村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:倫理学

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私はこの「村田基の逆転日記」というブログのほかに「道徳観のコペルニクス的転回」というブログもやっています。
「村田基の逆転日記」では時事的なことを書き、「道徳観のコペルニクス的転回」では思想的なことを書くという分担になっています。
「村田基の逆転日記」は週1回程度更新していますが、「道徳観のコペルニクス的転回」は最初から本1冊分を丸ごと公開したので、更新するということはありません。

「道徳観のコペルニクス的転回」を開設するときにこのブログで告知し、その後もたまにここで「道徳観のコペルニクス的転回」というブログがあることに触れてきましたが、最近アクセスが低調です。
「道徳観のコペルニクス的転回」はひじょうに重要な内容なのですが、本1冊分の文章を読むのが面倒だという人も多いでしょう。“タイパ”が重視され、映画も10分程度のファスト映画を見て済ましてしまう時代です。

そこで、「道徳観のコペルニクス的転回」の冒頭の「初めにお読みください」という部分を全面的に書き改め、「このブログはこんなにすごい内容なんだよ」ということを書きました。
推理小説でいえばネタバレになるようなことなので、本来は書きたくなかったのですが、ともかく重要な内容であることを知ってもらわないと話になりません。

その書き直した部分は、このブログの基本的思想でもあるために、ここに掲載することにします(つまりふたつのブログに同じ文章が載ることになり、こちらでも読めます)。



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道徳観のコペルニクス的転回

「初めにお読みください」
このブログは、一冊の本になるように書いたものなので、「第1章の1」から順番に読んでください。


どういう内容かというと、もちろん読んでもらえばわかるわけですが、ここでごく簡単に説明しておきます。

私は若いころから「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを考えていました。世の中のほとんどの人は悪をなくしたいと思っているはずなのに悪がなくならないのは不思議なことです。戦争、暴力、犯罪、圧政、差別など、人が人を不幸にすることはすべて悪の範疇でしょう。悪を完全になくすことはできないとしても、十分に少なくすることができれば、人類の幸福に大いに貢献することができます。しかし、思想家や哲学者が「悪をなくす」という課題に取り組んだ形跡はほとんどありません。これもまた不思議なことです。
ちなみに倫理学では善の定義は存在しません。ジョージ・E・ムーアは二十世紀初めに『倫理学原理』において善を定義することは不可能だと主張し、それに対して誰も善の定義を示すことができなかったので、善の定義はないとされています。当然、悪の定義もありません。倫理学で善と悪の定義がないのは、数学で「1+1」の答えがわからないみたいなものです。ですから、倫理学はまったく役に立たない学問です。試しに倫理学の本をどれでも一冊読んでみてください。わけがわからなくてうんざりすること必定です。哲学書、思想書はどれも難解ですが、おそらくその根底には倫理学の機能不全があるに違いありません。

私は「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを愚直に考え続けました。そうするとあるとき、答えがひらめいたのです。その瞬間のことは今も鮮明に覚えています。頭の中がぐるりと回転しました。「アウレカ!」と叫んで走り出しそうになりました。私は人類史上画期的な発見をしたことを確信しました。
これまでの倫理学は天動説のようなものでした。私は地動説的倫理学に思い至ったのです。したがって、この発見を「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
地動説的倫理学だと善と悪の定義ができますし、道徳(倫理)に関するさまざまなことが論理的に説明できます。これだけで地動説的倫理学の正しいことがわかります。

「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけたのは、比喩としてこれ以上ないほど適切だからですし、コペルニクスによる地動説の発見に匹敵するほどの歴史上の大発見でもあるからです。こういうと、話が大きすぎて信じられないという人がいるでしょう(私はSF作家でもあるのでSFのネタとも思われそうです)。そこで、これが実際に歴史上の大発見であると納得してもらえるように説明したいと思います。


地動説的倫理学は、人類の祖先がどのようにして道徳をつくりだしたかという仮説に基づいています。道徳が神から与えられたものでない以上、人間がつくりだしたと見るのは当然です。
実は道徳起源の仮説はもうひとつあります。それはチャールズ・ダーウィンの説です。ダーウィンは『種の起源』の12年後に『人間の由来』を著し、進化論から見た人間を論じましたが、そこにおいて人類の祖先がいかにして道徳をつくりだしたかの仮説を述べているのです。ダーウィンの道徳起源説は私の道徳起源説とまったく違います。
ダーウィンの道徳起源説が正しいか否かは、その後の展開を見ればわかります。
『人間の由来』以降、社会における弱肉強食の原理を肯定する社会ダーウィン主義と、遺伝によって人間を選別することを肯定する優生思想が猛威をふるい、とりわけ優生思想はナチスに利用されて悲劇を生みました。また、ダーウィンは『人間の由来』において人種の違いの重要性を主張したので、人種差別も激化しました。
『人間の由来』が社会ダーウィン主義と優生思想と人種差別を激化させて、社会に混乱と悲劇を生んだために、やがて人間に進化論を適用して人間性や社会を論じることはタブーとなりました。『人間の由来』は、ダーウィンが進化論を人間に適用して論じるというきわめて興味深い本なのに、進化生物学界の黒歴史となり、進化論の解説書などにもほとんど取り上げられません。

とはいえ、人間に進化論を適用することがタブーであるというのはおかしなことで、なによりも非科学的です。そのため人間に進化論を適用することはつねに試みられてきました。たとえば、血縁淘汰説とゲーム理論によって動物の利他行動が理論的に説明できるようになったことを背景に、昆虫学者のエドワード・O・ウィルソンは『社会生物学』において、人文・社会科学は生物学によって統合されるだろうと主張し、これをきっかけに生物学界だけでなく社会学、心理学、政治学、文化人類学などを巻き込んだ「社会生物学論争」と呼ばれる大論争が起きました。なぜそのような大論争になったかというと、政治的な右派対左派の論争でもあったからです(ウィルソンなどは右派)。そして、この論争の結論は、やはり人間に進化論を適用するのは人種差別や性差別を助長するのでよくないというものでした。もっとも、その結論は科学的なものではなく、声の大きいほうが判定勝ちしたといったものでした。

なぜこんなおかしなことになるかというと、すべてダーウィンの道徳起源説に原因があります。
進化論は生存闘争をする生物の姿を明らかにし、人間も例外であるはずがありません。ところがダーウィンは、人間は神に似せてつくられ、エデンの園で善悪の知識の実を食べたというキリスト教的人間観を捨てきれなかったのです。
ダーウィンは進化論と道徳を結合しました。その道徳は天動説的倫理学の道徳でした。社会ダーウィン主義は「社会進化のために人間は生存闘争をする“べき”である」というものなので、進化論と道徳の結合体であることがわかります。同様に優生思想は「人間進化のために劣等な人間は子孫を残す“べき”でない」というものなので、やはり進化論と道徳の結合体です。進化論という科学と結合したことで道徳が暴走したのです。
ところが、誰もこの間違いに気づきませんでした。天動説的倫理学は世の中の共通のフォーマットだからです。

もともと天動説的倫理学と科学は相容れませんでした。それは「ヒュームの法則」という言葉で表されます。科学が明らかにするのはあくまで「ある」という事実命題であって、「ある」をいくら積み重ねても「べき」という道徳命題を導き出すことはできないというのがヒュームの法則です。デイヴィッド・ヒュームが1739年の『人間本性論』において、「ある」と「べき」を区別しない論者が多いことに驚くと述べたことからいわれるようになりました。「ある」から「べき」を導くと、それは「自然主義的誤謬」であるとして批判されます。ヒュームの法則はきわめて有効なので、「ヒュームのギロチン」ともいわれ、自然科学と人文・社会科学のつながりを断ち切ってきました。ダーウィンは「ある」と「べき」を進化論によってつなごうとしたのですが、失敗しました。

進化論は聖書の創造説が信じられていた西洋キリスト教社会に衝撃を与え、それは「ダーウィン革命」と呼ばれました。ダーウィン革命によって科学的人間観が確立されるはずでした。しかし、ダーウィンが道徳起源説を間違えたために、ダーウィン革命は挫折しました。
それから150年ほどたって、たまたま私が正しい道徳起源説を思いつき、ダーウィン革命を完成させる役回りを担うことになったというわけです。
以上が「道徳観のコペルニクス的転回」が歴史上の大発見であるということの説明です。

もっとも、「三流作家のお前の説よりも、偉大なダーウィンの説のほうが正しいに決まっている」と思う人もいるでしょう。どちらの説が正しいかは本文を読んで判断してください。
なお、ダーウィン説と私の説は正反対で、表裏がひっくり返ったようなものです。したがって、第三の説はないでしょうから、判断するのは簡単です。
最終的には進化生物学の専門家が決めればはっきりします。私としては、とりあえず進化生物学界の重鎮である長谷川眞理子・寿一夫妻(長谷川眞理子氏は『人間の由来』の翻訳者でもある)や、進化論と人間について大胆な説を展開してきた進化学者の佐倉統氏などに認めてもらうことを期待しています。


「道徳観のコペルニクス的転回」を信じてもらうために、その効用を少し述べておきます。

日本でもアメリカでも保守対リベラルの分断が深刻化していますが、これは社会生物学論争における右派対左派の対立と同じ構図です。社会生物学論争が科学的に解決しなかったので、今に持ち越されているのです。したがって、この対立は地動説的倫理学によって解消されるはずです。
保守対リベラルの対立のもとには人種差別、性差別、家族制度の問題があります。性差別と戦ってきたフェミニズムは、セックス(生物学的性差)とジェンダー(社会的性差)を区別し、セックスは肯定しますが、ジェンダーは否定します。しかし、なぜ肯定的なものから否定的なものが生じたのかは説明されません。これは「ある」と「べき」の関係がわからないのと同じです。地動説的倫理学は「ある」と「べき」の関係をはっきりさせるので、セックスとジェンダーの関係もはっきりします。これによってフェミニズム理論はわかりやすくなるでしょう。

さらに「子ども差別」というものがあることを指摘したいと思います。人種差別や性差別は、差別する側と差別される側が固定されて一生変わることがありませんが、子ども差別の場合は、おとなが子どもを差別し、子どもがおとなになると子どもを差別するというように、世代が変わるごとに差別する側と差別される側が入れ替わっていきます。そのためあまり認識されていませんが、子ども差別こそ文明における最大の問題です。

人間の能力は原始時代からほとんど変化していないので、文明が高度に発達するほど人間の負担が重くなります。とくに負担がかかるのは子どもです。人間は学ぶことを喜びとする性質があるのに、文明社会では子どもは学びたいと思う以上のことを強制的に学ばされています。また、「道路に飛び出してはいけません」とか「行儀よくしなさい」とか言われて、子どもらしいふるまいが抑圧されています。文明が進むほど子どもは不幸になります。子ども時代が不幸でもおとなになってからそれ以上に幸福になればいいというのが子どもを教育するおとなの理屈ですが、子ども時代の不幸はおとなになっても尾を引きます。
「子どもの不幸」を最初に発見したのはジグムント・フロイトです。しかし、これはおとなにとって不都合な真実ですから、フロイトはおとな社会の圧力に負けてすぐに隠蔽してしまい、代わりにエディプス・コンプレックスを中心とする複雑怪奇な理論を構築しました。その後も心理学者は発見と隠蔽を繰り返し、いまだ十分に認識されているとはいえません。幼児虐待も、子どもが殺されたりケガしたりするようなものが表面化するだけで、子どもが親による虐待に耐えかねて家出しても、警察などに発見されるとすぐに家に戻されてしまいます。最近は「毒親」や「アダルトチルドレン」や「サバイバー」という言葉もできて、自分の子ども時代の不幸を認識するおとながふえてきましたが、社会全体の理解はまだまだです。

これまで文明を論じるのは高度な知性を持ったおとなばかりでした。そのため文明は子どもの犠牲の上に築かれているという事実が認識されませんでした。地動説的倫理学によって初めて文明の全体像が認識できるようになったのです。これからはおとなと子どもがともに幸福であるような社会を目指さなければなりません。

家父長制という言葉があります。これはひとつの家庭に子ども差別と性差別がある家族制度だと見なすとよく理解できます。家族が愛情で結ばれているのではなく、夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配していて、子ども同士でも男と女、年上と年下で上下関係がある家族です。このような家族を維持するか、愛情ある家族を回復するかという対立が、保守対リベラルの対立の根底にあります。

最近、進化心理学など進化生物学を土台にした「進化〇〇学」と称する学問がいくつもできていますが、ヒュームの法則という枠がはめられているので、発展にも限界があります。しかし、地動説的倫理学に転換すればヒュームの法則を無力化することができ、人間の行動や心理に対する科学的研究が一気に進展します。
これは「ダーウィン革命の再開」であり、「第二の科学革命の始まり」です。

ぜひとも「道徳観のコペルニクス的転回」を理解していただきたいと思います。
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上の文章とその続きは次で読んでください。
「道徳観のコペルニクス的転回」


それにしても、私のような平凡な人間が「地動説に匹敵する歴史上の大発見」とか「第二の科学革命」とか言うのはひじょうに大きな心理的抵抗があります。その葛藤があるためこれまでよく伝えられなかったきらいがありました(それに加えてトラウマもありました。これについては「作家デビューのときのトラウマ」を参照)。
ようやく最近吹っ切れてきたので、この「初めにお読みください」を書き直すことができました。


「道徳観のコペルニクス的転回」とか「地動説的倫理学」といった比喩は決していい加減なものではありません。
私は善と悪の関係について考えました。私は「この人は善人。あの人は悪人」と判断していますが、私自身も他人から善人ないし悪人と判断されているわけです。もし自分が悪人であったら、私の判断はどうなるのでしょう。善人を悪人、悪人を善人と判断しているかもしれません。
自分が善人でなければ自分の判断は正しいということができません。
私は自分が善人である根拠はどこにあるだろうかと考えました。これはデカルトの方法的懐疑と同じですが、デカルトは「存在」を懐疑し、私は「判断」を懐疑したわけです。
私は「善人、悪人、自分」の関係はどうなっているのだろうと考えました。
コペルニクスは金星や火星の動きを明快に理論化できないかと考えているうちに、地球も金星や火星と同様に動いているのではないかと思いつき、「金星、火星、地球」の関係を考えているうちに太陽中心説を思いついたわけです。
私も同じようにして、あるものを中心とすることで理論化できたのです。
「あるもの」というのは、人間でなく動物、文明人でなく原始人、おとなでなく子どもです。
これまでは人間、文明人、おとなという自己中心の発想だったので、まともな倫理学が存在しませんでした。
ですから、「天動説的倫理学から地動説的倫理学へ」という比喩は実に適切です。


おとなが子どもを「よい子」や「悪い子」と判断し、「悪い子」を「よい子」にしようとすることが普通に行われています。
しかし、「よい赤ん坊」や「悪い赤ん坊」はいません。
いるのは「よいおとな」と「悪いおとな」です。
子どもと触れ合うことで人間の真の姿を知り、自分自身を見直すのが「よいおとな」です。
「悪いおとな」は子どもを「よい子」にしようとして、幼児虐待へと突き進みます。

幼児虐待は文明社会で広く行われています。
幼児虐待はDVの連鎖を生むだけでなく、自殺、自傷行為、さまざまな依存症、自己中心的な人間、冷酷な人間、猟奇犯罪者を生む原因でもあります。
「道徳観のコペルニクス的転回」が早く世の中に受け入れられることを願っています。


2015年、文科省は大学の文系学部を廃止する方向で改革するという報道があり、大きな騒ぎになりました。
この報道は少し行き過ぎていたようであり、文科省も反対の大きさに軌道修正したようでもあり、騒ぎは落ち着きました。
しかし、こうした騒ぎが起きるのは、多くの人が文系学問、とりわけ人文学系学問の価値に疑問を抱いているからでしょう。
人文学の中心にあるのは倫理学ですが、すでに述べたように倫理学はまったく機能していません。
機能していないことが逆に幸いして、倫理学は自然科学の侵入を防ぐ防壁になっていました。
しかし、防壁は今や壊れようとしているわけです。
人文学系学問はみずから脱皮しなければなりません。若い研究者の奮起が期待されます。

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新しいブログを開設したのでお知らせします。

このブログはもっぱら時事問題について書いていますが、新しいブログは私の思想について書いたものです。
次の行をクリックすると飛びます。

「道徳観のコペルニクス的転回」


私の思想がどういうものかは、新しいブログを読んでもらえばわかるわけですが、ここで簡単に説明しておきます。


私は若いころに「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを考えました。もし悪をなくす方法がわかれば、人類の幸福に大いに貢献することができます。
こんな大問題に思想家たちがまったく取り組んでいないように見えるのは実に不思議でした。

私は、悪をなくすことができないのは、道徳に欠陥があるからではないかと思いました。
理不尽なブラック校則のある学校では校則違反が多発するように、“ブラック道徳”があるので悪が多発するのではないかと思ったのです。
「嘘をついてはいけない」という道徳がありますが、嘘をつかない人間はいないので、行き過ぎた道徳です。「人に迷惑をかけてはいけない」という道徳もおかしなもので、人間は互いに迷惑をかけあっている存在です。
つまり道徳が人間性に合っていないのです。
道徳を人間性に合わせれば、悪の発生は、ゼロとはいかなくてもかなり減少させられるはずです。

倫理学の考え方はそれとは逆です。道徳は人間性を高めるものとされます。悪が存在するのは、道徳に背く人間の意志のせいです。したがって、みんなが自分の意志を正しくすれば悪はなくなるはずです。アリストテレスやカントは、人間は最高善を目指すべきだと説きました。

私は、人間性は変えられないので道徳を変えるしかないという考えです。
とはいえ、漠然と考えているだけでした。

そうして私は、道徳とはなにか、善とはなにか、悪とはなにかということを愚直に考え続けました。すると、あるとき答えがひらめいたのです。その瞬間、思わず「エウレカ!」と叫んで走り出しそうになったのを覚えています。
ひらめいた答えは、コペルニクスによる地動説の発見に似ているので「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
これは人類史上画期的な発見と思えました。

ただ、この答えは世の中の常識と正反対です。不用意に表現したのでは、天動説が信じられている世の中で「太陽が動いているのではない。地球が動いているのだ」と叫ぶみたいなもので、今の時代は宗教裁判こそありませんが、狂人扱いされるか無視されてしまいそうです。

そこで、とりあえずこのブログを始めました。「道徳観のコペルニクス的転回」をベースにして時事問題を論じるというものです。
ときどき「道徳観のコペルニクス的転回」にも直接言及して、反応を見ましたが、常識とまったく違うことですから、やはり理解されないようです。
つまり小出しにしては常識に負けてしまいます。常識と正面から戦って、打ち勝たないといけないのです。

というわけで、「道徳観のコペルニクス的転回」をまとまった形で表現したのが新しいブログというわけです。
ほぼ一冊分の本の内容が最初から入っています。


なお、最初に「私の思想」と言いましたが、ほんとうは「思想」ではなく「科学上の理論」といいたいところです。

思想は無力なものです。ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』において、監獄と学校をどちらも一望監視システムによって管理されていると論じましたが、この説が教育界に影響を与えた節はみじんもありません。
「道徳観のコペルニクス的転回」も思想として提出したのでは無視されるので、科学上の理論として認定されるように工夫しました。
これが科学として認定されれば、水戸黄門が悪人たちに葵の御紋の印籠を掲げるように、ヴァン・ヘルシング博士がドラキュラに十字架を突きつけるように、私は反対する人たちに対して、「これは科学だ」と主張するだけで黙らせることができます。
もちろん私一人が「これは科学だ」と主張しても意味がないので、進化生物学者を中心とする科学者の参加を待ちたいところです。

わかりやすく書いたので、ぜひ「道徳観のコペルニクス的転回」をお読みください。

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このままだと「お前」という言葉が使えなくなるかもしれません。
完全に議論が間違った方向にいっています。

発端は中日ドラゴンズの与田剛監督の発言でした。

中日応援歌自粛騒動 与田監督は言葉狩り非難に困惑隠せず
 中日が2日の巨人戦(東京ドーム)で0―6と今季4度目の零封負けを喫し、連勝が5でストップ。勢いに水を差す格好となったのが与田剛監督(53)の巻き起こした“応援歌騒動”だ。

 1日に中日の公式応援団がSNS上で応援歌「サウスポー」使用を自粛すると発表。指揮官が歌詞の「お前が打たなきゃ誰が打つ」の「お前」の部分を疑問視し、球団を通じて歌詞の変更を要請していた。この件がネット上で大炎上し、ワイドショーにも取り上げられるなど大騒動となった。

 今回の事態に与田監督は「意外と不本意な方向にいっているみたいで。僕は単純に『お前』という表現よりは名前の方にしてもらえませんかというのが事の発端なので。応援を自粛してくれとか、応援団を否定しているわけではない。リスペクトもしているのに、いろんな方が言葉尻を逆の方に持っていかれるのはさみしい」と語った。

 しかし、チーム関係者は「紳士たれの巨人軍でも坂本(勇)やゲレーロらの選手応援歌には『お前』のフレーズがあるのに公認されている。こんなことシーズン中に言いだすことではなかった。監督にはもっと試合だけに専念してほしいのに」と指摘する声もある。
(後略)
https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/1456512/


与田監督は「お前という言葉を子どもたちが歌うのは、教育上よくないのではないか」とも発言していますが、これに対して巨人ファンからは、巨人の球団歌の「ゆけゆけ、それゆけ、巨人軍~」というサビの部分を歌うと、中日ファンが「死ね死ね、くたばれ、巨人軍~」という替え歌をかぶせるのが常態化していて、こちらのほうがよほど教育上よくないのではないかという声も上がっています。

この騒動の原因は、ひとえに与田監督の考え違いにあります。
与田監督は、「お前が打たなきゃ誰が打つ」というフレーズを不快に思って、不快の原因は「お前」という言葉にあると思ったわけです。
しかし、「お前」という言葉に悪い意味はありません。目上の人に使えば失礼になりますが、ファンにとって選手は目上ではないはずです。

与田監督が「お前が打たなきゃ誰が打つ」というフレーズを不快に思ったのは理解できます。このフレーズは、「お前」以外のチーム全員を打てないと決めつけているからです。
  「誰が打つ」は反語表現です。受験コトバでいうと「誰が打つ(いや、誰も打たない)」となります。
1人の選手を奮起させるためにほかの選手を否定するというやり方は、ほかの選手が不愉快ですし、監督も不愉快です。
これまでこんな歌を歌っていた公式応援団が間違っています。
ですから与田監督は、「ほかの選手だって打つんだから、『お前が打たなきゃ誰が打つ』というフレーズはおかしい。やめてくれ」と言うべきでした。
そうすれば混乱は起きなかったでしょう。

それから、「お前が打たなきゃ誰が打つ」というフレーズは、選手にプレッシャーを与えるものです。
おそらくこの歌が歌われるときは、得点圏にランナーがいて、その選手が打つかどうかで試合が決まるような重要な場面でしょう。選手はすでにプレッシャーを感じているはずです。その上にさらにプレッシャーをかけるのはマイナスでしょう。

重量挙げとか百メートル走とかは、大きな大会で新記録が出るので、選手にプレッシャーをかけるのは意味があるかもしれませんが、野球のバッターの場合は、リラックスさせたほうがいいはずです。肩に力が入るとろくなことはありません。

与田監督はそういうことも感じて、「お前が打たなきゃ誰が打つ」というフレーズを不快に思っていたのかもしれません。


ところで、与田監督はなぜこの時期にこの発言をしたのでしょうか。
私がこれを書いている時点で、中日はセ・リーグの5位で、首位の巨人から12.5ゲーム離されています。
あまりのふがいない成績に、日ごろから感じていた「お前が打たなきゃ誰が打つ」に対する不快感を口にしたのでしょう。
いわば八つ当たりです。
ほんとうなら口にする以上、なぜ「お前が打たなきゃ誰が打つ」がだめなのかを正しく説明するべきですが、要するに八つ当たりなので、深く考えずに「お前」という言葉のせいにしたのです。
言葉のせいにするのがいちばん簡単なやり方です。

このように考えると、「言葉狩り」がどうして発生するのかも理解できます。
なにか不快な表現に出会ったとき、なぜそれが不快なのかを論理的に説明するのがめんどうなので、なにかの言葉のせいにするのです。

現在、中日の公式応援団は「サウスポー」を歌うのを自粛していますが、「お前」という言葉が悪いからだと説明すると、世の中が混乱します。
「お前が打たなきゃ誰が打つ」というフレーズが中日の選手に失礼だからだと説明するべきです。


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                 Enrique MeseguerによるPixabayからの画像

なぜ人間社会に幼児虐待という悲惨なことがあるのでしょうか。

幼児虐待は世代連鎖するとされます。つまり子どもを虐待する親は、自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いというのです。
そうすると、その親も子どものころ虐待されていたことになります。そして、その親もまた……とどんどんさかのぼっていくと、「人類最初の虐待親」にたどりつく理屈です。
もちろんそんな正確に連鎖するわけがありませんが、思考実験として「人類最初の虐待親はいかにして生まれたか」を考えるのもおもしろいでしょう。

反対に、いちばん最初から考えるという手もあります。
人類のいちばん最初のことは神話に書かれています。
もちろん神話は事実ではありませんが、なんらかの“真実”があるということもいえます。

旧約聖書の「創世記」に最初の人間であるアダムとイブのことが書かれています。アダムとイブは知恵の木から知恵の実を取って食べたためにエデンの園を追放された――と思っている人が多いのではないでしょうか。私も昔はそう思っていました。
しかし、実際は「知恵の木」でもなければ「知恵の実」でもありません。
この違いは重要です。

今はネットで簡単に聖書が読めます。次のふたつのサイトを参考に、要点をまとめてみました。

創世記(口語訳) - Wikisource

Laudate | はじめての旧約聖書 - 女子パウロ会


神は最初の人であるアダムをつくってエデンの園に住まわせた。エデンの園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」があった。神はアダムに「あなたは園のすべての木から満ち足りるまで食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。必ず死ぬからである」と言った。神はさらにイブをつくって、二人は夫婦となった。二人とも裸だったが、恥かしくはなかった。生き物のうちでもっとも狡猾な蛇はイブに、善悪の知識の木について、「食べてもあなた方は決して死ぬようなことはありません。 その木から食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者になることを神は知っているのです」と言った。イブはその実を取って食べ、アダムにも食べさせた。すると二人の目は開け、自分たちが裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、イチジクの葉で腰を隠した。二人が善悪の知識の木から食べたことを知った神は「人はわれわれの一人のように善悪を知る者となった。彼は命の木からも取って食べ、永久に生きるものになるかもしれない」と言い、アダムとイブを楽園から追放し、以後、人間は苦しみに満ちた生活を強いられるようになった――。

つまり「知恵の木」ではなく、「善悪の知識の木」ないし「善悪を知る木」なのです。

「善悪の知識の木」はヘブライ語の「エツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラ」の直訳です。
どうしてそれが「知恵の木」と訳されることが多いかというと、「善と悪」には「すべての」という意味もあるからだというのです。つまり「すべての知識の木」だから「知恵の木」というわけです。
しかし、それは間違った解釈でしょう。
「知恵の木」と訳すと、そのあとの「神のように善悪を知る者になる」という言葉とつながりません。

神が善悪の判断をする限りは問題ありません。正しく判断するか、正しくなくても人間は受け入れるしかないからです。
しかし、人間が善悪の判断をすると、自分に都合よく判断します。
みんなが自分に都合よく判断すると、対立と争いが激化します。


この物語は基本的に、幼児期は母親に守られて幸せだった人間が自立するときびしい現実の中で生きなければならないことのアナロジーになっています。そのため誰でも心の深いところで共鳴するものがあるはずです。

子どもが自立するのは、昔なら十二、三歳でしょう。
しかし、善悪の知識を得た人間においては、親は子どもを善悪で評価します。子どもが言葉を覚えたころからそれが始まるでしょう、親から「悪い子」と見なされた子どもは、怒られたり、叱られたり、体罰をされたりします。
つまり人間が善悪の知識を得たことから幼児虐待は始まったのです。

楽園追放の物語は、人間は善悪を知ることで不幸になったということを教えてくれます。

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幼児虐待についての悲惨なニュースが続いています。
幼児虐待をなくしたいと思わない人はいないはずです。
しかし、どうすればいいかを考えようとしても、ほとんどの人はそこで思考停止に陥ってしまいます。
「灯台もと暗し」と言いますが、幼児虐待は自分自身の足元の問題だからです。

考えるには手がかりが必要です。
虐待のある家庭と虐待のない家庭を比較するのがひとつの手です。
虐待のない家庭というのは、要するに普通の家庭です。
そこらにあるのが普通の家庭ですから、たまたま目についた数日前の朝日新聞の投書を、一部省略して紹介します。


(ひととき)わが家の小さな花束
 若い頃の私は、庭仕事には全く関心がなく、草取りが最も嫌いな家事だった。
(中略)
 そんな私を変えたのは、幼い娘だった。ある夜、娘は「明日、保育園にお花を持っていく」と言った。突然のことに「でも家にはお花なんてないよ」と言うと娘は泣き出した。困った私は娘をつれて外に出た。近所の空き地に白いクローバーの花が咲いていた。娘は数本摘んで、小さな花束を作って言った。「これでいい」。娘がとてもいじらしく、小さな庭があるのに何もしなかった自分を恥じた。「ごめんね。そのうち花束を作ってあげる」
 心を入れ替えた私は、雑草を取り、土を耕し、花の苗を植え世話をした。失敗も多かったが、念ずれば通ずるなのか、何とか花が咲いた。バラや宿根草が根付き、庭らしくなった。娘は小中高校時代、毎年1回は花束を抱え、うれしそうに登校した。花束を作るたびにあの夜の罪ほろぼしをしているような気持ちになった。これで少しは許してもらえるかな。
 今は、孫たちに花束を作っている。喜んで持っていく姿を見るのはうれしい。
 (千葉県柏市 主婦 65歳)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14050538.html?rm=150


いい話です。愛情が感じられます。
ただ、この話だけだと、なんの教訓も得られません。
そこで、虐待のある家庭だとどうなるかを想像してみます。

娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言い、「家にはお花なんてないよ」と言うと、娘は泣き出しました。夜なので花を買いにいくこともできません。ここで、「わがままを言ってはいけません」と叱る母親も多いのではないでしょうか。叱られた娘はますます泣いて、母親もますます叱ってと、負のスパイラルに入ると、虐待が生じてしまいます。

しかし、この母親は娘といっょに家を出ます。「どこにも花はない」と言葉で説得しても娘は納得しないので、いっしょに花を探して、ないことがわかれば納得してくれると思ったのでしょう。
ここがこの母親の偉いところです。言葉で説得するのはおとなの論理です。

娘はクローバーの花を見つけ、「これでいい」と言います。小さい花ですが、ほかにないことがわかったので、それで自分を納得させたのでしょう。子どもでも現実と向き合えば、最善の判断ができるということです。
母親は、娘が小さな花でがまんしたことがわかり、いじらしく思い、庭仕事をしなかった自分のせいだとも思い、それから庭仕事に精を出します。

ここでもほかの母親なら、「そんな小さな花はやめなさい」とか「そんなのを持っていったらお母さんが恥をかくからだめ」とか「昼間自分で摘んだらいいじゃない」とかと、おとなの論理を振り回して、娘とバトルを演じたかもしれません。


この母親は娘の気持ちに寄り添っているので、虐待などは起こりようがありません。
しかし、このように娘の気持ちに寄り添えたのは、母親に気持ちの余裕があったからです。
たとえば家計が苦しくて、借金のことで頭がいっぱいだったとすれば、いくら娘が泣いても、母親は家を出て花を探しにいこうという気にはならず、娘を叱ることで対応していたでしょう。
虐待の起こる家庭というのは、たいてい貧困層で、夫が無職というケースが多いことを見てわかります。

しかし、母親に気持ちの余裕がなくても、夫や親族や近所の人などのささえる人がいれば、やはり虐待は起こらないでしょう。

ですから、生活の余裕と周りのささえが虐待防止にはたいせつなことですが、これは今さら言うまでもないことかもしれません。
あと、もうひとつ、誰も言わない重要なことがあります。
それは「道徳」を持ち込まないということです。

娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言ったとき、それを「わがまま」ととらえる親がいます。
そして、娘が泣き出すと、「わがまま」がさらにエスカレートしたと見なし、こうしたことを放置すると限りなくわがままになると考えて、叱ってわがままを言わさないようにします。
こうしたやり方が虐待の第一歩です。

子どもがかたづけをしない、食べ物をこぼす、言いつけを守らないなどのことを「わがまま」や「悪」と見なし、しつけをして矯正しなければならないというのが虐待親の認識です。
ですから、事件を起こして逮捕された親は決まって「しつけたのためにやった」と言います。

今の世の中は、親が子どもをしつけるのはよいこととされているので、逮捕された親が「しつけのためにやった」と言うと、誰も反論できません。

道徳は言葉でできています。おとなは言葉を自由にあやつれますが、子どもは言葉が十分に使えません。そのため、道徳はおとなに有利にできています。その道徳に従ってしつけをすると、むしろ親がわがままになり、どうしても虐待につながっていくのです。

愛情のある親は直感的にそのことがわかっているので、子どもにしつけをするにしても、ほどほどにするので、虐待には至りません。

道徳やしつけを根本的に見直すことが幼児虐待防止にはなによりたいせつです。


昔、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」という番組に「良い子・悪い子・普通の子」というコーナーがありました。
娘が「明日、保育園にお花を持っていく」と言って泣いたときの母親の対応をそれにならって言うと、

「悪い母親」は、娘を叱る。
「普通の母親」は、娘の前でおろおろする。
「良い母親」は、娘といっしょに花を探しに出かける。

ということになります。

娘といっしょに花を探しに出かけたら、いろんなたいせつなものを見つけたというお話です。

幼児虐待をする親というのは、たいてい「しつけのためにやった」と言って自分を正当化し、めったに反省しません。
一方、まったく虐待をしない親もいます。
この違いは、親自身が過去に虐待されていたという“虐待の連鎖”で説明されますが、それだけではありません。
“悪”についての認識の違いもあります。
 
次の記事が“悪”について考えさせてくれます。
 
 

悪いことをしたら、叩いてでも分からせた方がいい?「叩くしつけ」に賛否両論の声

子どもが悪いことをした時に、親が叱るのは当然の義務です。しかしその叱り方に頭を抱える人は少なくなく、先日も主婦の「“叩くしつけ”って必要ですか?」という投稿が注目の的に。一体世の育児経験者たちは、彼女の質問に対してどのような見解を出したのでしょうか。
 
■ 育児には“叩くしつけ”も必要…?
 
相談者は、1歳の娘を育てる30代の専業主婦。最近彼女の娘はおもちゃを無闇に放り投げるそうで、先日義実家を訪れた際もおもちゃを投げまくっていました。そこで相談者は、「人に当たったら痛いでしょ?」「おもちゃが『痛い!』って言ってるよ。大事にしてあげようね」と子どもに注意。するとその一部始終を見ていた義母から、「そんなしつけでは効果がない」「時には叩くことも必要」と指摘されてしまったそうです。
 
とはいえ、幼い我が子を叩くのに抵抗を感じる相談者。「悪いことをしたら、叩いてでも分からせた方がいいのでしょうか」とネット上に悩みを打ち明けたところ、「叩くべきではない」「義母の言い分は分かるかも」といった賛否両論の意見が飛び交いました。
 
まず義母の育児法に異論を唱える人からは、「1歳でしょ? 普通は叩かない。物を投げるのも元気な証拠」「叩く育児は“自分より力のない者を叩いてもいい”と教えているだけ」「物を投げるのも成長のうち。色々な経験を経て物事を理解していくので、今は何の注意もいらないと思う」などの意見が続出していました。
 
「私も1歳の娘を叩いたことがあります」と語る女性からは、「今度は娘の方がお友達や私を叩くようになってしまった」というコメントが。
 
一方、中には義母の育児論を“良し”とする声もありました。「1歳の子どもに口で注意しても理解できない。お姑さんの子育て法は正しいと思う」「毎回叩くのはダメだけど、お姑さんの言う通り“時には”叩くことも必要」と“叩くしつけ”に賛同する人も少なくありません。
 
■ 育児経験者たちのリアルな本音
 
“叩くしつけ”については、人によって様々な見解がある模様。子ども支援専門の国際NGOである公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンは、2017年に国内2万人に対し、しつけに関する意識・実態調査を実施。
 
調査によると、約6割の回答者が“叩くしつけ”に肯定的であることが明らかになっています。
 
同調査では、“叩くしつけは必要”と考える理由についてもアンケートを実施。すると上位には、「口で言うだけでは、子どもが理解しないから」「その場ですぐに問題行動をやめさせるため」「痛みを伴う方が子どもも理解すると思うから」といった回答が並びました。ちなみに“しつけの一環として子どもを叩いたことがある親”は、7割以上を占めているそうです。
 
あなたは、育児に“叩くしつけ”は必要だと思いますか?
 
/藤江由美
 
 
ここにはふたつの対立点があります。
ひとつは、しつけをするときにたたいてよいのか悪いのか、つまり体罰はいいのか悪いのかという問題です。
しかし、体罰がだめなのはわかりきった話です。体罰は子どもの脳を萎縮・変形させることが科学的に明らかになっており、厚生労働省は「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを展開しています。アンケートでは約6割が体罰に肯定的だということですが、このアンケートは2017年のもので、今やるとかなり違うはずです。
 
この記事にはもうひとつ対立点があります。
それは、1歳の娘がおもちゃを投げるのは悪いことか否かという問題です。
相談者である母親は「悪いこと」と認識しています。
一方、ネット上の意見には「物を投げるのも元気な証拠」とか「物を投げるのも成長のうち。色々な経験を経て物事を理解していく」と、「悪いこと」とは認識していないものがあります。
 
しかし、記事はこの対立点は深く掘り下げません。体罰是か非かの対立点がメインで、こちらはサブの扱いになっています。記事の冒頭に「子どもが悪いことをした時に、親が叱るのは当然の義務です」と書かれているように、この記事のライターが「子どもは悪いことをするもの」と認識しているからでしょう。
 
しかし、私の考えでは、この対立点こそ重要です。
1歳のわが子の中に悪が芽生える――この母親はそう考えているのですが、これは悪魔の認識です。
子どもがある程度成長すれば、友だちの影響で悪いことをするようになったとか、テレビやゲームの影響で悪いことをするようになったとかと考えることも可能です。しかし、1歳の子どもはほぼ完全に親の影響下にあるはずです。しかも、自分と自分が選んだ配偶者の遺伝子を受け継いでいます。その子どもの中から悪が芽生え、自分はその悪を刈り取る立場にあるというのは、論理的に成立しません。
 
いや、子どもの「自由意志」から悪が芽生えるのだという考え方があるかもしれません。
しかし、「自由意志」は科学的にはほぼ否定されていますし、かりにあったとしても、外部からはコントロールできないはずで、「子どもをしつける」ということと矛盾します。
 
子どもが物を投げるのは発達の一過程で、そうすることで運動能力が高まります。子どもに「物を壊してやろう」とか「人を痛い目にあわせてやろう」という気持ちがあるはずありません。普通の親なら「物を投げられるようになった」と喜ぶところです。「将来は大谷翔平選手みたいになるのではないか」と思う親バカがいるかもしれません。
 
ところが、自己中心的な親はそれを「迷惑行為」さらには「悪」ととらえて、やめさせようとします。この母親は、実際には当たってもたいして痛くないのに「人に当たったら痛いでしょ?」と大げさに言い、さらには「おもちゃが『痛い!』って言ってるよ」と嘘を言っています。
 
子どもが「悪」だと、自分のしつけは「正義」だということになります。
これが幼児虐待をする親の論理です。
「しつけのためにやった」という言葉には、こういう論理があります。
 
自分と自分の選んだ配偶者の遺伝子を受け継ぎ、自分の影響下にある子どもの中に悪が芽生えたとしたら、それは自分の悪が受け継がれたと考えるのが論理的な思考というものです。
幼児虐待は論理的思考の欠如がもたらすものでもあります。

箴言家のラ・ロシュフコーは「太陽と死は直視できない」と言いましたが、私はそれにならって「太陽と死と幼児虐待は直視できない」と言っています。
幼児虐待はあまりにも悲惨なので、なかなか直視できません。そのために思考がおかしなほうに行ってしまうことがあります
 
次の判決も、そうした例です。
 
父刺殺の19歳、懲役4~7年 横浜地裁判決
 横浜市で昨年1月、父親を殺害したとして殺人罪に問われた少年(19)の裁判員裁判の判決が19日、横浜地裁であった。深沢茂之裁判長は、懲役4年以上7年以下(求刑懲役5年以上10年以下)の不定期刑を言い渡した。
 判決などによると、少年は昨年1月20日、母親と父親(当時44)の口論を聞き、母親が父親から危害を加えられるかもしれないと考え、父親の胸などを包丁で刺して殺害した。深沢裁判長は、父親からの仕返しを恐れて複数回刺したとして「身勝手で極めて厳しい非難に値する」と述べた。
 公判で、検察側、少年側双方が少年は父親から蹴られるなどの暴行を受け、事件当時まで母親に対するDV(家庭内暴力)を見聞きしてきたと指摘。少年側は「虐待や家庭内暴力といった家族の病理が引き起こした事件」として少年院送致を求めたが、判決は「父親の暴力はしつけだと(少年が)受容していた部分もあり、かれつな虐待とまでは認められない」と判断した。
 
 
「父親の暴力はしつけだと(少年が)受容していた」とは、びっくりの判決です。受容していたなら父親を殺すことはなかったはずで、矛盾しています。
幼児虐待の悲惨さが直視できないので、虐待を正当化する心理が働いているのではないかと思われます。
 
こんなもろに暴力を肯定する判決が出て、世の中からスルーされているのは不思議です。
バイト店員のくだらない動画を炎上させるより、こっちを炎上させたほうがよほど世の中のためです。
 
 
松本人志氏は前から体罰事件が起こるたびに体罰を正当化する発言をして物議をかもしていますが、野田市の栗原心愛さんが死亡した事件でも、やはりおかしなことを言いました。
 
松本人志 小4虐待死事件で持論「とんでもない親でも…そこが救われるところでもあると」
お笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志(55)が10日、フジテレビ「ワイドナショー」(日曜前10・00)に出演。千葉県野田市立小4年の栗原心愛(みあ)さん(10)が、父親の虐待により自宅浴室で死亡した事件について、私見を語った。
(中略)
また「分かりませんけど」と前置きし、心愛さんの年齢にも触れつつ「こんなとんでもない親でも、心底憎んではいなかったと思うんです最後まで」とも。さらに「それを思うと、すごくかわいいし、かわいそうだし…。どこかそこが救われるところでもあるかなって思ってしまったりもする」と話し、悲惨な事件の中にある“救い”を必死に求めていた。
 
これも同じ心理で、悲惨さを直視できないので、“救い”を求めるわけです。
しかし、それは虐待防止に逆行します。
 
こうした論理は、悲惨な戦死者を“英霊”として美化するのと同じです。
 
 
タレントのフィフィさんはフェイクニュースを発信して、騒動を起こしました。
 
フィフィSNSの誤情報をメディアも拡散、「PVは麻薬」早さ優先のネット記事の功罪
 タレントのフィフィが、自身のSNSで蓮舫議員について誤った情報を発信。さらに、その発言がネットニュースで事実のように報道されたことが問題になっている。
 
 きっかけとなったのは17日、フィフィが自身のTwitterで「私は問いたい、なぜ平成16年の警察の積極的介入を盛り込んだ児童虐待防止法改正に反対した蓮舫議員が、今回の虐待死の件で現政権を責めることを出来るのか、私はその真意を問いたい。あなたは本当に国民の側に向いているのですか?それ以前に同じ親の立場として問いたい、なぜあの時反対をしたのですか?」と立憲民主党・副代表の蓮舫議員を猛烈に批判したこと。
 
 しかし、この発言は誤りで、全くの事実無根だった。まず、投稿では蓮舫議員が反対したことを責めているが、児童虐待防止法の改正は全会一致で可決されており、反対した議員は1人もいない。さらに、この法案は平成164月に国会で成立したものだが、そもそも蓮舫議員が議員になったのはその年の7月。つまり、蓮舫議員は当時議員ですらなかった。
 
 しかし、このフィフィの発言は瞬く間に拡散され、日刊スポーツやスポーツ報知などが取り上げさらに拡散した。当然、蓮舫議員は「何か誤報が流布されているようです。(フェイクです)」と報道を真っ向否定。批判が殺到したフィフィは蓮舫議員に謝罪し、当該の投稿も削除した。一方、フィフィの投稿を掲載した日刊スポーツは「事実関係について十分に確認しないまま、掲載をしてしまいました。関係者に、お詫びいたします」と謝罪し、当該記事も削除した。
 
 蓮舫議員は一連の騒動後、「大手メディアもファクトチェックをせずに記事を配信しているようで…、残念です」とツイートしている。
(後略)
 
児童虐待防止法改正が可決されたとき、蓮舫議員は議員ではなかったとか、全会一致で可決されていたとか、間違いのレベルが半端ではありません。フェイク情報が生まれるメカニズム解明のヒントになるので、フィフィさんの個人的な勘違いか、どこかから引っ張ってきた情報か、知りたいところです。
 
ただ、この間違いの背景はわかります。
フィフィさんは前からリベラルたたきの発言をよくしていました。野田市の栗原心愛さんが虐待死した事件が注目を浴びているのを利用して、リベラルたたきをしようとしたのでしょう。
しかし、これは方向性が間違っています。幼児虐待や体罰を肯定するのは右翼や保守のほうだからです。
このことはこのブログでも書きました。
 
『幼児虐待を招く自民党の「親尊子卑」思想 』
 
この機会にリベラルたたきをしようとしても、よい材料がない。そのとき、格好の情報を目にした(あるいは頭の中で生成された)。そのため、ろくに検証もせずにフェイク情報に飛びついてしまったのでしょう。
 
もっとも、この情報が正しかったとしても、蓮舫議員の評価を落とすことには成功しますが、幼児虐待防止にはなんの役にも立ちません。
フィフィさんはなにを訴えたかったのでしょうか。
 
 
子どもが死ぬような事件が起こったときは、誰もが幼児虐待はけしからんと言いますが、うわべだけで言っている人が多いのも事実です。
どこか心の中では虐待や体罰を正当化していて、それがおかしな言葉になって出てきます。
そうしたおかしな言葉をモグラたたきのようにひとつずつつぶしていくのもたいせつな作業です。

善と悪については、定義もないし客観的な基準もありません。ですから、善と悪は使いものにならない概念です。学問の世界では、善悪を切り離す善悪相対主義が当然のこととされています。
正義についても同じです。正義の定義はなく、正義論は正義を論じる思想家の数だけあります。
ところが、多くの人は善悪や正義を価値あるものと勘違いしています。
その勘違いの原因は、映画や小説に描かれる勧善懲悪の原理にあると思われます。
 
もともと「勧善懲悪」という言葉は儒教にあるものですが、江戸時代の歌舞伎や読本の物語の原理を説明する言葉として一般に使われるようになりました。ハリウッド映画や「水戸黄門」はもちろん、推理小説や刑事ドラマなども基本的には勧善懲悪の原理で成り立っています。
 
物語は単純です。善人が悪人に苦しめられているところに正義のヒーローが現れ、悪人をやっつけ、善人を救い、めでたしめでたしとなります。
 
こうした物語に年中触れているために、現実も同じだと勘違いしている人が多いのではないでしょうか。
 
勧善懲悪はもともと物語の原理を説明する言葉として使われてきたもので、現実には当てはまりません。
物語では悪人と善人が一目見ただけでわかるようになっていますが、現実ではそんなことはありません。物語では正義のヒーローが必ず勝ちますが、現実では負けるかもしれません。そうすると勝った悪人が正義を名乗り、負けた正義のヒーローは悪人とされます。
つまり現実では、善人と悪人と正義のヒーローの区別はつかないのです。
 
また、物語には必ず終わりがありますが、現実に終わりはありません。かりに悪人をやっつけたとしても、仲間が復讐にくるとか、また新たな悪人が出現するとかして、かえって事態が悪化するということがありえます。
終わりがないと、悪人をやっつけた正義のヒーローはその場に君臨することになるでしょうが、絶対的強者だけに傲慢になり、悪人になるかもしれません。
 
つまり勧善懲悪の原理は物語の中だけで有効なのです(そのように物語がつくられているわけです)
 
しかし、倫理学がまったく役に立たない学問なので、代わりに勧善懲悪が俗流倫理学として社会に採用されています。
 
勧善懲悪はもちろん勧善と懲悪に分かれます。
昔はある程度両者のバランスがとれていたと思います。「一日一善」ということがよく言われ、小さな親切運動とか、社会を明るくする運動などが盛んに行われていました(調べると、小さな親切運動と社会を明るくする運動は今も行われています)
今は懲悪に比重がかかっています。ハリウッド映画は悪人をやっつけるシーンがどんどん派手になっていますし、世の中には凶悪犯罪が起こるたびに死刑にしろという声があふれます。
 
ですから、今の俗流倫理学を一言でいえば、
「悪いやつをやっつければ世の中はよくなる」
というものです。
 
いや、「悪いやつをやっつければ世の中はよくなる」と言うと、「ほんとうにそれで世の中はよくなるのか」と反論されるに違いありません。
ですから、世の中で言われるのは、
「悪いやつをやっつけろ」
ということです。
悪いやつをやっつけると気分がスカッとするので、みんなそれだけで満足し、やっつけたあとどうなるかは知ったことではないようです。
 
ヘイトスピーチも移民排斥もトランプ大統領の言っていることも、要するに「悪いやつをやっつけろ」ということです。
 
「悪いやつをやっつけろ」という俗流倫理学が世の中を動かしている状況はかなり滑稽です。

善と悪の定義もないのに道徳科が成立するわけがないということを、前回の「なぜ道徳教育は不可能なのか」という記事で書きました。
善と悪の定義がなくてもたいした問題はないという意見があるかもしれませんが、そんなことはありません。たとえば夫婦喧嘩はたいてい「お前が悪い」という認識から始まりますが、これについてはいくら議論しても解決しないので、どんどん問題がこじれていくのです。
 
なぜ善と悪の定義がないかというと、善と悪について根本的な認識の間違いがあるからです。それはさまざまな逆説的状況として表れているので、列記してみます。
 
 
「悪人」「悪党」「悪漢」「悪女」などの言葉にはどこか魅力的な響きがあるが、「善人」「善良な人」などの言葉にはあまり魅力的な響きがない。
 
若いころは不良だったと自慢する人はいるが、若いころはよい子だったと自慢する人はいない。
 
非行、登校拒否、家庭内暴力などの問題行動を起こす子どもは、小さいころよい子とされていたケースが多く、そのため最近は「よい子」とカギカッコつきで表記されることが多い。
 
ヤクザ、マフィア、ギャング、殺し屋、詐欺師、悪徳警官などを主人公にした小説や映画が多数存在し、読者や観客は主人公に感情移入している。
 
親鸞が言ったとされる「善人なおもて往生す、いわんや悪人においてをや」という言葉に深い感銘を受ける人が多い。
 
性善説と性悪説とどちらが正しいのかわからない。
 
「必要悪」という言葉がある。
 
 
善と悪は、人間がつくりだした概念で、人間に適用するものです。自然界に立脚していないので、人間の都合だけでどんなふうにもつくれます。そのためこんなおかしなことになっているのです。
 
善悪や道徳には根拠がないので、つねに暴走しがちです。
ですから、社会では道徳を制限するということが行われてきました。
 
たとえば、悪いことをしたことがない人はいないので、誰でも悪人と認定される可能性があります。それは困るので、あらかじめ法律を決めておき、法律に違反した場合だけ悪人と認定される制度になっています。法の支配とか法治主義といわれるものです。
マスコミも、逮捕されるまでは悪人扱いしないという不文律を守っています。
ただ、逮捕されるとマスコミは悪人として徹底的に非難し、容疑者に厳罰を与えるべきだと主張します。つまり道徳の暴走です。
ただ、これについても法律は、「懲役〇年以下」とか「罰金〇万円以下」というように刑罰に上限を決めています。
もしこうした法律がなく、道徳だけで裁かれるようになれば、恐ろしいことになるに違いありません。
 
道徳は人間を働き者と怠け者に分けます(これは善人と悪人のバリエーションです)
生活保護のような福祉の窓口で、担当者が来訪者を働き者か怠け者かを判定するようになると、福祉の業務が混乱することは必至です。働き者か怠け者かということに客観的な根拠はないからです。
 
政治の世界でも、レーガン大統領が「悪の帝国」と言い、ブッシュ(息子)大統領が「悪の枢軸」と言ったことがありますが、国際政治の世界に道徳を持ち込むのは危険なこととして批判されました。
トランプ大統領は平気で「悪いやつ」といった言葉を使っていますが、危険なことです。
 
学校教育に道徳を持ち込むのも、同様に危険なことです。
生活保護の担当者が受給希望者を働き者か怠け者かを判定するように、教師が子どもをよい子か悪い子かを判定するようになれば、教室が混乱するだけです。
教師はむしろ善悪のメガネを外して、ありのままの子どもを見つめることがたいせつです。

今年度から小学校で道徳科(特別の教科道徳)の授業が始まりましたが、教師はどのように成績をつけているのでしょうか。
常識的にはこういう五段階評価になるはずです。
 
よい子
ややよい子
普通の子
やや悪い子
悪い子
 
「欽ドン!」の「良い子・悪い子・普通の子」のようですが、子どもを道徳的に評価すればこうなるしかありません。
 
しかし、文科省は「数値による評価ではなく、記述式とすること」としています。
そして、なにを基準に評価するかというと、「一面的な見方から多面的・多角的な見方へと発展しているか」と「道徳的価値の理解を自分自身との関わりの中で深めているか」ということを挙げています。
 
「多面的・多角的な見方」はたいせつなことですが、それは道徳科で学ぶというより、歴史や社会や国語を学ぶ中で身につけていくことではないかという気がします。
「道徳的価値」にいたっては、文科省だって理解していないはずです。
成績をつけるのに苦労している教師が多いというのももっともです。
 
 
そもそも道徳を教えるということはまったく不可能なことです。
というのは、道徳の中心概念である善と悪についての定義がないからです。
善とはなにか、悪とはなにかという問いに誰も答えられないのですから、教えられるわけがありません。
 
「善」を国語辞典で引くと、「よいこと」とか「道義にかなっていること」などとありますが、これは言い換えているだけです。
 
百科事典ではどうかということで、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「善」の項目を見てみました。
 
一行目に「意志を満足させるゆえに積極的価値をもつと判断されるものすべて」と書かれています。
わかりにくい文章ですし、「意志」という、これも定義の定かでない言葉を前提としています。ヒトラーの意志でもいいのかと突っ込みたくなります。
二行目以降はこうなっています。
 
ソクラテスは善を美や有用性と同一視し,善はキュレネ派では快であり,キュニコス派では苦の欠如である。プラトンでは善は存在の根拠,美や真の原理。アリストテレスは人間における善を幸福とし,すべて現実的なものは善であり,善はまず個物に存在するが,一般にはそのものの類的本質の実現にあるとした。彼はまたそれ自体善であるものと,それとの関係で善であるものとを区別した。スコラ哲学は存在と善を等置し,個物の善はそのものが神の意志したとおりのものであること,すなわちそのものの完全性にあるとされた。 T.ホッブズでは善は努力の目標となるもの,功利主義者にとっては幸福は最大の快,最小の苦であり,J.ベンサムは快楽計算を試み,B.スピノザもまた善の相対性,主観性を強調した。 I.カントはそれ自体善である倫理的善を,手段としての善である有用性とはっきり区別した。プラグマティズムは功利主義的相対論を継承し,G.ムーアらの分析哲学派も善か否かは判断される対象がおかれている場に依存することを強調している。
(後略)
 
つまり善についての考え方は人それぞれなのです(しかも、どれもわかりにくい)
 
岩波書店の「哲学・思想事典」で「善」を引いてみると、三ページ余りにわたって「西洋」「インド・仏教」「中国」「日本」の四項目に分けて説明がされています。ということは、これもばらばらだということです。
 
悪は善の対立概念とされるので、善がわからない以上悪もわかりません。
 
哲学者ジョージ・E・ムーアはこのような状況を踏まえて、「倫理学原理」という著作で善を定義することは不可能だと述べました(善は直観で理解するものだというのがムーアの立場です)。定義が不可能だということには異論がありますが、善に定義がないということは、これによって広く認められました。
 
それまで倫理学は、人間の善い生き方を探究する学問とされていましたが、善の定義がないということで、善とはなにか、道徳とはなにかということを探究しなければならなくなりました。その分野は「メタ倫理学」と呼ばれます。
従来の人間の善い生き方を探究する倫理学は「規範倫理学」と呼ばれます。
そして、生命科学の進歩によって生まれた生命倫理学、地球環境問題が生じたことによって生まれた環境倫理学などの新しい分野は「応用倫理学」と名づけられました。
つまり現代倫理学にはメタ倫理学、規範倫理学、応用倫理学という三つの分野があるわけです。
 
しかし、少し考えればわかることですが、メタ倫理学が善とはなにか、道徳とはなにかを解明しないと、規範倫理学も応用倫理学も成立しませんし、倫理学そのものも成立しません。
 
ということで、今は倫理学という言葉はありますが、倫理学の実体はないも同然です。
ですから、「道徳的価値」なるものは誰にもわかりません。
「良い子・悪い子・普通の子」もギャグにしかなりません。
こんな状況で道徳科をつくっても、教えることはなにもないし、教えた結果を評価できないのも当然です。
 
どうしても道徳を教えたければ、宗教と一体でやるしかありません。
欧米では、道徳教育をする場合はキリスト教倫理に基づきます。
戦前の日本の修身は、現人神である天皇からくだされた教育勅語を根拠としていました。
ですから、教育勅語を復活させたいという動きがあるのはわからないではありませんが、もはや天皇は現人神ではなく、教育勅語の中身も時代に合わないので、無意味なことです
 
道徳科をつくるという間違った政策のために、道徳を教え、評価するという不可能なことをさせられている教師が気の毒です。

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