村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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菅義偉首相の掲げる政治理念「自助・共助・公助、そして絆」が議論を呼んでいます。

「自助を筆頭に挙げるのは、弱者切り捨ての新自由主義思想だ」とか「公助をどうするかが政治家の役割だ。自助や共助を言うべきではない」というのが主な批判です。
賛成意見は「当然のことを言っているだけ」といったものです。


この理念は菅首相個人のものというより自民党のものです。
自民党は下野していた2010年に新綱領を制定しましたが、その中に「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組を充実する」とあります。

自民党のホームページにもこう書かれています。
自民党は、タックス・ペイヤー(納税者)重視の政党です。
わが党は、汗を流して懸命に働き納税義務を果たしている人々が納得できる政治を行います。『自助・共助・公助』の考えを基本に、“がんばる人が報われる政治”を実現します。
https://www.jimin.jp/news/policy/130412.html
脱税している人以外は全員「納税義務を果たしている人々」ですし、消費税があるので、日本人は全員が「タックスペイヤー」です。
しかし、自民党が重視する「タックスペイヤー」とは、そういう一般人ではなく、高額納税者、つまり高所得者のことでしょう。
また、「汗を流して懸命に働き」という言葉は、病人や障害者の除外を意味しますし、“がんばる人が報われる政治”は、“がんばらない人は切り捨てる政治”でもあります。

つまり自民党は完全に新自由主義の政党になったのです。
このとき自民党は下野していたので、民主党との差別化をはかるために新自由主義路線を明確化したということもあるでしょう。


ともかく、自民党は綱領にもあるように、「自助」を重視し、「共助」と「公助」は補助的な位置づけにしています。
「自助」重視が新自由主義路線だとすれば、福祉国家路線は「公助」重視ということになります。
今、このふたつの路線で対立が起きています。



こうした議論からすっぽり抜け落ちているのが「共助」の部分です。「共助」をどうとらえるかが実はいちばん重要なところです。

菅首相は新総裁に選出されたあとの記者会見で、「自助・共助・公助」を説明して、「まず自分でやってみる。そして地域や家族がお互いに助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りをします」と語りました。
つまり「共助」とは、家族や地域の助け合いです。

しかし、誰かが失業したとき、地域の人が生活のささえになってくれるかというと、そんなことはありません。そこは家族しかありません。
つまり「共助」とは実質的に家族の助け合いです(災害時や緊急時は地域の助け合いがだいじです)。

しかし、家族の構成員の数は文明の進歩とともにへる傾向があって、大家族から中家族、核家族となり、最近はシングルマザーなど一人親家庭がふえています。
大家族であれば、一人ぐらい失業者がいても抱えていけましたが、核家族や一人親家庭ではそうはいきません。


人類の歴史は家族崩壊の歴史である――と、なにかの名言風に言ってみました。
人間は家族的な人間関係から逃げたいようなのです。

昔は家族以外にも家族的な人間関係がいたるところにありました。

前回の「個人崇拝の時代」という記事に「パターナリズム」という言葉を紹介したのですが、あまり一般的でない言葉なので、気になっていました。
よく考えると、「パターナリズム」などという言葉を使わずに、「家族主義」という言葉でよかったのです。

1970年代、私は中小企業向け経営雑誌の編集部にいたことがあるのですが、当時の中小企業経営者のほとんどが、人手がほしいこともあって、「わが社は家族主義経営だ」と言っていました。ドライな雇用関係ではなく、人情味のある会社だということです。従業員のために独身寮をつくって、社長の奥さんが面倒を見ているというのもよくありましたし、女性従業員に花嫁修業をさせて、うちから何人嫁に出したということを自慢する経営者もいました。

江戸時代の落語には「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」と言いながら、間借り人のお節介を焼く大家がよく出てきます。
昔の徒弟制度の親方と弟子の関係というのも、要は家族主義です。
ヤクザの親分子分の関係も家族主義です。家族のいないはみ出し者は、ヤクザ組織という疑似家族の中に居場所を見つけるということがありました。
また、昔の家族は「居候」というのを抱えていることがよくありました(今「居候」はほぼ絶滅したでしょう)。
ついでにいえば、「日本人はみな天皇陛下の赤子である」という戦前の日本は、国全体が家族主義だったといえます。

こうした家族主義もどんどんすたれていきました。
というのは、中小企業の家族主義経営も、従業員のほうはドライな雇用関係を望んでいたということがあるからです。

田舎には濃密な人間関係がありますが、多くの人はそれよりも都会の希薄な人間関係を好むのが事実です。
それと同様に、家族も家族主義も崩壊し続けてきたのが人類の歴史です。


その原因については改めて論じたいと思いますが、ともかく「共助」を担う家族や家族主義が崩壊し、機能を縮小しているのが現実です。

そうした現実を反映して、シリアスな小説、映画、ドラマのほとんどは家族崩壊の問題を扱っています。
一方、よい家族を描くものとして「サザエさん」や「寅さん」や小津映画がありますが、これらはすべて“古き良き時代”のものとして認識されています。

「サザエさん」や「寅さん」はフィクションなので問題ありませんが、困るのはNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」です。現実にはさまざまな家族があるのに、この番組はいい家族ばかり紹介して、国民に偏見を植えつけています。この番組は「突撃!隣の家族」というタイトルに変えて、どんな家族も分け隔てなく紹介する番組にするべきです。

自民党も家族の現実を直視せず、“古き良き時代”の家族を夢見ています。
自民党が夫婦別姓に反対し続けているのは、「家族の絆を壊すから」という理由からですが、夫婦別姓とは関係なく家族の絆は壊れ続けています。

2008年、リーマンショックが起き、大量の派遣切りが出たとき、会社の寮などで生活していた人が行き場を失うということがありました。
普通なら会社の寮を追い出されたらとりあえず実家に帰るでしょうが、帰るべき実家のない人がたくさんいたのです。

家族崩壊が進んで「共助」が機能しなくなっている現実があらわになりました。

このときNPOや労働組合によって「年越し派遣村」が日比谷公園内につくられました。
そのときは自民党の麻生内閣でしたが、厚生労働省が講堂を宿泊所として提供するなど年越し派遣村に協力しました。
「共助」が機能しないなら「公助」で支えるしかないという認識が自民党にもあったのでしょう。


しかし、その後自民党は新自由主義政党に変質しました。それまでは多分に家族主義的な政党だったと思います。

自民党や菅首相は「自助・共助・公助」と三つを同列に並べますが、これが間違いのもとです。
歴史的に「共助」が衰退するという現実があって、今はそれにどう対処するかが問われているのです。

「共助」が衰退した分を「自助」で補うか「公助」で補うかといえば、結論は明白ではないでしょうか。

政府は30代前半までの妊娠・出産が好ましいことなどを周知させるために「女性手帳」の導入を目指しているということです。自民党の改憲草案もそうですが、なにごとにつけ安倍政権は「上から目線」であるようです。
 
女性手帳配り妊娠出産啓発へ 政府「生き方介入でない」
 【見市紀世子】少子化対策を検討する内閣府の有識者会議「少子化危機突破タスクフォース」は7日、妊娠・出産の正しい知識を女性に広めるための「生命(いのち)と女性の手帳」(仮称)の導入を提案することで一致した。内閣府などの関係省庁は今夏にも検討会議をつくって手帳の中身を詰め、来年度中に自治体を通して配り始める方針だ。
 
 少子化は晩産化が一因といわれるが、一般的に30代後半になると女性は妊娠しにくくなり、妊娠中毒症などのリスクも高まる。こうした情報を十分知らずに妊娠の機会を逃す人もいる。そこでタスクフォースは、手帳を使って啓発を進めることで一致した。
 
 妊娠した女性に市町村が配る「母子健康手帳」を参考にする。妊娠・出産に関する医学的な知識や自治体の支援情報を盛り込むほか、予防接種など本人の健康にかかわる記録も書き込めるようにする。
 
 配る時期は、中学1年生で子宮頸(けい)がんワクチンの予防接種を受ける時のほか、高校・大学入学や成人式、就職の時など複数回を想定。年齢に応じて内容を変える方向だ。また男性向けにも同様の啓発を進めるため、やり方を検討する。
 
 今回の議論に対しては、ネット上などで「妊娠や出産の選択に国が口を出すことになるのでは」といった心配の声も出ている。これに対し、内閣府は「個人の生き方に介入する形にならないようにしなければならない。正しい情報がある中で、それぞれが選択できる環境を整えたい」と説明する。
 
 
妊娠した女性に「母子手帳」があるのだから、妊娠前の女性にも同じような手帳を配ろうという発想のようですが、“よけいなお世話”感がぬぐえません。
それに、女性だけに配ろうというのもおかしな話です。30代前半までに妊娠・出産することを奨励したいのなら、男性の協力が不可欠です。
ということで反対の声が多いのも当然でしょう。
 
とはいえ、「女性手帳」を交付するという新しいアイデアは、こちらの想像力を喚起してくれます。たとえば、「男性手帳」もあっていいはずです。「男性手帳」をつくるとすれば、どんな内容にするのがいいか考えてみましょう。
 
「男性手帳」には、とりあえず女性の妊娠・出産に対する理解を深めることが書かれますが、男性にはもっと切実な問題があります。
たとえば自殺率の高さです。男性の自殺はもともと女性よりも多いのですが、山一證券などが倒産した1997年以降に男性だけ自殺者数が急増し、女性の2倍以上になって、そのまま高止まりしています。
 
「自殺にみる男女格差」
 
つまり男性の自殺理由には「経済・勤務問題」がひじょうに大きいのです。
ということは、自殺防止にはなにが有効かということもわかります。
男性に対して「命のたいせつさ」と「人生にはお金よりもたいせつなものがある」ということを教えればいいのです。
「男性手帳」にはまずこのことを大書するべきです。
 
それから問題なのは、男性は女性よりも圧倒的に犯罪をする比率が高いことです。一般刑法犯でいうと、10人中8人は男性です。
 
「一般刑法犯の男女別・罪名別検挙人員」
 
男性のほうが女性よりも平均寿命が短いといったことは、たぶんどうにもならないことと思われますが、犯罪率のほうはどうにでもなるはずです。
犯罪をすると、被害者を不幸にするだけではなく、犯罪をした者はもちろんその家族までも不幸にしてしまいます。そのことを周知させることがたいせつです。
また、「法律・ルールを守ること」はもちろん、「人の物を盗んではいけない」「人を殺してはいけない」「人に迷惑をかけてはいけない」といった基本のことも「男性手帳」には書いておきたいものです。
 
そうすると、なんだ、「男性手帳」というのは道徳教本か、ということになるでしょう。
そこで思い出されるのが「心のノート」です。「心のノート」は文部科学省が小中生向けに配布していた道徳の副教材で、民主党政権の事業仕分けによって一時なくなりましたが、このたび安倍政権によって復活することになりました。
ですから、「男性手帳」というのは成人男性向け「心のノート」ということになります。
小中生に配布しているのですから、成人男性に配布して問題のあるはずがありません。
いかにも安倍政権らしいということになるでしょう。
 
むしろ逆に、「心のノート」は成人男性にこそ必要なもので、小中生にはあまり意味がありません。
小中生に必要なのは「体のノート」です。
 
少子化・晩婚化が進むのは、「草食系」という言葉に代表されるように、異性に対する関心や性に対する欲望が減退しているからではないかと思われます。
その理由としては、自民党など保守派が学校で過激な性教育が行われているとして性教育を攻撃し、そのため現場が萎縮してしまって性教育がほとんど行われなくなったことが挙げられます。また、成人雑誌などの販売規制が強化され、インターネットもフィルタリングで遮断されるため、子どもが性的情報に接することがほとんどなくなってしまいました。これでは性的に成熟しないのは当然です。
 
ですから、小中生向けの「体のノート」で、異性の体の仕組みを教え、また性行為の実際についても教えることが必要です。
こうすれば少子化・晩婚化を防ぐことができるでしょう。
「女性手帳」を交付するよりもよほど効果的と思われます。
 
「女性手帳」については、国が個人の生き方に介入することになるのではないかという批判があります。
もし「男性手帳」をつくれば、当然同じ批判が起きるでしょう。
では、小中生向けの「心のノート」についてはどうでしょうか。
当然同じ批判が起こるべきです。
こう考えれば、安倍政権が進めている道徳教育の強化がなぜだめかということがわかるでしょう。
女性であれ男性であれ子どもであれ、国が個人の生き方に介入してはいけないのです。
 
ところで、「体のノート」は性についての事実を教えるものですから、生き方への介入ではないので、ぜんぜん問題はありません。
「男性手帳」は冗談ですが、「体のノート」は冗談ではありません。

最近テレビを見ていて、東京海上日動のCMが気になります。父親が高校生の娘を毎日軽トラックで学校へ送っていき、卒業式の日に娘が「父さん、今日までありがとう」と言うCMです。
 
通常の60秒バージョン
 
娘の視点からの特別バージョン
 
なにが気になるかというと、この父と娘にほとんど会話がないのです。
 
「学校どうだ」
「普通」
 
「今度の試合出れそうか」
「知らない」
 
こんな調子です。
それでいて最後は、
「でも、それはかけがえのない時間だった」
ということになります。
 
ほとんど会話が成立していないのに、それが「かけがえのない時間」か、と突っ込みたくなります。
 
もっとも、たいていの家庭の父親と子ども(中高生ぐらい)の会話はそんなものかもしれません。
私の場合も、父親から「最近、学校はどうだ」と聞かれると、決まって「別に」と答えていました。
「勉強してるか」
「別に」
「そのテレビおもしろいか」
「別に」
こんな調子です。
 
当時はなぜ自分が「別に」しか言わないのかわかりませんでしたが、今思うと、父親と普通に会話していくと、決まって説教されたりバカにされたりという展開になるので、それを避けるために「別に」と言っていたのでしょう。
「別に」なら会話が発展しません。
東京海上日動のCMで娘が「普通」と言っているのも同じでしょう。
 
前回の「『ヨイトマケの唄』から遠く離れて」という記事で、「ヨイトマケの唄」には働く母の姿は描かれているが、母と子の触れ合いは描かれていないということを指摘しましたが、親と子の望ましい関係というのは美輪明宏さんにも描けなかったのでしょう。
 
なぜ描けないかというと、親と子の会話はほとんどの場合、親からの命令、指示、説教、警告、批判、解釈、分析、激励、助言になってしまうからです。
こうした会話は一方的で、子どもは不愉快になってしまうので、会話が続きません。
命令や説教や批判がよくないのはわかりやすいでしょうが、激励や助言もいけないというのはわかりにくいかもしれません。私はこれを親業(おやぎょう)訓練の本から学びました。
 
(親業訓練における話し方についてはたとえば次のサイトなどを参考にしてください)
聞き方と話し方 トマス・ゴードン博士の親業訓練講座(P.E.T.
 
今ではまともな親子の会話がどんなものであるかをわかっている人がほとんどいないので、そうした会話が描かれることもありません。
 
住宅のCMなどには仲のよさそうな親子が描かれますが、イメージだけで、「親子の仲のよい会話」というのはほとんどないのではないでしょうか。
 
皮肉なのはソフトバンクのCMです。白戸家の人々を描くCMが大人気で、長く続いていますが、お父さんが犬です。
「家政婦のミタ」や「マルモのおきて」などの人気ドラマも、欠損家庭を舞台にしています。
 
例外なのはアニメの「サザエさん」です。これは理想的な家庭を描いたものといえるでしょう。
「サザエさん」の主人公はサザエ、カツオ、ワカメの3人兄弟で、波平とフネの両親は教育やしつけという意識がほとんどないので、おとなであるサザエさんはもちろんですが、子どもであるカツオとワカメものびのびとやりたいことをしています。
 
そのため、テレビを見る子どもは「サザエさん」を単純に楽しんでいるでしょうが、おとなは「サザエさん」について複雑な思いがあるに違いありません。
つまり、理想の家庭というのは自分にはなかったということを意識せざるをえないのです。
 
「サザエさん症候群」という言葉があります。日曜日の夕方に放映される「サザエさん」を見ると、翌日からまた仕事をしなければならないという現実に直面して憂鬱になることをいいます。「ブルーマンデー症候群」の別名とされます。
しかし、「笑点」もその少し前に放映され、「サザエさん」以上に多くの人が視聴していますが、「笑点症候群」という言葉はありません。また、「大河ドラマ」や「日曜洋画劇場」(これは最近終了しましたが)も日曜の定番の番組ですが、これを見て憂鬱になるという話は聞きません。
 
ということは、「サザエさん」を見て憂鬱になるのは、翌日の仕事のことを思うからではなく、「サザエさん」そのものに憂鬱になる原因があるというべきでしょう。
「サザエさん」を見ていると、自分が育った家庭や今営んでいる家庭は「理想の家庭」から遠く離れているということを認識せざるをえず、それで憂鬱になるのです。
 
その点、東京海上日動のCMは、「理想の家庭」から遠く離れた家庭を「理想の家庭」であるとごまかしています。
「サザエさん」を見て憂鬱になった人は、このCMを見るといいかもしれません。所詮はごまかしですが。

シリーズ「横やり人生相談」です。今回は趣向を変えて、相談ではなく回答のほうを俎上に載せることにします。
 
朝日新聞の「悩みのるつぼ」という人生相談コーナーで美輪明宏さんが回答者を務めています。
美輪さんといえば、昨年末の紅白歌合戦で「ヨイトマケの唄」を熱唱し、大きな反響を呼びました。
「ヨイトマケの唄」は長らくテレビで聴くことはできませんでしたが、私はラジオの深夜放送で何度も聴いたことがあります。聴くたびに涙があふれてきます。ここには戦後日本人の原点があると思います。
こんな名曲がテレビで聴くことができなかったのは、「土方」という言葉が差別語だからということのようです。しかし、この歌は差別される側の人間を描いているわけですから、この歌を排除することが差別です。
 
しかし、今の時代に聴くと、ちょっと違うなと思うところもあります。それは学校や教育や出世に対する考え方です。
その部分だけ引用します。「僕」が小学校でイジメられて帰ってきて、母ちゃんが働いている姿を見たところです。
 
なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
  息をはずませ 帰ってはきたが
  母ちゃんの姿 見たときに
  泣いた涙も忘れ果て
  帰って行ったよ 学校へ
  勉強するよと言いながら
  勉強するよと言いながら
 
あれから何年経ったことだろう
  高校も出たし大学も出た
  今じゃ機械の世の中で
  おまけに僕はエンジニア
  苦労苦労で死んでった
  母ちゃん見てくれ この姿
  母ちゃん見てくれ この姿
 
(歌詞すべてを読む場合はこちら)
「ヨイトマケの唄」歌詞
 
この歌は母の愛を歌ったものだといえますが、ここでは母と子の触れ合いはありません。いや、実はこの歌詞の全文を読んでも、母と子の触れ合いは描かれていません。ただ、働く母の姿があるだけです。
しかし、この母は働いて子どもを育て、大学にまで行かせました。それが愛だということでしょう。
そして、子どもは母の期待に応えて勉強し、エンジニアになりました。それによって子どもは幸せになり、子どもを幸せにするという母の願いは成就しました。
 
つまり、子どもによい教育を受けさせることが親の愛であり、子どもにおいてはよく勉強してよい学校に行くことが幸せの道であるという考え方なのです。
これは昔は広く共有された価値観です。とくに貧しい境遇から抜け出すにはこれしかないといってもよかったでしょう。
 
今、同じ考えを持っている人がいると困ります。もう時代が違うからです。
しかし、美輪さんは昔のままの考えなのかもしれません。
朝日新聞の「悩みのるつぼ」の「夫が家庭に向き合いません」という相談に対する美輪さんの回答を読んで、首をかしげてしまいました。「母の愛」についての認識に問題がありそうです。
 
美輪さんの回答を全文紹介するので、相談のほうを要約することにします。
 
相談者は40代の女性で、50代の夫と4歳の子どもがいます。子どもはかわいいし、産んでよかったと思っていますが、夫は「子どもがほしい」とずっと言ってきたのに、子どもができても生活をまったく変えません。週末に数時間子どもと遊ぶくらいです。子どもの世話を頼むと、怒りながら「母親らしくない、仕事を辞めればいい」などと言います。こんな夫に気持ちが冷めてしまい、このままどんどん不満がふくらんでいきそうです。どう気持ちの折り合いをつけていけばいいでしょうか、という相談です。
 
これに対する美輪さんの回答の全文は次の通りです。
 
■結婚とは「えらいこと」です
 
 若いころから勝手気ままに生きてきたから、子どもをもうけても、「生活習慣病」が顔を出すのでしょう。
 
 よく結婚式で「おめでとう」と言いますが、まったくおめでたくないと思います。「えらいことしましたね。大丈夫ですか」というのが私の思いです。結婚というのはもちろん良いこともありますが、たいへんなこと。たとえ血がつながっていても、2人以上の人間が一つ屋根の下に暮らすのはしんどいのですから、まして他人となれば「努力」「忍耐」「あきらめ」の連続以外の何ものでもありません。
 
 結婚式というのは「決別式」。夢と自由に別れを告げ、今日から夫や子どものため、現実に取り組むという覚悟の儀式です。だからウエディングドレスの白は「死に装束」だと、私は常々言ってきました。
 
 あなたの夫は50代。子育ては妻に任せ、外では遊び、家では尊厳が保てないから、黙っているというような、戦前から大正、明治、江戸の世界に生きている人ですね。今は家事や育児に積極的な「イクメン」がメディアをにぎわす時代ですから、いっそう夫に対する恨みも募るのでしょう。でも昔の時代感覚の人としては典型で、普通です。そんな夫を選んでしまったわけだから自業自得。今さらブツブツ文句を言っても始まらない。理知を働かせて生きていく方法を考えましょう。
 
 相談者は子どもに対する愛情が希薄ではないですか。子の寝顔を見て、子守歌を歌っていますか。母子のコミュニケーションに子守歌は欠かせません。良い意味でトラウマになるまで歌いましょう。子どもの顔を見ていれば、たいへんな思いをして産んだ想(おも)いや頼るものもない、あわれな子どもを守ろうという気持ちが出てきます。自分のことばかり考えるエゴイストの根性は捨てなければなりません。
 
 世間には優しく礼儀正しい若者が出てきています。ゴルフの石川遼君、野球の斎藤佑樹君……。親による立派な教育の結果であることは間違いありません。
 
 あなたに苦労があればあるほど、立派な作品になる。母子家庭だと覚悟を決めて、4歳の子どもとどうやって明るく楽しく暮らすのか、考えてみましょう。家に帰ったら、明るい色の服を着て、静かで優しい音楽をかける。あなたの優雅なマリアのような姿を見て、仲間に入れてくれと夫の方が寄ってくる可能性もありますから。
 
結婚についての認識は、私も美輪さんとかなり似ています。
私は幸せな夫婦というのをほとんど見たことがありません。新婚1、2年の夫婦を別にすれば、ほとんどの夫婦は仲が悪いか冷めているかのどちらかです。私がこれまでに見てきた夫婦の中で幸せそうな夫婦は1組か2組ぐらいです。
ただ、結婚が「努力」「忍耐」「あきらめ」の連続だとは思いません。仲良くするノウハウさえ身につければ、幸せな結婚生活を送ることができます(もちろん私はたいへん幸せな夫婦生活を送っています)
 
相談者の夫は自分勝手な人のようです。こういう人を変えるのは容易なことではありません。
しかし、夫との関係は諦めて、子どもの教育を生きがいにしなさいという美輪さんの回答に賛成することはできません。
 
子どもの教育を生きがいにする母親はけっこう幸せであるかもしれません。しかし、子どもは不幸です。自分の人生を母親に奪われてしまったようなものだからです(美輪さんが「作品」という言葉を使っているのも気になるところです)
 
それに、子どもは必ずおとなになります。そうすると、母親は生きがいがなくなって不幸になってしまいます。
母親の多くは、その不幸を回避するために子どもの自立を阻み、いつまでも自分に依存させようとします。そのため、引きこもり、パラサイト、マザコン、非婚などの問題が生じています。
 
こうした問題が生じるのは、「ヨイトマケの唄」の時代とは違うからです。貧しい時代には子どもをいつまでも自分に依存させようとする親などいませんでした。
また、「ヨイトマケの唄」の母親は、働くことに精一杯で、あまり子どもにかまっていられなかったでしょう。今の専業主婦の母親は十分な時間がありますから、どうしても過干渉になってしまいます。
それに、今は大学を出たからといってよい将来が約束されているわけではありません。
 
そういうことを考えると、子どもを育てることを生きがいにしなさいという美輪さんの回答に賛成することはできません。
 
もっとも、それに代わる回答は簡単に示せません。
先ほども書いたように、自分勝手な夫を変えるのは容易なことではないからです。
あえて回答するなら、「夫との関係がうまくいかないことは、友人など周りの人との関係で補いなさい。子どもを生きがいにするのは自立を阻む恐れがあるので、ほどほどにしなさい」ということでしょうか。
 
それにしても、貧しい時代には愛が見えやすかったといえます。
今は働く母親はいっぱいいますが、そこに「ヨイトマケの唄」のような愛があるかどうかわかりません。

差別はむずかしい問題です。差別をどこまで正しくとらえているかで、その人の思想のレベルがわかります。
週刊朝日及び佐野眞一氏と橋下徹氏が対立した問題について、学者、有識者の発言がひじょうに少ないように思います。差別問題について自信を持って発言できる人がいないのでしょう。週刊朝日側は謝罪して、問題を検証するために朝日新聞社の第三者機関「報道と人権委員会」に審理を要請したということですが、果たしてその第三者機関がまともに審理することができるのでしょうか。
 
差別問題がむずかしくなるのは、差別されている側が必ずしも正しいとは限らないということがあるからです。
たとえば、アメリカで黒人の犯罪率は白人の犯罪率よりもはるかに高いという現実があります。このことをもって黒人差別を正当化する人がいますが、そういう人は、「自分は差別主義者ではない。犯罪を憎んでいるだけだ」という自己認識でいますから、差別について議論すると混乱することになります。
日本では、被差別部落出身者でヤクザになる人が多いという現実があります。
もちろんこれらは、差別が先にあって、それが犯罪率やヤクザにつながっているのですが、そういう時間軸が見えない人は差別を正しくとらえられないということになります。
 
また、差別は世代から世代へと引き継がれます。言い換えれば親から子へと引き継がれるということです。ですから、親と子の関係を正しくとらえないと差別もまた正しくとらえられないということになります。
ところが、人間の認識というのは基本的に「灯台もと暗し」になっているので、親子関係というのはほとんどブラックボックスになっています。
 
というようなことで、差別問題をとらえるのはむずかしく、これは橋下徹氏においても例外ではありません。
 
私は佐野眞一氏の「ハシシタ 奴の本性」という連載記事の第一回目を読みましたが、佐野氏に差別意識があるという印象を受けました。
もっとも、ほとんどの人に差別意識があるので、佐野氏を批判する資格のある人はほとんどいませんが。
 
一方、橋下氏の主張を聞いていると、明らかに差別意識があります。しかも、こちらの差別意識はより深刻です。というのは、自分の父親に対する差別意識だからです。
 
橋下氏は最初、週刊朝日の記事に対して、「血脈主義、身分制に通じる極めて恐ろしい考え方だ」と批判しました。それに続いて、こう言ったと報じられています。
 
橋下は「育てられた記憶もない実父の生き様や先祖のことだったり、地域が被差別部落であったとか、ボクの人格を否定する根拠として暴いていく、その考え方自体を問題視している」と述べ、さらに「人格のもとが血脈、DNAだという発想で、ボクとは無関係な過去を暴き出すのを認めることはできないし、違うんじゃないか」と怒りを露にした。
 
これはひどい発言です。なにがひどいかというと、自分の父親を徹底的に否定しているからです。「僕とは無関係な過去」とまで言っています。
もちろん否定する理由があれば問題ありません。たとえば父親から虐待されたなどは立派な理由になります。しかし、橋下氏は「育てられた記憶もない」と言っています。否定する理由が見当たりません(父親から殴られた記憶があると別のところで語っていますが、橋下氏は体罰肯定論者ですから、それで父親を否定するのは理屈に合いません)
橋下氏の両親は離婚して、橋下氏は母親のもとで育っています。母親から父親について否定的なことを聞かされていたということは考えられます。では、どんなことを聞かされていたのでしょうか。また、そのことをいつまでも鵜呑みにしているのも不可解です。母親からある程度自立する年ごろになれば、「お母さんの言っていることはほんとうなのだろうか。お父さんはそんなに悪い人間なのだろうか」という疑問が出てきて当然です。
 
人工授精で生まれた子どもは、ちゃんとした両親のもとで幸せに育っても、ある程度大きくなると、自分の生物学的父親はどんな人間か知りたくなることが多いらしく、スウェーデンでは、人工授精で生まれた子どもが自分の父親を知る権利を保障する法律が制定されています。アイデンティティを確立するためには「血脈」を知ることも無視できない要素のようです。
 
橋下氏の父親はヤクザであったらしく、橋下氏が小学校2年生のころに自殺しています。そのことをもって橋下氏が父親を否定するのはかわいそうです。父親は被差別部落に生まれ、差別の中で精一杯に生きた結果、ヤクザになり、自殺したからです。
 
橋下氏が父親を否定しているのは、ヤクザで自殺したという理由からかもしれませんが、実はそのことは被差別部落出身であることと切っても切り離せません。
ということは、橋下氏が父親を否定しているのは、父親が被差別部落出身であるからともいえるのです。
 
佐野氏の記事は差別的だと橋下氏は批判します。しかし、橋下氏は被差別部落出身の父親と結びつけて自分の人格が否定されているといって批判しているのです。つまり橋下氏は自己防衛をしているのです。
橋下氏のするべきは、父親を守ることです。
「自分は公人だからどんな批判をされてもしかたないが、被差別部落出身だということで父親を批判することは許されない」
これこそが橋下氏の主張するべきことです。
このような主張なら、被差別部落出身者はもとよりすべての差別に苦しむ人、さらには多くの一般の人々の共感を呼んだでしょう。
しかし「『血脈』をあばくことによって自分の人格否定をすることは許されない」という橋下氏の主張は、おそらく誰の共感も呼ばないでしょう。
なぜなら、この主張には父親への思いがまったくなく、ということは、差別されている人への思いもないからです。
 
橋下氏は「血脈」を否定することなく、自分の父親と向き合う必要があります。そうすれば、部落差別とヤクザ差別への認識が深まりますし、刺青への偏見もなくなるでしょう。
 
 
それにしても、私は橋下氏の母親はどんな人間かということに興味を持ちました。被差別部落出身のヤクザ者と結婚したのですから、なかなかの人間と思います。橋下氏は当然その影響を受けています。
また、橋下氏は幼児期は父親といっしょにすごしたようですから、その影響も受けているはずです。その意味でも父親がどういう人間であったかを知るのはたいせつなことです。
佐野氏の連載はそうしたことをすべて明らかにしてくれたに違いありません。
 
オバマ大統領については、そのルーツがすべてあばかれています。日本で政治家のルーツをあばくことがタブーになってはいけません。
朝日新聞の第三者機関は、橋下氏のルーツをあばくことをやめてはいけないと勧告してほしいものです。
 

シリーズ「横やり人生相談」です。
日本では結婚した夫婦3組のうち1組が離婚するといわれています。おそらく多くの離婚は、小さな行き違いの積み重ねが大きな亀裂となるという過程をたどるものと思われます。ですから、小さな行き違いを甘く見ないで、正しく対応することがたいせつです。
 
今回の人生相談は、結婚前の同棲中の若いカップルのちょっとした行き違いですが、女性のほうはかなり深刻なダメージを受けています。
 
作った食事が手抜きだと言われました  とうふ 2012105 15:52
 トピを開いて頂きありがとうございます。20代女性です。来年結婚を予定に彼氏と同棲しています。
相談したいのはトピの通り、一昨日に彼氏に食事が手抜きだといわれたことが悲しくショックでした。
 
その日の晩御飯は味噌汁・ごはん・ハンバーグ・コールスローサラダでした。品数は少ないですが、ハンバーグはミンチからつくり、味噌汁もダシからとり、サラダはプロセッサーで刻み、ごはんは彼氏の帰ってくる時間に合わせて炊き立てを出しました。
帰ってきた彼がその食事を食べると「手抜きじゃないか」と言いました。そう言われて私は一瞬「・・・え?」となりました。それに加えて「今日は仕事だったの?」と彼氏にイヤミを言われ、一気に気分が悪くなりました。(私は病気で医師の指示もありパート勤めです。)
私は怒りを抑え「手抜きをしたつもりはないよ?どこが手抜きなのかな?」と聞きましたが、彼氏は「いや、手抜きだし」と吐き捨てるように言いました。
 
もう顔も見たくなくなってしまい、部屋に戻りました。そして昨日彼氏は「何を一人で怒っているんだ。」と言うのです。その発言にもブチっとなり、「私はアンタのために作ったご飯を手抜きって言われたから怒ってるの!それを言われて腹が立ったから部屋に戻ったの!人の気持ちを解れよ!」と怒りました。しかし彼は「手抜きだったからそのまま言っただけじゃないか!」と言うだけ。
 
私のキレ方はおかしいですか?これまでも喧嘩はあり乗り越えてきましたが、なんだか今回はどっと疲れてしまいました・・・。
 
先輩方、どうかご助言お願いします。
 
 
これは読売新聞系の掲示板「発言小町」に載ったものです。こうした相談や質問がトピックとして立てられ、それに誰でもがレスをつけられるという形式です。
このトピックには400余りのレスがつきました。私がざっと読んだ感じでは、7割から8割は彼氏のほうを批判するものですが、やはり手抜きではないか、おかずの品数が足りないのではないか、彼氏にとってはボリュームが足りないのではないかという意見もありました。
 
私の感覚でも、家庭の夕食としては物足りないと思います。ハンバーグのつけあわせが何か書いてないので、おそらくコールスローサラダがつけあわせなのでしょう(ハンバーグだけお皿に載っているなら別ですが)
町の洋食屋ならハンバーグのつけあわせはニンジンとポテト、定食屋なら千切りキャベツというところでしょう。ですから、この食事は、定食屋のハンバーグ定食のつけあわせがコールスローサラダになっているだけです。なんで家庭料理が定食屋と同じなんだよという気がしてしまいます。物足りないだけでなく、栄養バランスもよくありません。
 
このトピ主はこのあと自分で次のようなレスをつけています。
 
トピ主です
()
私はレスの中で「もう一品増やしてみては?」という意見を取り入れてみようと思い、昨日から毎日作った献立をノートに書くことにしました。今思えば食費を二万円以内に収めようと、食事内容をケチっていたことがあります。(もやし・豆腐・大根葉をよく使う)。彼に不満が募るのは当然ですよね…。
 
私の話を少しさせていただきます。
私の母は全く料理をしない人です。私と父は夕食のお金を渡され、コンビニや定食屋で食べてこいという食生活でした。家庭科の調理実習で、包丁が全く使えずお皿もまともに洗えなかった私を、教師は失敗例として皆のまえで取り上げました。
 
大学進学のため一人暮らしを始め、料理も始めてみました。バカでも分かる料理初心者の本を本屋で必死に探し、火傷や切り傷をしながら独学で勉強しました。だから今回の件で、非常に腹が立ったことを理解して頂けると幸いです。
 
 
こういう事情ですから、彼氏が彼女の料理に不満を持つのも当然といえるでしょう。
 
ただ、問題は彼氏の言い方です。「手抜き」という言い方をして、どう手抜きなのかを言いません。
多くの人はこの言い方に反発を覚えて、彼氏を批判するレスをしたものと思われます。
 
「手抜き」という言葉には、相手の心のあり方を道徳的に非難する意味合いがあります。
私が「手抜き」という言葉で思い出すのは、現在野球解説者の江川卓氏のことです。
 
江川卓氏は高校時代に“怪物”と呼ばれたほどの実力派投手でしたが、プロ入りするときにいわゆる「空白の1日」という手法でドラフト破りをして、むりやり巨人に入団しました。このいきさつから読売以外のマスコミは江川投手に圧倒的な反感を持ち、江川投手のデビュー戦となった阪神戦で、阪神のラインバックに逆転スリーランホームランを打たれたときには記者席から「バンザイ」の声が上がったという話があります。
江川投手は実力のわりにはホームランを打たれる傾向がありました。普通は、力のある投手がホームランを打たれたら、「失投」とか「気のゆるみ」とか言われるところですが、江川投手の場合は決まって「手抜き」と言われました。
「気のゆるみ」よりも「手抜き」のほうが非難の色合いが強くなるからでしょう。
 
ですから、彼氏から「手抜き」と言われた彼女がキレてしまったのもある程度理解できます。
いや、彼女がキレたのもよくないですが、それよりも彼氏の言い方のほうが問題でしょう。
 
「手抜き」と言われても、なにをどう直せばいいのかわかりません。それよりは、「おかずの数が少ない」とか「そんなにケチらずに、もっと食事に金をかけろ」とか言ってくれれば、お互いに話し合っていい方向に持っていくことができます。
 
私が思うに、彼氏は実質ハンバーグしかおかずのない食卓を見て、これは自分がないがしろにされているからだと判断して、腹を立てたのでしょう。そのため「手抜き」という言葉で彼女を非難してしまったのです。しかし、それは彼の誤解で、定食みたいな食事が彼女の家では普通のことでした。
ここに2人の行き違いの根本があります。
まったく別の暮らしをしていた2人がいっしょに暮らすようになると、必然的にこうした行き違いが出てきます。
 
こうした行き違いをなくすひとつの方法は、相手の実家に行ったときに、そこでの暮らしぶりをよく観察することです。そうすると、日ごろ不審に思っていた相手の行動が実家では普通の行動だということがわかったりします。
 
もっとも、それでも行き違いは避けられません。
 
そういうときは、相手を道徳的に非難する言葉を極力使わないことです。
 
私はかねてからの持論として、「家庭に道徳を持ち込むな」と言っています。
道徳は相手を非難・攻撃する道具であって、相手と仲よくしたいときには道徳を持ち込んではいけません。
たとえば、私は自民党の安倍晋三総裁を「反省がない」「ストレスに弱い心ではだめだ」と言って道徳的に非難しましたが、これは安倍総裁に退場してほしいからです。安倍総裁に期待しているならこんな言い方はしません。
 
 
相手を道徳的に非難したくなったときは、自分の心に怒りがあるのです。怒りは愛情の対極です。この原理に気づけば、怒りを抑えて愛情を回復することができます。
このことを理解すれば、離婚という事態も大幅に防止できるものと思います。

久しぶりのシリーズ「横やり人生相談」です。読売新聞の「人生案内」が有料化されてしまったので、ネタが探しにくくなってしまいました。
今回は、ダメ息子に悩む母親の相談です。
 
私はこのブログで政治のことや教育のことや犯罪のことや家族のことを書いていますが、バラバラのことを書いているつもりはなく、私の中では全部つながっています。
中でも根底にあるのは家族の問題です。
たとえば、アメリカの大統領選を見ても、同性婚禁止、中絶禁止など、家族に関わることが大きな争点になっていますし、戦争も夫婦喧嘩も似たようなものです。また、異常性が感じられる犯罪をする者はほとんどの場合、ゆがんだ家庭で育っています。
ですから、「元気があればなんでもできる」ではありませんが、「家族のことがわかればなんでもわかる」ということなのです。
 
中でも親子関係は家族関係の中核になります。
今回の相談は、母親と息子以外のことはいっさい書かれていないという“純粋親子関係”についてのものです。ほかの要素がないだけに、親子関係について考えるのにいい材料になるはずです。
 
〈悩みのるつぼ〉高校生のダメ息子に悩んでます
■相談者:母親 50代
 50代の女性です。親への依存心が強いうえ怒りの沸点が低く、やらなければならないことにも向き合わず、逃げられないとなると怒って感情を爆発させる。そんな甘えの強い高校生の息子に悩んでいます。
 「悪い成績を見るのが嫌だから、模試は受けたくない」「朝勉強しようと思ったけど、寝坊したからテンションが落ちて今日はやる気が起こらない」「集中力が続かないからできない」と、いつもできない理由ばかり並べ、助言や注意をしても「それは~だからできないんだ!」とまたもできない理由を並べ、怒って声を荒らげ始めます。そして、結局逃げてしまいます。
 逃げられないとなると、そのストレスで感情を爆発させ、私に対処せよとばかりに「どうしたらいいの?」と尋ねてきます。相談と言いつつ、最初から怒っているので、下手なことを言うとさらにヒートアップ。その繰り返しで、私を「ひとごとみたいな対応で、助言もしてくれない。子どもがどうなってもいいんだな」と責めます。
 いさめても、弁が立つうえ威圧するので揚げ足を取られ、なぜか私が悪いことになってしまいます。大学に入っても、ダラダラとして単位も取れず……という姿が目に浮かびます。自分に甘く、親への甘えも人一倍の息子をどう自覚させ、どうまともな大人にしていけばよいでしょうか?
朝日新聞デジタル20129221500分 
 
この相談の回答者は評論家の岡田斗司夫さんです。
岡田さんは、息子がダメ人間であることを変えるのはむずかしいといいます。母親が息子と口喧嘩ばかりしていると、息子はダメ人間であるだけでなく、「イヤなダメ人間」になります、ほっといて「ダメだけど好人物」にしたほうが息子も母親も幸せになれますよ、というのが岡田さんのメインの回答です。
それに追加して、「息子の将来」よりも「いまのご自分」を大事にしてください、2人は鏡なんですから、とも書いておられます。
 
この回答に不満があるということはありません。誰が考えても、息子よりは母親のほうに問題があるに違いなく、母親を説得するには岡田さんの回答がベストのように思えます。
ただ、岡田さんは「息子はダメ人間」という母親の言い分をそのまま受け入れていますが、私はそこのところを追究してみたいと思います(私は母親を説得する必要がないので、岡田さんと違って好きなことが書けます)
 
最初にも触れましたが、この相談には母親と息子以外の人間がいっさい出てきません。
もし「夫は『お前は息子にかまいすぎだ。放っておけ』と言って、私と意見が合いません」というような記述があれば、この母親は過干渉の人ではないかという推測ができますし、「2つ上の姉はしっかりしていて、息子と大違いです」というような記述があれば、なぜ姉と弟は違うのかということから、母親の子どもへの接し方に問題があるのではないかというふうに追究していくこともできます。
しかし、この相談はすべてが母親の息子についての主観的評価で、現実との接点がないので、この主観的評価が正しいのか否か判断できません(だから岡田さんもそこはスルーしたのでしょう)
 
しかし、現実との接点がまったくないとは必ずしもいえません。というのは、この息子も赤ん坊だったときがあるわけで、そのときはどうだったかを考えれば見えてくることがあります
 
この息子は赤ん坊のときからダメ人間だったのでしょうか。ほかの赤ん坊よりも母親への依存心が強く、怒りの沸点が低く、やらなければならないことにも向き合わず、オッパイを飲むときもハイハイするときもダラダラしていたのでしょうか。
そんなことはないはずです(もしそうだったら母親もそう書くでしょう)
つまりここに現実との接点というか、認識の土台があるわけです。
「赤ん坊のときはまともだったが、高校生の今はダメ人間である」ということは、成長のどこかの段階でダメ人間になった、あるいは成長の全過程でダメ人間化が進行した、ということになります。
いったいどんな理由でそんなことになるのでしょうか。いちばん考えられるのは、親が育て方を間違ったということです。あるいは親がダメ人間なので、子どもがそれを見習ったということもあります。
 
しかし、この母親にそういう認識はないようです。
「親はまともな人間で、ちゃんと育ててきたのに、子どもはダメ人間になった」ということはひじょうに考えにくいのですが、世の中にはそう考える人もいます。そういう人は、悪い友だちとつきあったからだ、低俗テレビ番組などのメディアのせいだ、世の中の風潮に染まったからだと主張しますが、こうした声はけっこう世の中に存在します。しかし、親の影響力が悪い友だちの影響力に負けるというのは、やはり親に問題があるということになるはずです。
 
もしかして、生まれつきダメ人間がいるのだと主張する人がいるかもしれません。しかし、自分はダメ人間でないのに、自分と自分が選んだ人の遺伝子を受け継いだ子どもがダメ人間であるというのも通常ありえないことです。突然変異を持ち出す人がいるかもしれませんが、もし生まれつきのダメ人間なら、教育によってなんとかしようというのも無意味になります。
 
ともかく、「赤ん坊のときはどうだったのか」ということを原点にして考えると、「親はダメ人間でないのに、子どもはダメ人間である」ということは通常ありえないということがわかるはずです。
 
 
ということは、この相談の場合は、どう考えても母親に問題があるということになります。
母親が「助言や注意」をすると息子は逃げてしまい、「逃げられないとなると、そのストレスで感情を爆発させ」るということですが、そうとう「助言や注意」で追い詰めているに違いありません。
つまり、母親があまりにも息子の問題に首を突っ込むため(過干渉)、息子に当事者意識が芽生えないのだと考えられます(岡田さんはそのへんを洞察して回答しています)
 
では、なぜ母親はそういうことをするのかというと、ダメな息子とかかわることが生きがいになっているからです。息子がダメでなくなり、自立していくと、自分の生きがいがなくなってしまうので、自立を阻むために過干渉をするわけです。
 
なぜダメな息子とかかわることが生きがいになっているかというと、それ以外の人間関係(とくに夫との関係)がほとんどないからであると想像できます。
ここで、相談にほかの人のことがいっさい書かれていないことがつながってきました。
 
夫婦仲がよければ、子どもが自立してもそれほど寂しくありません。しかし、夫婦関係が壊れていると、子どもが自立すると孤独になってしまいます。そのため、夫婦仲の悪い親が子どもの自立を阻むということがよくあります(父親は娘の自立を阻み、母親は息子の自立を阻むというのがよくあるパターンです)
 
ですから、この母親の相談への回答としては、息子さんのことは放っておいて自分の生きがいを見つけてくださいということです(岡田さんの回答とほとんど同じです)
 
 
ところで、「赤ん坊のときはどうだったのか」という発想はいろんなときに役立ちます。
たとえば、「近ごろの若い者はなっていない」と嘆くおとながよくいますが、こういう人には「近ごろの赤ん坊をどう思いますか」と聞いてみるといいでしょう。まともな思考力のある人なら、自分の考えのおかしさに気づくはずです。

イジメ問題がいまだにマスコミをにぎわせています。
イジメというのは単純なようでいて深い問題です。この機会に、イジメについて考察を深めるのも意義のあることかと思います。
 
イジメについての疑問のひとつは、被害者は加害者に対してなぜ拒絶なり反撃なりをしないのかということでしょう。
それについての一応の答えは、拒絶するとよけいにイジメられるからというものです。
しかし、拒絶しないためにどんどんイジメがエスカレートしていくという現実もあるわけです。
なぜいやなことをいやと言えないのでしょうか。
これについて考えるのにちょうどいい材料があったので、紹介したいと思います。朝日新聞家庭欄の「ひととき」という投書欄に載った文章です。
 
「いや」を言う勇気〈ひととき〉
 小学生の時、クラスに意地悪な女の子がいて、学校に行くのが憂鬱(ゆううつ)だった。
 ある日、彼女は私に「シール、ちょうだいよ」と言った。当時、シールなどを集めるのが人気で、私にとっても大切な宝物だったから、すぐに「いいよ」と差し出せなかった。ためらう私に、彼女は「じゃあ、明日。絶対にね」と言って帰って行った。彼女の要求は理不尽だったが、応じなければ、ますます意地悪をされるかもしれない。
 沈んだ気持ちのまま、放課後、仲良しの芳子ちゃんの家に遊びに行った。その話をしたのだろう。突然、芳子ちゃんのママが言った。「どうして、シールをあげる必要があるの? そんなのおかしいでしょう、いやって言いましょう」
 私はその言葉に勇気をもらった。翌日、私が言うことを聞くと信じてやってきた彼女に、ありったけの勇気を出して拒否した。あの時の彼女の驚いた顔は今も覚えている。その後、彼女は何も言ってこなかった。
 私立中学に進学した芳子ちゃんとは卒業以来会うこともなく、芳子ちゃんのママにも会っていない。けれど、あれから私は強くなったように思う。芳子ちゃんのママ、ありがとう。
三重県松阪市 (氏名略 女性) 会社員 49歳
朝日新聞デジタル2012980300
 
男同士のイジメには、腕力の強さということもかかわってきますが、この場合のように女の子同士のイジメだと、腕力は関係ないので、もっぱら精神力の問題としてとらえてもいいはずです。
いや、「精神力」という言葉はちょっと違うかもしれないので、「気が強い」「気が弱い」という言葉に変えます。
つまりイジメというのは、基本的には気の強い者が気の弱い者をイジメるというものです。
「気が強い・弱い」というのは、「体力がある・ない」とか、「筋肉質である・ない」というのと同じで、ある程度は生まれつきのものだと思います。もちろん経験を積むことで鍛えられていきますが(「気が弱い」というのは「やさしい」というプラスの面もあります)。
 
しかし、この文章を読むと、もうひとつの要素があることがわかります。つまり、「人のささえ」です。
ささえる人がいてくれれば、気の弱い人も気丈にふるまえるということです。
この投書主の場合、友人のママが「いやと言いたい」という気持ちをささえてくれたので、「いや」と言うことができたわけです。
 
そして、「いや」と言ったら、イジメはおさまりました。
このことは、イジメの解決策について多くのことを教えてくれると思います。
 
たいていのイジメは、被害者が気を強く持って、いやなことをいやと言えばおさまるのではないかと思います。
 
男同士のイジメの場合、腕力もひとつの要素になってきますが、それはあくまでひとつの要素で、クラスで腕力のない者はみんなイジメられるかというとそんなことはありません。むしろ気の弱さのほうが大きな要素ではないでしょうか。
 
この投書で印象的なのは、勇気を出して拒否したら、イジメっ子がひどく驚いたというところです。イジメっ子にはまったく予想外だったのでしょう。
人間はある程度つきあうと、この人間はこういう場合にこういう反応をするということが読めるようになります。このイジメっ子も自分の読みに自信を持っていたのでしょう(そういう意味では人間通です。これもひとつの能力です)。ただ、友人のママがささえになったということまでは読めなかったわけです。
 
この投書主の場合、たまたま友人の家に遊びに行ったことで幸運に恵まれたわけですが、こういうことはめったにありません。
ただ、ここでまともな判断力を持っている人なら思うはずです。友人のママの役割は本来親が果たすものではないのかと。
 
この投書主は、自分の親のことは一言も書いていませんが、まさか親がいないことはないでしょう。普段から親がささえになってくれていれば、意地悪な子にも平気で「いや」と言えて、学校に行くのが憂鬱になるようなこともなかったはずです。
 
ということは、多くのイジメにおいても、親が子どものささえになっていないのではないかと想像されます。
親がちゃんと子どもを愛して、子どもが自己肯定感を持っていれば、学校でイジメられるようなことにはならないというのが私の考えです(絶対にイジメられないとは断言できませんが)
 
イジメというと、どうしても加害者側に焦点が当たり、担任が指導しろとか、登校停止にしろとか、警察に訴えろとか言われます。しかし、被害者側に問題がないわけではありません。むしろこちらの対策のほうが重要だといえます。
というのは、1人のイジメっ子をなんとかしても、ほかのイジメっ子に出会う可能性がありますし、社会に出てからもイジメられる可能性があるからです。
被害者側がイジメをはねつける強さを持つことがなによりもたいせつです。
そして、そのことについては「親の役割」がたいせつです。
 
ところが、「親の役割」のたいせつさについての認識が、多くの人においてすっぽりと抜け落ちているのです。この投書主においてもそうでした。
これは親から虐待されている子どもが決して親を告発しないことに似ていると思われます。親がマイナスの役割を果たしているとき、それはなかなか認識されないのです。
 
子どもの世界にこれほどイジメが蔓延しているということは、「親の役割」を果たしていない親が世の中に蔓延しているということに違いありません。
このことがもっと認識される必要があると思います。 

タレントの関根勤さんは家庭をたいせつにすることで有名ですが、娘さんが小さいときに考えたそうです。この子もいずれ学校に行き、世の中に出て、人にイジメられたりとか、さまざまな不幸な目にあうかもしれない。それに対して親としてなにができるかというと、今のうちにいっぱい幸せな思いを味わわせることしかないのではないか。つまり、将来、不幸なことがいっぱいあっても、天秤がバランスを失ってひっくり返らないように、今のうちにこちら側に幸福の分銅をいっぱい積んでおくことだと思って、娘さんが小さいうちは必ず遊び相手になって、楽しい思いをいっぱいさせるようにしたというのです。
幸福と不幸の天秤という考え方がおもしろくて、印象に残っています。
ちなみにその娘さんというのは関根麻里さんのことです。
 
関根さんの家のようなところに生まれると子どもは幸せですが、世の中に関根さんの家のようなところは少数でしょう。
子どもにとっては、生まれる家()を選べないのがつらいところですが、生まれた家によって、子どもの人生は決定的に左右されます。
 
わかりやすいのは、裕福な家に生まれるとの、貧乏な家に生まれるのとの違いです。貧乏な家に生まれると、頭がよくても上の学校に行けず、人生の選択肢が限られてしまいます。貧乏な家というのは社会の下層ということですから、下層のままの人生になってしまう可能性が大です。
 
また、サラリーマン家庭に生まれると、その子どももサラリーマンになる可能性が大です。なかなか自分で商売をするという発想が出てきません。
商店など自営業の家庭に生まれた人は、自分も商売をするという発想が自然に出てくると思います。
たとえばワタミ会長の渡辺美樹氏、焼肉牛角などのレインズインターナショナル社長の西山知義氏は、どちらも一代で大きな事業を築いた方ですが、どちらも幼少時、父親がかなり大きな事業をしていて、それが倒産するという体験をしています。
ちなみに私はサラリーマン家庭の生まれで、自分で商売をしようと思ったことは一度もありません。
 
 
それから、最初に言ったように、愛情の多い家庭に生まれるのと、愛情の少ない家庭に生まれるのとの違いがありますが、愛情というのは目に見えないので、これは意外と認識されていないようです。
 
愛情の少ない家庭に生まれるというのは、たとえば生まれてすぐ親と死別して、親戚の家をたらい回しにされたとか、養護施設で育ったとかです(養護施設にも愛情を持って子どもに接する人はいますが)
それから、父親がアルコール依存症で、母親や子どもに暴力を振るうとかも、愛情の少ない家庭の典型でしょう。
こういうのは認識されやすいほうですが、普通に見える家庭でも愛情の少ないことがよくあります。
 
たとえば、親が一流大学の出で、子どもに一流大学に入るように強いるということがよくあります。子どもの将来の幸せのためだというわけですが、これは関根勤さんの考えとちょうど反対になっています。つまり、今は勉強ばかりで不幸でも、将来の幸せで天秤は釣り合うというわけです。
しかし、一流大学に入れば幸せになるとは限りませんし、いくら勉強しても一流大学に入れない場合もあります。
こういう親はたいてい、学歴差別意識がひじょうに強く、子どもの成績が悪くなり一流大学に入れそうもないとなると、それだけで愛情を失ってしまったりしますが、こういうのはもともと子どもを丸ごと愛していないのです。また、自分の見栄のために子どもを一流大学に入れたいという親もいます。
 
子どもがほしがるものはなんでも買い与え、小遣いも十分に渡しているという家庭もあります。こういう親はお金が子どもへの愛情の証だと思っているのですが、そうとは限りません。
貧乏な家庭で、母親が節約に努めてやっと子どもがほしがっていたオモチャを買ってやるというとき、それはわずかな金額であっても愛情の証になります。しかし、豊かな家庭で、子どもの面倒を見る代わりにお金を渡しているというとき、そのお金は逆に愛情がない証になります。
 
このように愛情というのはわかりにくく、暴力を振るっても「愛のムチ」だという親もいます。
 
 
ここで大津市イジメ事件のことに話をつなげますが、子どもが家庭の外でどんな不幸な目にあっても、家庭内で幸福の分銅を積んでおけば、天秤がひっくり返るわけがないと私は思っているので、自殺者の家庭はどうだったのかということを問題にしてきました。
たとえば、自殺者遺族の父親はきわめて活発に活動しておられますが、母親の姿はまったく見えないのが気になるところです。また、子どもが生きていたころ、親と子がこんなに仲良くしていたという報道がまったくないですし、父親の口からも語られたことがないように思います。
学校と家庭の両方で不幸の分銅を積んでいたのではないでしょうか。
 
イジメ加害少年の家庭も同じようなものでしょう。
そもそもイジメとは相手を不幸にすることですが、なぜイジメっ子は相手を不幸にするようなことをするのでしょうか。
それは、自分が人から不幸にされているからでしょう。
誰から不幸にされているかというと、まず間違いなく親からでしょう。
つまり、家庭でイジメられているので、学校でもイジメてしまうのです。
イジメ加害少年の家庭も表面的には普通の家庭であるようですが、やはり不幸の分銅を積んでいたのでしょう。
 
現在、加害少年の親も週刊誌などで批判されていますが、親と子をいっしょに批判しているだけで、親のなにが悪くて子どもをイジメに走らせたのかという観点からの批判はないのではないでしょうか。
 
もっぱら大津市の教委や学校や加害少年を批判する現在のやり方は、たとえば大津市の教育長が辞任すればそれで終わってしまいます。これでは学校の問題も家庭の問題も解決されず、なんのための批判だったのかわかりません。

最近ネットを騒がした話題といえば、河本準一さんの母親についての扶養義務違反問題と、大津市の中学校でのイジメ事件ですが、このふたつには共通点があります。
それは、どちらも親子関係に問題のある可能性があるのに、誰もがそのことをスルーしているという点です。
 
河本準一さんが母親に十分な仕送りをしていないというと、親子関係に問題があるのではないかと思うのが普通の発想です。河本さんの場合は、「一人二役」という母親についての本を出したり、オカン話を得意のネタにしていたりという事情がありましたが、それだけで親子関係は良好だとは判断できません。亡くなってもいない母親のことを本に書くというのは、母親に対するアンビバレントな思いがあるからかもしれませんし、最近は母親とほとんど連絡も取っていないということです。家族関係が悪いことを公言する人はまずいませんから、外からはなかなか判断がつきません。
 
実際のところはわかりませんが、もし親子関係がよくないなら、扶養義務違反ということが成り立たなくなり、全部の主張が無意味になってしまいます。しかし、誰もが親子関係は良好だという前提に立って主張しているのが、なんとも奇妙なところです。
 
 
大津市の中2男子生徒が自殺して、イジメが原因ではないかと騒がれている事件も同じです。中学生が自殺したら、その家庭はどうだったのかということを誰でも真っ先に考えるはずです。
もっとも、この場合は自殺した子は学校でイジメを受けていたということで、それも自殺の一因と考えられます。
もちろんあくまで「一因」です。いくら学校でイジメを受けていても、家庭での生活が楽しければ死ぬはずはないからです。
 
ところが、今のところ報道や世の中の反応を見ると、自殺の原因はイジメがすべてであるかのようになっています。
なぜそんなことになるのかと考えてみると、ひとつには犯罪被害者遺族との混同があると思われます。
たとえば通り魔事件などで人が死ぬと、その犯罪被害者遺族にはまったく罪がありませんから、遺族の心情を持ち出して犯罪を非難するということが行われます。今回も同じ図式が当てはめられて、遺族の心情を持ち出してイジメを非難するということが行われているわけです(もちろんこの事件は自殺ですから、自殺した子の遺族にまったく罪がないとはいえません)
 
それともうひとつ、自殺の原因をイジメに特化することで、家庭の問題から目をそらしたいと思う人がたくさんいることも理由だと思います。
つまり、自殺した子の家庭では、子どもがイジメられていることに気づかず、自殺するほど悩んでいることにも気づいていなかったわけですが、こうしたコミュニケーション不全の家庭はいっぱいあるに違いありません。そして、そうした家庭の親は、この問題に光が当たると都合が悪いので、半ば無意識に家庭の問題よりもイジメの問題を重視するのでしょう。
 
もちろんイジメはよくないことですし、学校や教育委員会の対応もひどいものです。しかし、子どもが自殺する家庭はもっとよくないのではないでしょうか。
イジメをなくすこともたいせつですが、親と子のコミュニケーションをよくすることのほうがもっとたいせつです。
イジメをなくすといっても、完全になくすことはできません。むしろイジメはあるという前提で、親子のコミュニケーションをよくすることに力を入れたほうがよい結果になると思われます。
 
また、子どもに十分な収入があるのにその親が生活保護を受けているというケースがあれば、扶養義務を強要して終わりにするのではなく、親子関係に問題はないのか検証し、もしあればその原因を明らかにしていくほうが国のためになります。
家族関係こそが国の基礎をなすものだからです。

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