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              Daniela DimitrovaによるPixabayからの画像 

人間が生きて成長していくためにはさまざまな栄養素が必要で、ビタミンCが欠乏すると壊血病になり、ビタミンB1が欠乏すると脚気になり、カルシウムが不足すると骨が弱くなるということは栄養学によって明らかになっています。同様に、人間の心が成長するためには愛情という栄養素が必要で、愛情が不足すると愛情欠乏症になります。しかし、愛情はビタミンやミネラルのような物質ではないので、このメカニズムは科学としてはいまだ明らかになっていません。

第二次大戦後、大量の孤児が発生し、孤児院などの施設に収容されましたが、衣食住が十分な環境であっても、孤児の死亡率が高いという現象が見られました。原因を探ったところ、母親的な存在との情緒的なつながりの不足と考えられ、子ども一人ずつに担当の看護婦を決めて世話をすることで改善しました。
以来、施設において愛情不足により、幼児の死亡率の高さ、身体の成長や言語の発達の遅れが生じることを
「ホスピタリズム(施設病)」というようになりました。
しかし、ホスピタリズムという言葉だと、施設特有の現象と誤解されるかもしれません。そのためかどうか、最近はほとんど使われなくなりました。

「愛情遮断症候群」という言葉もありますが、この言葉だと第三者が愛情を遮断したような誤解を生みます。
精神科医の岡田尊司氏は「愛着障害」という言葉を使っていて、これは割と広がっていますが、この言葉だと愛着するほうに問題があるようにも理解できます。

そこで、私は「愛情欠乏症」ないし「愛情欠乏症候群」という言葉を使っています。この
言葉がいちばん意味が明快ではないでしょうか。


最近、幼児虐待が社会問題化して、愛情不足の問題が否応なく認識されてきました。
わが子を殺したりケガさせたりする親は極端な例ですが、それ以外の親はみんな十分な愛情を子に与えているかというと、そんなことはありません。むしろどんな親も完全な愛情を与えられないというべきで、その不足の度合いによってさまざまな問題が生じてきます。

たとえば依存症が愛情欠乏のひとつの症状です。子ども時代に親に十分に依存できなかったために、なにかに極端に依存してしまうのです。
たとえば恋愛関係になると、恋人に極端に依存するので、「重い」と言われたりします。DVを受けても逃げられないのも、相手に極端に依存しているからです。振られてもその事実を受け入れることができずにストーカーになる人も同じだと思われます。
アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症、買物依存症などは有名ですが、セックス依存症や仕事依存症、もっとほかにもあるはずです。

リストカットや摂食障害も愛情欠乏症です。これらはカウンセリングにかかることが多いと思われますが、カウンセラーもピンからキリまであるので、愛情不足に原因があると把握してくれる場合とそうでない場合とで、治り方がぜんぜん違ってきます。

私は以前、リストカットを繰り返す若い女性が出てくるドキュメンタリー番組を見たことがあります。その女性の手首には二十か三十くらいの傷がびっしりとついていて、私は見た瞬間、耐えがたいほどの痛々しい思いがしました。その女性の母親は、「死ぬのだけはやめてね」と言っていて、一見、娘の命をたいせつに思っているようですが、「私に迷惑をかけるのだけはやめてね」という意味としか思えません。娘は母親の愛情を得ようとしてリストカットを繰り返しているのでしょう。

不登校、引きこもり、家庭内暴力なども、原因はいろいろあるにせよ、愛情という心の栄養不足が根底にあります。 

人生になんの意味があるのだろうと悩む若者もいます。こういう悩みは哲学的だとしてほめる人もいますが、私の考えでは、これも愛情欠乏症の一種です。若いのに前向きに生きていけないのは、たいていは愛情不足が原因です。

 
これらをまとめて愛情欠乏症候群ということになりますが、愛情は客観的に測定できないこともあって、この病気に対する理解はまだまだです。

それに、親に向かって「あなたは子どもへの愛情不足です」と言うのは、最大級の人格否定になるので、なかなか言えません。
また、それを言うと子どもも傷つきます。親の愛情が足りないのは自分自身に愛される価値がないからだと思うからです。

しかし、「虐待の世代連鎖」という言葉があるように、親の愛情不足は多くの場合、その親自身が親から十分に愛されてこなかったことが原因です。また、夫婦仲が悪いとか低収入で生活が苦しいということも子どもへの愛情不足につながります。
いずれにせよ、子どもが栄養失調になるのは子どものせいでないように、子どもが愛情欠乏症になるのは子どものせいではありません。


愛情不足の親のあり方はさまざまです。暴力をふるったりネグレクトしたりするのはわかりやすいケースです。教育熱心は愛情の表れとされますが、愛情のない教育熱心はいくらでもあります。巧妙に子どもを支配する親は「毒親」と言われます。

愛情不足の親に対する子どもの反応はふたつに分かれます。
活動的で気の強い子どもは、親に反抗し、喧嘩し、家出したり、仲間といっしょに盛り場をうろついたりします。私はこれを「行動化する不良」と呼んでいます。若くして結婚して親元を離れることも多くあります。
活動的でなく気の弱い子どもは、争いを避けるために親に合わせるので「よい子」と思われたりしますが、心を病んで、不登校、引きこもり、家庭内暴力という方向に行きます。これを私は「行動化しない不良」と呼んでいます。

こうしたことはすべて親の愛情不足が原因ですが、世の中にはまだはっきりと認識されていません。しかし、いずれ脳科学や生理学や認知科学などが愛情を客観的に測定することを可能にし、そのときには栄養学と同様に愛情学が生まれ、世の中から愛情欠乏症候群は一掃されるでしょう。