村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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アメリカの社会病理はますます進行し、銃犯罪、麻薬汚染、人種差別などが深刻化しています。リベラルと保守の分断もとどまるところを知らず、内戦の危機までささやかれています。
こうした社会病理の根底にあるのは、人間関係のゆがみです。
そして、人間関係のゆがみの根底にあるのは、おとなと子どもの関係のゆがみです。

「子どもの権利条約」の締約国・地域の数は196で、国連加盟国で締約していないのはアメリカだけです。
つまりアメリカは国家の方針として子どもの人権を尊重しない世界で唯一の国です。
こういう重要なことがほとんど知られていないのは不思議なことです。
子どもの人権を尊重しないことがさまざまな問題を生んでいます。


幼児虐待で死ぬ子どもの数は、日本では多くても年間100人を越えることはありませんが、アメリカでは毎年1700人程度になります。
もちろん死亡する子どもの数は氷山の一角で、はるかに多数の子どもが虐待されています。
西洋の伝統的な考え方として、理性のない子どもは動物と同様と見なして、きびしくしつけするということがあります。子どもの人権という概念がないために、それが改まっていないと思われます。

日本では不登校の子どもをむりやり学校に行かせるのはよくないという考えが広まってきましたが、アメリカでは義務教育期間は子どもは学校に通う義務があり(日本では親に子どもに教育を受けさせる義務がある)、不登校は許されません。しかし、むりやり子どもを学校に行かせようとしてもうまくいかないものです。
そんなときどうするかというと、子どもを矯正キャンプに入れます。これは日本の戸塚ヨットスクールや引きこもりの「引き出し屋」みたいなものです。
『問題児に「苦痛」を与え更生せよ 「地獄のキャンプ」から見る非行更生プログラム 米』という記事にはこう書かれています。
アメリカの非行少年更正業界は、軍隊式訓練や治療センター、大自然プログラム、宗教系の学校で構成される1億ドル規模の市場だ――州法と連邦法が統一されていないがゆえに、規制が緩く、監視も行き届いていない。こうした施設の目的は単純明快だ。子どもが問題を抱えている? 夜更かし? ドラッグ? よからぬ連中との付き合い? 口答え? 引きこもり? だったら更正プログラムへどうぞ。規律の下で根性を叩き直します。たいていはまず子どもたちを夜中に自宅から連れ去って、好きなものから無理矢理引き離し、ありがたみを感じさせるまで怖がらせる。だが、組織的虐待の被害者救済を目的としたNPO「全米青少年の権利協会」によると、懲罰や体罰での行動矯正にもとづく規律訓練プログラムの場合、非行を繰り返す確率が8%も高いという。一方で、認可を受けたカウンセリングでは常習性が13%減少することが分かっている。
大金持ちのお騒がせ令嬢であるハリス・ヒルトンもキャンプに入れられたことがあり、議会でこのように証言しました。
「ユタ州プロヴォキャニオン・スクールでは、番号札のついたユニフォームを渡されました。もはや私は私ではなくなり、127番という番号でしかありませんでした。太陽の光も新鮮な空気もない屋内に、11カ月連続で閉じ込められました。それでもましな方でした」とヒルトンは証言した。「首を絞められ、顔を平手打ちされ、シャワーの時には男性職員から監視されました。侮蔑的な言葉を浴びせられたり、処方箋もないのに無理やり薬を与えられたり、適切な教育も受けられず、ひっかいた痕や血痕のしみだらけの部屋に監禁されたり。まだ他にもあります」
普通の学校はどうなっているかというと、「ゼロ・トレランス方式」といわれるものが広がっています。
これはクリントン政権が全米に導入を呼びかけ、連邦議会も各州に同方式の法案化を義務づけたものです。
細かく罰則を定め、小さな違反も見逃さず必ず罰を与えます。小さな違反を見逃すと、次の大きな違反につながるという考え方です。違反が三度続くと停学、さらに違反が続くと退学というように、生徒個人の事情を考慮せず機械的に罰則を当てはめるわけで、これでは教師と生徒の人間的な交流もなくなってしまいます。

これは私個人の考えですが、昔のアメリカ映画には高校生を主人公にした楽しい青春映画がいっぱいありましたが、最近そういう映画は少ない気がします。子どもにとって学校が楽しいところではなくなってきているからではないかと思います。

学校で銃乱射事件がよく起こるのも、学校への恨みが強いからではないでしょうか。


幼児虐待は身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクトの四つに分類されますが、中でも性的虐待は「魂の殺人」といわれるぐらい子どもにダメージを与えます。
アメリカでは1980年代に父親から子どものころに性的虐待を受けたとして娘が父親を裁判に訴える事例が相次ぎました。いかにも訴訟大国アメリカらしいことですが、昔の家庭内のことですから、当事者の証言くらいしか証拠がありません。
ある心理学者が成人の被験者に、5歳のころにショッピングセンターで迷子になって親切な老婦人に助けられたという虚偽の記憶を植えつける実験をしたところ、24人の被験者のうち6人に虚偽の記憶を植えつけることに成功しました。この実験結果をもとに、セラピストが患者に性的虐待をされたという虚偽の記憶をうえつけたのだという主張が法廷で展開され、それをあと押しするための財団が組織されて、金銭面と理論面で父親を援助しました。
この法廷闘争は父親対娘だけでなく、保守派対リベラルの闘争として大規模に展開されましたが、最終的に父親と保守派が勝利し、逆に父親が娘とセラピストに対して損害賠償請求の訴えを起こして、高額の賠償金を得るという例が相次ぎました。
この顛末を「記憶の戦争(メモリー・ウォー)」といいます。
結局、家庭内の性的虐待は隠蔽されてしまったのです。

アメリカでは#MeToo運動が起こって、性加害がきびしく糾弾されているイメージがありますが、あれはみな社会的なケースであって、もっとも深刻な家庭内の性的虐待はまったくスルーされています。


ADHDの子どもは本来2~3%だとされますが、アメリカではADHDと診断される子どもが急増して、15%にも達するといわれます。親が扱いにくい子どもに医師の診断を得て向精神薬を投与しており、製薬会社もそれを後押ししているからです。


アメリカにおいては、家庭内における親と子の関係、学校や社会におけるおとなと子どもの関係がゆがんでいて、子どもは暴力的なしつけや教育を受けることでメンタルがゆがんでしまいます。それが暴力、犯罪、麻薬などアメリカ社会の病理の大きな原因になるのです(犯罪は経済格差も大きな原因ですが)。
そして、その根本には子どもの権利が認められていないということがあるのですが、そのことがあまり認識されていません。

たとえば、こんなニュースがありました。
「ダビデ像はポルノ」で論争 保護者が苦情、校長辞職―米
2023年03月28日20時32分配信
 【ワシントン時事】米南部フロリダ州の学校で、教師がイタリア・ルネサンス期の巨匠ミケランジェロの彫刻作品「ダビデ像」の写真を生徒に見せたところ、保護者から「子供がポルノを見せられた」と苦情が寄せられ、校長が辞職を余儀なくされる事態となった。イタリアから「芸術とポルノを混同している」と批判の声が上がるなど、国際的な論争に発展している。

 地元メディアによると、この学校はタラハシー・クラシカル・スクール。主に11~12歳の生徒を対象とした美術史の授業で、ダビデ像のほかミケランジェロの「アダムの創造」、ボッティチェリの「ビーナスの誕生」を取り上げた。

 ところが、授業後に3人の保護者から「子供がポルノを見ることを強制された」などと苦情が入った。教育委員会は事前に授業内容を保護者に知らせなかったことを問題視。ホープ・カラスキヤ校長に辞職を迫ったという。

この決定はミケランジェロを生んだイタリアで反響を呼んだ。ダビデ像を展示するフィレンツェのアカデミア美術館のセシリエ・ホルベルグ館長は、AFP通信に「美術史に対する大いなる無知だ」と批判。フィレンツェのダリオ・ナルデラ市長もツイッターで「芸術をポルノと勘違いするのは、ばかげている以外の何物でもない」と非難し、「芸術を教える人は尊敬に値する」として、この学校の教師を招待する意向を示した。

 フロリダ州では保守的な価値観を重視する共和党のデサンティス知事の主導で、一定年齢以下の生徒が性的指向を話題とすることを禁止する州法を成立させるなどの教育改革が強行されている。今回の措置には、米作家のジョディ・ピコー氏が「これがフロリダの教育の惨状だ」と指摘するなど、米国内でも波紋が広がっている。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023032800665&g=int
これは「芸術かポルノか」という問題のようですが、実は子どもの「見る権利」が侵害されているという問題です。「芸術かポルノか」ということをおとなが一方的に決めようとするからおかしなことになるのです。

アメリカではSNSが子どもにとって有害だという議論があって、1月末に米議会上院がSNS大手5社の最高経営責任者を招いて、つるし上げに近いような公聴会を行いました。
米保健福祉省は勧告書で子どものSNS利用は鬱や不安などの悪化リスクに相関性があるという研究結果を発表していて、そうしたことが根拠になっているようです。

しかし、SNS利用が「子どもに有害」だとすれば、「おとなに無害」ということはないはずです。程度は違ってもおとなにも有害であるはずです。
子どものSNS利用だけ規制する議論は不合理で、ここにも「子どもの権利」が認められていないことが影響しています。

アメリカの保守派とリベラルの分断は、おとなと子どもの分断からきていると理解することもできます。


文科省は2005年に「問題行動対策重点プログラム」にゼロ・トレランス方式を盛り込みました。
また、日本でも「子どもに有害」という観点からSNS利用規制が議論されています。
しかし、アメリカのやり方を真似るのは愚かなことです。
アメリカは唯一「子どもの人権」を認めないおかしな国だからです。

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マンガ家の西原理恵子氏の長女である鴨志田ひよ氏が昨年7月にXに「アパートから飛び降りして骨盤折りました。もう既に入院生活苦しいですが、歩けるようになるまで頑張ります」と投稿したことから、西原理恵子氏は毒親ではないかということがネットの一部で話題になりました。

ひよ氏は女優として舞台「ロメオとジュリエット」に出演するなどし、エッセイも書いているようです。ネットの情報によると23歳です。

西原氏は「毎日かあさん」というマンガで子育ての日常を描いて、そこに「ぴよ美」として登場するのがひよ氏です。「毎日かあさん」は毎日新聞に連載された人気漫画で、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、手塚治虫文化賞を受賞しています。
しかし、ひよ氏はマンガで自分のことが描かれるのは許可なしに個人情報がさらされることだとして抗議していました。
ほかにもブログで母親から虐待されたことについていろいろと書いていました。
しかし、毒親問題についての取材依頼は断っていたようです。

そうしたところ、「SmartFLASH」に【『毎日かあさん』西原理恵子氏の“毒親”素顔を作家・生島マリカ氏が証言「お前はブス」「家を出ていけ」娘を“飛び降り”させた暴言虐待の9年間】という記事が掲載されました。
作家の生島マリカ氏はひよ氏が14歳のころに西原氏から「娘が反抗期で誰の言うことも聞かないから、面倒を見てほしい」と頼まれて関わるようになり、そのときに知った西原氏の毒親ぶりを語ったのです。

もっとも、それに対して西原氏はX上で「事実を歪曲したものです」「今回の記事も娘への対面取材のないまま掲載しています」「みなさまはどうぞ静かにお見守りくださいますようお願い申し上げます」といった声明を発表しました。
ひよ氏もXで「もう関わりたくないのでそっとしておいて下さい」「飛び降りた理由家族とかそういうんじゃない」と表明し、虐待に関するブログとXの記述を削除しました。

なお、西原氏と事実上の夫婦関係にある高須克弥氏も「僕はこの件については真実を熟知しております。西原理恵子は立派なお母さんです。虐待はしていないと断言できます」と表明しました。

ひよ氏の父親は戦場カメラマンの鴨志田穣氏で、アルコール依存症のために西原氏と離婚、ガンのために2007年に亡くなりました。その後、西原氏は高須氏と夫婦関係になりましたが、ひよ氏はずっと父親を慕っていました。


ひよ氏が「そっとしておいて下さい」と言うならそうするべきですが、そうするべきでない事情もあります。
西原氏も高須氏も虐待はなかったと主張していますが、ひよ氏はブログやXに母親から虐待されたことを書いていましたし、生島氏も基本的に同じことを述べています。
どちらが正しいかは明らかでしょう。
西原氏は自分が虐待したというのは不都合な事実だから否定しているだけです。

しかし、ここでひよ氏が虐待はあったと主張して西原氏とやり合ったら、いろんなメディアが食いついて、世の中を騒がせることになります。
ひよ氏はそうなるのがいやなので、表向き否定したのです。

しかし、このまま虐待の事実がなかったことにされると、ひよ氏のメンタルが心配です。
ひよ氏がブログやXで西原氏から虐待されたことを公表したのは、理解されたかったからです。理解されればある程度癒されます。

ひよ氏が虐待に関するブログなどを削除しても、まとめサイトなどに残っています。
しかし、本人が削除したものを引用するのはよくないので、まだブログに残っている文章を引用します。

「ひよだよ」の2021年9月の文章です。
手首の手術をついにするかも

なんか、ひよちゃん第1章完結、のような気分。

手首の間接から肘まで、の傷跡を、一本の線にするんだけど、最初は記録にこの傷跡達をなにかに収めて起きたいな、、なんて思って居たけれど。

ただ、私にとって負の遺産でしかないことは、二重まぶたを作り直した時に立証された。

12歳の時ブスだからという理由で下手な二重にされ、後に自分で好きなデザインで話の会う先生に二重にしてもらったら、自分のことが好きでたまらなくなった。

たぶん、これが、普通の人がこの世に生を受けた瞬間から持ってる当たり前の感情なのだろう。


あとは手首だ。長い歴史、たくさん私を支えてくれた手首。この手首があと少しだけ、弱くあと数ミリでも、静脈が太かったり表面に近かったりしたら、いま、私はいないだろう。

リストカットを繰り返していると、同じところは切りにくいので、傷跡が手首から腕へと広がっていきます。
リストカットは死の一歩手前の行為だということがよくわかります。
なお、ひよ氏は望まないのに西原氏から二重まぶたの整形手術を強制されました。これだけでも立派な虐待です。

次は飛び降りて骨折した約1か月後に書かれた文章です。
文章が、うまくかけない、今までは脳にふわふわと言葉が浮かんできたのに。

ずっと風邪薬でodして、ゲロ吐いて、座ってタバコ吸って、たぬき(匿名掲示板)で叩かれてる自分を見て泣いてた。気づいたら今だ。

吐いても吐いても何故か太って行って、冷静な判断ができる時にiPhoneをみると、食事をした形跡がある。

泣いて泣いて、涙が全てを枯らしてくれればいいのにとねがいつづけても、何も解決することはなく、ただ、現実が強く浮かび上がる。

匿名で人を殺すこと、言葉で人を殺すこと、全てが容易で、あまりにも単純すぎた。

愛されてることが小さく見えて、匿名の言葉が体内で膨らんでいった。

歩んでいくことを、辞めたくなった。

耐えることも、我慢するのもおわりだ、虫の様、光を求め続け、その先にある太陽に沈みたかった。

ありふれた喜びや幸せをこれからも感じられないなら、辛いことが脳内でいっぱいになってるのなら、私は消えて無くなりたかった。

風邪薬のオーバードーズと摂食障害がうかがえます。
飛び降りた原因ははっきりしません。「自殺未遂」と決めつけるのも違うと思いますが、ひよ氏が生と死の崖っぷちを歩いていることは感じられます。


ひよ氏がなぜそうなったかは、「SmartFLASH」の記事における生島氏の次の言葉から推測できます。

「最初は『ひどい頭痛がするから病院まで付き添ってほしい』という相談でした。当然『お母さんに相談したの?』と聞いたら、『相手にしてくれないし、もし病院に行って何もなかったら怒られる』って。体調不良の娘を叱ることがあるのかと、そのときから不信感が芽生えたんです」(同前)

子どもの体調が悪いとき、誰よりも心配して世話をしてくれるのが母親です。
母親がまったくその役割を果たさなくて、ほかに誰もその役割を果たしてくれる人がいないと、子どもは自分の命の価値がわからなくなります。
リストカットは、なんとか自分の命の価値を確かめようとする行為ではないでしょうか。

ひよ氏にとっては、母親である西原氏が過去の虐待を認めて謝罪してくれれば理想でしたが、現実には西原氏は虐待を全面否定しました。
ひよ氏もそれに同調していますが、あくまでうわべだけです。
これではひよ氏にとってはまったく救いがありません。
最悪の事態まで考えられます。
ひよ氏の身近な人やカウンセラーが彼女の苦しみを受け止めてくれるといいのですが。


世の中もひよ氏の思いを受け止めていません。
西原氏が虐待を否定する声明を出したとき、「嘘をつくな。ちゃんとひなさんに謝れ」という声はまったく上がりませんでした。
結局、虐待を否定する親の声だけがまかり通っています。


幼児虐待を経験しておとなになった人を「虐待サバイバー」といいます。
虐待される子どもは声を上げることができませんが、虐待サバイバーなら声を上げることは可能です。
しかし、かりに声を上げても、ひよ氏もそうですが、世の中は受け止めてくれません。

性加害の被害者は、昔は沈黙を強いられていましたが、最近ようやく声を上げられるようになり、世の中も受け止めるようになってきました。
虐待サバイバーの声も受け止める世の中に早くなってほしいものです。

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いじめ防止対策推進法が施行されて9月28日で10周年となりました。
法律をつくった効果はあったのでしょうか。

2021年度の小中高におけるいじめの認知件数は61万5351件と過去最多となりました。
認知件数は、学校が隠蔽をやめてまじめに報告しても増えますが、自殺などの「重大事態」も705件と前回調査から37%増えています。
いじめ防止法の効果はほとんどなかったといえるでしょう。

いじめは複雑な問題です。
法律をつくったらいじめが解決した――なんていううまい話があるわけありません。

いじめ防止法で唯一評価できるのは、いじめの定義がされたことです。
「他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為」により「対象生徒が心身の苦痛を感じているもの」がいじめであるとされました。
つまりいじめ被害者の「苦痛を感じている」という主観でよくなったのです。
いじめる側の「これはいじめじゃなくてイジリだ」というような言い分は通用しなくなりました。

しかし、マイナスの面もあります。
いじめを児童生徒と児童生徒の間に起こることと狭く定義したのです。
つまり教師の行為は不問とされたのです。
実際は、教師が生徒に体罰をしたり暴言を吐いたりということが行われています。この行為はいじめと同じか、いじめよりも深刻です。教師の体罰・暴言を受けた生徒がストレス発散のためにほかの生徒をいじめるということもありえます。
教える力や指導力のない教師が、思い通りにならない生徒にいら立ちをぶつけてクラスの空気が悪くなり、それがいじめを生むということもありえます。

親から虐待されている生徒もいます。
いつも親から殴られている生徒がほかの生徒を殴るということもあるでしょう。
親から虐待されているために自己評価が低く、そのためほかの生徒からいじめられるということもあるでしょう。

つまりいじめというのは、学校や家庭のあり方が影響し、さらには社会のあり方も影響しますから、きわめて複雑なのです。
それをいじめ防止法は、生徒間の問題に限定してしまったわけで、これではいじめの原因も把握できないし、いじめ防止の方法もわかりません。
いじめ防止法ができてもいじめがへらないのは当然です。

どうしてこういう無意味な法律ができたのでしょうか。
それは、法律が制定された当時、社会がいじめに関して異常な心理状態にあったからです。


2011年10月、大津市で中学2年生の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺をするという事件がありました。
学校は自殺原因究明のために全校生徒を対象にアンケートを行い、その中に「自殺の練習をさせられていた」という記述があったことがマスコミに報じられると、世の中は騒然としました。
「自殺の練習をさせられていた」というのは確かにショッキングです。そんないじめをされたら、自殺の原因になってもおかしくありません。

私はこのことをブログで取り上げよう思って、いくつかのニュースを詳しく読んでみました。すると、「自殺の練習をさせられていた」というのはあくまで無記名のアンケートに書かれていただけで、具体的な証言も証拠もありませんでした。
私はこんな不確実なことを書くわけにはいかないと思って、ブログで取り上げるのは見合わせました。
ところが、それからもどんどん報道は加熱して、いつの間にか「自殺の練習」はあったことにされ、いじめ加害者とされる中学生はネットで名前をさらされ、猛烈なバッシングを受けました。

私は「自殺の練習」を疑っていたこともあって、事態を冷静に眺めることができました。
そうすると、男子中学生の自殺の主な原因は、父親による虐待だったのではないかと思えました。

自殺した生徒は「家族にきびしく叱られる」などと担任に何度か相談していました。当時、母親は家を出て、生徒は父親と暮らしていました。ですから、担任は生徒の自殺の原因は父親との関係だろうと判断し、そのことは学校や教育委員会にも伝えられていました。
しかし、父親は自分が自殺の原因だとは思いたくないので、同級生のいじめが原因だと思い、いじめの被害届を警察に出しますが、3度にわたって警察に被害届の受け取りを拒否されます。
のちにこの警察の態度は非難されますが、警察はいじめはほとんどなかったと判断していたのでしょう。
学校や教育委員会の態度も、いじめの調査に積極的でないことから「いじめを隠蔽している」として非難されましたが、基本的に自殺の原因は父親にあると思っていたわけです。
大津市の越直美市長は「自殺少年は父親からDVを受けていた」と語りましたし、澤村憲次教育長は「学校からは亡くなったお子さんの家庭環境に問題があると聞いている」と語りました。
もっとも、こうした認識は世間から「責任逃れ」と受け止められ、よりいっそうの非難を招きました。

冷静に考えて、自殺の原因として、同級生のいじめと父親の虐待の両方があったでしょう。
問題はその割合がどれくらいだったかです。

結局、「自殺の練習」については、県警によって有力な目撃情報はなかったと結論づけられました。
また、自殺少年の親はいじめ加害者の少年3人に対して約3850万円の損害賠償請求の訴えを起こし、第一審では約3750万円の支払いが命じられましたが、控訴審では父親が自殺少年に暴力をふるうなどしていたことによる「過失相殺」を認めて、約400万円に減額し、最高裁で約400万円の判決が確定しました。
第一審は世間の熱狂に引きずられた判決でしたが、控訴審では冷静な判決になったと思われます。

判決で「過失相殺」という言葉が使われるぐらいですから、父親の虐待と同級生のいじめの両方が自殺の原因だったということでしょう。


中学生ぐらいの子どもは、家庭と学校が生活圏のほとんどすべてです。もし自殺すれば、家庭と学校の両面で原因を探さなければなりません。
家庭と学校とどちらが子どもにとって重要かといえば、もちろん家庭です。
もし学校でひどいいじめにあっていたとしても、家庭生活が幸せなら自殺しないでしょう。
それに、まともな親なら、子どもの様子から問題を察知して、子どもが自殺する前に対処するはずです。
ですから、もし子どもが自殺すれば、とりあえず家庭に問題があっただろうと想像できます。
自殺の原因は複合的なのが普通ですが、第一の原因は家庭にあって、学校でのいじめがあったとしても、それは第二の原因でしょう。


大津市で中学2年生の男子生徒が自殺したというときも、私は家庭環境はどうなっていたのだろうかと考えました。
ところが、「自殺の練習」ということもあって、報道はいじめのことばかりです。自殺生徒の家庭のことはまったく報道されないので、家族構成すらわかりません。父親は盛んにメディアに出てきますが、母親はまったく姿が見えないので、どうなっているのかと思っていました。両親は不仲で、母親は家を出ていたというのは、かなりあとになってからわかりました。

学校でのいじめのことばかり報道して、自殺少年の家庭環境のことはまったくといっていいほど報道しないというところに、社会のいちばん深い病理が表れています。
中学2年生の少年が自宅マンションから飛び降り自殺をしたら、家庭に問題があったのだろうと推測されます。親から虐待されていた可能性が大です。しかし、その問題はまったく追及されません。
しかし、少年が学校でいじめにあっていたかもしれないとなると、嵐のように報道されます。

これはどういうことかというと、いじめが原因で自殺したということになれば、家庭内で虐待はなかったということになります。
現に越直美市長の「自殺少年は父親からDVを受けていた」という言葉はかき消されてしまいました。

ほとんどの親は子どもをガミガミと叱り、勉強に追い立て、ときに体罰をしています。
子どもが自殺したというニュースに接すると、こうした親は不安になります。
しかし、自殺の原因が学校でいじめであったということになれば、安心できます。
つまり「幸せな家族」幻想が守られるわけです。

このときは、メディアだけでなくおとな社会全体が家庭内の虐待を隠蔽し、その代わりに学校でのいじめに自殺の責任を押しつけました。
しかも、それがきわめて熱狂的でした。
その熱狂が「いじめ防止法」をつくらせたのです。
酒鬼薔薇事件のときの熱狂が少年法改正を生んだのと同じです。

ですから、いじめ防止法は不純な動機でつくられました。
その隠れた目的は、家庭内の虐待の隠蔽です。
そのため、いじめは子どもの間の出来事とされ、いじめの加害者も被害者も家庭環境の影響を受けているという当然のことが無視されました。
こんな法律になんの効果もないのは当然です。
子どもは家庭で親から、学校で教師からの影響を受けるということを前提に、法律をつくり直さなければなりません。


なお、幼児虐待を隠蔽して、「幸せな家族」幻想を維持しようとすることは今も行われています。
そのため、子どもが死ぬか大ケガをする事態になってやっと幼児虐待が表面化するということが少なくありません。


大津市の中学2年生の自殺事件については、私は十本余りのブログ記事を書いて、「大津市イジメ事件」というカテゴリーにまとめています。
世の中の100%近い人がいじめと学校や教育委員会の対応を糾弾していたときに、少年の自殺の主な原因は家庭内のことにあると主張したので大炎上しましたが、結果的に私の主張が正しかったわけです。

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京都アニメーション放火殺人事件の裁判員裁判が9月5日から始まりましたが、マスコミが今までと違って、青葉真司被告の生い立ちを詳しく報道しています。
検察も冒頭陳述で青葉被告の生い立ちにかなり言及しました。
少しずつ世の中の価値観も変わってきているようです。

だいたいこうした合理的な動機のない凶悪事件の場合、犯人はほぼ確実に幼児期に親や親代わりの人間から虐待を受けています。「非人間的な環境で育ったことが原因で非人間的な人間になった」という因果関係があるだけです。
ところが、2008年の秋葉原通り魔事件の場合、犯人の加藤智大が派遣切りにあったこと、携帯電話向けの電子掲示板に依存していたところなりすましの被害にあったことなどが犯行の引き金になったという報道ばかりでした。
ただ、週刊文春と週刊新潮だけが加藤が母親に虐待されていたことを報じました。
このころから少しずつマスコミが凶悪事件の犯人の生い立ちを報じるようになったと思います。

青葉被告の生い立ちはどうだったのでしょうか。
青葉被告は1978年生まれ、埼玉県さいたま市出身で、両親と兄と妹の五人家族でしたが、小学校3年生のときに両親が離婚して母親は家を出ていきました。父親はトラック運転手、タクシー運転手をしていましたが、交通事故を起こして解雇され、それから貧困生活になります。青葉被告は父親からひどい虐待を受けます。家はゴミ屋敷になり、彼は日常的に万引きをするようになります。母親に会いにいったこともありますが、母親には会えず、母方の祖母に「離婚しているのでうちの子ではない」と言われて追い返されたそうです。女性の下着を盗んで逮捕され、コンビニ強盗をしたときは懲役3年6か月の実刑判決を受けました。父親は1999年にアパートで自殺し、その後、兄、妹も自殺しています。なんともすさまじい家庭だったようです(兄と妹の自殺は週刊文春が報じていますが、裁判には兄と妹の調書が提出されています。自殺していないのか自殺前の調書かは不明)。
ただ、彼は中学は不登校になりますが、定時制高校は皆勤だったそうで、同じコンビニに8年間勤務したこともあります。


青葉被告が父親からどのような虐待を受けたかは公判で明らかになっています。
『「体育祭なんか行くんじゃねぇ」傍聴から見えた青葉真司被告の"壮絶"家庭環境 ズボンをアイロンで乾かし父親が激高「逆らえない」絶対的服従に近い父親への忠誠心【京アニ裁判】』という記事から3か所を引用します。


ところが離婚してしばらくすると、父親は徐々に、青葉被告や兄を虐対するようになったという。


青葉被告「父から正座をさせられたり、ほうきの柄で叩かれたりしていた」
弁護人「父にベランダの外に立たされたことは?」
青葉被告「『素っ裸で立ってろ』と言われた記憶がある」
弁護人「酷い言葉をかけられたことは?」
青葉被告「日常茶飯事すぎて、わからない」


さらに、青葉被告が父親に対して、「絶対的服従」に近い忠誠心を持っていたと思える経緯が明かされた。

中学時代、青葉被告は体育祭で履くズボンをアイロンで乾かしていたところ、突然、父親に怒られたと話した。



青葉被告「中学1年生の時に体育祭でズボンをアイロンで乾かしていた。すると、『何で乾燥機を使わないんだ』と怒られた。そして『体育祭に行くんじゃねぇ』と言われ、体育祭に行けなかった」

弁護人「実際に行けなかった?」

青葉被告「そう言われたら、逆らえなかった」

弁護人「アイロンで乾かしてもいいと思うが、父から理由は言われた?」

青葉被告「理由というか、もう意味もなく理不尽にやる、そこに理由はない」


さらに、青葉被告が柔道の大会で準優勝した際、贈呈された盾を「燃やせ」と父親から言われ、「1人で燃やした」というエピソードを話した。



弁護人「父親からは、どうしてこいと言われた?」


青葉被告「燃やしてこいと言われた」


弁護人「燃やす理由は?」


青葉被告「そこに理解を求める人間ではない。ああしろ、こうしろと、それだけ。上意下達みたいな感じ。燃やすしか方法はない」


弁護人「実際に燃やした?」


青葉被告「自分で燃やした」

子どもを虐待する親にまともな論理などありません。子どもはただ不条理な世界に置かれるだけです。
彼がまともな人間に育たなかったのは当然です。
うまく人間関係がつくれないので、ひとつところに長く勤めても、信頼を得て責任ある仕事を任されるということにはなりません。
小説家になるという夢を追いかけたのは、むしろよくやったといえるでしょう。
しかし、普通の人間なら、夢が破れても平凡な人生に意味を見いだして生きていけますが、彼の場合は、夢が破れたら、悲惨な人生の延長線上を生きていくしかないわけです。


このような人間の犯罪はどう裁けばいいのでしょうか。
ここで注意しなければいけないのは、私たちは日ごろ「死ね」などという言葉は使わないようにしていますが、このような事件のときは「死刑にしろ」ということを公然と言えるので、日ごろ抑圧している処罰感情が噴き出して、過剰に罰してしまう傾向があるということです。

この事件は36人が死亡、32人が重軽傷を負うという大きな被害を出しました。
しかし、青葉被告はそういう大量殺人を意図したとは思えません。結果がそうなっただけです。
カントは、罪というのは結果ではなく動機で裁くべきだと言っています。36人死亡という結果で裁くのはカントの思想に反します。
もっとも、刑事司法の世界では、カントの説など無視して結果で裁くということが普通に行われていますが。

こういう事件の犯人に死刑も意味がありません。犯行が「拡大自殺」と同じようなものだからです。
死刑にすると、抑止力になるどころか、逆に「死刑になりたい」という動機の犯行を生みかねません。

刑事司法の論理では、こうした犯罪は犯人の「自由意志」が引き起こしたととらえます。つまり人間は自分の心を自由にコントロールすることができるので、心の中に「悪意」や「犯意」が生じれば、それは本人が悪いということになります。
「犯行をやめようと思えばやめられたのにやめなかった」という判決文の決まり文句がそれをよく表しています。

もっとも、今は文系の学者でも大っぴらに「人間には自由意志がある」と言う人はいないでしょう。
自由意志があることを前提にしているのは刑事司法の世界ぐらいです。


しかし、今回の裁判では検察の考えが少し変わったかもしれません。
検察側の冒頭陳述は、「犯意」ではなく「パーソナリティー」を強調したものになりました。
『冒頭陳述詳報(上)「京アニ監督と恋愛関係」と妄想、過度な自尊心と指摘』という記事から、「パーソナリティー」という言葉が使われたセンテンスだけ抜き出してみます。


「京アニ大賞に応募した渾身(こんしん)の力作を落選とされ、小説のアイデアまで京アニや同社所属のアニメーターである女性監督に盗用されたと一方的に思い込み、京アニ社員も連帯責任で恨んだという、被告の自己愛的で他責的なパーソナリティーから責任を転嫁して起こした事件」
「親子の適切なコミュニケーションが取れていなかったため、独りよがりで疑り深いパーソナリティーがみられる」
「うまくいかないことを人のせいにするパーソナリティーが認められる」
「不満をため込んで攻撃的になるパーソナリティーが認められる」
「ここでも不満をため込んで攻撃的になるパーソナリティーがみられる」
「こうした妄想も疑り深いパーソナリティーがみられる」

しかし、犯行を被告のパーソナリティーのせいにしても、被告がそのパーソナリティーになったのは被告のせいではありません。
人間は生まれ持った性質と育った環境というふたつの要素によってパーソナリティーを形成しますが、そのどちらも本人は選べません。ある程度成長すると環境は選べますが、子どもにはできません。
青葉被告も生まれたときはまともな人間だったでしょう。しかし、父親のひどい虐待で傷ついてしまいました。
たとえていえば、新車として納品されたときはまともだったのに、ボコボコにされてポンコツ車になったみたいなものです。青葉被告はもの心ついて自分で車を運転しようとしたときには、真っ直ぐ進もうとしても車は右や左にぶれて、ブレーキやアクセルもうまく機能せず、あちこちぶつけてばかりという人生になりました。
青葉被告は自分がポンコツ車に乗っているとは思わないので、ぶつかるのは向こうが悪いからだと思います。それを人から見ると、「逆恨みする攻撃的なパーソナリティー」となるわけです。

この「パーソナリティー」は「脳」とつながっています。
厚生労働省は「愛の鞭ゼロ作戦」というキャンペーンを展開していて、そこにおいて幼児期に虐待された人は脳が委縮・変形するということを強調しています。

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厚生労働省のホームページより

脳が委縮・変形した人を一般人と同じように裁いていいのでしょうか。

心理的な面から見ると、幼児期にひどい虐待を受けた人は複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症することが多いものです。
複雑性PTSDは適切な治療を受ければ治癒します。
ということは、虐待によって委縮・変形した脳も本来の形に戻る可能性があるということでしょう。

青葉被告のような凶悪犯には、マスコミや被害者遺族は「謝罪しろ」「反省しろ」と迫りますが、虐待によって脳やパーソナリティがゆがんでいれば、反省するわけがありません。
適切な治療で青葉被告の心を癒し、青葉被告が“真人間”になれば、自分の罪に向かい合って、反省や謝罪の言葉を口にするようになるでしょう。

こんな凶悪犯が真人間になるのかと疑問に思うかもしれませんが、周りの人間の対応次第で可能です。
青葉被告の治療にあたった医師団と青葉被告はこんな会話をしていました。『「“死に逃げ”させない」ぶれなかった主治医 “予測死亡率97.45%”だった青葉被告 4カ月の治療を記した手記 京アニ放火殺人』という記事から3か所を引用します。


上田教授の手記より:
スピーチカニューレを入れ替えすると、声が出たことに驚いていた。「こ、声が出る」「もう二度と声を出せないと思っていた」そういいながら泣き始めた


鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:
で、そのあともずっとその日は泣いていたので、夕方にまた「なんで泣くんだ」って話を聞いたら、自分とまったく縁がないというか、メリットがない自分にここまで治療に関わる人間、ナースも含めて、いるっていうことに関して、そういう人間がいるんだという感じでずっと泣いていました



(Q.青葉被告と会話を交わす機会もあったと思うが?)

医療チームの一員 福田隆人医師:

何回かしゃべる機会はあったんですけど、一番心に残っているというか、克明に覚えているのは、「まわりに味方がいなかった」っていうのが一番言葉で残ってて



医療チームの一員 福田隆人医師:

どこかで彼の人生を変えるところはあったんじゃないかなっていうのを、その言葉を聞いて思って。僕たちって治療を始めたときから転院したときのことまでしか知らないですけど、40年以上の人生があって、どこかで支えとなる人がいたら、現実はもうちょっと変わったんじゃないかなっていうのは、そのとき思いました



鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:


自分も全身熱傷になったことは予想外?



青葉真司被告:


全く予想していなかったです。目覚めたときは夢と現実を行ったり来たりしているのかと思いました。僕なんか、底辺の中の“低”の人間で、生きる価値がないんです。死んでも誰も悲しまないし、だからどうなってもいいやという思いでした



鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:


俺らが治療して考えに変化があった?



青葉真司被告:


今までのことを考え直さないといけないと思っています



鳥取大学医学部付属病院の上田敬博教授:


もう自暴自棄になったらあかんで



青葉真司被告:


はい、分かりました。すみませんでした


私の考えでは、青葉被告のような人間を罰するのは間違っています。

今の司法制度では、心神喪失と心神耗弱の人間には刑事責任能力があまり問えないことになっていて、場合によっては無罪もあります。
心神耗弱は、精神障害や薬物・アルコールの摂取などの原因によって判断能力が低下した状態とされますが、その原因に幼児虐待によってパーソナリティーや脳にゆがみが生じたことも付け加えればいいわけです。

被虐待者である犯人の責任を問わない代わりに、虐待した親の責任を問えばいいわけです。
今は犯人にすべての責任を負わせているので、虐待した親は無罪放免になります(実際は水面下で周囲の人から陰湿な迫害があるでしょう。はっきり責任を問えばそういうこともなくなります)。
今の時代、幼児虐待の防止が大きな課題になっているので、子どもを虐待した親の責任を問う制度をつくることには大きな意味があります。

なお、「虐待されても犯罪者にならない人もいる」と言って、虐待と犯罪の関係を否定する人がいますが、虐待といっても千差万別ですから、虐待されても犯罪者にならない者がいるのは当たり前です。
少なくとも世の中から幼児虐待がなくなれば青葉被告のような犯罪者もいなくなることは確かです。

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私はコペルニクスの地動説に匹敵するような画期的な理論を発見し、別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」において紹介しています。
「コペルニクスの地動説に匹敵する」とは大げさだと思われるかもしれませんが、実際そうなのだからしようがありません(私は「究極の思想」とも呼んでいます)。

これまでは「天動説的倫理学」から「地動説的倫理学」への転換について書いていたので、ちょっとむずかしかったかもしれませんが、これからはわかりやすくなります。

コペルニクスの地動説は、太陽の周りを地球や金星や火星が回っている図を見るだけで理解できますし、金星や火星の動きはニュートン力学で明快に説明できます。
コペルニクス以前のプトレマイオスの天動説の天文学でも、金星や火星の動きを説明する理論が一応あったのですが、複雑で難解でした。
思想や哲学というと難解なものと決まっていますが、それはプトレマイオスの天動説と同じで、根本的に間違っているからです。


「道徳観のコペルニクス的転回」は第4章の5「とりあえずのまとめ」まで書いて、しばらく休止していましたが、今回公開分はその続きになります。
以前のものを読まなくても、これだけで十分に理解できますが、「道徳観のコペルニクス的転回」について簡単な説明だけしておきます。

動物は牙や爪や角を武器にして生存闘争をしますが、人間は主に言葉を武器にして互いに生存闘争をします。言葉を武器にして争う中から道徳が生まれました。「よいことをせよ。悪いことをするな」と主張して相手を自分に有利に動かそうとするのが道徳ですが、この善悪の基準は各人の利己心から生まれたので、人間は道徳をつくったことでより利己的になり、より激しく生存闘争をするようになりました。
一方、争いを回避する文化も発達しました。道徳ではなく法律や規則などで社会の秩序を維持することで、これを法治主義や法の支配といいます。文明が発達してきたのは、道徳の支配のおかげではなく法の支配のおかげです(あと、経済活動も道徳と無関係に行われています)。
しかし、法の支配が及ばない領域があります。ひとつは国際政治の世界で、もうひとつは家庭内です。このふたつはまだ道徳と暴力の支配する世界です。

家庭内には夫婦の問題もありますが、ここでは親子の問題だけ取り上げています。
「究極の思想」の威力がわかるでしょう。



第5章の1「教育・子育て」
「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すると、世界の見え方が変わってくる。
これまでは誰もが文明から未開や原始を見、おとなから子どもを見ていた。これでは物事の関係性がわからない。進化の系統樹は、バクテリアやアメーバを起点とするから描けるのだ。人間を起点として進化の系統樹が描けるかどうかを考えてみればわかる。地球を中心にして太陽系の図を描けるかというのも同じだ。

子どもが自然のままに行動をしていると、あるとき親が「その行動は悪い」とか「お前は悪い子だ」と言い出した。子どもにとっては青天の霹靂である。そして、親の言動は文明の発達とともにエスカレートし、子どもは自由を奪われ、しつけをされ、「行儀よくしなさい」「道路に飛び出してはいけません」「勉強しなさい」などと言われるようになった。それまで子どもは、年の近い子どもが集団をつくって、もっぱら小動物を追いかけたり木の実を採ったりという狩猟採集のまねごとをして遊んでいたのだ。
『旧約聖書』では、アダムとイブは善悪の知識の木から実を食べたことでエデンの園を追放されるが、この話は不思議なほど人類が道徳を考え出したことと符合している。人類は道徳を考え出したばかりに、「幸福な子ども時代」という楽園を失ってしまったのだ。
親は子どもを「よい子」と「悪い子」に分け、「よい子」は愛するが、「悪い子」は叱ったり罰したり無視したりする。子どもは愛されるためには「よい子」になるしかないが、そうして得られた愛は限定された愛であり、本物の愛ではない。本物の愛というのは、「なにをしても愛される」という安心感と自己肯定感を与えてくれるものである。
今の世の中、どんな子どもでも「悪いこと」をしたときは、怒られ、叱られ、罰される。親としては、子どもが「悪いこと」をしたのだから叱るのは当然だと思っているのだが、「悪いこと」の判断のもとになる道徳はおとなが考え出したものである。親が道徳を用いると、親は一方的に利己的にふるまうことになる。それに対して子どもが反抗するのは当然であるが、反抗的な態度の子どもを叱らないと、子どもは限りなくわがままになるという考え方が一般的なので、親はさらに叱ることになる。こうして悲惨な幼児虐待事件が起こる。
人間の親子はあらゆる動物の中でもっとも不幸である。最近は哺乳類の親子の様子を映した動画がいくらでもあって、それらを見ると、親は子どもの安全にだけ気を配って、子どもは自由にふるまっていることがわかる。子どもが親にぶつかったり親を踏んづけたりしても、親は決して怒らない。しつけのようなこともしない。動物の子どもはしつけをされなくてもわがままになることはない。未開社会の子どももしつけも教育もされず、子ども同士で遊んでいるだけだが、それでちゃんと一人前のおとなに育つ。動物の子どもや未開人の子どもを見ると、文明人の親が子どものしつけにあくせくしていることの無意味なことがわかる。

どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる。赤ん坊を文明化しなければ、その文明はたちまち衰亡してしまう。したがって、どんな文明でも子どもを教育するシステムを備えている。文明が高度化するほど子どもには負荷がかかる(親と教師にもかかる)。人間は誰でも好奇心があり学習意欲があるのだが、教育システムつまり学校は社会の要請に応えて、子どもの学習意欲とは無関係に教育を行う。つまり少し待てば食欲が出てくるのに、食欲のない子どもの口にむりやり食べ物を押し込むような教育をしている。
こうした教育が行われているのは、文明がきびしい競争の上に成り立っているからでもある。戦争に負けると、殺され、財産を奪われ、奴隷化されるので、戦争に負けない国家をつくらなければならない。古代ギリシャで“スパルタ教育”が行われたのは強い戦士をつくるためであったし、近代日本でも植民地化されないために、他国を植民地化するために“富国強兵”の教育が行われた。
個人レベルの競争もある。スポーツや音楽などは幼いころに始めると有利な傾向があるので、親はまだなにもわからない子どもに学ばせようとするし、よい学歴をつけるためにむりやり勉強させようとする。
いわば親は“心を鬼にして”教育・しつけを行うので、そうして育てられた子どもは、親とは鬼のようなものだと学習して、自分は最初から鬼のような親になる。そうすると、生まれてきた赤ん坊を見てもかわいいと思えないし、愛情も湧いてこないということがある。これも虐待の原因である。
子どもにむりやり勉強させて、かりによい学歴が得られたとしても、むりやり勉強されられた子ども時代が不幸なことは間違いない。最大多数の最大幸福という功利主義の観点からも、子どもの不幸は無視できない。今後文明は、子どもが「教育される客体」から「学習する主体」になる方向へと進んでいかなければならないだろう。

最近、発達障害が話題になることが多いが、発達障害もまた多分に文明がつくりだしたものである。
たとえば学習障害(LD)は読み書き計算の学習が困難な障害だが、こんな障害はもちろん狩猟採集社会には存在しなかった。注意欠如・多動性障害(ADHD)は集中力がなく落ち着きがない障害だが、これは長時間教室の椅子に座って教師の話を聞くことを求められる時代になって初めて「発見」されたものである。自閉症スペクトラムは対人関係が苦手な障害だが、これも文明社会で高度なコミュニケーション能力が求められるようになって「発見」されたものだろう。
つまりもともとさまざまな個性の子どもがいて、なにも問題はなかったのであるが、文明が進むとある種の個性の子どもは文明生活に適応しにくくなった。個性は生まれつきのもので、変えようがないので、親や学校や社会の側が子どもに合わせるしかないのであるが、不適応を子どもの“心”の問題と見なし、子どもをほめたり叱ったりすることで子どもを文明生活に適応させようとした。実際には叱ってばかりいることになり、その個性の上に被虐待児症候群が積み重なった。おとな本位の文明がこうした子どもの不幸をつくりだしたのである。
したがって、発達障害という診断名がつくようになったのは、当人にとっては幸いなことである。虐待のリスクが少なくなるからである。

現在、子どものしつけや、習い事、進学などで悩んでいる親にとって、「道徳観のコペルニクス的転回」を知ることは大いに意味があるだろう。おとな本位の考え方を脱して、子どもの立場から考えられるようになるからである。
「問題児」という言葉があるが、存在するのは問題児でなくて「問題親」である。つまりさまざまな問題は、子どもではなくおとなや文明の側にあるのである。

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横浜市鶴見区で6月29日、18歳の女子大学生冨永紗菜さんが包丁で刺されて死亡し、自首してきた22歳の自称会社員伊藤龍稀容疑者が逮捕されました。

富永さんと伊藤容疑者は交際歴があり、交際期間中に4度も警察に通報がありました。富永さんは警察官に「別れ話で首を絞められた」とか「別れるなら殺すと言われた」と言ったということです。
しかし、富永さんは「仲直りしたから大丈夫」と言ったので、警察はストーカー規制法に基づく禁止命令を出すなどの対応はとりませんでした。

この事件は最初、「ストーカーに殺された」といった報道もありましたが、二人は最終的に交際していたようなのでストーカーではないとされ、ストーカー規制法を適用することはできません。
ストーカー事案でなければなにかというと、デートDV(恋人間暴力)です。

2001年に配偶者暴力防止法(DV防止法)が制定されましたが、この法律はあくまで夫婦関係に適用されるものですから、デートDVには適用されません。
これでは不十分だということで、2013年に法律が改正され、「同居中またはかつて同居していた交際相手」にも適用されることになりました。
しかし、富永さんと伊藤容疑者は同居していたことはないようですから、やはりDV防止法は適用されません。

せっかくストーカー規制法とDV防止法をつくったのに、穴が空いていました。
法律の制定に問題があります。

警察の対応も問題です。
首を絞められたとか馬乗りになって顔面を殴られたとかの暴力があり、「別れるなら殺す」という脅迫もありましたから、普通の刑法で対応できそうなものです。
とりわけ「別れるなら殺す」と脅されている人間が「仲直りした」と言った場合、それは脅しに屈したのではないかと疑うのが普通です。
警察は被害者よりもDV男寄りです。

警察だけでなく司法組織全体にその傾向があります。
日本では刑事事件の有罪率は99.9%などといわれますが、性暴力に限ってはよく無罪判決が出ます。
判決理由は「許容していると誤認した」とか「わかる形で抵抗していない」とか「拒絶不能と認めるには疑いが残る」といったものです。
つまりレイプを犯罪として処罰するには、被害者側が「同意していないこと」と「暴行や脅迫によって抵抗できない状態だったこと」を立証しなければならないのです。
現実には恐怖で抵抗できないことがよくあり、そういう場合は男が誤認したのもやむをえないということで無罪になってしまいます。
裁判所の論理はレイプ男の身勝手な理屈と同じです。

法律をつくる人間も警察司法組織の人間もほとんど男なので、こういうことになってしまいます。


それから、「自立した個人」神話ともいうべきものがあります。
人間は成人すれば誰でも自立するものだという考え方です。
これは男の論理とはいえませんが、強者の論理なので、似たようなものです。

自立した人間なら、自分より強い人間に暴力をふるわれた場合、逃げ出すなり警察に助けを求めるなりの、なんらかの対応をするはずです。もしなにもせずに暴力をふるわれていたら、それは暴力を受け入れているということです。
こういう理屈でDV(家庭内暴力)は容認されてきました。
これが「自立した個人」神話です。

実際には成人しても自立していない人はいっぱいいます。
ひとつは、自分の力では生活費を稼げない女性、つまり経済的に自立していない女性です。
そういう女性は夫から暴力をふるわれても受け入れるしかありません。
DV防止法が制定された背景には、経済的自立のできていない女性の存在が認識されてきたということがありました。

しかし、人間の自立は「経済的自立」ばかりではありません。
「心理的自立」もあります。
心理的自立ができていない人は、恋人に依存して、暴力をふるわれても逃げられないことがあります。
こうしたことの理解はまだまだです。
そのためデートDVが法律の網から抜け落ちてしまいました。


ただ、「心理的自立」というのは理解しにくいかもしれません。
それは「自立」を中心に考えるからです。「依存」を中心に考えればよくわかります。

生まれたばかりの赤ん坊は、親に全面的に依存しています。
成長するとともに依存の対象が友だちや幼稚園や学校などに広がっていきます。
就職して自分の生活費を稼げるようになると「経済的自立」を達成したとされ、親からも自立したと見なされますが、実際は会社という新しい依存先ができたわけです。

社会性動物の人間はつねに周りの人間に依存しています。どこまでいっても「自立」はしません。
ただ、同じ依存するにしても、よい依存のしかたと悪い依存のしかたがあります。
いちばん悪いのは、絶対的な依存先を持つことです。そうすると、そこからどんな仕打ちをされても受け入れるしかなくなります。
その会社をクビになると生活していけないという人は、上司からひどいパワハラをされても受け入れるしかありません。
これは夫からひどいDVをされても受け入れる妻と同じです。
その会社をクビになってもたいして困らないとか、配偶者と別れてもやっていけるという人は、つねに心に余裕がありますし、ひどい目にあわされることもありません。
依存先は多くあるほど有利です。

「自立」を人生の目標にしても、雲をつかむような話です。
「適切な依存先を持つ」を目標にすれば、具体的に進んでいけるのではないでしょうか。


ただ、ひとつ困ったことがあります。
幼児期は親に絶対的に依存しているので、親から虐待されても受け入れるしかないことです。
幼児虐待の体験はトラウマとなって、のちの人生に影響します。
虐待された人間は、親に十分に依存できなかったので、なにか代わるものに依存しがちです。アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存などです。
恋愛相手に依存することもあります。恋愛相手に依存すると、相手から暴力をふるわれてもなかなか別れられません。そうしてデートDVが起こります。


では、DV男はどういう心理でDVをするのでしょうか。
この理由は単純です。自分が幼児期に親から暴力をふるわれていたからです。
親から虐待された子どもは自分が親になると子どもを虐待することがあり、「虐待の連鎖」と呼ばれますが、自分の子どもだけでなく、恋人や配偶者にも暴力をふるうのです。
いわば「虐待の連鎖の寄り道」です。

親子関係は人間関係の基本なので、恋愛関係にも影響を与えるのは当然です。
愛する相手についついモラハラや束縛など相手のいやがることをしてしまうという人は、自分の親子関係を振り返るといいかもしれません。


「自立した個人」という幻想を捨てて、人間は誰もが依存して生きているということを認識すれば、幼児虐待、配偶者間DV、デートDVなどの厄介な問題もはっきりととらえられるようになります。

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岐阜県銃乱射の18歳自衛官候補生、長野県立てこもり4人殺害の青木政憲容疑者、安倍元首相暗殺の山上徹也被告、この3人をつなぐ一本の糸は「自衛隊入隊経験」です。

現役の自衛隊員が射撃訓練中に小銃を乱射するというのはショッキングな出来事ですが、それにしても、テレビのコメンテーターが「自衛隊は人の命を救う仕事なのにこんなことが起こって残念」と言っていたのにはあきれました。
自衛隊は災害時などに人命救助活動をしますが、これは“副業”です。“本業”はあくまで戦争で人を殺すことです。
まともな人間はなんの恨みもない人間を殺すことはできません。ですから、軍隊の訓練は兵隊をまともでない人間にすることです。
そのためどこの国の軍隊も、新兵訓練にはパワハラ、暴力が横行するものです。自衛隊が例外であるはずはありません。

自衛隊の非人間的な訓練が18歳自衛官候補生に銃乱射事件を起こさせた――というのはわかりやすい説明ですが、実際には今年の4月に入隊してわずか2か月ほどしか訓練を受けていないので、この説明にはむりがあります。

長野県立てこもり4人射殺事件の青木政憲容疑者は、大学中退後、父親に半ばむりやり自衛隊に入隊させられたようです。しかし、2、3か月後に除隊しているので、これも自衛隊の訓練の影響はほとんどなさそうです。

安倍元首相暗殺の山上徹也被告は1999年に高校卒業後、専門学校に入学するも中退、2002年に海上自衛隊に入隊し、3年間勤務します。
二十歳そこそこの若者にとって3年間勤務の影響は小さくないと思われますが、事件を起こすのは20年近くたってからですから、やはり自衛隊勤務と事件を結びつけるのはむりがあります。
ただ、自衛隊で銃器を扱った経験が手製銃づくりを思いつかせたということはあるでしょう。


これらの事件と自衛隊入隊は直接結びつきません。
しかし、自衛隊に入隊しようとした動機と事件は関係あるかもしれません。

長野県の青木政憲容疑者は父親から半ばむりやり自衛隊に入隊させられたというので、本人に入隊の動機はないことになりますが、安倍元首相暗殺の山上徹也被告の動機はかなり明白です。
山上被告の母親は統一教会に入信して多額の寄付を行ったことで家庭崩壊し、父親と兄は自殺しています。
山上被告は崩壊家庭から逃げ出すために自衛隊に入ったのです。

近所の会社に就職したのでは家庭から逃げ出したことになりませんが、自衛隊員になれば一般社会から切り離されます。
それに、自衛隊員の生活は駐屯地の隊舎や艦内などでの共同生活なので、山上被告はそこに家庭の代わりを求めたのかもしれません。

銃乱射の18歳自衛官は、幼くして児童養護施設に預けられ、幼稚園と小学校は施設から通いました。その後、親元で生活するようになりますが、中学の後半は児童心理養育施設に入ります。高校に進学してからは、複数の里親のもとを転々としたということです。
つまり彼は親からネグレクトされて、まともな家庭生活というものをほとんど知らないのです。
高校卒業後、すぐに自衛隊に入ったのも、そこに家庭の代わりを求めたのではないでしょうか。


私がこうしたことを考えるようになったきっかけは、池田小事件の宅間守元死刑囚(死刑執行ずみ)の生い立ちを知ったことです。
宅間守は父親からひどい虐待を受け、母親は家事、育児が苦手で、ほとんどネグレクトされ、母親は結果的に精神を病んで長く精神病院で暮らし、兄は40代後半のころに自殺しています。
宅間守は小学生のころから自衛隊に強い関心を持っていて、「将来は自衛隊入るぞ~」と大声で叫んだり、一人で軍歌を大声で歌っていたこともあり、高校生になると同級生に「俺は自衛隊に入るからお前らとはあと少しの付き合いや」と発言していたこともあったそうです。
そして高校退学後、18歳で航空自衛隊に入隊しますが、1年余りで除隊させられます。「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたということです。
宅間守の場合、自衛隊は明らかに崩壊家庭からの脱出先です。
自衛隊で自分を鍛えて強くなりたいという思いもあったでしょう。
池田小事件を起こしたのは47歳のときなので、30年近くも前の自衛隊入隊の経歴は誰も問題にしませんでしたが、私は崩壊家庭からの脱出先に自衛隊が選ばれるケースがあるということで印象に残りました。

山上徹也被告の経歴を見たとき、宅間守と同じだと思いました。
銃乱射の18歳自衛官候補生もまったく同じです。

自衛隊入隊と凶悪犯罪が結びつくわけではありません。
家庭崩壊と凶悪犯罪が結びつき、その間に自衛隊入隊がはさまる場合があるということです。

崩壊家庭で育ったからといって凶悪犯罪をするわけではありませんが、凶悪犯罪をする人間はほとんどの場合、崩壊家庭で育って、親から虐待されています。
とりわけ動機不明の犯罪、不可解な動機の犯罪はすべて崩壊家庭とつながっているといっても過言ではありません。


崩壊家庭の子どもは家庭から逃げ出して、不良になったり、援助交際をしたりします。
最近話題の「トー横キッズ」もそうした子どもたちです(名古屋には「ドン横キッズ」、大阪には「グリ下キッズ」がいます)。
こうした子どもたちについては、犯罪をしたり犯罪に巻き込まれたりということばかりが話題になりますが、そのもとに崩壊家庭があるということはまったく無視されています。

凶悪犯罪についても同じです。
根本的な原因は崩壊家庭、幼児虐待にあります。


崩壊家庭の問題が認識されるのは、子どもが虐待されて死ぬか大けがをした場合だけです。
その前に子どもを助けなければならないのですが、誰もが見て見ぬふりをするので、なかなか助けられません。

崩壊家庭を本来の健全な家庭にすることは最大の社会改革です。

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岸田首相の選挙演説会場で爆発物を投げて逮捕された木村隆二容疑者(24歳)は、昨年7月の参院選に年齢制限と供託金300万円のために立候補できなかったのは憲法違反だとして国を提訴していました。
裁判は代理人弁護士を立てない「本人訴訟」です。

昨年6月に国に10万円の損害賠償を求めて神戸地裁に提訴、11月に請求が棄却されました。木村容疑者は大阪高裁に控訴し、3月23日に口頭弁論が行われましたが、木村容疑者のツイッターによると「本日の口頭弁論では審議不足を指摘した控訴人に対し、審議を拒否し。いきなりの結審でした。大阪高裁の無法振りが露呈しました」ということです。
木村容疑者はこのようにツイッターで裁判の経緯を報告するとともに自分の主張も発信していました。23件のツイートをしていましたが、その時点でフォロワーは0人だったようです。
いきなり結審したことで敗訴を覚悟し、ツイッターでの発信もうまくいかず、そのためテロに走ったと想像されます。

木村容疑者は安倍元首相暗殺の山上徹也被告との類似が指摘されますが、私が似ているなと思ったのは、Colabo問題に火をつけたツイッター名「暇空茜」氏です。
暇空氏はColaboについての東京都への情報開示請求や住民監査請求を全部一人で行い、ツイッターでその結果を発信していました。暇空氏の主張はほとんどでたらめでしたが、Colaboの会計にも多少の不備があったということで、アンチフェミニズムの波に乗って暇空氏の主張が拡散しました。

木村容疑者も暇空氏も一人で国や東京都と戦い、ツイッターで発信したのは同じですが、結果はまったく違いました。
もちろん二人の主張もまったく違います。
木村容疑者の主張は基本的に選挙制度を改革しようとするものです。
一方、暇空氏は、家庭で虐待されて家出した少女を救う活動をしているColaboを攻撃しました。Colaboの活動が制限されると、家出した少女が自殺したり犯罪の犠牲になったりするので、暇空氏の活動は悪質です。


木村容疑者の選挙制度批判はきわめてまっとうです。
国政選挙は供託金300万円(比例区は600万円)が必要です。
これは貧乏人を立候補させない制度です。
また、既成政党はある程度票数が読めるので、供託金没収ということはまずありませんが、新規参入する勢力は没収のリスクが高いので、新規参入を拒む制度ともいえます。

被選挙権の年齢制限も不合理です。
2016年に選挙権年齢が満20歳以上から満18歳以上に引き下げられましたが、被選挙権年齢は引き下げられませんでした。
なぜ被選挙権年齢をスライドして引き下げなかったのか不思議です。

そもそも参議院30歳以上、衆議院25歳以上という被選挙権年齢が問題です。これでは若者が同世代の代表を国政に送り込むことができません。
最初から若者排除の制度になっているのです。
18歳の若者が立候補して、校則問題や大学入試制度や就活ルールについてなにか訴えたら、おとなにとっても参考になりますし、同世代の若者も選挙に関心を持つでしょう。

木村容疑者の主張は、憲法44条に「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない」とあるので、供託金300万円は「財産」で差別していることになり、憲法違反だというものです。
被選挙権年齢についても、成人に被選挙権がないのは憲法違反だというものです。
木村容疑者は自身のツイッターのプロフィールに「普通の国民が政治家になれる民主主義国を目指します」と書いています。

まっとうな主張ですが、日本の裁判所はまっとうな主張が通るところではありません。議員定数不均衡違憲訴訟でも、「違憲判決」や「違憲状態判決」は出ても、事態はなにも改善されません。

「民主主義が機能していない国ではテロは許される」という論理はありえます。
日本では警察、検察がモリカケ桜、統一教会に手を出さず、裁判所は選挙制度の違憲状態を放置してきて、それらが選挙結果に影響を与えてきました。
民主主義を十分に機能させることがテロ防止策として有効です。


もっとも、日本は民主主義が十分に機能していないといっても独裁国というほどではなく、自分の望む政策が実現しないというだけでテロに走ることはありえません。
テロに走るには、もっと大きい、根本的な理由があります。
それは、自分のこれまでの人生が不幸で、挽回の見込みがないと本人が判断して、自暴自棄になることです。
木村容疑者も山上被告も「拡大自殺」みたいなものです。

山上被告は統一教会の宗教二世で、いわば崩壊家庭で育ちました。
木村容疑者の家庭環境はどうだったのでしょうか。

現時点での報道によると、木村容疑者は母親とひとつ上の兄と三人暮らしで、父親は五、六年前から別居しているそうです。

週刊現代の『「父親は株にハマっていた」「庭は雑草で荒れ果てていた」岸田首相襲撃犯・木村隆二容疑者の家族の内情』という記事から引用します。

この住民は、小さい頃の木村容疑者の様子もよく知っていた。容疑者自身はおとなしい子だったが、よく父親に怒られる姿を見かけたという。

「お父さんがよく母親や子どもたちを怒鳴りつけててね。夜中でも怒鳴り声が聞こえることがあって、外にまで聞こえるぐらい大きな声やったもんやから、近所でも話題になってましたね。ドン!という、なにかが落ちるものとか壊れる音を聞いたこともあった。家族は家の中では委縮していたんと違うかな。

お母さんはスラっとしたきれいな人。隆二君はお母さん似やな。たしか百貨店の化粧品売り場で働いていたはずで、外に出るときは化粧もしっかりしてたね。でも、どこかこわばった感じというか、お父さんにおびえてる感じがあったよね」

では、木村容疑者の父親はどういう人物なのでしょう。
『岸田首相襲撃の容疑者の実父が取材に明かした心中「子供のことかわいない親なんておれへん」』という父親のインタビュー記事から引用します。

──隆二さんの幼少期は、お父様がお弁当を作ってあげていたと。
「そんな日常茶飯事のことなんて、いちいち(覚えてない)。逆に尋ねるけど、2週間前に食べたもの覚えてる? 人間の記憶なんてそんなもんや、日常なんて記憶に残れへん」

──今の報道のままでは、お父さんは誤解されてしまう気がします。
「まあ、俺がいちばん(隆二容疑者のことを)思ってるなんていうつもりはないし、順番なんて関係ないと思うよ。お腹を痛めた母親がいちばん思ってるんちゃうか。

 好きな食べ物なんやったんなんて聞かれても、何が好きなん? なんて、聞いたことないから。聞く必要もないと思ってたから。『いらんかったらおいときや』言うてたから、僕は。いるだけ食べたらええねんで、いらんかったら食べんかったらええねんでって。残してても、『なんで食べへんねん』なんて言うたことない。だから、強制なんてしたことないよ」

──幼少期のころの隆二さんについてお聞きしたいです。
「子供のことかわいない親なんて、おれへんやん」

──小学校の時は優秀だったそうですね。
「何をもって優秀っていうか知らんけどやな。僕は比べたことないねん、隆二と他の子を。人と比べてどうのこうのって感性じゃないから。自分がそれでいいと思うんやったら、それでいいから」

 そう言って、父親は部屋に戻っていった。

父親は質問に対してつねにはぐらかして答えています。「子供のことかわいない親なんて、おれへんやん」というのも、一般論を言っていて、自分の木村容疑者に対する思いは言っていません。
家の外まで聞こえるぐらい大声でいつもどなっていたというので、完全なDVです。

木村容疑者はDVの家庭で虐待されて育って、“幸福な生活”というものを知らず、深刻なトラウマをかかえて生きているので、普通の人のように生きることに執着がありません。
ですから、こういう人は容易に自殺します。

中には政治に関心を持つ人もいます。その場合、親への憎しみが権力者に“投影”されます。
木村容疑者は岸田首相を批判し、安倍元首相の国葬も批判していました。
山上被告は、母親の信仰のことばかりが強調されますが、父親もDV男でした。父親への憎しみが安倍元首相に向かったのでしょう。

このように虐待されて育った人は、存在の根底に大きな不幸をかかえているので、もしテロをした場合は、それが大きな原因です。政治的な動機はむしろ表面的なもので、最後のトリガーというところです。

最後のトリガーをなくすためには、警察、検察、裁判所がまともになり、選挙制度を改革して、民主主義が機能する国にすることです。
これはテロ対策とは関係なくするべきことですが、テロ対策という名目があればやりやすくなるでしょう。

根本的な対策は、家庭で虐待されて育った人の心のケアを社会全体で行い、今現在家庭で虐待されている子どもを救済していくことです。
これはテロ防止だけでなく、宅間守による池田小事件や加藤智大による秋葉原通り魔事件などのような事件も防止できますし、社会全体の幸福量を増大させることにもなります。

もっとも、言うはやすしで、今は幼児虐待こそが社会の最大の病巣であるということがあまり認識されていません。
むしろ認識を阻む動きもあります。
家庭で虐待されていた少女を救済する活動をしているColaboへの攻撃などが一例です。

それから、木村容疑者の家庭環境などを報道するのはテロの正当化につながるのでやめるべきだという人がけっこういます。そういう人は、木村容疑者やテロ行為の非難に終始します。
犯罪を非難して犯罪がなくなるのなら、とっくに世の中から犯罪はなくなっています。
犯罪の動機や原因の解明こそがたいせつです。

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私はこの「村田基の逆転日記」というブログのほかに「道徳観のコペルニクス的転回」というブログもやっています。
「村田基の逆転日記」では時事的なことを書き、「道徳観のコペルニクス的転回」では思想的なことを書くという分担になっています。
「村田基の逆転日記」は週1回程度更新していますが、「道徳観のコペルニクス的転回」は最初から本1冊分を丸ごと公開したので、更新するということはありません。

「道徳観のコペルニクス的転回」を開設するときにこのブログで告知し、その後もたまにここで「道徳観のコペルニクス的転回」というブログがあることに触れてきましたが、最近アクセスが低調です。
「道徳観のコペルニクス的転回」はひじょうに重要な内容なのですが、本1冊分の文章を読むのが面倒だという人も多いでしょう。“タイパ”が重視され、映画も10分程度のファスト映画を見て済ましてしまう時代です。

そこで、「道徳観のコペルニクス的転回」の冒頭の「初めにお読みください」という部分を全面的に書き改め、「このブログはこんなにすごい内容なんだよ」ということを書きました。
推理小説でいえばネタバレになるようなことなので、本来は書きたくなかったのですが、ともかく重要な内容であることを知ってもらわないと話になりません。

その書き直した部分は、このブログの基本的思想でもあるために、ここに掲載することにします(つまりふたつのブログに同じ文章が載ることになり、こちらでも読めます)。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
道徳観のコペルニクス的転回

「初めにお読みください」
このブログは、一冊の本になるように書いたものなので、「第1章の1」から順番に読んでください。


どういう内容かというと、もちろん読んでもらえばわかるわけですが、ここでごく簡単に説明しておきます。

私は若いころから「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを考えていました。世の中のほとんどの人は悪をなくしたいと思っているはずなのに悪がなくならないのは不思議なことです。戦争、暴力、犯罪、圧政、差別など、人が人を不幸にすることはすべて悪の範疇でしょう。悪を完全になくすことはできないとしても、十分に少なくすることができれば、人類の幸福に大いに貢献することができます。しかし、思想家や哲学者が「悪をなくす」という課題に取り組んだ形跡はほとんどありません。これもまた不思議なことです。
ちなみに倫理学では善の定義は存在しません。ジョージ・E・ムーアは二十世紀初めに『倫理学原理』において善を定義することは不可能だと主張し、それに対して誰も善の定義を示すことができなかったので、善の定義はないとされています。当然、悪の定義もありません。倫理学で善と悪の定義がないのは、数学で「1+1」の答えがわからないみたいなものです。ですから、倫理学はまったく役に立たない学問です。試しに倫理学の本をどれでも一冊読んでみてください。わけがわからなくてうんざりすること必定です。哲学書、思想書はどれも難解ですが、おそらくその根底には倫理学の機能不全があるに違いありません。

私は「どうして世の中から悪をなくすことができないのだろう」ということを愚直に考え続けました。そうするとあるとき、答えがひらめいたのです。その瞬間のことは今も鮮明に覚えています。頭の中がぐるりと回転しました。「アウレカ!」と叫んで走り出しそうになりました。私は人類史上画期的な発見をしたことを確信しました。
これまでの倫理学は天動説のようなものでした。私は地動説的倫理学に思い至ったのです。したがって、この発見を「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
地動説的倫理学だと善と悪の定義ができますし、道徳(倫理)に関するさまざまなことが論理的に説明できます。これだけで地動説的倫理学の正しいことがわかります。

「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけたのは、比喩としてこれ以上ないほど適切だからですし、コペルニクスによる地動説の発見に匹敵するほどの歴史上の大発見でもあるからです。こういうと、話が大きすぎて信じられないという人がいるでしょう(私はSF作家でもあるのでSFのネタとも思われそうです)。そこで、これが実際に歴史上の大発見であると納得してもらえるように説明したいと思います。


地動説的倫理学は、人類の祖先がどのようにして道徳をつくりだしたかという仮説に基づいています。道徳が神から与えられたものでない以上、人間がつくりだしたと見るのは当然です。
実は道徳起源の仮説はもうひとつあります。それはチャールズ・ダーウィンの説です。ダーウィンは『種の起源』の12年後に『人間の由来』を著し、進化論から見た人間を論じましたが、そこにおいて人類の祖先がいかにして道徳をつくりだしたかの仮説を述べているのです。ダーウィンの道徳起源説は私の道徳起源説とまったく違います。
ダーウィンの道徳起源説が正しいか否かは、その後の展開を見ればわかります。
『人間の由来』以降、社会における弱肉強食の原理を肯定する社会ダーウィン主義と、遺伝によって人間を選別することを肯定する優生思想が猛威をふるい、とりわけ優生思想はナチスに利用されて悲劇を生みました。また、ダーウィンは『人間の由来』において人種の違いの重要性を主張したので、人種差別も激化しました。
『人間の由来』が社会ダーウィン主義と優生思想と人種差別を激化させて、社会に混乱と悲劇を生んだために、やがて人間に進化論を適用して人間性や社会を論じることはタブーとなりました。『人間の由来』は、ダーウィンが進化論を人間に適用して論じるというきわめて興味深い本なのに、進化生物学界の黒歴史となり、進化論の解説書などにもほとんど取り上げられません。

とはいえ、人間に進化論を適用することがタブーであるというのはおかしなことで、なによりも非科学的です。そのため人間に進化論を適用することはつねに試みられてきました。たとえば、血縁淘汰説とゲーム理論によって動物の利他行動が理論的に説明できるようになったことを背景に、昆虫学者のエドワード・O・ウィルソンは『社会生物学』において、人文・社会科学は生物学によって統合されるだろうと主張し、これをきっかけに生物学界だけでなく社会学、心理学、政治学、文化人類学などを巻き込んだ「社会生物学論争」と呼ばれる大論争が起きました。なぜそのような大論争になったかというと、政治的な右派対左派の論争でもあったからです(ウィルソンなどは右派)。そして、この論争の結論は、やはり人間に進化論を適用するのは人種差別や性差別を助長するのでよくないというものでした。もっとも、その結論は科学的なものではなく、声の大きいほうが判定勝ちしたといったものでした。

なぜこんなおかしなことになるかというと、すべてダーウィンの道徳起源説に原因があります。
進化論は生存闘争をする生物の姿を明らかにし、人間も例外であるはずがありません。ところがダーウィンは、人間は神に似せてつくられ、エデンの園で善悪の知識の実を食べたというキリスト教的人間観を捨てきれなかったのです。
ダーウィンは進化論と道徳を結合しました。その道徳は天動説的倫理学の道徳でした。社会ダーウィン主義は「社会進化のために人間は生存闘争をする“べき”である」というものなので、進化論と道徳の結合体であることがわかります。同様に優生思想は「人間進化のために劣等な人間は子孫を残す“べき”でない」というものなので、やはり進化論と道徳の結合体です。進化論という科学と結合したことで道徳が暴走したのです。
ところが、誰もこの間違いに気づきませんでした。天動説的倫理学は世の中の共通のフォーマットだからです。

もともと天動説的倫理学と科学は相容れませんでした。それは「ヒュームの法則」という言葉で表されます。科学が明らかにするのはあくまで「ある」という事実命題であって、「ある」をいくら積み重ねても「べき」という道徳命題を導き出すことはできないというのがヒュームの法則です。デイヴィッド・ヒュームが1739年の『人間本性論』において、「ある」と「べき」を区別しない論者が多いことに驚くと述べたことからいわれるようになりました。「ある」から「べき」を導くと、それは「自然主義的誤謬」であるとして批判されます。ヒュームの法則はきわめて有効なので、「ヒュームのギロチン」ともいわれ、自然科学と人文・社会科学のつながりを断ち切ってきました。ダーウィンは「ある」と「べき」を進化論によってつなごうとしたのですが、失敗しました。

進化論は聖書の創造説が信じられていた西洋キリスト教社会に衝撃を与え、それは「ダーウィン革命」と呼ばれました。ダーウィン革命によって科学的人間観が確立されるはずでした。しかし、ダーウィンが道徳起源説を間違えたために、ダーウィン革命は挫折しました。
それから150年ほどたって、たまたま私が正しい道徳起源説を思いつき、ダーウィン革命を完成させる役回りを担うことになったというわけです。
以上が「道徳観のコペルニクス的転回」が歴史上の大発見であるということの説明です。

もっとも、「三流作家のお前の説よりも、偉大なダーウィンの説のほうが正しいに決まっている」と思う人もいるでしょう。どちらの説が正しいかは本文を読んで判断してください。
なお、ダーウィン説と私の説は正反対で、表裏がひっくり返ったようなものです。したがって、第三の説はないでしょうから、判断するのは簡単です。
最終的には進化生物学の専門家が決めればはっきりします。私としては、とりあえず進化生物学界の重鎮である長谷川眞理子・寿一夫妻(長谷川眞理子氏は『人間の由来』の翻訳者でもある)や、進化論と人間について大胆な説を展開してきた進化学者の佐倉統氏などに認めてもらうことを期待しています。


「道徳観のコペルニクス的転回」を信じてもらうために、その効用を少し述べておきます。

日本でもアメリカでも保守対リベラルの分断が深刻化していますが、これは社会生物学論争における右派対左派の対立と同じ構図です。社会生物学論争が科学的に解決しなかったので、今に持ち越されているのです。したがって、この対立は地動説的倫理学によって解消されるはずです。
保守対リベラルの対立のもとには人種差別、性差別、家族制度の問題があります。性差別と戦ってきたフェミニズムは、セックス(生物学的性差)とジェンダー(社会的性差)を区別し、セックスは肯定しますが、ジェンダーは否定します。しかし、なぜ肯定的なものから否定的なものが生じたのかは説明されません。これは「ある」と「べき」の関係がわからないのと同じです。地動説的倫理学は「ある」と「べき」の関係をはっきりさせるので、セックスとジェンダーの関係もはっきりします。これによってフェミニズム理論はわかりやすくなるでしょう。

さらに「子ども差別」というものがあることを指摘したいと思います。人種差別や性差別は、差別する側と差別される側が固定されて一生変わることがありませんが、子ども差別の場合は、おとなが子どもを差別し、子どもがおとなになると子どもを差別するというように、世代が変わるごとに差別する側と差別される側が入れ替わっていきます。そのためあまり認識されていませんが、子ども差別こそ文明における最大の問題です。

人間の能力は原始時代からほとんど変化していないので、文明が高度に発達するほど人間の負担が重くなります。とくに負担がかかるのは子どもです。人間は学ぶことを喜びとする性質があるのに、文明社会では子どもは学びたいと思う以上のことを強制的に学ばされています。また、「道路に飛び出してはいけません」とか「行儀よくしなさい」とか言われて、子どもらしいふるまいが抑圧されています。文明が進むほど子どもは不幸になります。子ども時代が不幸でもおとなになってからそれ以上に幸福になればいいというのが子どもを教育するおとなの理屈ですが、子ども時代の不幸はおとなになっても尾を引きます。
「子どもの不幸」を最初に発見したのはジグムント・フロイトです。しかし、これはおとなにとって不都合な真実ですから、フロイトはおとな社会の圧力に負けてすぐに隠蔽してしまい、代わりにエディプス・コンプレックスを中心とする複雑怪奇な理論を構築しました。その後も心理学者は発見と隠蔽を繰り返し、いまだ十分に認識されているとはいえません。幼児虐待も、子どもが殺されたりケガしたりするようなものが表面化するだけで、子どもが親による虐待に耐えかねて家出しても、警察などに発見されるとすぐに家に戻されてしまいます。最近は「毒親」や「アダルトチルドレン」や「サバイバー」という言葉もできて、自分の子ども時代の不幸を認識するおとながふえてきましたが、社会全体の理解はまだまだです。

これまで文明を論じるのは高度な知性を持ったおとなばかりでした。そのため文明は子どもの犠牲の上に築かれているという事実が認識されませんでした。地動説的倫理学によって初めて文明の全体像が認識できるようになったのです。これからはおとなと子どもがともに幸福であるような社会を目指さなければなりません。

家父長制という言葉があります。これはひとつの家庭に子ども差別と性差別がある家族制度だと見なすとよく理解できます。家族が愛情で結ばれているのではなく、夫が妻を力で支配し、親が子どもを力で支配していて、子ども同士でも男と女、年上と年下で上下関係がある家族です。このような家族を維持するか、愛情ある家族を回復するかという対立が、保守対リベラルの対立の根底にあります。

最近、進化心理学など進化生物学を土台にした「進化〇〇学」と称する学問がいくつもできていますが、ヒュームの法則という枠がはめられているので、発展にも限界があります。しかし、地動説的倫理学に転換すればヒュームの法則を無力化することができ、人間の行動や心理に対する科学的研究が一気に進展します。
これは「ダーウィン革命の再開」であり、「第二の科学革命の始まり」です。

ぜひとも「道徳観のコペルニクス的転回」を理解していただきたいと思います。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



上の文章とその続きは次で読んでください。
「道徳観のコペルニクス的転回」


それにしても、私のような平凡な人間が「地動説に匹敵する歴史上の大発見」とか「第二の科学革命」とか言うのはひじょうに大きな心理的抵抗があります。その葛藤があるためこれまでよく伝えられなかったきらいがありました(それに加えてトラウマもありました。これについては「作家デビューのときのトラウマ」を参照)。
ようやく最近吹っ切れてきたので、この「初めにお読みください」を書き直すことができました。


「道徳観のコペルニクス的転回」とか「地動説的倫理学」といった比喩は決していい加減なものではありません。
私は善と悪の関係について考えました。私は「この人は善人。あの人は悪人」と判断していますが、私自身も他人から善人ないし悪人と判断されているわけです。もし自分が悪人であったら、私の判断はどうなるのでしょう。善人を悪人、悪人を善人と判断しているかもしれません。
自分が善人でなければ自分の判断は正しいということができません。
私は自分が善人である根拠はどこにあるだろうかと考えました。これはデカルトの方法的懐疑と同じですが、デカルトは「存在」を懐疑し、私は「判断」を懐疑したわけです。
私は「善人、悪人、自分」の関係はどうなっているのだろうと考えました。
コペルニクスは金星や火星の動きを明快に理論化できないかと考えているうちに、地球も金星や火星と同様に動いているのではないかと思いつき、「金星、火星、地球」の関係を考えているうちに太陽中心説を思いついたわけです。
私も同じようにして、あるものを中心とすることで理論化できたのです。
「あるもの」というのは、人間でなく動物、文明人でなく原始人、おとなでなく子どもです。
これまでは人間、文明人、おとなという自己中心の発想だったので、まともな倫理学が存在しませんでした。
ですから、「天動説的倫理学から地動説的倫理学へ」という比喩は実に適切です。


おとなが子どもを「よい子」や「悪い子」と判断し、「悪い子」を「よい子」にしようとすることが普通に行われています。
しかし、「よい赤ん坊」や「悪い赤ん坊」はいません。
いるのは「よいおとな」と「悪いおとな」です。
子どもと触れ合うことで人間の真の姿を知り、自分自身を見直すのが「よいおとな」です。
「悪いおとな」は子どもを「よい子」にしようとして、幼児虐待へと突き進みます。

幼児虐待は文明社会で広く行われています。
幼児虐待はDVの連鎖を生むだけでなく、自殺、自傷行為、さまざまな依存症、自己中心的な人間、冷酷な人間、猟奇犯罪者を生む原因でもあります。
「道徳観のコペルニクス的転回」が早く世の中に受け入れられることを願っています。


2015年、文科省は大学の文系学部を廃止する方向で改革するという報道があり、大きな騒ぎになりました。
この報道は少し行き過ぎていたようであり、文科省も反対の大きさに軌道修正したようでもあり、騒ぎは落ち着きました。
しかし、こうした騒ぎが起きるのは、多くの人が文系学問、とりわけ人文学系学問の価値に疑問を抱いているからでしょう。
人文学の中心にあるのは倫理学ですが、すでに述べたように倫理学はまったく機能していません。
機能していないことが逆に幸いして、倫理学は自然科学の侵入を防ぐ防壁になっていました。
しかし、防壁は今や壊れようとしているわけです。
人文学系学問はみずから脱皮しなければなりません。若い研究者の奮起が期待されます。

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家庭で虐待された少女の支援活動をしている一般社団法人「Colabo」の会計に不適切なところがあると指摘されたことがきっかけで、ネット上で大きな騒ぎになっています。
都に住民監査請求をしてこの問題に火をつけた「暇空茜」を名乗る人物はインタビュー記事で「もはやこれはネット界における『大戦』です。ロシアとウクライナの戦争と同じで、話し合いなど通用しない」と言いました。

Colaboには東京都が21年度に2600万円の支援金を支出しているので、公金の問題であるのは事実です。しかし、上のインタビュー記事を見てもわかりますが、不適切な支出といってもそれほどのことではありませんし、そもそも一社団法人の問題です。それがなぜ大騒ぎになるのでしょうか。


家庭で虐待されて逃げ出した少女は、そのままだと犯罪の被害者になりかねません。Colaboはとりあえず少女を救う小規模なボランティア活動から始まりました。
ボランティア活動や慈善活動などをする人は、とりわけネットの世界では「偽善」とか「売名」とかの非難を浴びせられます。若いころから被災者援助や刑務所慰問などをしてきた杉良太郎氏などは、あまりにも非難されるので、自分から「偽善で売名ですよ」などと開き直っています。
ですから、もともとColaboを「偽善」だと非難したい人たちがいて、会計不正疑惑が生じたことで一気に表面化したということがあるでしょう。

それから、Colabo代表の仁藤夢乃氏はメディアに登場することも多く、フェミニスト活動家と見なされていて、Colaboを支援する人たちもフェミニストが多いようです。
それに、Colaboが援助の対象とするのは少女だけです。
こうしたことから男とすれば、フェミニストたちが勝手なことをやっているという印象になるのかもしれません。

しかし、救済するべき少年少女は多数いて、Colaboの力は限られていますから、救済の対象を限定するのはしかたないことです。
むしろ問題は、少年を救済するColaboのような組織がないことです。

フェミニズムというと、どうしても男対女ということになりますが、Colaboの活動は子どもを救済することですから、おとな対子どもととらえるべきです。
そして、おとな対子どもには大きな問題があります。


日本の自殺は全体として減少傾向ですが、子どもの自殺は増加傾向で、とりわけ2020年度の全国の小学校、中学校、高校の児童生徒の自殺は415人と、19年度の317人と比べて31%の大幅な増加となりました。
子どもの自殺というと、学校でのいじめが自殺の原因だというケースをマスコミは大きく取り上げますが、実際はいじめが原因の自殺はごく少数です。
自殺の原因の多くは家庭にあります。コロナ禍で休校やリモート授業が増えた中で自殺が増えていることからもそれがわかるでしょう。

家庭で虐待された子どもは家出やプチ家出をします。児童養護施設などはなかなか対応してくれませんし、子どももお役所的な対応を嫌います。
泊まるところのない少女は“神待ち”などをして犯罪被害にあい、少年は盛り場をうろついて不良グループに引き込まれ、犯罪者への道をたどるというのがありがちなことですし、中には自殺する子どももいます。
ですから、子どもの自殺を防ぐには、虐待されて家庭にいられない子どもの居場所をつくる必要があります。私は「子ども食堂」があるように「子ども宿泊所」がいたるところにあって、家で煮詰まった子どもが気軽に泊まれるようになっていればいいと考えました。そうすればとりあえず自殺は防げますし、深刻な状況の子どもを宿泊所を通して行政の福祉につなげることもできます。そういうことを、私は「子どもの自殺を防ぐ最善の方法」という記事で書きました。

そのとき調べたら、家出した子どもに居場所を提供する活動をしているのはColaboぐらいしかありませんでした。ほかにないこともないでしょうが、少なくともColaboは先駆者であり、圧倒的に存在感がありました。

ですから、Colaboみたいな組織がもっともっと必要なのです。
Colabo批判は方向が逆です。


ところが、「家庭で虐待された子どもを救済する」ということに反対し、足を引っ張ろうとする人がいます。
どんな人かというと、要するに家庭で子どもを虐待している親です。

幼児虐待というと、マスコミが取り上げるのは子どもが親に虐待されて死んだとか重傷を負ったといった事件だけです。
こうした事件は氷山の一角で、死亡や重傷に至らないような虐待は多数あります。
2020年度に全国の児童相談所が相談対応した件数は約20万5000件でした。しかし、この数字もまだまだ氷山の一角です。

博報堂生活総合研究所は子どもの変化を十年ごとに調査しており、2017年に発表された「こども二十年変化」によると、「お母さんにぶたれたことがある」が48.6%、「お父さんにぶたれたことがある」が38.4%でした(小学4年生から中学2年生の男女800人対象)。その十年前は、「お母さんにぶたれたことがある」が71.4%、「お父さんにぶたれたことがある」が58.8%で、さらにその十年前は「お母さんにぶたれたことがある」が79.5%、「お父さんにぶたれたことがある」が69.8%でした。つまり昔はほとんどの子どもが親から身体的虐待を受けていたのです。

最近は体罰批判が強まり、身体的虐待はへってきましたが、心理的虐待はどうでしょうか。
心理的虐待は客観的判断がむずかしいので、アンケートの数字で示すことはできません。
子育てのアドバイスでよくあるのは「叱るのではなく、ほめましょう」というものです。また、子育ての悩みでよくあるのが「毎日子どもを叱ってばかりいます。よくないと思うのですが、やめられません」というものです。
こうしたことから子どもを叱りすぎる親が多いと思われます。
きびしい叱責、日常的な叱責は心理的虐待です。

これまでは体罰もきびしい叱責も当たり前のこととされ、幼児虐待とは認識されませんでした。
ですから、家出した子どもは警察が家庭に連れ戻しましたし、盛り場をうろついている子どもは少年補導員がやはり家庭に連れ戻しました。
社会全体で虐待の手助けをしていたわけです。

そうしたところにColaboが登場し、虐待された子どもを虐待された子どもとして扱うようになりました。
これは画期的なことでした。
そして、虐待していた親にとっては不都合なことでした。
これまでは虐待した子どもが家から逃げ出してもすぐに連れ戻されて、なにごともなかったのに、今は逃げ出した子どもはどこかで保護され、子どもが逃げ出したのは家庭で虐待されからだとされるようになったからです。
ですから、虐待している親、虐待を虐待と思っていない人たちは前からColaboに批判的で、会計不正疑惑をきっかけにそういう人たちがいっせいに声を上げたというわけです。


虐待のある家庭を擁護する勢力の代表的なものは統一教会(現・世界平和統一家庭連合)です。
統一教会の信者の家庭の多くは崩壊状態で、子どもには信仰の強制という虐待が行われています。しかし、創始者の文鮮明が「家庭は、神が創造した最高の組織です」と言ったように「家庭をたいせつにする」ということが重要な教義になっていて、最近は家庭教育支援法の制定に力を入れています。
「家庭をたいせつにする」という点では自民党も同じで、安倍晋三元首相も家庭教育支援法の制定を目指していました。
統一教会や自民党にとっての「家庭」というのは、親と子が愛情の絆で結ばれている家庭ではなくて、親が子ども力で支配している家庭です。
これを「家父長制」といいます。

今、Colabo問題が大きな騒ぎになっているのは、家父長制を守ろうという勢力と、家父長制を解体して家族が愛情の絆で結ばれる家庭を再生しようという勢力がぶつかり合っているからです。
そういう意味ではまさに「大戦」です。
これは政治における最大の対立点でもあります。


なお、こうした問題をとらえるにはフェミニズムだけでは不十分です。
家父長制は男が女を支配する性差別と、おとなが子どもを支配する子ども差別というふたつの差別構造から成っています。
フェミニズムは性差別をなくして女性を解放しようという理論ですから、それに加えて、子ども差別をなくして子どもを解放しようという理論が必要です。
たとえば母親が男の子を虐待するというケースはフェミニズムではとらえられません。

幼児虐待、子育ての困難、学校でのいじめ、登校拒否などの問題も「子ども差別」という観点でとらえることができます。
そうした観点があれば、幼児虐待から子どもを救うColaboのような運動に男性も巻き込んでいくことができるはずです。

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