村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:倫理学

杉田水脈議員については、「LGBTは生産性がない」という発言ばかりが注目されていますが、ほかにもトンデモ発言をしています。
201410月の衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と言ったのです。
男女平等を否定しているのです。
 
正確な発言はこうです。
 
「日本は、男女の役割分担をきちんとした上で女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名のもと、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です。男女共同参画基本法という悪法を廃止し、それに係る役職、部署を全廃することが、女性が輝く日本を取り戻す第一歩だと考えます」 (20141031日、本会議)
 
要するに「良妻賢母」とか「男を立て、男に従う女性」が「輝いている女性」だということです。
本会議場での発言ですから、安倍首相も聞いています。安倍首相は杉田議員をひいきしていましたから、安倍首相のいう「女性が輝く社会」がどういうものかもわかります。
 
杉田議員の発言のキーワードは「反道徳」です。
「道徳」とか「道徳的」という言葉は普通よい意味で使われます。自民党は道徳教育を推進してきましたから、とくに道徳をよいものと思っているでしょう。
しかし、差別について考えるときは、道徳はいい意味ばかりではありません。杉田議員も自民党もそのことを理解していないようです。
 
ということで、道徳と差別の関係をここで整理しておきたいと思います。
 
 
人類の祖先が道徳をつくりだしたのは文明の黎明期であったと思われます。そして、文明とともに差別も生まれました。
古代ギリシャ・ローマでは、周辺民族をバルバロイとかバーバリアンと呼んでさげすんでいました。古代中国では、やはり周辺民族を東夷、西戎、北狄、南蛮などと呼んでさげすんでいました。
ということは、道徳と差別は一体のものであったと考えられます。

奴隷制社会には奴隷制社会の道徳があって、奴隷を奴隷として扱うのが道徳的なことです。そんな扱いをしたらかわいそうだとか、奴隷を解放するべきだとか主張すると、不道徳的だとか反道徳だとか非難されます。
 
1964年の公民権法成立以前のアメリカ南部において、白人が黒人の友人を連れてレストランに入ってくれば、その白人は不道徳なふるまいをしたとしてひどく非難されます。レストランから黒人を追い出すのが道徳的なふるまいです。
 
時代の変化とともに黒人の地位が変わって、そうすると道徳も変わります。昔の道徳のままに黒人を扱うと、それは差別だとされます。
 
つまり「差別とは、今は否定されたひと昔前の道徳」です。
 
ですから、差別主義者とは昔気質の人でもあります。アメリカでいえば、親が黒人を差別しているのを見て育ち、自分も同じようにしていると、あるときからそれは差別だと批判されるわけです。批判する人たちは、時代の変化に敏感な知識人などです。昔気質の人は自分こそが道徳的だと思っているので、なかなか差別をやめません。
 
 
道徳が差別に変わるきっかけは、公民権法の成立などもありますが、根本的には科学や学問の世界における人間観の変化です。
黒人は昔は人間よりも動物に近いと思われていました。ダーウィンも人種の違いを重要なものと考えていましたが、生物学の進歩で人種はほとんど無意味な概念だとなって、黒人に対する昔の道徳的な扱いは人種差別とされるようになりました。
男と女の違いも、昔は本質的なものとされていましたが、文化人類学や生物学などによりたいした違いではないとされ、昔の道徳は性差別とされるようになりました。
同性愛も昔はよく理解されていませんでしたが、だんだんと解明されてきて、少なくとも趣味や嗜好の問題ではないとされ、同性愛嫌悪は差別だとされるようになりました。
 
杉田議員はそうした人間観の変化を理解せず、性差別やLGBT差別をいまだに道徳だと思っているのです。
 
 
差別を克服するには、正しい人間観を持つことが第一ですが、同時に道徳と差別の関係を知っておくことも必要です。

日本は世界的に犯罪が少ない国なので、そのことを世界にアピールすればいいのに、なぜか死刑大国であることをアピールしています。
7月6日、オウム真理教の松本智津夫ら7人への死刑が執行されました。
世界の潮流に逆らって死刑制度に固執する日本の司法当局はなにを考えているのでしょうか。
 
ジェームス・ボンドがカッコいいのは、たぶんに007という「殺しのライセンス」を持っているからです。
日本の司法組織もそれと同じで、死刑制度という「殺しのライセンス」を持っているとみずからの権威が高まると思っているのでしょうか。
 
それから、日本はこのところ毎年犯罪が減少して、刑法犯は2002年のピーク時と比べると2016年には約三分の一になっています(「平成29年版犯罪白書」)。このままでは警察司法関係の予算をへらされてしまいますから、少年法改正、時効延長、厳罰化、共謀罪新設などにより「犯罪の水増し」をはかってきました。当然、死刑制度もやめるわけにはいかないでしょう。
 
司法組織は「原子力村」に似ています。専門家性をタテにみずからの利権を追求して、誰も止められません。
 
 
そもそもなぜ死刑制度が必要かというと、日本ではもっぱら「国民感情」が理由とされます。アンケートで死刑賛成が多数だからというのです。
しかし、そのアンケートはこんな文面です。
 
死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか。
「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」
「場合によっては死刑もやむを得ない」
「わからない・一概に言えない」
 
「どんな場合でも」と「場合によっては」、「廃止すべき」と「やむを得ない」という非対称の文章で答えを誘導しようとしています。
「死刑制度に賛成」「死刑制度に反対」といった対称的な文章にするべきでしょう (ついでにいうと、「どんな場合でも」と制度の「廃止」をつなげるのは日本語として間違っています。「どんな場合でも死刑は行うべきでない」とするべきです)
 
マスコミは殺人事件があった場合、被害者遺族に取材して、「死刑にしてほしい」といった発言を引き出し、「被害者遺族感情」を前面に出した報道をします。
しかし、死刑が執行されたとき死刑囚遺族に取材して、その感情を報道するということはしませんから、ここでも非対称になっています(もっとも、殺人犯というのはたいてい崩壊家庭で育っているので、死刑囚の死を悲しむコメントをする人はまずいませんが)
 
今の死刑制度は、「国民感情」だの「被害者遺族感情」だのというあやふやなものを根拠に行われています。
そんなことをしていると、誰も身寄りのない人が殺された場合、「被害者遺族感情」が存在しないわけですから、その殺人犯は罪が軽くなることになってしまいます。
 
また、「加害者の人権は守られているのに被害者の人権は守られていない」ということも死刑や厳罰の根拠としてよく言われます。しかし、加害者を死刑にしても被害者の人権が守られるわけではありません(人権の中に復讐権というものがあるとすれば別ですが)
 
 
「国民感情」や「被害者遺族感情」や「被害者の人権」はどれも死刑の理由にはなりません。
死刑の理由があるとすれば「正義」です。これしかありません。
 
「正義」とはなにかというと、「悪い人は殺してもかまわない」とか「極悪人は殺すべきだ」という道徳のことです。
ハリウッド映画はこの道徳でつくられ、正義のヒーローが悪人を殺すと観客は喝采します。
 
ですから、死刑賛成派は「国民感情」などというあやふやなものを持ち出さずに「正義」を主張するべきです。
もっとも、そうすると「なぜ悪い人を殺してもいいのか」と聞く人が出てくるので、答えなければなりませんが。
 
 
 
以上のことは、つい最近書いた次の記事と対称になっているので、併せて読んでください。
 
「なぜ人を殺してはいけないのか」に答える

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにどう答えるかという問題があります。今回はそれについて考えてみます。
 
この問いが問題になったのは、1997年、いわゆる酒鬼薔薇事件が起こって少年犯罪が注目され、「子どもたちに『「人を殺してはいけない』ということを教えるべきだ」という声が高まっていたころのことです。あるテレビ番組で一人の高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか」と発言し、居合わせた識者が誰も答えられないという出来事がありました。このことは多くの人にとってショックだったらしく、その後、私の知るところではふたつの雑誌が「『なぜ人を殺してはいけないのか』という問いにどう答えるか」という特集を組み、多くの識者が答えを寄せましたが、その答えはみごとにばらばらでした。
ということは、誰もまともに答えられなかったのです。
 
近代以前には、こうしたことはありえませんでした。道徳は宗教に根拠を持っていたからです。「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う者がいれば、「それは神の教えだから」とか「そんなことをすれば地獄に落ちるから」と答えればよかったのです。
近代社会では、宗教に代わる根拠が求められることになりました。その役割を担うのは倫理学ということになりますが、今の倫理学は残念ながらまったく役に立ちません。
 
ただ、私は科学的倫理学=進化倫理学という立場を標榜しているので、その立場から答えてみます。
 
 
まず今の世の中に「人を殺してはいけない」という道徳はありません。私たちは正当防衛で人を殺し、死刑制度で人を殺し、戦争で人を殺すことを容認しているからです。ハリウッド映画の正義のヒーローが大量殺人を犯すシーンでは拍手喝采しています。
ですから、正しくは「罪のない人を殺してはいけない」というべきです。
 
「罪」というのも面倒くさい概念なので、もっと単純に「悪くない人を殺してはいけない」ということにします。
つまり今の世の中は、「悪くない人を殺してはいけないが、悪い人、とくに極悪人なら殺してもかまわない」というのが主流の道徳になっています。
 
しかし、こういう議論になると、善と悪とはなにかという問題になり、倫理学不在の状況では誰も答えられません。
 
 
科学的倫理学=進化倫理学の立場からは、そもそも人に向って「人を殺してはいけない」と言うのが愚かなことです。
というのは、人間は誰でも人を殺したくないという本能を持っているからです。
自分がナイフか拳銃を持って人を殺す場面を想像すればわかるはずです。
「戦争における『人殺し』の心理学」(デーヴ・グロスマン著)という本によると、人間には同類を殺すことには強烈な抵抗感があって、訓練された兵士ですら戦場でなかなか敵兵を殺せないということです。

とはいえ現実に殺人事件はあって、なにも悪いことをしていない人間が殺されることがあります。
こういう場合、たいてい犯人には長期間にわたる強烈なストレスがかかって、人間性がゆがんでしまっているものです(酒鬼薔薇少年もそうでした)。
しかし、そういう人間に「人を殺してはいけない」と言っても効果はないでしょう。
 
人に向って「人を殺してはいけない」と言うことは、「お前はもしかして人を殺すのではないか」という不信感を表明しているのと同じです。
さらには「私は人を殺してはいけないことがわかっているが、お前はわかっていないだろう」と、相手を見下していることにもなります。
酒鬼薔薇事件のときはおとながパニックになって、見境なく若者に「人を殺してはいけない」と言ったので、不愉快になった1人の若者が「なぜ人を殺してはいけないのか」と反撃したのです。
 
ですから、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対しては、「人を殺してはいけないなどと言ってすみませんでした」と謝るのが正しい答えです。

悪質タックル問題についての日大アメフト部の記者会見が大炎上しています。
 
日大側は安倍政権の森友加計問題の対処法を見て、同じようにやればうまくいくと思ったのでしょう。
しかし、悪質タックル問題では宮川泰介選手がその前日に記者会見で語っていました。
宮川選手が語ったことと、内田正人監督、井上奨コーチが語ったことを比べれば、宮川選手が正直に語っていて、内田監督、井上コーチが嘘を言っていることが歴然です。
日大側が大炎上したのは当然です。
 
そういうこと考えると、森友加計問題がなかなか解決しないのは、宮川選手に当たる人がいないからだということがわかります。
それは本来、佐川宣寿氏と柳瀬唯夫氏の役回りでした。この2人が正直に語れば、安倍首相の嘘は誰の目にも明らかになり、安倍首相はとっくに総理も議員も辞めていました。
 
この2人は、自民党と官僚組織に忠誠を示したほうが自分の利益になると判断したのでしょう。
しかし、そのために森友加計問題が長引き、国政の混乱と停滞を招いています。
 
20歳の若者がいさぎよく自分の罪を認めて真実を語っているのに、一流大学を出たエリートが利己的な嘘をつく。また、アメフトを知り尽くしている監督とコーチが嘘をつく。
これが人間の真実というものです。
人間は若いころは純真ですが、年を取るほど計算高くなり、悪いことをしがちです。
 
それなのにおとなが子どもに道徳教育をしているのですから、滑稽です。
 
 
ところで、宮川選手が悪質タックルをしたのはよくないことですが、同情すべきところもあります。
 
内田監督は宮川選手に冷たく当たっていたようです。
もし宮川選手が内田監督から直接、悪質タックルをするよう指示されたとしたら、おそらく宮川選手は断っていたでしょう。
 
しかし、井上コーチは宮川選手の高校時代に高校の監督をしていた人です。
宮川選手は、内田監督との信頼関係については「わからない」と言いましたが、井上コーチについては「高校2年生の時から監督をやっていただいていたので、その頃から信頼はしていたかもしれないです」と言っています。
井上コーチも宮川選手のことを気にかけていたようです。宮川選手が試合に出られないために内田監督にかけあい、「相手のクオーターバックをつぶせば使ってやる」という監督の意向を宮川選手に伝えます。宮川選手は井上コーチが自分のために動いてくれているのがわかっているので、それに応えようとしたのでしょう。内田監督から冷たくされている宮川選手は、井上コーチしか頼る人がいませんでした。
なまじ井上コーチとの絆があったために、宮川選手は悪に手を染めてしまったのです。
 
内田監督は日大アメフト部を27年ぶりの優勝に導いて絶対的な権威があり、また日大では常務理事としとてナンバー2の地位にあったということです。
「権力は腐敗する」というのは安倍政権と同じです。

このところ世の中はパワハラとセクハラの話題ばかりのような気がします。
権力を背景に相手のいやがることをするのがパワハラ、セクハラですが、加害者が自分の非を認めようとしないために話が長引きます。
なぜパワハラ、セクハラの加害者が自分の非を認めないかというと、おとなと子ども、親と子の関係に根本的な問題があるからです。
 
たとえばほとんどの親は日常的に子どもに「勉強しなさい」と言って、むりやり勉強させています。親は権力を背景に子どものいやがることをしているので、これは明らかにパワハラです。
 
このことは次の記事でも書きました。
 
「なぜ勉強するのか」と子どもに聞かれたら
 
こういうことはいっぱいあります。「好き嫌いはいけません」と言って、ピーマン嫌いの子どもにむりやりピーマンを食べさせるなどもそうです。
 
親は子どものためだからといって、これをパワハラと認めません。
しかし、パワハラか否かは、された側がいやかどうかで決まるのです。
子どもがいやな思いをしているなら、それはパワハラです。
 
ところが、今は親だけでなく社会全体が、これをパワハラと認めていません。
そのため、パワハラをやっていながら自分の非を認めない人がいっぱい出てくるのです。
 
 
おとなと子ども、親と子の関係のゆがみは、文明論のスケールでとらえる必要があります。
 
たとえば「反抗期」という言葉があります。昔は第一次反抗期、第二次反抗期と言っていました。
最近は第一次反抗期のことを「イヤイヤ期」と呼ぶのが一般的になっています。
しかし、イヤイヤ期というのはおとなの側から見た表現で、否定的な意味があります。これを子どもの側にそった表現に変えたらどうかという投書があり、朝日新聞がイヤイヤ期の別名を募集して、その特集記事を2回にわたって掲載しました。
 
「イヤイヤ期」別名募集、思い様々 共感できる環境大事
 
イヤイヤ期って、ブラブラ期 反響編:下 北海道大・川田学准教授に聞く
 
イヤイヤ期の別名としては、「めばえ期」「自分で期」「やるやる期」に票が集まりました。ほかに「キラキラ期」「2歳の独立宣言期」などもあります。
 
かなり昔ですが、反抗期を「自立期」と言い換えようと提唱していた育児の専門家がいました。これはわかりやすい表現と思いましたが、自立期は消えてしまったようです。
 
川田学准教授は「ブラブラ期」を提唱しておられます。
 
■チベットから着想
 ブラブラ期という言葉は、チベットの留学生の話から着想を得ました。彼女に「第一次反抗期」について説明しても、「そういう子どもの姿は見たことがない」と言って腑(ふ)に落ちないようでした。彼女の実家がある村では、乳児は親と一緒に畑や街の仕事場に行く。4、5歳になると、農耕や牧畜を手伝うこともある。「では2、3歳は?」と聞くと、笑いながら「ブラブラしています」と答えました。私は、2歳児の躍動的な姿とこの自由な語感が、ぴたっと合うように感じました。
 その村では、2歳前後の子は排泄(はいせつ)したくなったら道端でして通りかかった大人にお尻を拭いてもらい、おなかがすいたら近くの家を「コンコン」して「ごはんください」と言うのが日常だそうです。
 心理学は欧米が先行しているため、2歳前後の呼び方は「ネガティビズム」「テリブル・トゥー(魔の2歳児)」など否定的な用語が支配的です。ただ、南米を主なフィールドにした心理学者バーバラ・ロゴフも「世界中のほとんどの国では、2歳児についてマイナスの形容をしていない」と2003年の著書に記しています。
 
 ■「楽しい」をつなぐ
 2歳児とは、考えてから行動するのではなく、行動しながら考え、小さな楽しみをつなぎ合わせて過ごす人たちなのです。例えば、散歩に行っても、すぐ「こんな所につくしんぼがある」と長い時間触って楽しんだ後、「アリがいる」と気づいて座り込んでじーっと見る。その最中に大人が早く目的地に行こうよと引っ張ると、泣いて嫌がるでしょう。ブラブラ期と呼べば、大人がイヤイヤをどう封じるかという消極的な対処ではなく、どう子どもをブラブラさせるかと積極的に考えられるのではないでしょうか。
 しかし、現実の日本社会はブラブラを阻むものだらけです。「ワンオペ育児」で孤立する母親は、自宅で子どもと長時間1対1で居続ける負担で、ブラブラに付き合えません。
 
 ■道路を遊べる場に
 では、何から始めればよいか。私が提案するのは、まず、道を安全にブラブラさせてあげること。手始めに、子どもが道路や歩道に落書きする自由を保障してはどうでしょう。全ての子にろう石を配り、近所の道路にいっぱい絵を描けばいい。子どものころ、道端で描いていませんでしたか?
 2歳児のブラブラを保障できる社会は、間違いなく他の年齢の人たちも生きやすい社会のはずです。
 
 
親が子どもに不当な抑圧を加えるから反抗期やイヤイヤ期が生じるということが、この文章を読めばよくわかります。
 
たとえばおとなは子どもに「おとなしくしなさい」とよく言います。
「おとなしく」というのは「大人しく」と書き、おとならしくするという意味です。
小さな子どもにおとならしくしろというのは、子どもの発達を無視した不当な要求ですが、ほとんどのおとなにその自覚がありません。
 
今の子育て自体がパワハラ化して、その結果、世の中にパワハラ、セクハラが蔓延しているのです。
 

朝日新聞は前から「小さないのち」という特集をやっていて、イジメで死んだ子どもの親、子どものころ虐待されていた人、高校生で子どもを産んだ女性などの話を紹介しています。
 
特集「小さないのち」
 
いい特集だと思いますが、「小さないのち」という言葉が気になります。
「小さないのちを守る」という言葉になると、そのおかしさがよりはっきりします。
 
(耕論)「小さないのち」を守る 山田不二子さん、安達和美さん、山崎浩司さん
 
命に大きいとか小さいとかがあるのかと思ってしまいます。
 
もちろん「小さないのち」は「小さな子どものいのち」と書くのが正確な表現です。
しかし、これではタイトルとして長いので「小さないのち」としたのでしょう。
しかし、同じ短くするのなら「子どものいのち」とするべきです。
「小さないのち」だと命の価値が小さいという意味にもなります。
子どもの命のたいせつさを訴える特集にふさわしくありませんし、せっかくのいい内容が誤解されかねません。
 
「小さないのち」というタイトルは、「小さなか弱い命を私たちおとなが守りましょう」という気分を表現したものだと思いますが、これはおとなと子どもの関係を「守り・守られる」関係と見なしています。
子どもの権利条約は、子どもを保護の対象と見なすのではなく、権利行使の主体と見なしており、この認識は子どもの権利条約の精神にも反します。
 
おとなも子どもも命の価値、人間の価値は同じであり、おとなも子どももともに学び成長していく存在と見なすのが、正しい子ども観であり人間観です。
 
朝日新聞は人権尊重をうたっているはずですが、いちばん肝心のところが抜けています。
 
朝日新聞を嫌う人が多いのは、朝日新聞が進歩的でリベラルであるがゆえだという認識があるかもしれませんが、それは違います。
朝日新聞が上から目線で若者に説教するところがあるからです。
 
朝日新聞は、「小さないのち」という子どもの命を軽視した言葉づかいを反省して、人権について学び直してもらいたいものです。

7月26日は、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で植松聖被告が入所者19人を殺害した事件からちょうど1周年でした。
 
私は基本的に、こうした犯罪は犯人の生育歴から解明されるべきだと考えていますが、植松被告が抱いていた優生学の問題も無視はできません。
優生学は表向き否定されていますが、いまだに底流として力を持っていて、ネットの書き込みではよく見かけますし、ときにこうした事件として表面化します。
こういうものは、もとから断たないとだめです。

 
「優生学」という言葉をつくったのはフランシス・ゴルトンで、ここから優生学が始まりました。ゴルトンはチャールズ・ダーウィンの従兄弟で、ダーウィンの進化論から影響を受けて優生学を始めたとされます。
 
「ダーウィンの進化論から影響を受けた」というと、ダーウィン自身には問題がないように思えますが、そうではありません。
優生学のもとに優生思想があるとすれば、優生思想を始めたのはダーウィンです。ゴルトンはそれをふくらませただけです。
 
これはダーウィンの著作を読めばわかります。ダーウィンは「種の起源」の12年後に「人間の進化と性淘汰」という本を書いて、進化論を人間に当てはめてさまざまな考察を行いました。
そこから優生思想に当たる部分を引用してみます(引用は文一総合出版刊「人間の進化と性淘汰Ⅰ、Ⅱ」長谷川眞理子訳より。現在は同じものが「人間の由来(上、下)」として講談社学術文庫より刊行されている)
 
 
道徳的傾向が強い遺伝性を持つかもしれないということは、本質的にあり得ないとは私は思わない。多くの家畜動物でさまざまな性質や習性が遺伝することはいうまでもなく、私は、上流階級の家族のなかで、盗みの欲求と嘘をつく傾向とが家族中に見られる例があると聞いたことがある。裕福な階級では盗みは非常に稀な犯罪なので、同じ家族の中で2人、3人とそのような性癖が同時に起こることは、偶然の一致とはとても考えられない。もしも悪い性癖が遺伝するものならば、よい性癖も同様に遺伝するだろう。道徳的傾向が遺伝の原理からはずれているとするならば、さまざまな異なる人種間で、この点に関して存在すると考えられている違いを理解できなくなってしまう。(「人間の進化と性淘汰Ⅰ」95ページ)
 
 
個人や人種に遺伝的な悪が存在するとダーウィンは考えていたわけです。
ここから、社会をよくするために個人を選別するべきだという思想や、たとえば邪悪なユダヤ人を抹殺するべきだという思想が生まれても不思議ではありません(ダーウィンがユダヤ人は邪悪だと言っているわけではありませんが)
 
優生思想と兄弟のような関係にあるのが社会ダーウィン主義ですが、これもダーウィン自身の思想から直接に導かれます。
 
 
人類の福祉をどのように向上させるかは、最も難解な問題である。自分の子どもたちが卑しい貧困状態に陥ることを避けられない人々は、結婚するべきではない。なぜなら、貧困は大きな邪悪であるばかりか、向こう見ずな結婚に導くことによって、それ自体を増加させる傾向があるからである。一方、ゴールトン氏が述べているように、慎み深い人々が結婚を控え、向こう見ずな人々が結婚したならば、社会のよくないメンバーが、よりよいメンバーを凌駕することになるだろう。人間も他の動物と同様に、その速い増殖率からくる存続のための争いを通じて、現在の高い地位に上ったことは疑いない。そして、もしも人間がさらなる高みへと進むべきなのであれば、厳しい競争にさらされ続けていなければならない。そうでなければ、人間はすぐに怠惰に陥り、より高度な才能に恵まれた個人が、そうでない個人よりも、存続のための争いで勝ち残るということがなくなってしまうだろう。(「人間の進化と性淘汰Ⅱ」460461ページ)
 
 
優生学や社会ダーウィン主義は、進化論を曲解して生まれたものだとされています。
それは確かにそうなのですが、実はダーウィン自身が進化論を曲解していたのです。
 
ダーウィンの著作を読む人はあまり多くないでしょう。多くの人は進化論の解説書を読むわけです。そうするとそこには、ダーウィンは家族思いの人格者であったとか、人種差別思想を持っていたが、当時のヨーロッパでは誰もがそうであり、ダーウィンはむしろ被差別者にも人間的な共感を持っていて、奴隷制反対論者であったということが必ず書かれています。
 
ダーウィンが奴隷制反対論者であったのは事実ですが、だからといって、その人種差別思想がたいしたものでないということにはなりません。
それは次の文章を読めば明らかでしょう。
 
 
奴隷制の大きな罪は世界中いたるところに見られ、奴隷はしばしば恥ずべきやり方で扱われてきた。未開人は自分の妻の意見を尊重しないので、たいていの場合妻は奴隷と同じように扱われている。ほとんどの未開人は、赤の他人の苦難にはまったく無頓着で、むしろそれを見るのを喜ぶ。北アメリカのインディアンでは、敵を拷問するのに女子どもも手伝ったというのはよく知られている。未開人のなかには、動物を残酷に扱うことに恐ろしい喜びを感じるものがあり、彼らの間では、慈悲などという美徳はまったく存在しない。(「人間の進化と性淘汰Ⅰ」89ページ)
 
 
もちろんダーウィンは偉大であり、その進化論は基本的に正しいのですが、ダーウィンの人間についての考え方はきわめて差別的でした。
そのため、進化論は科学上の理論でありながら差別主義にまみれていて、進化論を持ち出すとほとんどつねに差別主義もいっしょについてくるのです。
優生学もそのひとつです。
 
優生学を批判するには、ダーウィンの思想から批判しなければなりません。
  

教育勅語について私は、「子は親に孝行せよ」という徳目はあるが、「親は子を愛せよ」という徳目はなく、親子関係が一方通行になっているのが欠陥だと書いたことがあります。
 
「教育勅語の欠陥とはなにか」
 
しかし、そんなことよりもっと根本的な欠陥があったのでした。
朝日新聞の6月10日の「声」欄に載った投書が指摘していました。
教育勅語の内容についての批判としてはもっとも的確なものではないかと思います。
消えてしまってはもったいないので、このブログに張っておくことにします。
 
教育勅語に関しては、天皇が国民に与えたもので国民主権に反するという批判があります。それから、戦後の国会で失効・排除が決議されているので、それを復活させることへの批判もあります。
また、子どもに丸暗記させて、唱和させるという使い方がされましたが、それによって子どもがその言葉通りの行動をするようになるという根拠がなにもありませんし、子どもの主体性を無視しているという批判もあります。
 
そして、教育勅語の内容についての批判があるわけですが、次の投書が簡潔にして言い尽くしていると思われます。
 
 
(声)「教育勅語」、切り売りは無意味
無職 花輪紅一郎(東京都 67)
 
 「殺すな」「盗むな」「うそをつくな」「淫行するな」の四つは、仏教の五戒と旧約聖書の十戒に共通する徳目であり、万古不易の人の道の基本と言っていい。
 近頃、「教育勅語」には時代を超え、世界に通用する道徳があると持ち上げる人たちがいるが、この四つが含まれていないことをご存じだろうか。逆に、勅語の1丁目1番地である冒頭の「君への忠」をなぜ無視するのだろうか。
 教育勅語は「君への忠」から始まり、「皇運扶翼」まで一貫した徳の体系の中に他の徳目を組み込む構造になっている。「兄弟仲良く」したり「学を修め」たりするのは何のためか、究極の目的を抜きに個々の徳を切り売りしても意味はない。勅語の核心は、すべては君のために命をなげうつ忠誠心を持った人になることだ。そこに「殺すな」や「盗むな」は入り込む余地はなかったのだ。
 もし人命尊重や略奪禁止を掲げていたら、侵略戦争や日本兵の残虐行為はなかっただろう。人の道の基本を抜きに、天皇への忠誠心のみを求めた勅語の過ちは戦後反省したはずだ。私は高校で倫理を教えていた。道徳に「殺すな」「うそをつくな」は欠かせない。
 

明けましておめでとうございます。今年もこのブログをよろしくお願いします。
 
年が改まったのを機会に、このブログの基本的立場を説明しておきます。
 
人間性について性善説と性悪説とふたつの考え方があって、どちらが正しいか結論が出ていません。
なぜこんな単純なことがわからないのかというと、実は性悪説が正しいのですが、人間は自分が悪い人間だとは認めたくないからです。
 
世の中には性悪説を唱える人もいますが、そういう人は自分のことを棚上げにして主張するので、論理性がなく、説得力もありません。
また、性善説を唱える人もいますが、性善説は現実となかなか合致しません。
ですから、たいていの人は、そのときの状況に合わせて性善説を唱えたり性悪説を唱えたりしているのが実情です。
 
性悪説が正しいといっても、人間性は全面的に悪だというわけではありません。ほんのちょっと悪いだけです。
 
「ちょっと悪い」というのは、利己性と利他性の差から生じます
人間を含めた動物は、自己の生存を優先するという利己的性質を持っています。一方で、子どもの世話をしたり仲間を助けたりする利他的性質も持っています。利己的性質と利他的性質を比べると、利己的性質のほうがちょっと強いというわけです。
 
たとえば、なわばりを持つ動物は、ほかの個体のなわばりを尊重する性質を持っていて、それによってむだな争いを回避しています。しかし、自他のなわばりを完全に公平に判断できるわけではありません。少し自分に有利なように判断するので、多少のなわばり争いが生じます。
 
それは人間も同じです。完全に公平であるよりは少し自分に有利に判断する性質を持っています。
たとえば、買い物をして釣銭が少なかった場合、ほとんどの人はすかさず指摘しますが、釣銭が多かった場合は、そんなにすかさず指摘しませんし、中には黙っている人もいます。
 
ただ、動物の場合は同じレベルでとどまっていますが、人間の場合は文化が進化していきますから、悪も進化していきます。そのため人間社会には動物社会にはない悪があふれることになりました。
 
もっとも、それも自然の摂理として肯定すればいいという考え方もあるでしょう。ただ、戦争は肯定するわけにいきません。
国と国が領土問題で争うのは、動物のなわばり争いと同じです。しかし、人間の場合は、戦争のやり方と兵器がものすごく進化したので、戦争による不利益はたいへんなものです。ここは知恵を出して戦争を回避しなければなりません。
 
それから、親が子どもに対してしつけ・教育をするのは人間だけです。これも親の利己的行動の進化したものではないかと想像されます。
どんな人間になるかは子ども自身が決めることです。しつけ・教育は子どもの自己決定権の侵害ですから、しつけ・教育についても見直していかなければなりません。
 
人間性悪説の立場に立ち、自分は生まれつき利己的だと思っていれば、夫婦喧嘩も回避できて、離婚という不幸に至ることも少なくなるはずです。
 
 
日めくりカレンダーに書いてあった名言に「他人の罪はとがめるが、自分の罪は気づかない」というのがありました。
これは自分のことを棚上げにする「偽の性悪説」をうまく表現しています。
「真の性悪説」は他人の罪も自分の罪も同等に認めるものです。
この立場に立てば、すべて論理的に明快になり、争いも避けられ、なにより家庭が平和になります。
 
そういう「真の性悪説」を完成させ、普及させるのがこのブログの目的です。

アンパンマンは、空腹の者に自分の顔を食べさせるという、正義のヒーローとしてはちょっと変わった存在です。作者のやなせたかし氏は正義についてどう考えていたのでしょうか。その一端が朝日新聞の「折々のことば」に出ていました。
 
 
連載:折々のことば 570 
正義って、普通の人が行うものなんです。偉い人や強い人だけが行うものではないのね。
やなせたかし
 
 目の前に溺れかけている子どもがいたら誰もが迷わず飛び込むだろう。正義とはそういうものだと、「アンパンマン」の作者である漫画家は言う。
(以下は有料ページにつき)
矢崎泰久編「永六輔の伝言」から。(鷲田清一)
 
 
あれ、これは正義ではなくて善のことではありませんか。
孟子は、性善説の根拠として、井戸に落ちそうになっている子どもを見れば誰でも助けようとするということを挙げました。それと同じです。
 
正義と善はまったく違う概念です。
科学的倫理学に立脚すれば、どう違うかは簡単に説明できます。
 
たとえば電車の中で、老人や妊婦に席を譲る人は善人です。
老人や妊婦が立っているのに席を譲らない人は悪人です。
そして、悪人に向かって注意する人は正義の人です。
 
善人に力はいりません(電車の中で立っていられるぐらいの体力は必要ですが)
しかし、悪人に注意すると反撃してくるかもしれないので、正義の人には力が必要です。
言い換えると、悪人と戦うだけの力がないと正義は行えません。
 
勧善懲悪の物語のパターンは決まっています。
善人が悪人に苦しめられています。善人は力がないので、自力ではどうしようもありません。そこに正義のヒーローが現れて、悪人をやっつけることで善人を救います。
 
力関係を示すとこうなります。
 
正義>悪>善
 
つまり正義は最強なのです。
正義のヒーローには誰も逆らえません。
 
そうなると、堕落するのが人間の常です。
いや、そもそも正義のヒーローというのは、最初から最強の悪人が正義を自称しているだけかもしれません。
つまり「正義の力」か「暴力」か容易に区別がつかないのです。
 
今はそういう認識が広がってきて、正義というのはあまり信用されなくなりました。
凶悪犯を死刑にしろという主張も、「正義のため」ではなく「被害者遺族の感情のため」ということが理由にされます。
 
やなせたかし氏も、そういう認識のもとに、正義を説明するのに善を持ち出したのかもしれません。
 
おそらくやなせたかし氏の頭の中にあったアンパンマンの正義のイメージは、難民救済のようなことだったでしょう。
しかし、難民救済活動を正義とは言いません。人道、博愛、慈善と言います(難民を生み出す元凶をやっつけることが正義です。ただ、正義が難民を生み出しているのかもしれません)。
やなせたかし氏も混乱していたと思われます。
 
 
「折々のことば」を執筆しているのは哲学者の鷲田清一氏です。
鷲田氏が正義と善を取り違えた説をそのまま紹介しているのはいただけません。

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