村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

タグ:家父長制

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ネットの子育て悩み相談でよく見かけるのが「子どもを叱ってばかりいる。こんなに叱って大丈夫だろうか」というものです。
最近、「ほめて育てる」ということが奨励されているので、悩みは深いようです。

「叱る」というのはどういうことでしょうか。
いきなり親が子どもを叱るということはありません。
最初に親は子どもになにかするように要求します。子どもが要求通りに動いてくれないと、親は命令します。それでも子どもが動かないと、親は叱るわけです。

昔は子どもが親の言うことを聞かないと親は体罰をしていました。
今は体罰は社会的に許されないので、もっぱら叱るわけです。
体罰は体に痛みを与えますが、叱ることは心に痛みを与えます。たいして変わりません。

厚労省は、子どもに対する体罰・暴言は脳の萎縮・変形を招くと明言し、「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを行っています。
なにが暴言かというのは必ずしも明確ではありませんが、どんな叱り方をしても子どもの心は傷つくはずですから、叱ることはすべて暴言と見なしていいのではないでしょうか。


親が子どもに命令したり叱ったりするのは、親子が上下関係になっているからです。
軍隊や企業は厳密に上下関係が決められているので命令があり、命令違反には罰があります。
友人関係には上下がないので、友人に命令することはできません。命令すると友人関係が壊れます。
家族関係も基本的なところは友人関係と同じはずです。


親は子どもに対して命令する権限があると思っていますが、子どもはそうは思っていません。ですから、親に命令されても聞きませんし、叱られても聞きません。
そのため、「子どもを叱ってばかりいる。こんなに叱って大丈夫だろうか」という親の悩みが出てくるわけです。

もちろん叱るのはよくありませんが、それ以前に命令するのがよくありません。
命令するから、命令違反を叱ってしまうわけです。

命令がだめならどうすればいいかというと、頼めばいいわけです。
親が子どもになにかしてほしい場合は、頼むしかありません。

たとえば子どもが保育園に行くのをしぶったとします。
親がむりやり行かせようとし、それでも行かないと叱るというのが最悪のやり方です。子どもは傷つきますし、ますます保育園嫌いになる可能性があります。

子どもには保育園に行きたくない事情があるわけです。親と離れたくないとか、友だちにいじめられるとか、いやな保育士がいるとか。
親にも子どもに保育園に行ってほしい事情があります。
子どもの行きたくないという気持ちと、親の行ってほしいという気持ちをぶつけ合うと、気持ちの強いほうが勝って、気持ちの弱いほうは譲ることになります。
これが正しい妥協です。
譲ってもらったほうは借りができたので、いずれの機会に借りを返そうとします。
そうして互いに思いやりのある関係が築けます。
親が一方的に命令し、叱っていたのでは、まともな人間関係にはなりません。

夫婦も互いに気持ちをぶつけ合っていけば、正しい妥協ができて、仲良くやっていけるはずです。


家族関係に上下があるのは家父長制の家族です。夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配するというのが家父長制です。

家父長制でない本来の親子関係はどんなものでしょうか。
文化人類学の古典とされるブロニスロウ・マリノウスキー著『未開人の性生活』にはこのような記述があります。

トロブリアンド島の子供は、自由と独立を享受している。子供達は早くから両親の監督保護から解放される。つまり正規のしつけという観念も、家庭的な強制という体罰もないのである。親子間の口論をみると、子供があれをしろ、これをしろといわれている。しかしいつの場合も、子供に骨折りを頼むという形でなされており、トロブリアンドの親子間には単なる命令というものは決してみられない。


日本でも江戸時代までは、庶民階級では子どもはたいせつにされ、少なくとも体罰はありませんでした。
明治時代になると武士階級の制度であった家父長制が民法によって国全体の制度となり、夫婦も親子も上下関係となりました。
戦後の日本もまだ家父長制を引きずっています。

愛情で結びついた家族には、上下関係はありませんし、命令も強制もありません。
つい子どもを叱ってしまうという親は、命令や強制で子どもを支配しているのです。


「子どもを叱りすぎてしまう」という悩み相談に対して、子育ての専門家はたいてい「子どもが納得いいくように話し合いをしましょう」とか「感情的に叱ってはいけません」などとアドバイスしますが、叱ることそのものを否定する人はめったにいません。
しかし、「叱らない教育」は平井信義(1919年―2006年)が1970年代から唱えていて、そんな特殊なものではありません。
子どもを尊重していれば命令、強制、叱責などはできないはずです。

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家庭で虐待された少女の支援活動をしている一般社団法人「Colabo」の会計に不適切なところがあると指摘されたことがきっかけで、ネット上で大きな騒ぎになっています。
都に住民監査請求をしてこの問題に火をつけた「暇空茜」を名乗る人物はインタビュー記事で「もはやこれはネット界における『大戦』です。ロシアとウクライナの戦争と同じで、話し合いなど通用しない」と言いました。

Colaboには東京都が21年度に2600万円の支援金を支出しているので、公金の問題であるのは事実です。しかし、上のインタビュー記事を見てもわかりますが、不適切な支出といってもそれほどのことではありませんし、そもそも一社団法人の問題です。それがなぜ大騒ぎになるのでしょうか。


家庭で虐待されて逃げ出した少女は、そのままだと犯罪の被害者になりかねません。Colaboはとりあえず少女を救う小規模なボランティア活動から始まりました。
ボランティア活動や慈善活動などをする人は、とりわけネットの世界では「偽善」とか「売名」とかの非難を浴びせられます。若いころから被災者援助や刑務所慰問などをしてきた杉良太郎氏などは、あまりにも非難されるので、自分から「偽善で売名ですよ」などと開き直っています。
ですから、もともとColaboを「偽善」だと非難したい人たちがいて、会計不正疑惑が生じたことで一気に表面化したということがあるでしょう。

それから、Colabo代表の仁藤夢乃氏はメディアに登場することも多く、フェミニスト活動家と見なされていて、Colaboを支援する人たちもフェミニストが多いようです。
それに、Colaboが援助の対象とするのは少女だけです。
こうしたことから男とすれば、フェミニストたちが勝手なことをやっているという印象になるのかもしれません。

しかし、救済するべき少年少女は多数いて、Colaboの力は限られていますから、救済の対象を限定するのはしかたないことです。
むしろ問題は、少年を救済するColaboのような組織がないことです。

フェミニズムというと、どうしても男対女ということになりますが、Colaboの活動は子どもを救済することですから、おとな対子どもととらえるべきです。
そして、おとな対子どもには大きな問題があります。


日本の自殺は全体として減少傾向ですが、子どもの自殺は増加傾向で、とりわけ2020年度の全国の小学校、中学校、高校の児童生徒の自殺は415人と、19年度の317人と比べて31%の大幅な増加となりました。
子どもの自殺というと、学校でのいじめが自殺の原因だというケースをマスコミは大きく取り上げますが、実際はいじめが原因の自殺はごく少数です。
自殺の原因の多くは家庭にあります。コロナ禍で休校やリモート授業が増えた中で自殺が増えていることからもそれがわかるでしょう。

家庭で虐待された子どもは家出やプチ家出をします。児童養護施設などはなかなか対応してくれませんし、子どももお役所的な対応を嫌います。
泊まるところのない少女は“神待ち”などをして犯罪被害にあい、少年は盛り場をうろついて不良グループに引き込まれ、犯罪者への道をたどるというのがありがちなことですし、中には自殺する子どももいます。
ですから、子どもの自殺を防ぐには、虐待されて家庭にいられない子どもの居場所をつくる必要があります。私は「子ども食堂」があるように「子ども宿泊所」がいたるところにあって、家で煮詰まった子どもが気軽に泊まれるようになっていればいいと考えました。そうすればとりあえず自殺は防げますし、深刻な状況の子どもを宿泊所を通して行政の福祉につなげることもできます。そういうことを、私は「子どもの自殺を防ぐ最善の方法」という記事で書きました。

そのとき調べたら、家出した子どもに居場所を提供する活動をしているのはColaboぐらいしかありませんでした。ほかにないこともないでしょうが、少なくともColaboは先駆者であり、圧倒的に存在感がありました。

ですから、Colaboみたいな組織がもっともっと必要なのです。
Colabo批判は方向が逆です。


ところが、「家庭で虐待された子どもを救済する」ということに反対し、足を引っ張ろうとする人がいます。
どんな人かというと、要するに家庭で子どもを虐待している親です。

幼児虐待というと、マスコミが取り上げるのは子どもが親に虐待されて死んだとか重傷を負ったといった事件だけです。
こうした事件は氷山の一角で、死亡や重傷に至らないような虐待は多数あります。
2020年度に全国の児童相談所が相談対応した件数は約20万5000件でした。しかし、この数字もまだまだ氷山の一角です。

博報堂生活総合研究所は子どもの変化を十年ごとに調査しており、2017年に発表された「こども二十年変化」によると、「お母さんにぶたれたことがある」が48.6%、「お父さんにぶたれたことがある」が38.4%でした(小学4年生から中学2年生の男女800人対象)。その十年前は、「お母さんにぶたれたことがある」が71.4%、「お父さんにぶたれたことがある」が58.8%で、さらにその十年前は「お母さんにぶたれたことがある」が79.5%、「お父さんにぶたれたことがある」が69.8%でした。つまり昔はほとんどの子どもが親から身体的虐待を受けていたのです。

最近は体罰批判が強まり、身体的虐待はへってきましたが、心理的虐待はどうでしょうか。
心理的虐待は客観的判断がむずかしいので、アンケートの数字で示すことはできません。
子育てのアドバイスでよくあるのは「叱るのではなく、ほめましょう」というものです。また、子育ての悩みでよくあるのが「毎日子どもを叱ってばかりいます。よくないと思うのですが、やめられません」というものです。
こうしたことから子どもを叱りすぎる親が多いと思われます。
きびしい叱責、日常的な叱責は心理的虐待です。

これまでは体罰もきびしい叱責も当たり前のこととされ、幼児虐待とは認識されませんでした。
ですから、家出した子どもは警察が家庭に連れ戻しましたし、盛り場をうろついている子どもは少年補導員がやはり家庭に連れ戻しました。
社会全体で虐待の手助けをしていたわけです。

そうしたところにColaboが登場し、虐待された子どもを虐待された子どもとして扱うようになりました。
これは画期的なことでした。
そして、虐待していた親にとっては不都合なことでした。
これまでは虐待した子どもが家から逃げ出してもすぐに連れ戻されて、なにごともなかったのに、今は逃げ出した子どもはどこかで保護され、子どもが逃げ出したのは家庭で虐待されからだとされるようになったからです。
ですから、虐待している親、虐待を虐待と思っていない人たちは前からColaboに批判的で、会計不正疑惑をきっかけにそういう人たちがいっせいに声を上げたというわけです。


虐待のある家庭を擁護する勢力の代表的なものは統一教会(現・世界平和統一家庭連合)です。
統一教会の信者の家庭の多くは崩壊状態で、子どもには信仰の強制という虐待が行われています。しかし、創始者の文鮮明が「家庭は、神が創造した最高の組織です」と言ったように「家庭をたいせつにする」ということが重要な教義になっていて、最近は家庭教育支援法の制定に力を入れています。
「家庭をたいせつにする」という点では自民党も同じで、安倍晋三元首相も家庭教育支援法の制定を目指していました。
統一教会や自民党にとっての「家庭」というのは、親と子が愛情の絆で結ばれている家庭ではなくて、親が子ども力で支配している家庭です。
これを「家父長制」といいます。

今、Colabo問題が大きな騒ぎになっているのは、家父長制を守ろうという勢力と、家父長制を解体して家族が愛情の絆で結ばれる家庭を再生しようという勢力がぶつかり合っているからです。
そういう意味ではまさに「大戦」です。
これは政治における最大の対立点でもあります。


なお、こうした問題をとらえるにはフェミニズムだけでは不十分です。
家父長制は男が女を支配する性差別と、おとなが子どもを支配する子ども差別というふたつの差別構造から成っています。
フェミニズムは性差別をなくして女性を解放しようという理論ですから、それに加えて、子ども差別をなくして子どもを解放しようという理論が必要です。
たとえば母親が男の子を虐待するというケースはフェミニズムではとらえられません。

幼児虐待、子育ての困難、学校でのいじめ、登校拒否などの問題も「子ども差別」という観点でとらえることができます。
そうした観点があれば、幼児虐待から子どもを救うColaboのような運動に男性も巻き込んでいくことができるはずです。

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自民党と統一教会は、昔は反共主義でつながっていましたが、今は家族観でつながっています。

では、自民党の家族観はどういうものかというと、少なくとも自民党保守派においては、要するに家父長制を理想とする家族観です。
家父長制というのは、家長が権力を持って家族を統率する制度とされますが、家庭内に身分制があると考えるとわかりやすいでしょう。夫が妻より上で、男の子が女の子より上で、同じ男の子でも年長者が上というように、まるで軍隊のように上下関係が定められた家族です。
ですから、父親は家の中でふんぞり返って、妻には一方的に命令し、子どもにはげんこつを食らわして、わがままのし放題でした。
実際、昔は今よりもDVが横行していました。

自民党の男たちは今でもそういう家父長制がいいと思っているのですが、「家父長制」という言葉は使わずに、「昔は家族の深い絆があった」というふうに言います。
しかし、だんだんと説得力がなくなってきました。

そこで登場したのが、科学的な装いで家父長制を正当化しようという「親学(おやがく)」です。


親学を創始したのは高橋史朗麗澤大学客員教授です。2001年に「親学会」を発足させました。
高橋氏は、オックスフォード大学のジェフェリー・トーマス学長が「学校でも大学でも教えていないのは、親になる方法だ」と発言したことに触発されたと言っています。
もっとも私は、トマス・ゴードン著『親業』という本に触発されたのではないかと疑っています。
この本が日本で1980年に出版されたときは、「親業(おやぎょう)」という言葉にひじょうなインパクトがありました。
「親業」というのは、子育てに悩む親のためのトレーニング法で、傾聴と受容というカウンセリングの技法を学ぶことで子どもとよいコミュニケーションをとれるようにしようというものです。
親業は親学とは真逆のものなので、混同してはいけません。

2006年には親学推進協会が設立され、2009年には一般財団法人として登記されます。講演会や研修会を通しての親学の普及、親学アドバイザーという資格の認定などの活動を行ってきました。

ところが、改めて親学推進協会のホームページを見ると、協会の解散が告知されていました。今年解散したということです。
告知には「当協会は、一般財団法人に関する法律に定めるところの財団法人維持の為の諸条件を満たすことが叶わず、解散手続きに入らざるを得なくなりました。これは理事会の力不足が招いたことと深く反省しております」とあります。
調べると、「2期連続で純資産の額が300万円未満となった一般財団法人は解散」という法的規定があるので、それが解散事由のようです。
講演活動などの収入のほかに協賛企業からの寄付などもあるはずなので、不可解なことではあります。
ただ、今後のことについては『一般財団法人としては解散を致しますが、新たにNPO法人を設立し、「親学」を推進する予定です』とあります。


親学関連本はいろいろありますが、おそらくもっとも重要なのは2004年出版の『親学のすすめ』(親学会編・高橋史朗監修)と思われるので、この本に基づいて親学について論じたいと思います。

この本は7人の筆者が分担執筆していますが、「まえがき」と最後の第8章、第9章は高橋氏が執筆していて、高橋氏がまとめ役であることがわかります。
高橋氏以外の執筆者の書くことは、子どもの発達の科学的研究についてや、子育てについてのアドバイスなどで、そこにはそんなにおかしなことは書かれていませんし、むしろ共感できることが多々ありました。
おそらくほかの親学関連本にもそうした評価すべき部分はあると思われます。
しかし、親学は高橋氏が中心になって推進する政治運動、社会運動なので、その中にいるとその色がついて見られるでしょう。まともな専門家、学者は親学に関わることを考え直したほうがいいと思われます。

では、高橋氏の思想はどういうものかというと、第8章の冒頭はこうなっています。
現在、「家庭教育はいかにあるべきか」という社会的なコンセンサスが失われており、家庭での教育力が著しく低下しています。
私は家庭教育の話をするときに、「しっかり抱いて、下に降ろして、歩かせろ」と必ず話すのですが、三十代以下の学校の先生も親も、その言葉自体を知らないのが現状です。
日本人には日本人独特の「文化の遺伝子」があり、それが綿々と受け継がれているはずです。その「文化の遺伝子」が現在はうまく継承されておらず、スウィッチ・オフの状態になっていることが子供たちの心の荒廃、アイデンティティーの危機の根因であり、家庭の教育力の低下、家族の機能不全の要因になっているのではないかと思っています。

現在は家庭の教育力が低下している――というのはよく言われることですが、根拠がなく、「昔はよかった」と同じです。
それから、日本人独特の文化について述べていますが、幼児の発達に国や民族の違いはありません。正しい子育ては万国共通のはずです。現にアメリカの『スポック博士の育児書』は日本でもベストセラーになりました。
高橋氏は保守思想の持ち主なので、日本独自の文化にこだわって、むりやり子育てにも持ち込もうとしているのです。

ともかく、高橋氏は自分の思想の正当性を主張したいがために、平気で論理をねじ曲げます。

「桃から生まれた桃子」(神奈川県・市町村女性行政連絡会発行)という話があるそうです。桃太郎の話を男女逆転させて、おじいさんは川へ洗濯に、おばあさんは山へ柴刈りに、という話です。もとの話を知っている子どもたちにこの話をして、感想を求めたところ、「おじいさんはずるい」と書いた子がいたそうです。その子どもになぜずるいと思うのかと聞くと、柴刈りは楽な仕事で、おじいさんはおばあさんに今までたいへんな洗濯ばかりやらせていたからだと答えたそうです。
高橋氏はこのことから「洗濯はいやな仕事で、柴刈りは楽な仕事だと思わせてしまう教育が存在するということが分かります」と書いています。
こうしたジェンダーフリーの教育はけしからんというのが高橋氏の主張です。

しかし、この部分をよく読むと、「おじいさんはずるい」と書いた子は一人だけのようです。
たった一人、ちょっと変わった感想を書いた子がいただけで、それを根拠にジェンダーフリー教育をすべて否定するという論法になっています。

高橋氏は性教育についても同じ論法を使用します。
例えば国立市の小学校一年生の三クラスでは、児童に両性具有の性器について教えましたが、子供は混乱しました。まず基礎を教えて、例外を教えるのが順序のはずですが、一年生がいきなり両性具有と聞いたら、なんのことであるのか分からないはずです。
(中略)いきなり特殊な例を教えるのはなぜかというと、男でもない女でもない人間がいるということを刷り込もうというねらいがあるわけです。男でもない女でもない存在を知らせることによって、男と女という固定的な役割分担意識を解消していこうというねらいです。急進的性教育とジェンダーフリー教育の目的はこの点で一致しているのです。
両性具有の性器について教えたり、性交人形で性交指導をすることが、どのような影響を与えるかを十分に検討することなく、いわば見切り発車してしまっているのです。子供に悪影響が出た場合にいったい誰が責任を取るつもりなのでしょうか。
実際、いくつかの県で小学校六年生の女の子が「性交ごっこ」で妊娠するという事件も起きています。四年生で妊娠したという例もあるのです。性交教育の授業が実践されて、妊娠という事態が起きてしまったのです。

児童に両性具有の性器について教えたといいますが、これも「国立市の小学校一年生の三クラス」だけのことです。
小学生が妊娠したのも数例のようです。それらの例と性教育との因果関係がわかっているのでしょうか。おそらくわかっていないはずです。今は性の情報があふれているので、そちらとの因果関係が否定できません。

高橋氏は自分の主張を押し通すために論理をねじ曲げますが、それだけではありません。「脳科学」を利用します。
高橋氏は「私の問題意識のポイントの一つは、『脳科学』から『親学』をどのようにとらえていくかということです」と書いています。
ところが、脳科学界の定説や最近の趨勢から親学を論じるのではなくて、脳科学者の説の都合のいい部分だけを利用します。

たとえばこんな具合です。

澤口俊之教授は、五百万年のヒト進化の歴史から「父親の役割」を研究すると、家庭の安定化を図り、子供に社会的規範を植え付けることであったと述べています。脳科学によって明らかにされた父親と母親の役割を否定するジェンダーフリーの主張はまったく根拠のないものです。

澤口俊之教授は「ホンマでっか!?TV」によく出演している脳科学者ですが、最近は教育についての本をよく書いていて、『発達障害を予防する子どもの育て方』という本は「発達障害は予防できるのか」と物議をかもしました。
この短い文章からはどうやって「父親の役割」を研究したのかわかりませんが、いずれにしても、一人の脳科学者の説を科学的真実と見なすという論法を使っています。

ほかにも「脳トレ」シリーズで有名な川島隆太教授や、『ゲーム脳の恐怖』という著書のある森昭雄教授の説などが引用されますが、自説の箔づけに使っているという感じです。

しかも、微妙に意味を変えています。とくに「母親」という言葉には注意が必要です。

「脳科学と教育研究」ワーキンググループの小泉英明氏((株)日立製作所)は、平成十四年七月十一日に開催された自民党文部科学専任部会において、「フランスとの共同研究では、胎児が母親のおなかの中で、言葉の学習を始めたり、生後五日以内の新生児も言葉を認識することが分かっている。教育は幼いころから始めることが重要である」と指摘しています。
   ※
ユニセフ(国連児童基金)の二〇〇一年『世界子供白書』には、次のように明記されています。
(中略)
母親が手のひらで隠していた顔を突然のぞかせたとき、強い期待をもって見つめていた赤ちゃんが喜びの声をあげるのを見たことがあるだろうか。この簡単に見える動作が繰り返されるとき、発達中の子どもの脳のなかの数千の細胞が数秒のうちにそれに反応して、大いに劇的に何かが起こる。脳細胞の一部が「興奮」し、細胞同士をつなぐ接合部が強化され、新たな接合が生まれる。
   ※
脳科学の専門家で、日本大学の森昭雄教授の『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版)によれば、赤ちゃんの脳発達は母親の接し方によって非常に大きく左右され、三歳ごろまでにニューロン(神経細胞)の樹の枝のように伸びている樹状突起がさまざまなニューロンと連絡するようになり、脳内の神経細胞と神経細胞の接点(シナプス)がこの時期の母親からの刺激によって次から次へと形成されて、脳全体が急激に増殖し、八歳ごろまでに九〇%の成長を遂げるといいます。
胎児と母親の関係は変えるわけにはいきませんが、「いないいないばあ」をするのは母親でも父親でもいいはずですし、赤ちゃんの脳発達も母親と接するのでなければならないということはないはずです。

ところが、高橋氏はこれらのことから「つまり、脳科学の最新の研究成果から『三歳児神話』は決して根拠のない『神話』ではなく、母親による家庭保育の重要性は多くの科学的研究によって証明されているのです」と書きます。
「母親による家庭保育の重要性」と書くと、「父親による家庭保育」は重要でないということになるでしょう。
高橋氏の主張では、父親が母親に代わって子どもの世話をすると、脳の発達が遅れることになりそうです。

家父長制のもとでは、父親と母親の役割や立場は明確に区別されていたので、父性と母性の違いも明確でした。しかし、男女平等になり、父親の育児参加が行われるようになると、父性と母性の区別は無意味になりました。
しかし、高橋氏は家父長制の立場なので、どうしても父性と母性を区別しなければならず、むりやり脳科学に根拠を求めたのです。

家父長制では親と子も上下関係になります。子どもは一方的に親に従うだけです。
そうした考えも高橋氏は書いています。

私は家庭教育、例えば三歳児まではやはり親のしつけが絶対に必要だと思います。つまりそれは他律です。子供の興味関心に従ってしつけをするわけではありません。とりわけ三歳ぐらいまではいわば強制です。この他律や強制ということから家庭教育がスタートして、だんだん自律に導いていくのが教育です。

馬脚を現すとはこのことでしょうか。この考え方はそのまま幼児虐待につながります。
親学は子どもをたいせつにするものでもなんでもなく、おとなが勝手な主張を並べ立てるだけのものだったのです。
親学の運動に参加している人の多くは子どものためという気持ちがあるでしょうが、親学の内実はそうではないということを知らねばなりません。

親学といえば、「発達障害は予防できる」という主張で炎上したことがあります。脳科学を都合よく利用してきた報いです。

一方で、高橋氏は宗教も利用しています。
「神さまが男と女を創ったということは、『男』であること、『女』であることを含み込んだ個性に意味があるからなのです」などと書いています。
また、人間は膨大な数の遺伝子の調和によって生きており、その背後には人知を超えた「サムシング・グレート」があるとも言っています。「サムシング・グレート」というのは、アメリカの保守派が神の代わりに持ち出す「インテリジェント・デザイン」みたいなものです。

自民党の保守派、アメリカの保守派、統一教会、親学――みな家父長制、宗教、非科学でつながっています。

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ジャーナリストの伊藤詩織氏が杉田水脈総務政務官を名誉毀損で訴えた裁判の控訴審で、東京高裁は杉田氏に55万円の支払いを命じる判決を下し、伊藤氏の逆転勝訴となりました。
ツイッター上で伊藤氏を誹謗中傷する投稿に杉田氏が「いいね」を25回にわたって押していたことが名誉棄損に当たるかどうかが争点でした。
この判決については、「いいね」だけで名誉棄損になるのかという声とともに、安倍元首相が亡くなると裁判所も忖度をやめるのかという声が上がっていました。

ともかく、杉田氏は伊藤氏に対して同じ女性でありながらセカンドレイプみたいなことをしていたわけです。
杉田氏はこれだけではなく、女性とは思えない発言を再三しています。

2020年9月、杉田氏は自民党の会合で、女性への暴力や性犯罪に関して「女性はいくらでも嘘をつけますから」と発言しました。
自身が女性なのですから、なんともおかしな発言です。

2014年には衆院本会議での質問で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と発言したこともあります。
男女平等を否定するとは、男尊女卑思想なのでしょう。

女性の発言としてはありえないものですが、こうした発言を歓迎する男は少なくありません。
とりわけ自民党は父権主義的、家父長的な政党ですから、党内の出世に有利に働くはずです。
現に杉田氏は、最初は日本維新の会の衆議院議員だったのですが、落選したあと安倍元首相の引きで自民党に入り、岸田内閣においては総務政務官に就任しました。

高市早苗経済安全保障担当大臣は、夫婦別姓反対、女性天皇反対を表明し、やはり自民党の父権主義的、家父長的価値観に合わせています。
そのおかげかどうか、高市氏は政調会長を二度、内閣府特命担当大臣、総務大臣などを歴任してきました。

自民党の女性議員の一見不合理な主張は、自民党内の力学を考えると、合理的なものと見なせます。


タレントのフィフィさんはツイッターなどで典型的な保守派の主張を発信していますが、夫婦別姓については賛成であるようで、男と女の問題については常識的な人なのかと思っていました。
しかし、次のツイートは妙に女性にきびしいようです。

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愚痴を言う主婦にきびしいことを言っていますが、この場合の主婦は専業主婦のことです。
この前に次のツイートがあって、それでわかります。

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最初に「専業主婦の労働を時給にすると1,500円」というツイートにかみついて、それに対して専業主婦叩きではないかと批判されて、その反論をしたという流れです。
いずれにしても「愚痴を言う専業主婦」を攻撃しています。

フィフィさんはタレント及び保守派文化人としてやりがいのある仕事をしています。
愚痴を言う専業主婦なんか相手にする必要はないし、むしろ同情してもいいくらいです。
保守思想は「男は仕事、女は家事」という家族をたいせつにするので、専業主婦叩きは保守思想とも矛盾します。
フィフィさんの頭の中はどうなっているのでしょうか。


ウィキペディアによると、フィフィさんは2001年に日本人男性と結婚し、2005年に男児を出産したということです。
つまり自分は主婦業と仕事の両方をやってきたのに、主婦業だけの女性が愚痴を言うのはけしからんということでしょう。
これは感情としては理解できます。自分が苦労してきたのだから、他人や次の世代も同じ苦労をするのは当然だという理屈です。
姑の「嫁いびり」がこの心理です。
学校の運動部で不合理な練習のやり方がずっと継承されていくのも同じです。

しかし、心理としてありがちだとしても、「自分が苦労したから他人や次の世代も同じ苦労をするべきだ」という考え方では世の中が進歩しません。明らかに間違った考えです。
とりわけ世の中に向かって発信してはいけません。


フィフィさんはどうして間違った発信をしたのでしょうか。

フィフィさんは腹を立てる相手を間違えたのです。
フィフィさんは「家事も育児も独りでやって、さらに外で働いている私」とか「私はワンオペで家事育児と仕事をしている“主婦”」と書いています。
つまり夫は家事育児をまったく手伝っていないのです。
夫婦共働きで夫が家事育児をまったくしないというのは、どう考えても不当です。フィフィさんは夫に不当な扱いをされてきたのです。
フィフィさんは夫に怒りを爆発させて当然です。

ところが、「私の役目としてやっているので」と書いているので、フィフィさんは不当とは思っていないわけです。
しかし、不当な扱いに対する怒りは蓄積されてきました。
その行き場のない怒りが「愚痴を言う専業主婦」に向かったのです。
攻撃されたほうはいい迷惑です。


なぜフィフィさんは「ワンオペの家事育児」を「私の役目としてやっている」と思うのかといえば、フィフィさんの拠りどころである保守思想がそういうものだからです。
「男は仕事、女は家事」という家庭が保守派の理想です。フィフィさんは外で働いているので理想から外れました。その償いをするためにも必死で「女は家事」という役目を果たしてきたのでしょう。
しかし、心の底では納得していませんでした。


フィフィさんは自分の心の底にある怒りを自覚して、ワンオペで家事育児をやってきたことに対する不満を夫に対して主張するべきです。
そうして新しい夫婦関係、家族関係を追求することで、また新しい言論活動が展開できます。
それはフェミニズムと言われることになるでしょうが。

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統一教会は1994年に名称を「世界平和統一家庭連合」に変えました。
この名称変更自体にも問題がありますが、それは置いておいて、「家庭」をたいせつにするという意味がこの名称には込められているでしょう。
ところが、統一教会は信者に多額の献金を強要して、そのため山上徹也容疑者の家庭は崩壊してしまったのですから、皮肉なものです。

自民党も家庭や家族をたいせつにする政党です。
夫婦別姓に反対する理由として、「家族の絆が弱まる」とか「家庭の一体感が失われる」ということを挙げるので、家族の絆や家庭の一体感をたいせつにしているはずです。
自民党の日本国憲法改正草案にも「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」とあります。
来年4月に新設される予定の「こども家庭庁」も、一時は「子ども庁」という名称になるはずでしたが、「家庭」の文字が加えられました。

「子ども庁」を「こども家庭庁」にするべきだということは統一教会も主張していました。そして、国際勝共連合ホームページで『心有る議員・有識者の尽力によって、子ども政策を一元化するために新しく作る組織の名称が「こども庁」から「こども家庭庁」になりました』と、自分たちのロビー活動の成果であるかのように書いています。

安倍晋三元首相は昨年9月に天宙平和連合(UPF)のイベントにビデオメッセージを送り、それを見た山上徹也容疑者が銃撃事件を起こすきっかけになったとされますが、そのビデオメッセージでは統一教会教祖の韓鶴子総裁に「敬意を表します」と述べただけではなく、「UPFの平和ビジョンにおいて家庭の価値を強調する点を高く評価いたします」とも述べています。

つまり統一教会も自民党も「家庭・家族をたいせつに」と主張して、そこが共通点となっています。
昔は「反共」という点で統一教会と自民党は結びついていたのですが、今は「反共」ということはあまり意味がなくなりました(もっとも、勝共連合のホームページでは今でも大々的に反共を主張しています。国民民主党や維新の会が共産党との共闘を拒否したことと関係あるでしょうか)。


「家庭・家族をたいせつに」と言われて反対する人はあまりいません。
しかし、家庭にも「よい家庭」と「悪い家庭」があります。それを区別しないと混乱します。

統一教会が理想とする家庭はどんなものでしょうか。
統一教会といえば合同結婚式が有名です。
最近の若い人は合同結婚式のことを知らないかもしれないので説明すると、単に合同で結婚式をするということではありません。教祖が結婚相手を決めて、結婚式参加者は教祖の決めた、一度も会ったことのない相手と結婚するのです。教祖はすべてを見抜いて、最善の相手を選ぶのだとされます。

自分が決めたのでない相手と結婚するということに驚く人もいるかもしれませんが、昔はむしろ普通のことでした。親が息子娘の結婚相手を決めて、息子娘は一度も会ったことのない相手と結婚することがよくありました。
統一教会では教祖が親に当たるのでしょう。

帝国憲法下では、結婚には戸主の同意が必要で、さらに男は30歳、女は25歳になるまでは親の同意も必要でした。ですから、好き合った相手と結婚できるのは、理解のある戸主や親に恵まれた場合だけです。そのため駆け落ちがしばしば行われ、心中という悲劇もありました。
妻は法的には無能力者の扱いで、財産権もなく、重要な法律行為をするときはつねに夫の同意が必要でした。

戦後憲法になってなにが変わったかというと、国民主権や戦争放棄や象徴天皇制もそうですが、国民生活にとっていちばん大きかったのは家族制度の変化でしょう。親の許可なしに「両性の合意」のみで結婚できるようになり、「駆け落ち」は死語となりましたし、妻も夫と同等の権利を有するようになりました。

しかし、家族についての認識というのは、憲法や法律が変わったからといって急に変わるものではありません。そのため、現在にいたっても、親が子どもの結婚を妨害したり、親の望む相手と結婚させようとしたりすることはよくあります。
夫婦の関係もまだまだ対等とはいえません。
ですから、古い家族観と新しい家族観が葛藤しているのが今の状況です。

帝国憲法の古い家族制度を「家父長制」といいます。
自民党や統一教会が理想としているのも家父長制です。
自民党は「家族の絆を守る」という言葉で家父長制を守ろうとしています。


古い家族観は家父長制ですが、では、新しい家族観はなんというかというと、名前がありません。
大家族、核家族、三世代家族、単身家族、同性カップルなどという言葉はすべて家族の(外見の)形態をいったものです。
家父長制というのは、外見ではなく、目に見えない権力関係のことです。

これまで家父長制を論理的に批判してきたのはフェミニズムです。フェミニズムは男性が女性を支配する家族として家父長制を批判してきました。
しかし、家父長制は男性が女性を支配しているだけではありません。親が子を支配している面もあります。
親は子どもを一方的にしつけ・教育をし、進学、就職、結婚にまで口を出すということが行われています。

民法第822条には、親権者は子どもを懲戒することができるという「懲戒権」の規定があり、これが幼児虐待の原因になっていると批判されてきましたが、自民党はずっと懲戒権の削除に反対してきました(ようやく今年秋以降に削除される見込み)。
親殺しを特別に重罪とする刑法第200条の「尊属殺人」の規定は、1973年に最高裁によって違憲とされましたが、自民党は規定を削除することを拒み続け、ようやく1995年の刑法大改正のときに削除されました。
つまり自民党は家父長制が夫が妻を支配するだけでなく、親が子を支配する制度であることを理解して、それを守ろうとしてきたのです。

したがって、家父長制を批判するときは、女性の人権と子どもの人権の両面から批判する必要がありますが、これまでは女性の人権からの批判しかなく、そのため批判があまり有効に機能していませんでした。
たとえば自民党の家族政策の理論的ささえになっているのが「親学」ですが、親学を批判するにも子どもの人権という視点が欠かせません。


統一教会は「子どもの人権」がキーワードになることを理解していて、あらかじめ防御線も引いています。
国際勝共連合のホームページの「【こども家庭庁】家庭再建を軸にした子供政策を」という記事は、「子ども庁」という名称を批判して、このように書いています。

象徴的なのが「子ども庁」という名称それ自体だ。当初は「子ども家庭庁」という名称だったが、被虐待児にとって家庭は安全な場所ではないという理由で「家庭」の文字が削除されてしまった。

この論法は明らかにおかしい。

 被虐待児にとって忌避されるべきは、虐待を生み出した歪な家庭環境であって、「家庭」そのものではない。

 むしろ、彼らにとって必要なのは、親代わりとなって自らを愛情で包んでくれる新しい「家庭」だ。

子供の成育における父母や家庭の役割を軽視する左翼系の活動家が、武器として用いるのが「子どもの権利条約」だ。活動家らは同条約によって子供が「保護される対象」から「権利の主体」に変わったと主張する。

実は、この条約には当初から拡大解釈を懸念する声が上がっていた。西独(当時)は批准議定書に「子どもを成人と同等の地位に置こうというものではない」と明記し、米国に至っては「自然法上の家族の権利を侵害するもの」として批准しなかった。

日本では、増え続ける虐待や子供の貧困をひきあいに「子どもの権利」を法律に書き込んでいないことが問題だと短絡的に考えられている。

しかし、虐待が起こるのは子供の権利が法律に書き込まれていないからではない。夫婦や三世代が一体となって子供を愛情で包み込む家庭や共同体が壊れているからだ。

 子供政策は、家庭再建とセットで考えるべきである。

 当然、憲法改正においても、家族保護条項の追加は欠かせない。
 
(「世界思想」1月号より )

家父長制の復活が幼児虐待を防ぐようなことを言っていますが、実際は逆で、家父長制のもとで幼児虐待が生じます。
そもそも教祖の命じる通りに結婚しろと教え、多くの家庭を崩壊させている教団の言うことがまともであるはずがありません。

なお、「自然法上の家族の権利」という言葉が出てきますが、未開社会の家族には上下関係がありません。
家父長制は家庭内に上下の序列がある制度で、文明的なものです。こうした中でDVや幼児虐待が起きます。


「こども家庭庁」という名称になったときには、俳優の高知東生氏が「すでに家庭が崩壊していたり、機能する見込みもなく、安全性が確保できない家庭の『こども』を『家庭』という檻から助けて欲しいだけ」とツイートして共感を呼びました。


統一教会や自民党が理想とする家庭は家父長制の家庭です。
家父長制では、すべての家族に上下の序列がつけられ、支配・被支配の関係となります。
すべての家族が対等になり、愛情で結ばれるのが本来の家庭です。

家父長制の家庭か、愛情で結ばれた家庭かということが、今の政治の最大の争点です。

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「成長なくして分配なし」か「分配なくして成長なし」かという議論がありますが、ニワトリが先か卵が先かみたいにバカげています。
30年間ほとんど成長しなかった国ですから、どちらにしても成長するわけがありません。
成長したいなら、今までにない成長戦略が必要です。

私は、防衛費を大幅に削減して、その分を文教科学振興費に回すというやり方しか有効な成長戦略はないということを「防衛費という『聖域』」という記事に書きました。
辺野古埋め立てとか陸上イージスとかにお金をつぎ込んでいるから日本経済はだめになるのです。

ほかのやり方があるとすれば、外国人労働者を大量に入れることです。
しかし、このやり方は、経営者、株主には利益になりますが、日本人労働者には不利益になるので、その損得を見極めないといけません。

それにしても、一国の経済が30年も停滞するというのは尋常なことではなく、経済政策以外のことも考えないといけません。
藻谷浩介氏は『デフレの正体』において、少子化で労働力人口が減少していることが停滞の原因だと指摘して、説得力がありました。
私はそれ以外に、教育の問題も指摘したいと思います。


「デジタル敗戦」「デジタル後進国」という言葉があって、日本は行政も企業もデジタル化の波に乗り遅れているとされます。日本の行政はいまだにファックスを使っているというので世界中からあきれられました。
文科省は小中学校でプログラミング教育を始めましたが、デジタル強国になるには教育から変えていかねばという考えでしょう。

ところが、日本ではずっと文科省の方針として、小中学校ではスマホの学校への持ち込みが禁止されていました。
やっと2020年に中学校で条件付き持ち込み容認となり、小学校では「原則禁止とはするものの、条件によっては持ち込んでもよしとする」ということになりました。

スマホやPCを使いこなすITリテラシーは、幼いころからやったほうが身につくものです。
台湾のIT担当相であるオードリー・タン氏は幼いころからPCに興味を持ち、8歳から独学でプログラミングを学び始めたということです。
学校で禁止されても家庭で使うことはできますが、学校で禁止されていることを理由に親が子どもにスマホを持たせないというケースもあるでしょう。
文科省は子どものITリテラシーを阻害するようなことをしてきたのです。

文科省はプログラミング教育をする前に、子どもにスマホやタブレットの教室持ち込みを奨励するべきです。授業でわからないことやもっと詳しく知りたいことがあれば、スマホですぐに調べることができて、学力向上にも役立ちます(スマホを買えない家の子がかわいそうだという声がありそうですが、低いレベルで平等にするのは間違っています)。


香川県はネット・ゲーム依存症対策条例を制定し、18歳未満の子どもがゲームをすることを規制しています。
これは文科省の方針ではありませんが、子どもがゲームすることを規制している親は全国的にいっぱいいるでしょう。
「スマホ脳」「ゲーム脳」といった言葉に影響されているのかもしれません。

将棋の藤井聡太四冠は、5歳で将棋を覚えて、たちまちはまりました。おそらく“将棋脳”になっているはずですが、見たところ藤井四冠の人格に問題があるということはまったくありません。

夢中でゲームをやれば集中力が養われます。だらだら勉強していたのでは、集中力は身につきません。

ゲーム業界の市場規模は約2兆円で、高い成長率があります。
日本経済のためにもゲーム業界を担う人材を育てるべきなのに、逆行しています。

ちなみに音楽業界の市場規模は約2700億円です。
ゲームには物語、ビジュアル、音楽などの要素があって、今後クリエイティブな仕事をしたい人はゲーム業界を目指すのが現実的です。
ゲーム機は実質コンピュータなので、幼いころからゲーム機の操作に習熟すると、PCやスマホの操作にも役立ちます。
親は子どもの将来を考えたら、安易にゲームを禁止することはできないはずです。

日本がデジタル後進国になったのは、子どもにスマホやゲームを制限していることが大きな原因ではないかと思います。


若者の少なくなった日本が活気のない国になるのはある程度やむをえないことですが、現状はそれ以上に活気が失われています。つまり若者は数が少ないだけでなく、元気もないのです。

若者に元気がない理由はいろいろと考えられますが、教育の問題に限ると、たとえば「ブラック校則」が挙げられます。
理不尽な校則にがまんして耐えることが小学校から高校まで続くと、誰でも元気がなくなるのは当然です。
こういう経験は、ブラック企業に勤めたときには役立つかもしれませんが、それ以外になんのプラスもありません。

ブラック校則は昔からありましたが、昔の中学生や高校生は反抗的な態度をとることである程度発散することができました。
ところが、今は高校入試や大学入試で内申書が重視され、さらに推薦入学の枠が広がったので、子どもは教師に反抗的な態度をとることができません。
内申書も試験の点数だけで成績が決まるかというとそうではなく、教師の主観が入る余地があります。

12月18日付け朝日新聞の「声」という読者投書欄に「学校の息苦しさ『評価』が影響」(小学校教員41歳)という投書が載っていました。その一部を引用します。
教員になって10年以上が経ち、通知表の「評価」が息苦しさに与える影響力が大きいことを実感する。授業では教員が評価のために記録することが多い。子ども一人ひとりの気持ちや個性を受け止めたい気持ちとはなじまない。さらに最近は、知識だけではなく、意欲や主体性など内面的なことも評価するようになった。報道などによると、中学校では内申点を上げるために意欲があるように振る舞う子どももいて、ピリピリとした雰囲気になるという。
子どもは教師に反抗的な態度をとることなどまったく考えられません。
子どもは教師の目を気にして、教師の気持ちを忖度しながら学校生活を送っているわけです。
「ブラック校則を改正するよう生徒は学校に働きかけるべきだ」などと言う人がいますが、学校の実情がわかっていません。
生徒がみずから動いてブラック校則が改正されることはないでしょう。

私の学校時代は、内申書は中間試験や期末試験の成績が反映されたもので、教師の主観の入る要素はほとんどありませんでしたし、大学入試に内申書が考慮されることはないとされていました。

高石ともやの「受験生ブルース」(中川五郎作詞)には「大事な青春むだにして/紙切れ一枚に身をたくす/まるで河原の枯すすき」とありますが、「紙切れ一枚に身をたくす」というのは実際その通りだったのです。
いくら教師ににらまれても、入試の点数さえよければ希望の大学に入ることができました。ですから、ある意味気楽でした。

今の生徒は、入試の点数と教師受けと二正面作戦を強いられるのでたいへんです。


教師に受けることを考えていると、おとなの常識の枠を超える発想ができなくなります。
日本の科学技術の学術論文は、多く引用される重要論文の数はへり続けて世界10位にまで後退しました。
これは中学高校の教育のあり方にも原因があるのではないでしょうか。


ここ10年ほど日本の自殺者数はへり続けていますが、若者の自殺だけはへりません。2020年度の小中高生の自殺者数は499人で、1980年の統計開始以来最多となりました。

2020年度に不登校だった小中学生は19万6127人で、やはり過去最多となりました。

小中高校におけるいじめの認知件数は、2020年度は51万7163件で、前年度より15.6%減少しましたが、この減少はコロナ禍で子ども同士の接触がへったためと思われます。2019年度のいじめ件数は過去最多でした。

こうしたデータを見ると、日本の学校教育は明らかに失敗しています。
この失敗の原因はなにかというと、家父長制を理想とする自民党の思想にあります。

家父長制というのは、男性である家長が女性や子どもを支配する家族制度です。
自民党が夫婦別姓を認めようとしないのは家父長制を理想としているからです。
こうした自民党のあり方は、ジェンダー平等の観点から批判されています。

しかし、家父長制というのは「男が女を支配する」と「おとなが子どもを支配する」のふたつの要素から成り立っていて、今批判されているのは「男が女を支配する」の部分だけで、「おとなが子どもを支配する」の部分は批判されません。

自民党は昔から「権利を主張する若者」が大嫌いで、「おとなが子どもを支配する」ことを目指してきました。
そして、内申書重視や推薦入学制によって「教師が生徒を支配する」学校をつくりあげることに成功したのです。
しかし、これもまったくといっていいほど批判されません。
先ほど引用した朝日新聞の投書は珍しいケースです。

「教師が生徒を支配する」学校では、生徒は元気も創造性もなくしてしまいます。
日本経済がだめなのは、こうしたことから若者に元気と創造性がなくなったことも大きな原因ではないかと思います。


では、どうしたらいいかというと、処方箋は簡単です。
自民党は「自由、人権、民主主義」を重視する価値観外交というものを掲げています。
ところが、日本の学校には「自由、人権、民主主義」がまったくありません。
学校に「自由、人権、民主主義」を行き渡らせれば、問題は簡単に解決します。



私はこのたび新しいブログを始めたので、あわせてお読みください。
「道徳観のコペルニクス的転回」

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