村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:政治学

「平和」と「安全」は別の概念ですが、政治の世界では「安全」や「安全保障」という言葉が「平和」と同じような意味で使われています。
たとえば、防衛省のホームページの「わが国の安全保障」と題された文章の冒頭は、「平和と安全は、国民が安心して生活し、国が発展と繁栄を続けていく上で不可欠です」となっています。
「平和」と「安全」が同列になっています。
 
世界が平和なら自国も安全になります。そのため平和と安全が似た概念と思われるのかもしれません。
 
しかし、世界が戦争をしていても自国が安全だという場合があります。たとえば第二次世界大戦のときのスイスなどがそうです。これは安全保障政策としては成功したことになります。
 
戦争しながら自国が安全だという場合もあります。たとえば日清、日露、日中戦争をしていたときの日本がそうです。これも安全保障政策としては成功していたことになります。日本国民は兵隊以外、空襲にあうまで安全な生活を享受していました。
アメリカはアフガニスタン、イラクで戦争をしているとき、一部にテロはありましたが、自国は基本的に安全でした。
 
つまり安全と戦争は両立しうるのです。
いや、安全の追求が戦争を起こすといったほうがいいかもしれません。
 
昔の日本も、「満蒙は日本の生命線」などと言って海外で戦争をしたわけですし、アメリカはテロや大量破壊兵器からの安全を求めてアフガニスタンやイラクに攻め込んだわけです。
 
現在の日本では、敵基地攻撃能力を持つべきだという意見が一部にあります。もし日本が北朝鮮のミサイル基地を先制攻撃したら、自国の安全のために他国の安全を侵したことになります。

平和というのは相手とともに享受するものですが、安全というのは、相手の安全を侵して自分だけ安全になるということが可能です。
しかし、そのような利己的な振る舞いは、結局うまくいかないものです。
 
よく「一国平和主義」はだめだと言われますが、「一国平和主義」というのは言葉として矛盾しています。「一国安全主義」ないし「一国安全保障主義」というべきでしょう。
戒めるべきは「一国安全保障主義」です。
 
安倍首相は「積極的平和主義」という言葉を使いますが、これも「積極的安全保障主義」と言うべきでしょう。平和主義とは別物です。
 

終戦記念日が近づき、戦争と平和について考える季節になりました。
 
森友学園の幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させ、軍歌を歌わせていたように、日本人の中にはまだ軍国主義時代に戻りたいと思っている人たちがいます。
一方に、憲法九条を守ることにこだわっている人たちがいます。
この両者は、角突き合っているうちに角がからまって身動きがとれなくなった二頭の雄鹿のようです。
どちらも過去にこだわっているので、未来志向の平和論が出てきません。
 
政治学では、平和とは「戦争が発生していない状態」という意味です。
これは「ローマの平和」という言葉があるように、「力の支配による平和」という意味でもあります。
 
しかし、私たちが普通に思う平和とは、「みんなが仲良くなって戦争が起こらない状態」のことです。
これは「真の平和」です。
 
世の中には「力の支配による平和」を目指している人と「真の平和」を目指している人がいて、両者の考える「平和」の意味が違うので、それを区別しないと議論が混乱します。
 
 
「力の支配による平和」よりは「真の平和」が好ましいのは当然で、私は「真の平和」はどうすれば実現できるかと考えてきました。
 
古代の戦争を研究する「戦争考古学」という分野があって、それによると戦争が行われるようになったのは農耕が始まってからで、狩猟採集社会では戦争と呼べるほどの争いはなかったということです。ですから、戦争は人類の本能というわけではありません。
このことはこのブログでも書きました。
 
戦争考古学のススメ
 
しかし、文化人類学によると、狩猟採集段階の未開社会ではけっこう部族間の争いがあって、ほとんど戦争と呼べるぐらいです。原始時代とはちょっと違うようです。
 
生物学によると、なわばりを持つ動物はつねになわばり争いをしています。各個体はつねに公平より少し利己的に振る舞うようにできているからです。ただ、なわばり争いはそれほど深刻にはなりません。
 
人間も本能レベルでは公平より少し利己的に振る舞うのは同じです。しかし、その振る舞い方は本能レベルにはとどまらず、どんどん激化していき、戦争をするようになったと考えられます。
 
みんなが仲良くなって争わないという「真の平和」は、限定的な場面では生じることがありますが、外部と交流したり、次の世代が生まれたりすると、崩れてしまいます。
「真の平和」という理想は長続きしないのです。
 
結局のところ、長続きする平和は、「力の支配による平和」ということになります。
昔の村でも、長老の裁定による村八分という秩序維持システムがありました。
今の社会には警察があって、それで個人の利己的な振る舞いを抑えて治安を維持しています。
国際社会もそれと同じはずです。
 
 
われわれは「真の平和」は当面諦めて、「力の支配による平和」を目指すしかありません(「真の平和」は人類がもっと知恵をつけた未来に実現するかもしれません)。
そうすると、アメリカに頼って、アメリカの力で平和を維持してもらおうということになりますが、これはよくありません。
なぜならアメリカもまた利己的に振る舞うからです。
「ローマの平和」といいますが、多くの人はローマ帝国に支配され、奴隷にされていたわけで、それと同じことになります。
 
アメリカであれ中国であれ、覇権国が世界を支配すると、支配される側は不幸です。
 
となると、民主的に運営される機関、つまり国連の力で世界を支配してもらおうという「国連中心主義」が正しいという平凡な結論になります。
 
 
ともかく、今の日本には、
「真の平和」を求める理想主義的な人、
アメリカの覇権を望む人、
国連中心主義の人、
の三種類の人がいると考えると、議論がわかりやすくなります。
 
ただ、アメリカの覇権を望む人は、自分の正体を隠そうとするのでやっかいですが、たいてい国連をバカにしたことを言うので見きわめられます。
 

自民党の有村治子議員は参議院内閣委員会で、中国国旗の下に日の丸が配置されたNHKのニュース映像を取り上げ、日の丸を外国旗の下に配置するのはあってはならないことと主張しました。
しかし、その映像は、自衛隊機のスクランブル発進が急増しているという特集の中のもので、上に中国軍機、下に自衛隊機を並べ、その背景に国旗をあしらったものです。スクランブル発進ということを考えれば、自衛隊機と日の丸が下に位置するのは当然です。
 
ところが、産経新聞がこのことを「NHKが日の丸を中国国旗の下に 岸信夫外務副大臣『あってはならない』」との見出しで記事にし、ネット右翼が騒ぎました。しかし、岸外務副大臣は国旗掲揚についての一般的なマナーを述べただけで、ニュース映像について述べたわけではありません。
 
外務副大臣、NHK映像の国旗配置に言及せず 産経が見出しで誤導
 
ニュース映像で日の丸が中国旗の上になっていようが下になっていようが、どうでもいいことですが、右翼にとってはそうではありません。ごまかしをしてまでも問題にしたいようです。
右翼は国旗国歌に異常に執着します。卒業式・入学式での国旗国歌の強制にも熱心です。
 
 
ただ、国旗国歌の強制に反対する人は、よく「内面の自由」ということを反対理由に挙げますが、私はこれがどうも納得いきません。
 
ウィキペディアの「内面の自由」の項目によると、「内面の自由とは、自由権のうち、他者に影響を及ぼさず、行為となって現れないものを指す」とあり、それはさらに「思想・良心の自由」「学問の自由」「信教の自由」に分けられるそうです。
 
江戸時代、幕府は人々に踏み絵を踏ませてキリシタンを識別しました。幕府の役人は「絵を汚すことは気にするな。踏んでもなにも起きないから、遠慮せずに踏め」というように言ったでしょう。つまり反宗教あるいは合理主義の発想です。
しかし、キリシタンにとっては、キリストの絵を踏むことには「けがす」というような精神的な問題が生じます。もし当時そういうものがあればですが、「内面の自由」や「信教の自由」を主張して踏むのを拒否したいところです。
 
つまり踏み絵をめぐっては、踏み絵を踏ませるほうが合理主義で、踏まないために「内面の自由」を主張するほうが宗教です。
 
 
国旗国歌の強制は、外見的には踏み絵を踏ませることに似ていますが、実際は反対で、国旗国歌を強制するほうが宗教で、強制に反対するほうが合理主義です。
 
第一次近衛内閣が1937年から始めた「国民精神総動員」運動において、集会のときは「国旗掲揚、国歌斉唱、宮城遥拝」をすることが奨励されました。現在、右翼は「宮城遥拝」を除外し、「国旗掲揚、国歌斉唱」だけにしているわけですが、実質は同じようなもので、国家神道といえます。
少なくとも国旗国歌を崇拝するのは合理主義ではありません。
公立学校の中に非合理なものを持ち込むことは許されませんし、反対するのは当然です。
 
ところが、国旗国歌の強制に反対する人の中に「内面の自由」を持ち出す人がいるので、混乱します。
 
日の丸は軍国主義や侵略の象徴だからどうしても拒否したいという人などが「内面の自由」を持ち出すのでしょうが、そういう人は日の丸以外のデザインになれば、その国旗を崇めるのでしょうか。
 
国旗国歌の崇拝は宗教的行為ですから、それに反対するのに「内面の自由」を持ち出す必要はなく、合理主義だけで十分です。

各国はトランプ氏とどうつきあっていくか悩んでいるようですが、プーチン大統領は明快なスタンスを持っています。
プーチン大統領がトランプ氏と電話会談をしたというニュースを見ても、そのことがわかります。
 
 
米ロ関係、改善へ一致 トランプ氏とプーチン氏、電話会談
 
 ロシアのプーチン大統領は14日、米大統領選で勝利したトランプ氏と電話で会談した。
(中略)
ロシア側は電話についてどちらからかけたかを明らかにせず、「双方の合意に基づいて実現した」と説明している。
 プーチン氏はトランプ氏に「平等、互いの尊重、相手国の内政への不干渉という原則」を基盤に新しい米国の指導部と対話をする用意があると表明した。
(後略)
 
 
プーチン大統領は「平等」という言葉を使って釘を刺しています。
もっとも、トランプ氏がそれに同意したかどうかはわかりません。
いや、たぶん同意はしていないでしょう。
 
前回の『「朝貢貿易」を求めるトランプ氏』という記事でも書いたことですが、トランプ氏が勝利宣言で言ったことをもう一度引用しておきます。
 
 
そして、世界に向けて宣言します。私たちは、常にアメリカの利益を最優先しますが、全ての人・国に公正に対応します。
 
 
これは、アメリカは世界に君臨すると言っているのと同じです。
もし中国の習近平国家主席が「私たちは、常に中国の利益を最優先しますが、全ての人・国に公正に対応します」と言ったら、日本人は「傲慢だ」と言って怒るはずです。
 
プーチン大統領は「平等」という言葉を使って、トランプ氏をけん制したわけです。

 
国際政治においては平等などありえず、大国や強国が勝手な振る舞いをするのだという考え方もあるでしょう。
そうすると、日本は大国アメリカとの関係で、不平等条約を押し付けられるなど、なんらかの不利益をこうむっているはずです。
どのように不平等で、どういう不利益をこうむっているのかということを明らかにするのは国際政治学の役割です。しかし、そのようなことを言う国際政治学者を見たことがありません。
 
どうしてそうなのかということを「永続敗戦論」で注目された白井聡氏が「戦後政治を終わらせる」という本で書いていました。その部分を引用します。
 
 
学問の世界から一例を挙げると、国際政治学という学問があります。国際政治学者が書いた本を書店で手に取ると、われわれプロは、目次より何よりまず著者の学歴経歴を見ます。翻訳書の場合は訳者の学歴経歴です。学歴経歴を見るだけで、その本に書いてある内容の八割九割はわかってしまう。どうしてか。まず国際関係論とか国際政治学を専攻している学者の多くがアメリカ関係の研究をやっています。日米関係やアメリカ外交ですね。戦後の日米関係の重要性に鑑みれば、国際政治学の専門家の多くがアメリカに関する研究をすること自体は不自然ではありません。
問題は、この人たちがどのような教育を受け、どのようにキャリア形成をするかということです。その人たちの多くは、アメリカに留学をし、場合によってはアメリカで学位を取る。
アメリカにおける国際関係論とはどういう学問なのか。これは「アメリカの国益を最大化するためにはどうするべきかを考える学問である」と明快に定義されています。アメリカ人がそういった学問――これほど政治的目的を前面に出した学問を学問と呼ぶべきなのか微妙ですが――をやるのは勝手ですが、日本人がアメリカに行って、この分野で学位を取り、当地の人脈をつくり、そして帰国後に日本の大学や研究機関で職を得て、講義や教育、あるいは政府の政策に助言をしたりする。そのことの意味を、よく考える必要があります。
なぜわれわれが、国際政治学者の本を見るとき、学歴経歴から見るのか、察しがつくでしょう。何年アメリカで学んだのか、そこで学位は取ったのか、帰国後の就職活動で苦労しているか――こうした点を見れば、本の内容はおおよそ推測できます。つまりある国際政治学者のアメリカ滞在歴が長く、帰国後あっという間に良いポストに就職しているというような場合、その著者の主張は、「日米同盟は永遠に続くべきである」というものであると、見当がつくのです。そのような結論ありきで書かれた書物に、当然知的緊張はありません。
(白井聡著「戦後政治を終わらせる」103105ページ)
 
 
日本人が「アメリカの国益を最大化するためにはどうするべきかを考える学問」を学んでいるのも妙なものですが、それを「日本の国益を最大化するためにはどうするべきかを考える学問」に転換させればいいわけです。しかし、転換させなければ、ただの売国学者です。
そして、どうやら日本には売国学者がいっぱいいるようです。
 
政治学というのはろくでもない学問だと前から思っていましたが、白井聡氏の本を読んでそのことを改めて認識しました。

フィリピンのドゥテルテ大統領は、「ヒトラーは300万人のユダヤ人を虐殺したが、(フィリピンには)同じ数の麻薬中毒者がいる。彼らを虐殺できれば幸せだ」と発言しました。
国際社会から非難を浴びると、ユダヤ人社会に対しては謝罪しましたが、麻薬中毒者を殺すと言ったことについては謝罪していません(ドゥテルテ大統領は10月下旬に来日することになっていますが、安倍首相は笑顔で握手するつもりでしょうか)
 
これと似ているなと思ったのが、人工透析患者を殺せとブログで発言したフリーアナウンサーの長谷川豊氏です。
 
長谷川氏は、人工透析患者の多くは医師からの注意を無視して自堕落な生活を送り続けた結果人工透析を受けざるを得なくなった患者であると主張し、「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」という過激なタイトルのブログ記事を書きました。
これに抗議が殺到して炎上しました。
長谷川氏は、タイトルに「殺せ」という言葉を使ったのは誤解を招いたと反省していますが、「保育園落ちた日本死ね!!!」と同じで、過激な言葉で自分の主張を拡散したかったからだとし、「今でも間違った内容を書いたつもりはない」、全国腎臓病協議会(全腎協)が公開抗議文で謝罪を要求していることについても、「謝罪については断固拒否する」と語っています。
 
ヒトラーはユダヤ人という人種を抹殺しようとしました。
「ヒトラーの思想が降りてきた」という相模原19人殺しの植松聖容疑者は、知的障害者を殺しました。
「人種」や生まれつきの「障害」というのは、本人の意志ではどうにもならないことです。こうしたことを理由に迫害や蔑視をすることは差別であるとコンセンサスができています。
 
その点、ドゥテルテ大統領が殺すと言っているのは犯罪者ですし、長谷川氏が殺せと言ったのは自堕落な生活をしてきた人工透析患者です。
「犯罪」や「自堕落」な生活というのは本人の意志によるものだから差別ではないというのが、ドゥテルテ大統領や長谷川氏の考えでしょう。
 
しかし、このような本人の意志、つまり「自由意志」を前提とした考え方は今や破綻しつつあります。
 
たとえば糖尿病が原因で人工透析になる患者が多いのですが、1型糖尿病はもちろん2型糖尿病も遺伝的要素が強いことがわかってきています。
また、糖尿病の原因に肥満も挙げられます。昔は「身長は遺伝だが体重は本人の意志」という考えが支配的でしたが、今は肥満遺伝子が発見されるなど、生まれつき太りやすい体質のあることがわかっています。
「自堕落」などという道徳概念を病気の原因と見なす長谷川氏の主張が炎上を招くのは当然です。
 
ドゥテルテ大統領も麻薬中毒者を殺すと言っています。麻薬使用は犯罪なのでしょうが、麻薬中毒は病気です。ドゥテルテ大統領の主張も破綻していると言わざるをえません。
 
 
病気については医学的研究が進んで「自由意志」の範囲はどんどん狭まっています。最終的には「自由意志」は消滅するはずです。
 
ただ、犯罪や貧困などの社会的問題については科学が及ばないので、いまだに「自由意志」のせいにされています。
そのため貧困や格差は「自己責任」だとする新自由主義的主張がまかり通っています。
 
しかし、社会科学がほんとうの科学になれば、こうした事態もなくなるでしょう。今は過渡期であり、ドゥテルテ大統領や長谷川氏の主張はあだ花みたいなものです。

高嶋ちさ子さんが子どものゲーム機をバキバキにしたことで炎上し、それがさまざまな議論を呼んでいます。
私はこのことを「『世界一わかりやすい毒親』高嶋ちさ子」という記事で書きましたが、重要な問題なので再び取り上げることにします。
 
 
高嶋さんを批判する意見で、ゲーム機を壊すのはよくないというのがけっこうあります。
一般論として物を壊すのはよくありませんが、この場合、「心より物がたいせつ」と主張しているみたいです。子どもの心への影響を中心に論じてもらいたいものです。
 
脳科学者の茂木健一郎氏は、物を壊すのは正しいとは思えないと主張したあと、こう語っています。
 
「これは、親御さんの個性の問題だと思います。高嶋さち子さんのような方は、典型的とは言えないが、一つの個性である。だから、その個性がいいとか、わるいとか、一概には言えない」
「大人の、あるいは母親のふるまいとしてどうなのか、ということですが、一般に、人格(personality)に『正解』はありません」
 
子どもの教育の良し悪しに関することなのに、高嶋さんの個性の問題にすりかえています。
 
個性に「正解」はないでしょうが、その子どもに合った教育のやり方に「正解」はあります。しかも、この「正解」はひとつしかないはずです。
もちろんどんな親もどんぴしゃりの「正解」の教育はできません。少しでも「正解」に近づけるよう努力するだけです。
自分には「正解」の教育はできないという自覚が謙虚な姿勢につながります。
 
 
爆笑問題の太田光氏と田中裕二氏はこのように語ったということです。
 
 太田は23日深夜放送のラジオ番組「爆笑問題カーボーイ」で高嶋の騒動に触れ、高嶋が新聞のコラムで自ら明かしたことに「バカだなぁ」と笑い飛ばしたが、その内容によって批判を受けていることについては「それはさぁ、他人の家の教育じゃん。だって音楽の人なんて、もっとひどいことやられてるよ、恐らく。スパルタなんてもんじゃないからね」とコメント。相方の田中裕二も「人それぞれ、子育ての仕方は違うからね」と同調した。
 
家庭によって、人によって子育てのやり方は違っていいという考え方です。
この考え方は親には歓迎されるでしょう。なにをやっても「正解」だというのですから。
しかし、こうした考え方が虐待につながることも否定できません。
 
茂木氏の考え方も爆笑問題の考え方も、世の親にとってはありがたい考え方ですが、子どもにとってはまったくありがたくありません。
 
 
そもそもゲーム機バキバキ事件は、子どもがルール違反をしたことがきっかけだとされます。そのいきさつはこうです。
 
 
  「ゲーム機バキバキ事件」。タレントのリレー方式で連載している東京新聞のコラムでは、高嶋さんは2016212日にこんな刺激的なタイトルで自らの子育てを語った。
 
   それによると、高嶋さんは、ゲーム機を子供に与えない方針だが、長男の友達の母親からプレゼントされ、特別に許すことにした。息子が2人おり、公平にと考えて、次男には、自らがゲーム機を買い与えた。
 
   ただし、ゲームを許すに当たっては、家庭内にルールを設けた。高嶋さんは、ゲームは週末に宿題が終わって時間が余ったときだけと言い渡した。19時以降に子供は電化製品に触れないルールがあるので、土曜日の1719時までがゲームの時間になった。
 
   ところが、ある金曜日の夜に長男がゲームをしているのを見つけ、宿題も終わっていないというので、高嶋さんは激怒した。そして、「ゲーム機を手でバキバキと折った」と明かしたのだ。長男は、それを見て悲鳴を上げ、かなり落ち込んでいたという。次男についても、その日はチェロの練習をしていなかったことに怒り、買ったゲーム機も折って壊した。
 
   コラムでは、「約束は守らないといけません」とのキャプションを付けて、2つに折ったゲーム機2台の写真を載せている。
 
 
子どもが家のルールを破ったのだから、ゲーム機を壊されるのはしかたがないという意見もかなりあります。
しかし、「家のルール」とはなんでしょうか。
この場合、「家のルール」は高嶋さんがつくっています。ですから、これは「親のルール」というべきです。
子どもは一方的に「親のルール」を守らされ、ゲームをする時間を制限されるだけです。
 
もちろん親が正しいルールをつくることもありますが、親が一方的にルールをつくっていいとなると、親にとって都合のいいルールになりがちです。
それを避けるにはどうしたらいいでしょう。
それは、「家の憲法」をつくることです。
「家の憲法」は親を縛るものです。つまり家庭における立憲主義です。
政治の世界で立憲主義がたいせつだと思う人は、家庭においても立憲主義のたいせつさを理解するはずです。
 
もちろん今の世の中に「家の憲法」はありません。
そのため高嶋家ではゲーム機がバキバキにされ、ひどい家では子どもが虐待されてケガしたり殺されたりしているわけです。

「家の憲法」をつくることは今後の政治の課題でもあります。
自民党の改憲草案の「第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」なんていうのはだめです。

日本人2人がイスラム国の人質になり、日本政府は身代金2億ドルを要求されています。
 
テロリストの活動資金になるから身代金は払うべきではないという意見がありますが、そのほかに、テロリストとはいっさい交渉するべきではないという意見もあります。
なぜテロリストと交渉してはいけないのかという理由はありません。なにがなんでもテロリストと交渉してはいけないというのです。
「テロリストと交渉しない」原理主義とでも呼ぶべきでしょう。
 
この原理主義の意見はかなり広く存在していて、「テロリストと交渉するべきだ」という意見が言いにくい雰囲気があります。
 
しかし、かつてブッシュ大統領は「テロとの戦争」を宣言しました。もしテロリストと戦争しているなら、和平交渉も選択肢になければなりません。 
 
アルカイダのような、はっきりした組織がないところとは交渉しようがないということもあるでしょうが、イスラム国とかボコ・ハラムのように、一定の地域を支配下に収めている組織とは十分に交渉することができます。
 
私は、「テロリストとは交渉しない」という主張を聞くと、近衛内閣の「国民政府を相手にせず」を思い出します。
みずから進んで泥沼に入っていくときの言葉です。
 
こういう原理主義的な考えは、アメリカ人が得意とするものでしょう。ヨーロッパや日本、つまり騎士道や武士道のある国では、戦争は勝ったり負けたりするものです。
しかし、アメリカにとっての戦争は、自分たちは正義で、相手は悪だというものです。ですから、日本も東京裁判で裁かれてしまいました(先住民を虐殺したときの論理もこれでしょう)
 
こうした考えの背後には、相手を蔑視する心理があるでしょう。軍国日本は中国を蔑視し、今のアメリカはイスラム勢力を蔑視しているのです。
 
とはいえ、アメリカも朝鮮戦争やベトナム戦争など、明らかに泥沼状態になれば、敵と和平交渉をします。
 
イギリスにおいては、ロンドンのハロッズデパートで爆弾事件を起こすなど凶悪なテロを行ってきたIRAに対し、サッチャー首相は「テロリストと交渉しない」という強硬な姿勢をとりましたが、ブレア首相は方針を転換し、結局交渉することでテロを終わらせました。
テロリストは普通の犯罪者と違って明確な政治的主張があるのですから、むしろ交渉しやすい相手です。
 
オバマ大統領は一般教書演説で「イスラム国の壊滅を目指す」と言いましたが、これは泥沼への道です。
日本はむしろ「アメリカ政府を相手にせず」と言って、テロリストと交渉する道を進むべきです。

ムハンマドの風刺画を載せた新聞社がテロ攻撃を受けたことから、「表現の自由」が議論になっています。
「表現の自由」はたいせつだとされる一方で、ヘイトスピーチはフランスでも法的に禁止されています。
「表現の自由」と「ヘイトスピーチ禁止」は一見矛盾しています。この関係はどうなっているのでしょうか。
 
これは「権力」という補助線を引いてみればよくわかります。
 
権力者は権力を利用して自分への批判を封殺しようとしがちです。そうならないように「表現の自由」「言論の自由」「報道の自由」がたいせつになります。つまりこれは民衆や弱者の武器です。
 
一方、「ヘイトスピーチ」は強者が弱者に対して行うものです。
ですから、これは「弱い者イジメ」と同じです。
ただ、ヘイトスピーチは弱者がより弱い弱者に対して行うことが多く、「在日が日本を支配している」「ユダヤ人は世界支配の陰謀をくわだてている」といった妄想による被害者意識を伴っているので、わかりにくくなっていますが。
 
このように考えると、パリのデモに各国首脳が参加して、「報道の自由」を訴えたのはおかしなことです。首脳たちは自国内で「報道の自由」をいかに抑圧しているかということをこのサイトが皮肉っています。
 
「シャルリー・エブド」を支持する抗議デモに参加した各国首脳、Twitterで偽善を暴かれる
 
また、各国首脳はデモの先頭に立っていたかのように報道されましたが、実際は安全な別の場所で撮影をしていたのでした。
 
【露呈】フランスのデモ行進はテレビ報道映像用の撮影風景での「指導者たちの演技」|また、メディアが「真実」を報道していないことがわかってしまった
 
 
さて、そうすると、風刺新聞シャルリー・エブドがムハンマドの風刺画を掲載したことはどう考えるべきでしょうか。
 
シャルリー・エブドはイスラム教に限らず全宗教を風刺しているということです。カソリック教会はいまだに権力がありますから、これを風刺するのは「表現の自由」として守られなければなりません。また、イランは聖職者が実質的に支配しているような国ですから、こうした聖職者を風刺することも同じです。
 
しかし、ムハンマドを風刺することは、イスラム教そのもの、あるいはイスラム教徒すべてを風刺することです。
 
現在、中東のイスラム諸国はアメリカ、イスラエル、NATOの軍事力に圧倒的に押さえ込まれています。つまりフランスは強者の側で、イスラム諸国は弱者の側です。
フランスのメディアがイスラム教全体を風刺するということは、誰か弱者の味方をしているわけではなく、強者が弱者を風刺、つまり侮蔑していることになります。
ですから、これはヘイトスピーチの類です。
 
宗教批判がいけないということではありません。日本人はよく「一神教は不寛容でよくない」と言いますが、こうした批判は建設的なものにつながる可能性があります。
 
テロを正当化するわけではありませんが、イスラム教徒すべてを侮辱するようなことは、「表現の自由」の問題ではなく、ヘイトスピーチと見なすべきです。

資本主義対社会主義の対立がなくなっても、いまだに右翼対左翼の対立があるのはなぜかということを前から考えているのですが、それについておもしろい科学的研究が発表されました。グロ画像を見たときの脳の反応で政治的立場がわかるというのです。
ちなみに私はスプラッターホラーが大好きです。私の政治的立場はどうなのでしょうか。
 
 
グロ画像を見た時の脳の反応で政治的傾向が右なのか左なのかがわかる?(米研究)
 うえっとなるような不快な画像を見た時の脳の反応を見ることで、その人の政治的傾向が保守的(右寄り・コンサバティブ)なのか、革新的(左寄り、リベラル)なのかがわかるという面白い研究結果が報告された。
 
  不快画像というのはいわゆるグロ画像のことで、ウジ虫やバラバラ死体、キッチンの流しのヌメっとした汚れやツブツブが密集したものなどである。
 米バージニア工科大学カリリオン研究所のリード・モンタギュー教授率いる研究チームは、83人の男性と女性を対象に、不快な画像、心地よい画像(赤ちゃんや美しい風景など)、そのどちらでもないニュートラルな画像を取り混ぜて見せてMRI脳スキャンを行った。
 
  被験者はその後、グロ画像の不快感を覚えた度合いを評価し、その後、「銃規制」「同性結婚」「移民問題」などを含む政治理念に関するアンケートに答えた。
 
  その結果、右寄り(保守)も左寄り(革新)も、自己申告したグロ画像に対する“不快度”はほぼ同じだったにもかかわらず、脳スキャン上では、嫌悪の認知、感情の制御、注意力、そして記憶力に関する脳活動が大きく異なっていた。
 
  総じて右寄りの人の脳の方が、グロ画像に対して強く反応したという。特に保守的な傾向にある人は嫌な画像をみると、その対象を理解するために必要なものでも、強い拒絶反応を示すようだ。
 
  右寄りの人と左寄りの人の脳スキャンは、あまりにも違っていたため、基本的にわずか1枚のグロ画像に対する脳の反応を見るだけで、95%の確率でその人の政治的傾向を言い当てることができたそうだ。
 
  なぜ政治的に右寄りの人の脳は強くグロ画像に反応するのか?
  その理由やメカニズムについては、さらなる研究が必要だという。
 
  モンタギュー教授は、「政治的傾向は、両親から遺伝で受け継ぐケースが多いと考えられるが、遺伝子に加えて環境や経験の影響も受けます。ただ、政治的思想の違いの原因が、脳の構造の違いにあり、“単なる反応”だと考えれば、政治的な対立や緊張を和らげる効果をもたらすかもしれません」。と話している。
 
via:metro・原文翻訳:mallika
 
追記:一部訂正を修正して再送します。(20141182020
 
 
「グロ画像」への反応で政治的立場がわかるというのは、意外なようですが、納得する部分もあります。
たとえば、ベトナム戦争の枯葉剤の影響によるとされるシャム双生児の「ベトちゃんドクちゃん」は、ずいぶんとマスコミに取り上げられました。この2人を「グロ画像」という言葉で表現するのは申し訳ないのですが、拒絶反応を示す人も多かったはずです。
「ベトちゃんドクちゃん」を取り上げた人たちは、反戦かつ反米の思いがあったのではないかと思われます。
 
また、アウシュビッツなどの、骨と皮だけの死骸が大量にある写真は、それだけで強制収容所の実態を物語っています。こうした写真を取り上げる人たちも、反ナチと反戦の思いがあるのでしょう。
 
一方、右翼はカンボジアのポル・ポト派の虐殺写真を反共プロパガンダに利用すればいいはずですが、あまりやっていません。ただ、虐殺されたのは200万人だとか300万人だとか数字だけを言っています。
 
やはり右翼は「グロ画像」に拒絶反応を起こすようです。
「グロ画像」に拒絶反応を起こすということは、グロい現実にも拒絶反応を起こすということでしょう。
そう考えたとき、私は右翼的思考の本質がわかった気がしました。
 
右翼はグロい現実に拒絶反応を起こすため、それを脳内でグロくないものに変換しないと受け入れることができません。つまりグロい現実を美化してしまうのです。
 
この世でもっともグロい現実は戦争です。戦場で兵士は手足がちぎれ、はらわたは飛び出し、飢えて衰弱した兵士の体には生きたままウジがわくといいます。しかし、右翼はこのような現実は目に入らないのです。右翼の目に映るのは、英雄的に戦う兵士だけですし、戦死者はみな英霊になります。
「特攻に行かされた兵士」というのも悲惨ですから、右翼にとってはすべて「みずから志願して特攻に行った兵士」になってしまいます。
ヒロシマ、ナガサキの悲惨さも右翼は認識できていないのかもしれません。原水爆禁止運動ももっぱら左翼が担ってきました。
 
1日に何十人もの客をとらされた慰安婦もきわめて悲惨です。ですから右翼は「慰安婦は高給を取っていた」などと脳内変換してしまうわけです。
 
このように考えると、右翼の思考が全部説明できます。
 
原発事故の悲惨さも右翼は認識できていないのでしょう。
 
 
ところで、引用した記事は、最初翻訳の誤りで、左翼が「グロい画像」に拒絶反応を起こすというようになっていたようです。そのためコメント欄に「左は現実を見たくないお花畑だということが科学的に証明された」というような書き込みもあります。
しかし、実際は右翼が現実を見たくないお花畑だということが科学的に証明されたわけです。

朝日新聞を巡る騒動を見ていると、改めて「右翼パワー」の強さを感じます。どう考えても、日本にとって、朝日新聞のことよりもこちらのほうが重大問題です。
 
「右翼パワー」というのは、要するにナショナリズムのことです。戦後の日本は、ナショナリズムは戦争に結びつくとして、ずっと抑圧してきましたが、ここにきてマグマのように噴き出した格好です。
 
なぜそんなことになったかというと、ナショナリズムというものを理論的に解明していないからです。これは政治学の責任でもあります。
 
私のナショナリズムのとらえ方は単純です。ナショナリズムは「国家規模の利己主義」であるというものです。
利己主義と利己主義は当然ぶつかり合います。今の国際政治の世界はそのようなものです。
 
ただ、ナショナリズムがすべてだめかというと、そんなことはありません。たとえば、植民地支配から独立を目指すときのナショナリズム、大国の迫害を受ける小国のナショナリズム、先進国に追いつくときの途上国のナショナリズムなどは“よいナショナリズム”だといえます。
 
個人においては、自分のことしか考えなかった人がナショナリズムに目覚めるというのは進歩です。ただ、いつまでもナショナリズムにとどまっている人は進歩がないということになります。
 
ナショナリズムが「国家規模の利己主義」であるとわかれば、これからはナショナリズムの克服を目指さなければならないのは当然です。国連がそもそもそのためのものですし、EUもそうでしょう。地球環境問題などではナショナリズムは邪魔者以外の何者でもありません。
 
ところが、日本国内では、どうやらナショナリズムがよいこととされているようです。これは朝日新聞のような進歩派がきっちりとナショナリズム批判をしてこなかったためでもあります。
 
もっとも、アメリカのようなスーパーパワーは平気でナショナリズムを押し出してきますし(もっとも、「正義」とか「人道」という名目ですが)、中国も国内に反ナショナリズム勢力がないので、日本と同じようなレベルです。
 
個人においては利己主義を抑えなければならないのは常識ですが、ナショナリズムは「愛国」とか「正義」とか「売国批判」とか「弱腰批判」という形で逆にドライブがかかります。もともと利己主義というのは動物的本能ですから、そこにドライブがかかると暴走する危険性が大です。
 
ヘイトスピーチも、日本の場合ほとんどナショナリズムの産物です。韓国や在日を批判することは「愛国」や「正義」だと思ってやっているからです。
 
ナショナリズムは暴走しないように理性で抑えなければならないというのは、人類が悲惨な戦争の歴史から獲得した知恵ですが、なぜそうなのかという理論が明確でありませんでした。しかし、ナショナリズムは「国家規模の利己主義」であると規定すれば明確になるはずです。
 
日本の右翼は、ナショナリズムが「国家規模の利己主義」であるということを理解するでしょうか。
 
ところで、「国家規模の利己主義」という言い方もまだるっこしいものがあります。
そこで、「利国主義」という言い方のほうがいいのではないかと考えました。
「利国主義」なら「利己主義」と同じものだということがよくわかります。
また、「愛国心」は「利国心」と言い換えたほうがいいでしょう。
「利国心」なら「利己心」と同じであることがよくわかります。
 
自民党は道徳教育で「利国主義」や「利国心」の克服を教えるべきです。

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