村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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同じ暴言が繰り返されるというのは、暴言するほうに学習能力がないだけでなく、批判するほうも的を外しているかもしれません。
 
麻生太郎財務相は1023日の閣議後の記者会見で、「飲み倒して運動も全然しない人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられんと言っていた先輩がいた。良いことを言うなと思った」と言いました。
 
麻生氏は同じことを何度も言っています。総理大臣だった200811月には、「67歳、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらにかかっている者がいる」「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ」と言いました。
2013年4月には、「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで糖尿になって病院に入るやつの医療費は俺たちが払っているんだから、公平じゃない」「こいつが将来病気になったら医療費を払うのかと、無性に腹が立つときがある」と言いました。
 
こうした発言のつど批判されていますが、それでも繰り返しています。
 
元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏も2016年9月に「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」というタイトルのブログ記事を書き、炎上しました。
しかし、全国腎臓病協議会の謝罪の要求は拒否しました。
ただ、「殺せ」という表現はよくなかったとして、問題のブログのタイトルを「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」と変更しました。
 
長谷川氏の主張も基本的に麻生氏の主張と同じです。要するに自堕落で不摂生な生活をして病気になった人間の医療費を負担するのはバカらしいというのです。
そして、この部分については二人とも謝罪も反省もせず、今も正しいと思っているようです。
 
批判する側は、病気のことがわかっていないとか、患者の気持ちを傷つけたといったことを挙げますが、これが通じていないようです。
確かにこの批判は的を外していると思われます。
批判するべきは、麻生氏と長谷川氏の人間観です。
 
彼らは、人間には「自由意志」があると思っているのです。
ですから、「人間は自分の意志によって節制した生活ができるのに、やらなくて病気になるのは本人が悪い。そんな人間の医療費を払うのはバカらしい」ということになります。
 
人間に自由意志があるか否かは、古くからの哲学上の問題です。時事的な問題や政治的な問題にそういう哲学的問題を持ち込むわけにいかないとメディアや多くの人は判断しているのでしょう。しかし、それではいつまでたってもこのような議論が続くことになります。
それに、この問題はほぼ決着がついています。
 
科学的には、すべての物事は自然法則の因果律の中にあり、例外は発見されていません。人間は進化論によって自然界の中に位置づけられたので、人間の精神は特別だという主張も成り立ちません。脳科学などによってもこれは裏付けられます。
 
思想的には、マルクス主義は唯物論ですから、「存在は意識を規定する」という言葉のように自由意志を否定します。マルクス主義の影響力がなくなったことで自由意志派が盛り返してきたのが現状です。
たとえば新自由主義的な自己責任論もそのひとつです。自己責任論はつねに批判の対象になっていますが、主張する人はいつまでも主張し続けています。
 
刑法学の世界にも自由意志論は生きています。犯罪は基本的に本人の自由意志によるものとされます。ただ、凶悪犯の脳を調べると器質的な異常の発見されることが多く、自由意志論の根拠は危うくなっています。
 
現在、自由意志は科学的には否定され、思想の分野も科学にどんどん浸食されてほぼ否定されています。
 
麻生大臣の主張は、「人間には自由意志があり、その気になればいくらでも健康によい生活ができる」ということが前提になっています。
ですから、麻生大臣が「飲み倒して運動も全然しない人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられん」と言ったときは、「麻生大臣は人間には自由意志があると思っているんですね」とか「人間は心がけ次第でどんなこともできるというお考えなんですね」と聞いて、その主張の背後にある人間観を問題にすればいいのです。
 
「人間には自由意志がある」と言うと、最初は賛否両論があるでしょうが、最終的には科学による結論を受け入れることになるはずです。
失言があるたびに同じ議論をするのは時間のむだです。

バングラデシュ・ダッカのテロ事件で日本人7人も亡くなり、安倍首相は「この卑劣なテロに対して強い憤りを覚える」「世界の国々と共有している価値に対する挑戦であり、断固非難する」などと語りました。
テロに対して無為無策であると言っているのと同じです。
もっとも、それは安倍首相だけでなく、世界各国の首脳も同じことです。
 
世界はテロに対して無策です。
テロだけではなく犯罪に対しても同じです。
要するに人類は悪に対して無策なのです。
 
この機会に改めて、悪について哲学者、思想家はどう考えてきたのか調べてみました。
 
ウィキペディアで「倫理学」の項目を引いてみると、ソクラテスは問答法を通して徳の探求をし、プラトンは善のイデアを探求し、アリストテレスは最高善を究極目標にして善を探求したということです。
古代ギリシャ哲学ではもっぱら徳や善を探求して、悪についてはあまり考察していないようです。
 
ちょっと古い倫理学事典や思想事典で「悪」の項目を引くと、たいてい「悪とは善の欠如である」と定義されています。これは中世の神学者トマス・アクィナスによる「神学大全」に書かれていることです。この定義は広く西洋社会に受け入れられました。
 
悪が善の欠如であるなら、善の実現をはかれば悪は消滅する理屈です。
そういうことで西洋哲学は善や徳ばかりを探求し、悪を軽視してきたのでしょうか。
 
もっともその一方で、マルキ・ド・サドの、悪を肯定する「悪の哲学」という極端なものが生まれたりもしました。
 
非西洋では、儒教における性善説と性悪説、親鸞の悪人正機説などがあり、むしろ悪を正面から受け止めてきたかもしれません。
 
西洋哲学が悪を軽視してきたのは、宗教の影響もありそうです。
ユダヤ・キリスト教では最後の審判、ハルマゲドンなどによって悪が裁かれます。ですから、悪の問題は神に任せておけばいいということになります。
 
裁判官は黒い法服を着ますが、あれは明らかに宗教家を連想させるものです。また、裁判の象徴として剣と天秤を持つ正義の女神が使われますが、これはギリシャ神話に由来します。
つまり悪を裁くことは、いまだに宗教や神話の権威を利用して行われているのです。
 
 
進化論の登場は悪について考え直すチャンスでした。
人間はなぜ戦争をするのかとか、なぜ限りなくなわばりを広げて帝国を築くのかとか、考えるべきことはいっぱいあります。
ところが、ダーウィンは悪についてではなくもっぱら善や徳について考えました。道徳性を持っているのは人間だけではない、動物も子どもの世話をしたり仲間を助けたりする道徳性がある、それが進化して、そこから道徳が生まれた、という具合です。
これが進化倫理学と呼ばれるものになりました。
 
ダーウィンがもっぱら善や徳について考えたのは、古代ギリシャ哲学からの伝統だったかもしれません。
 
その結果、進化倫理学は悪についてなんの説明もできません。
そこをねらったように社会ダーウィン主義や優生学が猛威をふるったりしました。
 
 
ともかく、西洋哲学では悪を人間の営みとしてとらえ、思想的に解決しようという視点がほとんどありません。
そのため、イスラム過激派のテロリストに対して、アメリカなども実は宗教で対峙していて、宗教戦争状態になっています。
悪を軽視してきた西洋哲学の弱点が表れた格好です。
 

憲法記念日に合わせて「BLOGOS」に長谷川三千子氏の会見が掲載されました。この会見は4月15日に日本外国特派員協会で行われたもので、その中から「積極的平和主義」に関する部分を抜き出したものです。
 
長谷川三千子氏といえば安倍首相のお友だちで、NHK経営委員で、いくつかの問題発言が騒がれた人物です。
そして、私が気になるのは、この人が哲学者という肩書きを使っていることです。哲学者を自称するということは、それなりのことがあるでしょうか。
もっとも、長谷川氏の著作を読もうという気にはならないので、代わりに「BLOGOS」に載った会見を読んでみました。
 
「積極的平和主義にも精神的平和主義にも問題点がある。2つのベスト・ミックスがいい」―長谷川三千子氏が会見
 
会見の冒頭で長谷川氏は会場のみんなに「私は世界平和を重要なものと信じているのですが…どなたかそうではないと思う方、手を挙げていただけますか?」と呼びかけます。そうすると誰も手を挙げません。
次に長谷川氏は、「世界平和を達成するのはとてもとても難しいものです。…この点に関してはいかがでしょうか、賛成か反対か」と呼びかけ、そうすると満場一致の賛成となります。
つまり、「誰もが平和は重要だと思っているが、同時に平和の達成は困難だと思っている」という事実が明らかになります。
 
私はここまで読んだとき、このあとの展開に期待しました。しかし、読んでみればわかりますが(読むまでもないですが)、このあとはまったくくだらない内容です。
 
長谷川氏は平和主義を「消極的平和主義(精神的平和主義)」と「積極的平和主義」に分け、「消極的平和主義」だけではだめで、「積極的平和主義」が必要だと説きます。しかし、「積極的平和主義」は「戦争そのものと非常に近くなる」ので、危険が伴います。では、どうすればいいか。「積極的平和主義」と「精神的平和主義」の「ベストミックス」がいい、と長谷川氏は主張します。
 
「ベストミックス」とはなんでしょうか。
「ベスト」がいいのはわかりきっています。あらゆることは「ベスト」がいいのです。「ベスト」の内容を言わねばなりません。
 
長谷川氏はそれらしいことを言います。
孟子の思想から「王道」と「覇道」という考え方を紹介し、「王道の考えに、二種類の平和主義のベスト・ミックスをみることができます」と言い、これが結論となります。
 
「王道は覇道にまさる」というのは国語辞典の説明と同じです。これは思想ではありませんし、ましてや哲学でもありません。
「ベスト」がいいというのも、まさに国語辞典レベルのことです。
 
自称哲学者とはどういうものかよくわかりました。
 
 
長谷川氏は「精神的平和主義」の説明をするときに、「フラワーチルドレンと呼ばれた人たちがいて、彼らは歌を歌い、髪に花を挿して、そうしたことが世界平和に寄与していると信じていたのです。今の若者たちは笑うかもしれないけれど」というふうに語ります。
こうした表現に長谷川氏の本領があるのでしょう。そして、こうしたことが右翼論壇や安倍首相に評価されてきたのでしょう。
 
しかし、これは日本外国特派員協会での会見だったため、あまり好戦的と取られないようにバランスに配慮し、そのためまったく無内容な会見になったものと思われます。
 
外国特派員の方にとっても、この会見はまったく時間のむだだったでしょう。
いや、安倍首相のお友だちのレベルがわかったことに意味があったのかもしれません。

日ごろ時事的な問題を扱うことが多いので、正月ぐらいは哲学的な問題を扱ってみることにします。
 
かなり昔ですが、世界の著名な科学者に対するアンケートがあって、「自由意志」に否定的な科学者の数が多かったことを覚えています。私はそのときから、なんとなく「自由意志」は科学的なものではないのかと思うようになりました。
 
とはいえ、今の世の中は「自由意志」の存在を前提として成り立っています。たとえば裁判所の判決文には、「被告はやめようと思えばやめられたにもかかわらず犯行に及んだ」といった表現がよくあります。これは、被告は「自由意志」によって犯罪をしたのだから罰されるのは当然だといっているわけです。また、マスコミは、被告は反省の様子がないとか、被害者への謝罪の言葉がないといって批判しますが、これも被告はその気になれば反省もできるし謝罪もできるはずだという前提で批判しているわけです。
 
「自由意志」というのはだいたいこのようなものです。
 
 
自由意志 free will
自由意志とは伝統的な哲学の概念で、人間の行動は外的要因によって絶対的に決定されているのではなく、行動主体が意志によって選択した結果であるとする哲学的信念である。これらの選択は、それ自体は外的要因によって決定されてはいないが、行動主体の動機や指向から特定可能である。動機や指向そのものは、外的要因から完全に特定することはできないとされる。
 
伝統的に、自由意志の存在を否定する者は、運命や超自然的な力や、あるいは物質論的な要因を、人間の行動を決定する要因と見なしている。自由意志の信奉者は自由論者とよばれることもあるが、彼らは人間の行動以外の世界がすべて、外的要因による不可避的な帰結かもしれないが、人間の行動そのものは独自のものであって、行動主体によってのみ決定可能であり、神や星々や自然法則で決定されるものではないと信じている。
 
 
早い話が、人間は自分で自分の行動をコントロールできるという考え方です。
これはみんなの実感でもあるはずです。誰かに強制されない限り、自分の行動は自分で決めているからです。
しかし、その行動は環境に適応するための行動であるはずです。となると、環境に支配されていることになります。
これは、「自分の心を自分でコントロールできるか」というふうに考えてみるとよくわかるはずです。恐怖心や欲望はなかなか自分でコントロールできません。恐怖心や欲望は環境に即応して生じるからです。
そして、恐怖心や欲望をコントロールできないなら、自分で自分の行動もコントロールできないことになります。
 
ちょっと高い視点から見ると、よりわかりやすくなります(これがつまり「メタ認知」ですね)。
A、B、Cと選択肢があるとき、人間は自分の意志で自由に選択しているつもりですが、実際はつねに最善(と自分が判断する)策を選択していて、次善策や悪い策を選ぶことはないので、自由に選択しているのではないというわけです。
 
「自由意志」という考え方のもとをたどっていくと、哲学上の決定論か非決定論かという問題に行き着きます。
 
この世の出来事はすべてあらかじめ決められているという考え方が決定論です。
もう少し説明すると、ひとつの出来事はその前の出来事から必然的に導かれる、つまりすべての出来事は原因と結果の必然的な連鎖によって成り立っているという考え方です。
もちろん人間の行動や思考も同じですから、「自由意志」などあるわけありません。
 
この考え方を否定するのが非決定論です。決定論と非決定論とどちらが正しいかは哲学者が議論するところでした。
 
そこに近代科学が登場します。科学は自然界を支配する法則を次々と明らかにしましたが、それらは全部決定論に与するものでした。
 
たとえば天体の運行はすべて法則によっているので、過去の動きがわかれば将来の動きが計算できます。自然界の動きはすべて同じようなものであるはずです。
生物やその神経系も物理法則に従っているのはもちろんです。
 
カオスについては、人間の知性やコンピュータの働きではとらえられないとされますが、法則によって動いていることに変わりはありません。
 
ただ、微妙な例外もあります。それは、量子力学における不確定性原理で、量子の位置を測定すれば運動量が測定できず、運動量を測定すれば位置が測定できないというものですが、これを根拠に決定論は破れた、したがって人間に「自由意志」があると主張する人がいます。
単なる観測上の問題をそこまで飛躍させるのは不思議ですが、最近「科学者たちはなにを考えてきたか」(小谷太郎著)という本を読んで、そのわけがわかりました。理論物理学者のフォン・ノイマンが「量子力学の数学的基礎」という本の中で、観測されるときの系の状態を物理学で説明することはできない、その状態を引き起こすのは観測者で、しいていうなら「抽象的な自我である」と書いたのです。この「自我」というたったひとつの言葉のために当時、激論が起こって、その影響が今まで続いているというのです。
 
かりに量子のレベルで決定論とは違う動きがあったとしても、そのことが人間の精神に影響を及ぼして、人間の精神以外に影響を及ぼした形跡がなにもないというのはおかしなことです。不確定性原理があるから人間に「自由意志」があるのだという主張には明らかにむりがあります。
 
この世は決定論に支配されているとなると、自分の行動もすべてあらかじめ決まっているということになりますが、どう決まっているかは知るすべがないので、私たちの生き方に影響するということはないはずです。私たちは与えられた環境で一生懸命生きていくしかありません。
世界が法則に従って動いていることを知れば、よりうまく適応できるはずですし、自分の心も法則に従って動いていることを知れば、さらにうまく適応できるはずです。
 
むしろ逆に、自分に「自由意志」があると思っていては、現実をありのままに認識できず、うまく適応もできないはずです。
 
ともかく、「自由意志」は「霊魂」や「超能力」と同じようなもので、みんながあってほしいと思うものの、科学的には存在が証明されないものです。
 
それでも、多くの人が「自由意志」の存在を信じているのは、信じるとつごうのいいことがいろいろとあるからです。
 
たとえば、現在の刑事司法システムは、犯罪者の心に「悪意」や「犯意」が生じることが犯罪の原因であるとして犯罪者を裁いていますが、これによって、犯罪者の周りの人間や社会制度を免罪して、社会の安定をはかっているわけです。
しかし、凶悪犯の脳を調べると異常の発見されることが多く(先天的な異常もあれば幼児期の被虐待経験などによる異常もある)、また、多くの犯罪者は劣悪な環境で育ち、しばしば軽い知能障害者であったりするので、犯罪が「自由意志」によるものだというごまかしが今まで続いているのが不思議です。
 
また、人が貧乏になるのは本人が努力をしないせいだとすれば、格差社会を正当化することができて、富裕層には好都合です。
 
教え方のへたな教師は、生徒の成績が伸びないのは生徒の「やる気」がないせいだとしますし、しつけのへたな親は、子どもが反抗するのは子どもに「素直な心」がないせいだとします。
 
「自由意志」を否定するのは科学だけでなく、仏教もそうです。
 
仏教の核心は次の3行で表されます。
 
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
 
これを自分流に解釈すると、こうなります。
 
世界は法則に従ってつねに変化している
人間はその法則を変えることができず、人間もまた法則に従う存在である
そのことを理解すれば安らぎの境地が得られる
 
「諸法無我」という言葉が「自由意志」の存在を真っ向から否定しています(人間に「自由意志」があると考える人は、人間以外の動物には「自由意志」はないと考えているようなので、これは人間は神に似せてつくられたというキリスト教的な考え方でもあるでしょう)。
 
人文科学や社会科学の分野でいまだに「自由意志」という妖怪が徘徊しているのは情けない限りです。
 

「メタ認知」という言葉があることを最近知りました。
NHKの「探検バクモン」の「Oh No! スーパーブレイン 」という脳科学を扱った回でやっていました。そのときは、「自分の姿をビデオで見るような感覚」という説明でしたが、私がいいたいことは、もしかして「メタ認知」という一言で表現できるのではないかと思いました。
 
ネットで調べると、こういう説明になっています。
 
メタ認知(ウィキペディア)
メタ認知(メタにんち)とは認知を認知すること。人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。それをおこなう能力をメタ認知能力という。
 
メタ認知の概要(奈良教育大学)
メタ認知の「メタ」とは「高次の」という意味です。つまり、認知(知覚、記憶、学習、言語、思考など)することを、より高い視点から認知するということです。メタ認知は、何かを実行している自分に頭の中で働く「もう一人の自分」と言われたり、認知についての認知といわれることがあります。
 
身近なことでは、録音した自分の声を聞くといったこともメタ認知でしょう。自分のゴルフのスイングをビデオに録って、フォームの矯正をするといったこともそうです。
もちろんレコーダーやビデオなしにメタ認知は可能です。自分で自分の考えや感覚を客観的に認識すればいいわけです。
 
しかし、この説明だけではメタ認知の価値がよくわからないかもしれません。というのは、もし人間の認知が正しければ、メタ認知などどうでもいいことだからです。
 
ここで「認知バイアス」という言葉を持ってくるとわかりやすいでしょう。
「認知バイアス」は直訳すると「認知の偏り」ということになりますが、人間はもともと正しい認知ができない傾向があるということです。たとえば、「都合のよい事実しか見ない」「権威者の言葉を信じる」「隣の芝生は青い」「成功は自分の力、失敗は他人のせい」「損失の痛手は利益の喜びより大きい」といったことは誰にでもあります。ですから、どうしても「メタ認知」が必要なのです。
 
たとえていえば、人間はもともと色メガネをかけて生まれてきているのです。ですから、自分がどんな色メガネをかけているかを知って、頭の中で色を補正しなければ、世界を正しく見ることができないことになります。
 
生まれてきたときに、どんな色メガネをかけているかは、その人の個性によって少しずつ違います。さらに、それぞれの人生によっても違ってきます。つまり生まれつきの色メガネに、人生経験からくる偏見の色メガネが重なって、一人一人の見る世界が違っているので、私たちはつねに人と認識が違って争うことになります。
 
自分がどんな色メガネをかけているかを知って、頭の中で色を補正すれば、世界の正しい認識が得られることになります。
 
古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」という言葉が刻まれていたということですが、これはメタ認知と同義の言葉でしょう。
中学か高校のころに「汝自身を知れ」という言葉を知った私は、これこそが哲学の最終目的だと思いました。自分自身を知ることが世界を知ることだからです。
 
ところが、思想家や哲学者は「汝自身を知れ」という言葉を無視して、もっぱら世界について考えてきたようです。
最近になって、心理学、脳科学、行動経済学、進化生物学などにおける実証的、科学的研究によって認知バイアスの存在がどんどん明らかになるとともに、「汝自身を知れ」つまりメタ認知の重要性がわかってきました。
 
メタ認知という言葉は知らなくても、自然とメタ認知のできている人もいれば、できていない人もいます。
たとえば、宮崎駿監督は、自分の中に戦争好きの部分があることを認識して、戦争好きの部分と平和主義の関係を考えて「風立ちぬ」をつくりました。私も戦争映画が大好きで、自分の中に戦争好きの部分があることを認識しています。
一方、自民党の石破茂幹事長は軍事オタクですから、戦争好きの部分があるに違いないのですが、そういう自分を批判的に見ることができないので、口では平和をいいながら戦争好きの政策を進めるということをしています。安倍首相も同じです。
 
また、嫌韓の人は、韓国についていろいろと論じますが、もしメタ認知ができていれば、自分が嫌韓なのはどうしてなのか、韓流好きの人と自分とどこが違うのかというふうに考えを進めていくことができるでしょう。
 
道徳教育を強化するというのも、メタ認知のできない人の考えることだと思います。人物評価重視の大学入試にするというのも同じです。
 
今問題になっているさまざまなことは、メタ認知の欠如で説明できるのではないかと思います。
 
そして、私が思うに、究極の認知バイアスは「自分は正しい」という思い込みです。
「自分は正しい」という思い込みは、「相手が悪い」という認識と一体になっています。つまり「自分は正しい(相手が悪い)」という認識です。
 
そして、探せば相手の悪いところはいくらでも発見できるので、「自分は正しい(相手が悪い)」という認識はどんどん強化されていきます。
これが夫婦喧嘩から国家間の戦争までの原因です。
 
ここでメタ認知ができれば、「自分は正しい(相手が悪い)」という思い込みを持っているのは相手も同じであるということに気づき、ほんとうに正しいのはどちらかというふうに思考を進めることができます。
 
メタ認知あるいは「汝自身を知れ」は、やはり哲学の最終目的だと思います。

海外旅行にいくので十日間程度ブログの更新を休みます。
旅行自体は十日間もいきませんが、前後にたまった仕事をやらないといけないのでたいへんです。
 
私はこのブログのほかにホームページもやっています。知らなかった人は、ブログの更新を休んでいる間、そっちのほうを読んでいてくださいと言いたいところですが、ホームページに書いてあることが微妙に恥ずかしくなってきました。
ホームページには、「道徳の起源」というタイトルでいずれ出版するはずの本の第1章だけを載せています。これがちょいと恥ずかしい。自分の力量に見合わないことを書いているからです。それに、そもそも書く必要があったのかという気もしてきました。
 
私の思想はきわめて単純なものです。たった1行で表現できます。
 
「道徳とは利己主義の産物である」
 
思想というのは難解な哲学用語で語られるものというイメージがありますが、そういうのは根本的に間違っているか、瑣末について語る思想です。
本物の思想は単純で強力なものです。
 
とはいえ、「道徳とは利己主義の産物である」だけでは単純すぎるので、もう少し説明するとこんな感じになります。
 
・人間はほかの動物と同じく基本的に利己的な存在で、つねに互いに生存闘争をしている。
・人間はほかの動物と違って言葉も武器として生存闘争をしている。
・他人の行動について、自分の利益になるものを賞賛し、自分の不利益になるものを非難する。そうした言葉づかいの体系が道徳である。
・道徳の中心概念は「善・悪・正義」である。他人の行動について、自分の利益になるものが「善」、自分の不利益になるものが「悪」、「悪」をなす人間を攻撃・排除・処罰することが「正義」である。
・弱者の道徳は強者の道徳に駆逐され、最終的に集団は強者の道徳に支配される。
・道徳によって集団に秩序がもたらされる面がある。
・道徳によって生存闘争が必要以上に激化する面がある。
・道徳を正しく把握することによって、必要以上の生存闘争を回避することができる。
 
全部日常語で説明できてしまいます。わからないということはないでしょう。
 
「強者が道徳をつくる」という思想は目新しいものではありません。マルクス主義は道徳をイデオロギーと見なしますし、フェミニズムは「女は男に従うべし」という道徳は男がつくったものだと指摘します。国際社会の「正義」が「アメリカの正義」であることも半ば常識でしょう。
 
しかし、今までは中途半端でした。たとえば、フェミニストは男が女に従順さを求めることを批判しますが、その一方で、母親として子どもに従順さを求めます(たぶん多くのフェミニストは)。これは明らかに矛盾です。
私はおとなと子ども、親と子の関係にまで踏み込んで道徳をとらえました。これによって初めて矛盾なく道徳(善・悪・正義)をとらえることができたのです。
 
私は善と悪の関係はどうなっているのだろうかということをねばり強く考えてるうちに、この考えがひらめきました。アームストロング船長風に言うと、「私にとっては小さなひらめきだが、人類にとっては偉大な思想である」というところです。つまり偶然に私はとんでもないことを思いついてしまったのです。
 
私は自分の思いついたことを世の中に伝えなければなりませんが、これはまったく非力な人間が世界記録のバーベルを持ち上げなければならなくなった状況に似ています。
当然不可能ですから、なにかやり方を工夫しなければなりません。
 
私が思いついたのは、これは「科学的」理論であると主張することでした。「科学的」と認定されれば、もう私の手を離れて、みんなが寄ってたかって発展させていってくれるでしょう。
ニュートンはきわめて名誉欲の強い、偏頗な性格の人だったようですが、そんなことはニュートン力学の価値にとってはなんの関係もありません。それと同じ状況にしようと思ったわけです。
ということで、私のホームページに載せた「道徳の起源」第1章には、この理論が学問の世界にどう位置づけられるか、科学(進化生物学)とどう関連しているかということをもっぱら書いています。
 
しかし、考えてみればこれは的外れです。それが科学的か否かというのは、本人が主張することではなく、科学界において決められることです。それに、科学者でも倫理学者でもない人間がそういう主張をすると、よけいうさんくさくなり、逆に「オカルト科学」と認定されかねません。
 
現在の私の考えとしては、自分の思想がどう位置づけられるかの判断はほかの人に任せて、自分の思想の核心的部分から書いていったほうがいいのではないかということに傾いています。
となると、「道徳の起源」第1章は廃棄処分にして、また別の第1章を書くことになりそうです。
 
とはいえ、「道徳の起源」第1章は、学問思想の世界全体を鳥瞰するという野心的な試みで、力不足ゆえ突っ込みどころ満載かもしれませんが、これだけスケールの大きいことを考えたということにはそれなりの価値もあると思います。
そういうことを踏まえて私のホームページを読んでいただくとおもしろいかもしれません。
 
 
「思想から科学へ」村田基(作家)のホームページ
 (現在このホームページは休止中です)

私の思想はきわめて単純なものです。なぜこんな単純なことを今まで誰も思いつかなかったのか不思議なほどです。
 
動物は基本的に利己的な存在で、つねに生存闘争をしています。もちろん人間も同じです。ただ、人間は爪や牙だけでなく言葉も闘争の武器にします。言葉で相手を威嚇し、言葉で相手をだますことで、自分の利益をはかります。
もちろん言葉の役割はそれだけでなく、たとえば異性を口説くことにも使われたでしょうし、また、人間は群れをつくって暮らしていましたから、群れの中の連携を深めるためにも使われたでしょう。
たとえば、人間が巨大なマンモスを倒すことができたのは、言葉によって密接な連携の狩りができたからではないかと想像されますが、マンモスを倒したあと、肉を分配するときは誰もが自分の取り分をふやそうとします。そのときも言葉が道具に使われたはずです。あいつは怠けていた、あいつは失敗した、あいつは臆病なふるまいをしたなどと言って他人の取り分をへらそうとし、自分はこんなによく働いた、自分はこんなに仲間を助けたなどと言って自分の取り分をふやそうとしたでしょう。
 
そうした中で人間は言語能力を進化させ、道徳をつくりだしたというのが私の考えです。
 
もっとも、別の考え方もあります。
ダーウィンは、社会性動物には親が子の世話をしたり仲間を助けたりする利他的な性質があり、人間は利他的な性質をもとに道徳をつくりだしたと考えました。
このダーウィンの道徳起源説は今も進化生物学界の主流の考え方となっており、たとえば「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスも支持しています。
 
私の説は、ダーウィンの説と正反対のものになります。
ダーウィンの説は、人間は利他的性質をもとに道徳をつくりだしたというもの。
私の説は、人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだしたというもの。
 
したがって現在、進化生物学的な道徳起源説はふたつあることになります。
たぶんこれ以外の説はありません。
ですから、どちらかを選ぶしかありません(道徳は神によって与えられたと考える人は好きにしてください)
 
もちろん私は私の説が正しいことを確信しています。
たとえば、ダーウィン説や今までの倫理学では、善悪の定義ができませんし、正義の定義もできません。しかし、善悪や正義は自分の利益を追求するための道具だと考えると、ちゃんと定義できます。
 
自分の利益追求に都合のよいものが「善」で、自分の利益追求に都合の悪いものが「悪」で、「悪」をやっつけることが「正義」です。
たとえば、親にとって、素直な子どもは「よい子」で、反抗的な子どもは「悪い子」で、「悪い子」をこらしめることが「正義」です。
アメリカにとっては、日本のように従順な国は「よい国」で、イランのように反抗的な国は「悪い国」で、「悪い国」をやっつけることが「正義」です。
つまり、「善・悪・正義」は三元論としてとらえると定義できるわけです。
 
なお、親は子どもよりも強く、アメリカはその他の国よりも強いわけで、道徳が成立するには必ずこうした権力関係が存在します。また、親と子は愛情で結びついているので、子どもは(自分にとっては不利益な)道徳を受け入れます。ですから、道徳・権力・愛情は密接に結びついています(イランとアメリカに愛情関係はありませんが、人間は誰でも子ども時代に道徳を学びます)
 
つまり、道徳を正しくとらえると、善・悪・正義、さらには権力、愛情といった人間関係の重要な要素がよりはっきりと見えてくるのです。
 
善悪、正義は人間の生き方を示す指針だと考えると、わけのわからないことになりますし、そのために今までの人文科学・社会科学はわけのわからないものになっていました。
人間は利己的性質をもとに道徳をつくりだし、道徳を道具として生存闘争をしているという認識に立つと、人間のすべての行動は合理的ものとしてとらえることができるはずです。
 
 
 
以上、書いたことは今の段階の私なりの表現です。
前に書いたことよりも少しはわかりやすくなっているのではないでしょうか。
私の頭の中では、考えははっきりまとまっています。しかし、今まで誰も表現しなかったことを表現するには、一から全部自分で言語化しなければなりません。これがなかなかバカにならない作業です。
今日書いたことは、コペルニクスが太陽を中心に地球、金星、火星が回っている絵を描いたようなものです。これから、これを信じられるものにしていく作業も必要です。
気長に見守ってやってください。

私も時々そのブログを拝見しているあるカリスマブロガーは、「自分の頭で考えろ」ということを繰り返し言っておられます。確かにもっともなことで、ネットの言論を見ても、みな同じようなことばかり主張しているのは、要するに人の受け売りだからです。私もこのブログでついつい自分の頭で考えることのたいせつさを説きたくなりますが、「自分の頭で考えろ」と言われたからといって、自分の頭で考えられるようになるわけではないと思って、自制しています。
 
「すべてのものを疑え」ということもよく言われます。哲学系の知識人がよく言いますし、成功した起業家などが言うこともあります。私もついつい言いたくなるのですが、実際すべてのものを疑うことなどできるわけはないので、これも言うのは自制しています。
 
世間の常識を疑い、自分独自の考えを持つのはたいせつなことですが、それは簡単にできることではありません。また、自分独自の考えを持っても、それが間違っていては話になりません。単なる変人になるだけです。
数ある世間の常識の中で間違った常識に気づかないといけないわけです。
そのためにはどうすればいいでしょうか。
 
学者や知識人は、知識を深めたり、知性を磨いたりすることがたいせつだと説くでしょうが、私の考えは違います。
いや、知識を深めたり、知性を磨いたりすることも必要ですが、それだけではだめです。肝心なのは、感性であり、直感や直観です
 
世間の常識のすべてを疑うのは現実的ではありません。おかしいと思うものだけ疑えばいいのです。そして、おかしいものをかぎ分けるのは、知性というより感性、つまり直感や直観だというわけです。
 
こうした感性は生理的、原始的、本能的なもので、むしろ知性の対極にあるものです。
そして、生理的、原始的、本能的な感性は、おとなよりも子どもにより強くありますから、子どもの感性を取り戻すことがたいせつになってきます。
また、子どものころに感じた疑問を思い出すこともたいせつです。
私の場合、子どものころに感じた疑問をずっと追究してきたといっても過言ではありません。
 
たとえば私は幼稚園か小学校1年生のころ、消防と警察の役割を学び、消防の仕事が火事を消すことだと知って、それはとてもたいせつな仕事だと思いました。
しかし、警察の役割はピンときませんでした。防犯パトロールはたいせつな仕事だと思いましたが、犯罪が起きたあとに犯人を探して捕まえることの意味がわからなかったのです。
もっとも、犯人を捕まえることでその犯人の次の犯罪を防ぎ、また別の犯罪を防ぐ意味もあるということを知り、一応納得しましたが、あくまで「一応の納得」です。消防の役割にはなんの疑問も感じなかったのとは大きな違いです。
 
また、私はなぜ学校に行くのかよくわかりませんでした。たとえば1日5時間授業を受けたとして、そこで学んだものの価値はとうてい5時間分あるとは思えませんでした。私の直観では1時間分ぐらいの値打ちがやっとでした。
それでも、なんとか学校に行くことを納得したのは、父親が毎日会社に行ってたいへんな思いをしているのだから、子どもの私も毎日学校に行ってたいへんな思いをしなければ不公平だという理屈からでした。
 
結局、私の思想は、警察や犯罪対策についての疑問、学校についての疑問を追究することで形成されたようなものです。
 
それから、私はみんなが同じことを言う状況にとりあえず不快感を覚えます。
そういう状況が長く続くと、当然不快感はより強くなります。
たとえば、なにか犯罪が起こるたびにみんなは犯罪者を非難します。犯罪はしょっちゅう起こっていますから、みんなは毎日のように同じことを言っているわけです。いくら言っても犯罪がなくなるわけでもないのに、まったく進歩のない人たちです。私はこういう人たちをどう説得すればいいかと考えて、自分の思想を深化させてきました。
 
みんなが同じことをずっと言い続けているというのは、たいていその言っていることが間違っているからです。みんなが正しいことを言えば、すぐに事態は正しい方向に修正され、言う必要はなくなってしまうはずだからです。
ですから私は、みんなが同じことをずっと言い続けているときは、まったく逆のことを考えて、それが正しいという理屈を考えてみます。そうすると、しばしば逆の考え方のほうが正しいと思えたりします。こうしたやり方も自分独自の考えを形成するのに役立ちます。
 
要するに「すべてを疑え」というのは非現実的ですから、正しく疑うためには、感性を働かせること、子どもの感性を取り戻すこと、子ども時代の疑問を思い出すこと、みんながいつも同じことを言う状況に不快感を持つことなどがたいせつだと私は考えています。参考にしてください。

世の中に、自分は努力家だと思っている人はめったにいません。たいていは自分は努力のできないだめな人間だと思っています。
どうして人は努力することができないのでしょうか。
努力する人と努力しない人はどこが違うのでしょうか。いや、そもそも努力とはなんでしょうか。
 
努力というような基本的な概念について考える場合、私は人間と動物を比較することにしています。そうすると、人間についてだけ考えているときにはわからなかったことがわかってきます。
そこで盲導犬を取り上げてみることにします。あんなにも人間に尽くしてくれる盲導犬は“努力”する犬なのでしょうか。
 
盲導犬をつくるのは、まず犬選びから始まります。犬種は、昔はシェパードもいましたが、今はたいていラブラドール・レトリバーかゴールデン・レトリバーだそうです。血統もだいじで、両親ともに盲導犬だった子犬、片方の親が盲導犬だった子犬は優先的に選ばれますし、もちろんその子犬の頭のよさや性格も見て選ばれます。
選ばれた子犬は、ブリーディングウォーカー(繁殖犬飼育ボランティア)の家庭で月齢2カ月まで母犬と兄弟犬とともに育ちます(育つ過程で選ばれるというのが正確です)。母犬の母乳を飲み、愛情を受け、兄弟との間で犬としてのつきあいを学びます(ペットショップでは2カ月未満の子犬が檻に入れられて売られていますが、これはもちろんよいことでなく、子犬の性格がゆがむ恐れが大です)
 
子犬は次に、パピーウォーカー(子犬飼育ボランティア)の家庭に1歳まで預けられ、ここで人間との関係を学びます。人間の家族の一員として愛情をもって育てられ、人間といっしょにいると楽しいと思うようになることがたいせつです。
具体的にどのように育てられるかというと、映画「クイール」において、盲導犬訓練士がパピーウォーカーに子犬を預けるとき、「この子は、なにがあっても叱らないでください」と頼むシーンが出てきます。
一般に犬は子犬のときからしつけなければわがままになると考えられていますが、ここではまったく逆です。しつけ、つまり訓練は、人間との信頼関係が築けてからすることなのです。
もっとも、盲導犬の子犬を育てるとき「なにがあっても叱らない」という原則が確立されているわけではありません。これはこの映画と原作に描かれていることです。しかし、あまり叱っては、犬は人間の愛情を感じられなくなることは間違いないでしょう。人間は子どもを叱っては、「愛情があるから叱るのだ」とか「叱るのは愛情があるからだ」とかいう適当な理屈でごまかしていますが、もちろんよいことではありません。
 
1歳になった犬は、訓練士のもとで半年から1年の訓練を受けますが、もちろんすべての犬が盲導犬になれるわけではありません。合格率は60%程度だそうです。
 
 
1年半から2年かけて、結局不合格になる犬が40%もいるというのはなかなかきびしい結果ですが、不合格になる犬はなにがよくなかったのでしょうか。
まずひとつ考えられるのは、適性のない子犬を選んでしまったということです。
それから、育てるときに人間との信頼関係がうまくつくれなかった可能性もあります。
もちろん訓練士の力量が足りなかったということもありえます。
現実には、その三つの要素の複合が原因となっているのでしょう。
 
このとき、犬の努力が足りなかったから不合格になったのだと考える人はいません。
犬に限らず動物に努力を求める人はいません。
当たり前のことですが。
 
これが人間になるとどうでしょうか。
たとえば子どもをピアニストにしようとしてピアノを習わせたものの、なかなか上達しなかったとします。
このとき、素質のない子にピアノを習わせたということが考えられますし、ピアノの先生の教え方が下手だったということも考えられます。
しかし、すべての親やピアノの先生がそう考えるとは限りません。
子どもの努力が足りないせいだと考える人もいます。そうして子どもに、もっとがんばれ、やる気を出せと叱咤激励します。それでも上達しないと、子どもに失望します。
 
これが人間社会で行われていることです。自分のせいだと考えることのできない人が相手のせいにするために、「努力」という概念を持ち出すのです。
ですから、自分は努力のできる人間だと思っている人はめったにいなくて、ほとんどの人は自分は努力のできないだめな人間だと思わせられているのです。
 
「努力」という概念があるために多くの人が不幸になっています。
 
もっとも、「努力」にも使い道はあります。
それは人を非難するときに役立つということです。
それから、「今まで自分は努力してこなかった。これからは努力しよう」と自分を奮い立たせるときにも役立ちます。なにしろ私たちの頭には「努力」という概念が普通に入っているので、そう考えるのが自然です。
 
世の中には、少し努力すれば幸福になれるのに、努力しなくて不幸になっている人が多くいます。そういう人は、不当に努力を要求され続けたり、その他さまざまなことで性格がゆがんでしまったのでしょう。
努力すれば報われるという経験を何度もすれば、誰でも努力するようになります。そうするとそれは当たり前の行為で、「努力」と名づけることもありません。
 
カバ園長のあだ名で親しまれた故・西山登志雄氏は、「動物はいつも一生懸命」という言葉で動物の魅力を語っておられました。
人間も動物なのですから、「人間もいつも一生懸命」なのです。
一生懸命に見えない人間がいるのは、人間社会があまりにも愚かだからです。

ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結したとき、新聞のインタビュー記事に右翼団体代表が登場し、今後右翼は目標を失うのではないかと質問されて、いや、今後は「道徳国家の建設」が目標になると答えていました。
どうして右翼が「道徳国家の建設」と言ったのか不思議に思いましたが、満州国の建国の理念が「五族協和の王道楽土」だったので、それを踏まえたのか、あるいは教育勅語の復活みたいなことを考えていたのでしょうか。
 
私は「道徳国家の建設」などありえないことだと思いましたが、今になってみると、この右翼の発言はなかなか鋭いところをついていたかもしれません。
つまり、冷戦が終結して、右翼と左翼という対立図式が無意味になったとき(まだそう思っていない人がたくさんいますが)、道徳についてどう考えるかということが新しい対立図式として浮上してきたと思えるからです。
 
「道徳国家の建設」が目標だということは、道徳によってよい国をつくることができ、道徳教育でよい人間をつくることができると思っているのでしょう。こう思う人はもちろんいます。というか、この考え方は世の中のタテマエとして存在しています。
その一方で、道徳ではよい国をつくることはできないし、道徳教育でよい人間をつくることはできないと思う人もいます。こちらのほうが多数かもしれませんが、これはタテマエに反するホンネなので、声高に主張されることはありません。
このタテマエとホンネの対立が表面化してきた――と言いたいところですが、まだそこまでにはなっていません。ただ、タテマエの暴走が始まったのは確かです。
私はこれを道徳原理主義と呼んでいます。
 
たとえば、ツイッターやブログでカンニングをしたとか万引きをしたとか書いた人がいると、それに対する猛烈なバッシングが起きます。過去にはテレビで万引きを告白したタレントや、イタリアの大聖堂に自分の名前を落書きした女子大生が大バッシングを受けました。犯罪や悪事の動かぬ証拠があると、安心して人を非難できるということで、大勢の人が集まってくるのです。こうした人は、自分は道徳的な行為をしているのだと思っています。
 
また、法務大臣が死刑執行を行わないと、バッシングが起きます。これも冷戦終結後に顕著になった傾向です。それに、少年法が厳罰化へと改正され、刑事事件の時効が廃止・延長されたりしました。こうした厳罰化を求める世論が高まったのも道徳原理主義だといえます。
ちなみに、死刑によって犯罪が減少するという根拠があるわけではなく、時効の廃止・延長にしても功利主義的には疑問でがありますが、道徳原理主義なのですから、そういうことはどうでもいいわけです。
 
小泉首相は、抵抗勢力という悪役をつくり上げてバッシングするという手法で人気を博し、郵政解散による総選挙のときは普段投票に行かないような人たちも投票所に足を運びました。現在の橋下徹大阪市長も、公務員などを悪役にしてバッシングすることで人気を博しています。
 
9.11以降、アメリカが「テロとの戦い」に突っ走っていったのも、テロリストが悪で、それをやっつけるアメリカは正義だという認識によるもので、これも道徳原理主義だといえるでしょう。
 
 
どうしてこうなったかというと、ひとつにはやはりマルクス主義の破産ということがあると思われます。マルクス主義では道徳はイデオロギーのひとつとして批判的にとらえられていましたが、今では道徳を総体として批判する思想はなくなってしまいました(ニーチェ思想はそれに近いところがあるかもしれません)。
それに加えて、インターネットの掲示板やテレビの討論番組で善悪や正義をめぐる議論が活発化したということがあるでしょう。そうするとどうしても議論が極端に走ることになります。
 
実際のところ、道徳はできたときからの欠陥車のようなものです。スピードを出すと悲惨な事故を起こすことになりますから、これまで人類はだましだまし、それでもあちこちぶつけながら、道徳という欠陥車を運転してきたのです。
その中で人類は、正義を徹底して追求してはいけないとか、悪を徹底して排除してはいけないということを学んできました。ただ、なぜそうなのかを根拠づけることができないので、これは“おとなの知恵”とか“生活の知恵”みたいなものです。
しかし、インターネットなどのメディアが発達し、激しい議論が行われるようになると、こうした論拠のない“おとなの知恵”とか“生活の知恵”は無視されがちになり、道徳原理主義に走るようになったのです。
 
ですから、これからの思想的課題は、道徳の欠陥を理論的に解明して、道徳原理主義を止めることといえます(もっとも私はそれについてさんざん書いてきているのですが)。

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