村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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古舘伊知郎キャスターが来年3月に報道ステーションを退任することになりました。理由はいろいろあるかもしれませんが、権力からのプレッシャーを受けて、嫌気がさしたということもあるでしょう。
 
古舘氏は退任発表後の毎日新聞のインタビューで、「キャスターはどういう役割か」と聞かれて、「生意気な言い方だが、権力に対して警鐘を鳴らす、権力を監視する」「基本的にニュースキャスターは反権力であり、反暴力であり、表現の自由を守る側面もある」と語っています。こういう姿勢で続けていくにはそうとうタフでないといけません。
 
とくに今は、権力からの圧力だけでなく、ネットの世論というのもあります。「反権力」という古舘氏の発言に対して、さっそくネットでは「それが中韓を利する偏向だ」といった反応が出ています。
 
古舘氏は視聴者の心をつかむ当意即妙のトーク力が圧倒的で、それが自信になっていたと思われます。久米宏氏もそうです。筑紫哲也氏は幅広い教養が圧倒的でした。
やはりなにか抜きんでたものがある人間でないと、権力からの風圧に耐えられないのではないかという気がします。
 
そうすると、古舘氏の後任に反権力の姿勢はあまり期待できないかもしれません。
 
ただ、しっかりした理論武装があれば、別に抜きんでたものがない人間でも大丈夫です。
理論武装のひとつは、権力性悪説を理解することです。権力は悪い方向に行く傾向があるので制御しなければなりません。これは立憲主義のもとにある考えでもあります。
 
では、権力性悪説がなぜ正しいかというと、人間性悪説にかかわってきますが、ここではとても論じきれないので、放送法について少し述べておきます。
 
 
自民党は昨年暮れの衆院選前、各テレビ局に対して選挙報道の「公平中立」を文書で求めました。しかし、放送法には「中立」という言葉はありません。放送法にあるのは、「不偏不党」と「政治的に公平」という言葉です。
勝手に「中立」という言葉をもぐりこませるのが自民党のずるいところです。
 
そういえば、藩儀文国連事務総長が北京の抗日戦勝70周年記念式典に出席したとき、菅官房長官が「国連の中立性に反する」と言ってクレームをつけたことがありましたが、藩儀文氏に「国連が中立であるべきだというのは誤解だ。国連は中立(neutral)ではありえず、公平(impartial)だというべきだ」と反論されて、恥をかきました。
 
「中立」であろうとすると、全体を知って、その真ん中にいなければなりません。しかし、真ん中というのは一点しかないわけで、その位置を見極めるのはたいへんです。
しかし、「不偏不党」であれば、真ん中である必要はなく、いられる領域が広くなります。
酸性、アルカリ性、中性とあるとき、中性は一点しかありませんが、強酸性や強アルカリ性でなければいいとなると、広い領域があるのと同じです。
 
自民党はテレビ局に放送のあり方についてクレームをつけましたが、もしテレビ局がこれに従ったら「不偏不党」に反することになり、自民党の行為こそ放送法違反の疑いがあるわけです。

また、「公平」ということも、あくまで「政治的に公平」と書いてあるわけで、たとえば選挙のとき各党の扱いは公平にしなければならないといった意味でしょう。政策の扱いを公平にしろという意味とは思えません。
政策論争のとき、間違った意見と正しい意見を公平に扱う必要はなく、間違った意見を批判し、正しい意見は称賛すればいいわけです。
同様に、間違った政策を批判することも当然です。
テレビ局が安保法案を間違っていると判断すれば批判すればいいわけで、ここに「公平」を要求するのは筋違いです。
 
もっとも、テレビ局の判断は主観にすぎないという反論があるかもしれませんが、政策論は社会科学の問題だから、客観的判断だと言えばいいわけです(社会科学がほんとうに科学かという問題がありますが、このへんは人間性悪説を認めるか否かにもかかわってきます)
 
ともかく、テレビ局が権力にものを言えなくなると国の存立が危うくなるので、各テレビ局は理論武装をして、権力にめげずにがんばってもらいたいものです。



放送法
第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
 
 
一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
 
二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
 
三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
 
 
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
 
 
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
 
二 政治的に公平であること。
 
三 報道は事実をまげないですること。
 
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

消費税の軽減税率について自民党と公明党がもめていますが、新聞業界もこれにからんでいます。新聞に軽減税率の適用を求めているのです。
 
軽減税率というのは、貧困層のために食料品などの生活必需品の税率を低くしようというものですが、今の時代、新聞は生活必需品とはいえず、むしろ贅沢品です。
新聞業界の要求は、我田引水もはなはだしいものですが、それだけではなく、新聞業界の自殺行為でもあります。
 
1015日に新聞大会が行われ、こんな決議がなされています。
 
 
<第68回新聞大会決議> 戦後70年、新聞は平和と自由を希求し、多様な言論で国民的議論を深化させる役割を担ってきた。日本の安全保障政策が大きく転換しようとしている中、改めて新聞人として責任を自覚したい。民主主義の根幹である報道の自由は、戦後社会が最も尊重してきた理念の一つだ。しかし、政界の一部にそれを軽んじる風潮が見られる。われわれは、いかなる圧力にも毅然(きぜん)たる態度で臨み、国民の知る権利に応えていく。日本はいま、内外のさまざまな構造変化を受け、多くの課題を抱えている。新聞は未来に向け、あるべき社会を読者とともに考え、公共的な使命を果たしていくことを誓う。
 
 
 <軽減税率を求める特別決議> 新聞は民主主義社会の維持・発展や文化水準の向上に大きく寄与し、生活必需品として全国どこでも安価に入手できる環境が求められる。そうした環境を社会政策として構築するため、消費税に軽減税率制度を導入し、新聞購読料に適用するよう強く求める。
 
 欧米諸国は、「知識に課税せず」との理念に基づき、新聞の税率には特別措置をとっている。知識への課税は文化力の低下をもたらし、国際競争力の衰退を招きかねない。新聞への課税は最小限度にとどめるべきである。
 
 
決議の前半には「報道の自由」について立派なことが書かれています。
しかし、後半の<軽減税率を求める特別決議>はそれと矛盾します。
 
軽減税率を導入することがまだ決まっていないので、それがどんな法案になるのかわかりませんが、私が与党の政治家なら、その法案に「軽減税率を適用する品目については2年ごとに見直しを行う」といった規定を盛り込みます。
実際、どんどん新商品が生まれてきますし、世の中の価値観も変わってくるので、こうした規定は必要でしょう。
 
そうなると、2年ごとに(別に2年でなくてもいいのですが)、与党の政治家は新聞業界に対して「新聞を軽減税率の適用から外すぞ」という脅しをかけることができます。
ということは、新聞業界は与党に対してまったく頭が上がらなくなります。
 
法案にそういう規定がなくても、国会における多数党はいつでも法律を改正して新聞への適用を廃止することができますから、やはり新聞業界は政権与党に頭が上がりません。
一度軽減税率の甘いアメをしゃぶってしまうと、アメなしでの生活は考えられなくなります。
 
決議では欧米諸国の新聞も軽減税率の恩恵に浴しているように書かれていますが、欧米では少なくとも日本よりは報道の自由が尊重されていると思われます。
日本では政治家が平気で報道の自由を侵害するような発言をしますし、それに対する世論の反発もあまり強くありません。それに、軽減税率の適用を外すぞという脅しは水面下ですることができます。
 
そういうことを考えると、新聞に軽減税率が適用されることは“新聞の死”といっても過言ではないと思います。

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