなどの支援を行うNPO法人「こどもサポートネットあいち」の理事長・長谷川眞人さんは言う。
 
「施設で育った子供たちの感想は、私と違ってドラマに出てくる子供たちに賛同していました。自分たちも入所した当時、施設の職員に気を使ったり、顔色をうかがったりしたことがあるから、理解できるそうです」
 
 施設出身者や里子など社会的養護の当事者が、互いに支え合い、当事者の声を発信する『日向ぼっこ』の代表理事を務める渡井隆行さんも、施設での生活をこう振り返った。
 
「施設での生活は慣れない間は怖かったですよ。何も理解できないまま“ここで暮らすんだよ”と言われるままに連れて行かれましたから。ドラマでの“新人”真希と同じで、DVの環境の中で育ってきたあの子は、その環境が当たり前で、お母さんが好きだから帰りたいと思って、まさに同じ気持ちでした。
 
 あとドラマでも描かれていましたが、子供ってすごい大人を見ていて、職員のことも品定めしてるんですよ。この人は信用できるのかって。例えば、短大卒の20才の人が職員で入ってきたら、“子育て経験も一人暮らしの経験もないのに、何をぼくたちに教えてくれるのかな?”って。親と離れて暮らしてきたぼくたちは今も昔も生きるのに必死なんですよ」
 
※女性セブン201426日号
 
 
日本テレビは全国児童養護施設協議会がこのように強硬に番組つぶしに出てくるのは誤算だったでしょうが、理不尽な圧力に屈せずに筋を貫いてほしいと思います。

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