村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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いわゆる「東名あおり運転事故」の裁判をテレビのワイドショーは大々的に取り上げています。入管法改正や水道民営化法案などはそっちのけです。
確かに石橋和歩被告(26)の言動には人の神経を逆なでするものがあります。実況見分のときにあくびをしたり、マスコミへの手紙に「俺と面会したいなら30万からやないと受つけとらんけん」と書いて金を要求したりしています。
 
そもそもの事件は、昨年6月、石橋被告がパーキングエリアの入口付近で駐車していたところ、被害者の萩山嘉久さんに駐車方法について注意され、怒った石橋被告が萩山さん夫婦と娘さんの乗ったワゴン車を追いかけていわゆるあおり運転をし、高速道路上で停車させて萩山さん夫婦を車から降ろしたところに大型トラックが追突してきて萩山さん夫婦が死亡、娘さん2人もケガをしたというものです。
 
石橋被告は危険運転致死傷罪などで起訴されましたが、弁護側は停車後の事故に危険運転致死傷罪は適用できないとして無罪を主張しています。
確かに直接の死因は大型トラックの追突です(トラック運転手は不起訴)
そのため、もしこれが罪に問えないなら危険運転致死傷罪は法律として不十分ではないか、新しい法律がいるのではないかという議論になっています。
 
しかし、たった一件の事故を理由に新しい法律をつくるのはおかしなことです。
 
それに、考えてみれば危険運転致死傷罪そのものが1999年のいわゆる東名高速飲酒運転事故がきっかけでできた法律です。
この事故は、大型トラックが乗用車に追突して幼い姉妹が亡くなり、しかもトラック運転手が救助活動もせずに炎上する乗用車を見ていて、まっすぐ立つことができないほど酩酊していたというものです。さらに、この運転手は飲酒運転が常習であったことが判明して、世論が憤激しました。運転手は業務上過失致死罪などで起訴されましたが、この罪は最高懲役5年で、あまりにも刑が軽すぎるということで最高懲役20年の危険運転致死傷罪がつくられたのです。
 
腹立たしい事件が起こるたびに厳罰化の法律をつくっていればきりがありません。
 
そもそも交通事故は大幅にへっているのです。
 
交通事故がもっとも多かったのは2004年で、952720件でした。
それから着実にへり続けて、2017年は472069件と半分以下になりました。
交通事故の死者数については、第一次交通戦争といわれた1970年の16765人がピークでした。
その後、多少の増減はあってもヘリ続け、2017年は3694人でした。
 
交通事故はへっているのに、世論は交通事故にどんどんきびしくなり、厳罰化が進むという妙なことになっています。
 
なお、犯罪もへっています。
刑法犯の認知件数がピークだったのは2002年の約285万件で、2017年は3分の1以下の約91万件でした。
 
刑法犯も交通事故も大幅にへっているので、警察は人員も予算も大幅にへらしていいはずです。
そういう議論が出てくると困るので、司法当局とマスコミは一体となって、刑法犯や交通事故が深刻化しているようなイメージづくりをしています。
石橋被告のような憎たらしいキャラクターは目一杯利用するわけです。
 
しかし、石橋被告にも「泥棒にも三分の理」で、たとえば被害者の萩山さんとのトラブルについて、彼は裁判でこう語っています。
 
 同県内の中井パーキングエリアで、死亡した萩山嘉久さん=当時(45)=とトラブルとなった経緯を「車を降りて、タバコ吸いよって、吸いよう途中に(嘉久さんに)『邪魔やボケ』と言われて」と説明。「『ボケ』と言われたことにむかついた」と明かした。
 
「邪魔やボケ」と言われたのがほんとうかどうかわかりませんが、ほんとうだとすれば事件の印象がだいぶ違ってきます。
 
また、石橋被告の車に同乗していた恋人も事故のときにケガして入院したのですが、裁判に出てきて、このように証言しています。
 
<東名のあおり事故当時同乗していた女性の弁護側証人尋問>
――(萩山さんの事件後に)退院してから車で出かけた?
はい、何回かはわかりません。
 
―― 一緒に乗るのは怖いなと思わなかったか?
思いましたけど…信じてもらえないかもしれないけど、あの子(石橋被告)、ウチには優しいんです。退院してすぐは(運転を)やめときと(説得した)。
――被告人の良いところを話してもらえますか?
子供とかおばあちゃん、おじいちゃんに優しいところです。
 
――悪いところを話してもらえますか?
うーん…短気なところですかね。相手にちょっとケンカ口調を強く言われた時にキレてしまうから。
 
ともかく、交通事故が大幅にへっているのに交通事故の厳罰化を議論するのはおかしな話で、完全にマスコミにあおられています。

熊本地震の余震が続く中でも川内原発が稼働を続けたことは、原発安全神話が完全に復活したことを示しましたし、安倍政権の危機管理能力のなさも示しました。
 
このとき原発賛成派はなにをしていたでしょうか。
「週刊新潮」は原発賛成記事をよく載せていますが、その電子版がこんな記事を配信しました。
 
 
今回の地震は織り込み済み 「川内原発停止」を叫ぶ民進、共産、福島瑞穂の見識
デイリー新潮 428()510分配信
 
 人は、見たいと欲する現実しか目にしないと俗に言う。理想に燃える野党の政治家は、大地震に乗じ、現実離れの「川内原発停止」を唱えるばかり。野党と脱原発、その陳腐な取り合わせの見識を問う。
 
  ***
 
  鹿児島県薩摩川内市にある川内原発。2年余に亘る原子力規制委員会による厳格な審査を通過し、昨年8月から1号機が、10月に2号機が再稼働を始めた。国内で唯一運転中のこの原発に対し、民進党や共産党は、
 
 「九州地方の皆さんが大変不安に思っている」
 
  などと、政府に「川内原発停止」を申し入れ、社民党の福島瑞穂副党首は、
 
 「更なる被害が起きないように原発は止めるべき」
 
  とツイッターで表明している。では、原子力の専門家はどう答えるか。
 
 「川内だけでなく伊方(愛媛県)も玄海(佐賀県)も、原発付近の活断層については活動を想定して耐震の計算をしている」
 
  と話すのは、北海道大学大学院の奈良林直教授。
 
 「もちろん、川内原発の近くの断層が全部連動することまで考慮しています。つまり、今回の地震は規制委からすれば織り込み済み。活断層に結び付けて川内原発が危ないというのは、科学的ではありません」
 
  とし、こう継ぐ。
 
 「規制委により137月に施行された新規制基準は、福島のような惨状を二度と起こすまいと世界中の事例を参考に作られています。地震対策のみならず津波や竜巻、地滑りに火山灰なども勘案しているんです」
 
  東大大学院の岡本孝司教授が後を受けて、
 
 「家屋やビルというものは、岩盤に積もった堆積土の上に建てられる。が、川内原発はその堆積土を掘り返して、岩盤の上に直接建てられている。揺れが遥かに小さくなるからです」
 
  16日未明に起きた本震の「地震動」は川内原発補助建屋1階で126ガルだった。
 
 「川内原発は260ガルで自動停止しますが、2000ガル程度の揺れが来ても耐えられるほど余裕がある設計。ですので今回の場合は、石ころが当たったようなもので安全性への影響は全くありません」
 
  と続けた岡本氏が、野党の不見識をこう喝破する。
 
 「事実や正しい知見を調べようともしない。思想信条に合わせ、有りもしないことを言って国民の不安を煽っているだけです」
 
  見たくない現実にも目を向ける日はいつか。
 
 「ワイド特集 『熊本地震』瓦礫に咲く花」より
 
 
専門家の「原発は安全だ」という意見も載せていますが、どうせ原子力村の専門家の言うことですから、信じる人はほとんどいないでしょう。記事の主旨は民進党、共産党、福島瑞穂氏らを批判することです。
世の中にはつねに誰かを批判したい人がいっぱいいますから、この記事はそのような人に受けるでしょう。
もし記事の主旨が「原発は安全だ」と主張するものであれば、逆に「原子力村のインチキ専門家の説を垂れ流すな」などと批判されてしまいます。
 
原発賛成派はこのように巧妙な記事づくりをしていますが、では、原発反対派のほうはどうでしょうか。
 
朝日新聞は反原発を主張する代表的なメディアです。
4月26日はチェルノブイリ事故から30年でした。その日に合わせて天声人語がこんなことを書いています。
 
 
(天声人語)あるフォークグループの後悔
山形県長井市のアマチュアフォークグループ「影法師」が原発のことを歌い始めたのは、チェルノブイリの事故で浮かんだ疑問からだった。あの国では広大な土地が立ち入り禁止になった。これが日本なら逃げる所はあるのだろうか▼ベースの青木文雄さんはすぐ、こんな詞を書いた。〈汚染が日本中溢(あふ)れたら/いったいどこへ行くのだろう〉。地方にゴミを押しつける都会を批判する歌をつくったときにも、原発に触れた。〈原発みたいな/危ないものは/全てこっちに/押しつけといて……割り合わないね/東北というのは〉▼しばらくして仙台のテレビ局で歌う機会があった。本番前に、局の担当者が駆け寄ってきて言った。立地県のことを考えて、原発の部分だけ遠慮してもらえないでしょうか――。東日本大震災の10年ほど前のことだ▼「情けなかったのは、それを受け入れてしまったこっちの方なんです」と、バンジョーの遠藤孝太郎さんは言う。「福島の事故が起きて最初に思いました。歌っていながらこんな事態を招いてしまった。ちゃんとメッセージを届けられていたのかと」▼後悔と自責。それは、歌うことで何かを変えられるかもしれないと信じる人たちには、自然なことだったのだろう。今度はきちんと歌いたいと、原発を正面から問う「花は咲けども」をつくった。時間の許す限り、福島へ全国へと出向き演奏している▼きょうは旧ソ連で起きたチェルノブイリ事故から30年、福島の事故から5年46日になる。
 
 
この記事は誰も批判していません。逆にフォークグループのメンバーが「後悔と自責」をしています。
 
このフォークグループは福島第一の事故の前からその危険性を歌にしていたので、その慧眼は誇るべきです。テレビ局の担当者に言われて歌詞を変えてしまいますが、アマチュアフォークグループとテレビ局の力関係を考えれば、しかたがないでしょう。そのことで自責の念にかられるのは、犯罪被害者が自責の念にかられるのと同じで、ありがちではありますが、間違った感情です
 
ここで批判されるべきは、テレビ局の担当者です。歌手に対して歌詞を変えろと要求するのは不当なことです。しかも、その理由はおそらく電力会社からの広告収入のためです。カネのために芸術を冒涜しているのです。
これは本来、テレビ局の名前や担当者の個人名をさらして批判するべきことです。
 
批判するべき者を批判しないので、正しい者が自分を責めることになってしまいます。

裁判所が原発稼働停止の仮処分の判決を下すと、原発賛成派は裁判官の個人攻撃をします。
一方、裁判所が原発稼働を認める判決を下したとき、原発反対派は裁判官の個人攻撃はしません。 


両者のやり方はまったく非対称的です。

朝日新聞がほんとうに原発を止めたいなら、賛成派を“委縮”させるぐらいに攻撃的な記事を書くべきです。

4月14日、熊本県で震度7の地震がありました。被災者の皆様にお見舞い申し上げます。
 
地震があるととっさに思うのは、原発は大丈夫かということです。九州では川内原発が稼働中です。
ニュースでは原発に異常はないということです。そして、今も稼働しています。
しかし、私がこれを書いている15日深夜1時すぎにも、テレビは熊本で震度6強、続いて震度6弱の余震が起きたことを伝えています。
こんな中で稼働を続けるという判断はまともとは思えません。
 
ところで、原発賛成派の人たちはこういうときどういう心境なのでしょうか。
日本の原発は絶対安全だからなんの心配もない――なんていうことはないでしょう。
実際は心配なはずです。
 
しかし、心配するということは、原発稼働に賛成したことと矛盾します。
そういう矛盾に直面した人間はどうするのかというと、こんなことをしていたのでした。
 
 
地震直後、首相官邸へ「川内原発停止」と電話 「反原発派」の陳情がネットで「場違い」と物議に
 
 最大震度7を記録した地震から一夜明けた2016415日朝、益城町や熊本市で計9人の死亡が確認され、けが人も多数出ている。現地では自衛隊や警察、消防が救助活動に当たっている。
 
   一方、ネット上では「反原発」「脱原発」を主張する人々の「はしゃぎっぷり」が物議を醸している。
 
   「首都圏反原発連合」に所属しているとプロフィール欄に書くツイッターユーザーは、地震発生直後の1422時頃、こうツイートした。
 
“「今首相官邸に電話した。誰がでたか相手はわからないが、名前を名乗って川内原発を停めてくれと話したら『その件については改めて連絡ください』と言い残し一方的に電話をガチャっと切られた」
 
   また同じ頃、今夏の参院選に立候補予定の女性が
 
“「熊本、九州の皆様地震は大丈夫でしょうか。被害が最小限になるように祈っています。 原発はもういらない。地震のたびにこんな風に心配しなければならない原発はもう廃炉にしなければならない」
 
とツイッターに投稿。合わせて、九州電力に川内原発停止を陳情したと明かしている。
 
   16414日の22時前と言えば、今回の地震を受けて、九州電力が全国で唯一稼働する川内原発(鹿児島県薩摩川内市)や玄海原発(佐賀県東松浦郡玄海町)について、「異常なし」と発表された直後だ。安倍首相や菅官房長官、河野防災担当大臣が首相官邸に危機管理センターを設け、情報収集や被害状況の把握に努めていた頃だ。
 
   そうした事情もあったためか、時と場合を考慮しない「陳情」と映ったようで、これらのツイートには
 
“「いい加減にしろ」
 「黙って寝てろ」
 
などという批判が相次いだ。
 
   このため、首相官邸に電話した先のユーザーは深夜になって
 
“「運動のために便乗しているのではない」
 「事故が起こった時の近隣の人たちの被害を心配して言っている」
 
などと弁明したものの、さらに批判を浴びる結果になっている。
 
 
原発を停止してくれと官邸や九州電力に訴えることは普通のことです。それを「はしゃぎっぷり」と表現するこの記事が異常です。
原発停止を訴える人に対して「いい加減にしろ」「黙って寝てろ」と言う人のほうこそはしゃいでいるというべきです。
 
 
また、共産党の池内沙織衆院議員はツイッターで「川内原発今すぐ止めよ」と訴えたのち、その投稿を削除したということです。
 
共産・池内氏、地震直後に「川内原発止めよ。正気の沙汰か!」とツイッター投稿、後に削除?
 
また、民進党の公式ツイッターが「一部の自民党の有力議員が原発対応についてデマを流して政権の足を引っ張った」と書き込んで、これも削除する騒ぎになりました。
 
熊本震度7 民進党、「自民議員がデマ」ツイートを削除 枝野幹事長ぶら下がり詳報「個人の見解を職員が書き込んだ」
 
ツイートを削除したのは、よほど非難の声が多かったからでしょう。
まだ事態が収束していない中で反・反原発の活動に精を出す人たちの「はしゃぎっぷり」が想像できます。
 
そういう人は、要するに自分自身の矛盾を、他者を非難することでごまかそうとしているのです。
もちろんそれは間違った対応です。
この機会に自分の中にある不安心理に気づけば、“災い転じて福となす”ことができます。
もちろんそれは原発賛成派をやめて原発反対派になるということです。
日本のような地震国で原発を稼働していることが異常なのです。

御嶽山の噴火で、現時点で48人が亡くなり、火山活動による被害では戦後最悪となったということです。
この報道の中で「心肺停止」という言葉が頻出するので、首をかしげていましたが、その背景を説明する報道がありました。
 
 
御嶽山噴火でも使われた「心肺停止」 なぜ「死亡」といってはいけないのか
  長野、岐阜県境にある御嶽山の噴火で、山頂付近に残された人たちの救助活動が難航している。
 
   警察は「心肺停止の状態」で発見したと発表している。被災者の身が案じられるが、果たしてどのような状態なのだろうか。海外メディアでは日本独自の表現だと説明している。
 
海外メディアでは「死亡」「遺体」と断定的なところも
 
   御嶽山が噴火したのは20149271152分。週末だったこともあり、山頂付近は約250人の人でにぎわっていたと推測されている。
 
   捜索の進展とともに、被害状況が明らかになり、291430分現在で32人が心肺停止の状態で発見された。その後に救出、搬送が進み、28日夜に同様の状態で運ばれた4人の男性と合わせて、10人の死亡が確認された。あくまで心肺停止の状態と死亡した人は別に数えられている。
 
   御嶽山の噴火は海外メディアでも大きく取り上げられているが、「心肺停止の状態」の報じ方は大きく違う。"cardiac arrest""heart and lung failure"などと英訳されており、いずれも日本語に直訳すれば「心肺の停止」だ。
 
   AFP通信は"cardiac arrest"を「医師が死亡を宣言する前に使われる」と説明。ウォール・ストリート・ジャーナルは「死亡しているおそれがあるが、医療的に正式な死亡が宣言されていない」と補足する。
 
   "heart and lung failure"を使ったAP通信やワシントンポストは「日本の当局による、医師が診断する前の遺体の慣例的な言い方」と説明した。英語圏以外では、中国の中国新聞網が「無生命跡象(生命の兆しがない)」と書いており、生存にかなり悲観的な表現だ。
 
   海外メディアは見出しで"At least 31 people believed dead(少なくとも31人が死亡したとみられる)"AP通信)、"Mt Ontake rescue teams find 31 bodies(御嶽山のレスキュー隊が31の遺体を発見した)"BBC)と断定的に書いており、心肺停止の状態と死亡が確認された人を一緒にカウントしている記事が多い。
 
日本は死亡確認に医師の診断が必要
 
   関西福祉大学の勝田吉彰教授によると、「日本で心肺停止の状態とは、心音が聞こえない『心臓停止』および『呼吸停止』の状態を指します」という。死亡確認にはこの2つだけでは十分ではなく、「脈拍停止、瞳孔散大と合わせて、4つすべてを医師が診断することが必要です。医師が宣言し、初めて死亡が確定します」と語る。海外ではこうした手順が踏まれるとは限らないため、日本と大きな違いが出ているようだ。
 
   長野県警も、「医師の診断がまだできておらず、心音と呼吸が停止していることから判断」(同広報)して、「心肺停止の状態」と発表している。
 
   なお、心肺停止の状態から息を吹き返すケースはある。たしかに、街中で倒れた人が心臓マッサージやAEDを施されたり、病院で強心剤を投与されたりして蘇生することはある。ただし、あくまで迅速に必要な手当てがされた場合がほとんどだ。「山頂付近に残る人たち」の一刻も早い「救出」が望まれるが、有毒な硫化水素が充満しており、二次災害の恐れから捜索は打ち切られ、再開は30日に持ち越されている。
 
私は今回初めて、「心肺停止」という言葉にひっかかりを覚えましたが、記憶を探ってみると、これまで海や山の遭難報道で「心肺停止」という言葉を目にしながらスルーしていたようです。
 
「心肺停止」は「死亡」とは違って、まだ蘇生する可能性があることを意味します。「遭難者が『心肺停止』状態で発見された」というような報道を見たとき、私は救助隊員が蘇生術を施している最中なのだろうと漠然と思っていました。
しかし、今回は「長野県警は28日、山頂付近で31人が心肺停止の状態で見つかり、そのうち男性4人の死亡を確認したと発表した」というような報道になっています。31人もの人間が救助隊員から蘇生術を施されているなどということがあるわけないので、初めておかしいと思ったわけです。
 
救助隊員が発見したときは、すぐには「死亡」とは判定できず、「心肺停止」と見なすのはおかしくありません。しかし、「心肺停止」が10分以上続くと蘇生は不可能であると私はどこかで読んだことがあります。今回ネットで調べてみたら、「10分」という数字は確認できませんでしたが、間違っていないということはわかりました。
 
ウィキペディアの「一次救命処置」の項目
突然倒れた人や、あるいは倒れている人が居たら、まず心停止を疑う。脳自体には酸素を蓄える能力がなく、心臓が止まってから短時間で低酸素による不可逆的な状態に陥る。 BLSはそれへの対処であり、脳への酸素供給維持を目的とする。
 
人間の脳は2分以内に心肺蘇生が開始された場合の救命率は90%程度であるが、4分では50%5分では25%程度と一般にいわれる(カーラーの救命曲線参照)。
 
ですから、救助隊員が発見したときは「心肺停止」であっても、蘇生術を行わずに数分が経過すれば「死亡」と認定できるわけです。医師の診断がなければ「死亡」と認定できないというのはあまりにも官僚主義的なやり方です。
 
ですから、警察が「心肺停止」と発表するのがおかしいのですが、それをそのまま報道するマスコミも同様におかしいといえます。
かりに救助隊員の第一報に「心肺停止」とあっても、数分後に「死亡」に変わることがわかりきっているわけですから、「死亡」と報道すればいいわけです。
「死亡」という言い方がいやなら、「死亡確実」という報道の仕方もあるでしょう。選挙の開票速報のときは「当選確実」とやっているのですから(しかも早すぎてしばしば失敗します)
「心肺停止」では、まだ死んでいないのかと勘違いする人も当然出てきます。
 
 
「心肺停止」報道は、外国からもおかしいと思われているようですが、当然です。
日本全体が「脳死状態」になっているようです。

朝日新聞の木村伊量社長は9月11日、記者会見を開き、吉田調書に関する記事について、「命令違反で撤退」と記述したのは誤りであるとして、記事を取り消しました。慰安婦問題に続いての失態です。
 
私は取り消された記事を、ブログで取り上げようかと思って、掲載された時点で詳しく読んでいました。
読んだところ、多くの社員(と下請け社員)が福島第一から第二に逃げたものの、半日程度でまた戻ってきたので、たいした問題とは思えませんでした。社員が逃げたために原発事故がより深刻化したというのであれば、これは大きな問題ですが、実害はほとんどなかったようなので、ブログで取り上げることではないと判断しました。
 
つまりこの記事の内容は、「当時の現場は混乱のあまり指揮伝達がうまくいかず、多くの社員が第一から第二に退避したものの、すぐに引き返すという一幕もあった」といったことで、そのような記事であれば問題はなかったわけです。
 
しかし、この記事は一面トップに大きく載り、「命令違反」という言葉も使われていたため、現場から逃げていなくなった社員がいてたいへんな事態が起きていたような印象を与えます(詳しく読むとそうでないことがわかりますが、たいていの人は表面的に判断します)
 
なぜそんなことになったかというと、そのときの私の想像では、朝日新聞は吉田調書を入手したということを大スクープにするために、強い印象の記事にしたかったのでしょう。それから、朝日新聞は反原発ということを社の方針にしていますから、事故現場が混乱していたということを強調したかったということもあったでしょう。
 
ともかく、これは典型的な「針小棒大」の記事で、読者を惑わすものですから、朝日新聞が記事を取り消して謝罪したのは当然です(とはいえ、「命令違反」か否かというのは見る角度によっても違ってきますから、朝日新聞に勢いがあるときならこのまま押し通してしまうこともできたかもしれません)
 
 
とはいえ、私は朝日新聞を批判するより、朝日新聞を批判する側を批判することにします。みんなと同じことをやっても意味がありませんし、それに、朝日新聞が日本を悪くするより、朝日新聞を批判する側が日本を悪くすることのほうがより大きいと思えるからです。
 
例によって「日本人をおとしめた」「日本の誇りを傷つけた」といった批判のオンパレードですが、記事そのものは別に日本を悪く書いているわけではないので、批判の仕方が間違っています。
ただ、「フクシマ50は日本の誇りだ」と思っていた人にとっては、朝日新聞の記事は日本の誇りを傷つけたことになるかもしれませんが、そういう思い込みの人に配慮していたら記事など書いていられません。
 
たとえば、イチロー選手を批判する記事を書くと「日本の誇りを傷つけた」といって騒ぐ人がたくさん出てくるとなれば、イチロー選手を批判する記事が書きにくくなります(そういえばイチロー選手を批判する記事はまったく見かけません)
 
STAP細胞捏造騒ぎのときも、小保方晴子さんが若くて権威のない人だからまだ批判できましたが、場合によっては、捏造の可能性を指摘すると「日本の誇りを傷つけるのか」と批判されていたかもしれません。というのは、いわゆる和田心臓移植事件のときにそういうことがあったからです。
世界初の心臓移植手術が行われたのは1967年、南アフリカにおいてでしたが、その1年後に札幌医科大学の和田寿郎教授が心臓移植手術を成功させ、これは日本医学界の偉業であるとして世間は沸き立ちました。そのため、この手術に対する疑義を少しでも表明しようものならものすごいバッシングを受け、事実上不可能な状況でした。患者が死亡してからさまざまな疑惑が一気に吹き出したのです。
 
和田心臓移植事件のときは一時的現象でしたが、最近はやたら「日本の誇り」ということが持ち出されます。
「日本の誇り」を持ち出せば自分の言い分が通せると思っているのでしょう。昔、やたら「お国のため」ということが言われたのと同じです。
 
 
ともかく、今は冷静な議論ができないような状況です。
「命令違反」ということはもともと朝日新聞が言い出したことですが、東電社員は自衛隊員ではないので、命の危険があるような状況では「命令違反」をしてもとがめることはできません。となると、今後また原発事故が起きたとき、電力会社社員の「命令違反」が頻出し、事故対応ができないということもありえるわけで、それにどう対処するかを考えておかなければなりません。朝日新聞の記事は本来、そうしたことを考えさせるきっかけになるものですが、「日本の誇り」どうのこうのとばかり言っていてはなにも考えられません。

マンガ「美味しんぼ」に原発事故と鼻血を関連づける描写があることで大きな騒ぎになっています。
私はそのマンガは読んでいませんし、気の利いた見解をのべることもできないと思って静観していましたが、これだけ騒ぎが大きくなると、騒ぎについてひと言いいたくなりました。
 
直接関連する福島県双葉町、福島県、大阪府、大阪市などが抗議するのはわからなくないとしても、政治家までがやたらコメントしています。私が把握しているだけでもこれだけいます。
 
菅義偉官房長官
根本匠復興相
森雅子消費者相
太田昭宏国土交通相
下村博文文部科学相
石原伸晃環境相
浮島智子環境省政務官
小泉進次郎復興大臣政務官
片山さつき参議院議員
 
たかがマンガにこれだけの政治家が口を出すのはまさに異常事態といわねばなりません。
 
わたしがひとつ思ったのは、ドラマ「明日、ママがいない」との類似です。
「明日ママ」は児童養護施設を舞台にしたドラマです。おそらくこのドラマが人気になって児童養護施設に対する関心が高まると困る人たちがいたのでしょう。厚労省管轄下の団体などが放送中止を求めて抗議をし、それによって児童養護施設のタブー化がある程度成功しました。
それに味をしめたというか、見習ったというか、同じように抗議すれば問題をタブー化できると思った人たちがいたのでしょう。
テレビドラマもマンガも低俗とされるメディアで、攻撃しやすい点では共通しています。
 
それからもうひとつ思ったのは、イラク戦争当時に日本人3人が人質になった事件との類似です。
あの人質事件も異常な騒がれ方でした(今回の数倍か十数倍の規模でしょう)
当時、日本は「自衛隊のいるところは非戦闘地域だ」というむりな理屈をつけてまでサマワに自衛隊を派遣し、ビンラディンから攻撃対象として名指しされていました。もし人質が殺されでもしたら、自衛隊派遣を決定した日本政府に非難が向く可能性が大です。そうならないように、自衛隊派遣に賛成した人はあらかじめ人質が悪いのだと決めつけておきたかったのでしょう。というか、そういう計算以前に、単に自分の中のやましい思いを人質に転嫁していたのでしょう。
 
今回は、福島県には汚染地域に住んでいる人がたくさんいます。一応安全だということになっていますが、ほんとうに安全かというと、誰もが大なり小なりの不安を持っています。そうした不安を解消するために「美味しんぼ」を非難しているという面があると思われます。
また、政治家はみんなやましいわけです。放射線の健康被害について確証のある人などいません。そうしたやましさが「美味しんぼ」批判へ向かわせるのでしょう。
 
 
今、問題になっているのは放射線と鼻血の関係です。
低線量でも鼻血が出るという説もありますが、あまり一般的ではないようです。
しかし、興奮したりストレスを感じたりしたときに鼻血が出るのは誰もが経験していることです。「放射線の恐怖」というストレスにさらされた人が鼻血を出すのは十分にありうることです。また、原発事故直後に不慣れな避難生活を強いられた人が鼻血を出すということもよくあったでしょう。そうした鼻血が放射線のためと理解されても不思議ではありませんから、マンガの中にそういう描写があるのはある意味当然です。
ただ、科学的に放射線が鼻血の原因かというと、多くの人がそうではないと思うでしょう。
ですから、ここの部分が集中的に攻撃されることになります。
 
しかし、鼻血の原因が放射線か否かというのは小さな問題ですし、ひとつのマンガが鼻血の原因は放射線だという立場を取ったところで、多くの政治家がコメントするようなことではありません。
 
しかし、現実に大きな騒ぎになっているということは、「鼻血の原因が放射線だというのは科学的におかしい」ということを攻撃することによって、健康不安ややましさの解消をはかろうとしている人が多いのでしょう。
「美味しんぼ」はこれまでたとえば食品添加物や遺伝子組み換え作物の健康被害の問題を取り上げ、間違いがあると抗議されたことは何度もありましたが、それが社会的な騒ぎになったことは一度もありません。今回だけ騒ぎになっているのは、放射線の健康被害については不安ややましさを感じている人がひじょうに多いからとしか理解できません。
 
「美味しんぼ」の鼻血の描写で風評被害が起きていると言われますが、それは旅館が予約のキャンセルにあったというようなことで、所詮はお金の問題です(しかもキャンセルと「美味しんぼの」の関係も定かではありません)
一方、「美味しんぼ」が一貫して追求しているのは食の問題で、食は健康や命と直結しています。
健康や命の問題よりもお金の問題を優先させるような議論もおかしなものです。
 
「美味しんぼ」の一部の描写がおかしいか否かということよりも、福島県民の健康はどうなっているのかということのほうが圧倒的に大きな問題です。
問題の重要度をまったく無視した議論が行われていると感じます。

10月1日、横浜市内の踏切で会社員の村田奈津恵さんが線路上に倒れていた男性を助けようとして、男性は助けたものの自身は脱出が遅れて亡くなるという事故がありました。これについて、亡くなった村田奈津恵さんを賞賛する声が多く聞かれ、神奈川県、神奈川県警、横浜市がそれぞれ感謝状を贈呈し、政府は紅綬褒章を授与するとともに安倍首相の名前で感謝状を贈ることを決めました。それを発表した菅義偉官房長官は「他人にあまり関心を払わない風潮の中で、自らの生命の危険を顧みずに救出に当たった行為を国民とともに胸に刻みたい」と語りました。
 
自己犠牲になった人がやたら賞賛されるのはいつものことですが、その中で地元の神奈川新聞が比較的中庸な報道をしているのが目につきました。
 
JR横浜線踏切事故:学ぶべきものは/神奈川
 
その記事から一部を引用します。
 
■まず非常ボタン
 ある鉄道会社の男性社員は危惧を抱く。「今回の行動が正義なのだということになれば、同じような事故が起こる可能性もあるのでは」
 
 鉄道各社は「人の立ち入りを見つけたら、非常ボタンを押してほしい」と口をそろえる。「社員であってもまずは電車を止めるための行動を取る。『どうして助けないんだ』と思うかもしれないが」。電車を止め、あるいは少しでも速度を落とすことで衝突によるダメージを減らすことができるからだ。
 
 線路内にいる人を助けようとするより、非常ボタンを押す方が早くできる。だが、男性は「今はそういうことを口にすれば、ひどい人と言われそうなタイミング。美談としてエスカレートしていくのが怖い」とも感じる。「『線路に入らないで』とは言えても『人を助けないで』とは言えない。危険だから助けに入ることは絶対に禁止、と伝えていくしかない」
 
直接助けるよりまず非常ボタンを押すというのは、確かに重要なことです。この機会にそのことの周知をはかるべきだと思いますが、現実は自己犠牲の賞賛ばかりになっている気がします。
 
しかも、的はずれな賞賛をしている記事もあります。
 
勇気をありがとう 踏切事故で亡くなった村田さんの死悼む献花続々
 
この記事にはこんな声が紹介されています。
 
 現場近くの高校3年の女子生徒(17)は「身近でこのようなことがあったので駆けつけました。自分だったらこのような行動はできないと思います」と、友人とともに合掌。
 
仕事で奈津恵さんと顔を合わせていた不動産業の男性(57)は、「おとなしそうな彼女がそういう行動に出たのは驚きました。内に秘めた正義感があったのでしょう」と語った。
 
どうやらこの人たちは、村田奈津恵さんはみずからの死を覚悟して救助の行動をしたと思っているようです。
確かに村田奈津恵さんには、倒れている人の命を救いたいという強い気持ちがあったでしょう。しかし、見ず知らずの他人のために自分の命を捨てようという気持ちがあったとは思えません。というか、誰にもそんな気持ちはないでしょう。
村田奈津恵さんが亡くなったのは、自分が想定したよりも電車のスピードが速かったか、逃げようとしたときに足がもつれるなどしたためでしょう。あくまで結果的に亡くなったと見るべきです。
 
踏切で倒れていた男性が助かったのは(鎖骨骨折などの重傷で入院中)、もちろん村田奈津恵さんの働きによるのでしょうが、へたをすると2人とも亡くなっていた可能性があります。
 
たとえば山岳遭難の救助活動の場合、悪天候の中で救助活動をするのは二次遭難になる恐れがあるので、冷静な判断が求められます。村田奈津恵さんの場合は、二次遭難に至ってしまったわけで、判断ミスといわざるをえません。最初の遭難者を助けたからといって、判断ミスに変わりはありません。
 
村田奈津恵さんのケースを「人の命を救うために自分の命を犠牲にした」と見なすのは、間違った解釈です。
 
もっともこれは「美しい誤解」だからいいのではないかという人がいるかもしれませんが、そうとは限りません。
というのは、助かった男性にとっては、「美しい誤解」はかえって精神的な負担になるからです。
それに、この「美しい誤解」は、遭難救助のあり方をゆがめてしまう恐れがあります。つまり、自分を犠牲にして人を助けることが賞賛されると、二次遭難を恐れずに救助活動をするべきだということになりかねません。
 
同様の誤解は、9.11テロで多数の消防士が亡くなったときにもありました。ビルの崩落が予見されなかったために消防士は亡くなったのですが、それがまるで英雄的な自己犠牲とされたのです。
 
それに、「美しい誤解」をする人の心は決して美しくないことが考えられます。
というのは、「他人の自己犠牲は自分の利益」だからです。
他人の自己犠牲を賞賛して、ほかの人もどんどん自己犠牲をしてくれると自分の利益になる――そういう下心がないとはいえません。
 
 
ここで、改めて村田奈津恵さんのケースを振り返ってみると、線路の上に人が倒れているのを見たとき、冷淡に見過ごす人もいるでしょうから、すかさず救助の行動に出たのは、確かに賞賛するべきことだと思います。
このとき、非常ボタンを押すという判断ができなかったのも責められません。とっさに目の前の人を助ける行動をするのも自然だからです。
 
もちろんこのとき、助けることが可能だという判断があったはずです。間に合わないと思えば、助けようとするわけがないからです。
 
しかし、いざやってみると、意外と倒れている人の体が重くて、動かせなかったのでしょう。平らなところなら女性の力でも引きずれたでしょうが、レールがじゃまになったと思われます(倒れた人はレールの間にいたことで助かったようです)
 
思うように倒れた人を動かせず、電車が迫ってきたとき、自分だけ逃げればよかったのですが、そうできなかったのもわかります。いったん助けようとした人が亡くなると、最初から手を出さなかった場合より罪の意識が重くなるからです。また、目の前で人が轢かれる悲惨な光景が目に浮かぶと、ますます諦められません。そのため逃げ遅れたのではないかと想像されます。
 
私はもしかして同様のケースに出くわした場合、同じ行動を取ってしまうかもしれないので、人ごととは思えません。
私に限らず、助けられそうな状況であればたいていの人は助けようとするはずです。
ですから、このような場合はまず非常ボタンを押すべきだということと、いったん救助の行動を起こしても、救助に夢中になることなく、自分の身の安全をはかる冷静さを忘れてはいけないということを教訓とするべきでしょう。
 

福島第1原発所長として原発事故処理に当たった吉田昌郎氏が亡くなられました。事故がなんとか収束したのは、吉田氏以下現場で命懸けの作業に奮闘されたみなさんのおかげです。ご冥福を祈るとともに、改めて感謝したいと思います。
 
吉田氏の働きを賞賛するのはいいのですが、なんか的外れなほめ方をする人もいて気になります。
たとえば、報道ステーションに出演したジャーナリストの門田隆将氏は、吉田氏にインタビューして「死の淵を見た男」というノンフィクションを書いた人ですが、「国のため」とか「大義」だか「本義」だかという言葉を使って吉田氏をたたえていました。
 
門田氏のブログを見ると、「『本義に生きた』吉田昌郎さんの死」というタイトルの文章を書いています。
「本義」とはなにかというと、このようなことです。
 
海水注入を中止しろ、という官邸と東電本店の両方からの命令を無視し、敢然と海水注入をつづけ、原子炉の冷却を維持するという「本義」を忘れなかった吉田さんの存在に、私は今も東京に住み続けている一人として、心から感謝している。
 
海水を注入して原子炉の冷却を維持するというのは、「正しい対策」というべきで、「本義」などという大げさな言葉を使うところではありません。
 
人が命懸けの行動をするときには、「国のため」とか「本義」といった言葉がふさわしいという考えがあるのかもしれませんが、それは違うと私は思います。
 
吉田氏自身は、インタビューでこのように語ったことがあるそうです。
 
「ここで働いているほとんどの人が福島、浜通りの人。
 彼らも避難民で家族が避難している。
 浜通りを何とかしたい気持は、作業員みんなが持っている。」
 
つまり身近な、具体的な人を思い浮かべて、「その人たちのため」と思うことで命懸けの行動が可能になったと思うのです。
普通の人間は、「国のため」とか「本義」とか「大義」という抽象的なことのために命を懸けることはできません。
 
特攻隊員は「お国のため」や「天皇陛下のため」に死んでいったことになっていますが、本人の心の中では、「自分が敵航空母艦を沈めたら、その分日本人の命を救うことができる」というように、具体的に命を救うことを思い描いて自分の死を納得させていたと思います。
 
 
私は、どんな凶悪な犯罪者も非難しないという思想を持っています。自分と同じ人間と見なしているからです。
したがって、どんなすばらしいことをした人も、実は賞賛しません。自分と同じ人間と見なしているからです。
 
多くの人は、決死の作業をした人をほめたたえますが、私の考えでは、実はそれほど特別なことではありません。
たとえば、チェルノブイリの事故のときも多くの作業員が命懸けの作業をしましたし、ソ連のK―19という原子力潜水艦が原子炉の事故を起こしたとき、8人の決死隊が作業をし、8人全員が被曝により死亡するということもありました。
原子炉の事故は深刻化すると多数の人が死に、環境も汚染され、いわば全人類に影響しますから、その分作業員も必死になるのです。
ですから、福島第1で吉田氏以下の作業員が命懸けの作業をしたのも、いわば当たり前のことです。
 
こういうと、吉田氏や多くの作業員をおとしめているように思われるかもしれませんが、そうではなく、人間は誰でも本来そういう素晴らしさを持っているものだといいたいわけです。
 
これは進化生物学からも説明できます。
「私は2人の兄弟か8人の従兄弟のためなら死ねる」といった生物学者がいますが、もともと人間は、自分の生存と同時に子孫の繁栄のために行動しており、子孫の繁栄のために自分の命を犠牲にしても不思議ではないのです。
 
これは当たり前のことだと思うのですが、多くの人はまったく逆のことを考えています。
つまり、人間は放っておくとわがままになるので、道徳教育によって奉仕や自己犠牲の精神を教えなければならないというのです。
いや、こんなことを考えているのは一部の愚かな政治家ぐらいかもしれませんが。
 
逆のことといえば、本店の命令を無視して海水注入を続けた吉田氏の判断への評価もそうです。
あのとき海水注入を続けないと、原子炉の爆発で周辺への影響はもちろん自分たちの命すら危ない状況だったのですから、誰でもそうしたでしょう。それを「本義」などといってほめたたえるのはバカげています。
それよりも、自己保身のために官邸の意向を忖度したり、海水注入による経済的損失を計算したりして海水注入中止を命令した東電本店の愚かさを批判するべきです。
 
批判するべきを批判せず、その代わりにほめるべきでないものをほめるという一種の逆転現象が起きています。
 
原子炉事故という過酷な状況において、直面している吉田氏以下の作業員は人類のために正しい判断をし、離れたところにいる東電本店やジャーナリストは自分のために都合のいい判断をする。
これも人間のひとつの姿です。

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