村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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小学校で2018年度から始まる道徳教育の検定教科書が出そろいましたが、すべての教科書に採用されているのが「かぼちゃのつる」という話です。
「ウサギとカメ」とか「アリとキリギリス」とかは知っていますが、「かぼちゃのつる」は聞いたことがないので調べてみたら、こんな話でした。


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「第1学年道徳指導学習案」より



ウサギやカメを擬人化するのはまだわかりますが、かぼちゃのつるを擬人化したのでは、そこに感情移入するのはそうとうむずかしいのではないでしょうか。
 
話そのものも、まったくおもしろくありません。ただ教訓を引き出すためにつくられた話です。
 
で、どういう教訓が引き出されるかというと、文渓堂という教科書会社のサイトでは、次のことを勧めています。
 
 
「かぼちゃのつる」を読んで話し合う。
〇ぐんぐん伸びてきているとき、かぼちゃは心の中でどんなことを思っていたでしょう。
・どんどん伸ばすぞ。
・大きくなるぞ。
〇ミツバチやスイカ、子犬に注意されたかぼちゃはどんな気持ちだったでしょう。
・うるさいな。
・もっと伸ばしたいのに。
 
◎車のタイヤにつるを切られてしまったとき、かぼちゃはどんな気持ちだったでしょう。
・みんなの言うことを聞いていればよかったな。ごめんなさい。
・もう、わがままはやめよう。
 
 
「かぼちゃのつる」を教材とする指導法を書いたサイトはいっぱいありますが、どれも基本的にこれと同じです。
 
で、最終的には「今までの自分を振り返って、わがままな行いについて考える」というところに持っていくわけです。
 
 
これは指導法がまったく間違っています。
かぼちゃがつるを伸ばすのは当たり前のことで、かぼちゃは悪くありません。
むしろどんどん伸びていく元気なつるはよい実をつけるはずです。
子どもに考えさせるのは次のことです。
 
〇車が通る道路の近くにかぼちゃを植えた人はどういう気持ちだったでしょう。
・かぼちゃをたくさん植えて儲けるぞ。
・かぼちゃが痛い目にあってもかまわない。
 
〇つるをひいた車を運転していた人はどんな気持ちだったでしょう。
・つるをよけて運転するのはめんどうだ
・つるを切っても植えたやつが損するだけだ。
・かぼちゃが痛い目にあってもかまわない。
  
教科書に「かぼちゃのつる」を載せた人はどういう気持ちだったでしょうか。
・子どもがわがままになるのを防ぎたい。
・かぼちゃを植えた人や車を運転していた人のわがままには気づかせたくない。


道徳教育から見えてくるのは、道徳教育をするおとなのわがままです。

小学校でプログラミング教育が2020年度から必修化される見通しだということです。このニュースを聞いて、私はいろいろな意味でびっくりしました。
 
ひとつは、今プログラミング能力はそれほど広く必要とされているのかということです。
確かにいろいろなアプリがどんどんつくられて、大きな産業になっているようですが、つくるのは一部の専門家で、一般の人はユーザーとして享受するものと私は思っていました。
 
それから、プログラミングというのは数学的、抽象的な能力が必要なはずで、一般の人(子ども)が対応できるのかということです。算数でマイナス計算が出てくるだけでとまどう人が少なくないのが実情です。
 
あと、小学校の教師が教えられるのだろうかとか、プログラミングを教えた分ほかの教科が削られるはずで、そっちは大丈夫なのだろうかとか、いろいろ疑問はあります。
 
プログラミング能力の必要性はひじょうに高まっているのでしょう。そのへんは私の認識不足だと思います。
しかし、必修化、つまり全員にやらせる必要があるとは思えません。
 
 
英語教育については、すでに2011年から小学校5、6年生で必修化されています。
そして、文科省は2020年までに3年生から必修化する方針を固めたということです。
 
これもかなり疑問です。
英語教育の効果も疑問ですが、これからは翻訳機や翻訳ソフトが進歩して、日常会話はそれで用が足りるようになると思われます。
ですから、英語はグローバルに活躍したいという人だけがやればいいのではないでしょうか。
 
つまり、プログラミングにせよ英語にせよ、必修化せずに選択制にすればいいのです。
 
たとえばプログラミングを選択制にすれば、選択する子どもはそんなに多くないはずですから、教師も一部だけ対応すればよく、楽に実施できます。
 
 
今の義務教育は必修化にこだわりすぎです。
必修の科目は、読み書き計算と体育ぐらいで、あとは全部選択制でいいはずです。
そうすれば、子どもはたとえば数学と理科とプログラミングばかり選択するということもできます。
選択制なら英語だけでなく中国語やスペイン語も取り入れられます。
 
もちろん1人の教師がすべて教えるということはできませんから、中学校みたいにある程度専門化し、さらには学校外の塾やインターネットで学ぶことも可能にすればいいわけです。
 
今の義務教育は、子どもを均一な“品質”に仕上げなければいけないという思い込みがあるようです。
子どもはそれぞれ個性があるのですから、仕上がりもバラバラでいいはずです。
個性を無視する必修化は、教えるほうも教えられるほうも不幸です。

だめな教育を受けると、その分だめな人間になってしまいます。これは当たり前のことです。だからこそ教育改革がたいせつです。
もちろん完璧な教育があったためしはありません。ですから、誰もがそれぞれにだめな教育を受け、だめな人間になっているわけです。
ところが、「自分はだめな教育を受けたためにだめな人間になった」という認識を持っている人はほとんどいません。それでいて「今の教育はだめだから、教育改革をしなければならない」と主張するので、教育改革論議は混乱するばかりです。
 
日本においてだめな教育の代表例は英語教育でしょう。学校で英語を学んだだけでは、誰もしゃべれないし、聞き取れないということになってしまいます。ですから、短期でも留学するか、ホームステイするか、外国人の友人をつくるか、私みたいに何度も海外旅行するかしないと英会話はできません。
 
なぜそんなことになるかというと、英語教科書製作者は反実用主義という信念を持っているのではないかということを前回の「This is a pen」というエントリーで書きました。今回はその続きです。
 
 
英語教科書製作者や英語学者は、人間がどのようにして言語を習得するかについて知識がないのでしょう。いや、一般の人も誤解しているようです。
たとえば、英会話学習教材のCMで、ただ聞き流しているだけで習得できるということをうたうものがありますが、そんなことはありません。これは私自身で実験済みです。私が中学のとき、父親は私が使っている英語教科書をネイティブスピーカーが朗読するというテープを買ってきて、毎日それをかけました。しかし、聞き流しているだけではまったく効果がありませんでした。
ただ、一箇所だけ、
Miss.Chiken! Miss.Chiken! I am very hungry!
と声を張り上げるところがあり、そこだけは覚えてしまいました。教室で当てられて教科書を朗読したとき、そこだけテープと同じように正しい発音で読んでしまい、みんなに笑われました(Crown」という教科書です)
 
赤ん坊はただ聞いているだけで言葉を覚えるというのもまったくの誤解です。赤ん坊は生きるために必死になって言葉を覚えるのです。これは赤ん坊を観察してもわかるはずです。赤ん坊は目を丸くして、おとながしゃべるのを必死になって聞いています。
 
外国で生活すると外国語をよく覚えるというのも、覚えないとうまく生活できないので必死になるからです。
 
で、そうして言葉を覚えるとき、その言葉が使われる状況も同時に覚えます。つまり言葉というのは、TPO(時と場所と場合)によって使い分けられるので、TPOと同時に覚えないと使えないからです。
たとえば、友だち同士で使う言葉と改まった場で使う言葉は違いますし、男が使う言葉と女が使う言葉も違いますし、日本の場合は目上と目下で違ってきますし、相手を傷つける言葉や怒らせる言葉もあります。
 
ところが、日本の英語教科書は言葉とTPOつまり場面を徹底的に切り離す方針でつくられています。
たとえば、This is a penがその代表例ですが、誰が誰にどんな状況でいっているのかまったく想像がつきません。
むしろどんな場面で発されたのか想像がつかないような言葉ばかりを教科書に載せているに違いありません。
たとえば、
Are you a teacher?
Yes I am.
という例文がありましたが、これなどもどんな場面か想像がつきません。シャーロック・ホームズはある人物に会ったとき、その鋭い観察眼で古びた上着の袖にチョークの粉がついているのを見て、相手を田舎の教師だと見抜きます。それを確かめるために発した言葉ならありえますが。
 
おそらく英語教科書製作者たちは言葉と場面を切り離し、“純粋言語”として教えたいと思ったのでしょう。
そうしたほうがあらゆる場面で使えると思ったのかもしれません。
しかし、現実は逆で、場面と切り離された“純粋言語”は、覚えても使えないわけです。
そのため学校で英語を学んだだけでは英会話はできないということになります。
 
 
もっとも、最近の英語教科書はかなり改善されてきているようです。しかし、年配の人はだめな教科書で教育されたために、だめな英会話能力しか持っていないことになります。
そして、そういう人は自分がだめな教育を受けたためにだめになってしまったということがなかなか認識できません。
とはいえ、自分に英会話能力がないという厳然たる事実はあるわけです。
そこで、自分が英語をうまく話せないのは正しい発音が身についていないからだというふうに考える人が多いようです。
 
しかし、私の経験でいうと、発音が悪いために通じなくて困るということはそれほどありません。
たとえば、「ウォーター」というとたいてい通じません。もちろん私の発音が悪いからですが、「ウォーター」で苦労する日本人は多いようです。「ワラ」といったほうが通じるという説もありますが、「ミネラル・ウォーター」といえば通じるので、問題はありません。
「コーヒー」というのも意外に通じませんが、これは「カフェ」とフランス語風()にいい直せば通じます。
ライスを注文したらシラミが出てきたということももちろんありません。
 
ユーロの首脳が英語で記者会見しているのをテレビで見ることがよくありますが、みんなかなりへたな発音で話しています。
たぶん日本人は発音を気にしすぎです。RとLの区別ができないことを気にする人が多いですが、日本人はRとLの区別ができないというのは世界的に知られているので、相手が察してくれます。
 
たぶん私の発音では通じない単語もいっぱいあるのでしょうが、相手はいくつかの単語が聞き取れれば、あとは場面によって察してくれます。
 
 
もっとも、自分に英会話能力がないのは中学から始めたためだ、小学校から始めていればよかったのだと考える人が多いせいでしょう、日本の教育改革はへんなことになってしまいました。
というのは、2011年から小学校での英語必修化が始まったのです。
しかし、各小学校にネイティブスピーカーの教師を配置できるわけはないので、実際には日本人教師が小学生に英語を教えることになります。
つまり今までは中学生からだったのが、これからは小学生からへたな英語を聞かされることになるわけです。これではへたな発音がより深く身につくことになってしまいます。
 
「自分はだめな教育を受けたためにだめな人間になった」という認識のない人間が教育改革を論じると、教育改革が悪い方向に行ってしまうという典型的な例です。

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