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石原慎太郎氏が2月1日に亡くなりました。89歳でした。

いつも不思議なほど国民的人気に包まれている人でした。

1955年に大学在学中に『太陽の季節』で芥川賞を受賞し、これがたいへんな話題となりました。芥川賞はそれまでは地味な文学賞でしたが、石原氏以降、受賞発表が大きくマスコミに取り上げられるようになったとされます。

1968年には自民党公認で参院選全国区に立候補し、史上最高の301万票を得て当選しました。
私はなぜ石原氏がこんなに人気があるのか不思議でなりませんでしたが、ただ、石原氏は選挙運動中、胸に日の丸のワッペンをつけた白のブレザーという、オリンピックの日本選手団を思わせる服装で通しました。右翼といえば軍服か和服というイメージがある中で、斬新なイメージではありました。

しかし、石原氏は自民党内で重きをなすことはできませんでした。総裁選に立候補したのは一度だけですし、石原派と称するものがあったときも、小派閥でした。

結局、作家と政治家という“二足のわらじ”をはいたために、両方中途半端になったのではないでしょうか(“二足のわらじ”という言葉は、もともとは博徒が捕吏を兼ねたことを言い、身分の低さや生業と結びついた言葉なので、石原氏にはふさわしくないかもしれませんが)。
そのため、石原氏の足跡を振り返ると、暴言や差別発言ばかりが目立ちます。


とはいえ、石原氏にはいくつもベストセラーがあります。
その中で石原氏の思想の表現としてもっとも重要と思われるのが、1969年出版の『スパルタ教育』と1989年出版の『「NO」と言える日本』(盛田昭夫との共著)です。
前者は70万部、後者は125万部のベストセラーで、どちらも世間を大いに騒がせましたが、石原氏の追悼記事が多数出る中で、まったくといっていいほど無視されています。

『スパルタ教育』が無視されているのはわからないではありません。現在では絶版になっているからです。体罰を肯定する内容がさすがにまずいと判断されたのでしょう。

どんな内容かを少しだけ紹介しておきます。
2ページずつ100項目という読みやすい体裁になっていて、それぞれの見出しが煽情的です。

たとえば暴力を肯定するものはこんな具合です。

20.不具者を指さしたら、なぐれ
31.暴力の尊厳を教えよ
34.いじめっ子に育てよ
54.父に対するウラミを持たせろ
60.子どもに、戦争は悪いことだと教えるな

古い性別役割分業もあります。

11、父親は、子どものまえでも母親を叱ること
42.男の子に家事に参加させて、小さい人間にするな

反道徳的なこともあります。

27.犯罪は、許せないが、仕方のないことだということを教えよ
39.子どもに酒を禁じるな
46.子どもの不良性の芽をつむな 
75.よその子にケガをさせても、親があやまりにいくな
81.先生をむやみに敬わせるな

一貫した論理が見えません。

社会規範を教えるためにしつけは必要であり、そのときに暴力を使って刷り込むことも必要だというのが石原氏の考えです。
その一方で、不良性や暴力性を含む子どもの個性を尊重せよとも言っています。このような個性は創造性につながり、社会を進歩させるものだというのです。
しかし、どんなときに社会規範を教え、どんなときに子どもの個性を尊重するのかがわかりません。
結局、親が恣意的に判断することになります。その結果、子どもを虐待して逮捕されると「しつけのためにやった」と弁解する親が生み出されることになりました。
また、こうした倫理の問題を突き詰めて考えないことが、石原氏の作家としての限界になっていたと思われます。

石原氏は、「戦後日本から社会規範が失われたことを憂う国士」の顔と、「人間の暴力性や犯罪性を肯定する文学者」の顔と、両面宿儺のようにふたつの顔を持つ人間として生きてきました。
数々の暴言や放言もそこから生まれました。
「政治家としてなら許されないが、文学者としてなら許される」という社会常識の狭間を利用したのです。


石原氏は、体罰により複数の生徒を死亡させた戸塚ヨットスクール事件が1983年に表面化すると、ヨットスクールの支援者として活動を始め、多数の文化人を集めて戸塚宏校長らの減刑嘆願書を提出しました。
そのとき名を連ねた文化人は、いわゆるタカ派の人ばかりでした。
私はそれを見て、子育てと国際政治がつながっていることを改めて認識しました。
子育てで暴力を肯定する人は、国際政治でも戦争という暴力を肯定するのです。
ということは、叱らない子育てを実践することはなによりの平和活動だということでもあります。

石原氏はその後も戸塚ヨットスクールの支援を続けていました。「戸塚ヨットスクールを支援する会」のホームページを見ると、ずっと会長を務めていたことがわかります。
『スパルタ教育』は絶版になっても、石原氏の体罰肯定の思想は変わらなかったようです。







『「NO」と言える日本』も重要な本なのに、ほとんどなかったことにされています。

この本は石原氏とソニーの盛田氏のエッセイを交互に収録するという体裁になっています。
目次を見ると、手っ取り早く内容がわかるでしょう。

目次
現代日本人の意識改革こそが必要だ
Ten minutes先しか見ないアメリカは衰退する
日本叩きの根底には人種偏見がある
日本を叩くと票になる
アメリカこそアン・フェアだ
日本への物真似批判は当たらない
アメリカは人権保護の国か
「NO」と言える日本になれ
日本はアメリカの恫喝に屈するな
日本とアメリカは「逃れられない相互依存」だ
日本はアジアと共に生きよ

この本が出版された1989年は、ニューヨークのロックフェラーセンターを三菱地所が買収した年でもあり、日本のバブル景気が最高潮に達したころでした。
その経済力を背景に日本の政界と経済界の大物が日本の対米自立を訴えたわけです。

ウィキペディアによると、日本で出版された直後からアメリカ議会で英訳付きのコピーが出回って回覧されたということです。
そして、私の記憶によると、アメリカ議会の外交委員会でこの本のことが取り上げられました。そうすると、日本のマスコミの態度ががらりと変わって、石原氏と盛田氏に批判的になりました。
盛田氏が外国から成田空港に着いたとき、まるでスキャンダルを起こした芸能人に対するようにマスコミが取り囲んでマイクを突きつけたのを覚えています。

『「NO」と言える日本』には煽情的なところもありますが、日本は対米自立するべきという主張は真っ当なものです。
ところが、この本がバッシングされてから日本の論調は変わりました。

盛田氏はビジネスに影響することから、この本と距離を取りました。
石原氏はその後も、1990年に『それでも「NO」と言える日本』(渡部昇一・小川和久との共著)、1991年に『 断固「NO」と言える日本』(江藤淳との共著)を出しましたが、日本全体の空気、とりわけ右翼論壇の空気が変わりました。

もともと石原氏や中曾根康弘氏のような改憲派は、対米自立や自主独立が目標で、そのためには軍隊や核武装が必要だということで改憲を主張していたのですが、そんな主張は潮が引くように消えていきました。
右翼は親米一色になりました。改憲にしても、アメリカは自衛隊の海外派遣を求めていたので、その要求に応えるための改憲になりました。

その後、反米右翼の立場に立つ主な人物は西部邁氏ぐらいでしたが、すでに亡くなりました。
小林よしのり氏は途中から反米路線に転じましたが、そのとたんに右翼論壇から干されました。
右翼団体の中で反米路線なのは一水会ぐらいではないでしょうか。

なお「反米」というのは便宜的な呼び方で、実態は「自主独立」というべきものです。

最近の右翼は親米を通り越して売国になっています。アメリカファーストを主張するトランプ前大統領を崇拝して、「選挙は盗まれた」というデマを盲信したりします。

日本が辺野古に米軍基地建設を強行し、アメリカから高価な兵器を買い、日米地位協定にまったく手をつけられない国になったのも、『「NO」と言える日本』がバッシングされたときが転換点だったのだと思います。


石原氏自身は『「NO」と言える日本』を書いたときからほとんど考えは変わっていないようです。
「石原慎太郎公式サイト」の「理念・思想」のページには次の文章が掲げられています。

いつの間にか日本は、国家としての意思表示を欠き、世界中のどこからも疎んぜられる「商人国家」に成り下がってしまった。アメリカの思惑の通りに。いや、表向きは頭を垂れつつも、実利だけはしっかりと確保する商人としてのしたたかさがあればまだいいのですが。しかし円高円安の通貨の問題一つとっても、いつも相手のいい成りに要らざる大損を強いられてきた。まるで、鵜飼の手に操られる鵜のようなものだ。『亡国の徒に問う』(文藝春秋)


私がアジアとの付き合いを主張し、アメリカにもはっきりものをいうべきだというと、日本国内ですぐにあいつは反米だという声が上がる。私にはこの反米という括り方がきわめて幼稚で卑屈な言い方だとしか思えない。つまり戦後五十年を考えれば、日本にとってアメリカは一種の宗主国だった。

日本が経済的にも成長して、なんとかアメリカと冷静につきあわなくてはならないときに、それを反米というラベルで論じようというのは、かつて自信喪失をしたときの認識をそのまま引き継いでいるとしかいいようがない。そういう言葉をつかう人は、じつに情けない日本人だと思う。『亡国の徒に問う』(文藝春秋)

石原氏というと、中国を「シナ」と呼び、尖閣諸島上陸を企てたり、都知事のときに尖閣諸島購入を計画したりということがクローズアップされて、反中国の政治家というイメージがありますが、実際には反米の主張もしているのに、そのほうはまったく無視されているのです。


石原氏にとっては、体罰肯定の主張は封印され(これは当然のことですが)、改憲もできず、対米自立も果たされず、経済は衰退し、日本人の精神は堕落する一方だと見えていたでしょう。
つまり思想的にはすべて未完か挫折でした。
ただ、個人的にはやりたいことをやって、好きなように暴言と放言をして、いい人生だったに違いありません。