村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:幼児虐待

penguins-429128_1920

幼児虐待の原因のひとつに、家庭が密室化していることが挙げられます。
大家族や地域社会の中で子どもが見守られていれば、虐待はそんなに起こりません。
ですから、各人が近所の子どもの様子を気にかけて、声かけしたりするのもたいせつです。

しかし、「子育ては親の専権事項」とでもいうのか、外部の口出しを嫌う親も多いようです。
確かに無責任な口出しは困りますが、口出しを拒否する親も問題です。

次はたまたま見かけた記事で、子育てへの他人の口出しを親が拒否するのですが、親の理屈がそうとうへんです。にもかかわらず、親に賛同する声が多いというので首をかしげてしまいます。


スーパーで「お菓子欲しい」とごねる息子すると知らないオジさんから『衝撃の言葉が』ネット民「素晴らしい考えと返し」
Twitterでこんなツイートが話題です。

「スーパーでお菓子欲しいとごねる3歳息子をたしなめてたら、知らんおっちゃんから「お菓子の一つくらい買ったらすぐ終わるだろうに」と言われ、買った方が楽なことくらい百も承知じゃクソが!!の代わりに「約束の練習中なんです、うるさくしてすみません」と笑顔で返したので5億ほしい。」

すんなりと子どもの言うことを聞けば静かになるとはわかっていても、甘やかしてばかりでは子どものためになりませんよね。なかなか難しい場面です。投稿者さんは「約束の練習中なんです、うるさくしてすみません」と笑顔で返したそうです。


他のユーザーからは↓
・素晴らしい考えと返しと子育てですね
・働いてる側はわかってますよ。お母さん達、頑張ってる!
・約束の練習!良い響き!頂きます。

世のお母さん達は頑張っています、見かけた場合は優しく見守りましょう!
いまトピが伝えています。


「いまトピ」のもっと詳しい記事はこちらで読めます。

母親の事情もわからないのに口出ししてくるおっちゃんも問題ですが、母親が「約束の練習中なんです」と返した言葉は、明らかに嘘でしょう。嘘を言ってはいけません。

しかも、「約束の練習中」という言葉もへんです。
「約束」は国語辞典によると「当事者間で取り決めること」などとなっています。基本的に対等の関係でなされるものでしょう。
子どもと親の間の約束があるとすれば、「今お菓子をがまんすれば、あとでオモチャを買ってあげるね」といったものです。
しかし、現実には親が子どもより優位の関係にあるので、親が一方的に子どもに約束をさせていることが多いでしょう。こういうのは命令と同じです。
この母親が言う「約束の練習中」は、「親の命令に従う練習中」という意味です。

この母親は自分なりのルールをつくっているのでしょう。
しかし、子どもが守るルールを親がつくると一方的になり、ブラック校則ならぬ“ブラック家則”になりがちです(「家則」という言葉はないようです。「家法」ならあります)。

ちゃんとしたルールがあるなら、嘘をつく必要はなく、たとえば「さっきからお菓子を食べすぎていて、ご飯が食べられなくなりますから」とか「この子はアレルギーなので」とか言えるはずです。

ともかく、世の中にはこういう母親もいるとして、問題はツイッター上で、「そんな嘘をつくのはよくない」という意見はほとんどなくて、「うまい言い方ですね。真似します」みたいな意見ばかりだったことです。
こんな親が多くては、「地域で子育て」などとうていむりですし、家庭の密室化が進んで、幼児虐待がますます増加しそうです。



こうした問題が生じるのは、子育てのあり方が過渡期にあるせいかもしれません。
これまでは、子どもを甘やかすのはよくない、きびしく育てるべきだという考え方が主流でした。
しかし最近は、体罰がいけないのはもちろん、叱るよりもほめることが推奨され、子どもが幼いうちは十分に親に甘えさせるべきだという考え方が強まっています。

この母親は、子どもは甘やかすべきではないという古い考えですが、自分の考えに自信が持てなくなって、「約束の練習中」などという言葉でごまかしたのかもしれません(反対に、子どもを叱らない子育てをしている親が世間の目の前に肩身の狭い思いをしている場合もあるでしょう)。

子どもにはきびしくするべきだという考え方は、「子どもを甘やかすと子どもは限りなくわがままになって、最終的にわがままなモンスターになる」という考え方に基づいています。
しかし、この考え方は間違いです。それは動物の子育ての様子を見ればわかります。
動物の親は、子どもに食べさせることと子どもの安全に気を配るだけで、あとはすべて子どもの自由にさせています。それでも子どもはモンスターにならず、普通に育ちます。人間も同じはずです。

親が自分の子どもを信じられないというのは人間特有の不幸です。
そういう親は、動物の子育ての映像などを見て学ぶのがいいと思います。

子どもを自由にさせていると、スーパーなどで子どもが周りの人に迷惑をかけて、文句を言われることもあるでしょう。
そんなときは子どもを守るのが親の役割です。
子どものすることはすべて子どもの発達に必要なことです。

親と子がよい関係である社会は、平和で健全な社会です。

なぜ子育て中の親が肩身の狭い思いをして嘘をついたりしなければいけないのか、考え直してみてはどうでしょうか。

steve-douglas-kJ-u9HWJJbw-unsplash

朝日新聞の第一面にこんな記事が載るようでは、幼児虐待がなくなる日はまだまだ遠いと思いました。

朝日新聞の「折々のことば」は、短い言葉を紹介する毎日の連載です。多様な言葉を紹介しようとするのはわかりますが、こういう言葉はアウトでしょう。

折々のことば:1845 鷲田清一
2020年6月13日 5時00分

 親になるとは、許されることを学ぶことなのだ。

 (三砂〈みさご〉ちづる)
     ◇
 親はよくまちがう。よかれと思ってしたことが子どもを傷つけた、痛めつけていたと悔やむことが本当によくある。だから欠点だらけの「私」を許してほしいと祈るような思いでいると、保健学者は言う。子どもから許しを得ることで、自分の親も「まちがいだらけで欠点だらけのただの男と女だった」と許せるようになると。『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』から。https://digital.asahi.com/articles/DA3S14511849.html?_requesturl=articles%2FDA3S14511849.html&pn=4


子どもを傷つけたり痛めつけたりするのは虐待です。
「よかれと思ってした」というのも、虐待する親がよく言う言葉です。

子どもから許してほしければ謝るしかありませんが、この親は「祈るような思いでいる」だけで、謝りはしないようです。
謝りもしないで、子どもから許してもらうこと期待するとは、あまりにも虫のいい考えです。

この子どもにとっては、傷つけられたり痛めつけられたりした上、さらに「許し」を求められるわけです。
子ども自身の救いや癒しはどこにもありません。

ここには「許し」という倫理的なことが書かれているようですが、実際に書かれているのは「虐待の肯定」です。
これでは虐待の連鎖がさらに続いていくことになります。



三砂ちづるというのはどういう人かと思って調べると、2004年出版の「オニババ化する女たち~女性の身体性を取り戻す」という本で物議をかもした人でした。
この本はアンチフェミニズムだということでバッシングを受けましたが、三砂氏本人はアンチフェミニズムという自覚はないようです。
私はこの本は読んでいませんが、今回の「折々のことば」を読む限りでは、親子関係が正しくとらえられていないので、男女関係も正しくとらえていないのかなと想像します。

三砂氏について知るには、次のインタビュー記事が詳しいかと思います。

「018 疫学者・作家 三砂ちづるさん Interview」



ところで、私は「親になるとは、許されることを学ぶことなのだ」という見出しを見たとき、「親になるとは、許すことを学ぶことなのだ」とまったく逆に誤読してしまいました。
「親になるとは、許すことを学ぶことなのだ」ということなら、私にもすんなりと理解できます。

親は子どもに対して、おとなしく、行儀よく、聞き分けのいい子であることを期待し、そうなるように教育・しつけをしますが、これはすなわち虐待への道です。
しかし、たいていの親は、子どもは自分の思うようにならないことに気づいて、子どものいたずらや行儀悪さや聞き分けのなさを許すようになり、まともな親になります。

三砂氏は、「子どもを許す親になる」というまともなことを言うのではなく、「子どもから許される親になる」という論理のアクロバットを展開しました。
そして、鷲田清一氏はそのアクロバットにだまされて、「折々のことば」に採用してしまったようです。

朝日新聞の第一面に、虐待や暴力を肯定する言葉が載っていて、びっくりしました。

14c72d19ad49ac6ab954843fcec77ae8_m

いじめ防止対策推進法が2013年に制定されたのは、「大津市中2いじめ自殺事件」がマスコミに大きく騒がれたのがきっかけです。
ひとつの事件が法律を変えた例としては、いわゆる酒鬼薔薇事件により少年法が改正されたこと、東名高速飲酒運転事故により危険運転致死傷罪が制定されたことなどがありますが、それらに匹敵するぐらい大きく騒がれた事件でした。

2011年10月、大津市でマンション屋上から中2男子生徒が飛び降り自殺しました。その直後に大津市教委がその中学の全校生徒を対象に行ったアンケートに、男子生徒が「自殺の練習」をさせられていたということなどが書かれていましたが、市教委はこのことを公表しませんでした。自殺した男子生徒の父親は、息子がいじめられていたという被害届を警察に3度出しましたが、いずれも受け取りを拒否されました。父親はいじめたとされる同級生3人とその保護者、大津市に対して損害賠償請求の訴訟を起こし、アンケート内容の公表を要求し、「自殺の練習」ということが明るみに出ました。
「自殺の練習」ということがひじょうにショッキングなので、マスコミは大きく取り上げました。

「自殺の練習」のようなキーワードがあるとマスコミは食いつきます。やはり「葬式ごっこ」というキーワードのあった1986年の中野富士見中学いじめ自殺事件も大きな騒ぎとなりました。

私もこのブログで取り上げようと思って、詳しく新聞記事を読んでみると、「自殺の練習」というのはアンケートに書かれているだけで、それ以外になんの裏付けもないことがわかりました。匿名のアンケートだけでは根拠にならないと思い、そのときは取り上げませんでした。

しかし、マスコミの報道が過熱すると、「自殺の練習」が確定した事実であるかのように報道されるようになりました。プロのジャーナリストとしてはあってはいけないことで、私はこの事件の報道全体を猜疑の目で見るようになりました。

さらに、学校でのいじめを、「加害者が悪、被害者が善」という図式で描くのも疑問でした。
学校のいじめというのは、学校制度の構造的な問題です。ですから、いじめられていた子が状況が変わると容易にいじめる側になります。どちらがいじめているかというのは大した問題ではありません。
狭い養鶏場に多数の鶏を飼うと、鶏はストレスから互いに体をつつき合って、羽根をむしられて裸になった鶏が出てきます。鶏に善も悪もないのと同じです。

さらに、私が疑問に思ったのは、自殺した男子中学生の父親の問題がまったく追及されないことです。
子どもがいじめられているとき、子どもを守るのは親の役割です。子どもが自殺したら、いじめた子も悪いですが、守れなかった親も悪いはずです。自殺した子どもにしてみれば、いじめた子よりもむしろ親のほうを恨んでいるかもしれません。


そうした疑問の目で事件を見ていると、真相が見えてきました。
自殺した男子中学生は父親から虐待されていたのです。
学校や市教委は自殺の原因を父親の虐待と認識していたために、いじめ問題を軽視しました。
警察も、同じ認識だったので、父親の被害届を受け取りませんでした。
ただ、当時は親による子どもの虐待が今のように認識されていなかったので、それが報道されることはほとんどありませんでした。

私はそうした観点から13本の記事を書き、それは「大津市イジメ事件」のカテゴリーに入っています。全部読むのがめんどうな人は「大津市イジメ事件の“真相”」だけ読めばいいでしょう。

私は、いじめた同級生やいじめを隠ぺいした学校や市教委を正当化したわけではありませんが、批判のコメントが殺到して炎上しました。しかし、自分の主張に自信があったので、炎上しても平気でした。事件の近くにいる人からの賛同や情報提供のコメントもありました(ブログを引越ししたため当時のコメントは消えています)。


当時はあまりにも世論が熱狂していたので、民事訴訟の判決もそれに引きずられ、いじめた同級生2人の側に約3750万円の支払いを命じるものでしたが、控訴審判決が2月27日にあり、それは冷静な判断でした。


大津いじめ自殺、二審も因果関係認める 賠償額は大幅減
大津市立中学2年の男子生徒(当時13)が2011年10月に自殺したのはいじめが原因だとして、男子生徒の両親が元同級生らに計約3850万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が27日、大阪高裁であった。佐村浩之裁判長は昨年2月の一審・大津地裁判決と同様に、いじめと自殺の因果関係を認めた。
 一方、男子生徒の家庭環境などを考慮し、賠償額は過失相殺が必要だと判断。元同級生2人に計約3750万円の支払いを命じた地裁判決を変更し、2人に計約400万円を支払うよう命じた。
(中略)
賠償額については、両親が別居していたことや男子生徒が無断外泊した際に父親が顔をたたくなどしていたことなどを踏まえ、両親側にも家庭環境が整えられずに男子生徒を精神的に支えられなかった過失があるとして、損害額から4割を減額。大津市からの和解金の額などを差し引いた計約400万円が相当とした。
(後略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200227-00000039-asahi-soci

「過失相殺」という言葉が出てきます。学校で同級生がいじめた行為と、家庭で親が虐待した行為を相殺したということでしょう。妥当な判断だと思います(「過失」という言葉に違和感はありますが、民事訴訟なのでそうなります)。
過失相殺しないと、子どもを虐待して自殺させた親が多額の賠償金をせしめるということが出てきます。

一審判決は、世の中の熱気にあおられておかしな判決になりましたが、控訴審判決は、父親の虐待を認定して、私の主張を裏付けるものとなりました。


ただ、この判決をトンデモ判決と見なす向きもあります。
中川翔子さんもその一人です。

中川翔子「遺族に鞭打つような判決に絶望した」
タレントで歌手の中川翔子(34)が、2011年に大津市立中学2年の男子生徒が自殺したのはいじめが原因だとして、男子生徒の両親が元同級生らに損害賠償を求めた控訴審判決について、「遺族に鞭打つような判決に絶望した」とつづった。
大阪高裁で佐村浩之裁判長は、昨年2月の一審判決と同様に、いじめと自殺の因果関係を認めたが、賠償額については、両親側にも家庭環境を整えられずに男子生徒を精神的に支えられなかった過失があるとして、過失相殺が必要だと判断。元同級生2人に計約3750万円の支払いを命じた地裁判決を変更し、2人に計約400万円を支払うよう命じた。
中川は29日、ツイッターで判決に言及。「加害者を守り被害者を責める、こんな世の中なら希望を持てなくなる」「やられた方が悪い、被害者に過失がある、ということだと言ってるようなものだろうこんな判決なら、加害者がやったもん勝ちだというのか? いじめは、人を死に追いやる事のある犯罪。犯罪した者が守られて、死に追い詰めた側がこんなかたちで守られて。遺族に鞭打つような判決に絶望した」とつづった。
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202002290000263.html

この判決は決して加害者を守って被害者を責めているわけではなく、父親をもう一人の加害者と認定しただけです。
中川翔子さんはいじめ問題について積極的に発言している人ですが、もうちょっと広い視野でとらえてほしいと思います。


結局、「自殺の練習」は、刑事裁判でも民事裁判でも事実とは認定されませんでした。
当時の報道は半ば虚構の上で踊っていたのです。
しかし、その報道は、いじめに対するステレオタイプな認識を世の中に定着させました。
その認識というのは、「いじめは加害者が悪、被害者が善、学校と家庭のあり方は無関係」というものです。

いじめ防止対策推進法は、その認識の上に成立した法律です。いじめを子ども同士の加害と被害の関係としてとらえ、学校と家庭の問題を不問にしています。
この法律にはなんの実効性もなく、教師に「いじめ対策」という仕事をふやしただけです。

いじめを防止したいなら、学校と家庭の両方を改革するしかありません。

edvard-munch-1332621_1920
Eric PerlinによるPixabayからの画像 

私がムンクの「叫び」を初めて見たのは、中学校の美術の教科書でした。
教科書にいろいろな絵が載っている中で「叫び」は明らかに異色で、狂気を感じさせる絵に衝撃を受けたのを覚えています。
昔は私のような受け止め方が一般的だったでしょう。
しかし、今は「ムンクの叫び人形」のようなものがつくられ、絵の人物がおもしろキャラクターとして扱われて、むしろ笑える絵と見られている面があります。

絵は昔も今も同じですから、見る側の認識が変わってきたのです。
ユニークな絵ですから、メディアで取り上げられることも多く、みんなが見慣れてきたということもあるでしょう。
見慣れたということも含めて、私たちは狂気や異常性を感じさせる絵を普通に受け入れるようになっているのです。


zombie-278755_1920
(ゾンビパレード)geri clevelandによるPixabayからの画像

ゾンビも、もともとはスプラッターホラーと言われるジャンルの映画から出てきたもので、ゾンビが人間の内臓をむさぼり食うシーンなどがあって、一部のマニアに受けていただけで、一般の人には嫌われていました。スプラッターホラーは宮崎勤事件などと結びつけられたこともあります。
ホラーの中でもゾンビものはもっともグロテスクですが、それがどんどん人気になって、「ウォーキング・デッド」というドラマ・シリーズは高視聴率番組となっています。
そして、ハロウィンの仮装の定番にもなりました。
見た目にもっともおぞましいものが、おもしろがられるようになっているのです。


異常で残虐なものを受け入れるようになってきたのは、戦争映画も同じです。
「ビーチレッド戦記」という映画の解説で町山智浩氏が語っていたのですが、ハリウッドにはヘイズ・コードという規制が1968年まであって、人体が破壊されるようなシーンをはっきり撮ることはできなかったそうです。ですから、弾丸が人の体に当たっても血が出ることはなく、穴が空くだけです。
そう言われてみれば、昔の戦争映画では、銃で撃たれてバタバタと人が倒れたり、崖から落下したり、爆発で人の体が派手に吹っ飛んだりするシーンはありますが、血が出たり、手足がもげたりするような残虐シーンはありません。“きれいな死”ばかりです。
「ビーチレッド戦記」はインディペンデント映画なので、そういう規制は無視して、上陸作戦のとき、水にちぎれた足が浮いているとか、隣の兵士の喉にパックリ穴が空いているとか、激しい砲撃の中で腕をなくした兵士が突っ立っているとかの残虐シーンがあり、画期的でした(1967年制作の映画なので、ベトナム反戦の意味があると想像されます)。

スピルバーグ監督の「プライベートライアン」は、「ビーチレッド戦記」の影響を受けたということで、残虐シーンがてんこ盛りです。メル・ギブソン監督の「ハクソーリッジ」は、それに輪をかけた感じです。
これらは血の出る戦争映画ということで、“スプラッター戦争映画”と言えるかもしれません。
それを私たちはエンターテインメント映画として受け入れています。

ホラー映画も、昔はほとんど血が出ませんでした。ドラキュラものも、首筋に牙でかみつくシーンはありますが、ほとんど血は出ません。ヒッチコック監督の「サイコ」も、ナイフを使っての殺人シーンは、カーテン越しのナイフの動きと、床に流れるシャワーの水に血が混じるという形で表現されました(しかもこれはモノクロ映画です)。


また、幼児虐待で子どもが死亡する事件は、今に始まったものでなく昔からありましたが、昔はそういう事件があっても、まったく報道されないか、報道されてもいわゆるベタ記事でしか扱われませんでした。幼児が親から虐待されて死ぬというのはあまりにも悲惨なので、そのような報道はみんなが拒絶していたのです。
今は幼児虐待事件は大きく報道されます。このように変わったのは、私の感覚ではせいぜい十年ぐらい前からです。


このように異常で残虐なものは、昔は多くの人が拒絶していましたが、今は一般の人が普通に受け入れるようになっています。
これはきわめて大きな変化です。
もちろん認識の上での変化ですが、それは現実にも影響を及ぼすはずです。

異常で残虐なことを目にするのに慣れると、自分も同じことをしやすくなるという考え方もありそうですが(スプラッターホラーと猟奇殺人事件が結びつけられたのもそれです)、現実はむしろ逆です。
殺人や強盗のような凶悪犯罪はへり続けています。
へっている理由はいろいろあるでしょうが、ひとつにはナイフで人を刺すと血が流れるとか、刺された人はもがき苦しむといったことが認識されてきたこともあるのではないでしょうか。

戦争も、昔のような大規模なものはなくなってきました。
この理由もいろいろありますが、昔のように戦争が経済的利益に結びつかなくなったことが大きいでしょう。それから、戦場では人が血を流して苦しんで死ぬということが認識されてきたことも影響しているのではないでしょうか。

幼児虐待事件が減少しているとは今のところ言えないようですが、幼児虐待の存在が広く認識されるようになり、対策が進められているので、いずれ事態は改善に向かうはずです。

精神病への偏見も少なくなり、猟奇事件の犯人の心理も、“心の闇”で片づけることなく、解明することに関心が向いています。

人類は宇宙の果てや量子の世界にまで認識を広げています。
それと同様に、異常、残虐、グロテスクといったものにも認識を広めています。
これも人類の大きな進歩です。

bd1adc7f41ab2353d087f70111c69946_m
前橋刑務所(syujiさんによる写真ACからの写真 )

無期懲役の判決を言い渡された被告が法廷で万歳三唱をしたというのは前代未聞でしょう。

昨年6月、小島一朗被告(当時22歳)は新幹線車内で女性2人にナタで切り付けて負傷させ、止めに入った男性会社員をナタとナイフで殺害するという事件を起こし、裁判の中で「無期懲役囚になりたい。3人殺せば死刑になるので、2人までにしておこうと思った」と語りました。
ですから、期待通りの判決を得て万歳三唱をしたというわけです。

最近、「死刑になりたい」という動機で通り魔のような事件を起こす例がよくあります。「死刑になりたい」で検索すると、そういう事件がずらずらと出てきます。
小島被告の場合は、死刑にはなりたくないわけです。「保釈されたらまた人を殺す」とも言っていて、無期懲役でずっと刑務所の中にいるのが望みです。
なぜこんなおかしな考えを持つようになったのでしょうか。


こういう異常な犯罪が起こると、マスコミは“心の闇”という言葉でごまかしてきましたが、最近は異常な犯罪者は異常な家庭環境で育ったということがわかってきて、犯罪者の家庭環境について突っ込んだ報道がされるようになりました。
小島被告についても週刊誌などが報道し、私はそれらをもとにこのブログでふたつの記事を書きました。


小島被告の父親は「男は子どもを谷底に突き落として育てるもんだ」という教育方針できびしく育て、小島被告の世話をしていた祖母は「姉のご飯は作ったるけど、一朗のは作らん」と言って、実質的に育児放棄していました。小島被告が事件を起こして逮捕されたとき、父親はマスコミの前で「私は生物学上のお父さん」と名乗り、小島被告のことを赤の他人のように「一朗君」と呼び、ゆがんだ家族関係があらわになりました。


今回、判決に合わせて週刊新潮12月26日号が「『小島一朗』独占手記 私が法廷でも明かさなかった動機」という記事を掲載しました。これを読むと、小島被告が刑務所にこだわった理由が見えてきます。

IMG_20191220_012525


この記事によると、小島被告はホームレス生活をしていて、家族に迷惑をかけないために餓死しようとしますが、祖母との最後の電話で「養子縁組を解消する」「小島家の墓に入れない」と言われ、もう家族に迷惑がかかるということはどうでもよくなって、事件を起こして刑務所に入ろうとします。
彼は手記で「刑務所に入るのは子供の頃からの夢である。これを叶えずにどうして死ねようか」と書いています。

小島被告と接見を重ね手記を託されたノンフィクションライターのインベカヲリ★氏は、小島被告の生い立ちを詳しく書いているので、その部分を引用します。


小島被告は愛知県生まれ。犯行当時は22歳、元の名は鈴木一朗だ。同県出身の野球選手イチローにちなんだ同姓同名である。小島姓なのは、事件の前年に母方の祖母と養子縁組をしたからである。
一朗が生まれると母方の祖父は、岡崎市にある自宅の敷地内の一角に「一朗が生まれた記念」の家(以下、「岡崎の家」)を建てた。共働きの両親の都合で、一朗は3歳までをそこで過ごした。一方、年子の姉は、生まれたときから一宮市にある父方の実家で育った。
母親は両家を行き来していたが、一朗が3歳になると転居し、一家全員が一宮の家に揃う。しかしそれを快く思わなかったのが、同居する父方の祖母だった。「お前は岡崎の子だ、岡崎に帰れ」「お前は私に3年も顔を見せなかった」、それら祖母からの言葉が一朗にとって物心ついてからの最初の記憶だ。
母親はホームレス支援の仕事で夜遅く帰宅するため、祖母が食事をつくり、一朗は「嫁いびり」のように躾けられたという。中学生になり反抗するようになると、祖母は包丁を振り回し、一朗の食事や入浴を禁じた。これに関し母親は調書で、「食事を与えないということはない。虐待はしていない」と供述しており、意見が食い違っている。
しかしこの頃、父親にトンカチを投げ包丁を向ける事件を起こしており、その目的は「ご飯が食べられないから国に食わせてもらう」、つまりは少年院に入るためだった。これを機に父と離れ、母親の勤め先である“貧困者シェルター”へ入所するのだ。
その後、定時制高校を卒業し、県外で就職したものの、出血性大腸炎で入院し10か月で退社。「岡崎の家」に住むことになったが、同じ敷地内の別宅に住む伯父が猛反対し、暴力によってわずか10日で追い出されたという。
以降、家出してのホームレス生活と精神病院への入退院を繰り返してきた。
彼にはすでに中学時代、家庭よりは「少年院」という発想があった。
「刑務所の素晴らしいところは、衣食住と仕事があって、人権が法律で守られているところ」
と、彼は心底思っている。しかも、「(刑務所からは)出ていけとはいわれない」とも語る。彼は閉ざされた空間で、決まりきった日常を送ることが苦痛ではない。模範囚として真面目に働くことを望んでいる。拘置所に何冊も本を差し入れたが、彼はたぶん読書ができればいのではないかと思う。
やりとりを重ねてわかったのは、彼が幼い頃より「岡崎の家」を「私が生まれたときに建てられた、私が育つはずだった家」と考え、それに強い執着を見せていることだ。刑務所は「岡崎」の代償で「家庭を求めている」と彼は言う。


小島被告が刑務所に入りたがった理由がわかります。
彼は家族の誰とも“絆”というものを感じることができなくて、どの家にいてもいつ「出ていけ」と言われるかわからないという不安があったのでしょう。無期懲役で入った刑務所ならその不安がありません。
それに、彼はかなり意図的にホームレス生活をしていますが、母親はホームレス支援の仕事で帰宅が遅かったということで、彼はホームレスになることで母親に近づけた気がしていたのかもしれません。

もちろん刑務所に入るために人を殺すなどということは許されません。
しかし、自分がたいせつにされた経験がない人間に、人をたいせつしろと求めるのも不条理なことです。
彼には犯罪をして世間を騒がせることで家族に対して復讐している気分もあるでしょう。

私たちは、こうした犯罪をする人間は異常者だと決めつけがちですが、その人間のことをよく知れば、私たちと同じ人間であることがわかります。
その認識を出発点に犯罪対策を立てなければいけません。

68894b960a6ab4386731cf1bf1567280-1024x683

トッド・フィリップス監督の「ジョーカー」を観ました。
ベネチア国際映画祭で金獅子賞をとったこともあって世界的に大ヒット中です。
この一本の中に、アメリカや日本などの先進国が今直面している問題のほとんどが詰め込まれているという意欲作で、金獅子賞を取ったのも納得です。

「バットマン」シリーズでバットマンの敵役であるジョーカーがいかにしてジョーカーになったかという物語です。
バットマンは出てきませんし、ハリウッド映画らしいアクションシーンもほとんどありません。
舞台のゴッサムシティは、ちょっと前のニューヨークという感じです。インターネットはありませんが、テレビの人気トークショーがそれに代わる役割を果たしています。

主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)は、ピエロを演じて生活の糧を稼ぎ、将来はコメディアンを目指しています。しかし、彼には脳の障害で笑い出すとなかなか止まらないという症状があり、悪ガキにいじめられたり、やることなすことうまくいきません。母親と二人の生活は貧しく、母親は昔家政婦として働いていた金持ちの家の主人に金銭的援助を頼む手紙を何度も出しています。彼は同じアパートに住むシングルマザーの黒人女性に思いを寄せますが、ストーカー行為をしてしまいます。

希望のない生活と、主人公の不安定な精神状態と、ニューヨークらしい街から、 マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」を連想します。それは監督の狙いでもあって、ロバート・デ・ニーロが重要な役で登場することからもわかります。

主人公の希望のない生活を描写するシーンが続くと、観ていてうんざりしそうなものですが、表現するべきことを的確に押さえていて、ホアキン・フェニックスの演技も素晴らしいので、引き込まれます。
ただ、ここについていけない人もいるでしょう。映画評を見ると、賛否がかなり分かれます。

母親が金持ちの家に出していた手紙を読んだことから、アーサーの出生の秘密がわかり、幼児虐待を受けていたこともわかります(脳の障害もそれが原因?)。
彼は福祉制度からカウンセリングと薬の支援を受けていましたが、予算が削られて支援は打ち切りになります。仕事でヘマをして、芸能事務所をクビになり、さらに母親が病に倒れて入院します。

ゴッサムシティはひどい格差社会です。アーサーはそこから這い上がれず、犯罪に手を染めます。

「タクシードライバー」の主人公は最後まで孤独でした。
しかし、アーサーの犯罪は格差社会で苦しむ人々の喝さいを浴び、彼はヒーローになります。
ここに格差社会の深刻化がうかがえます。また、「タクシードライバー」の主人公の過去はまったく描かれませんが、こちらは幼児虐待の過去があったことが描かれ、時代による人間観の変化もうかがえます。


この映画がアメリカで公開されたとき、ニューヨークでは犯罪を警戒して市内全域の映画館に警官が配置されたというニュースがありました。そのときは意味がわかりませんでしたが、映画を観ると納得できます。

このシリーズの最初の作品である「バットマン」(ティム・バートン監督)では、主人公のバットマン(マイケル・キートン)はくよくよと悩む屈折した男で、悪役のジョーカー(ジャック・ニコルソン)は底抜けに陽気な男です。ゴッサムシティはきわめてダークな雰囲気で、まるで悪の都市です。正義と悪が逆転したかのような描き方が、今回の「ジョーカー」につながっています。

今の世の中では、凶悪犯罪が起こると、犯人は徹底的に非難されます。しかし、ちゃんと調査すると、犯人はアーサーのように幼児期に虐待され、脳に障害を負っていることがわかるはずです。
池田小事件の宅間守や秋葉原通り魔事件の加藤智大の視点で見た世界を描いた映画とも言えます。
その意味で犯罪を肯定する映画ともとれ、公開に反対する声があったことも理解できますが、「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」を具現化しただけとも言えます。

しかし、この映画はそんなに重くなりません。
トッド・フィリップス監督は「ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い」などのコメディ映画を撮ってきた監督です。この映画でも、チャップリンの映画の一シーンが挿入され、エンディングシーンもコメディタッチで、コメディ映画を撮ってきた監督の心意気が示されます。

トッド・フィリップス監督は「凶悪な犯罪と格差社会を描くコメディ映画」という新機軸に挑戦して、みごとに成功しました。

girl-535251_1920
Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像 

悲惨な幼児虐待事件が起こると、「児童相談所や学校や警察はなにをしていたのか」という怒りの声が上がります。
確かに多くの幼児虐待事件では、子どもの体にアザがあるとか、家から叫び声がするとか、学校に出てこないとかの徴候があるもので、関係機関が連絡を密にして対応していれば防げたのにと感じられることが多いものです。
しかし、人間はいざ幼児虐待のような悲惨なことに直面すると、現実を認めたくないという心理に陥りがちです。というか、人類の歴史において、人間はずっとそうして否認してきました。
ですから私は、「児童相談所や学校や警察はなにをしていたのか」と怒る人もいざ自分がそうした場に直面するとうまく対応できないのではないかと疑っています。

次の記事を読んだとき、改めて私の疑いは間違っていなかったと思いました。

懲りない坂口杏里…何がしたいのか? “母親エピソード”で大炎上
 元カレのホストの自宅マンション内に侵入したとして、住居侵入容疑で逮捕(不起訴処分)された元タレントの坂口杏里(28)。現在はYouTubeで赤裸々告白の投稿を続けているが、ネット上で批判が絶えないのだ。
 今月に入って、YouTubeに「坂口杏里チャンネル」を開設した杏里。7日には2013年に死去した母、坂口良子さんの思い出を語ったのだが「あまりの内容に、“お母さんがかわいそう”などの批判の書き込みが相次ぎました」と芸能サイト編集者。
 幼いころ、机の中に隠していた0点のテストが良子さんに見つかり、こっぴどく叱られたというエピソードを明かした杏里。本来なら、そこからお母さんの優しさに触れるはずが、「柔軟剤をボトルごと、頭にブワーってかけられて」「頭ギトギトのまま、学校に一緒に行って謝罪をした」と一転“ホラー”な話題となったのだ。
 さすがにこれには「ただの悪口」「坂口良子さんのこと悪く言うな」「お母様の名前を出すのはやめましょう」などと書き込みが相次ぐことに。その後も遺産の話などを投稿したが、批判は後を絶たず。チャンネルを閉鎖し、新たに「ANRIちゃんねる」を立ち上げた。
 「ユーチューバーへの転身を宣言しましたが、芸能界復帰への足がかりにしようと思っているならマイナス効果しかない」と先の芸能サイト編集者。
https://www.zakzak.co.jp/ent/news/190914/enn1909140009-n1.html?ownedref=not%20set_main_newsTop

柔軟剤を頭からかけられたというのは、十分に虐待といえます。
これは嘘ではないでしょう。嘘を書く理由がありません。
非難する人も嘘だとして非難しているのではありません。

では、なにを非難しているかというと、事実そのもの、あるいは事実を表現したことを非難しているのです。
つまり幼児虐待の否認です。

この記事を書いた人も、「本来なら、そこからお母さんの優しさに触れるはずが」と、自分自身の虐待否認の考えを杏里さんに押しつけています。

こういう心理があるので、児童相談所の職員などでも幼児虐待に適切に対応できなかったりします。
これは職員を一方的に非難しても解決できるものではありません。



私は、この記事を読んで杏里さんの人生が迷走する理由がわかった気がしました。

坂口杏里さんは母親の坂口良子さんといっしょにテレビのバラエティ番組に出るなどして人気になりましたが、良子さんは2013年に死去。杏里さんは2016年ごろに芸能活動をほとんどやめて、キャバクラ嬢になり、AV出演やヘアヌード写真集を出し、デリヘル嬢にもなりました。ホストクラブ通いでできた借金を返すためだと言われていますが、本人は借金のことは否定しています。

ウィキペディアの「坂口杏里」の項目によると、2017年4月に知人のホスト男性から現金3万円を脅しとろうとしたとして恐喝未遂容疑で逮捕され(不起訴)、今年8月には同じ男性の自宅マンション内に侵入したとして逮捕されました。

もともと人気あるタレントだったのに、キャバ嬢、AV嬢、風俗嬢、二度の逮捕とみずから“転落”していったのが不可解でしたが、母親から虐待されていたとすれば納得がいきます。
AV嬢には親から虐待されていた女性が多いとされます。自己評価が低いために社会的評価の低い職業に抵抗がないことと、親のいやがることをして親に復讐する心理があるからです。
AV嬢からタレントになった飯島愛さんは「プラトニック・セックス」という自伝で父親から虐待されて家出したことを書いています。
スノーボード選手としてトリノ・オリンピックに出た今井メロ(成田夢露)さんも「泣いて、病んで、でも笑って」という本で、父親から虐待といえる壮絶なスパルタ教育を受けたことを書いていますが、キャバ嬢、風俗嬢、AV嬢になっています(私はこのブログで今井メロさんのことを「スパルタ教育を受ける不幸」という記事で書いたことがあります)。

杏里さんがテレビタレントをやめたのも、それは母親が敷いたレールだったからかもしれません。

母親の坂口良子さんはすばらしい女優でしたが、そのことと母親としてのあり方とはまったく別です。

ほとんどの人は迷走する杏里さんに批判的ですが、そういう人は同時に虐待の事実も否認します(引用した記事もそのスタンスで書かれています)。
虐待の事実を受け入れれば、迷走する杏里さんが理解でき、同情心もわいてくるはずです。

pink-rose-on-empty-swing-3656894_1920

政府が発表した「自殺対策白書」によると、自殺者総数はへりましたが、未成年の自殺はふえました。
幼児虐待が相次ぐ世の中では当然の結果でしょう。

未成年の自殺死亡率最悪…親子関係や進路に悩み
 政府は16日午前、2019年版「自殺対策白書」を閣議決定した。
 18年の自殺者数は2万840人で、9年連続減少した。前年から481人減り、37年ぶりに2万1000人を下回った。人口10万人当たりの自殺者数を示す自殺死亡率は、1978年に統計を取り始めて以来、最も低い16・5だった。ただ、19歳以下の未成年の自殺者数は前年より32人増えて599人となり、自殺死亡率は2・8と、78年の統計開始以来最悪だった。
 白書では、若者の自殺が深刻な問題となっていることから、過去10年の統計によって、原因を分析した。小中学生の自殺の原因は「親子関係の不和」「家族からのしつけ・叱責」などの家庭問題が多かった。中学生以降、高校生や大学生になると、「学業不振」や「進路に関する悩み」「うつ病」などが目立った。
 厚生労働省は、若年者に対する自殺対策として、昨年からSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)での相談事業を始め、昨年度は延べ2万2725件の相談があった。相談者は19歳以下の未成年(43・9%)が最も多く、女性が92・1%を占めた。相談内容は「メンタル不調」「自殺念慮」「家族」などが多かった。
 白書は「若者の状況を把握するとともに、対策の効果検証を行い、見直しを行っていくことが必要である」と指摘している。
https://news.livedoor.com/article/detail/16780227/

小中学生の自殺原因の「親子関係の不和」「家族からのしつけ・叱責」というのは、要するに親による虐待でしょう。

虐待で子どもが死んだり、大けがをして親が逮捕されたりする事件はあくまで氷山の一角で、目に見えない虐待は広範に存在しています。
虐待に耐えかねて自殺する子どもがいても当然です。ただ、自殺は事件ではないので、メディアに取り上げられません。親に虐待され、精神的に追い詰められて自殺した場合、親に殺されたも同然だと思うのですが。


高校生以降は、家庭よりも学校関係の自殺原因が多くなりますが、学校関係の内訳はこのようになっています。
自殺原因
「毎日新聞」2019年7月16日 夕刊より

「学業不振」とありますが、単なる学業不振では自殺しないでしょう。親から相当なプレッシャーをかけられていたに違いありません。
「進路の悩み」というのも、自分だけの問題ならなんとか対処できるはずです。自分の希望と違う進路を親から強要されるというようなケースが多いのではないでしょうか。
自殺原因というのは、周りの人間に都合よく解釈されるものです。

「教育虐待」と「しつけ虐待」が子どもの自殺の大きな原因と思われます。

それから、「いじめ」による自殺が2件しかないのが目を引きます。
「いじめ自殺」はつねにマスコミで騒がれますが、意外な少なさです。
いや、学校や教委が隠蔽するケースがあるので、実際は2件よりももっとありそうですが、それでも子どもの自殺総数からすれば少数です。

なぜマスコミが「いじめ自殺」について騒ぐのかというと、いじめっ子を悪者にして、親は悪くないことにできるからです。
新聞の購読者は子どもでなくて親ですから、どうしても親に都合のいい報道になります。

「自殺対策白書」は若年層の自殺について「第 3 節 若年層の自殺をめぐる状況」において分析していますが、「親の虐待が原因」というような指摘はありません。
これもマスコミと同じで、親に都合よく分析しているのです。

「親に虐待されて殺された子ども」のことは最近大きく報道され、人々は親を非難し、子どもに同情するようになりました。
「親に虐待されて自殺した子ども」についても同じであっていいはずです。

baby-1151351_1920
              Daniela DimitrovaによるPixabayからの画像 

人間が生きて成長していくためにはさまざまな栄養素が必要で、ビタミンCが欠乏すると壊血病になり、ビタミンB1が欠乏すると脚気になり、カルシウムが不足すると骨が弱くなるということは栄養学によって明らかになっています。同様に、人間の心が成長するためには愛情という栄養素が必要で、愛情が不足すると愛情欠乏症になります。しかし、愛情はビタミンやミネラルのような物質ではないので、このメカニズムは科学としてはいまだ明らかになっていません。

第二次大戦後、大量の孤児が発生し、孤児院などの施設に収容されましたが、衣食住が十分な環境であっても、孤児の死亡率が高いという現象が見られました。原因を探ったところ、母親的な存在との情緒的なつながりの不足と考えられ、子ども一人ずつに担当の看護婦を決めて世話をすることで改善しました。
以来、施設において愛情不足により、幼児の死亡率の高さ、身体の成長や言語の発達の遅れが生じることを
「ホスピタリズム(施設病)」というようになりました。
しかし、ホスピタリズムという言葉だと、施設特有の現象と誤解されるかもしれません。そのためかどうか、最近はほとんど使われなくなりました。

「愛情遮断症候群」という言葉もありますが、この言葉だと第三者が愛情を遮断したような誤解を生みます。
精神科医の岡田尊司氏は「愛着障害」という言葉を使っていて、これは割と広がっていますが、この言葉だと愛着するほうに問題があるようにも理解できます。

そこで、私は「愛情欠乏症」ないし「愛情欠乏症候群」という言葉を使っています。この
言葉がいちばん意味が明快ではないでしょうか。


最近、幼児虐待が社会問題化して、愛情不足の問題が否応なく認識されてきました。
わが子を殺したりケガさせたりする親は極端な例ですが、それ以外の親はみんな十分な愛情を子に与えているかというと、そんなことはありません。むしろどんな親も完全な愛情を与えられないというべきで、その不足の度合いによってさまざまな問題が生じてきます。

たとえば依存症が愛情欠乏のひとつの症状です。子ども時代に親に十分に依存できなかったために、なにかに極端に依存してしまうのです。
たとえば恋愛関係になると、恋人に極端に依存するので、「重い」と言われたりします。DVを受けても逃げられないのも、相手に極端に依存しているからです。振られてもその事実を受け入れることができずにストーカーになる人も同じだと思われます。
アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、買物依存症などは有名ですが、セックス依存症や仕事依存症、もっとほかにもあるはずです。

リストカットや摂食障害も愛情欠乏症です。これらはカウンセリングにかかることが多いと思われますが、カウンセラーもピンからキリまであるので、愛情不足に原因があると把握してくれる場合とそうでない場合とで、治り方がぜんぜん違ってきます。

私は以前、リストカットを繰り返す若い女性が出てくるドキュメンタリー番組を見たことがあります。その女性の手首には二十か三十くらいの傷がびっしりとついていて、私は見た瞬間、耐えがたいほどの痛々しい思いがしました。その女性の母親は、「死ぬのだけはやめてね」と言っていて、一見、娘の命をたいせつに思っているようですが、「私に迷惑をかけるのだけはやめてね」という意味としか思えません。娘は母親の愛情を得ようとしてリストカットを繰り返しているのでしょう。

不登校、引きこもり、家庭内暴力なども、原因はいろいろあるにせよ、愛情という心の栄養不足が根底にあります。 

人生になんの意味があるのだろうと悩む若者もいます。こういう悩みは哲学的だとしてほめる人もいますが、私の考えでは、これも愛情欠乏症の一種です。若いのに前向きに生きていけないのは、たいていは愛情不足が原因です。

 
これらをまとめて愛情欠乏症候群ということになりますが、愛情は客観的に測定できないこともあって、この病気に対する理解はまだまだです。

それに、親に向かって「あなたは子どもへの愛情不足です」と言うのは、最大級の人格否定になるので、なかなか言えません。
また、それを言うと子どもも傷つきます。親の愛情が足りないのは自分自身に愛される価値がないからだと思うからです。

しかし、「虐待の世代連鎖」という言葉があるように、親の愛情不足は多くの場合、その親自身が親から十分に愛されてこなかったことが原因です。また、夫婦仲が悪いとか低収入で生活が苦しいということも子どもへの愛情不足につながります。
いずれにせよ、子どもが栄養失調になるのは子どものせいでないように、子どもが愛情欠乏症になるのは子どものせいではありません。


愛情不足の親のあり方はさまざまです。暴力をふるったりネグレクトしたりするのはわかりやすいケースです。教育熱心は愛情の表れとされますが、愛情のない教育熱心はいくらでもあります。巧妙に子どもを支配する親は「毒親」と言われます。

愛情不足の親に対する子どもの反応はふたつに分かれます。
活動的で気の強い子どもは、親に反抗し、喧嘩し、家出したり、仲間といっしょに盛り場をうろついたりします。私はこれを「行動化する不良」と呼んでいます。若くして結婚して親元を離れることも多くあります。
活動的でなく気の弱い子どもは、争いを避けるために親に合わせるので「よい子」と思われたりしますが、心を病んで、不登校、引きこもり、家庭内暴力という方向に行きます。これを私は「行動化しない不良」と呼んでいます。

こうしたことはすべて親の愛情不足が原因ですが、世の中にはまだはっきりと認識されていません。しかし、いずれ脳科学や生理学や認知科学などが愛情を客観的に測定することを可能にし、そのときには栄養学と同様に愛情学が生まれ、世の中から愛情欠乏症候群は一掃されるでしょう。

adam-and-eve-1649339_1920
                 Enrique MeseguerによるPixabayからの画像

なぜ人間社会に幼児虐待という悲惨なことがあるのでしょうか。

幼児虐待は世代連鎖するとされます。つまり子どもを虐待する親は、自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いというのです。
そうすると、その親も子どものころ虐待されていたことになります。そして、その親もまた……とどんどんさかのぼっていくと、「人類最初の虐待親」にたどりつく理屈です。
もちろんそんな正確に連鎖するわけがありませんが、思考実験として「人類最初の虐待親はいかにして生まれたか」を考えるのもおもしろいでしょう。

反対に、いちばん最初から考えるという手もあります。
人類のいちばん最初のことは神話に書かれています。
もちろん神話は事実ではありませんが、なんらかの“真実”があるということもいえます。

旧約聖書の「創世記」に最初の人間であるアダムとイブのことが書かれています。アダムとイブは知恵の木から知恵の実を取って食べたためにエデンの園を追放された――と思っている人が多いのではないでしょうか。私も昔はそう思っていました。
しかし、実際は「知恵の木」でもなければ「知恵の実」でもありません。
この違いは重要です。

今はネットで簡単に聖書が読めます。次のふたつのサイトを参考に、要点をまとめてみました。

創世記(口語訳) - Wikisource

Laudate | はじめての旧約聖書 - 女子パウロ会


神は最初の人であるアダムをつくってエデンの園に住まわせた。エデンの園の中央に「命の木」と「善悪の知識の木」があった。神はアダムに「あなたは園のすべての木から満ち足りるまで食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。必ず死ぬからである」と言った。神はさらにイブをつくって、二人は夫婦となった。二人とも裸だったが、恥かしくはなかった。生き物のうちでもっとも狡猾な蛇はイブに、善悪の知識の木について、「食べてもあなた方は決して死ぬようなことはありません。 その木から食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者になることを神は知っているのです」と言った。イブはその実を取って食べ、アダムにも食べさせた。すると二人の目は開け、自分たちが裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、イチジクの葉で腰を隠した。二人が善悪の知識の木から食べたことを知った神は「人はわれわれの一人のように善悪を知る者となった。彼は命の木からも取って食べ、永久に生きるものになるかもしれない」と言い、アダムとイブを楽園から追放し、以後、人間は苦しみに満ちた生活を強いられるようになった――。

つまり「知恵の木」ではなく、「善悪の知識の木」ないし「善悪を知る木」なのです。

「善悪の知識の木」はヘブライ語の「エツ・ハ=ダアト・トーヴ・ヴラ」の直訳です。
どうしてそれが「知恵の木」と訳されることが多いかというと、「善と悪」には「すべての」という意味もあるからだというのです。つまり「すべての知識の木」だから「知恵の木」というわけです。
しかし、それは間違った解釈でしょう。
「知恵の木」と訳すと、そのあとの「神のように善悪を知る者になる」という言葉とつながりません。

神が善悪の判断をする限りは問題ありません。正しく判断するか、正しくなくても人間は受け入れるしかないからです。
しかし、人間が善悪の判断をすると、自分に都合よく判断します。
みんなが自分に都合よく判断すると、対立と争いが激化します。


この物語は基本的に、幼児期は母親に守られて幸せだった人間が自立するときびしい現実の中で生きなければならないことのアナロジーになっています。そのため誰でも心の深いところで共鳴するものがあるはずです。

子どもが自立するのは、昔なら十二、三歳でしょう。
しかし、善悪の知識を得た人間においては、親は子どもを善悪で評価します。子どもが言葉を覚えたころからそれが始まるでしょう、親から「悪い子」と見なされた子どもは、怒られたり、叱られたり、体罰をされたりします。
つまり人間が善悪の知識を得たことから幼児虐待は始まったのです。

楽園追放の物語は、人間は善悪を知ることで不幸になったということを教えてくれます。

このページのトップヘ