村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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146回芥川賞の発表があり、円城塔さんと田中慎弥さんが受賞しましたが、田中慎弥さんは高校卒業後一度も働いたことがないということで、“ニートの星”と言われているそうです。また、その記者会見の様子が不機嫌そうで物議をかもしています。
 
田中さんの記者会見のやりとりの全文はこちら。
 
ネットの掲示板では「中二病」ではないかなどと言われているそうですが、その批判は的外れでしょう。おかしなことは言っていません。やや傲慢と思われることは言っていますが、田中さんはすでに川端康成文学賞と三島由紀夫賞を受賞している実績があり、芥川賞は5回目の候補作での受賞です。「もっと早くよこせよ」という気持ちがあって不思議ではありません。
記者会見においてはある程度のサービス精神を発揮することが期待されますが、田中さんとしては出たくて出ているわけではないので、サービス精神がないといって批判するのも筋違いです。
 
ともかく、学校時代イジメにあい、高校卒業後は引きこもり生活になって、ひたすら小説を書いて、なんとか世の中の表舞台に出てきたというのは、今の時代のひとつの典型のような人です。
ちなみに第144回芥川賞を受賞した西村賢太さんは中卒フリーターということで話題になりました。キャラが立っているので、最近はテレビのバラエティ番組で見かけたりします。
こうしたニートやフリーターに光が当たり、その人たちの生活と意見を世の中に知らしめる役割を文学が果たしているというのは、文学の存在価値のひとつとはいえるでしょう。
 
もっとも、私は田中さんや西村さんの作品を読んではいません。受賞が決まるまで名前も知りませんでした。昔は芥川賞と直木賞は、候補作が決まったという小さな新聞記事に必ず目を通して、歴代受賞者もすべて頭に入っていましたが、最近は突然芥川賞・直木賞の発表をテレビで知ります。また、ここ数年の受賞者の名前もほとんど頭に入っていません。
これは自分が年を取ったからというしかありません。昔の作家は知っていますが、最近出てきた作家のことは知らないのです。
 
20代のころは、毎週の流行歌のヒットチャートは頭に入っていました。今はどんな曲がヒットしているのかぜんぜんわかりません。年を取るとはこういうことです。
 
ですから、小説のように感性の要素の強いものは、年寄りが若い人の作品を評価するときは慎重でなければなりません。
 
そこへ石原慎太郎氏が芥川賞選考委員を辞任するというニュースが飛び込んできました。石原氏もさすがにおのれを知ったかと思ったら、辞任の理由がなんだか違うようです。
 
 
石原知事、芥川賞選考委員を辞任の意向 「刺激がない」
東京都の石原慎太郎知事は18日、自身が務めている芥川賞の選考委員について「もう辞める。全然刺激にならないから」と記者団に語った。今回限りで辞任する考えだという。
 
 理由については「若い人に期待してきたけど、もうちょっと自分の人生、文学にとって刺激を受けたい。若い人に足をさらわれるな、と緊張感を覚えさせてくれている作品がない」などと述べた。石原知事は6日の記者会見でも、今の若い作家に欠けているものを問われ、「自分の人生を反映したリアリティーがない。馬鹿みたいな作品ばっかりだよ、今度は」などと話していた。
 
 芥川賞を主催する日本文学振興会によると、石原知事は1995年下半期から選考委員を務めてきた。同振興会は「選考会の中で辞意ともとれる発言があり、近日中に話し合いましょうということになった」としている。(asahi.com 20121181849)
 
 
自分の感性が鈍化したことを棚に上げて、言いたい放題です。
古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」という言葉が刻まれていたそうですが、この言葉も石原氏には薬にもなりません。
 
とはいえ、あらゆるジャンルにおいて、老人が自分の感性を棚に上げて、新しい作品を否定するということは行われています。小説の世界においては、最終的に読者の支持を得る、本が売れるということで評価が決まりますから、老害といってもそれほど実害がないのは幸いです。
 
石原氏の「(若い作家の作品は)馬鹿みたいな作品ばっかりだよ」という発言を聞いて喜ぶ老人も世の中には多いと思われます。正しく年を取るのはむずかしいものです。

倫理について考えるとき、ドストエフスキーの「罪と罰」は避けて通れません。とはいえ、私はドストエフスキーは苦手です。生家に世界文学全集があったので、高校生のころ「カラマーゾフの兄弟」と「白痴」にチャレンジしましたが、すぐに挫折し、30代に「罪と罰」にもチャレンジしましたが、3分の1ぐらいまで読んでやはり挫折しました。ドストエフスキーで読み終えたのは、短い「地下生活者の手記」だけです。
ですから、今も「罪と罰」は読み終えていません。しかし、ストーリーぐらいはわかります。ここで「罪と罰」を取り上げるのは、「罪と罰」のストーリーが倫理について考えるとき、きわめてよい手がかりになるからです。文学作品として評価するわけではないので、ご容赦ください。
 
というわけで、ストーリーはウィキペディアの「罪と罰」の項からそのままコピーします。
 
頭脳明晰ではあるが貧しい元大学生ラスコーリニコフが、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論をもとに、金貸しの強欲狡猾な老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企てるも、殺害の現場に偶然居合わせたその妹まで殺害してしまう。この思いがけぬ殺人に、ラスコーリニコフの罪の意識が増長し、発狂していく。しかし、ラスコーリニコフよりも惨憺たる生活を送る娼婦ソーニャの家族のためにつくす徹底された自己犠牲の生き方に心をうたれ、最後には自首する。人間回復への強烈な願望を訴えたヒューマニズムが描かれた小説である。
 
 
このストーリーは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題を考えるのに最良の材料となってくれます。
自分は世の中に貢献しうる有能な若者だが、お金がなくて生活もままならない。このままでは社会に埋もれてしまう。一方、高利貸しの老婆アリョーナは強欲狡猾で、生きていても世の中にはなんの貢献もしない。自分が世の中に貢献するなら、金を奪うために老婆を殺すことは許されるのではないか。ラスコーリニコフはこのように考えたわけです。
自分が有能な若者だというのはラスコーリニコフの主観ですし、高利貸しも多少は世の中に貢献している面もあるはずです。そのへんに目をつむって、ラスコーリニコフは有能な若者で、高利貸しの老婆アリョーナはただ邪悪なだけの存在だとすると、ラスコーリニコフの理屈はなかなか強力です。
ラスコーリニコフは老婆の妹を殺害したことについては罪の意識にとらわれますが、老婆を殺したことについては罪とは考えていません。これは最後まで同じです。
 
老婆を殺すのは罪だということをラスコーリニコフに納得させるためにはどう言えばいいのでしょうか。それとも、ラスコーリニコフの考えは正しいのでしょうか。
 
私ならもしかしてラスコーリニコフに老婆殺しの罪を自覚させることができるかもしれません。
ここで重要なのは娼婦ソーニャの存在です。彼女はアル中で働かない父親のためにみずから娼婦になって家族に尽くしています。ラスコーリニコフはソーニャの純粋な魂に触れることによって人間らしい心を取り戻し、自首します。
さて、ソーニャはこのあとどんな人生をたどるでしょうか。一度娼婦になった女性、しかも家族に恵まれない女性に明るい未来があるとは思えません。純粋な心を持っているだけに、人にだまされることもあるでしょうし、さまざまなむごい仕打ちにもあうでしょう。何度も傷つくうちに、純粋な心は失われ、しだいに人間不信の念がつのっていきます。父親もそのうち死にます。そうなると頼りになるのはお金だけです。年をとれば娼婦としての価値も下がります。稼げるうちに稼がねばなりません。ソーニャは必然的に金に汚い女になります。娼婦として働けない年になったとき、金貸しで生計を立てるようになっていても不思議ではありません。そうです、ソーニャは強欲狡猾な高利貸しの老婆になるのです。
 
この作品はみごとな円環構造になっています。殺された老婆アリョーナも、最初から邪悪な心の持ち主だったわけではありません。若いときにはソーニャのような純粋な心を持っていたのです。つらい人生を生きるうちに強欲狡猾な老婆となったのです。
私はラスコーリニコフに、ソーニャもいずれはアリョーナのような強欲狡猾な老婆になり、アリョーナもかつてはソーニャのように純粋な心を持っていたのだ、つまり、あなたが殺したのは年取ったソーニャにほかならないのだと言って説得します。ラスコーリニコフが説得されるかどうかはわかりませんが、これ以外に説得する論理はないと思います。
 
ラスコーリニコフに限らず世の人々は、こっちの人はよい人だが、あっちの人は悪い人だと考えています。しかし、生まれたときはみな同じ人間だったのです。その境遇によって、よい人にもなれば悪い人にもなるのです。また、今はよい人もいずれは悪い人になることもあるのです(悪い人がよい人になることは残念ながらめったにありません)
 
警察司法関係者は、自分たちは有能で社会に貢献する人間で、犯罪者は邪悪で社会に貢献しないか害をなす人間で、だから自分たちは犯罪者を殺したり刑務所に入れたりしてもいいのだと思っています。つまり、ラスコーリニコフの理屈と同じなのです。
警察司法関係者がみずからの罪に目覚める日はくるのでしょうか。

私はSFから世界全体をとらえる発想を学び、ホラーから人の心の奥底を見ることを学びました。このどちらが欠けても、私は「科学的倫理学」に想到できなかったでしょう。
 
人の心の奥深いところはなかなかわからないものです。フロイトは「無意識」があるといい、最近は「心の闇」という言葉がよく使われます。しかし、自分で自分の心の中を掘り下げていくことはできます。私はその作業をねばり強く続けているうちに、あるとき「ここが底だな」というところに到達しました。もうそれ以上掘り下げることのできない硬い岩盤のようなところがあるのです。
心の隅々までわかったわけではありませんが、底に到達したことで、私はそこを立脚点にしてものを考えることができるようになりました。これはものを考える上で圧倒的に有利です。世の中には私などより頭がよくて知識の豊富な人が山ほどいますが、確かな立脚点を持っている人はいないのではないでしょうか。
 
たとえば、私は「虐待の連鎖」について考えました。幼児虐待をする親は自分も子ども時代に虐待されていたことが多く、これを「虐待の連鎖」あるいは「虐待の世代連鎖」といいます。この「虐待の連鎖」をどんどんさかのぼっていけば、「人類最初の虐待親」にたどり着くはずです。もちろん「虐待の連鎖」は実際にはそんな正確に続くものではなく、あくまで思考実験として考えたのです。
「人類最初の虐待親」はいかにして誕生したのか。これはパズル感覚で考えても楽しいでしょう。こういう発想はSFから学んだものです。幼児虐待について研究している人はなかなかこういう発想は持てないかもしれません。
 
これを考えるためには、人間以外の動物に幼児虐待に当たるものがあるのかどうかを調べないといけません。哺乳類においては、ライオンの子殺しのようなことがありますし、育児放棄もありますし、生まれたばかりの自分の子どもを食べてしまうこともありますが、人間の幼児虐待はそれらとは異質なものだと私は考えました。
 
そして、幼児虐待をする親は、「しつけのためにやった」とよく言います。行儀が悪い、わるさをした、言いつけを聞かないなど、子どもが「悪」だと考えています。しかし、実際は虐待する親のほうが「悪」なのです。
自分が「悪」だから、相手が「悪」に見える――ここにすべての秘密を解く鍵があります。
これを徹底的に考えていくと、善と悪についての認識のコペルニクス的転回が起き、「科学的倫理学」に到達することができます。
 
私はいち早く「科学的倫理学」に到達しました。後続の人たちを待っている状態です。
「人類最初の虐待親」はいかにして誕生したかというパズルを解いてください。

ホラー小説やホラー映画には、恐怖の対象としていろいろなものが出てきます。超自然のものとして吸血鬼、ゾンビ、悪霊、人間として連続殺人鬼、多重人格、ストーカー、DV男。それから、自分自身への恐怖というのもあります。正確にいうと、自分自身の本当の姿を知る恐怖です。実は私がいちばん好きなホラーは、この、自分自身の本当の姿を知る恐怖を描いた作品です。
 
吸血鬼や殺人鬼は、やっつけることもできますし、それから逃げることもできます。しかし、自分自身が怖いとなれば、やっつけることも逃げることもできません。まさに究極の恐怖ではないでしょうか。
 
自分自身の本当の姿を知る恐怖を描いたものとして最高の小説はリチャード・マシスンの「地球最後の男」ではないでしょうか。これは最初、「吸血鬼」というタイトルで翻訳され、最近は「アイ・アム・レジェンド」というタイトルで出版されています。3回映画化され、もっとも最近の映画化はウィル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」です。
これは一般にはSFに分類される作品かもしれませんが、吸血鬼が出てきますし、マシスンは恐怖を描くことに本領を発揮する作家ですから、ホラーといってもさしつかえないでしょう。
この作品の衝撃は結末に訪れます。きわめて意外で、かつ発想のスケールが大きく、そして自分自身の姿をひっくり返してしまうところに強い衝撃があります。
したがって、それを説明すると、いわゆるネタバレになってしまいますので、ここではやめておきます。なお、ウィル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」の劇場公開版の結末はまったく別のものになっていて、なんの衝激もありません。
 
そこで、ネタバレのそしりを受けそうもないものを紹介することにします。
私が若いころに見たアメリカのテレビドラマで、ミステリー・ゾーンでもなく、アウター・リミッツでもなく、しかしそのたぐいのドラマシリーズの一本ではないかと想像されますが、単発で放映されたので、野球中継中止の穴埋めだったのかもしれません。タイトルも忘れてしまいました。
 
主人公の青年は、おじさんの形見でもらったのか、あやしい骨董屋でもらったのか忘れましたが、ひとつのメガネを手に入れます。それは実は魔法のメガネで、そのメガネをかけて人を見ると、その人が心の中で思っていることが聞こえてくるのです。つまり人の心の中が見えるメガネなのです。
青年は人と会話しているとき、そのメガネをかけてみます。そうすると、それまで調子のいいことを言っていた相手は、実は心の中では青年に敵意を持っていることがわかります。ほかの人もそのメガネで見てみますが、やはりきれいなことを言っていても、心の中はみにくいのです。青年が信頼している相手もメガネをかけて見てみると、青年を裏切るようなことを考えています。青年がひそかに思いを寄せている女性は、愛想よくしている裏で、青年のことをさげすんでいます。
青年は、周りの人間がみんなみにくい心の持ち主であることに憤り、絶望しますが、これはすべてメガネのせいであると思い、メガネを壊してしまおうとします。そのとき、青年の前に大きな鏡がありました。青年はふと思いつき、メガネをかけて、鏡に映った自分を見ます。
青年の叫び声とともにドラマは終わります。
 
周りの人間がみんなみにくい心の持ち主だとしたら、自分も例外ではありえないはずです。
しかし、世の中には政治が悪い、社会が悪い、時代が悪い、若者が悪いなどと非難ばかりしている人がいっぱいいます。こういう人はこのドラマを見て、自分も同じように悪いのではないかと反省してもらいたいものです。
 
 
もうひとつ、やはり私が若いころにテレビで見たものですが、これはドラマではなく映画だったと思います。やはりタイトルは忘れてしまいましたが、なかなかおもしろい映画なので、もしかしたら一部でカルト的な人気のある映画かもしれません。
 
主人公は若くて魅力的な女性ですが、精神病院に入れられることになります。その精神病院にはおかしな患者がいっぱいいます(当たり前ですが)。彼らは主人公の女性に性的な関心を持ち、襲ってきたりして、女性はあやうく難を逃れます。また、裏でなにやらあやしい陰謀をたくらんでいます。その陰謀には医師も加わっていて、医師もいやらしい目で女性を見てきます。ということは、女性は性的な被害妄想をいだく患者ではないかと想像されます。一方で、女性に好意を寄せるハンサムな若い医師もいます。しかし、どれが妄想で、どれが現実かわからないままストーリーは進展し、女性がいよいよ追い詰められて危機に瀕したとき、場面は転換します。
女性は医師から完全に治ったと告げられます。その女性の姿は、みすぼらしい中年女性です。つまり女性は、自分は若くて魅力的な女性だという妄想をいだいていたのです。精神病院を出た女性はとぼとぼと道路を歩いていきます。その姿を見ると、妄想をいだいていたときのほうが幸せだったのではないかという思いにとらわれます。
 
こうした物語が、自分自身の本当の姿を知る恐怖を描いたものです。
ミステリーやSFやホラーでは意外性が尊ばれますが、自己像の変換というのは中でも最高のものではないでしょうか。認識のコペルニクス的転回を味わうことができるからです。
こうした発想に慣れていれば、発想の幅が広がるのはもちろん、自分勝手な人間になることも防げるのではないかと思います。

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