私はこの「村田基の逆転日記」というブログのほかに「道徳観のコペルニクス的転回」というブログもやっています。
「村田基の逆転日記」では時事的なことを書き、「道徳観のコペルニクス的転回」では思想的なことを書くという分担になっています。
「村田基の逆転日記」は週1回程度更新していますが、「道徳観のコペルニクス的転回」は最初から本1冊分を丸ごと公開したので、更新するということはありません。
「道徳観のコペルニクス的転回」を開設するときにこのブログで告知し、その後もたまにここで「道徳観のコペルニクス的転回」というブログがあることに触れてきましたが、最近アクセスが低調です。
「道徳観のコペルニクス的転回」はひじょうに重要な内容なのですが、本1冊分の文章を読むのが面倒だという人も多いでしょう。“タイパ”が重視され、映画も10分程度のファスト映画を見て済ましてしまう時代です。
そこで、「道徳観のコペルニクス的転回」の冒頭の「初めにお読みください」という部分を全面的に書き改め、「このブログはこんなにすごい内容なんだよ」ということを書きました。
推理小説でいえばネタバレになるようなことなので、本来は書きたくなかったのですが、ともかく重要な内容であることを知ってもらわないと話になりません。
その書き直した部分は、このブログの基本的思想でもあるために、ここに掲載することにします(つまりふたつのブログに同じ文章が載ることになり、こちらでも読めます)。
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道徳観のコペルニクス的転回
「初めにお読みください」
このブログは、一冊の本になるように書いたものなので、「第1章の1」から順番に読んでください。
どういう内容かというと、もちろん読んでもらえばわかるわけですが、ここでごく簡単に説明しておきます。
私は若いころから「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを考えていました。世の中のほとんどの人は悪をなくしたいと思っているはずなのに悪がなくならないのは不思議なことです。戦争、暴力、犯罪、圧政、差別など、人が人を不幸にすることはすべて悪の範疇でしょう。悪を完全になくすことはできないとしても、十分に少なくすることができれば、人類の幸福に大いに貢献することができます。しかし、思想家や哲学者が「悪をなくす」という課題に取り組んだ形跡はほとんどありません。これもまた不思議なことです。
ちなみに倫理学では善の定義は存在しません。ジョージ・E・ムーアは二十世紀初めに『倫理学原理』において善を定義することは不可能だと主張し、それに対して誰も善の定義を示すことができなかったので、善の定義はないとされています。当然、悪の定義もありません。倫理学で善と悪の定義がないのは、数学で「1+1」の答えがわからないみたいなものです。ですから、倫理学はまったく役に立たない学問です。試しに倫理学の本をどれでも一冊読んでみてください。わけがわからなくてうんざりすること必定です。哲学書、思想書はどれも難解ですが、おそらくその根底には倫理学の機能不全があるに違いありません。
私は「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを愚直に考え続けました。そうするとあるとき、答えがひらめいたのです。その瞬間のことは今も鮮明に覚えています。頭の中がぐるりと回転しました。「アウレカ!」と叫んで走り出しそうになりました。私は人類史上画期的な発見をしたことを確信しました。
これまでの倫理学は天動説のようなものでした。私は地動説的倫理学に思い至ったのです。したがって、この発見を「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
地動説的倫理学だと善と悪の定義ができますし、道徳(倫理)に関するさまざまなことが論理的に説明できます。これだけで地動説的倫理学の正しいことがわかります。
「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけたのは、比喩としてこれ以上ないほど適切だからですし、コペルニクスによる地動説の発見に匹敵するほどの歴史上の大発見でもあるからです。こういうと、話が大きすぎて信じられないという人がいるでしょう(私はSF作家でもあるのでSFのネタとも思われそうです)。そこで、これが実際に歴史上の大発見であると納得してもらえるように説明したいと思います。
地動説的倫理学は、人類の祖先がどのようにして道徳をつくりだしたかという仮説に基づいています。道徳が神から与えられたものでない以上、人間がつくりだしたと見るのは当然です。
実は道徳起源の仮説はもうひとつあります。それはチャールズ・ダーウィンの説です。ダーウィンは『種の起源』の12年後に『人間の由来』を著し、進化論から見た人間を論じましたが、そこにおいて人類の祖先がいかにして道徳をつくりだしたかの仮説を述べているのです。ダーウィンの道徳起源説は私の道徳起源説とまったく違います。
ダーウィンの道徳起源説が正しいか否かは、その後の展開を見ればわかります。
『人間の由来』以降、社会における弱肉強食の原理を肯定する社会ダーウィン主義と、遺伝によって人間を選別することを肯定する優生思想が猛威をふるい、とりわけ優生思想はナチスに利用されて悲劇を生みました。また、ダーウィンは『人間の由来』において人種の違いの重要性を主張したので、人種差別も激化しました。
『人間の由来』が社会ダーウィン主義と優生思想と人種差別を激化させて、社会に混乱と悲劇を生んだために、やがて人間に進化論を適用して人間性や社会を論じることはタブーとなりました。『人間の由来』は、ダーウィンが進化論を人間に適用して論じるというきわめて興味深い本なのに、進化生物学界の黒歴史となり、進化論の解説書などにもほとんど取り上げられません。
とはいえ、人間に進化論を適用することがタブーであるというのはおかしなことで、なによりも非科学的です。そのため人間に進化論を適用することはつねに試みられてきました。たとえば、血縁淘汰説とゲーム理論によって動物の利他行動が理論的に説明できるようになったことを背景に、昆虫学者のエドワード・O・ウィルソンは『社会生物学』において、人文・社会科学は生物学によって統合されるだろうと主張し、これをきっかけに生物学界だけでなく社会学、心理学、政治学、文化人類学などを巻き込んだ「社会生物学論争」と呼ばれる大論争が起きました。なぜそのような大論争になったかというと、政治的な右派対左派の論争でもあったからです(ウィルソンなどは右派)。そして、この論争の結論は、やはり人間に進化論を適用するのは人種差別や性差別を助長するのでよくないというものでした。もっとも、その結論は科学的なものではなく、声の大きいほうが判定勝ちしたといったものでした。
なぜこんなおかしなことになるかというと、すべてダーウィンの道徳起源説に原因があります。
進化論は生存闘争をする生物の姿を明らかにし、人間も例外であるはずがありません。ところがダーウィンは、人間は神に似せてつくられ、エデンの園で善悪の知識の実を食べたというキリスト教的人間観を捨てきれなかったのです。
ダーウィンは進化論と道徳を結合しました。その道徳は天動説的倫理学の道徳でした。社会ダーウィン主義は「社会進化のために人間は生存闘争をする“べき”である」というものなので、進化論と道徳の結合体であることがわかります。同様に優生思想は「人間進化のために劣等な人間は子孫を残す“べき”でない」というものなので、やはり進化論と道徳の結合体です。進化論という科学と結合したことで道徳が暴走したのです。
ところが、誰もこの間違いに気づきませんでした。天動説的倫理学は世の中の共通のフォーマットだからです。
もともと天動説的倫理学と科学は相容れませんでした。それは「ヒュームの法則」という言葉で表されます。科学が明らかにするのはあくまで「ある」という事実命題であって、「ある」をいくら積み重ねても「べき」という道徳命題を導き出すことはできないというのがヒュームの法則です。デイヴィッド・ヒュームが1739年の『人間本性論』において、「ある」と「べき」を区別しない論者が多いことに驚くと述べたことからいわれるようになりました。「ある」から「べき」を導くと、それは「自然主義的誤謬」であるとして批判されます。ヒュームの法則はきわめて有効なので、「ヒュームのギロチン」ともいわれ、自然科学と人文・社会科学のつながりを断ち切ってきました。ダーウィンは「ある」と「べき」を進化論によってつなごうとしたのですが、失敗しました。
進化論は聖書の創造説が信じられていた西洋キリスト教社会に衝撃を与え、それは「ダーウィン革命」と呼ばれました。ダーウィン革命によって科学的人間観が確立されるはずでした。しかし、ダーウィンが道徳起源説を間違えたために、ダーウィン革命は挫折しました。
それから150年ほどたって、たまたま私が正しい道徳起源説を思いつき、ダーウィン革命を完成させる役回りを担うことになったというわけです。
それから150年ほどたって、たまたま私が正しい道徳起源説を思いつき、ダーウィン革命を完成させる役回りを担うことになったというわけです。
以上が「道徳観のコペルニクス的転回」が歴史上の大発見であるということの説明です。
もっとも、「三流作家のお前の説よりも、偉大なダーウィンの説のほうが正しいに決まっている」と思う人もいるでしょう。どちらの説が正しいかは本文を読んで判断してください。
なお、ダーウィン説と私の説は正反対で、表裏がひっくり返ったようなものです。したがって、第三の説はないでしょうから、判断するのは簡単です。
最終的には進化生物学の専門家が決めればはっきりします。私としては、とりあえず進化生物学界の重鎮である長谷川眞理子・寿一夫妻(長谷川眞理子氏は『人間の由来』の翻訳者でもある)や、進化論と人間について大胆な説を展開してきた進化学者の佐倉統氏などに認めてもらうことを期待しています。
なお、ダーウィン説と私の説は正反対で、表裏がひっくり返ったようなものです。したがって、第三の説はないでしょうから、判断するのは簡単です。
最終的には進化生物学の専門家が決めればはっきりします。私としては、とりあえず進化生物学界の重鎮である長谷川眞理子・寿一夫妻(長谷川眞理子氏は『人間の由来』の翻訳者でもある)や、進化論と人間について大胆な説を展開してきた進化学者の佐倉統氏などに認めてもらうことを期待しています。
「道徳観のコペルニクス的転回」を信じてもらうために、その効用を少し述べておきます。
日本でもアメリカでも保守対リベラルの分断が深刻化していますが、これは社会生物学論争における右派対左派の対立と同じ構図です。社会生物学論争が科学的に解決しなかったので、今に持ち越されているのです。したがって、この対立は地動説的倫理学によって解消されるはずです。
保守対リベラルの対立のもとには人種差別、性差別、家族制度の問題があります。性差別と戦ってきたフェミニズムは、セックス(生物学的性差)とジェンダー(社会的性差)を区別し、セックスは肯定しますが、ジェンダーは否定します。しかし、なぜ肯定的なものから否定的なものが生じたのかは説明されません。これは「ある」と「べき」の関係がわからないのと同じです。地動説的倫理学は「ある」と「べき」の関係をはっきりさせるので、セックスとジェンダーの関係もはっきりします。これによってフェミニズム理論はわかりやすくなるでしょう。
さらに「子ども差別」というものがあることを指摘したいと思います。人種差別や性差別は、差別する側と差別される側が固定されて一生変わることがありませんが、子ども差別の場合は、おとなが子どもを差別し、子どもがおとなになると子どもを差別するというように、世代が変わるごとに差別する側と差別される側が入れ替わっていきます。そのためあまり認識されていませんが、子ども差別こそ文明における最大の問題です。
人間の能力は原始時代からほとんど変化していないので、文明が高度に発達するほど人間の負担が重くなります。とくに負担がかかるのは子どもです。人間は学ぶことを喜びとする性質があるのに、文明社会では子どもは学びたいと思う以上のことを強制的に学ばされています。また、「道路に飛び出してはいけません」とか「行儀よくしなさい」とか言われて、子どもらしいふるまいが抑圧されています。文明が進むほど子どもは不幸になります。子ども時代が不幸でもおとなになってからそれ以上に幸福になればいいというのが子どもを教育するおとなの理屈ですが、子ども時代の不幸はおとなになっても尾を引きます。
「子どもの不幸」を最初に発見したのはジグムント・フロイトです。しかし、これはおとなにとって不都合な真実ですから、フロイトはおとな社会の圧力に負けてすぐに隠蔽してしまい、代わりにエディプス・コンプレックスを中心とする複雑怪奇な理論を構築しました。その後も心理学者は発見と隠蔽を繰り返し、いまだ十分に認識されているとはいえません。幼児虐待も、子どもが殺されたりケガしたりするようなものが表面化するだけで、子どもが親による虐待に耐えかねて家出しても、警察などに発見されるとすぐに家に戻されてしまいます。最近は「毒親」や「アダルトチルドレン」や「サバイバー」という言葉もできて、自分の子ども時代の不幸を認識するおとながふえてきましたが、社会全体の理解はまだまだです。
これまで文明を論じるのは高度な知性を持ったおとなばかりでした。そのため文明は子どもの犠牲の上に築かれているという事実が認識されませんでした。地動説的倫理学によって初めて文明の全体像が認識できるようになったのです。これからはおとなと子どもがともに幸福であるような社会を目指さなければなりません。
家父長制という言葉があります。これはひとつの家庭に子ども差別と性差別がある家族制度だと見なすとよく理解できます。家族が愛情で結ばれているのではなく、夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配していて、子ども同士でも男と女、年上と年下で上下関係がある家族です。このような家族を維持するか、愛情ある家族を回復するかという対立が、保守対リベラルの対立の根底にあります。
最近、進化心理学など進化生物学を土台にした「進化〇〇学」と称する学問がいくつもできていますが、ヒュームの法則という枠がはめられているので、発展にも限界があります。しかし、地動説的倫理学に転換すればヒュームの法則を無力化することができ、人間の行動や心理に対する科学的研究が一気に進展します。
これは「ダーウィン革命の再開」であり、「第二の科学革命の始まり」です。
これは「ダーウィン革命の再開」であり、「第二の科学革命の始まり」です。
ぜひとも「道徳観のコペルニクス的転回」を理解していただきたいと思います。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
上の文章とその続きは次で読んでください。
「道徳観のコペルニクス的転回」
それにしても、私のような平凡な人間が「地動説に匹敵する歴史上の大発見」とか「第二の科学革命」とか言うのはひじょうに大きな心理的抵抗があります。その葛藤があるためこれまでよく伝えられなかったきらいがありました(それに加えてトラウマもありました。これについては「作家デビューのときのトラウマ」を参照)。
ようやく最近吹っ切れてきたので、この「初めにお読みください」を書き直すことができました。
「道徳観のコペルニクス的転回」とか「地動説的倫理学」といった比喩は決していい加減なものではありません。
私は善と悪の関係について考えました。私は「この人は善人。あの人は悪人」と判断していますが、私自身も他人から善人ないし悪人と判断されているわけです。もし自分が悪人であったら、私の判断はどうなるのでしょう。善人を悪人、悪人を善人と判断しているかもしれません。
自分が善人でなければ自分の判断は正しいということができません。
私は自分が善人である根拠はどこにあるだろうかと考えました。これはデカルトの方法的懐疑と同じですが、デカルトは「存在」を懐疑し、私は「判断」を懐疑したわけです。
私は「善人、悪人、自分」の関係はどうなっているのだろうと考えました。
コペルニクスは金星や火星の動きを明快に理論化できないかと考えているうちに、地球も金星や火星と同様に動いているのではないかと思いつき、「金星、火星、地球」の関係を考えているうちに太陽中心説を思いついたわけです。
私も同じようにして、あるものを中心とすることで理論化できたのです。
「あるもの」というのは、人間でなく動物、文明人でなく原始人、おとなでなく子どもです。
これまでは人間、文明人、おとなという自己中心の発想だったので、まともな倫理学が存在しませんでした。
ですから、「天動説的倫理学から地動説的倫理学へ」という比喩は実に適切です。
おとなが子どもを「よい子」や「悪い子」と判断し、「悪い子」を「よい子」にしようとすることが普通に行われています。
しかし、「よい赤ん坊」や「悪い赤ん坊」はいません。
いるのは「よいおとな」と「悪いおとな」です。
子どもと触れ合うことで人間の真の姿を知り、自分自身を見直すのが「よいおとな」です。
「悪いおとな」は子どもを「よい子」にしようとして、幼児虐待へと突き進みます。
幼児虐待は文明社会で広く行われています。
幼児虐待はDVの連鎖を生むだけでなく、自殺、自傷行為、さまざまな依存症、自己中心的な人間、冷酷な人間、猟奇犯罪者を生む原因でもあります。
「道徳観のコペルニクス的転回」が早く世の中に受け入れられることを願っています。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
上の文章とその続きは次で読んでください。
「道徳観のコペルニクス的転回」
それにしても、私のような平凡な人間が「地動説に匹敵する歴史上の大発見」とか「第二の科学革命」とか言うのはひじょうに大きな心理的抵抗があります。その葛藤があるためこれまでよく伝えられなかったきらいがありました(それに加えてトラウマもありました。これについては「作家デビューのときのトラウマ」を参照)。
ようやく最近吹っ切れてきたので、この「初めにお読みください」を書き直すことができました。
「道徳観のコペルニクス的転回」とか「地動説的倫理学」といった比喩は決していい加減なものではありません。
私は善と悪の関係について考えました。私は「この人は善人。あの人は悪人」と判断していますが、私自身も他人から善人ないし悪人と判断されているわけです。もし自分が悪人であったら、私の判断はどうなるのでしょう。善人を悪人、悪人を善人と判断しているかもしれません。
自分が善人でなければ自分の判断は正しいということができません。
私は自分が善人である根拠はどこにあるだろうかと考えました。これはデカルトの方法的懐疑と同じですが、デカルトは「存在」を懐疑し、私は「判断」を懐疑したわけです。
私は「善人、悪人、自分」の関係はどうなっているのだろうと考えました。
コペルニクスは金星や火星の動きを明快に理論化できないかと考えているうちに、地球も金星や火星と同様に動いているのではないかと思いつき、「金星、火星、地球」の関係を考えているうちに太陽中心説を思いついたわけです。
私も同じようにして、あるものを中心とすることで理論化できたのです。
「あるもの」というのは、人間でなく動物、文明人でなく原始人、おとなでなく子どもです。
これまでは人間、文明人、おとなという自己中心の発想だったので、まともな倫理学が存在しませんでした。
ですから、「天動説的倫理学から地動説的倫理学へ」という比喩は実に適切です。
おとなが子どもを「よい子」や「悪い子」と判断し、「悪い子」を「よい子」にしようとすることが普通に行われています。
しかし、「よい赤ん坊」や「悪い赤ん坊」はいません。
いるのは「よいおとな」と「悪いおとな」です。
子どもと触れ合うことで人間の真の姿を知り、自分自身を見直すのが「よいおとな」です。
「悪いおとな」は子どもを「よい子」にしようとして、幼児虐待へと突き進みます。
幼児虐待は文明社会で広く行われています。
幼児虐待はDVの連鎖を生むだけでなく、自殺、自傷行為、さまざまな依存症、自己中心的な人間、冷酷な人間、猟奇犯罪者を生む原因でもあります。
「道徳観のコペルニクス的転回」が早く世の中に受け入れられることを願っています。
2015年、文科省は大学の文系学部を廃止する方向で改革するという報道があり、大きな騒ぎになりました。
この報道は少し行き過ぎていたようであり、文科省も反対の大きさに軌道修正したようでもあり、騒ぎは落ち着きました。
しかし、こうした騒ぎが起きるのは、多くの人が文系学問、とりわけ人文学系学問の価値に疑問を抱いているからでしょう。
人文学の中心にあるのは倫理学ですが、すでに述べたように倫理学はまったく機能していません。
機能していないことが逆に幸いして、倫理学は自然科学の侵入を防ぐ防壁になっていました。
しかし、防壁は今や壊れようとしているわけです。
人文学系学問はみずから脱皮しなければなりません。若い研究者の奮起が期待されます。