村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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名古屋市長で日本保守党共同代表である河村たかし氏は4月22日、「なごや平和の日」に関して「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」と語り、各方面から批判を浴びました。
自民党市議団からも批判され、擁護や賛同の声はほとんどありませんでした。
しかし、河村氏は発言を撤回せず、4月30日の記者会見で「道徳的」の意味は「感謝される対象、徳がある」などと説明し、「祖国のために死んでいったことは一つの道徳的行為だった」と改めて語りました。

圧倒的に批判されても河村氏が発言を撤回しないのはどうしてでしょうか。
それは「道徳的」という言葉を使ったからです。
「道徳的」ないし「道徳」という言葉を使った人は決して反省しません。


杉田水脈議員は衆院本会議場で「男女平等は、絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」と発言したことがあります。
男女平等を否定する発言にはさすがに批判一色でした。
しかし、杉田議員は発言の撤回も謝罪もしませんでした。衆院本会議場の発言はそのままになっています。
「道徳」という言葉を使ったからです。

広島市の松井一実市長が職員への講話で教育勅語の一部を引用し、新規採用職員の研修用資料にも教育勅語の一部が引用されていることが批判されてきました。
教育勅語については戦後の国会で排除・失効が決議されており、平和都市広島にふさわしくないということなどが主な批判の理由ですが、松井市長は今年3月の記者会見でも「新年度以降もちゃんと説明しながら使いたい」と語り、批判には取り合わない態度です。
松井市長は「道徳」という言葉は使わなかったかもしれませんが、教育勅語が道徳そのものです。

戦後、政治家が教育勅語を肯定する発言をすると、そのたびに批判されますが、それでもこの手の発言は繰り返されてきました。
教育勅語が道徳なので、反省しないのです。

政治の世界ばかりではありません。
最近のネットニュースにあったのですが、大阪のアメリカ村にあるたこ焼き店「しばいたろか!!」はレジのところに《タメ口での注文は料金を1.5倍にさせていただきます。スタッフは奴隷でもなければ友達でもありません》と書かれた紙を張り出していて、これがXに投稿されると炎上しました。
たこ焼き店の社長は取材に対して「決してお客様に対して喧嘩を売ってるわけではありません。ただ、人として普通のことを言ってるだけなんです」と、やはり反省の態度は示しませんでした。自分の行為は道徳的だと思っているからでしょう。


こうしたことは海外でも見られます。
国連は、世界各地の武力紛争がもたらす子どもへの影響を調査し、子どもの権利を著しく侵害した国をリストにして公表していますが、このたび新たにイスラエルをリストに加えたと6月7日に発表しました。
これにイスラエルは猛反発し、ネタニヤフ首相は声明で「国連は殺人者であるハマスを支持しみずからを歴史のブラックリストに加えた。イスラエル軍は世界で最も道徳的な軍隊だ」と述べました。
「道徳的」という言葉を使ったので、イスラエルは絶対反省しないでしょう。


「道徳」を持ち出すと、誰もが思考停止になってしまいます。
これは批判する側も同じです。批判するほうも思考停止して決め手を欠くので、批判される側はぜんぜんこたえません。

そもそも道徳とはなにかということがよくわかっていないのです。
国語辞典では「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体」などと説明されていますが、これではなんのことかわかりません。

道徳はわけがわからないものなので、当然役にも立ちません。そのことを河村たかし名古屋市長の「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」という言葉を例に示してみます。

戦争に行って祖国のために命を捨てるというのは、国家にとっては道徳的行為かもしれませんが、親にとっては「親に先立つ不孝」というきわめて不道徳な行為です。河村市長は実は親不孝という不道徳な行為を勧めていることになります。
それに、「戦争に行く=命を捨てる」というのはおかしな発想で、太平洋戦争でボロ負けした日本特有のものでしょう。
戦争に行く本来の目的は、自分たちが生き延びるために敵を殺すことです。敵兵を殺すのは果たして道徳的行為でしょうか。

つまり道徳には普遍性がないので、見る角度によっては真逆になってしまいます。
教育勅語は「汝臣民」に向けたものなので、あくまで「日本国民の生き方」であって、決して「普遍的な人間の生き方」を示したものではありません。
教育勅語には「万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ」(文部省現代語訳)とあります。河村市長も「一身を捧げて」という言葉を受けて「祖国のために命を捨てる」と言ったのでしょう。
しかし、これを外国から見れば「偏狭なナショナリスト」や「狂信的なテロリスト」育成の教えとしか思えません(実際、自爆攻撃につながりました)。

「人のものを盗んではいけない」というのは普遍的な教えのように見えます。しかし、盗まれるものをなにも持たない貧乏人にも大金持ちにも等しく適用されるので、実は金持ちに有利な教えです。
「人に迷惑をかけてはいけない」というのもよくいわれますが、これは身体障害者や病人の存在を無視した考え方です。身体障害者や病人が人に迷惑をかけるといけないみたいです。また、自分が人に助けを求めることもしにくくなります。
日本では「人に迷惑をかけてはいけない」というのは道徳の筆頭に上げられますが、外国ではほとんどいわれることがないそうです。日本人に助け合いの心が少ないことの表れかもしれません。


道徳には根拠もありません。そのため、宗教と結びつく形で存在しています。
欧米では道徳はキリスト教と結びついていて、日曜学校で教えられるのが道徳です。
日本でも教育勅語は現人神である天皇と結びついています。
道徳は宗教の中に閉じ込めておくか、倫理学者の難解な本の中に閉じ込めておくのが賢明です。
道徳を世の中に持ち出すとろくなことになりません。


ところが、保守派はやたらと道徳を公の場に持ち出します。
アメリカの保守派が主張する中絶禁止や同性婚禁止は要するにキリスト教道徳です。
日本でも、保守派が主張する夫婦別姓反対は「家族は同じ姓のもとにまとまるべき」という道徳です。
日本のジェンダーギャップ指数が低位なのも保守派の道徳のせいです。

こういう道徳はみな時代遅れです。
というか、そもそも道徳は時代遅れなものです。
芥川龍之介は『侏儒の言葉』において「道徳は常に古着である」といっています。
さらに「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない」ともいっています。

芥川龍之介はちゃんと道徳を否定しています。
しかし、今の世の中は、河村市長の発言や水田議員の発言や教育勅語などを表面的に批判するだけで、道徳そのものを批判しないので、中途半端です。そのために保守派の持ち出す道徳で世の中の進歩が妨げられています。

道徳そのものを批判する視点を持っていたのはマルクス主義です。
マルクス主義では、生産関係である下部構造が上部構造を規定するとされ、道徳も上部構造であるイデオロギーのひとつです。ですから、道徳は資本家階級が労働者階級を支配するのに都合よくつくられているとされます。
しかし、どんなに過激なマルクス主義者でも「人を殺してはいけない」とか「人に親切にするべきだ」とかの道徳までは否定しないでしょう。その意味では中途半端です。

フェミニズムは「男尊女卑」や「良妻賢母」などの男女関係の道徳を否定しましたが、道徳全般を否定しているわけではないので、やはり中途半端です。


道徳全般を否定する新たな視点が必要です。
道徳、善悪、価値観などをすべて否定すると、つまり「道徳メガネ」や「価値観メガネ」を外すと、現実がありのままに見えるようになります。
私はそういう視点からこの文章を書きました。

道徳全般を否定する視点を身につけるには別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」を読んでください。

菅ブログ
すが義偉オフィシャルブログより

次期総理大臣として本命視される菅義偉官房長官は、これまでの言動を見ていると、これといった政治理念のない人のようでした。
しかし、菅氏は総裁選出馬表明の記者会見とそのあとのテレビ出演で、何度も「自助・共助・公助の国づくりをしていきたい」と語りました。
「自助・共助・公助」というのが菅氏の政治理念のようです。

菅氏は9月5日、自身の公式ブログで総裁選の政策発表を行い、その見出しも「自助・共助・公助、そして絆 〜地方から活力あふれる日本に!〜」となっています。

「自助・共助・公助」というのはよくできたキャッチフレーズだと思ったら、防災対策の基本理念にある言葉でした。
それを丸パクリしたようです(防災の基本理念をつくるのに菅氏がアイデアを出したという可能性もないではありませんが)。

「自助・共助・公助」というのは、災害時にはこの三つがうまく機能することがたいせつだということです。とりわけ大規模災害時には、行政の「公助」が迅速には対応できないので、みずから行動する「自助」と、地域で助け合う「共助」がたいせつになります。


菅氏は災害時の理念を平時の理念に転用しています。
「絆」という言葉も、東日本大震災のときによく言われたものです。

菅氏は災害時と平時の区別がつかないのかというと、そんなはずはありません。
要するに国民は災害時のつもりで、できる限り「公助」を当てにせず「自助」と「共助」でなんとかしろと言いたいのでしょう。
為政者としてはなんとも虫のいい考えです。


菅氏を擁護する人もいるでしょう。
「自助」も「共助」もたいせつなことだから、菅氏が主張するのは当然だという具合です。

しかし、たいせつなことは国民もわきまえています。政治家に言われる筋合いはありません。
政治家の役割は、「公助」の部分です。政策として掲げるのは「公助」をどうするかということで十分です。


「自助がたいせつ」というのは要するに道徳です。
政治家が国民に道徳を説くのは自民党の伝統です。

菅氏は秋田県の農家に生まれ、高卒で集団就職で上京してきたと自身の経歴を語りましたが、新潟県出身の田中角栄首相を連想した人も多いでしょう。
田中角栄首相は首相になるとすぐ、「五つの大切、十の反省」なる道徳を国民に提示しました。
これは「人間を大切にしよう」「 自然を大切にしょう」とか「 友達と仲良くしただろうか」「 お年よりに親切だったろうか」といった、当たり前すぎるというか、あまりにくだらないものだったので、国民の総スカンを食い、たちまち葬り去られてしまいました。

田中首相は教育勅語を真似したのでしょう。
自民党はずっと教育勅語の復活を目指してきました。

西洋社会では、道徳はキリスト教と結びついていました。
明治政府はそれを真似て、天皇と結びついた教育勅語をつくりました。
現人神の権威で国民に道徳を説いたわけです。
そのため、道徳と宗教が結びつくのは普通のことですが、日本では道徳と国家が結びつくという奇妙な伝統ができました。

戦後、教育勅語は失効しましたが、自民党は為政者が国民に道徳を説いた時代が忘れられず、教育勅語の復活と道徳教育の復活を目指してきて、道徳教育の教科化までこぎつけました。

菅氏もこうした自民党の伝統にのっとっているのでしょう。
しかし、民主国家の政治家のあり方ではありません。

ですから、菅氏が「自助・共助・公助」や「絆」を説くのを見て、「立派なことを言っている」などと反応するのは愚かです。
「国民をバカにするな」とか「何様のつもりだ」というのが正しい反応です。

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