村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:メンタルヘルス

シリーズ「横やり人生相談」です。世の中には自慢話ばかりする人がいます。職場でこういう人といっしょになったとき、どう対処すればいいかという相談です。
 
 
「勤務中 同僚が自慢話ばかり」 読売新聞「人生案内」(20111215日 )
 
 20代会社員女性。職場の同僚である50代女性についての相談です。
 
 私の勤める会社は、社長以外の社員が私とこの女性だけという小さなところです。彼女は、私と2人きりの時に必ずといっていいほど自慢話をします。例えば、自分の子どもがいかに高学歴でいい会社に就職したかとか、友人の収入がいかに高いかとかです。
 
 ほかにも、学歴や出身地域などで人を差別するような発言も頻繁にしてきます。しかも彼女は一度話を始めたら、30分は絶対に止まりません。最近は、何度も同じ話をするようになっています。
 
 私はそんな話を聞きたくないので、いつもつまらなそうな態度をとりますが、彼女の話は一向に止まりません。勤務時間中ずっとそんな感じなので、彼女の仕事はミスだらけ。その尻ぬぐいを私がやらなければならないこともしばしばです。
 
 彼女の相手をすることにほとほと疲れています。一体どうすれば、ストレスをためずにこのような人とうまくやっていくことができますか。(京都・K美)
 
 
この相談の回答者は、弁護士の土肥幸代さんです。土肥さんは「彼女の仕事中の自慢話や世間話は適当に聞き流し、取り合わないことです」と言い、同僚の仕事のミスをフォローするのも給料のうちだから、ストレス発散に工夫しなさいとアドバイスします。
 
私がこの回答に納得いかないのは、「彼女の仕事中の自慢話や世間話は適当に聞き流し、取り合わないことです」という部分です。
確かにその通りなのですが、相談者はそれができないから悩んで相談しているわけですから、どうすれば聞き流して、取り合わないでいられるかというところまでアドバイスしなければならないと思うのです。
というわけで、私なりの回答をしてみます。
 
私は相談者に、まず同僚である50代女性のことをよく観察しなさいとアドバイスします。
その女性は、誰彼かまわず自慢話をしているのではないはずです。たとえば、その会社にはもう1人社長がいるわけですが、社長に対してはそんなに自慢話はしないでしょう。一度はしても、二度三度はしないはずです。また、その女性に何人か友だちがいるとすれば、自慢話をする人としない人がいるはずです。
つまり自慢話をする人というのは、自慢話をするとうらやましがってくれる人に対してするわけです。
 
普通の人は、一度聞いたときはうらやましく思うかもしれませんが、何度も同じ話を聞かされると、もううらやましいという感情はわかず、馬耳東風とかカエルの面にションペンとかいう感じになりますし、さらには何度も同じ話をする人間を軽蔑するようになります。そうすると、自慢話をする人も、自慢話をする意味がなくなるので、しなくなります。
 
ということは、この相談者は何度も同じ話を聞かされているのに、そのたびにうらやましいという反応をしているのではないかと想像されます。相談者は「私はそんな話を聞きたくないので、いつもつまらなそうな態度をとりますが」と書いていますが、「態度をとります」ということは演技をしているということで、それを見抜かれているのです。
また、この同僚女性は差別発言を頻繁にするということですから、うらやましがらせるだけでなく、いやがらせも目的になっているのでしょう。そして、相談者は「彼女の相手をすることにほとほと疲れています」と書いているように、毎回いやがるので、いやがらせの格好のターゲットになっているわけです。
 
 
以上のことを理解すれば、対策もおのずと出てくるでしょう。
相談者は、子どもの学歴や会社の話や、友人の収入の話を聞いて毎回うらやましがるような人間で、ということはもし自分に自慢のタネがあったら人に何度も自慢しかねないのです。つまり、相談者は同僚女性と同じレベルかもっと下のレベルの人間なのです。
自分は自分が忌み嫌っている人間と同じレベルの人間であるというのは、考えるだけでいやなことですから、人間はそう認識した瞬間にそのレベルから抜け出すことができます。
つまり相談者は、同僚女性と同じようなレベルの人間なのに、自分はもっとましな人間だと思っていて、自己認識が間違っています。そのため自己をレベルアップさせることができないでいるのです。
 
また、「勤務時間中ずっとそんな感じなので、彼女の仕事はミスだらけ」といいますが、話をするからミスをするとは限らないでしょう。尻ぬぐいをするのもいやのようですが、そういうことは社長も見てくれているはずですし、仕事のためなのですから、いやがることではありません。「同僚女性の仕事はミスだらけで、自分が尻ぬぐいをしている」という認識もあやしいものです。
 
要するに相談者は、自分が同僚女性と同じようなレベルの人間だということに早く気づくことです。そうして自己認識を正しくすれば、おのずとそのレベルを脱することができます。
そうすれば、同僚女性からなにをいわれても気にならなくなります。

ノルウェーの連続テロ事件のアンネシュ・ブレイビク容疑者の人物像について、朝日新聞が記事を書いています(8月16日朝刊)。見出しの文字を拾うと、「好青年の顔」「礼儀正しい・ブランド服・移民にお礼」という具合で、“凶悪なテロリスト”とは真逆のイメージになっています。ほんとうなのでしょうか。
記事から抜粋してみます。
 
「1歳の時、両親の離婚で外交官の父と離別。その後、オスロ西部の高級住宅街で育った。王族も通った名門小学校に通い、イスラム教徒の友人も複数いた。声明では『少年時代に嫌な経験はない。経済的に恵まれていた』と明かしている」
 
これを読んで、ごく普通ではないか、むしろ恵まれているのではないかと思った人は、考えが甘いかもしれません。問題は、愛されて育ったか、それとも虐待されて育ったかということです。ですから、経済的に恵まれていたことや名門小学校に通ったことは直接関係ありません。
1歳という子育てのむずかしい時期に両親が離婚したというのも多少ひっかかりますが、それはいいことにしておきましょう。気になるのは、本人が「少年時代に嫌な経験はない。経済的に恵まれていた」と述べているところです。「経済的に恵まれていた」とは言っても、「愛情的に恵まれていた」とは言っていません。それに、「少年時代は楽しかった」ではなく「少年時代に嫌な経験はない」と言っています。
 
親から虐待されている子どもに、たとえば医者が「この傷はどうしたの?」と聞くと、まず確実に「自分で転んだ」とか言います。子どもが自分から親を告発することはほぼ100%ありません。その子どもがおとなになったときはどうかというと、これもほとんど自分が虐待されたという認識はありません。あまりにも苦痛な体験は記憶から消し去られてしまうのです。「少年時代に嫌な経験はない」という言葉には、記憶を封印している可能性があります。
もっとも、これはあくまで推測です。ブレイビク容疑者が子ども時代に虐待されていたという証拠はなにもありません。ただ、本人の言葉から虐待はなかったと判断してはいけないということです。
 
おとなになったブレイビク容疑者について、近所の人はこう語っています。
 
「近くのスーパー店員スサンさん(21)()容疑者をレジで接客した。『とても礼儀正しく、笑顔でお礼を言われた。今もテロ犯とは思えない』」
「トルコ移民のエイユップさん(32)のレストランには頻繁に訪れた。()『とても丁寧に食事の礼を何度も言われた。反イスラムには見えなかった』と話す」
 
いうまでもないことですが、礼儀正しいからといって、その人がよい人とは限りません。礼儀というのは、それをかぶればその人がよい人に見える便利な仮面です。礼儀という仮面をとったときの顔を知る人はいないようです。
この記事には友人の証言は出てきません。親しい友人とバカ話をして笑っていたというような証言もありません。近所の人と世間話をしたということもないようです。
母親との関係がどうだったかも書かれていません。犯行の前、母親の家に行って食事をともにしたということですが、ブレイビク容疑者の目的は実家から犯行に使う車を持ち帰ることだったようです。
つまり、友だちのいない男、近所の人と接するときは礼儀正しいが表面的な交流しかしない男、それがブレイビク容疑者のようです。
しかし、新聞記事によるとそれが「好青年」になってしまいます。
 
新聞記事によると、ブレイビク容疑者はこういう経過をたどったことになります。
 
恵まれた環境で育った
  ↓
礼儀正しい好青年になった
  ↓
なぜか過激な移民排斥思想に染まった
  ↓
テロ実行
 
 
私の考えではこうなります。
 
愛情のない家庭で虐待されて育った(←推測)
  ↓
人と表面的にしか交流できない偏った性格になった
  ↓
自分の性格に合った過激な移民排斥思想に染まった。
  ↓
テロ実行
 
私の考えでは、肝心のところが推測です。しかし、全体として矛盾はありません。
新聞記事では、礼儀正しい好青年が過激思想に染まるというところがどうしても不可解です。「心の闇」などという言葉でごまかすしかありません。
 
今のところ限られた新聞記事では、どちらが正しいか判断できないかもしれません。しかし、ブレイビク容疑者が育った家庭環境にまで取材が迫れば、どちらが正しいかはっきりするはずです。

2010年度の幼児虐待相談は前年度より約1万2000件増加し、20年連続で増加したそうです。これは相談件数ですから、実際の虐待件数が増加しているかはわかりませんが、幼児虐待というものが広く世の中に認知されてきたのは間違いないでしょう。
 
幼児虐待を初めて明るみに出したのはフロイトです。フロイトは女性ヒステリー患者の治療の経験から、幼児期に性的虐待を受けたトラウマが成人後のヒステリー発症の原因になるという説を発表しました。これはフロイトの偉大な功績ですが、実はフロイトはあとになってこの説をみずから捨ててしまい、代わりにエディプス・コンプレックスを中心とする複雑怪奇な説をつくり上げるのです。
 
アメリカでは1980年代末から、幼児期に親から虐待されたとして親を訴える訴訟が急増しました。それに対して、親から虐待された記憶はセラピストによってねつ造されたものだとして、逆に親が子どもとセラピストを訴える訴訟も増え、結果として、虐待の記憶はねつ造だと主張する勢力が優勢となり、親を訴えるということはほとんどなくなったようです。
 
つまり、心理学的問題としては、幼児虐待があったとする説はなかったという説に負けるという流れがこれまではありました。
 
日本では(もちろん日本だけではありませんが)、幼児虐待が社会的に認知されつつあります。しかし、これはあくまで犯罪事件として認知されているようです。虐待する親を非難し、刑事事件として処理して終わりという扱いです。
虐待された子どもがおとなになったときに心理的問題をかかえますが、それについての認識はほとんどありません。身近な人にわかってもらおうとしても、わかってくれる人はほとんどいませんし、逆に「それは親の愛情だ」とか「いつまでも親のせいにしていてはいけない」などと否定されてしまいます。これは心理カウンセラーにおいても同じことです。幼児虐待のトラウマを扱えるカウンセラーはまだまだ少ないのが実情です。
 
今、世の中の対立軸は、たとえば右翼対左翼、フェミニズム対反フェミニズム、高福祉対低福祉、原発推進対反原発などいろいろありますが、いちばん重要な対立軸は、幼児虐待の心理的問題を認識できるか否かではないかと私は思っています。というのは、これによって身近な人間との人間関係から政治についての考え方まですべて変わってくるからです。
たとえば、石原慎太郎都知事はかつてスパルタ教育論を唱え、戸塚ヨットスクールを支援していました。こういう人は親から虐待されてトラウマを負った人の気持ちは決して理解できないでしょう。そして、そのことと彼がタカ派であることはもちろん密接に関係しています。
 
今、エディプス・コンプレックスなんてことを言うとバカにされてしまいます。フロイトの学説の見直しは必至です。
アメリカで親を訴えるというのは戦略的に間違っていて、そのため反撃にあってしまいました。なぜなら、虐待の連鎖ということを考えると、親もまた虐待の被害者であった可能性が大きく、訴えるよりむしろ連帯すべき相手であったからです。
 
幼児虐待がもたらす心理的問題は社会全般に広がっていて、これを認識できない人は社会問題も認識できないと言っても過言ではありません。
 
では、幼児虐待がもたらす心理的問題を理解するにはどうすればいいのでしょうか。それは、自分は親からどの程度愛されていたのか、もしかして虐待されていたのではないかということを考えればいいのです。
これは簡単なことのようで、けっこう困難なことではありますが。

作家の柳美里さんは2010年出版の「ファミリー・シークレット」で自分自身の幼児虐待と被虐待の体験を告白しましたが、芸能界では東ちずるさんが2002年に「“私”はなぜカウンセリングを受けたのか―『いい人、やめた!』母と娘の挑戦」で自分自身の被虐待の体験を告白しています。この2人ともに心理学者の長谷川博一氏がからんでいます。自身の被虐待体験に向き合うには、カウンセラーの助けが大きいということでしょう。
しかし、この2人に先だって、自力で被虐待体験を告白した芸能人がいます。それは飯島愛さんです。
飯島さんは2000年に「プラトニック・セックス」を出版し、子ども時代に両親から虐待され、中学時代から家出を繰り返した体験を告白しました。有名人で自分が親から虐待されたことを告白したのは飯島さんが最初ではないでしょうか(内田春菊さんは1993年の「ファザーファッカー」で性的虐待の体験を書いていますが、これは小説ですし、義理の父親との関係です)
 
「プラトニック・セックス」はミリオンセラーになり、社会現象になりました。しかし、共感したのは若い女性が多く、有識者からはあまり評価されませんでした。タレント本であり、しかもゴーストライターが書いたものだということも評価されない理由だったでしょう。
 
しかし、私の考えでは、そういうこととは別に、この本には致命的な問題があります。それは、本の前半部では自分を死ぬほど殴っていた父親と、本の最後の場面では、なごやかにビールを酌み交わすのです。つまり親と和解してハッピーエンドになっているのです。
これはいくらなんでもありえないだろう、というのが私の感想です。
文庫版解説の作家の大岡玲さんも、この幸せな大団円では「文学になりかけの胎児」である、つまり真の文学にはならないと苦言を呈しています。
おそらくは出版社や所属事務所の意向でこうした結末になったのでしょう。確かに2000年当時ではこうした結末でないと受け入れられないという人も多かったかもしれません。
しかし、これは飯島さん自身の思いとはかけ離れた結末だったはずです。
 
では、飯島さんの思う通りの結末とはどんなものでしょうか。
これがひじょうにむずかしい。これからも親を恨んで生きていくというのは、ある意味自然な結末ですが(AV嬢のインタビューを集めた本で、「親に復讐するためAV嬢になった」といっている人がいました)、それでは飯島さんも含めて誰も納得しないでしょう。
いちばんいいのは、飯島さんを虐待した両親も子ども時代に親から虐待を受けていたかわいそうな子どもだった、そのことを知って飯島さんは両親を許す気になる、というものです。もし長谷川博一氏がかかわっていたら、そういう結末になったはずです。
しかし、飯島さんが自力でそういう認識に到達できるはずはなく、おそらく飯島さんも結末がつけられなかったので、出版社や事務所があのような結末にしたのだと思います。
 
しかし、飯島さんはあの結末では納得がいかなかった。一世一代の告白をして、そのことによってなにかが変わるかもしれなかったのに、告白そのものが骨抜きにされてしまったのですから。
結局、飯島さんは自分を見失ってしまいました。ほんとは親との関係はなにも変わっていないし、まだ親の愛に飢えているのに、周りの人は飯島さんは親の愛を取り戻して幸せになったと思っているからです。
 
飯島さんの死は自殺ではないようですが、多くの人は限りなく自殺に近いものと受け止めているのではないでしょうか。
飯島さんをそういうところに追いやったのは、被虐待体験の告白を正面から受け止めようとしなかった出版社や事務所(それに世の中)だというのが私の考えです。
 
もっとも、世の中の価値観と違う告白が受け入れられないのはよくあることです。
たとえば、三島由紀夫は「仮面の告白」で自分が同性愛者であることを告白しましたが、当時の価値観では受け入れられず、かといって作品の文学的価値があまりにも高いために否定もできず、あくまでフィクションだということで受け入れられました。三島由紀夫はほんとうの自分を世の中に受け入れてもらえなくて、結局自殺することになってしまいました。
また、歌手の佐良直美さんはレズビアン体験を告白したために、芸能界から引退を余儀なくされました。
 
飯島愛さんはあまりにも先駆者でありすぎたのかもしれません。

昔、新聞の投書欄で、夫を亡くした奥さんの悲しみを訴える文章を読み、今も印象に残っています。その夫は病院食を食べながら、「これ、おいしいからお前もお食べ」といってくれたそうです。
夫の思い出として書いてあるのはそれだけで、どんな職業かどんな性格の人かもわかりません。しかし、そのひと言ですべてがわかるような気がします。
私の勝手な想像ですが、その夫は会社ではあまり出世しなかったのではないでしょうか(会社員だとしてですが)。「おいしいからお前もお食べ」というような人は、人を押しのけるようなことはしなさそうだからです。周りの人から信頼され、必要とされながら、そこそこの地位で終わった人のような気がします。
 
「おいしいからお前もお食べ」ということがいえる人はめったにいないでしょう。私は昔つきあっていた女性から、正反対の父親の話を聞きました。
彼女が子どものころ、父親はいただきもののおいしいお菓子を、彼女と弟がうらやましい思いで見つめているのに、1人で全部食べてしまったそうです。食い物の恨みは恐ろしいといいますが、彼女はいまだに根にもっていました。
もちろんその父親は、つねにそういうふるまいをする人でした。
 
愛情があるかないかは、日々のひとつひとつの行動に表れます。
映画やドラマでは、テロリストやギャングに人質にされた子どもを父親が命がけで救出し、それが愛の証であるかのように描かれますが、ばかばかしいことです。テロリストやギャングと戦うのはならず者にもできます。愛があるなら毎日の食卓のふるまいに表れます。
 
「おいしいからお前もお食べ」というような人は社会の隅に追いやられ、自分のことばかりを考える人が幅を利かす世の中です。このことは「悪人は善人を駆逐する」というエントリー(http://blogs.yahoo.co.jp/muratamotoi/3886993.html)でも書きました。
 
こうした世の中を逆転させるのが私の野望です。

体罰を正当化する論理に「口でいってわからないときは体でわからせるしかない」というのがあります。たいていの人は、こういう論理を見ると冷静さを失い、思考停止に陥ってしまいます。
なぜ冷静さを失うかというと、自分が体罰を受けたか、身近で体罰を見たかの経験があるからです。体罰は想像以上に心に傷を残し、その傷はおとなになっても癒えません。
 
「科学的倫理学」を武器にする私は、こうした問題にも冷静に対処できるので、ここでこの論理を解剖してみたいと思います。
 
まず、「口でいってもわからない」という状況ですが、これはいわれている子どもの理解力に原因のある場合もありますが、いっているおとなが理不尽なことをいっている場合もあります。おとなの能力をもってしても理解させられないということは、後者の可能性のほうが高いかもしれません。
 
もちろん子どもの理解力に原因のある場合もあります。その場合、殴れば理解できるようになるでしょうか。
たとえば三角関数をいくら教えても理解できない生徒がいて、その生徒を殴れば理解できるようになるとすれば、人類史上の大発見です。どんどん殴り続けていけば、相対性理論だって理解できるようになるかもしれません。
いや、だから、そんなことは絶対ないわけです。「殴ってわからせる」などということはありません。
あるのは、「殴って従わせる」ということだけです。つまり、「従わせる」ことを「わからせる」といっているわけで、ここにごまかしがあります。
「殴って従わせる」というのは、誰が考えても一方的で不当なやり方ですから、ごまかしているのでしょう。
 
子どもの理解力が足りなくてわからない場合、殴ってもわからせられません。では、どうすればいいのでしょう。
答えは簡単です。理解力がつくまで待てばいいのです。何年かかろうと待つのです。
というか、それしか方法はありません。
今すぐわからせたいというのは、おとなのわがままです。
体罰をするおとなは、わがままなおとななのです。
 
今後、「口でいってもわからないときは体でわからせるしかない」というおとながいたら、こう反論しましょう。
「殴れば理解力がアップするんですか」
「わからせたいんじゃなくて、従わせたいんでしょう」
 
体罰をするおとなは自分も体罰を受けてきたトラウマがあるので、その方面からのアプローチが正攻法ですが、今日はとりあえず論理的な面だけを述べてみました。

「しつけ」は漢字で「躾」と書きます。身体を美しくするという意味になりますから、この漢字を根拠にしつけはよいことだという主張がときどき見られます。しかし、これは逆でしょう。つまり、しつけとは見た目をよくすることで、しつけされる子どもの心のことは考えていないということだからです。
 
しつけは犬や猫などのペットに対しても行われます。ペットをしつけるのは、人間にとって都合のよい存在にするためです。ペットのためにしつけるのではありません。
 
つまり、子どものしつけとは、あくまでおとなのために行われることなのです。
ですから、子どもの発達段階のことはまったく考慮されていません。子どもは概して活発なものですが、おとなはおとなしい子どものほうが都合がよいので、おとなしくしなさいといってしつけをします。これは当然、子どもの発達にマイナスで、人格形成になんらかの問題が生じます。
 
電車の中で騒いでいる子どもがいるとします。周りのほとんどのおとなは迷惑顔です(本来おとなというものは、元気な子どもを見るのはうれしいものですが)
そこで、子どもを「おとなしくしろ!」とどなりつけるおとなが出てきます。また、その子の親に対して、「ちゃんとしつけをしろ!」と文句をいうおとなもいるかもしれません。
しかし、これはまったく間違った態度なのです。子どもにおとなしくしてほしいなら、「ぼく、ちょっとおとなしくしてくれるかな」とやんわりと頼むべきなのです。これが礼儀正しい態度です。
そうすれば子どもも、そうした礼儀正しい態度を学ぶでしょう。
 
ということは、子どもに「おとなしくしろ!」とどなりつけるおとなは、自分も子ども時代そうしてどなられていたのでしょう。
しつけが人格形成に問題を生じさせるというのは、たとえばこのようなことなのです。
 
世の中がギスギスして、住みにくい。多くの人がそう感じているでしょう。世の中がそうなってしまった大きな原因は、おとなが子どもをしつけることにあります。子どものしつけとは、おとなの身勝手な行為だからです。
しつけは昔から行われてきましたが、昔の子どもはほとんどの時間をおとなの監視の目のないところで自由に遊んでいました。今の子どもは徹底的にしつけされるようになっています。
子どもをしつけようとするおとなは、自分の態度を省みる必要があります。自分が鬼のような顔になっていないでしょうか。
それは幼児虐待そのものなのです。

岡山県で、16歳の長女を裸にし、手足を縛って風呂場に約5時間にわたって立たせ、低体温症で死亡させるという事件があり、37歳の母親が逮捕されました。母親は「しつけをするために縛って立たせた」と説明したそうです。
幼児虐待事件が起こると、決まって「しつけのためにやった」という弁明が聞かれます。そして、それに対する識者やコメンテーターの反論や批判の言葉はほとんど聞かれません。
これはどういうことでしょう。これでは「しつけのため」の虐待事件が今後も起こるのを防げないのではないでしょうか。
 
識者やコメンテーターの気持ちを推測してみると、子どもを殺すとかケガさせるとかは問題なく悪いが、子どもを叱ったり、罰したり、ときには体罰を加えるのは悪くない、ということではないでしょうか。ですから、あえてコメントすれば、「これはやりすぎだ」ということになるでしょう。これはコメントとしてはおもしろくありませんし、それに、「どの程度ならやりすぎでないのか」と突っ込まれると、うまく答えられないでしょうから、なにもコメントしないということになっているのではないかと思います。
 
識者やコメンテーターに限らず世の中一般の考え方として、しつけのために叱ったり罰したりするのは悪くないとされています。ですから、新聞ネタになるような虐待と普通のしつけの間に明確な区別はありません。あくまで程度問題なのです。
たとえば、体罰はしなくても、しょっちゅうきびしい声で子どもを叱っている母親がいます。ときには何時間も叱り続けています。こういのは心理的虐待に分類されるはずのものですが、世の中ではけっこうありふれた光景です。
つまり、しつけと虐待の間に区別のないことが、世の中から虐待事件がなくならない大きな理由なのです。
 
では、どうすればいいのでしょう。
この答えは簡単です。しつけと虐待の区別をつけず、すべて虐待であるとしてしまえばいいのです。これしか方法はありません。
「正しいしつけがある」「許されるしつけがある」という考え方は、根本的に矛盾しており、混乱を招くだけです。
 
しつけをする親は、子どもが悪いことをしたから叱ったり罰したりするのだと考えています。
最初に挙げた岡山県の事件では、長女が「ごめんなさい」と何度も手書きした反省文が自宅から見つかったと報じられています。この母親は娘が悪いことをしたと思ったからこそ反省文を書かせたのでしょう。そして、娘を罰することは正しいことだと考えていたのでしょう(この長女は知的障害があって高等支援学校に通っていました。理解の遅さを母親は悪と認識したのでしょうか)
 
しつけの論理の根底には、子どもの中から悪が生まれてくるという思想があります。
そして、悪い子どもを罰するのは正しいことだという思想もあります。
これを単純化していえば、「子どもは悪い、親は正しい」ということです。
これはすなわち、「正しい親から悪い子どもが生まれてきた」ということです。
これはどう考えてもデタラメな論理です(私はこれを「非科学的倫理学」あるいは「天動説的倫理学」と呼んでいます)
 
しかし、このデタラメな論理が世の中にまかり通っています。世の中を正しくしようと思ったら、まずここから手をつけなければなりません。
 
 
多くの人は幼児虐待について考えるのが苦手でしょう。しかし、幼児虐待について考えるのは「精神の筋トレ」みたいなものです。幼児虐待について考えれば考えるほど、強靭な精神を獲得することができます。とくに若い人にとっては有益なことだと思います。

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