長野市の青木島遊園地という公園が近隣から「子どもの声がうるさい」という苦情があったために来年3月に廃止されるという報道があると、さまざまな反応があって、大きな話題となりました。
子どもが公園で遊べばさまざまな声を出すのは当然です。昔から子どもはそうしてきました。家の近くの道路や空き地でも同じです。
「子どもの声がうるさい」という苦情がふえているのは、子どもの声は変わらないのですから、不寛容なおとながふえてきたということです。
ですから、問題を解決するには、不寛容なおとなを寛容なおとなに変えていくしかありません。
ところが、この公園廃止問題を追及することがさらに不寛容なおとなをふやす方向にいっています。
日刊スポーツの記事によると、お笑い芸人の千原せいじ氏は自身のインスタグラムにおいて、長野市の青木島遊園地が来年3月に廃止されるというネットニュースのスクリーンショットを載せ、『「変な街」とつづり、「#千原せいじ #変な街 #住みたくない街 #市議会議員どないしたんや #恥ずかしい」とタグを並べた』ということです。
行政や市会議員を批判するのはわかりますが、「変な街」とか「住みたくない街」という発想には驚きました。
私は日本人全体の傾向がたまたまこの街に強く出ただけと思いましたが、千原せいじ氏は街を悪者にしています。こういう発想が日本の分断を招くのだなと、ある意味感心しました。
やがて「子どもの声がうるさい」という苦情は一件だけだったという情報があり、行政の対応に批判が集まりましたが、さらにその一件は信州大学の名誉教授だという情報が出て、今度は名誉教授にも批判が集まりました。
ひろゆき氏は「子供の公園を許容出来ない人は名誉教授に相応しいですか?」とツイートするとともに、信州大学名誉教授称号授与規程として「第7条 名誉教授にふさわしくない行為を行った場合は,教育研究評議会の議を経て,名誉教授の称号を取り消すことができる」という文を引用しました。
名誉教授の称号を取り消せと言わんばかりです。
このように個人攻撃をあおるのは、いかにも2ちゃんねる創始者のひろゆき氏らしいやり方です。
「子どもの声がうるさい」と言うクレーマーに対して、「クレーマーの声がうるさい」と反応するのは「不寛容の連鎖」です。これでは事態はどんどん悪くなります。
クレーマーの心を解きほぐすような対応が必要です。
スポニチの記事によると、モデルでタレントのトリンドル玲奈さんは12月9日、コメンテーターを務めるTBS系「ひるおび!」において、クレーマーの名誉教授に対して「その人も子供の時代があったわけじゃないですか。きっと子供の時は声を上げて遊んでいただろうし、今の子供たちも声というのを騒音と捉えるのはちょっと違うんじゃないかなと思います」と発言しました。
「自分も子ども時代は声を上げて遊んでいただろう」とクレーマーに指摘することは、自分を見つめ直し、寛容な心を取り戻すきっかけになることがあります。
しかし、そうならないことのほうが多いでしょう。というのは、クレーマーは子ども時代に「うるさい」と親や周りのおとなから叱られていた可能性が大きいからです。つまり「不寛容の世代連鎖」があると想像できます。そういう人は子ども時代のことを回想しても効果はなく、逆効果になるかもしれません。
ところで、騒音問題というのは、音の大きさだけで決まるのではありません。
人間は風の音、川のせせらぎ、波の音、小鳥のさえずりなどの自然音は不快には感じません。むしろ癒されます。
子どもの遊ぶ声というのは小鳥のさえずりと同じ自然音ととらえてもいいはずです。
少なくとも昔の人間はそのような感覚だったのではないでしょうか。
文明社会は激しい競争社会なので、おとなに強いストレスがかかり、それがいちばん弱い子どもに向かって発散される傾向があります。
近所のピアノの音がうるさいという問題もありますが、これも決して音だけの問題ではなくて、ピアノを弾く人と聞く人の人間関係に左右されます。
ピアノを弾く人に好感を持っていれば、へたなピアノの音も不快に感じません。「前よりちょっとうまくなったな」などとほほえましく思ったりします。しかし、ピアノを弾く人を嫌っていると、かりにピアノがすごくうまくても、その音が不快に感じるものです。
ですから、「子どもの声がうるさい」というのも、決して音量の問題ではないのです。
現在の公園廃止の議論は、子どもを無視して行われています。
たとえばスポニチの記事によると、お笑いコンビ「ロザン」がYouTubeチャンネルにおいてこの問題を取り上げ、「“子供は宝、子供は天使”とみんなが思うってのは違う。全部許容すべきだという論調でいっても解決しない」「例えば、何曜日の何時から何時までは使っていいよ、とか、“グレー”を探したのかなと」「当事者同士でやってた時のような、中間を取った答えを出した方がいい。第三者が入ったら、“子供は禁止”か“子供は宝”のどっちかのジャッジしかなくなる」といった議論をしました。
つまり「子どもの声がうるさい」という人と「子どもを遊ばせたい」という人が話し合って、中間の結論を出すのがいいというわけです。
誰からも批判されない無難な意見のようですが、根本的な問題は、子どもが排除されているところです。おとなの意見を平均すると、その着地点は子どもからは遠いところになってしまいます。
日本は子どもの意見がまったく排除されているところが異常です。
意見だけでなく子どもの存在感もありません。
昔は地域社会のつながりがあって、おとなが近所の子どもを見ると、「山田さんちの下の子だ」といった認識があって、声をかけたりしていました。
そうするとおとなも自然と子どもに寛容になったはずです。
今は都会ではそうしたつながりはきわめて薄くなりました。
ここはメディアの出番です。
青木島遊園地の問題がこれだけ騒がれたのですから、テレビが近所の子どもたちにインタビューして、公園廃止についてどう思うかと聞けばいいのです。
「公園をなくさないでほしい」とか「遊ぶ場所がなくなって不便」といった切実な声が上がれば、「子どもの声がうるさい」という声を打ち消すことになるかもしれません。
もうすでに公園で遊ぶ子どもは少なくなっていたということですから、案外「公園なんかなくてもかまわない」という意見が多いかもしれませんが、それはそれでいいことです。
要は当事者である子どもの意見を聞くことがたいせつです。
子どもが顔を出して意見を言うことで、おとなも子どもの存在を意識して、配慮するようになるはずです。
ところが、「子どもが意見を言う」ということが日本では異常に嫌われます。
たとえば14歳のYouTuber「少年革命家」のゆたぼんさんは「不登校の自由」などを主張して年中炎上していますし、現在21歳の女優の春名風花さんは、9歳からツイッターを始めて政治社会の問題にも発言して数々の炎上を引き起こしましたし、現在19歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリさんは、15歳のときに「気候のための学校ストライキ」を行い、国連で演説するなどして世界的な注目を浴びましたが、日本では「生意気」「親のあやつり人形」など非難の嵐でした。
子どもの意見表明権は子どもの権利条約でも認められています。
第12条1.締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
しかし、メディアだけでなく学校でも子どもの意見はまったく無視されています。
おそらく子どもの意見を聞くと、「なぜ勉強しなきゃいけないの」「なぜ学校に行かなきゃいけないの」などと面倒なことを言うのを恐れているのでしょうが、こういう意見に向き合うことでおとなも成長します。
なお、子どもの権利条約には子どもの「遊ぶ権利」も規定されています。
第31条1.締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。
代替措置もせずに子どもの遊び場を廃止することは、子どもの遊ぶ権利の侵害です。
考えてみれば、「子どもの声がうるさい」という不寛容なおとなを寛容なおとなに変えるのは、人間の内面の問題ですから、けっこうたいへんです。
それよりも「子どもの権利」を押し立てて社会を表面から変えていくほうが簡単かもしれません。