村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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統一教会は1994年に名称を「世界平和統一家庭連合」に変えました。
この名称変更自体にも問題がありますが、それは置いておいて、「家庭」をたいせつにするという意味がこの名称には込められているでしょう。
ところが、統一教会は信者に多額の献金を強要して、そのため山上徹也容疑者の家庭は崩壊してしまったのですから、皮肉なものです。

自民党も家庭や家族をたいせつにする政党です。
夫婦別姓に反対する理由として、「家族の絆が弱まる」とか「家庭の一体感が失われる」ということを挙げるので、家族の絆や家庭の一体感をたいせつにしているはずです。
自民党の日本国憲法改正草案にも「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」とあります。
来年4月に新設される予定の「こども家庭庁」も、一時は「子ども庁」という名称になるはずでしたが、「家庭」の文字が加えられました。

「子ども庁」を「こども家庭庁」にするべきだということは統一教会も主張していました。そして、国際勝共連合ホームページで『心有る議員・有識者の尽力によって、子ども政策を一元化するために新しく作る組織の名称が「こども庁」から「こども家庭庁」になりました』と、自分たちのロビー活動の成果であるかのように書いています。

安倍晋三元首相は昨年9月に天宙平和連合(UPF)のイベントにビデオメッセージを送り、それを見た山上徹也容疑者が銃撃事件を起こすきっかけになったとされますが、そのビデオメッセージでは統一教会教祖の韓鶴子総裁に「敬意を表します」と述べただけではなく、「UPFの平和ビジョンにおいて家庭の価値を強調する点を高く評価いたします」とも述べています。

つまり統一教会も自民党も「家庭・家族をたいせつに」と主張して、そこが共通点となっています。
昔は「反共」という点で統一教会と自民党は結びついていたのですが、今は「反共」ということはあまり意味がなくなりました(もっとも、勝共連合のホームページでは今でも大々的に反共を主張しています。国民民主党や維新の会が共産党との共闘を拒否したことと関係あるでしょうか)。


「家庭・家族をたいせつに」と言われて反対する人はあまりいません。
しかし、家庭にも「よい家庭」と「悪い家庭」があります。それを区別しないと混乱します。

統一教会が理想とする家庭はどんなものでしょうか。
統一教会といえば合同結婚式が有名です。
最近の若い人は合同結婚式のことを知らないかもしれないので説明すると、単に合同で結婚式をするということではありません。教祖が結婚相手を決めて、結婚式参加者は教祖の決めた、一度も会ったことのない相手と結婚するのです。教祖はすべてを見抜いて、最善の相手を選ぶのだとされます。

自分が決めたのでない相手と結婚するということに驚く人もいるかもしれませんが、昔はむしろ普通のことでした。親が息子娘の結婚相手を決めて、息子娘は一度も会ったことのない相手と結婚することがよくありました。
統一教会では教祖が親に当たるのでしょう。

帝国憲法下では、結婚には戸主の同意が必要で、さらに男は30歳、女は25歳になるまでは親の同意も必要でした。ですから、好き合った相手と結婚できるのは、理解のある戸主や親に恵まれた場合だけです。そのため駆け落ちがしばしば行われ、心中という悲劇もありました。
妻は法的には無能力者の扱いで、財産権もなく、重要な法律行為をするときはつねに夫の同意が必要でした。

戦後憲法になってなにが変わったかというと、国民主権や戦争放棄や象徴天皇制もそうですが、国民生活にとっていちばん大きかったのは家族制度の変化でしょう。親の許可なしに「両性の合意」のみで結婚できるようになり、「駆け落ち」は死語となりましたし、妻も夫と同等の権利を有するようになりました。

しかし、家族についての認識というのは、憲法や法律が変わったからといって急に変わるものではありません。そのため、現在にいたっても、親が子どもの結婚を妨害したり、親の望む相手と結婚させようとしたりすることはよくあります。
夫婦の関係もまだまだ対等とはいえません。
ですから、古い家族観と新しい家族観が葛藤しているのが今の状況です。

帝国憲法の古い家族制度を「家父長制」といいます。
自民党や統一教会が理想としているのも家父長制です。
自民党は「家族の絆を守る」という言葉で家父長制を守ろうとしています。


古い家族観は家父長制ですが、では、新しい家族観はなんというかというと、名前がありません。
大家族、核家族、三世代家族、単身家族、同性カップルなどという言葉はすべて家族の(外見の)形態をいったものです。
家父長制というのは、外見ではなく、目に見えない権力関係のことです。

これまで家父長制を論理的に批判してきたのはフェミニズムです。フェミニズムは男性が女性を支配する家族として家父長制を批判してきました。
しかし、家父長制は男性が女性を支配しているだけではありません。親が子を支配している面もあります。
親は子どもを一方的にしつけ・教育をし、進学、就職、結婚にまで口を出すということが行われています。

民法第822条には、親権者は子どもを懲戒することができるという「懲戒権」の規定があり、これが幼児虐待の原因になっていると批判されてきましたが、自民党はずっと懲戒権の削除に反対してきました(ようやく今年秋以降に削除される見込み)。
親殺しを特別に重罪とする刑法第200条の「尊属殺人」の規定は、1973年に最高裁によって違憲とされましたが、自民党は規定を削除することを拒み続け、ようやく1995年の刑法大改正のときに削除されました。
つまり自民党は家父長制が夫が妻を支配するだけでなく、親が子を支配する制度であることを理解して、それを守ろうとしてきたのです。

したがって、家父長制を批判するときは、女性の人権と子どもの人権の両面から批判する必要がありますが、これまでは女性の人権からの批判しかなく、そのため批判があまり有効に機能していませんでした。
たとえば自民党の家族政策の理論的ささえになっているのが「親学」ですが、親学を批判するにも子どもの人権という視点が欠かせません。


統一教会は「子どもの人権」がキーワードになることを理解していて、あらかじめ防御線も引いています。
国際勝共連合のホームページの「【こども家庭庁】家庭再建を軸にした子供政策を」という記事は、「子ども庁」という名称を批判して、このように書いています。

象徴的なのが「子ども庁」という名称それ自体だ。当初は「子ども家庭庁」という名称だったが、被虐待児にとって家庭は安全な場所ではないという理由で「家庭」の文字が削除されてしまった。

この論法は明らかにおかしい。

 被虐待児にとって忌避されるべきは、虐待を生み出した歪な家庭環境であって、「家庭」そのものではない。

 むしろ、彼らにとって必要なのは、親代わりとなって自らを愛情で包んでくれる新しい「家庭」だ。

子供の成育における父母や家庭の役割を軽視する左翼系の活動家が、武器として用いるのが「子どもの権利条約」だ。活動家らは同条約によって子供が「保護される対象」から「権利の主体」に変わったと主張する。

実は、この条約には当初から拡大解釈を懸念する声が上がっていた。西独(当時)は批准議定書に「子どもを成人と同等の地位に置こうというものではない」と明記し、米国に至っては「自然法上の家族の権利を侵害するもの」として批准しなかった。

日本では、増え続ける虐待や子供の貧困をひきあいに「子どもの権利」を法律に書き込んでいないことが問題だと短絡的に考えられている。

しかし、虐待が起こるのは子供の権利が法律に書き込まれていないからではない。夫婦や三世代が一体となって子供を愛情で包み込む家庭や共同体が壊れているからだ。

 子供政策は、家庭再建とセットで考えるべきである。

 当然、憲法改正においても、家族保護条項の追加は欠かせない。
 
(「世界思想」1月号より )

家父長制の復活が幼児虐待を防ぐようなことを言っていますが、実際は逆で、家父長制のもとで幼児虐待が生じます。
そもそも教祖の命じる通りに結婚しろと教え、多くの家庭を崩壊させている教団の言うことがまともであるはずがありません。

なお、「自然法上の家族の権利」という言葉が出てきますが、未開社会の家族には上下関係がありません。
家父長制は家庭内に上下の序列がある制度で、文明的なものです。こうした中でDVや幼児虐待が起きます。


「こども家庭庁」という名称になったときには、俳優の高知東生氏が「すでに家庭が崩壊していたり、機能する見込みもなく、安全性が確保できない家庭の『こども』を『家庭』という檻から助けて欲しいだけ」とツイートして共感を呼びました。


統一教会や自民党が理想とする家庭は家父長制の家庭です。
家父長制では、すべての家族に上下の序列がつけられ、支配・被支配の関係となります。
すべての家族が対等になり、愛情で結ばれるのが本来の家庭です。

家父長制の家庭か、愛情で結ばれた家庭かということが、今の政治の最大の争点です。

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2023年度発足予定の「子ども家庭庁」は、当初「子ども庁」という名前になるはずでした。
「子ども家庭庁」という名前に変わったことに失望の声が上がっています。
「家庭」という言葉が入るとなぜいけないのでしょうか。
実は「家庭」という言葉によいイメージを持つ人と悪いイメージを持つ人がいて、そこで意見が対立します。
問題を整理してみました。


基本的な事実として、殺人事件の約半分は親族間で起きています。

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平成30年版 警察白書より


2016年に摘発された殺人事件の55%が親族間だというデータもあります。
殺人事件総数はへっているのに、親族間の殺人事件はへらないので、比率は高くなってきています。

また、殺人事件を起こすのは男性が多く、殺人犯の男女比はほぼ四対一です。しかし、配偶者間の殺人に限ると、夫が妻を殺したケースと妻が夫を殺したケースの比率はほぼ三対二と、それほど差がなくなります。これはどうしてかというと、ドメスティック・バイオレンスの被害者は圧倒的に女性が多く、力の弱い女性がDV被害から逃れるには加害者を殺すしかないからではないかと考えられます。

知人・友人関係の殺人も多く、殺人事件の多くは濃密な人間関係において起こります。

ところが、テレビのワイドショーが取り上げる殺人事件のほとんどは、通り魔殺人か強盗殺人、放火殺人など、赤の他人が被害者になるものです。
こうした事件の場合は、「なんの落ち度もない人間が殺された」という悲劇性が強調され、加害者への怒りの感情がかき立てられます。
もし親族殺人を取り上げたら、家庭内のどろどろした感情のもつれが出てくるので、視聴率が取れないということがあるのでしょう。
こうしたワイドショーばかり見ていると、殺人の半分は家庭内で起きているということがわからなくなります。

つまりマスコミは家庭内の憎しみや暴力などの不都合なことは取り上げないのです。
一方、家庭内の愛情のある話や美談は取り上げます。

NHKに「鶴瓶の家族に乾杯」という番組があって、番組ホームページには「ステキな家族を求めて日本中を巡る”ぶっつけ本番”の旅番組です」と書いてあります。
ほんとうに”ぶっつけ本番”であれば、DVの家庭とか、父親がギャンブル依存症で借金まみれの家庭とか、玄関開けるとゴミ屋敷とかあってもよさそうですが、そういうのはありません。

私はこのような偏った表現を「家庭愛情神話」と名づけています。
「原発安全神話」と同じで、家庭には愛情があって、家族はみな互いに愛し合っているものだという神話です。
神話に反する事実は否定されるか隠蔽されます。


たとえば1月15日に起きた東大前刺傷事件で逮捕された17歳の少年は、東大と医学部に異様にこだわっていたことから、親からそうとうなプレッシャーをかけられていたと想像されますが、そういうことを書いた記事は見かけません。
ただ、少年の母親は「佐藤ママ」に憧れていたという掲示板の書き込みがあったので検索してみると、『東大前刺傷事件17歳高2男子生徒の母親「佐藤ママに憧れて」』という記事があったので、そこから一部を引用します。

「長男が東海中学の受験に失敗して、憔悴したようすでした。」そう話すのは、男子生徒の母親とはママ友という女性。「(男子生徒名前)ママは、佐藤亮子ママに憧れていました。オンラインサロンにも入って子どもたちへの教育について、熱心にセミナーを聞いていましたよ。」(ママ友)

佐藤ママといえば、東大理Ⅲ(医学部)に自身の4人の兄弟を現役合格させた凄腕の教育ママ。中学受験をする子を持つ母親が知らない人はいないというほどの有名人です。

佐藤ママの子どもは4人とも偏差値72以上。「子どもに手伝いをさせるのは子どもに失礼」というほど家事をさせずに勉強に集中させる教育方法です。

「佐藤ママの出版してる本も全部買い集めて読んで、その教育方法を実践しているといっていた。」(ママ友)

佐藤ママの教育方法で、男子生徒が壊れて行ってしまったのか。

この記事が載っているニュースサイトは、元地方紙記者という人が個人でやっているサイトです。
少年の家庭の問題を書いているのはこの記事だけのようです。

メジャーなニュースサイトは逆に少年の家庭に問題はなかったという記事を書いています。
たとえば「デイリー新潮」の『「東大刺傷事件」犯行少年の素顔 母も困惑した「理III」への執着、学校行事での意外な一面』はヤフーニュースでも配信されました。


そんな少年に対して、母親は困惑を隠せなかったという。当時の様子をママ友の一人が明かす。

「彼のお父さんは地元の大学で職員をされていて、お母さんは専業主婦だったと思います。4人きょうだいの長男である彼は、中学校でも成績が抜群に良かった。マイペースな性格なので、お母さんも“うちの息子は変わってるんですよ”と話していました。両親は子どもの進学先にこだわりがないのに、彼は中学3年の頃から“絶対に東大に行きたい”“理IIIに合格したい”と口にするようになったそうです。お母さんは彼を応援しつつも“行きたいと言って行ける学校でもないと思いますけど……”とむしろ困惑した様子でした。深夜までブツブツとひとりごとを言いながら勉強し続けていたそうで、いつか体調を崩すんじゃないかと心配していました」


ここに描かれているのは、子ども思いの普通の母親です。
そうすると、少年が異様な犯行に走った理由が説明できません。
そこで、産経新聞は『「東大」「医学部」執着 刺傷事件の少年、自ら追い詰める』という記事で、少年は自ら追い詰めたのだという説明をしました。

少年は成績上位の理系クラスに所属。学校関係者は少年について「勉強熱心という印象だった」とし、少年を知る同校の生徒は「非常に真面目で、成績上位だった」と話す。少年自身も「勉強は趣味」「東大医学部を目指す」と公言し、自他ともに認める「勉強の虫」だった。

だが、約1年前から成績不振で悩んでいたとみられる。昨年9月の進路に関する三者面談で、担任の教師に対し「自分の目指すところに成績が追い付かない」などと話していた。

教師はそうした少年を励ましており、両親も「特別教育熱心なタイプではない」(関係者)という。少年は自らを追い詰めていった可能性がある。

少年一人が悪者にされてしまいました。
これが「家庭愛情神話」の怖いところです。
神話を守るために誰かが悪者にされるのです。
それはたいてい子どもです。


幼児虐待は増え続けています。
厚生労働省は昨年8月、令和2年度の児童相談所による児童虐待相談対応件数(速報値)を公表しましたが、それによると件数は20万5029件で、前年度より1万1249件(5.8%)増え、過去最多を更新しました。

統計上はこのように増え続けていますが、実際に増えているかは疑問です。
以前は幼児虐待というものがほとんど認識されていませんでした。それが報道などによりだんだんと認識されるようになり、それとともに通報される件数が増えてきただけとも考えられます。

昔は家庭でも学校でも子どもへの体罰は当たり前のことでした。子どもをたたくだけでなく、押し入れや納屋に閉じ込める、木に縛りつける、食事を与えない、「お前は橋の下で拾った子だ」などの暴言を浴びせることなどがよく行われていました。これらはすべて今では幼児虐待とされます。
ということは、昔は今よりも幼児虐待は広く行われていたと言えそうです。

しかし、それらの虐待行為は、「愛のムチ」とか「子どもを愛さない親はいない」という言葉によって、すべて愛の行為だとされていました。
つまり「家庭愛情神話」によって虐待は完全に隠蔽されていたのです。

最近、次第に幼児虐待が認識されるようになり、体罰はいけないことというコンセンサスもできました。
また、「毒親」という言葉も認知されてきました。
「家庭愛情神話」に風穴が開いたと言えます。

こうした状況を2月13日付朝日新聞の「(知は力なり)暴力の問題、知ることが生きる力に 公認心理師・臨床心理士、信田さよ子」という記事がうまく説明していたので、一部を引用します。


実は2000年代初めの虐待防止法・DV防止法の制定まで、公的には家族には暴力など存在しないと考えられていたのです。夫が妻に「手を上げ」たり、親が子に折檻するのは、される側に問題がある、なぜなら夫婦や親子は愛情で結ばれているのだからという認識が支配していたからです。
(中略)
日々、メディアをとおして、家族(中でも親)は愛情豊かなものとして伝えられます。それが「ふつうの家族」像を形成しています。DVや虐待の加害者像が特殊なもの、残虐なものと強調されてしまうと、ふつうの家族像は結果的に温存されてしまいます。親の借金返済のために働く息子(娘)がそれを虐待とは思わない、夫から蹴られて肋骨に何度もひびが入った妻がそれをDVとは認めない。そんな場面に何度も出会ってきました。それどころか「自分のほうに問題があった」「そうさせたのは自分だ」と自責感すら抱いているのです。被害者有責論(されるほうに問題があるという認識)は、家族の暴力では根深いものがあり、世間の常識もそれに加担しています。


「家庭愛情神話」がこのように強固に、広範囲に存在したのには、国策もありました。

1898年に施行された明治民法では、親権者は「監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる」とあり、親に懲戒権を認めていました。これが幼児虐待の口実になってきました(法制審議会は近く懲戒権を削除する答申を出す見込みです)。
そして、国定教科書には乃木希典大将の少年時代のエピソードとして、乃木少年が「寒い」と不平を口にすると父親が「よし。寒いなら暖かくなるようにしてやる」と言って少年を井戸端に連れていき冷水を浴びせたとか、乃木少年がニンジンを嫌いだと言うと母親が三食すべてにニンジンを出して好き嫌いを矯正したといったことが書かれていました(教科書にはニンジンとは特定されていませんでしたが)。両親がきびしく育てたためにひ弱だった乃木少年が立派な武人になったということで、国がこのような虐待ともいえる教育を推奨していたのです。

自民党はこうした国策を継承する政党です。
ずっと懲戒権の削除に反対してきましたし、親殺しを特別に重罪とする刑法の尊属殺人の規定が最高裁によって違憲とされても削除や改正に抵抗し、22年間も違憲のまま放置しました。
これらの法改正は日本人の家族観に悪影響があるというのが自民党の考えです。
これは夫婦別姓に反対する論理とも同じです。
自民党の古い家族観は「家庭愛情神話」によって支えられています。


「家庭愛情神話」をはぎ取ると、愛情に満ちた家庭は少なく、暴力、支配、差別に満ちた家庭が多いという現実が見えてきます。
こうした家庭で苦しむのは弱者である子どもと女性です。

現在は「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力がせめぎ合っている状況です。
映画、小説の世界では「家庭愛情神話」はすっかり崩壊し、親から虐待された過去を持つ人物とか複雑な事情の家族などが描かれるのが当たり前になっています。
しかし、政治の世界ではまだ「家庭愛情神話」を守ろうとする勢力が強くて、そうした勢力が「子ども庁」の名前を「子ども家庭庁」に変更しました。
「家庭」の文字が入ることで「子ども」の主体性や人権が消えてしまいます。
「家庭」の文字に暴力、支配、差別を感じる人もいます。
そうしたことで「子ども家庭庁」か「子ども庁」かが問題になっているのです。


なお、「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力がせめぎ合っているのは日本だけのことではありません。
アメリカでは1990年代、自分は子ども時代に親から虐待されていたとして成人してから慰謝料を求めて親を裁判に訴えるケースが多発しましたが、親を支援するための財団がつくられ、親に虐待されたという記憶はセラピストによってつくられた虚偽記憶であるという“理論”で対抗し、心理学上の面倒な議論が行われ、結果的に裁判では親の側、つまり「家庭愛情神話」を守ろうという勢力が勝利しました(詳しくはウィキペディアの「過誤記憶」で)。


「家庭愛情神話」を守ろうという勢力と崩そうという勢力のせめぎ合いは、思想の戦いでもあります。
フェミニズムはどうしても「男対女」という軸でとらえますが、これは「おとな対子ども」という軸でとらえたほうがうまくいきます。
私は倫理学、生物学、歴史学、文化人類学などとの関連で考察したことを「道徳観のコペルニクス的転回」に書いています。

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