村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:幼児教育

北海道七飯町で両親に置き去りにされて行方不明になっていた7歳の田野岡大和君が6日ぶりに無事発見され、とりあえずよい結末となりました。
 
発見が遅れたのは、発見場所が行方不明になった場所から直線で約6キロ離れたところで、7歳の子どもの脚力を見誤っていたことに加え、車が去ったのとは逆方向に大和君が歩いていったこともあるようです。
 
父親は一度大和君を降ろして車を走らせ、大和君が泣きながら追ってきたために車に乗せましたが、約500メートル走って再び大和君を降ろして車を走らせ、そして、5分ほどして降ろした地点に歩いて戻ったところ大和君の姿はなく、約30分周辺を探しても見つからなかったため警察に通報したということです。
 
大和君の心情を推察するに、親から捨てられたかと思って、必死に泣きながら車を追いかけ、車に乗せてもらってホッとしたところで再び降ろされたため、今度こそほんとうに捨てられたと思ったのでしょう。そのため車を追いかけることはやめ、その場で待つこともやめて、1人で生きていこうと思ったのかどうかわかりませんが、反対方向に歩き出したのでしょう。
おとなは軽い脅しのつもりでも、子どもは真に受けます。2度も繰り返したのではなおさらです
 
ここまで書いたところで最新の報道を見たら、病室の大和君の説明では、泣きじゃくったために方向がわからなくなったということです。私の推測とは違いますが、よほどのパニックになったということです。
 
大和君の受けた精神的苦痛は計り知れないものがあり、そのことを理解すれば、父親の行為の罪深さがわかります。

そもそもこの父親は、取材に対して語ったところによると、「しつけのために、ちょっと怖い思いをさせようと思った」「父親としての威厳を示さなければ」と思ったために車から降ろしたということです。
 
「父親としての威厳を示さなければ」というのは、自分の体面を保ちたいということで、子どものためではなく自分のためです。
この父親は最初、山菜取りにきてはぐれたと嘘をついていましたが、これも自分の体面のためです。
うわべばかりを見て、子どもの心が見えない人なのかなという気がします。
 
 
そもそも「しつけ」というのは、うわべを保つためにすることです。
「しつけ」は「躾」という字を書きます。「身を美しく」ということでつくられた国字です。
「身を美しく」であって、「心を美しく」ではありません。
 
父親は「子どもが公園で人や車に石を投げつけた」と主張し、それをしつけの理由としていました。
しかし、最新の報道によると、子どもが土手に向かって石を投げていたので「土手の向こうに車が走り人もいるかもしれないから、投げてはいけない」と注意したということで、これもかなり説明が違っています。
 
いずれにせよ、置き去りにされる恐怖でその行動をやめさせようとしたことは間違っています。これでは、その行動をやめたとしても、なぜその行動が悪いのかということがわかっていません。親に見つからなければいいのかということになります。
 
「躾」は「身を美しく」することであっても「心を美しく」することではないということが常識になってほしいものです。

保育園をつくろうとすると、「子どもの声がうるさい」という苦情がくる日本ですが、もちろん保育園だけの問題ではありません。たとえば電車の中で子どもが泣いたりすると、子どもを連れている母親が周囲の冷たい視線にさらされます。
要するに子どもはおとなに迷惑をかけてはならないし、親は子どもをしっかりと管理したりしつけしたりしなければならないというのが今の社会の価値観です。
 
こういう社会では親に大きな負担がかかります。これも少子化の原因になっているに違いありません。
 
こういう社会が当たり前だと思うと大きな間違いです。
たとえばお隣の中国はこんな具合です。
 
 
中国の子育て 大声で走り回るなども温かく見守られる理由とは
 
現役ママが「子育てしづらい環境」と語る人が多い、わが国の子育て事情。海外ではどうなっているのだろうか? 大気汚染や食への不安など、住みづらそうな中国も実は、一人っ子政策のもと、子育て天国だと語ってくれたのは、中国・北京在住のジャーナリスト相田美奈子さん(仮名)。
 
 「妊婦さんは、100%電車で席を譲ってもらえますし、バスでは譲らないと、切符売りの人が、『そこの若い人、ちょっと立って。ありがとうね』と強制的に世話をしてくれるほど。それは10才以下の子供を連れた親子連れにも同じことがいえ、子供に席を譲るのは、老人以外のすべての大人に求められるエチケットとなっています」(相田さん)
 
  さらに、公共の場で大声で走り回る、ベビーカーで電車に乗り込むなどに関しても、やりたい放題。それでも周りは温かく見守り、サポートをしてくれる。なぜそこまで大切にされるかは、社会事情によるところが大きいという。
 
 「福利厚生が発達していない中国では、年金の恩恵を受けられる層はごくわずかですから、老後に安心感を持っている人は、ほとんどいません。
 
  雇用形態が不安定なので、大卒でもよく失業しますし、40才過ぎたら職業人生が終わり、雇ってくれるところがない、なんてことも。   
 
  そこで、最大の保険が子供なんです。社会全体が、若い世代の育成を、自らの『年金』だと思って、労力を投資しているようなところがあるのだと思います」(相田さん)
 
 ※女性セブン20141120日号
 
 
中国は子どもに寛容な社会であるようです。日本とは対照的です。
 
いや、昔の日本も今の中国と同じように子どもに寛容な社会でした。
中江和恵著「江戸の子育て」という本にそのことが書かれていたので、このブログで紹介したことがあります。
 
江戸の子育て
 
おそらくアジアはみな同じような感じだったのでしょう。
むしろ欧米が子どもにきびしい特殊な社会なのだと思います。
日本は過剰に欧米化してしまったのです。
 
上の記事では、中国の社会が子どもに寛容なのは年金制度が不備だからだと書かれていますが、こんなおかしな理屈はありません。親が子どもに老後の世話をしてもらおうと思っているなら、自分の子どもだけたいせつにするはずです。
 
日本人は「子どもに寛容な社会」というのが当たり前のことに思えなくなって、むりやり「年金」みたいな理屈をくっつけたようです。
 
「子どもに不寛容な社会」では、親に負担がかかるだけではなく、子どもも不寛容になって、その子が将来はヘイトスピーチをしたりするようになるのではないでしょうか。

千葉県市川市で開園予定だった保育園が「子どもの声がうるさい」などの理由で開園断念に追い込まれてから、子どもの騒音問題が議論になっています。
 
そもそも子どもの立てる音は騒音なのかということがあります。
 
「自然音」という概念があります。風の音、川のせせらぎ、小鳥のさえずりなどです。
人は自然音を騒音とは感じません。騒音は不快ですが、自然音には逆にやすらぎを感じます。職場のBGMに自然音を使うと作業能率が上がるという話もあります。
暴風雨の音にやすらぎは感じないでしょうが、受け入れるしかないので、不快とは感じません。
 
一方、人の立てる音は「生活音」または「生活騒音」と言い、概して不快なものとされます。
ただ、自分が好感を持っている人の立てる音はそう不快ではなく、自分の嫌いな人の立てる音は不快だということがあります。つまり心理的な要素もあるのです。
 
では、子どもの立てる音はどうかというと、子どもはおとなよりも自然に近い存在です。子どもの遊ぶ声は小鳥のさえずりみたいなものだと思えば、これは自然音になります。
しかし、子ども嫌いの人にとっては、子どもの遊ぶ声は不快でしょう。
 
「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」と「梁塵秘抄」にあるように、昔の日本人は子どもの遊ぶ声を聞くと、自分の子ども時代を思い出して、共感していました。
しかし、今の日本人は違います。騒音と感じる人がふえています。
子どものころ、遊んでいると「静かにしなさい」などと叱られた人が多いからではないかと思われます。
 
私はこれまで何回か引っ越ししてきましたが、家の周りで子どもの遊ぶ声を不快に思ったことはありません。それよりも、子どもを叱る母親の声を不快に思ったことは何度かあります。子どもを叱る母親はほとんど毎日のように叱るので、この不快感はかなりのものです。
 
子どもの遊ぶ声を騒音と思うおとなのほうが問題だ――と言いたいところですが、自分が保育園や幼稚園の近所に住んでいたら、きっと騒音と思うだろうなという気がしています。
 
考えてみれば、保育園や幼稚園に子どもを集めるというのが自然な状態ではないのです。
工場と同じで、効率よく子どもを“生産”しようというシステムです(学校も同じです)
子どもが広く薄く地域に存在していた昔とは違います。
 
近代社会は「おとなと子どもの共生」ということを放棄しました。子どもの騒音問題というのは、その帰結です。
 
とはいえ、とりあえずなにか対策をしなければなりません。
テレビを見ていたら、ある保育園では子どもに、「遊ぶときに大きな声を出さないように」と言い聞かせていましたが、これは最悪の対応です。子どもの発達に悪影響があるに決まっています。
 
最近、老人ホームと保育園を併設した施設がつくられ、老人にも喜ばれているということが報道されています。
「おとなと子どもの共生」ということは、おとなにもメリットがあるのです。
 
今の保育園は防音設備などをして、周辺との隔離を強める方向にあるようですが、この方向では少子化がさらに進んでしまいます。
保育園に周辺の住民を招き入れ、子どもとふれ合ってもらうとか、保育園の設置基準を改めて、もっと小さい保育園をいっぱいつくるとか、職場に保育園を併設するとか、そういう方向で解決するしかないと思います。

「ブータン、これでいいのだ」(御手洗瑞子著)という本を読んでいると、ブータンの子どもたちは人見知りしないと書いてあって、あれっと思いました。私の認識では、幼い子どもの人見知りは発達の過程で普通に生じるもので、逆に人見知りしない子は母親との信頼關係がつくれていない可能性があってよくないという説を聞いたことがあります。
ともかく、ブータンの子どもはみんな人見知りせず堂々としているということです。著者は、知っている人ばかりのコミュニティで生きているから、知らない人を警戒する感覚がないのではないかと推測しています。
 
日本では子どもが人見知りをするからといって悩む親がよくいます。しかし、人見知りの原因もわからないし、対策もわからないというのが現状です。こういう、人間についての基本的なことがわからないというのは困ったものです。
しかし、ブータンの子どもが人見知りしないとすれば、日本の子どもが人見知りするのは、親が外部の人を警戒していて、子どもがそれを察知しているのではないかと考えられます。あるいは、外部の人の態度が子どもに冷たく、子どもはそれを察知しているのかもしれません。
 
ブータン人は外部の人にも身内と同じように接するということは、同書のほかのエピソードからも推察できます。
ブータン人ガイドが外国人観光客を案内しているとき、客が道のぬかるみに足を取られて動けなくなっていると、ブータン人ガイドはそれを見て助けるどころか笑っていたということがあったそうです。私はこれを読んだときは、さすがにこれはあんまりではないかと思いました。客はバカにされたと思って傷つくでしょう。
しかし、考えてみると、私にとっていちばん親しい友人は高校時代の友人ですが、私が20代か30代であれば、親しい友人がぬかるみに足を取られて動けなくなっていたら、きっと笑っていたでしょう。ぬかるみに足を取られても、危険とかケガするということはありません。放っておいても自分で脱出するでしょう。これは絶対笑う場面だと思います。
ですから、ブータン人ガイドは、自分が仕事で世話をする観光客を自分の親しい友人と同じように見ていたということなのでしょう。
 
もっとも、今の日本で同じことをやったら、たいへんです。笑ったガイドは大バッシングを受けるでしょう。ガイドは「大丈夫ですか」などと言って心配そうに駆け寄って、手助けしなければなりません。しかし、それは処世術として身につけた行動様式で、心からの行動とは限りません。ブータン人が笑ったのは少なくとも心からの行動です。
礼儀の発達していないブータンのほうが心のつながりがあるということだと思います。
 
ブータン人の子どもが人見知りせず堂々としているのは、ほとんど叱られたことがないということも影響していると思われます。
同書には、ブータン人は失敗してもへこまないと書いてあります。著者はその理由として、ブータン人は「人間の力ではがんばってみてもどうにもできない」と思っている範囲が日本人よりずっと大きいからではないかと推測しています。つまり失敗したとき、ブータン人は自分を責めずに、「まあ、仕方がなかった」と割り切ることが多いというのです。
したがって、ブータン人は人が失敗しても責めません。失敗を許す文化があるのです。
ですから、ブータン人はいつも自信満々で堂々としているというわけです。
 
しかし、そのために外国人との間に摩擦が起きます。
ブータンで働いている外国人の間では、「ブータン人に一定以上のストレスをかけてはいけない」ということが半ば常識になっているということです。
というのは、ほとんど叱られた経験のないブータン人は、あまり叱られると逆ギレしてしまうことがあるからです。
 
ブータン人は叱ることがない一方、喜怒哀楽をとても素直に表現し、ですから逆ギレ以外にも実はよく怒るそうです。大きな身振り手振りで正論を振りかざして怒り、しばらくするとケロッと忘れて笑っているということです。
 
つまりブータン人は普通に「怒る」一方、「叱る」ことはほとんどないということになります。
 
よく日本では、「怒る」のはよくない、「叱る」べきだということが言われます。しかし、こういう価値観はほんとうに正しいのでしょうか。
 
「怒る」というのは人間である以上あって当然です。しかし、「叱る」というのは自然な行為ではありません。
 
文化人類学の古典に「未開人の性生活」(マリノウスキー著)という本があります。その中からニューギニアのトロブリアンド島の原住民に関する記述を引用します。
 
トロブリアンド島の子供は、自由と独立を享受している。子供達は早くから両親の監督保護から解放される。つまり正規のしつけという観念も、家庭的な強制という体罰もないのである。親子間の口論をみると、子供があれをしろ、これをしろといわれている。しかしいつの場合も、子供に骨折りを頼むという形でなされており、トロブリアンドの親子間には単なる命令というものは決してみられない。
時には腹を立て、怒りを爆発させた親が、子供を打つことがあるが、その場合でも子供は猛烈に親にさからい、打ってかかる。「報い」とか強制的な罰の観念などは、彼らにとって縁遠いものであり、それどころか嫌われている。私は何回か、子供がひどい悪行をしたので、何かの方法で心を鬼にして罰したほうが、子供の将来のためになると暗示した。しかしこの考え方は彼らにとって不自然であり、また不道徳と思われたらしく、一種の憤りをもって拒否された。
 
ここにはいわば道徳発生以前の社会が描かれています。この社会には「怒る」はあっても「叱る」や「罰する」はありません。
文明人であるマリノウスキーは、子どもを罰したほうがよいという考え方を述べています。しかし、文明社会の家庭のほうが子どもが非行に走るなどの問題が生じていますし、文明人のほうが未開人を奴隷にするなどのひどい悪行をしてきました。
 
日本では、昔は地域のおとなたちが子どもを叱っていたから子どもがちゃんと育ったなどということが言われていますが、これはまさに“歴史修正主義”です。
私の子ども時代は、たとえば人の家の柿の木から実を盗んだとか、野球のボールで人の家の窓ガラスを割ったなどというときに怒られましたが、これはあくまで自分の利害のために「怒る」のであって、子どものために「叱る」のではありません。子どものために「叱る」人なんていなかったのではないでしょうか。
しかし、子どもは怒られることで、おとなはどんなときに怒るのかということは学習できました。
 
「怒る」のは人間である以上しかたがありませんが、「叱る」というのは文明とともにどんどん増大してきたもので、それによってほんとうに人間が幸せになっているのか、考え直す必要があると思います。

このごろ「子どもの騒音」に対する風当たりがどんどん強くなっている気がします。
1014日の朝日新聞朝刊東京版に「『騒音』苦情 悩む保育園」という記事が載っていました。
世田谷区の保坂展人区長がツイッターで「役所に寄せられるクレームの中で、『保育園で子どもたちの声がうるさい』というものがあり、対応に苦慮している」「防音壁を作ったり、子どもを園庭に出さないということも起きている――」とつぶやいたところ、多くの反響を呼び、2000以上リツイートされたものもあったといいます。
記事によると、保育園の騒音対策として、運動会を屋内でやったり、夏でも窓を開けなかったり、園児が園庭に出る時間を制限したり、ピアノ演奏時は窓を閉めるといったことが行われているということです。
 
 
「子どもの騒音」といえば、マンションの上の部屋で子どもが走り回るのがうるさいということがしばしば問題になります。
公園で遊ぶ子どもの声がうるさいという苦情もあるそうですし、電車の中など公共の場で子どもが騒ぐと、親が周りから白い目で見られたりします。
 
保育園についていえば、少子化が進んで昔よりはうんと「子どもの騒音」の発生源はへっているはずですし、住宅の気密性というか防音機能も強化されているはずです。それなのに「子どもの騒音」への苦情がふえているのはどうしてなのでしょう。
 
騒音の大きさはデシベルで表され、通常は条例で規制されています。騒音にも工場、工事、交通などの区分があり、住宅地か商業地か、また時間帯によって規制の値が違います。しかし、朝日新聞の記事には、保育園の騒音についてデシベルという言葉はいっさい出てきません。ほんとうに保育園の騒音は、苦情を言いたくなるほどうるさいのでしょうか。
 
たとえば、マンションの階下の住人が子どもの立てる音がうるさいと苦情を言ってきた場合、果たしてほんとうに子どもの立てる音がうるさいのか、階下の住人が気にしすぎなのかという問題があります。小さな音でも気にする人もいれば、少々の音など気にしない人もいます。
こうした問題を解決するために、デシベルという客観的な数値があり、子どもの立てる音は生活騒音に分類され、規制値も決まっています。ですから、騒音を測定すれば、客観的に判断できるはずです。
 
保育園の騒音はまだ測定されていないのかもしれません。しかし、保育園の騒音が昔よりも大きくなったということはないはずです。赤ちゃんの泣き声は昔も今もかわりませんし、同様に保育園の子どもの立てる音も昔も今も変わらないはずです。
 
ということは、保育園への苦情がふえたとすると、それは「子どもの騒音」を気にするおとながふえたということになります。
つまりこれは「子どもの問題」ではなく、「おとなの問題」なのです。
 
昔の子どもは自由に音を立てられたのに、今の子どもは音を立てることを制限される。これでは今の子どもがかわいそうです。
 
ですから、保育園への苦情がふえたのなら、子どもを指導するのではなく、苦情を言うおとなを指導するべきなのです。
 
しかし、現実には苦情を言ってくるおとなを説得したり黙らせたりするのは困難ですから、子どもを指導するという対応をとることになります。
世田谷区の保坂展人区長にしても、苦情を言うおとなは有権者ですから、「あなたががまんしなさい」とは言えません。
結局、弱い立場の子どもにがまんさせることになってしまいます。
新聞にしても、購読者はおとなですから、「おとなの問題」を追及することはできません。
 
うるさくすると叱られるなどして行動を制限された子どもはその分、人格が歪み、将来は人格の歪んだおとなになってしまいます。そうしたおとなは、子どもがのびのびしているのを見ると怒りを覚え、子どもの立てる音がうるさいと苦情を言ったりします。そのため子どもの行動を制限し、そうして育った子どもは人格が歪み……ということを人類は繰り返してきたわけです。
このように子どもの人格をゆがめることを“しつけ”といいます。
 
そして近年、ますます歪んだおとながふえて、そのため保育園への苦情もふえているというわけです。
赤ん坊が夜泣きするのがうるさいといって虐待する親も、歪んだおとなのひとつの姿です。
 
このような負のスパイラルは断ち切らねばなりません。それは、「子どもの騒音」問題は「子どもの問題」ではなく「おとなの問題」であるととらえることから始まります。

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