村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:哲学

東京大学大学院教授の佐倉統氏は進化生物学を中心に科学全般から文系までを視野に収める気鋭の学者で、私は佐倉氏の本から多くのことを勉強させてもらっています。NHKEテレビの「サイエンスZERO」にも出演しておられるので、ご存じの方も多いかと思います。
佐倉氏の「科学の横道」(中公新書)という本を読んでいたら、作家の堀江敏幸氏との対談の中におもしろいくだりがありました。
 
 
堀江 たとえばこの間、中谷宇吉郎の「鼠の湯治」という短いテキストを大学の授業で読んだんです。温泉が外傷の治癒にどれだけ効能があるのかを、ある研究者がネズミを使って実験するという話で、データの解析に悩んだその研究者が、語り手である中谷宇吉郎に相談してくる。で、あいだを飛ばすと、解析法にはめどがたって、そのあとこの実験のために、ネズミたちは温泉に連れて行かれるんですね。助手たちが200匹ぐらいのネズミをかごに入れて運び、実験のための傷をつけて、順番に温泉につからせる。ところがデータとはべつに出た結論は、ネズミは温泉が好きである、ということなんです(笑)。みんな目をつぶって気持ちよさそうにしているというんですよ。
佐倉そういう部分が面白いんですよね。研究のなかの余白の部分というか。
 
 
ネズミが気持ちよさそうに温泉につかっている絵が脳裏に浮かんで、思わず微笑んでしまいます。
もちろん、ネズミはほんとに気持ちよいのかという問題はあります。ですから、佐倉氏は「そのときの血圧や心拍を測るなりして、その気持ちよさをできるだけ客観的に探っていくのが科学なんですが」とも語っておられます。
 
とはいえ、ネズミが気持ちよさそうにしていると感じる感性はだいじなことです。そして私は、もしかしてこういう感性を持っているのは世界でも日本人くらいではないかと思いました。
つまり、これには国民性が関わっているに違いないのです。
 
たとえば、「『甘え』の構造」で有名な土居健郎氏が「甘え」について考えるようになったきっかけは、アメリカ留学中、アメリカ人の患者がアメリカ人の精神科医に甘えの態度を示しているのに精神科医がまったくそれに気づいていないのを見たことです。つまり、アメリカ人も甘えることはあるのですが、それを甘えであると認識する感性をアメリカ人は持っていないようなのです。
 
日本人は風呂好きです。自分がお風呂につかると気持ちいいので、ネズミも同じだろうと考えます。
しかし、世界には風呂好きでない国民も多いのです。
少なくともヨーロッパやアメリカでは、お風呂よりはシャワーですましてしまうことが多いようです。温泉はあっても、多くは病気を治すために利用されていて、温泉そのものを楽しむという文化もないようです。
もっとも、古代ローマ人は大の風呂好きで、ヨーロッパや北アフリカのあちこちに大浴場の遺跡が残っています。同じ土地に住んでいる今の人たちが風呂好きでないのは不思議な気がします(おそらくキリスト教の禁欲主義のせいでしょう)。ちなみに「テルマエ・ロマエ」という人気マンガは、古代ローマ人と現代日本人を世界の二大風呂好き国民として描いています。
ですから、風呂好きでない国民性の人が、温泉につかって目をつぶってじっとしているネズミを見たとき、それを気持ちよさそうだとは認識しない可能性が大です。意識レベルが低下しているとか、硬直しているとか思うかもしれません。
 
また、日本人は昔から動物と人間をそれほど区別しません。「生きとし生けるものいずれか歌を詠まざりける」という歌がありますし、シカの発情する声に自分の恋心を重ね合わせるということもあります。
こうした文化があるから、ネズミは温泉が好きだという発想も自然に出てくるのです。
 
ちなみにニホンザルのイモ洗い行動を観察して、動物にも“文化”があるということを世界で初めて明らかにしたのも日本人です。
また、仙台周辺のカラスがクルミの実を道路に置いて、自動車にひかせて殻を割るというカラスの“文化”があることを報告したのも日本人です(このとき、欧米からはそれは偶然のことではないかという反論があったそうです)
人間に文化があるのだから、動物にも文化があって当然だというのが日本人の発想です。
 
欧米人は人間と動物を画然と区別します。人間は理性、知性、精神、魂、良心、良識、道徳性などを持つ特別の存在だと思っているのです。
そのため進化論がなかなか受け入れられませんでしたし、進化論を受け入れる人も、人間の精神は別だと考えていることが多いようです。
欧米人の動物愛護のやり方も、日本人の目には、上の立場から一方的に愛護するというふうに見えて、違和感があります。
最近、欧米では大型類人猿には(人間と同様の)人権を認めるべきだという過激な主張が出てきていますが、これなども人間と動物を画然と区別するがゆえに出てきた極論です。
 
人間が正しい自己認識を得るには、人間と動物の関係を正しく把握することは当然の前提となります。その点、日本人は欧米人よりも圧倒的に有利な立場にあるといえます。
日本人はやたら欧米の思想をありがたがりますが、今後、欧米の思想はひとまとめにして捨てられ、日本発の思想が世界を覆うようになっても少しも不思議ではありません。

コペルニクスは地動説を思いついたからといって、一般の人々に向かって、「太陽が動いているのではない。地球が動いているのだ」と言ったりはしませんでした。そんなことを言えば、狂人扱いされ、教会からも迫害されるのが目に見えていたからです。コペルニクスは友人の天文学者にだけ手紙で自分のアイデアを伝えました。天文学者ならそのアイデアの価値がわかります。友人の天文学者は手紙を書き写して仲間の天文学者に伝え、そうして天文学界にそのアイデアは広まりました。
あるとき、コペルニクスのもとに若い天文学者がやってきて、そのアイデアをぜひ本にするべきだと力説したので、コペルニクスもその気になり、「天球回転論」という本を書きます。
しかし、コペルニクスは70歳で亡くなりますが、コペルニクスは本の完成を見なかったとされます。本を書き始めるのが遅かったということもありますが、自分の死後に出版するようにと言っていたという説もあります。それぐらい教会から迫害されるのを恐れていたのです。
実際、のちにガリレオ・ガリレイが宗教裁判にかけられることになりましたが、コペルニクス自身は平穏な人生を全うしました。
 
ダーウィンが進化論のもとになるアイデアを思いついたのは29歳ごろだったとされます。それから考えを発展させ、「種の起源」の執筆にとりかかりますが、20年かけて、書いた原稿は膨大な量になっても、なかなか完成しません。
私が思うに、進化論を発表すると教会を初めとする多くの人々の反対にあうことがわかっていたので、先延ばしにしていたのでしょう。もしかしてコペルニクスのように、晩年か自分の死後ぐらいに出版してもいいと思っていたかもしれません。
しかし、そこにウォレスから手紙がきて、ウォレスも同じようなことを考えていることを知ります。とりあえず2人の連名で小論文を発表し、それからあわてて「種の起源」を書き上げますが、これは本来書くはずだったもののダイジェスト版みたいなものでした。
「種の起源」を出版した結果、ダーウィンは学界の論争の渦中におかれ、また新聞にサルの姿をした似顔絵を書かれるなど、一般の人々からも反発を買いました。ダーウィンは学究肌の人で、病弱でもありましたから、こうした状況に置かれることは私たちの想像以上につらかったでしょう。
 
 
なぜコペルニクスとダーウィンの話をしたかというと、今の私も同じような心境にあるからです。
私は32歳のころに、人間がどのようにして道徳をつくりだしたかというアイデアを思いつきました。これは、道徳観のコペルニクス的転回というべきもので、人類史においてはコペルニクスやダーウィンにも匹敵する画期的な業績です(自分で言っているのがいかにもあやしいのですが)。私はそれを「道徳の起源」という本にまとめようと書き始めましたが、なかなか完成させられません。もともと浅学非才な上に、これを書くと反発が多くてたいへんなことになるのではないかという恐れがあるからです。私は人と争うことから徹底的に逃げてきた人間ですから、論争などもしたくありません。
ほんとうなら私がもっとビッグな作家になって、あの人が言うのなら正しいのかもしれないと思わせるぐらいになるのがよかったのですが、諸々の事情からそれもかないませんでした。
 
というわけで、とりあえずこのブログを始めて、新しい道徳観に基づいていろいろなことを書いています。こうしたことを通して、世の中の反応を試し、自信をつけ、次の展開を目指そうというわけです。
 
新しい道徳観のことを「科学的倫理学」と名づけていますが、これに基づくと犯罪対策にしてもテロ対策にしてもまともになります。今の犯罪対策やテロ対策がまったくデタラメなのと比べると、どちらが正しいか明白でしょう。また、政治のことから家族関係のことまで正しく把握できるようになります(細かいことで間違うことはありますが)。
 
半信半疑の人もとりあえずこのブログを読み続けて、従来の考え方と私の考え方とどちらが正しいか考えてください。

高校時代、倫理社会の先生が人真似や受け売りでない自分独自の思想を持つことの大切さを説き、君たちの先輩にはこんな独自の思想を語った者がいたと教えてくれました。その思想というのは、
「これからの人類にとって最大の課題は退屈をいかに克服するかだ」
というものです。
 
これを聞いたときは、意表をつかれました。それに、これはひじょうにスケールの大きな思想です。
「退屈の哲学」とでもいえるかもしれません。
 
当時は高度成長時代で、全共闘運動など“若者の反乱”といわれるものが起こる寸前の穏やかな時代でした。ですから、このまま経済成長が続いていけば、いつか人類にとって退屈が最大の問題になる時代がくるかもしれないというのは、多少リアリティがありました。
 
しかし、私がすぐに思ったのは、これは本当に高校の先輩が独自に考えたものだろうかということでした。どこかの哲学者が言ったことをパクッただけではないかとも思われます。
また、たとえば日活の青春映画などで、金持ちのいかにも生意気な若者が言いそうなことでもあり、その映画のセリフをパクッたとも考えられます。あるいは、フランス映画のしゃれた会話にもありそうです。
しかし、倫理社会の先生はオリジナルのものだと信じていました。
「退屈の哲学」は果たして高校の先輩のオリジナルか、それともなにかのパクリか、パクリとすればなにのパクリかというのが、それからずっと気になっていたことです。
 
そのことを思い出して、今はインターネット検索という便利なものがあるので、「退屈の哲学」で検索してみました。
そうすると、「退屈の哲学」といえるようなものはないようです。ただ、退屈を哲学的に考察するというのはあります。しかし、これは趣旨がぜんぜん違います。「退屈の哲学」は退屈を人類の最大の課題だとするものだからです。
 
ショーペンハウエルあたりが言いそうなことのような気がして、ショーペンハウエルの名言集というサイトを見てみたら、関係ありそうなのはこんな言葉だけでした。
「人間の幸福の敵は、苦痛と退屈である」
これも「退屈の哲学」とは違います(というか、そもそもこれが名言なのでしょうか。普通の言葉としか思えませんが)
 
結局のところ、「退屈の哲学」を唱えた哲学者はいないようですが、映画のセリフのパクリであるという可能性はまだ否定できません。
 
それにしても、当時とは時代が変わりました。今は格差や貧困が問題となり、年金崩壊がいわれています。退屈の克服が最大の課題になる未来がくるなどと言っても、誰もリアリティを感じないでしょう。

1015日、格差社会に反対するデモが世界規模で行われました。
格差社会とはなんでしょうか。格差社会はどうして生まれたのでしょうか。それを考えてみたいと思います。
 
人間は生まれながらに能力差があります。頭のよい人と悪い人がいますし、体力のある人とない人がいます。もちろん頭も体も鍛えれば能力は向上しますが、生まれつきの差があることは動かせない事実です。
では、どれくらいの能力差があるのでしょうか。
障害を持って生まれた人もいます。これももちろん生まれつきの能力差ということになりますが、ここでは一応健常者について考えてみることにします。
 
100メートル走の場合、速い人が約10秒ということになります。高校生男子の平均は14秒ぐらい、遅い人でも17秒ぐらいのようです。約10秒の人は相当鍛えた人ですが、それでも遅い人の2倍まではいかないわけです。
持久走の場合は、鍛えた人と鍛えてない人では大きな差が出ますが、鍛えた人同士、あるいは鍛えてない人同士を比べると、やはり2倍まではいかないのではないでしょうか。
 
頭のよさについても同じようなものではないかと思われます。
もっとも、頭のよさというのはいろんな要素から成っています。言語能力、数学的能力、記憶力、頭の回転の速さなど、数えていけばいくらでもあるでしょう。知能検査で測れるのは、その知能検査で測れる頭のよさですが、頭のよさの目安としては知能検査に頼るしかないでしょう。
IQは、95%の人が70から130の間に収まるとされますから、やはり頭のよさが2倍以上になることはまずないのではないかと思われます。
 
要するに、人間の能力は生まれつき違いがありますが、それほど大きくは違わないということです。
たとえば畑を耕すとき、たくさん耕す人とあまり耕せない人がいることになりますが、2倍まで耕せることはまずないということです。
ということは、農耕社会においては、能力によって貧富の差が生じるとしても、2倍まで豊かになる人はまずいない……と言いたいところですが、そんなことはありません。
たとえば、飢饉になったとき、収穫の少ない人は飢え死にしそうになりますが、収穫の多い人はそうではありません。となると、収穫の少ない人は収穫の多い人に食べ物を譲ってもらわなければなりませんが、圧倒的に不利な立場なので、来年の収穫時に2倍にして返せとか、土地の一部をよこせとか言われても、受け入れるしかありません。そうしたことが繰り返されるうちに、地主と小作人に分かれることになり、貧富の差が拡大します。
もっとも、小作人が死ぬと地主も利益を失うため、地主は小作人を死なない程度の貧乏にとどめておきます。
 
さて、現在の資本主義社会ではどうでしょうか。
カジノ資本主義という言葉があるように、ここではマネーゲームが行われています。テーブルを囲んでゲームを行っていると、実力の差はわずかであっても、実力のある者の前にはチップが山と積まれ、実力のない者はすっからかんになって、借金の証文を書き、土地家屋の権利書を渡し、娘を売るというはめに陥ります。
この社会では、マーケットが世界規模で広がっているために、小作人に死なれると困る地主とは違って、富裕層は貧困層が何人死のうと平気です。
そのため貧富の差は、数千倍、数万倍になっていると思われます。
 
農耕社会以前の狩猟採集社会というのは、どういうものであったのかちょっと想像しにくいのですが、おそらくそこでは能力の差が貧富の差だったのではないでしょうか。
能力の差が貧富の差であるような社会が、人間性にかなった本来の社会ではないかと私は考えています。
 
ところで、マルクス主義は生産力が向上して豊かになるとともに貧富の差が生まれ、原始共産制から奴隷制へと移行したと説明しますが、なぜ貧富の差が生まれたのかは明瞭ではありません。私の説明のほうがよほど明瞭ではないでしょうか。
人間は生まれつき能力の差があるということは、人間と社会について考えるときの大前提です。
 
 
次のエントリーも参考にしてください。
「生まれつきの不平等」http://blogs.yahoo.co.jp/muratamotoi/6522093.html
 

「機会の平等」か「結果の平等」かという問題があります。格差社会を論じるときにも避けて通れない問題です。しかし、この問題はいくら議論しても結論は出ません。なぜなら肝心のことがすっぽりと抜け落ちているからです。
それは、「生まれつきの不平等」ということです。
 
人間は生まれたときからそれぞれ違います。それが個性ですが、能力もまた個性です。頭のよさもそれぞれ違いますし、体力、運動能力も違います。
これは当たり前のことで、否定する人がいるとも思えないのですが、現実には、これは言ってはいけないことになっています。つまり現代のタブーです。
 
なぜこれがタブーになっているかというと、このことを言うと差別を助長するとされるからです。
たとえば、人間も動物ですから、生物学によって人間を研究することはあっていいはずです。しかし、人間を生物学的にとらえることで、過去に社会ダーウィン主義や優生学といった差別思想が生まれたことも事実です。また、エドワード・O・ウィルソンという生物学者が社会生物学と称して、人間を生物学の新しい理論でとらえることを提唱しましたが、この人がひどい差別主義者であったために、寄ってたかってボコボコにされるということもありました(社会生物学論争といいます)
こうして生物学による人間研究は限定的なものになり、人間は生まれによって決まるのか環境によって決まるのかということがいまだに論争の種になっています。
 
なぜ人間を生物学でとらえると差別主義につながるのでしょうか。差別主義というのは偏見によるものであって、正しい認識はむしろ差別主義を消滅させるはずです。
もし生物学が差別主義を助長するとすれば、それは生物学が間違っているからです。私はその間違いに気づきました。
ですから、私が人間を生物学でとらえたり、人間は生まれつき能力に違いがあるといったりしても、それによって差別主義を助長することはありません。
 
ともかく、人間は生まれつき能力に違いがあります。しかも、家庭環境によってもその能力の発達が違ってきます。たとえば、知的で文化的な会話が交わされている家庭で育つのと、アル中の父親が暴力をふるっている家庭で育つのとでは、ぜんぜん違います。
 
「機会の平等」は「スタートラインの平等」ともいわれますが、ほんとうにスタートラインの平等を実現しようと思えば、生まれと家庭環境の違いを踏まえないといけません。
しかし、今そんな議論はほとんど行われていません。
「結果の平等」についても、人間が生まれながらに違うとすれば、「結果の平等」を追求するのはおかしいことになります。
 
人間は生まれながらに能力の差があるということは、すべての社会科学の基礎になるべき重要な認識です。

現代でもっとも重要な思想は人権思想です。人権思想を理解せずして社会的な発言はできません(してる人はいっぱいいますが)
ということで、今日は人権思想のお勉強をしてみましょう。
 
ロック、モンテスキュー、ルソーらの思想がもとになって人権思想が形成されるわけですが、人権思想が具体的な形となって登場したのは、アメリカの独立宣言においてです。
 
「我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ」
 
ここにおいて基本的人権が明確に主張されて、人権思想が政治を動かすようになったわけです。ですから、人権思想がわからないと政治のこともわからないはずです。
この人権は天賦人権とも言われます。宣言に「創造主によって」とあるからです。
また、この人権は普遍的人権とも言われます。宣言に「すべての人間」とあるからです。
しかし、ここに大きな問題がありました。この問題を正しく把握しないと、すべてが混乱してしまうことになります(アメリカの独立宣言は1776年で、フランスの人権宣言は1789年ですが、フランスの人権宣言も同じようなものです)
 
まず、アメリカ独立宣言では先住民は人間と見なされていませんでした。当時すでにいた黒人奴隷も同じです。さらに女性、子どもにも人権は認められていませんでした。
ということは、どういうことかわかるでしょうか。
アメリカ独立宣言とはすなわち、「白人成人男性の支配宣言」であったのです。
あるいは、「先住民、黒人、女子どもに対する差別宣言」ということもできます。
「俺たち白人成人男性は創造主から権利を与えられた特別な存在なのだ」と宣言することで、先住民をどんどん虐殺し、追い払い、黒人奴隷もどんどん連れてきて、こき使い、女子どもは従属的な立場に置かれました。
もちろん独立宣言以前から先住民の虐殺は行われていましたが、独立宣言をしてからは、心おきなくというか、良心の呵責なしに虐殺ができるようになったわけです。
 
つまり人権思想とは、看板は「普遍的人権」をうたっていますが、中身はとんでもない差別思想なのです。
ほんとうは独立宣言の「すべての人間」とあるところに、「インディアン、黒人、女子どもを除く」と注釈があるとよかったのですが、わかりきったことはいちいち書きません。
 
この人権思想の看板と中身が違うという問題は、もちろん社会に大きな混乱をもたらしました。しかし、次第に中身を看板に近づけるという形で、女性に参政権が与えられ、黒人、先住民に公民権が与えられ、人権思想は内実を伴うものになってきたわけです。
人権思想がこのように欺瞞的なものであることは、すでにフェミニズムが告発していましたが、ほとんどの男性はそんなことは知りませんから、この欺瞞がまだ見抜けていない人も多いでしょう。
 
では、現在はどうでしょうか。もちろん黒人差別や性差別の問題はありますが、思想としては人権思想は内実を伴った完成されたものとなったでしょうか。
実はそうではありません。
まだ「子ども」が置き去りになったままです。子どもの人権は認められていません。
「子どもの権利条約」というのがあって、日本も批准していますが、これはまったく不十分なものです。
「子どもの権利」をいうなら、子どもにも選挙権がなければなりません。
日本では選挙権が20歳以上、被選挙権が衆議院で25歳以上、参議院で30歳以上などとなっていますが、こうした年齢制限はすべて撤廃しなければなりません。
こういうと、反対する人がいるでしょう。小さい子どもに選挙権があれば、親が自分の言う通りに投票させるので、親が2票、3票持つことになってしまうと。
確かにその可能性はありますが、だったら、知恵遅れの人や老人性認知症の人からも選挙権を奪わなければならない理屈です。
子どもにはまともな判断力がないので選挙権を与えるわけにいかないと主張する人もいるでしょうが、かつては同じ理由で黒人や女性に選挙権を与えるわけにいかないと主張する人がいました。
 
選挙権の年齢制限を撤廃し、子どもとおとなを同じ人間と見なすこと。これによって人権思想は完成されます。
現在、教育改革を論じるとき、論じるのはおとなばかりで、子どもが意見を言うことはできません。子どもを対象にした「学校に何を望むか」というアンケートすら行われません。おとな本位の教育改革が失敗の連続になるのは当然です。
 
子どもの人権を認めることで社会の混乱の多くは解決されるはずです。
また現在、人権思想に欺瞞的なものが感じられるとすれば、それは子どもの人権を認めていないからです。
 
 
「『子ども差別』の発見」というエントリーでは同じことを別の角度から書いています。
 

インドで政府の腐敗問題を追及してきた社会運動家アンナ・ハザレ氏が8月19日に釈放されたというニュースがありました。ハザレ氏は獄中でハンガーストライキを始め、釈放されてからは広場でハンストを続行し、支持者数万人が集まったということです。
 
ハンストで思い出すのはガンジーです(ハザレ氏も「現代のガンジー」と呼ばれているそうです)。ガンジーはことあるごとにハンストを行い、最終的に非暴力でインド独立を勝ち取りました。
ガンジーはどうしてハンストという手段を用いたのでしょうか。考えてみれば、ハンストは自分の体にダメージを与えるだけで、相手にはなんのダメージも与えません。
もちろん、ガンジーのハンストがインド国民の心を動かしたという効果はあるでしょう。しかし、ただそれだけでしょうか。
非暴力で独立を勝ち取るには、最終的にイギリス政府がインド独立を承認しなければなりません。つまりイギリス政府の心を動かさなければならないのです(「政府の心」というのはちょっとへんな表現ですが)
 
人の心を動かすには、単純にいってふたつのやり方があります。
ひとつは、相手の利己心に訴えるやり方です。いわゆるアメとムチがそれです。
この場合アメというのは、たとえば独立を承認してくれればイギリス政府にお金を払うというようなやり方です。しかし、インド独立勢力にそんなお金のあるはずはありません。となると、ムチのほうを使わなければなりません。暴動、テロ、ゲリラなどで、イギリス政府にこれ以上インドを植民地にしていても不利益になるだけだと思わせるのです。
もちろんこれは暴力による独立運動で、ガンジーの思想とは違います。
 
人の心を動かすもうひとつのやり方は、相手の利他心に訴えるというやり方です。相手の同情心、親切心、良心などを喚起し、独立させてやろうと思わせるのです。
このやり方は、相手はまともな人間だという認識が前提になります。
ガンジーはイギリスに留学した経験があります。当時のイギリスは植民地から来た有色人種でも1人の人間として遇する懐の広さがあり(ガンジーは州知事の息子で、将来指導的立場になる人間だという計算もイギリス側にはあったでしょう)、ガンジーはイギリス人の友人もできて、充実した留学生活を送りました。
ガンジーはその経験から、インド人が不当な立場に置かれていることを訴えていけばイギリス人は理解してくれると思ったのです。
実際、ガンジーのハンストが長期にわたると、イギリス政府の人間も同じ人間として放っておけないという気持ちになったでしょう。
つまり、ガンジーとイギリス政府の人間は、深いところで同じ人間としてつながっていたのです。
ガンジーの非暴力思想には、こうした背景がありました。
 
現在、アメリカ政府はテロリストを同じ人間とは考えていませんし、テロリストもアメリカ政府を心が通じる相手とは考えていません。
つまり、相手は利他心どころか利己心すらない存在だと思っているのです。
そうすると、アメとムチのやり方も通じないということになり、相手をせん滅するしかなくなっています。
私たちはガンジーの時代から遠いところに来てしまいました。
 
しかし、希望を捨てる必要はありません。「ガンジー自伝」には次の言葉があります。
「一人に可能なことは万人に可能であると私は思っている」

古代ギリシャのデルフォイの神殿に書かれていたという「汝自身を知れ」、これが西洋哲学の出発点です。しかし、いまだに誰もこの神託に答えを出していません。そこで、私が自分なりに答えてみましょう。
それは、
「私は悪人である」
というものです。
 
もちろんこれは私自身だけでなく、誰もがそうだということです。誰もが自分は悪人なのに、それに気づかず、あいつは悪人だ、こいつも悪人だと他人を評価しているのですから、まったく愚かなことです。他人を悪人だと思うなら、自分も悪人である可能性があることになぜ気づかないのでしょう。
 
もっとも、「悪」というのは不明確な概念です。そこで、「悪」を「不当に利己的」と表現することにしましょう。
 
人間は誰も、自分の利益と他人の利益を同じに考えることはできません。たとえば、買物をしたとき、渡された釣り銭が少ないと、すかさず文句を言います。しかし、渡された釣り銭が多いと、同じように文句を言うかというと、そんなことはないでしょう。黙っているかもしれません。つまり、非対称になっているのです。
隣の家と敷地の境界線を巡って争っていることはしばしばありますが、それはもちろん、自分の家の敷地を広くするために争っているのです。決して譲り合って争っているわけではありません。尖閣諸島、竹島、北方領土などの領土問題も同じです。譲り合っているわけではありません。
 
なにが公平かが明確になっている場合は、不当に利己的な主張をする人はまずいません。自分がみんなから批判されるからです。しかし、なにが公平かはっきりしない場合も多く、その場合は、誰もが少し多めに利益を得ようとします。それは進化の過程で獲得された性質なのです。
 
そのため、つねに利益を巡る争いが起きます。それはなわばりを持つ動物がつねになわばり争いをするのと同じです。
 
ですから、各自が利益の主張を少しずつ抑えれば、争いのない社会が築ける理屈です。
 
しかし、人類は、自分の利益を抑えるのではなく相手の利益を抑えることで問題を解決しようとしました。これはまったく間違ったやり方です。そのため、人類はどの動物よりもよく争う動物になってしまいました。しかし、人類はいまだにこの間違いに気づいていません。
 
振り返れば、血まみれの道です。
 
「自分は少し不当に利己的な人間である」ということにみんなが気づくのはいつの日でしょうか。

昨日の「フェミニズム再生のために」というエントリーで、フェミニズムは「子ども差別」という概念を導入するべきだということを書きましたが、昔、「現代思想」という雑誌に同じことを書いたのを思い出し、雑誌を引っ張り出してみました。「現代思想」19899月号の「セックスの政治学」という特集に「『子ども差別』の発見」というタイトルで書いています。昔なのにわれながらちゃんとした文章を書いていると思いましたが、フェミニズム陣営からの反応はまったくありませんでした。当時はフェミニズム陣営も性差別の問題で手いっぱいで、そこに「子ども差別」を持ち出しても、問題の拡散かすり替えになると思われたのかもしれません。
 
しかし、私の思想も当時よりは深まり、「子ども差別」を進化生物学と結びつけるところまでいきました。だから、フェミニズムが現在苦境に陥っているのは、(生物学的要素である)セックスとジェンダーの関係が不明確なためだという指摘もできたのです。
これからも人間の行動と心理についての科学的研究はどんどん進んでいきますから、セックスとジェンダーの関係の理論構築なしにフェミニズムの未来はないといっても過言ではないと思います。
 
ところで、私は「子ども差別」という概念によって、おとなと子ども、親と子どもの関係に支配、差別、抑圧があるということを理解していましたから、男と女の関係に支配、差別、抑圧があるというフェミニズムの主張は当たり前のこととしてすぐに理解できました。
しかし、たいていの男はいまだに性差別の問題を正しく理解していません。これは奴隷農場の主人が奴隷解放に反対するのと同じで、たいていの男は女性解放は自分の不利益だと思っているからです。
もちろん、男女の平等な関係は男にとっても幸せなことであるという考え方もあり、それが人間として本来の姿だと思いますが、本来の姿でない男も多いのです。
つまり多くの男にとって性差別というのは人ごとなのです。
 
しかし、「子ども差別」は男にとって人ごとではありません。自分自身の問題です。子ども時代の自分と現在の自分を統合することは、自分の幸せにとっても必要なことです。
したがって、男の場合、まず「子ども差別」に取り組むのがいいのではないでしょうか。「子ども差別」を理解すれば、性差別はたいして苦労せずに理解できます。
ですから、フェミニズム陣営が「子ども差別」の概念を取り込むことは、男にフェミニズムを理解させる上でもプラスです。
 
もちろん幼児虐待、非行、不登校、引きこもりなどに対処するためにも「子ども差別」の理解は欠かせません。

なにが善で、なにが悪かを判定するのは容易なことではありません。現在の倫理学はまったくのデタラメですから、なんの役にも立ちません。ですから、みんな適当なやり方で判定しているわけです。そのため世の中に争いや混乱が絶えません。
そこで、私が簡単に善悪を判定する方法をお教えしましょう。
 
たとえば、5、6人の男たちが1人の男を取り囲んでボコボコにしている。そこにあなたが通りかかって、あなたがブルース・リーばりの格闘技の達人であれば、当然そこに割って入り、1人の男を助けるでしょう。放っておくと、大ケガをするか、下手をすると死んでしまうかもしれません。
つまり、強いほうが弱いほうを一方的に攻撃していたら、強いほうが悪、弱いほうが善と判定すればいいわけです。
これが善悪簡易判定法です。
「弱気を助け、強きをくじく」という言葉の通りです。
ちなみにこの言葉は、落語や講談によく出てくる言葉で、江戸っ子やヤクザが自分たちの行動原理をいったものだそうです。
 
とりあえず1人の男を助ければ、そこで問題は終わりです。5、6人の男をボコボコにする必要はありません。「強きをくじく」程度でいいわけです。
 
もっとも、そのあと5、6人の男たちがあなたに対して自分たちの主張をぶつけてくるかもしれません。たとえば、この男は仲間の金を奪ったやつだとか、俺の妹をレイプしたやつだとか主張し、それに対して1人の男は口ごもって、まともな反論ができない。どうやら5、6人の男たちの主張が正しそうだということになったとします。
とすると、善悪の判定を入れ替えないといけないのでしょうか。
いや、そんなことはありません。言葉なんていうものは無視してしまえばいいのです。
つまり言葉に基づいて善悪を判定しようとすると、ほとんどの場合間違うのです。
 
たとえば学校で1人の子どもが数人の子どもにいじめられているとき、いじめっ子に聞けば、いじめる理由をいっぱい並べ立てます。きたない、だらしない、のろい、先生のいいつけを聞かない、約束を守らない、嘘をつく。また、ユダヤ人を差別する人間に、なぜそういうことをするのかと聞けば、ユダヤ人がこれまでいかに邪悪であったかということを滔々と述べるでしょう。また、軍国主義の日本で非国民とされた人は、山ほどの非難の言葉を浴びせられます。
つまり言葉のレベルの善悪は、強い者につごうよくなっているのです。「弱きを助け、強きをくじく」という原理でいくなら、言葉のレベルの善悪は無視しないといけません。
 
この原理でたいていのことは判定できます。
たとえば、会社で上司が部下を叱っているとします。部下が悪いことをしたから上司が叱っているのだろうと考え、部下が悪で上司が善と判定してはいけません。上司が強く、部下が弱いわけですから、上司をなだめ、部下をかばえばよいわけです。実際のところ、上司が部下を叱るのはたいてい理不尽な理由で叱っているのであり、よい上司はめったに部下を叱りません。
 
親が子を叱っているきも同じです。親をなだめて、子をかばえばいいわけです。子どもがなにをしたかというのは問題ではありません。
 
現在、「弱きを助け、強きをくじく」という言葉は死語に近くなっています。
多くの人が強い者に従っているからです。
たとえば、アメリカは世界で唯一のスーパーパワーで、テロリストはそれと比べると圧倒的に弱い存在です。そのため、言葉のレベルではテロリストが悪ということになっています。しかし、「弱きを助け、強きをくじく」という原理からすれば、そんな言葉は無視して、テロリストを助けなければいけません。
しかし、今の日本はアメリカに従っているので、「弱きを助け、強きをくじく」という原理のほうを無視しているわけです。
 
もっとも、「弱きを助け、強きをくじく」というのはあくまで善悪簡易判定法です。
本格的な判定法は、言葉のレベルの善悪を解明したときに明らかになります。
 

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