村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」が施設の子どもへの偏見や差別を生むとして抗議の声が上がり、放送を中止するべきか否かが議論になっています。
 
このドラマは脚本監修が野島伸司、脚本が松田沙也です。私が野島伸司という名前で思い出すのは「家なき子」です。大ヒットドラマだったので、私は数回見たことがありますが、そのとき、現代にこんなことはありえないと思いました。安達祐実さん演じる小学生の主人公は、公園だか空き地だかに置かれた土管の中で寝泊りをしているのですが、戦前や終戦直後ならありえても、今の時代なら福祉の網に引っかかるはずです。
今回は児童養護施設を舞台にしたドラマだというので、また福祉制度について時代錯誤の設定になっているのではないかと想像しました。
 
しかし、ドラマを見ないことにはなにもいえません。そうしたところ、火曜日深夜に第1話の再放送があったので録画し、水曜日に放映された第2話と続けて見ることができました。
というわけで、このドラマが放送中止しなければならないほど問題があるのかどうか、自分なりに判断したことを書いてみます。
 
ことの発端は、熊本市の慈恵病院が開いた記者会見でした。
 
 
ドラマ「赤ちゃんポスト」でBPOに申し立て
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日本テレビ系列で放送されているドラマの中で、いわゆる「赤ちゃんポスト」に預けられていた子どもを「ポスト」と呼ぶなどの内容が、児童養護施設で暮らす子どもたちを傷つけるおそれがあるとして、熊本市の病院がBPO=放送倫理・番組向上機構に、こうした表現をやめるよう求める審議の申し立てを行いました。
 
日本テレビ系列で放送されている「明日、ママがいない」というドラマでは、主人公の女の子が、いわゆる「赤ちゃんポスト」に預けられていたことを理由に、「ポスト」というあだ名で呼ばれています。
熊本市で「赤ちゃんポスト」を運用する慈恵病院は、こうした内容やドラマでの施設の職員の対応が、児童養護施設の子どもや職員などを傷つけるおそれがあるとして、BPO=放送倫理・番組向上機構の放送人権委員会に、こうした表現をやめるよう求める審議の申し立てを行いました。
慈恵病院の蓮田健産婦人科部長は記者会見し、「ドラマの内容はフィクションであったとしても子どもを傷つける可能性があり、改めてほしい」と述べました。
一方、日本テレビは、「当社としてコメントする段階ではないと考えております」とするコメントを出しました。
 
 
第1話の前半に、グループホーム「コガモの家」というのが出てきます。ここが物語の舞台ですが、昔風の孤児院のイメージというのでしょうか。モグリというか、無認可の施設の雰囲気が漂っています。
 
しかし、ウィキペディアの「児童養護施設」の項目を見ると、こういう記述がありました。
 
グループホーム(地域小規模児童養護施設)
2000年から制度化されたもので、原則として定員6名である。本体の児童養護施設とは別の場所に、既存の住宅等を活用して行う。大舎制の施設では得ることの出来ない生活技術を身につけることができ、また家庭的な雰囲気における生活体験や地域社会との密接な関わりなど豊かな生活体験を営むことができる。2009年度は全国で190箇所(1施設で複数設置を含む)
 
ですから、グループホーム「コガモの家」の設定はそんなにおかしくないようです。
 
ただ、施設長(三上博史)が杖をついて足を引きずって歩く不気味な雰囲気の男で、いきなり子どもの頭をバシッとたたいたり、「お前たちはペットショップの犬と同じだ」などと暴言を吐いたりします。また、子どもに水の入ったバケツを持って立たせるという体罰もします。このあたりが施設関係者の神経を逆なでしたものと思われます。
 
しかし、こういうことはあってはいけないことですが、現実にあることは十分に考えられます。かつて船橋市の児童養護施設「恩寵園」でひどい虐待が行われ、社会問題になったことがあります。立派な施設ばかりとは限りません。
 
「ポスト」というあだ名の子が芦田愛菜ちゃんです。天才的な演技で、びっくりします。
私は「ポスト」というあだ名をつけられてイジメられる役回りかと想像していたら、ぜんぜん違いました。芦田愛菜ちゃんは赤ちゃんポストに捨てられていた子ですが、そのとき1枚の紙切れが入っていて、そこに名前が書いてありました。しかし、愛菜ちゃんは「私は名前を捨てた。親からもらった名前はもういらない」といいます。
つまり「ポスト」というあだ名は、人につけられたものではなく、みずから名乗っているか、少なくとも自分で受け入れているのです。
 
それに、愛菜ちゃんは孤児たちのリーダー的存在ですし、きわめてタフです。つまり、まったくイジメられる存在ではありません。
 
愛菜ちゃんは新しく施設に入ってきた子に、こんな印象的なセリフをいいます。
「1月18日、あんたがママに捨てられた日だ。違う。今日、あんたが親を捨てた日にするんだ」
 
芦田愛菜ちゃんという人気子役が赤ちゃんポストに捨てられた子どもを演じるというのは、むしろ赤ちゃんポストへの偏見をなくすのに大きな力となると思います。
 
私の見るところ、このドラマは少しリアリティが欠けますが、孤児のことを子ども目線で描いている点で高く評価できます。
 
ところが、子どもを子ども目線で描くということが、多くの大人の神経を逆なでします。
 
 
【明日、ママがいない】全国の児童養護施設と里親会が日テレに抗議「人間は犬ではない」
日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」の内容が「子供の人権侵害だ」として、全国児童養護施設協議会が121日、脚本の変更などを求めて、121日に都内で会見を開いた。前日に日本テレビに抗議文を提出したという。同協議会には、国内の約600の児童養護施設が加盟している。
 
同会の藤野興一会長は「子供の人権を守る砦としたいと思っているときに、真っ向から水をかけるドラマ」と話して放送内容の修正を求めた。同じく抗議した全国里親会・星野崇会長も同席し「人間は犬ではありません」と訴えた。「明日、ママがいない」については熊本市の慈恵病院が16日に放送中止を求めている。ニコニコ生放送によると、2人の会見での発言要旨は以下の通り。
 
■自殺するものが出たらどうしてくれるんだ!
(全国児童養護施設協議会・藤野興一会長)
児童擁護施設の子供たちは今、虐待を受けていたり、さまざまな事情を抱えています。「本当によくぞ、ここまでたどり着いたなあ」という3万人の子供たちが生活しております。そういう中で、このドラマがいかにフィクションであるとはいえ「お前らペットだ」とか「犬だってお手くらいするわな、泣いてみい」とか、物扱いをされている強烈な場面がある。施設長や職員が、暴力や暴言で子供たちの恐怖心を煽るシーンがあります。僕の施設の子供たちも、高校生は見ていたみたいで、腹が立つと言っていました。女の子は「見るのがしんどい」と言ってました。
 
大人はともかく当事者の子供は、本当にこたえますよ。「自殺するものが出たらどうしてくれるんだ!」という思いをしております。私たちはドラマの舞台と思われる地域小規模児童養護施設……。これは定員を6名として、地域でより家庭に近い生活をするということで、一生懸命、そういうものを増やそうとしております。
 
確かに施設は、制度的にも立ち後れて、取り残されています。非常にしんどい状況にあります。そんな中で、子供たちも職員も必死で生きている。非常に大きな影響力がある芦田愛菜さんを主演とするドラマに対して、マスコミ関係の皆さんに是非、本当の施設の姿を知っていただいきたい。
 
今、まさに政府がやっと四十数年ぶりに動こうとしているときです。そのときに、この舞台となっている小規模児童擁護施設。これを「子供の人権を守る砦」としたいと思っているときに、真っ向から水をかけるドラマだと思っています。正しい姿を。マスコミの方々には特に子ども達への理解を賜って、子供たちの正しい姿を伝えていただき、マスコミの社会的正義を貫いていただきたいと思っております。
 
■「里親として表を歩けなくなりそうだ」という声もある
(全国里親会・星野崇会長)
「明日、ママがいない」については里親仲間でも話題になっています。今の日本の児童福祉制度が、里親ももちろん一生懸命努力しているところなんですね。いろいろな問題点があります。場合によっては法改正なども求める活動をしておりますが、このドラマはそういう私たちの努力に水を差すものと考えざるを得ません。
 
人間は犬ではありません。小動物と一緒くたにするということを、子供に教えちゃいけないんですね。ところが、このドラマは率先して、それを行っている。私ははっきり言って、主演した芦田愛菜ちゃんが、かわいそうですね。彼女は9歳半にして、こういう思想を植え付けられてしまっているんですね。これがどんどん広まってしまうと、メディアそのものが人間の尊厳を無視するようになる。激しい憤りを感じております。
 
差別的な発言があまりにも多すぎる。「これでもか」「これでもか」と出てきますが、今でさえ施設の職員や里親は周りの偏見に耐えて生きているわけですね。しばしば、それがトラブルになることもありますが、今回のドラマが放送されたことで差別的な発言が一層広がるんじゃないかと懸念しています。
 
子供にとっては大問題です。すでに子供も大人も傷ついております。放映によって、「こういうのをやってくれ」という里親仲間にはあります。しかし、「やめてくれ」という声が多い。「里親として表を歩けなくなりそうだ」という声まであります。小さい子供がドラマを見た場合には、恐ろしい結果になる場合はある。要保護児童たちは親元から離れたということで、相当大きな傷がついているんですね。そうした傷を思い出して、フラッシュバックを起こす可能性が十分にあるんです。そこまで日本テレビはちゃんと十分に準備しているんでしょうね?ということを言いたいです。
 
基本的には放映中止にしていただきたいんですが、放映中止にするといろいろ問題も起きるかもしれません。少なくとも言葉の使い方に関しては、差別的な発言や暴言をやめてほしい。もう一度、脚本家も交えて検討し直してほしいと思います。
 
過去に実際にあだ名が元で子供が自殺をはかった事例がありますので、それと同じようなことが起きる恐れがあります。「それが起こってからでは遅いんですよ」と日本テレビには言いたいです。
 
 
こうした施設側や里親側の声を、私はまったく評価することができません。
施設の子どもの声も紹介されていますが、これは結局おとなのフィルターを通したものです。
「自殺するものが出たらどうしてくれるんだ!」「それ(自殺)が起こってからでは遅いんですよ」という言い方も脅迫めいています。
 
この人たちは、子どもが傷つくのが心配だといいながら、実際のところは自分たちの世間的イメージが傷つくことを心配しているのではないかと疑われます。この人たちの言葉と比べると、三上博史の施設長の言葉のほうが心地よいぐらいです。
第2話を見ると、この施設長はそんなに悪い人ではないようです。となると、彼はわざと偽悪的な言葉を吐いているのかもしれません。そして、その偽悪的な言葉は、世の中の偽善に亀裂を生じさせ、真実を見させる役割を果たしています。
そうしたこともこのドラマに対する反発を生み出しているのかもしれません。
 
施設の人たちは確かに一生懸命やっているでしょう。しかし、それはあくまで主観です。よくやっているか否かは施設の子どもが評価することです。
 
昔の孤児院は、親と死別した子どもが多かったのですが、今の施設は、親から虐待されたり、家庭が崩壊したりした子がほとんどです。あらかじめ傷ついた子どもを世話する職員はたいへんです。血のつながった親でさえ子どもを愛せないケースがふえているのに、血のつながっていない、ひねくれた子を十分に愛することのできる職員がどれだけいるでしょう。
 
つまり施設側の対応が不十分なことはわかりきっています。別にそれを非難するつもりはありません。
しかし、どのように不十分であるかということを明らかにすることは、改善するための第一歩です。
施設側は一生懸命やっているなどというきれいごとで実態を隠蔽してはいけません。
 
今まで、児童養護施設の内実を知る人はどれくらいいたでしょうか。
そういう意味では、「明日、ママがいない」は、ドラマとしておもしろいかどうかは別にして、日本の福祉の水準を向上させるのに役立つことは間違いありません。
 

NHKの朝ドラ「あまちゃん」が好評のうちに終了しました。このブログもその人気に便乗しようと、「あまちゃん」を取り上げてみました。
といっても、「あまちゃん」そのものを論じるというよりも、朝日新聞の「あまちゃん」論を批判することが主目的ですが。
 
9月11日の朝日新聞に、「あまちゃん」人気を分析した「日常輝くクドカン流 現実を肯定、脇役も魅力的に」と題する記事が載っていました。
実は、私はまったく「あまちゃん」を見ていないのですが、それでも宮藤官九郎氏の作品については多少の知識があります。この分析には首をかしげてしまいました。
 
 
日常輝くクドカン流 現実を肯定、脇役も魅力的に
  【江戸川夏樹】NHK連続テレビ小説「あまちゃん」が毎日のように話題に上る。脚本は、放送前には先鋭的で朝ドラに適さないともいわれた宮藤官九郎(くどうかんくろう)。なぜ誰もが魅入られるのか。
 
 あまちゃんは、東京生まれのアキの物語。祖母・夏の住む北三陸(モデルは岩手県久慈市)を舞台にしている。
 
 朝ドラの定番といえば女一代記だ。「おしん」や最近の「カーネーション」「梅ちゃん先生」などはいずれも、主人公が夢をかなえるまでの人生を追った作品だった。
 
 一方、あまちゃんが描くのは高校時代とその後の数年間。アキの目標は周りの人々の影響を受け次々と変わる。東北に移り住んだ時は祖母に憧れ海女を、その後は母や親友に憧れアイドルを目指す。
 
 身近なヒロイン像を通じて宮藤が描く世界観は、「徹底的に現実を肯定することの大切さ」だ。
 
 田舎が嫌で飛び出したやつって東京行ってもダメよね。逆にさ、田舎が好きな人って、東京行ったら行ったで案外うまくやれんのよ、きっと。結局、場所じゃなくて人なんじゃないかと思う
 
 アキの母親・春子のセリフだ。地元や周りの人々に目を向けなかった自分への後悔がにじむ。自分が嫌った母・夏を「かっけ~」と尊敬するアキにふれ、考えを変えていく。過疎化の波を受け入れていた北三陸の人々も、海やローカル線のかけがえのなさに気づき、町おこしを始める。
 
 おらが東京さ行って芸能界とかこの目で見て、いろいろ経験して、でも結局ここが一番いい
 
 なぜ帰ってきたか説明するアキの言葉に、「ここではないどこか」をめざし続けたユイも、地元で出来ることを探す道を決意する。
 
 現実を肯定するドラマは意外に少ない。最近放送されているドラマの多くのテーマは現状打破だ。視聴率30%を超えたドラマ「半沢直樹」は、癒着がはびこる銀行で、無理難題ばかりの現実を理知と突破力で変えていく。
 
 そんな中、異彩を放つ宮藤作品の根幹を「今いる場所をむげにしない。今を振り切って後を振り返らない人は、描かない」と語るのは、TBSの磯山晶(あき)プロデューサーだ。宮藤と組んで「木更津キャッツアイ」など話題作を世に送り出してきた。
 
 「木更津」の余命半年を宣告された主人公は21歳になるまで木更津(千葉県)から出たことがない。都会に憧れ、地元に文句を言いつつも、最期まで地元で仲間たちと日常を送ることを選ぶ。磯山さんは「主役だけを中心にせず、脇役も魅力的に。新天地に行くときの別れは特に丁寧に描く。現実に無駄なことはないと伝えている」と説明する。
 
 なぜ、現実の肯定が人の心に刺さるのか。東日本大震災後に売れた本の一つ、仏哲学者アランの『幸福論』には、「自分の仕事や友達、書物を利用しないことを赤面すべきだ。価値のある物事に関心を持たないことは誤りにちがいない」と書かれている。
 
 明治大の合田正人教授(西洋思想史)は、あまちゃんには幸福論と同じ「肯定の思想」があると指摘する。「肯定とは現実におのずと変革を促す力。いろいろ失敗し、あれやこれや気に病む登場人物はアキと出会い、違う見方をするようになる。悲劇だと思っていたものが喜劇やユーモアに見えてくる」という。
 
 自分は多様な他者でできているとアランは考える。「うまくいかない原因だと見捨ててきたものが、自分の資源だったと気づく幸福の過程を描いているのではないか」
 
 ヒットしたテレビ番組や雑誌、商品を引用するのも宮藤作品の特徴だ。あまちゃんにも、「ザ・ベストテン」をほうふつさせる歌番組やアイドルの総選挙が登場する。磯山さんは「それでなければ時代を説明できない不可欠な小道具」と分析する。流行したものこそ、「今」を成立させるものだからだ。
 
 
この記事は「現実の肯定」をキーワードに「あまちゃん」の魅力を説明していますが、私は「現実の肯定」という言葉は違うだろうと思いました。
 
その後、朝日新聞は「『じぇじぇ』ヒットの秘密 宮藤官九郎に聞く哲学と手法」と題する宮藤官九郎氏へのインタビュー記事を掲載しましたが、これにも「現実の肯定」ということが再三出てきます。
インタビュアーの言葉だけを抜き出してみます。
 
 
――最高視聴率42・2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)の「半沢直樹」や、一匹おおかみのフリーランスの医者が活躍する「ドクターX」など最近のドラマの多くは現状打破がテーマ。一方、宮藤さんの作品には悪人がいないし、今いる場所を大切に描いている。ほかのドラマと比べて、現実を肯定しているように見えます。
 
――家族や自然、地元など自分の周りにある現実を肯定することが今の世の中にどういう意味があって、どう幸せに結びつくと思いますか。
 
――宮藤さんがそっちを向いているということは、現実を肯定している人って少ないということでしょうか。
 
 
インタビュアーはどうしても「あまちゃん」は「現実肯定」の物語だとしてしまいたいようです。
 
感動する物語というのは、根底に愛や命や人間の肯定があるものですが、それと「現実の肯定」とは違います。
人間を肯定するということは、非人間的な現実と葛藤するということであって、この葛藤が物語の推進力になります。
「現実の肯定」というと、あらゆるものを肯定してしまうことになりますし、「向上しない」とか「改革しない」といったマイナスの意味も含んでしまいます。
 
宮藤官九郎氏自身は、「現実の肯定」ということは言っていません。むしろ「人間の肯定」ということを言っていると思います。
たとえばこんな具合です。
 
 
 人間のいいところばかりを見せるドラマをやりたくないし、人間のちょっとしたミスや弱いところを攻撃するようなドラマも見たくない。いいところも悪いところも「面白い」という言葉で全部一緒にしちゃえ。いいところも悪いところもおもしろいからいいじゃんっていう肯定の仕方。
 
あまちゃんは26週もあったので、要点だけをつまんで話を作らなくてよかった。寄り道がいっぱいできて、1人の人間を多面的に描けた気がする。そういう方法が自分は一番好きだし、自分が一番出る方法。 基本にあるのは、弱いところも、だめなところも、悪いところもひっくるめて面白いということで人間はできているんじゃないかと。
 
 
さらに引用すると、「現実の否定」みたいなことも言っています。
 
 
今回は東北を舞台にしているからといって、震災を描くドラマではない。震災に対するみなさんの憤りとか、その後の社会に対する怒りは現実。僕の場合は、それが作るときの原動力にはなっていない。その後の世界をどう受け止めているかというか、登場人物たちが相変わらず、スナックでくだらないことを言っている。というのが面白くないですか?と思っていますね。
 
 
ともかく、「現実の肯定」という大ざっぱな言葉で「あまちゃん」のおもしろさを説明しようとするのは所詮むりというものです。
 
では、朝日新聞記者はなぜ「あまちゃん」のおもしろさをうまく説明できないのかというと、おそらく宮藤官九郎氏の価値観と朝日新聞記者の価値観が水と油だからでしょう。
 
宮藤官九郎氏が最初に注目されたのは、「木更津キャッツアイ」と「池袋ウエストゲートパーク」の脚本家としてではないかと思いますが、どちらのドラマも、地元に生きるヤンキー、つまり不良たちの物語です。
 
実際の学校は複雑ですが、学園ドラマというのは単純化して描かれ、生徒は優等生と不良に分けられます。優等生は勉強ができて、よい学歴を身につけ、将来は官僚になったり、グローバルに活躍するビジネスマンになったり、ときには新聞記者になったりします。不良は勉強ができないので、学校では評価されないのですが、その分仲間とのつながりをよりどころにし、将来は地元で就職します。
実際のところは、優等生でもないし不良でもないという中間層がいます。中間層をより詳しく見ると、優等生になりたくても成績が優等でないので優等生になれない者と、不良になりたくても行動力がないために不良になれない者とに分けられるでしょう。この中からネットでヘイトスピーチをする者が生まれます。私はこれを“引きこもり系の不良”と呼んでいます。
 
宮藤官九郎氏の価値観は不良寄りであって、学歴主義の否定(宮藤氏は日大芸術学部中退)と地元主義があると思います。
地元主義というのは東京中心主義の否定でもあります。
ですから、学歴エリートで東京中心主義の朝日新聞記者の価値観とは水と油になるわけです。
また、学歴エリートはアイドルや流行歌などの大衆芸能にも否定的です。
 
「あまちゃん」の主人公は不良ではありませんが、東京の高校にはなじんでいませんし、海女になったり、東京でアイドルを目指したりする生き方は不良に近いものです。
そして、最終的に東京でアイドルになるのではなく、地元でご当地アイドルになります。
 
地元主義というのは、地元の人間関係をたいせつにするということでもあります。
学歴主義の生き方をすると、地元から切り離され、会社を定年になると、なんの人間関係もないということになりかねません。
 
朝日新聞の記者は、大衆芸能の価値や、地元の人間関係の中で幸せに生きていくという生き方を受け入れることができず、「現実の肯定」というわけのわからない言葉で説明しようとしたのではないでしょうか。 

最高視聴率40%を獲得した評判のドラマ「家政婦のミタ」をレンタルショップで借りて見ました。家族のドラマだということで興味があったからです。
少し前には「マルモのおきて」が家族のドラマとしてヒットしましたが、これは育児ノイローゼの母親抜きで子どもたちが幸せを求める物語であるところが新しいと思いました。「家政婦のミタ」にもなにか新しさがあるのではないかと思ったのです。
 
「家政婦のミタ」というタイトルはもちろん市原悦子さん主演の「家政婦は見た」のパロディですし、キャラクター設定にもパロディ精神がいっぱいです。たとえば、ミタさんは後ろに人が立つのを嫌いますが、これはもちろん「ゴルゴ13」です。また、持参のカバンから、必要なものが魔法のようになんでも出てくるのですが、これは「メリー・ポピンズ」と同じです。
 
物語は、母親が亡くなって父親と4人の子どもが暮らす阿須田家にミタ(三田灯)という家政婦が派遣されてくることから始まります。
ミタさんはあらゆる家事を完璧にこなすスーパー家政婦ですが、まったく無表情で、絶対に笑顔を見せません。頼まれたことはなんでもやり、殺人を頼まれたら実際に人を殺しかねない不気味さがあります。
阿須田家の父親は、妻と子を捨てて不倫に走った男で、今も子どもの愛し方がわかりません。そのため阿須田家は崩壊状態です。しかし、ミタさんの完璧な家事能力と予想外の行動の連続で、阿須田家はしだいに立ち直っていきます。そして、ドラマの後半は、ミタさん自身の問題になっていき、ミタさんが笑顔を取り戻すか否かが焦点になります。
 
どうしてこのドラマがヒットしたのでしょうか。理由はいろいろあると思います。
たとえば、このドラマでは現実にはありえないようなことが次々と起こるのですが、ミタさんのキャラクター設定がしっかりしていて、周りの人物も少しずつ現実離れした過剰なキャラクターになっているので、なんとなく納得してしまいます。もちろんミタさんを演じる松嶋菜々子さんの存在感も大きな要素です。
その結果、ファンタジーとリアルの中間のような不思議な感じになっています。
 
父親は不倫をして妻を自殺に追いやり、子どもをどう愛すればいいかもわからない、夫としても父親としてもだめな男です。しかし、不思議と不快感がありません。本人なりに誠実なところがあり、演じる長谷川博己さんが甘い雰囲気のイケメンであることも大きいでしょう。
 
そして、過剰にドラマチックなストーリーの中で「家族の再生」が果たされるということが、人気になったいちばんの理由ではないかと思われます。
 
ただ、「家族の再生」といっても、4人の子どもは実はなにも変わりません。むしろ父親や、亡くなった母親の妹である叔母(相武紗季)や、母方の祖父(平泉成)、さらにはミタさんが変わることによって「家族の再生」が果たされるのです。
 
家族や家庭のたいせつな機能のひとつに、子どもを教育するということが挙げられます。しかし、阿須田家には子どもを教育する機能がまったくありません。
母親はすでに亡くなっています。父親は子どもの愛し方がわからず、子どもを教育したりしつけしたりするという意識もありません。子どもを心配してしばしば訪ねてくる叔母は、きわめてドジな性格で、子どものためになることがなにひとつできません。祖父は極端に頑固な性格で、子どもから拒否されています。
そして、ミタさんは家政婦ですから、自分から家族関係に関わろうとせず、子どものしつけもしません。なにか命令されたときに「承知しました」というのがミタさんの有名な決め台詞ですが、なにか意見を求められたときに「それはあなたが決めることです」というのももうひとつの決め台詞です。
 
高校2年生の長女(忽那汐里)はクラブの先輩とつきあって、外泊したりしますが、誰からもとがめられません。そして、先輩に裏切られ、傷つきますが、当然ながら自力で立ち直ります。もし家庭に“教育機能”があれば、外泊は禁止され、裏切られて傷つくこともないかもしれませんが、経験して成長することもできません。
 
“教育機能”のない阿須田家は、家事を完璧にこなすミタさんがいることによって、子どもにとっては理想の環境になったのです(もしミタさんがいなかったら、家事をめぐるごたごたによって家族の崩壊が加速したでしょう)
そして、子どもが主導して父親や周りの人間を変えていきます。
というか、子どもと触れ合うことでおとなが変わっていきます。
 
脚本を書いた遊川和彦さんは「女王の教室」も書いた人です。どこまで意識的かわかりませんが、教育やしつけはおとなも子どもも幸せにしないということがわかっているようです。
 
 
教育やしつけのないほうが家庭は幸せになるというのが私の考えです(将来のことは別ですが)
 
幸せな家庭の典型が「サザエさん」でしょう。カツオやワカメはサザエさんの子どものように見えますが、実は弟妹なので、サザエさんはカツオやワカメを教育したりしません。それは波平とフネの役割ということになりますが、すでに成人して一家の主婦となったサザエさんが防波堤になって、ほとんどその役割を果たすことはありません。そのためサザエさん一家はとても幸せに見えるのです。
 
宮崎駿アニメも、どの作品をとっても子どもが主体的に行動するものばかりです。
 
その正反対のものが「巨人の星」でしょう。星家は飛雄馬にとってまさに教育地獄です(のちに一流選手になることである程度報われますが)
 
家族をめぐるドラマを見ると、いろいろなことを考えさせられます。
しかし、中にはなにも考えない人もいるでしょう。たとえば、「家族は、互いに助け合わなければならない」という改憲草案を書く人たちは、家族についてなにも考えない人たちに違いありません。

1225日にNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」最終回がありました。
私は原作を読んでいたこともあって第1部と第2部は見ませんでしたが、戦争シーンがあるということで第3部は見ました(実は戦争映画大好きです)
キャストは豪華だし、CGやロケやセットにすごい金はかけているし、ストーリー運びにも隙はないし、テレビドラマとしては最高級のできでしょう。とくに軍艦同士が大砲を撃ち合う海戦シーンは、今までの戦争映画にはない迫力です。
ところが、視聴率があまりよくありません。なぜよくないのだろうかということが話題になっています。
ちなみに視聴率は、
 
第1部   平均視聴率17.5%
第2部   平均視聴率13.5%
第3部 第10話:「旅順総攻撃」12.7%
11話:「203高地」11.0%
12話:「敵艦見ゆ」11.1%
13話:「日本海海戦」11.4%
 
めちゃくちゃ制作費をかけているのにこの数字は情けないものがあります。NHKもがっくりでしょう。
 
とはいえ、このような視聴率はある程度予想されていたことでもありました。というのは、明治もののドラマの視聴率は悪いと昔から決まっているのです。
ですから、民放は明治もののドラマはほとんど手がけません。
明治もののドラマをつくるのは、使命感があるのか、NHKぐらいです。江藤淳原作のドキュメンタリードラマ「明治の群像 海に火輪を」(10)もNHKです。
戦国もの、江戸もの、幕末もののドラマは数え切れないくらいつくられていますから、それと比べると明治ものの不人気は際立ちます。
 
ドラマだけではありません。小説の世界でも明治ものは人気がありません。
明治ものを書く作家といえば、私が思い出せるのは山田風太郎、横田順爾、海渡英祐、高橋義夫ぐらいです。いや、もう少しいると思いますが、ひじょうに少ないことは間違いありません。
司馬遼太郎にしても明治ものはずっと書いていませんでした(幕末から明治につながるものはありますが)。司馬は“男のロマン”を書く作家といわれていますが、明治に“男のロマン”を書くことはむずかしいのでしょう。
司馬が「坂の上の雲」を書いたのは、日露戦争を描きたかったからではないかと思いますが、松山を同郷とする秋山兄弟、正岡子規の視点から書くというのはいいアイデアだったでしょう。しかし、近代国家においては秋山兄弟にしても将棋の駒のような存在で、そこにあまりロマンはありません。
 
明治というと、“明治の気骨”などという言葉もあって、古きよき時代というイメージかもしれませんが、古きよき時代なら江戸時代に負けます。江戸時代には庶民がそれぞれ好き勝手に生きていました。しかし、明治になると誰もが学校に行き、規律を学ばされ、軍隊に行ったり、工場で働いたりするわけで、そこにおもしろみを見いだすのは困難です。
 
「明治は古きよき時代」というのはあくまで表面的なイメージで、
「明治はつまらない時代」というのが誰もが無意識に感じていることです。
 
「坂の上の雲」というタイトルは、近代国家になることは上昇していくことだということからきているのでしょう。
しかし、近代国家になるということは、実際は帝国主義戦争の泥沼へ落ちていくことだったのです。みんなそのことがわかっているので、明治ものは人気がないのでしょう。

ドラマ「マルモのおきて」が高視聴率で終了しましたが、私は最終回を見て、驚いてしまいました。こんな結末のストーリーは人類史上初めてではないでしょうか。
このドラマは独身男性が2人の孤児を引き取って家族をつくるという物語です。そして、最終回に母親が子どもを引き取っていき、独りになった男性が寂しく思っていると、子どもが帰ってきて(もちろん母親も了解の上で)、ハッピーエンドになります。
孤児の物語は昔からいっぱいあって、私はたとえばリンドグレーンの「さすらいの孤児ラスムス」などを思い浮かべます。孤児院で里親に引き取ってもらえないラスムスは孤児院を脱走し、風来坊のオスカルと出会っていっしょに旅をし、そして最後、オスカルには実は家があって奥さんもいて、奥さんがラスムスを母親のように迎えてくれます。つまり孤児の物語は、最後は母親か母親代わりの人に迎えられてハッピーエンドになると決まったものなのです。
ところが、「マルモのおきて」は、子どもは迎えてくれた母親のもとから逃げ帰ってきて、それでハッピーエンドになるのです。だから、人類史上初めてではないかと思ったのです。
もちろんそうなるには伏線があります。母親は育児ノイローゼで、かつて育児放棄して、それで母親はいないということになっていたのです。ですから、物語の最後のほうで現れても、ちゃんと子どもを愛してくれるかわからないわけです。
「マルモのおきて」は家族の物語ということになっていますが、実はその裏には子どもを愛せない母親がいるわけで、ある意味母親不在の現実を描いた物語ともいえます。
 
大ヒットした植村花菜の「トイレの神様」もおばあちゃんの物語で、母親不在です。また、島田洋七のベストセラー「佐賀のがばいばあちゃん」もそうです。
 
昔から日本人にとって母親は絶対的な存在でした。戦死する兵士は最後に「お母さん」といいながら死ぬという話が信じられていました(これは皇軍兵士は「天皇陛下万歳」といって戦死するというタテマエへのアンチとして語られたという意味もありますが)。しかし今、仮に自衛隊員がなにかで戦死するとき、最後に「お母さん」というでしょうか。あるいは、いったという話が広く信じられるでしょうか。
 
日本人にとって、母親のイメージは大きく変わってきています。今の母親は子どもに対し、勉強しなさい、きちんとしなさい、さっさとやりなさいと、怖い顔をして叱ってばかりいます。
 
森進一が「おふくろさん」に勝手にセリフをつけ加えて、作詞者の川内康範が激怒するという事件がありました。あれは著作権の問題ばかりが注目されましたが、私はむしろつけ加えられたセリフに注目しました。「叱ってほしいよもう一度」と森進一はいったのですが、川内康範にはこれが許せなかったのではないかと思います。年配者の川内康範には「叱る母親」というイメージがなく、たとえば父親が叱ったときかばってくれるのが母親だったのです。一方、川内康範より若い森進一には「叱る母親」というイメージが普通のものとなっていたのです。
 
なぜこのように母親が劣化してきたのでしょうか。それは「子どもは叱って育てるべきだ」というバカバカしい考えが蔓延してきたからです。そして、叱らないでいると、子どもを甘やかしてだめにしてしまうと逆に批判されてしまいます。
こうした考えを後押ししているのが「道徳」です。「道徳的な母親」が「愛情ある母親」を駆逐しているのです。
 
最近、尾木ママが「叱らない子育て」を提唱しておられます。尾木ママにはがんばっていただきたいものです。

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