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ヘイトスピーチ、誹謗中傷、自粛警察、感染者差別など、社会から寛容さが失われていると感じる人は多いでしょう。
では、寛容さを取り戻すにはどうすればいいかというと、誰もその方法を示すことができません。

ヘイトスピーチをする人に対して、「マイノリティに対して寛容になるべきだ」と主張すると、「その主張はヘイトスピーチをする人に対して寛容ではない」という反論がしばしばなされます。
これは「寛容のパラドックス」と言い、カール・ポパーが名づけました。
ポパーは「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」という結論に達しましたが、見た目が矛盾しているので、この論理で社会を寛容にするのは困難です。

しょっちゅう夫婦喧嘩をしている人は寛容さが足りないといえるでしょう。
本人が寛容さが足りないことを自覚して、寛容になろうとしても、具体的にどうやればいいかわからないので、なかなか夫婦喧嘩も止められません。

「寛容」を国語辞典で引くと、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」とありますが、漠然としています。

ウィキペディアによると、「寛容」という概念は、ヨーロッパで宗教改革が起きて宗教対立が激化したために重要視されるようになったということです。
その後、宗教対立以外にも広く寛容のたいせつさが説かれるようになり、宗教的寛容と道徳的寛容として区別する考え方もあります。
日本では宗教対立はそれほど深刻でなかったので、もっぱら道徳的寛容という意味で「寛容」という言葉が用いられていることになります。


道徳的寛容の典型的な物語は「レ・ミゼラブル」(ヴィクトル・ユーゴー著)です。
主人公のジャン・ヴァルジャンはたった1個のパンを盗んだために19年間も服役し、すっかり心がすさんでいました。あるとき泊まった教会の司教は彼を暖かく迎えてくれましたが、彼は教会の銀の食器を盗んで逃げ出し、憲兵に捕まります。しかし、司教は「食器は私が与えた」と言って彼をかばい、さらに2本の銀の燭台も与えます。司教の寛容さに触れたジャン・ヴァルジャンは回心し、ここから長い物語が始まります。これは寛容の連鎖の物語です。

身近なことでよくあるのは、学生のカンニングが発覚して、規定によると単位取り消しで留年になるが、その学生は就職も内定していて、留年させても誰も得しないという場合、担当の教授がカンニングを不問にするというようなことです。
あるいは、商店で万引きした子どもが常習でもなさそうな場合、警察に通報しないで許してやるということもよくあります。

これらが典型的な寛容の例ですが、その特徴を一言でいうと「悪を許す」ということになります。
これは道徳や法律に反するので、社会的に許されません。

教授が学生のカンニングを見逃したことが公になれば、教授も学生もバッシングを受けます。誰も損していないといっても、カンニングをしないまじめな学生に対して不公平だということはあります。
万引きの子どもを見逃したことが知られると、「盗みはいけないことだとわからせるべきだ」といった批判が起きます。

つまり寛容というのは道徳と正面衝突するのです。
「寛容の美徳」という言葉があるので、寛容は道徳の一部と理解されているかもしれませんが、それは誤解です。

道徳というより勧善懲悪と言ったほうがいいかもしれませんが、どちらでもたいした違いはありません。

勧善懲悪は一般に物語の中の原理として理解されています。
有効に機能するのは物語の中だけだからです(もちろん有効に機能するように物語がつくられているのです)。

司法も勧善懲悪を採用しています。悪に対する対症療法として一時的には有効だからです。

マスコミも勧善懲悪を採用しています。読者や視聴者を満足させるからです。

しかし、対症療法だけでは病気が進行してしまうかもしれません。
根本療法(原因療法)が必要ですが、それに当たるのが寛容です。

寛容は心理カウンセリングに似ています。
悪から立ち直るのは本人の力によるという考え方です。
このやり方は、時間はかかっても事態を改善させます。
勧善懲悪は力でその人間を変えようとすることで、目先はうまくいっても、事態をさらに悪化させる可能性があります。

現在、少年法改正による厳罰化が進められようとしていますが、一方で少年の更生に厳罰化はよくないという声もあります。
これは勧善懲悪対寛容の構図と見なすと、よくわかるでしょう。


現在は勧善懲悪の原理が社会をおおっています。
寛容もたいせつなこととされますが、具体的に悪を許すことをすると、社会から非難されます。つまり総論賛成各論反対なのです。
ですから、カンニングや万引きを見逃すといったことは、あくまで隠れて行われています。

最近はマスコミやネットの議論が勧善懲悪の傾向を強めていて、寛容の実行がますます困難になっています。
寛容の復権を目指す人は、ポパーの「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」というようなおかしな理屈は無視して、勧善懲悪の原理を敵と見なして戦うべきです。