同じ暴言が繰り返されるというのは、暴言するほうに学習能力がないだけでなく、批判するほうも的を外しているかもしれません。
麻生太郎財務相は10月23日の閣議後の記者会見で、「飲み倒して運動も全然しない人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられんと言っていた先輩がいた。良いことを言うなと思った」と言いました。
麻生氏は同じことを何度も言っています。総理大臣だった2008年11月には、「67歳、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらにかかっている者がいる」「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ」と言いました。
2013年4月には、「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで糖尿になって病院に入るやつの医療費は俺たちが払っているんだから、公平じゃない」「こいつが将来病気になったら医療費を払うのかと、無性に腹が立つときがある」と言いました。
こうした発言のつど批判されていますが、それでも繰り返しています。
元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏も2016年9月に「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」というタイトルのブログ記事を書き、炎上しました。
しかし、全国腎臓病協議会の謝罪の要求は拒否しました。
ただ、「殺せ」という表現はよくなかったとして、問題のブログのタイトルを「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」と変更しました。
長谷川氏の主張も基本的に麻生氏の主張と同じです。要するに自堕落で不摂生な生活をして病気になった人間の医療費を負担するのはバカらしいというのです。
そして、この部分については二人とも謝罪も反省もせず、今も正しいと思っているようです。
批判する側は、病気のことがわかっていないとか、患者の気持ちを傷つけたといったことを挙げますが、これが通じていないようです。
確かにこの批判は的を外していると思われます。
批判するべきは、麻生氏と長谷川氏の人間観です。
彼らは、人間には「自由意志」があると思っているのです。
ですから、「人間は自分の意志によって節制した生活ができるのに、やらなくて病気になるのは本人が悪い。そんな人間の医療費を払うのはバカらしい」ということになります。
人間に自由意志があるか否かは、古くからの哲学上の問題です。時事的な問題や政治的な問題にそういう哲学的問題を持ち込むわけにいかないとメディアや多くの人は判断しているのでしょう。しかし、それではいつまでたってもこのような議論が続くことになります。
それに、この問題はほぼ決着がついています。
科学的には、すべての物事は自然法則の因果律の中にあり、例外は発見されていません。人間は進化論によって自然界の中に位置づけられたので、人間の精神は特別だという主張も成り立ちません。脳科学などによってもこれは裏付けられます。
思想的には、マルクス主義は唯物論ですから、「存在は意識を規定する」という言葉のように自由意志を否定します。マルクス主義の影響力がなくなったことで自由意志派が盛り返してきたのが現状です。
たとえば新自由主義的な自己責任論もそのひとつです。自己責任論はつねに批判の対象になっていますが、主張する人はいつまでも主張し続けています。
刑法学の世界にも自由意志論は生きています。犯罪は基本的に本人の自由意志によるものとされます。ただ、凶悪犯の脳を調べると器質的な異常の発見されることが多く、自由意志論の根拠は危うくなっています。
現在、自由意志は科学的には否定され、思想の分野も科学にどんどん浸食されてほぼ否定されています。
麻生大臣の主張は、「人間には自由意志があり、その気になればいくらでも健康によい生活ができる」ということが前提になっています。
ですから、麻生大臣が「飲み倒して運動も全然しない人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられん」と言ったときは、「麻生大臣は人間には自由意志があると思っているんですね」とか「人間は心がけ次第でどんなこともできるというお考えなんですね」と聞いて、その主張の背後にある人間観を問題にすればいいのです。
「人間には自由意志がある」と言うと、最初は賛否両論があるでしょうが、最終的には科学による結論を受け入れることになるはずです。
失言があるたびに同じ議論をするのは時間のむだです。