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オリンピックが近づくにつれてゆううつな気分になります。
マスコミがオリンピックを盛り上げるために「感動」を演出し、「感動」を押しつけてくると思うからです。

「感動をもらう」という言葉があります。
「感動をありがとう」とも言います。
どうやら感動というのは、人からもらったり、人にあげたりできるもののようです。

私が小説のいちばんいい読者であった高校生のころ、1冊の本を必死で選んで買い、たいてい一晩で読み、深く感動するとその小説の世界にはまり込んで、なかなか現実の世界に戻ってこれないほどでした。
ほかの人も同じ小説を読んで感動したとしても、私の感動とは質も深さもまったく違うと思っていました。
私の感動は私の心からわき上がってくるもので、人の心にわき上がってくるものと同じであるはずがありません。

ところが、今は感動は人からもらえるものとされています。各人の心から切り離されているようです。
感動だけではなく、「勇気をもらう」とか「元気をもらう」という言い方もよくされます。
こういうことはスポーツ関係から始まった気がしていましたが、ネットで調べると、1998年の長野オリンピックからで、シドニーオリンピック、日韓ワールドカップで広がったという説がありました。
この説が正しいかどうかわかりませんが、スポーツの世界から始まったのは間違いないでしょう。

それから、焼肉の牛角が「感動」という言葉を使っていて、それも感動という言葉の意味の変化を感じさせました。
ただ、牛角は「感動創造」ということを言っていて、多少感動に対するリスペクトがあったかもしれません。
しかし、そのあと居酒屋チェーンなどでも「感動」という言葉を普通に使うことがふえていきました。

感動は各人の心から切り離されてやり取りできるものになり、しかも居酒屋の料理にも使われるような安っぽいものになったわけです。

こうした傾向、つまり「感動をもらった」という表現が横行することに違和感や嫌悪感を表明する人がかなりいます。
私自身もそうでした。
しかし、時代が変われば感動の意味が変わってくるのは当然だと今は考え直しました。


まず、小説や映画の感動は、その人の価値観によって変わってきます。しかし、スポーツの感動は身体的、感覚的なものなので、価値観はほとんど関係ありません。
それに、スタジアムでは観客が一体となりますから、自分の感動もほかの観客の感動も同じという意識になって当然です。

それに、昔は同じ小説を読んだ人と出会って語らう機会はめったにありませんでした。
しかし、今はネットに小説や映画のレビューがいっぱい投稿されており、SNSでも感想のやり取りがされているので、自分の感動は自分独自のものではないと気づきやすくなりました。
私も、高校生のころは孤独な読書家でしたが、やがて同好の人たちと交流を持つようになり、自分と同じ読書傾向の人がいると、それだけで深くわかりあえた気がしたものです。

今の時代、「自分の感動は自分だけのもの」という意識がなくなって当然です。
そして、感動は互換性のあるものとしてやり取りされるようになったのです。

「感動をもらった」という言葉に文句をつけるのは時代遅れの感覚だというのが私の考えです。


ただ、感動は安っぽくなり、商業主義やマスコミが利用しやすいものになりました。
個人が「感動をもらった」と言っている分にはいいのですが、マスコミが「感動」という言葉を使うときには、心がともなっていない可能性が大です。
そういう中身のない「感動」の押し付けはやめてほしいものです。