今年のノーベル平和賞にはびっくりしました。
ベラルーシの人権活動家アレス・ビアリアツキ氏、ロシアの人権団体「メモリアル」、ウクライナの人権団体「市民自由センター」に授与されたのですが、これは要するに「プーチン政権包囲網」です。
戦争のさ中に一方に加勢するのは、戦争の火に油を注ぐようなものです。
NATO各国はウクライナに武器を援助していますが、ノーベル賞委員会は武器援助ができないので、代わりにノーベル平和賞を贈った格好です。
平和賞の発表があった10月7日はプーチン大統領の誕生日でもありました。これもプーチン大統領の神経を逆なでしたでしょう。
これではノーベル平和賞ではなく「ノーベル戦争賞」です。
ヨーロッパにはヨーロッパ至上主義があります。
これはそのまま白人至上主義につながっています。
ヨーロッパ以外の文化や人種を見下し差別するのがヨーロッパ至上主義です。
ロシアもヨーロッパですが、文化が高いのはフランス、イギリス、ドイツなど西ヨーロッパです。ロシアなど東ヨーロッパは西ヨーロッパから差別されています。
ですから、ヨーロッパ至上主義というより西欧至上主義といったほうがいいかもしれません。
今回のノーベル平和賞には西欧至上主義が色濃く出ました。
西欧至上主義は、古代ギリシャ・ローマ文明は世界史の中でもっとも価値のあるものと見て、その流れをくむ自分たちも特別な価値があるという考え方です。
古代ローマ帝国が衰亡した一時期、イスラム文明に凌駕されたことはありますが、産業革命とフランス革命以降は西欧文明がもっとも高度なものとなり、世界を支配しました。その中で西欧至上主義が形成されました。
EUは西欧至上主義によって結束した国家連合です。域外の国に人権問題などで説教するところがいかにも西欧至上主義です。
西欧至上主義は植民地主義として世界の多くの国を支配しましたが、西欧諸国は植民地支配を今にいたるも謝罪していません。
近代オリンピックは古代ギリシャの伝統を受け継ぐもので、いかにも西欧的ですし、運営も西欧の国が中心ですから、ロシアを差別するのに利用されてきました。
1980年のモスクワ・オリンピックは、その前年にソ連がアフガニスタンに侵攻したことからアメリカがボイコットを呼びかけ、50か国近くがボイコットしました。
2014年のソチ・オリンピックのときは、ロシアの大規模なドーピングが発覚し、ロシアのメダル13枚が剥奪されました。
オリンピックは開催国にとって国威発揚のチャンスですが、ロシアはそのつど逆に国のプライドを傷つけられてきたわけです。
ドーピング問題は尾を引きました。世界反ドーピング機関(WADA)は2015年にロシア選手団を3年間国際大会から排除する処分をしました。そして、2018年に処分解除の決定をしましたが、そのときにロシアから提供された検査データに多数の改ざんがあったとして、WADAは今度は4年間の処分をしました。そのため2021年の東京オリンピックでも2022年の北京冬季オリンピックでもロシアは国としての参加ではなくロシアオリンピック委員会として個人での参加という形になりました。
もとはといえばロシアがドーピングをしてデータの改ざんをしたのが原因ですが、ロシアにとってはオリンピックのたびに屈辱を味わってきたわけです。
ロシアのウクライナ侵攻は北京冬季オリンピックの閉会式の4日後でした。プーチン大統領にオリンピックの屈辱に対するリベンジという意識がなかったとはいえないでしょう。
NATOの東方拡大がロシアのウクライナ侵攻を生んだという見方がありますが、そうした軍事面だけでなく、「平和の祭典」のような文化面においても戦争の種はまかれます。
日本は西欧以外の国で西欧文明をもっとも早く取り入れた国で、そのことが自慢なためか、西欧至上主義に無自覚です。
西欧至上主義は戦争のもとなので、注意しなければなりません。
最近気になるのが、岸田文雄首相がよく「普遍的価値」という言葉を使うことです。
ウクライナ侵攻があったあとの3月14日、岸田首相は「東京会議2022」のビデオメッセージにおいて「日本は、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値をより一層重視し、こうした普遍的価値を共有するパートナーとの結束を強めてまいります」と言いました。同様のことは繰り返し言っています。
バイデン大統領は「民主主義国対権威主義国」という図式をつくって中国批判をしているので、岸田首相はそれに乗っかっているのでしょう。
ちなみに古代ギリシャ・ローマは民主制だったので、民主主義に特別な価値を見るのも西欧至上主義です(古代ギリシャ・ローマでは市民より奴隷のほうが多かったので、「民主制」というよりも「集団指導体制」といったほうが適切な気がします)。
「普遍的価値」とはなんでしょうか。
世界中の人が同じ価値観を持っていたら、それは「普遍的価値」です。
しかし、民主主義については、民主主義を採用していない国が世界には多くありますから、これは「普遍的価値」とはいえません。
自由や人権についても、国や人によって考え方が違いますから、そう簡単に「普遍的価値」とはいえません。
たとえばアメリカは、人種差別がすごくて、女性差別撤廃条約も子どもの権利条約も批准していないので、日本人の考える人権とアメリカ人の考える人権はかなり違います。
自分の信じる価値を普遍的価値であるとするのは、自己中心的で傲慢な態度です。
その価値を信じない人間は愚か者か悪い者だということになり、対立せざるをえません。
ちなみに日米から見ると、中国は民主主義国ではないので、普遍的価値を理解しない国ということになります。
もちろん中国自身はそんなことは思っていません。
「社会主義核心価値観」というものを掲げています。
「社会主義核心価値観」とは、国家レベルの目標「富強、民主、文明、和諧(親睦)」、社会レベルで重んじる価値「自由、平等、公正、法治」、個人の道徳規範の価値「愛国、敬業、誠信、友善」の計12の概念からなったものです。
日米も中国もそれぞれの価値観を掲げているのですが、自分の価値観を「普遍的価値」と言ってしまうと、自分は絶対正しいということになり、話し合いが成立しません。
今はさまざまな価値観の共存する多様性(ダイバーシティ)のある社会をつくっていこうという流れになっていて、その観点からも「普遍的価値」などという言葉は批判されるべきです。
「普遍的価値」という言葉は西欧至上主義や一神教的価値観から出てきたもので、日本的価値観にも合いません。
岸田首相は「普遍的価値」ではなく「異なる価値観の共存」を主張するべきです。