村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:倫理学

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このままだと「お前」という言葉が使えなくなるかもしれません。
完全に議論が間違った方向にいっています。

発端は中日ドラゴンズの与田剛監督の発言でした。

中日応援歌自粛騒動 与田監督は言葉狩り非難に困惑隠せず
 中日が2日の巨人戦(東京ドーム)で0―6と今季4度目の零封負けを喫し、連勝が5でストップ。勢いに水を差す格好となったのが与田剛監督(53)の巻き起こした“応援歌騒動”だ。

 1日に中日の公式応援団がSNS上で応援歌「サウスポー」使用を自粛すると発表。指揮官が歌詞の「お前が打たなきゃ誰が打つ」の「お前」の部分を疑問視し、球団を通じて歌詞の変更を要請していた。この件がネット上で大炎上し、ワイドショーにも取り上げられるなど大騒動となった。

 今回の事態に与田監督は「意外と不本意な方向にいっているみたいで。僕は単純に『お前』という表現よりは名前の方にしてもらえませんかというのが事の発端なので。応援を自粛してくれとか、応援団を否定しているわけではない。リスペクトもしているのに、いろんな方が言葉尻を逆の方に持っていかれるのはさみしい」と語った。

 しかし、チーム関係者は「紳士たれの巨人軍でも坂本(勇)やゲレーロらの選手応援歌には『お前』のフレーズがあるのに公認されている。こんなことシーズン中に言いだすことではなかった。監督にはもっと試合だけに専念してほしいのに」と指摘する声もある。
(後略)
https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1456512/


与田監督は「お前という言葉を子どもたちが歌うのは、教育上よくないのではないか」とも発言していますが、これに対して巨人ファンからは、巨人の球団歌の「ゆけゆけ、それゆけ、巨人軍~」というサビの部分を歌うと、中日ファンが「死ね死ね、くたばれ、巨人軍~」という替え歌をかぶせるのが常態化していて、こちらのほうがよほど教育上よくないのではないかという声も上がっています。

この騒動の原因は、ひとえに与田監督の考え違いにあります。
与田監督は、「お前が打たなきゃ誰が打つ」というフレーズを不快に思って、不快の原因は「お前」という言葉にあると思ったわけです。
しかし、「お前」という言葉に悪い意味はありません。目上の人に使えば失礼になりますが、ファンにとって選手は目上ではないはずです。

与田監督が「お前が打たなきゃ誰が打つ」というフレーズを不快に思ったのは理解できます。このフレーズは、「お前」以外のチーム全員を打てないと決めつけているからです。
  「誰が打つ」は反語表現です。受験コトバでいうと「誰が打つ(いや、誰も打たない)」となります。
1人の選手を奮起させるためにほかの選手を否定するというやり方は、ほかの選手が不愉快ですし、監督も不愉快です。
これまでこんな歌を歌っていた公式応援団が間違っています。
ですから与田監督は、「ほかの選手だって打つんだから、『お前が打たなきゃ誰が打つ』というフレーズはおかしい。やめてくれ」と言うべきでした。
そうすれば混乱は起きなかったでしょう。

それから、「お前が打たなきゃ誰が打つ」というフレーズは、選手にプレッシャーを与えるものです。
おそらくこの歌が歌われるときは、得点圏にランナーがいて、その選手が打つかどうかで試合が決まるような重要な場面でしょう。選手はすでにプレッシャーを感じているはずです。その上にさらにプレッシャーをかけるのはマイナスでしょう。

重量挙げとか百メートル走とかは、大きな大会で新記録が出るので、選手にプレッシャーをかけるのは意味があるかもしれませんが、野球のバッターの場合は、リラックスさせたほうがいいはずです。肩に力が入るとろくなことはありません。

与田監督はそういうことも感じて、「お前が打たなきゃ誰が打つ」というフレーズを不快に思っていたのかもしれません。


ところで、与田監督はなぜこの時期にこの発言をしたのでしょうか。
私がこれを書いている時点で、中日はセ・リーグの5位で、首位の巨人から12.5ゲーム離されています。
あまりのふがいない成績に、日ごろから感じていた「お前が打たなきゃ誰が打つ」に対する不快感を口にしたのでしょう。
いわば八つ当たりです。
ほんとうなら口にする以上、なぜ「お前が打たなきゃ誰が打つ」がだめなのかを正しく説明するべきですが、要するに八つ当たりなので、深く考えずに「お前」という言葉のせいにしたのです。
言葉のせいにするのがいちばん簡単なやり方です。

このように考えると、「言葉狩り」がどうして発生するのかも理解できます。
なにか不快な表現に出会ったとき、なぜそれが不快なのかを論理的に説明するのがめんどうなので、なにかの言葉のせいにするのです。

現在、中日の公式応援団は「サウスポー」を歌うのを自粛していますが、「お前」という言葉が悪いからだと説明すると、世の中が混乱します。
「お前が打たなきゃ誰が打つ」というフレーズが中日の選手に失礼だからだと説明するべきです。


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なぜ人間社会に幼児虐待という悲惨なことがあるのでしょうか。

幼児虐待は世代連鎖するとされます。つまり子どもを虐待する親は、自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いというのです。
そうすると、その親も子どものころ虐待されていたことになります。そして、その親もまた……とどんどんさかのぼっていくと、「人類最初の虐待親」にたどりつく理屈です。
もちろんそんな正確に連鎖するわけがありませんが、思考実験として「人類最初の虐待親はいかにして生まれたか」を考えるのもおもしろいでしょう。

反対に、いちばん最初から考えるという手もあります。
人類のいちばん最初のことは神話に書かれています。
もちろん神話は事実ではありませんが、なんらかの“真実”があるということもいえます。

旧約聖書の「創世記」に最初の人間であるアダムとイブのことが書かれています。アダムとイブは知恵の木から知恵の実を取って食べたためにエデンの園を追放された――と思っている人が多いのではないでしょうか。私も昔はそう思っていました。
しかし、実際は「知恵の木」でもなければ「知恵の実」でもありません。
この違いは重要です。

今はネットで簡単に聖書が読めます。次のふたつのサイトを参考に、要点をまとめてみました。

創世記(口語訳) - Wikisource

Laudate | はじめての旧約聖書 - 女子パウロ会


神は最初の人であるアダムをつくってエデンの園に住まわせた。エデンの園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」があった。神はアダムに「あなたは園のすべての木から満ち足りるまで食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。必ず死ぬからである」と言った。神はさらにイブをつくって、二人は夫婦となった。二人とも裸だったが、恥かしくはなかった。生き物のうちでもっとも狡猾な蛇はイブに、善悪の知識の木について、「食べてもあなた方は決して死ぬようなことはありません。 その木から食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者になることを神は知っているのです」と言った。イブはその実を取って食べ、アダムにも食べさせた。すると二人の目は開け、自分たちが裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、イチジクの葉で腰を隠した。二人が善悪の知識の木から食べたことを知った神は「人はわれわれの一人のように善悪を知る者となった。彼は命の木からも取って食べ、永久に生きるものになるかもしれない」と言い、アダムとイブを楽園から追放し、以後、人間は苦しみに満ちた生活を強いられるようになった――。

つまり「知恵の木」ではなく、「善悪の知識の木」ないし「善悪を知る木」なのです。

「善悪の知識の木」はヘブライ語の「エツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラ」の直訳です。
どうしてそれが「知恵の木」と訳されることが多いかというと、「善と悪」には「すべての」という意味もあるからだというのです。つまり「すべての知識の木」だから「知恵の木」というわけです。
しかし、それは間違った解釈でしょう。
「知恵の木」と訳すと、そのあとの「神のように善悪を知る者になる」という言葉とつながりません。

神が善悪の判断をする限りは問題ありません。正しく判断するか、正しくなくても人間は受け入れるしかないからです。
しかし、人間が善悪の判断をすると、自分に都合よく判断します。
みんなが自分に都合よく判断すると、対立と争いが激化します。


この物語は基本的に、幼児期は母親に守られて幸せだった人間が自立するときびしい現実の中で生きなければならないことのアナロジーになっています。そのため誰でも心の深いところで共鳴するものがあるはずです。

子どもが自立するのは、昔なら十二、三歳でしょう。
しかし、善悪の知識を得た人間においては、親は子どもを善悪で評価します。子どもが言葉を覚えたころからそれが始まるでしょう、親から「悪い子」と見なされた子どもは、怒られたり、叱られたり、体罰をされたりします。
つまり人間が善悪の知識を得たことから幼児虐待は始まったのです。

楽園追放の物語は、人間は善悪を知ることで不幸になったということを教えてくれます。

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幼児虐待についての悲惨なニュースが続いています。
幼児虐待をなくしたいと思わない人はいないはずです。
しかし、どうすればいいかを考えようとしても、ほとんどの人はそこで思考停止に陥ってしまいます。
「灯台もと暗し」と言いますが、幼児虐待は自分自身の足元の問題だからです。

考えるには手がかりが必要です。
虐待のある家庭と虐待のない家庭を比較するのがひとつの手です。
虐待のない家庭というのは、要するに普通の家庭です。
そこらにあるのが普通の家庭ですから、たまたま目についた数日前の朝日新聞の投書を、一部省略して紹介します。


(ひととき)わが家の小さな花束
 若い頃の私は、庭仕事には全く関心がなく、草取りが最も嫌いな家事だった。
(中略)
 そんな私を変えたのは、幼い娘だった。ある夜、娘は「明日、保育園にお花を持っていく」と言った。突然のことに「でも家にはお花なんてないよ」と言うと娘は泣き出した。困った私は娘をつれて外に出た。近所の空き地に白いクローバーの花が咲いていた。娘は数本摘んで、小さな花束を作って言った。「これでいい」。娘がとてもいじらしく、小さな庭があるのに何もしなかった自分を恥じた。「ごめんね。そのうち花束を作ってあげる」
 心を入れ替えた私は、雑草を取り、土を耕し、花の苗を植え世話をした。失敗も多かったが、念ずれば通ずるなのか、何とか花が咲いた。バラや宿根草が根付き、庭らしくなった。娘は小中高校時代、毎年1回は花束を抱え、うれしそうに登校した。花束を作るたびにあの夜の罪ほろぼしをしているような気持ちになった。これで少しは許してもらえるかな。
 今は、孫たちに花束を作っている。喜んで持っていく姿を見るのはうれしい。
 (千葉県柏市 主婦 65歳)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14050538.html?rm=150


いい話です。愛情が感じられます。
ただ、この話だけだと、なんの教訓も得られません。
そこで、虐待のある家庭だとどうなるかを想像してみます。

娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言い、「家にはお花なんてないよ」と言うと、娘は泣き出しました。夜なので花を買いにいくこともできません。ここで、「わがままを言ってはいけません」と叱る母親も多いのではないでしょうか。叱られた娘はますます泣いて、母親もますます叱ってと、負のスパイラルに入ると、虐待が生じてしまいます。

しかし、この母親は娘といっょに家を出ます。「どこにも花はない」と言葉で説得しても娘は納得しないので、いっしょに花を探して、ないことがわかれば納得してくれると思ったのでしょう。
ここがこの母親の偉いところです。言葉で説得するのはおとなの論理です。

娘はクローバーの花を見つけ、「これでいい」と言います。小さい花ですが、ほかにないことがわかったので、それで自分を納得させたのでしょう。子どもでも現実と向き合えば、最善の判断ができるということです。
母親は、娘が小さな花でがまんしたことがわかり、いじらしく思い、庭仕事をしなかった自分のせいだとも思い、それから庭仕事に精を出します。

ここでもほかの母親なら、「そんな小さな花はやめなさい」とか「そんなのを持っていったらお母さんが恥をかくからだめ」とか「昼間自分で摘んだらいいじゃない」とかと、おとなの論理を振り回して、娘とバトルを演じたかもしれません。


この母親は娘の気持ちに寄り添っているので、虐待などは起こりようがありません。
しかし、このように娘の気持ちに寄り添えたのは、母親に気持ちの余裕があったからです。
たとえば家計が苦しくて、借金のことで頭がいっぱいだったとすれば、いくら娘が泣いても、母親は家を出て花を探しにいこうという気にはならず、娘を叱ることで対応していたでしょう。
虐待の起こる家庭というのは、たいてい貧困層で、夫が無職というケースが多いことを見てわかります。

しかし、母親に気持ちの余裕がなくても、夫や親族や近所の人などのささえる人がいれば、やはり虐待は起こらないでしょう。

ですから、生活の余裕と周りのささえが虐待防止にはたいせつなことですが、これは今さら言うまでもないことかもしれません。
あと、もうひとつ、誰も言わない重要なことがあります。
それは「道徳」を持ち込まないということです。

娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言ったとき、それを「わがまま」ととらえる親がいます。
そして、娘が泣き出すと、「わがまま」がさらにエスカレートしたと見なし、こうしたことを放置すると限りなくわがままになると考えて、叱ってわがままを言わさないようにします。
こうしたやり方が虐待の第一歩です。

子どもがかたづけをしない、食べ物をこぼす、言いつけを守らないなどのことを「わがまま」や「悪」と見なし、しつけをして矯正しなければならないというのが虐待親の認識です。
ですから、事件を起こして逮捕された親は決まって「しつけたのためにやった」と言います。

今の世の中は、親が子どもをしつけるのはよいこととされているので、逮捕された親が「しつけのためにやった」と言うと、誰も反論できません。

道徳は言葉でできています。おとなは言葉を自由にあやつれますが、子どもは言葉が十分に使えません。そのため、道徳はおとなに有利にできています。その道徳に従ってしつけをすると、むしろ親がわがままになり、どうしても虐待につながっていくのです。

愛情のある親は直感的にそのことがわかっているので、子どもにしつけをするにしても、ほどほどにするので、虐待には至りません。

道徳やしつけを根本的に見直すことが幼児虐待防止にはなによりたいせつです。


昔、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」という番組に「良い子・悪い子・普通の子」というコーナーがありました。
娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言って泣いたときの母親の対応をそれにならって言うと、

「悪い母親」は、娘を叱る。
「普通の母親」は、娘の前でおろおろする。
「良い母親」は、娘といっしょに花を探しに出かける。

ということになります。

娘といっしょに花を探しに出かけたら、いろんなたいせつなものを見つけたというお話です。

幼児虐待をする親というのは、たいてい「しつけのためにやった」と言って自分を正当化し、めったに反省しません。
一方、まったく虐待をしない親もいます。
この違いは、親自身が過去に虐待されていたという“虐待の連鎖”で説明されますが、それだけではありません。
“悪”についての認識の違いもあります。
 
次の記事が“悪”について考えさせてくれます。
 
 

悪いことをしたら、叩いてでも分からせた方がいい?「叩くしつけ」に賛否両論の声

子どもが悪いことをした時に、親が叱るのは当然の義務です。しかしその叱り方に頭を抱える人は少なくなく、先日も主婦の「“叩くしつけ”って必要ですか?」という投稿が注目の的に。一体世の育児経験者たちは、彼女の質問に対してどのような見解を出したのでしょうか。
 
■ 育児には“叩くしつけ”も必要…?
 
相談者は、1歳の娘を育てる30代の専業主婦。最近彼女の娘はおもちゃを無闇に放り投げるそうで、先日義実家を訪れた際もおもちゃを投げまくっていました。そこで相談者は、「人に当たったら痛いでしょ?」「おもちゃが『痛い!』って言ってるよ。大事にしてあげようね」と子どもに注意。するとその一部始終を見ていた義母から、「そんなしつけでは効果がない」「時には叩くことも必要」と指摘されてしまったそうです。
 
とはいえ、幼い我が子を叩くのに抵抗を感じる相談者。「悪いことをしたら、叩いてでも分からせた方がいいのでしょうか」とネット上に悩みを打ち明けたところ、「叩くべきではない」「義母の言い分は分かるかも」といった賛否両論の意見が飛び交いました。
 
まず義母の育児法に異論を唱える人からは、「1歳でしょ? 普通は叩かない。物を投げるのも元気な証拠」「叩く育児は“自分より力のない者を叩いてもいい”と教えているだけ」「物を投げるのも成長のうち。色々な経験を経て物事を理解していくので、今は何の注意もいらないと思う」などの意見が続出していました。
 
「私も1歳の娘を叩いたことがあります」と語る女性からは、「今度は娘の方がお友達や私を叩くようになってしまった」というコメントが。
 
一方、中には義母の育児論を“良し”とする声もありました。「1歳の子どもに口で注意しても理解できない。お姑さんの子育て法は正しいと思う」「毎回叩くのはダメだけど、お姑さんの言う通り“時には”叩くことも必要」と“叩くしつけ”に賛同する人も少なくありません。
 
■ 育児経験者たちのリアルな本音
 
“叩くしつけ”については、人によって様々な見解がある模様。子ども支援専門の国際NGOである公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンは、2017年に国内2万人に対し、しつけに関する意識・実態調査を実施。
 
調査によると、約6割の回答者が“叩くしつけ”に肯定的であることが明らかになっています。
 
同調査では、“叩くしつけは必要”と考える理由についてもアンケートを実施。すると上位には、「口で言うだけでは、子どもが理解しないから」「その場ですぐに問題行動をやめさせるため」「痛みを伴う方が子どもも理解すると思うから」といった回答が並びました。ちなみに“しつけの一環として子どもを叩いたことがある親”は、7割以上を占めているそうです。
 
あなたは、育児に“叩くしつけ”は必要だと思いますか?
 
/藤江由美
 
 
ここにはふたつの対立点があります。
ひとつは、しつけをするときにたたいてよいのか悪いのか、つまり体罰はいいのか悪いのかという問題です。
しかし、体罰がだめなのはわかりきった話です。体罰は子どもの脳を萎縮・変形させることが科学的に明らかになっており、厚生労働省は「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを展開しています。アンケートでは約6割が体罰に肯定的だということですが、このアンケートは2017年のもので、今やるとかなり違うはずです。
 
この記事にはもうひとつ対立点があります。
それは、1歳の娘がおもちゃを投げるのは悪いことか否かという問題です。
相談者である母親は「悪いこと」と認識しています。
一方、ネット上の意見には「物を投げるのも元気な証拠」とか「物を投げるのも成長のうち。色々な経験を経て物事を理解していく」と、「悪いこと」とは認識していないものがあります。
 
しかし、記事はこの対立点は深く掘り下げません。体罰是か非かの対立点がメインで、こちらはサブの扱いになっています。記事の冒頭に「子どもが悪いことをした時に、親が叱るのは当然の義務です」と書かれているように、この記事のライターが「子どもは悪いことをするもの」と認識しているからでしょう。
 
しかし、私の考えでは、この対立点こそ重要です。
1歳のわが子の中に悪が芽生える――この母親はそう考えているのですが、これは悪魔の認識です。
子どもがある程度成長すれば、友だちの影響で悪いことをするようになったとか、テレビやゲームの影響で悪いことをするようになったとかと考えることも可能です。しかし、1歳の子どもはほぼ完全に親の影響下にあるはずです。しかも、自分と自分が選んだ配偶者の遺伝子を受け継いでいます。その子どもの中から悪が芽生え、自分はその悪を刈り取る立場にあるというのは、論理的に成立しません。
 
いや、子どもの「自由意志」から悪が芽生えるのだという考え方があるかもしれません。
しかし、「自由意志」は科学的にはほぼ否定されていますし、かりにあったとしても、外部からはコントロールできないはずで、「子どもをしつける」ということと矛盾します。
 
子どもが物を投げるのは発達の一過程で、そうすることで運動能力が高まります。子どもに「物を壊してやろう」とか「人を痛い目にあわせてやろう」という気持ちがあるはずありません。普通の親なら「物を投げられるようになった」と喜ぶところです。「将来は大谷翔平選手みたいになるのではないか」と思う親バカがいるかもしれません。
 
ところが、自己中心的な親はそれを「迷惑行為」さらには「悪」ととらえて、やめさせようとします。この母親は、実際には当たってもたいして痛くないのに「人に当たったら痛いでしょ?」と大げさに言い、さらには「おもちゃが『痛い!』って言ってるよ」と嘘を言っています。
 
子どもが「悪」だと、自分のしつけは「正義」だということになります。
これが幼児虐待をする親の論理です。
「しつけのためにやった」という言葉には、こういう論理があります。
 
自分と自分の選んだ配偶者の遺伝子を受け継ぎ、自分の影響下にある子どもの中に悪が芽生えたとしたら、それは自分の悪が受け継がれたと考えるのが論理的な思考というものです。
幼児虐待は論理的思考の欠如がもたらすものでもあります。

箴言家のラ・ロシュフコーは「太陽と死は直視できない」と言いましたが、私はそれにならって「太陽と死と幼児虐待は直視できない」と言っています。
幼児虐待はあまりにも悲惨なので、なかなか直視できません。そのために思考がおかしなほうに行ってしまうことがあります
 
次の判決も、そうした例です。
 
父刺殺の19歳、懲役4~7年 横浜地裁判決
 横浜市で昨年1月、父親を殺害したとして殺人罪に問われた少年(19)の裁判員裁判の判決が19日、横浜地裁であった。深沢茂之裁判長は、懲役4年以上7年以下(求刑懲役5年以上10年以下)の不定期刑を言い渡した。
 判決などによると、少年は昨年1月20日、母親と父親(当時44)の口論を聞き、母親が父親から危害を加えられるかもしれないと考え、父親の胸などを包丁で刺して殺害した。深沢裁判長は、父親からの仕返しを恐れて複数回刺したとして「身勝手で極めて厳しい非難に値する」と述べた。
 公判で、検察側、少年側双方が少年は父親から蹴られるなどの暴行を受け、事件当時まで母親に対するDV(家庭内暴力)を見聞きしてきたと指摘。少年側は「虐待や家庭内暴力といった家族の病理が引き起こした事件」として少年院送致を求めたが、判決は「父親の暴力はしつけだと(少年が)受容していた部分もあり、かれつな虐待とまでは認められない」と判断した。
 
 
「父親の暴力はしつけだと(少年が)受容していた」とは、びっくりの判決です。受容していたなら父親を殺すことはなかったはずで、矛盾しています。
幼児虐待の悲惨さが直視できないので、虐待を正当化する心理が働いているのではないかと思われます。
 
こんなもろに暴力を肯定する判決が出て、世の中からスルーされているのは不思議です。
バイト店員のくだらない動画を炎上させるより、こっちを炎上させたほうがよほど世の中のためです。
 
 
松本人志氏は前から体罰事件が起こるたびに体罰を正当化する発言をして物議をかもしていますが、野田市の栗原心愛さんが死亡した事件でも、やはりおかしなことを言いました。
 
松本人志 小4虐待死事件で持論「とんでもない親でも…そこが救われるところでもあると」
お笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志(55)が10日、フジテレビ「ワイドナショー」(日曜前10・00)に出演。千葉県野田市立小4年の栗原心愛(みあ)さん(10)が、父親の虐待により自宅浴室で死亡した事件について、私見を語った。
(中略)
また「分かりませんけど」と前置きし、心愛さんの年齢にも触れつつ「こんなとんでもない親でも、心底憎んではいなかったと思うんです最後まで」とも。さらに「それを思うと、すごくかわいいし、かわいそうだし…。どこかそこが救われるところでもあるかなって思ってしまったりもする」と話し、悲惨な事件の中にある“救い”を必死に求めていた。
 
これも同じ心理で、悲惨さを直視できないので、“救い”を求めるわけです。
しかし、それは虐待防止に逆行します。
 
こうした論理は、悲惨な戦死者を“英霊”として美化するのと同じです。
 
 
タレントのフィフィさんはフェイクニュースを発信して、騒動を起こしました。
 
フィフィSNSの誤情報をメディアも拡散、「PVは麻薬」早さ優先のネット記事の功罪
 タレントのフィフィが、自身のSNSで蓮舫議員について誤った情報を発信。さらに、その発言がネットニュースで事実のように報道されたことが問題になっている。
 
 きっかけとなったのは17日、フィフィが自身のTwitterで「私は問いたい、なぜ平成16年の警察の積極的介入を盛り込んだ児童虐待防止法改正に反対した蓮舫議員が、今回の虐待死の件で現政権を責めることを出来るのか、私はその真意を問いたい。あなたは本当に国民の側に向いているのですか?それ以前に同じ親の立場として問いたい、なぜあの時反対をしたのですか?」と立憲民主党・副代表の蓮舫議員を猛烈に批判したこと。
 
 しかし、この発言は誤りで、全くの事実無根だった。まず、投稿では蓮舫議員が反対したことを責めているが、児童虐待防止法の改正は全会一致で可決されており、反対した議員は1人もいない。さらに、この法案は平成164月に国会で成立したものだが、そもそも蓮舫議員が議員になったのはその年の7月。つまり、蓮舫議員は当時議員ですらなかった。
 
 しかし、このフィフィの発言は瞬く間に拡散され、日刊スポーツやスポーツ報知などが取り上げさらに拡散した。当然、蓮舫議員は「何か誤報が流布されているようです。(フェイクです)」と報道を真っ向否定。批判が殺到したフィフィは蓮舫議員に謝罪し、当該の投稿も削除した。一方、フィフィの投稿を掲載した日刊スポーツは「事実関係について十分に確認しないまま、掲載をしてしまいました。関係者に、お詫びいたします」と謝罪し、当該記事も削除した。
 
 蓮舫議員は一連の騒動後、「大手メディアもファクトチェックをせずに記事を配信しているようで…、残念です」とツイートしている。
(後略)
 
児童虐待防止法改正が可決されたとき、蓮舫議員は議員ではなかったとか、全会一致で可決されていたとか、間違いのレベルが半端ではありません。フェイク情報が生まれるメカニズム解明のヒントになるので、フィフィさんの個人的な勘違いか、どこかから引っ張ってきた情報か、知りたいところです。
 
ただ、この間違いの背景はわかります。
フィフィさんは前からリベラルたたきの発言をよくしていました。野田市の栗原心愛さんが虐待死した事件が注目を浴びているのを利用して、リベラルたたきをしようとしたのでしょう。
しかし、これは方向性が間違っています。幼児虐待や体罰を肯定するのは右翼や保守のほうだからです。
このことはこのブログでも書きました。
 
『幼児虐待を招く自民党の「親尊子卑」思想 』
 
この機会にリベラルたたきをしようとしても、よい材料がない。そのとき、格好の情報を目にした(あるいは頭の中で生成された)。そのため、ろくに検証もせずにフェイク情報に飛びついてしまったのでしょう。
 
もっとも、この情報が正しかったとしても、蓮舫議員の評価を落とすことには成功しますが、幼児虐待防止にはなんの役にも立ちません。
フィフィさんはなにを訴えたかったのでしょうか。
 
 
子どもが死ぬような事件が起こったときは、誰もが幼児虐待はけしからんと言いますが、うわべだけで言っている人が多いのも事実です。
どこか心の中では虐待や体罰を正当化していて、それがおかしな言葉になって出てきます。
そうしたおかしな言葉をモグラたたきのようにひとつずつつぶしていくのもたいせつな作業です。

善と悪については、定義もないし客観的な基準もありません。ですから、善と悪は使いものにならない概念です。学問の世界では、善悪を切り離す善悪相対主義が当然のこととされています。
正義についても同じです。正義の定義はなく、正義論は正義を論じる思想家の数だけあります。
ところが、多くの人は善悪や正義を価値あるものと勘違いしています。
その勘違いの原因は、映画や小説に描かれる勧善懲悪の原理にあると思われます。
 
もともと「勧善懲悪」という言葉は儒教にあるものですが、江戸時代の歌舞伎や読本の物語の原理を説明する言葉として一般に使われるようになりました。ハリウッド映画や「水戸黄門」はもちろん、推理小説や刑事ドラマなども基本的には勧善懲悪の原理で成り立っています。
 
物語は単純です。善人が悪人に苦しめられているところに正義のヒーローが現れ、悪人をやっつけ、善人を救い、めでたしめでたしとなります。
 
こうした物語に年中触れているために、現実も同じだと勘違いしている人が多いのではないでしょうか。
 
勧善懲悪はもともと物語の原理を説明する言葉として使われてきたもので、現実には当てはまりません。
物語では悪人と善人が一目見ただけでわかるようになっていますが、現実ではそんなことはありません。物語では正義のヒーローが必ず勝ちますが、現実では負けるかもしれません。そうすると勝った悪人が正義を名乗り、負けた正義のヒーローは悪人とされます。
つまり現実では、善人と悪人と正義のヒーローの区別はつかないのです。
 
また、物語には必ず終わりがありますが、現実に終わりはありません。かりに悪人をやっつけたとしても、仲間が復讐にくるとか、また新たな悪人が出現するとかして、かえって事態が悪化するということがありえます。
終わりがないと、悪人をやっつけた正義のヒーローはその場に君臨することになるでしょうが、絶対的強者だけに傲慢になり、悪人になるかもしれません。
 
つまり勧善懲悪の原理は物語の中だけで有効なのです(そのように物語がつくられているわけです)
 
しかし、倫理学がまったく役に立たない学問なので、代わりに勧善懲悪が俗流倫理学として社会に採用されています。
 
勧善懲悪はもちろん勧善と懲悪に分かれます。
昔はある程度両者のバランスがとれていたと思います。「一日一善」ということがよく言われ、小さな親切運動とか、社会を明るくする運動などが盛んに行われていました(調べると、小さな親切運動と社会を明るくする運動は今も行われています)
今は懲悪に比重がかかっています。ハリウッド映画は悪人をやっつけるシーンがどんどん派手になっていますし、世の中には凶悪犯罪が起こるたびに死刑にしろという声があふれます。
 
ですから、今の俗流倫理学を一言でいえば、
「悪いやつをやっつければ世の中はよくなる」
というものです。
 
いや、「悪いやつをやっつければ世の中はよくなる」と言うと、「ほんとうにそれで世の中はよくなるのか」と反論されるに違いありません。
ですから、世の中で言われるのは、
「悪いやつをやっつけろ」
ということです。
悪いやつをやっつけると気分がスカッとするので、みんなそれだけで満足し、やっつけたあとどうなるかは知ったことではないようです。
 
ヘイトスピーチも移民排斥もトランプ大統領の言っていることも、要するに「悪いやつをやっつけろ」ということです。
 
「悪いやつをやっつけろ」という俗流倫理学が世の中を動かしている状況はかなり滑稽です。

善と悪の定義もないのに道徳科が成立するわけがないということを、前回の「なぜ道徳教育は不可能なのか」という記事で書きました。
善と悪の定義がなくてもたいした問題はないという意見があるかもしれませんが、そんなことはありません。たとえば夫婦喧嘩はたいてい「お前が悪い」という認識から始まりますが、これについてはいくら議論しても解決しないので、どんどん問題がこじれていくのです。
 
なぜ善と悪の定義がないかというと、善と悪について根本的な認識の間違いがあるからです。それはさまざまな逆説的状況として表れているので、列記してみます。
 
 
「悪人」「悪党」「悪漢」「悪女」などの言葉にはどこか魅力的な響きがあるが、「善人」「善良な人」などの言葉にはあまり魅力的な響きがない。
 
若いころは不良だったと自慢する人はいるが、若いころはよい子だったと自慢する人はいない。
 
非行、登校拒否、家庭内暴力などの問題行動を起こす子どもは、小さいころよい子とされていたケースが多く、そのため最近は「よい子」とカギカッコつきで表記されることが多い。
 
ヤクザ、マフィア、ギャング、殺し屋、詐欺師、悪徳警官などを主人公にした小説や映画が多数存在し、読者や観客は主人公に感情移入している。
 
親鸞が言ったとされる「善人なおもて往生す、いわんや悪人においてをや」という言葉に深い感銘を受ける人が多い。
 
性善説と性悪説とどちらが正しいのかわからない。
 
「必要悪」という言葉がある。
 
 
善と悪は、人間がつくりだした概念で、人間に適用するものです。自然界に立脚していないので、人間の都合だけでどんなふうにもつくれます。そのためこんなおかしなことになっているのです。
 
善悪や道徳には根拠がないので、つねに暴走しがちです。
ですから、社会では道徳を制限するということが行われてきました。
 
たとえば、悪いことをしたことがない人はいないので、誰でも悪人と認定される可能性があります。それは困るので、あらかじめ法律を決めておき、法律に違反した場合だけ悪人と認定される制度になっています。法の支配とか法治主義といわれるものです。
マスコミも、逮捕されるまでは悪人扱いしないという不文律を守っています。
ただ、逮捕されるとマスコミは悪人として徹底的に非難し、容疑者に厳罰を与えるべきだと主張します。つまり道徳の暴走です。
ただ、これについても法律は、「懲役〇年以下」とか「罰金〇万円以下」というように刑罰に上限を決めています。
もしこうした法律がなく、道徳だけで裁かれるようになれば、恐ろしいことになるに違いありません。
 
道徳は人間を働き者と怠け者に分けます(これは善人と悪人のバリエーションです)
生活保護のような福祉の窓口で、担当者が来訪者を働き者か怠け者かを判定するようになると、福祉の業務が混乱することは必至です。働き者か怠け者かということに客観的な根拠はないからです。
 
政治の世界でも、レーガン大統領が「悪の帝国」と言い、ブッシュ(息子)大統領が「悪の枢軸」と言ったことがありますが、国際政治の世界に道徳を持ち込むのは危険なこととして批判されました。
トランプ大統領は平気で「悪いやつ」といった言葉を使っていますが、危険なことです。
 
学校教育に道徳を持ち込むのも、同様に危険なことです。
生活保護の担当者が受給希望者を働き者か怠け者かを判定するように、教師が子どもをよい子か悪い子かを判定するようになれば、教室が混乱するだけです。
教師はむしろ善悪のメガネを外して、ありのままの子どもを見つめることがたいせつです。

今年度から小学校で道徳科(特別の教科道徳)の授業が始まりましたが、教師はどのように成績をつけているのでしょうか。
常識的にはこういう五段階評価になるはずです。
 
よい子
ややよい子
普通の子
やや悪い子
悪い子
 
「欽ドン!」の「良い子・悪い子・普通の子」のようですが、子どもを道徳的に評価すればこうなるしかありません。
 
しかし、文科省は「数値による評価ではなく、記述式とすること」としています。
そして、なにを基準に評価するかというと、「一面的な見方から多面的・多角的な見方へと発展しているか」と「道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているか」ということを挙げています。
 
「多面的・多角的な見方」はたいせつなことですが、それは道徳科で学ぶというより、歴史や社会や国語を学ぶ中で身につけていくことではないかという気がします。
「道徳的価値」にいたっては、文科省だって理解していないはずです。
成績をつけるのに苦労している教師が多いというのももっともです。
 
 
そもそも道徳を教えるということはまったく不可能なことです。
というのは、道徳の中心概念である善と悪についての定義がないからです。
善とはなにか、悪とはなにかという問いに誰も答えられないのですから、教えられるわけがありません。
 
「善」を国語辞典で引くと、「よいこと」とか「道義にかなっていること」などとありますが、これは言い換えているだけです。
 
百科事典ではどうかということで、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「善」の項目を見てみました。
 
一行目に「意志を満足させるゆえに積極的価値をもつと判断されるものすべて」と書かれています。
わかりにくい文章ですし、「意志」という、これも定義の定かでない言葉を前提としています。ヒトラーの意志でもいいのかと突っ込みたくなります。
二行目以降はこうなっています。
 
ソクラテスは善を美や有用性と同一視し,善はキュレネ派では快であり,キュニコス派では苦の欠如である。プラトンでは善は存在の根拠,美や真の原理。アリストテレスは人間における善を幸福とし,すべて現実的なものは善であり,善はまず個物に存在するが,一般にはそのものの類的本質の実現にあるとした。彼はまたそれ自体善であるものと,それとの関係で善であるものとを区別した。スコラ哲学は存在と善を等置し,個物の善はそのものが神の意志したとおりのものであること,すなわちそのものの完全性にあるとされた。 T.ホッブズでは善は努力の目標となるもの,功利主義者にとっては幸福は最大の快,最小の苦であり,J.ベンサムは快楽計算を試み,B.スピノザもまた善の相対性,主観性を強調した。 I.カントはそれ自体善である倫理的善を,手段としての善である有用性とはっきり区別した。プラグマティズムは功利主義的相対論を継承し,G.ムーアらの分析哲学派も善か否かは判断される対象がおかれている場に依存することを強調している。
(後略)
 
つまり善についての考え方は人それぞれなのです(しかも、どれもわかりにくい)
 
岩波書店の「哲学・思想事典」で「善」を引いてみると、三ページ余りにわたって「西洋」「インド・仏教」「中国」「日本」の四項目に分けて説明がされています。ということは、これもばらばらだということです。
 
悪は善の対立概念とされるので、善がわからない以上悪もわかりません。
 
哲学者ジョージ・E・ムーアはこのような状況を踏まえて、「倫理学原理」という著作で善を定義することは不可能だと述べました(善は直観で理解するものだというのがムーアの立場です)。定義が不可能だということには異論がありますが、善に定義がないということは、これによって広く認められました。
 
それまで倫理学は、人間の善い生き方を探究する学問とされていましたが、善の定義がないということで、善とはなにか、道徳とはなにかということを探究しなければならなくなりました。その分野は「メタ倫理学」と呼ばれます。
従来の人間の善い生き方を探究する倫理学は「規範倫理学」と呼ばれます。
そして、生命科学の進歩によって生まれた生命倫理学、地球環境問題が生じたことによって生まれた環境倫理学などの新しい分野は「応用倫理学」と名づけられました。
つまり現代倫理学にはメタ倫理学、規範倫理学、応用倫理学という三つの分野があるわけです。
 
しかし、少し考えればわかることですが、メタ倫理学が善とはなにか、道徳とはなにかを解明しないと、規範倫理学も応用倫理学も成立しませんし、倫理学そのものも成立しません。
 
ということで、今は倫理学という言葉はありますが、倫理学の実体はないも同然です。
ですから、「道徳的価値」なるものは誰にもわかりません。
「良い子・悪い子・普通の子」もギャグにしかなりません。
こんな状況で道徳科をつくっても、教えることはなにもないし、教えた結果を評価できないのも当然です。
 
どうしても道徳を教えたければ、宗教と一体でやるしかありません。
欧米では、道徳教育をする場合はキリスト教倫理に基づきます。
戦前の日本の修身は、現人神である天皇からくだされた教育勅語を根拠としていました。
ですから、教育勅語を復活させたいという動きがあるのはわからないではありませんが、もはや天皇は現人神ではなく、教育勅語の中身も時代に合わないので、無意味なことです
 
道徳科をつくるという間違った政策のために、道徳を教え、評価するという不可能なことをさせられている教師が気の毒です。

インターネットで炎上しやすい事案のひとつに、「公共の場で子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりしているのに親がなにもしない」というのがあります。
「親はちゃんと子どもを叱れ」とか「親は泣いてる赤ん坊をその場から連れ出せ」という怒りの声がある一方、「子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは当たり前。怒るおとながおかしい」という声もあります。
 
こうした議論が起こるのは、「公共の場」についてのとらえ方に根本的な問題があるからと思われます。
 
コンサート会場のような特殊な場とか、私的な会合の場とかなら、子どもや赤ん坊を連れた親は出ていけと言われてもしかたありません。
 
では、飲食店はどうでしょうか。公共の場とはいえませんが、誰でも利用できる場だけに、それに近いところもあります。
高級レストランで子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりすると顰蹙を買うでしょう。
では、ファミレスではどうでしょうか。ファミリーレストランというぐらいですから、ファミリーで利用するのが前提で、ファミリーには子どもも赤ん坊もいます。子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのがいやだという人はファミレスを利用するべきではないでしょう。
 
ちなみに居酒屋では大声で騒ぐグループ客がよくいます。おそらく子どもが騒ぐ声よりも物理的に大きい声を出しているはずですが、誰も文句を言いません。居酒屋で騒ぐのは当たり前という認識があるからです。
ファミレスで子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは当たり前という認識があれば、問題はなくなるはずです。
 
いや、居酒屋の客の多くは男ですが、ファミレスの親子連れはたいてい母親と子どもです。母親と子どもという弱者だから文句を言うということもありそうです。
 
あと、赤ん坊に泣くなというのはさすがに理不尽ですから、誰もいいません。代わりに、母親を責めるということがよく行われます。たとえば松本人志氏は、「新幹線で子供がうるさい」「子供に罪はなし。親のおろおろ感なしに罪あり」とツイートしたことがあり、多くの賛同の声があったということです。しかし、こういう考え方が親を追い詰めるのは確かなことで、少子化の原因でもあるでしょう。
 
 
「公共の場」というのは、公道とか公園とか駅とか公共交通機関とか、誰でも利用できるところです。当然、子どもも赤ん坊もいます。子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは自然なことです。
 
公共の場には老人も身体障碍者もいます。
のろのろ歩く老人は、急いで歩いている人のじゃまになることがありますが、だからといって、公共の場では速く歩けとか、速く歩けない老人は公共の場から出ていけなどという人はいません。もしいたら、それこそ炎上騒ぎです。
車椅子の人も周りのじゃまになることがありますが、だからといって公共の場に車椅子で来るなという人はいません。
 
ところが、子どもや赤ん坊については、騒ぐなとか泣いたら連れ出せなどという人がいます。
子どもに騒ぐなというのは、老人に速く歩けというのと同じです。
泣いた赤ん坊を連れ出せというのは、公共の場に赤ん坊はいるべきでないといっているのと同じです。
 
どうやら世の中には、公共の場はおとなのものだと思っている人がいるようなのです。
そういう人は、子どもや赤ん坊は公共の場ではおとなのようにふるまうべきであり、それができないなら出ていくべきだと思って、そう主張するのでしょう。
 
しかし、公共の場はおとなだけのものではなく、おとなと同様に子どもや赤ん坊も利用する権利があります。
そのことを理解すれば、「公共の場で子どもが騒いだり赤ん坊が泣いたりするのは許せない」という考え方もなくなり、おとなと子どもの共生が進むのではないでしょうか。

杉田水脈議員については、「LGBTは生産性がない」という発言ばかりが注目されていますが、ほかにもトンデモ発言をしています。
201410月の衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と言ったのです。
男女平等を否定しているのです。
 
正確な発言はこうです。
 
「日本は、男女の役割分担をきちんとした上で女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名のもと、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です。男女共同参画基本法という悪法を廃止し、それに係る役職、部署を全廃することが、女性が輝く日本を取り戻す第一歩だと考えます」 (20141031日、本会議)
 
要するに「良妻賢母」とか「男を立て、男に従う女性」が「輝いている女性」だということです。
本会議場での発言ですから、安倍首相も聞いています。安倍首相は杉田議員をひいきしていましたから、安倍首相のいう「女性が輝く社会」がどういうものかもわかります。
 
杉田議員の発言のキーワードは「反道徳」です。
「道徳」とか「道徳的」という言葉は普通よい意味で使われます。自民党は道徳教育を推進してきましたから、とくに道徳をよいものと思っているでしょう。
しかし、差別について考えるときは、道徳はいい意味ばかりではありません。杉田議員も自民党もそのことを理解していないようです。
 
ということで、道徳と差別の関係をここで整理しておきたいと思います。
 
 
人類の祖先が道徳をつくりだしたのは文明の黎明期であったと思われます。そして、文明とともに差別も生まれました。
古代ギリシャ・ローマでは、周辺民族をバルバロイとかバーバリアンと呼んでさげすんでいました。古代中国では、やはり周辺民族を東夷、西戎、北狄、南蛮などと呼んでさげすんでいました。
ということは、道徳と差別は一体のものであったと考えられます。

奴隷制社会には奴隷制社会の道徳があって、奴隷を奴隷として扱うのが道徳的なことです。そんな扱いをしたらかわいそうだとか、奴隷を解放するべきだとか主張すると、不道徳的だとか反道徳だとか非難されます。
 
1964年の公民権法成立以前のアメリカ南部において、白人が黒人の友人を連れてレストランに入ってくれば、その白人は不道徳なふるまいをしたとしてひどく非難されます。レストランから黒人を追い出すのが道徳的なふるまいです。
 
時代の変化とともに黒人の地位が変わって、そうすると道徳も変わります。昔の道徳のままに黒人を扱うと、それは差別だとされます。
 
つまり「差別とは、今は否定されたひと昔前の道徳」です。
 
ですから、差別主義者とは昔気質の人でもあります。アメリカでいえば、親が黒人を差別しているのを見て育ち、自分も同じようにしていると、あるときからそれは差別だと批判されるわけです。批判する人たちは、時代の変化に敏感な知識人などです。昔気質の人は自分こそが道徳的だと思っているので、なかなか差別をやめません。
 
 
道徳が差別に変わるきっかけは、公民権法の成立などもありますが、根本的には科学や学問の世界における人間観の変化です。
黒人は昔は人間よりも動物に近いと思われていました。ダーウィンも人種の違いを重要なものと考えていましたが、生物学の進歩で人種はほとんど無意味な概念だとなって、黒人に対する昔の道徳的な扱いは人種差別とされるようになりました。
男と女の違いも、昔は本質的なものとされていましたが、文化人類学や生物学などによりたいした違いではないとされ、昔の道徳は性差別とされるようになりました。
同性愛も昔はよく理解されていませんでしたが、だんだんと解明されてきて、少なくとも趣味や嗜好の問題ではないとされ、同性愛嫌悪は差別だとされるようになりました。
 
杉田議員はそうした人間観の変化を理解せず、性差別やLGBT差別をいまだに道徳だと思っているのです。
 
 
差別を克服するには、正しい人間観を持つことが第一ですが、同時に道徳と差別の関係を知っておくことも必要です。

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