村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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チェコとベルギーに行ってきました。ビールのうまい国に行ったのかと言う人がいましたが、そういうことではありません。私の場合、海外旅行は妻主導で、私はほとんどついていくだけです。まあ、ビールはおいしかったですが。
 
成田で飛行機に乗り込む日本人を見ていると、圧倒的にシニア層が多いです。私が海外旅行をするようになった20年くらい前は、若い人が多かったものですが。バブルのころは若いOLがよく海外旅行に行くといって揶揄の対象になっていましたし、独身貴族という言葉もありました。
昔はヨーロッパの観光地でアジア人を見かけると、ほぼ100%日本人だったものですが、今は中国、韓国、その他の国の人がいっぱいです。また、今回気づいたのは、イスラム圏からの観光客が多いことです。中でも、男はジーパンにポロシャツみたいな、ヨーロッパ人と同じ服装で、女性は黒い服に完全にヴェールで顔をおおっているというカップルをよく見かけました。ホテルのエレベーターで乗り合せたので、どこから来たのか聞いてみると、サウジアラビアからと言っていました。この手のカップルは必ずといっていいほど手をつないでいます。最初はよほど仲がいいのかと思いましたが、みんながやっているということは単なる習慣なのでしょう。女を所有しているという意味なのかもしれません。
 
最近の若い日本人はお金がないので海外旅行に行けないのかもしれませんが、語学力に自信がなくて二の足を踏んでいる人も多いかもしれません。
私も初めて海外旅行をしたときは、自分の英会話能力のあまりの低さに情けなくなりました。聞き取れないし、話せないし、中学校から大学まで英語をやってきたのはなんだったのかと思いました。
 
これは私個人の問題ではなく、日本の英語教育のせいです。おそらく普通に学校で英語を学んできた人は誰でも聞き取れないし、話せないはずです。
とくに私の世代の英語教育はひどかったと思います。今回、書店に行って今の中学1年生の英語参考書を見てみましたが、今は多少改善されているようです。
 
私の場合、最初に習った英語は、This is a penです。その次がI am a boy、それから You are a girlです。
つまりbe動詞について学んだわけです。
中学1年生に英語を教える場合、文法中心にいこうという考え方は必ずしも間違っていないと思います。しかし、例文がひどすぎます。
This is a penなんていう言葉は絶対一生使うことがありません。世の中にペンを知らない人がいるのか。いたとして、その人にペンという言葉を教えることに意味があるのか。「これは紙に字を書く道具です」と教えるべきではないかということになります(あえて考えると、観光地の土産品などでヘビの形をしたペンがあって、それがなにかわからない人に対してはThis is a penという可能性があります)
I am a boyも同じです。自分が少年であることは見ればわかるはずです。I am a boyというのは、女の子に間違えられた場合だけでしょう。
つまり、例文を暗記しても、それを実際に使うことはないのです(ちなみに最近の教科書にI am a boyはないようです。I am Murataみたいに名前をいうのはあります。これは実際に使えます)
 
be動詞の次は、I have a bookI like an appleなどの一般的な動詞ですが、この例文も実際に使うことはないでしょう。
 
なお、母音の前の不定冠詞はaではなくanになるということも、このとき学びます。定冠詞のtheも出てきますし、三単現のsもかなり早い段階で学びます。
それから、数えられる名詞と数えられない名詞の区別も学びます。appleは数えられる名詞ですが、coffeewaterは数えられない名詞なので、a cup of coffeea glass of waterといわなければならないというわけです。英語に数えられる名詞と数えられない名詞の区別があるということに軽いカルチャーショックを感じたのを覚えています。
 
テストでa appleと書いたり、三単現のsを落としたり、a coffeeと書いたりすれば、当然間違いとされます。そのため、どうしてもこういう細かいことにこだわるようになり、これが英語が話せなくなる大きな理由だと思います。
 
ちなみに私は、カフェやレストランでビールを注文する場合、a glass of beerなどといったことはありません。必ずone beerです。もしa glass of beerなどといったら、ウエイターが「えっ、ボトルで出すなということか?」などと戸惑うに違いないからです。
オーストラリア在住の作家森巣博氏のエッセイによると、数えられる名詞と数えられない名詞の区別は重要ではなく、コーヒーを注文する場合はtwo  coffeeでも two  coffeesでもいいそうです。
 
私の英語はいい加減で、冠詞がなかったり、三単現のsがなかったりしますが、そのために伝わらないということはありません。
 
確か中学2年になると、教科書がリーダーとグラマーに別れました。私のリーダーの教科書では、アメリカ人のブラウン一家というのが出てきて、両親とトムとスージーがいろいろな会話をするのですが、この設定もおかしいです。アメリカ人同士の会話を覚えても、日本人が使うことは普通ないからです。日本人旅行者がニューヨークに行って現地の人と会話するとか、アメリカ人の学生を日本の家庭にホームステイさせるとか、そんな設定であれば、そこでの会話を丸暗記すれば役に立つでしょうが。
 
実際のところ、教科書に出てくるのは、「トムは毎日学校に行きます」とか「スージーは宿題をしなければなりません」とか「今日は晴れですか?」「はい、晴れです」とか、とても現実に使うことのない言葉ばかりでした。
 
英語教科書の製作者たちは、反実用主義という信念を持っていて、絶対に実用的な表現を取り入れまいとしていたのでしょう。
また、勉強というのは楽しいものであってはいけない、砂をかむような思いでするものだという信念もあったのかもしれません。
 
いや、実用的でないだけならまだいいのですが、使ってはいけない表現も出てきます。
たとえば、Who are you ?なんていう言葉は相当失礼な表現でしょう。しかし、授業ではWho are you ? I am a studentなどという言葉を繰り返し唱和させられ、頭に叩き込まれてしまいます。
また、補助動詞を学ぶときにYou must~やYou may~という表現も覚えますが、これも現実の会話で使うと、相当失礼になるおそれがあります。
つまり、実用的でない言葉ばかりでなく、使ってはいけないような言葉まで頭に入っているので、ますますしゃべりにくくなってしまうのです。
 
 
教科書が実用的でないので、ヒアリングも当然できなくなります。
私は最初のうち、英語で話しかけられると、まったく理解できず、何度も聞き返していました。しかし、あるとき、向こうから話しかけてくる場合、それはほとんど疑問形だということに気づきました。
これは当たり前のことで、会話というのはほとんどの場合、疑問形から始まります。しかし、This is a penから習ったこともあってか、そのことになかなか気づかなかったのです。
それからは、相手が話しかけてきた場合、これは疑問形に違いないと予測して聞くようになり、そうすると格段に理解しやすくなりました。
 
人間は人の話を聞く場合、真っ白の頭で聞くことはほとんどなく、予測変換みたいに、きっとこういうことを言うだろうと予測して聞くもので、だからこそ理解しやすくなるのです。
 
たとえば、初めてカフェでコーヒーを注文したとき、なにか聞き返され、それがまったくわからず、とまどいました。
実際のところは、ミルクとシュガーはどうするのかと聞かれていたわけです。コーヒーを注文した以上、それ聞き返されるのは当たり前のことです。それを理解してからは、英語以外のわけのわからない言葉で聞き返されても、「ミルク」と答えて、ちゃんと会話が成立するようになりました。
 
相手がなにを話しているかというのは、状況からかなりの程度予測がつきます。
たとえば、街角で立ち止まって地図を見ていると、よく誰かが話しかけてきます。それはたいていCan I help you?か、それに類する言葉をいっているのです。こちらは地図に集中してろくに聞いていなくても、そう判断してまず間違いありません。
 
また、私のような旅行者がよく話しかけられる言葉は決まっています。
「どこから来たのか」
「ここに来るのは初めてか」
「何日滞在するのか」
こういう予測がついていると、単語ひとつ聞き取れただけで全体が理解できます。
 
何回も海外旅行に行っていると、空港、ホテル、レストラン、商店、切符売り場での会話は容易にできるようになります。毎回同じ会話をしているからです。
ということは、ものすごく少ないボキャブラリーでも用は足りるということです。
 
もし中学高校の英語教育の目的が日常会話ができることというのであれば、ものすごく簡単に学べることになります。実用的な表現を丸暗記すればいいからです。
たとえば、日本の商店、レストラン、居酒屋などに外国人客が来た場合の会話とか、外国人に道を聞かれたときの会話とかも、決まり切ったものですから、それを全部教科書に載せておけばいいのです。そうすると、外国人旅行者は「日本人はすごく英語ができる」と喜ぶに違いありません。
 
もちろん英語教育の目的は、日常会話ができることだけではありません。最終的には英語の専門書を読めたり、英語で論文を書けたりすることまで視野に入れている必要があるでしょう。
しかし、9割の日本人はそこまでは望んでいなくて、とりあえず英語で日常会話ができればいいと思っているはずです。
とりあえず実用的な英会話を教え、かつ将来的には本格的な英語修得につながっていくという教科書は当然できるはずです。
 
少なくともこれまでの反実用主義を排し、例文を実際に使えるものにするだけでも、日本人の英語能力はグンとアップするのではないでしょうか。
 

日本人は概してベトナムに好印象を持っています。ベトナムは共産党一党支配の国ですが、日本の右寄りの人たちも、中国はけしからんといっても、ベトナムはけしからんとはいいません。日本の企業も多く進出していますし、投資対象としてベトナム株も人気です。
 
ベトナム人は勤勉だということで定評があります。カンボジアやラオスなどの周辺国には、「ベトナム人の通ったあとはペンペン草も生えない」みたいなことわざがあるそうです。
 
私はベトナムに2回行ったことがありますが、ベトナム人は商売好きだという印象を受けました。通りに面した家の多くは3階建てで、1階に商売ができるスペースがあり(使われていない場合も多い)、2階、3階に人が住むという形になっています。また、ほんの少しのスペースがあれば、商品を並べて売っている人がいます。
とはいえ、ほとんど商売になっていないのではないかと思われるような商店も多く、私の印象では、もうからなくても商売が好きでやっているような感じでした。
 
ホーチミン市に行ったとき、泊まったホテルの前の広場に大きな銅像が立っていました。これはベトナムの救国の英雄とされるチャン・フン・ダオ将軍の銅像でした。
 
ベトナムは日本と同じころに元寇を経験しています。それも3度襲来され、3度とも元軍を撃退しました。その戦いの指揮をとったのがチャン・フン・ダオ将軍です。
 
チャン将軍は、強力な元の騎馬軍と正面から戦っては勝てないと思い、町を焼き払って退却します。元軍はタンロン(今のハノイ)を占領しますが、チャン将軍は地形を利用したゲリラ戦で補給路を攻撃し、食糧の尽きた元軍が退却すると、これを追撃して壊滅的な打撃を与えました。
2回同じやり方で撃退された元軍は、3回目は海から500隻の艦隊とともに攻めてきました。チャン将軍は河口のところの河底に、先端に尖った鉄のついた竹杭を多数打ち込んで待ち構えました。そして、引き潮になると元軍の大きな船に杭の先が刺さって船は動けなくなり、そこをベトナム軍は小さな船で攻撃し、火矢を使って元軍の船を焼き払って、またしても大勝利したのです。
 
いかに敵が強力でも、巧妙な作戦があれば勝利できるという格好の見本です。
元寇はベトナムの歴史でも最大の国難でしたから、ベトナム人なら誰でもこの話は知っています。ベトナムがアメリカと戦ったときも、基本的に同じやり方をしたわけです。ゲリラ戦で敵を弱らせ、最終的に勝利するという作戦です。
ベトナム軍(南ベトナム民族解放戦線)は、落とし穴を掘って、そこに尖った竹杭を立てておき、落ちた敵兵を殺すという戦法でアメリカ軍を苦しめましたが、これなど明らかにチャン将軍の作戦からの連想でしょう。
 
ところで、日本は元軍の襲来を2回撃退しましたが、これは作戦が巧妙だったからではなく、たまたま“神風”が吹いたからです。
このことも日本人なら誰でも知っています。
そして、日本はアメリカと戦ったとき、作戦の巧妙さで勝利しようとするのではなく、結局“神風”頼みになってしまいました。
 
ベトナム人も日本人も、歴史に学んで行動することは同じですが、背負っている歴史はまったく違い、そのため結果も違ってしまったのです。
 
ところで、元は3回目の日本攻撃を企てていましたが、ベトナムでの敗戦の痛手で、3回目の攻撃は中止となりました。ですから、チャン将軍は日本にとっても救国の英雄であるわけです。
 
 
チャン将軍についてより知りたい方はこちらのサイトへ。
「ベトナムの英雄」
 
「チャン・フン・ダオ将軍」
 

海外旅行をして、改めて日本のよさを認識して、愛国心に目覚めたという人がいます。会ったことはありません。よくそういう文章を読みます。
そういう人もいるのかと、これまでスル―していましたが、よくよく考えるとへんです。日本は豊かで、治安がよくて、細かいところまで心遣いが行き届いた国ですが、そんなことは海外旅行をしなくてもわかっているはずです。
 
もちろん行って初めてわかることもあります。たとえばこの前、フジテレビの「世界行ってみたらホントはこんなトコだった」でベトナムでの道路の渡り方というのをやっていましたが、ベトナムは信号や横断歩道が少ないので、バイクと車が大河のように流れる道路を歩いて渡らなければならず、文字通り命がけです。ベトナムは極端としても、たいていの国は交通マナーが悪いです。赤信号でも歩行者はどんどん歩いていきます。また、その国の独特の交通ルールがあるので、それが飲み込めないうちは、かなり危険な思いをします。
ですから、交通マナーや交通ルールひとつとっても、日本のよさを再認識するということはありえます。
しかし、私は“日本のよさ”を再認識するよりも、その国の日本と違うあり方を認識することに夢中になってしまいます。
たとえば、ベトナムでの道路横断にしても、慣れてくるとコツがわかってきます。いくらバイクや車が走ってきても、ゆっくりと一定のスピードで歩いていけば、バイクや車のほうがよけてくれるのです。こちらが車をよけようとすると、逆に危険なことになります。それがわかると、けっこう平気で渡れるようになりました。
こうした経験ができることも海外旅行のおもしろさです。
そのおもしろさを味わっていれば、“日本のよさ”について思考をめぐらせるということはありません。
 
私が思うに、海外旅行にいって改めて日本のよさを認識したという人は、海外に行ったものの現地になじめず、心を閉ざして、なにも学ばなかった人なのではないでしょうか。
たとえばベトナムに行った人が「ベトナムはどうでしたか」と聞かれて、悪口しか言えないのでは格好が悪いですから、「ベトナムに行ったおかげで日本のよさを再認識しました」と言うわけです。
 
そもそもベトナムと日本とどちらがよいかなどという発想自体つまらないことです。
文化人類学者は未開社会を研究するとき、近代西洋文明とどちらがよいかという発想を排除します。これを文化相対主義といいます。そうでなければ対象を正しく研究できないからです。
海外旅行にいく人も、日本とその国とどちらがよいかなどという発想は排除して、その国のありのままの姿を見てきたいものです。
 
 
ところで、海外留学に行って外国で何年か生活した人でも、その国になじめない人がいます。これは日本人にありがちな欧米コンプレックスのせいと思われますが、こういう人も外国生活によって日本のよさを再認識し、愛国心に目覚めたりします。
このことは「ナショナリズムの克服」(姜尚中・森巣博共著)の中で森巣博氏が語っています。
たとえば江藤淳、西尾幹二、藤岡信勝、藤原正彦といった人たちです。この人たちが異様に“日本”にこだわるのも、留学生活で外国になじめなかったからでしょうか。
そうだとすると、この人たちの思想も薄っぺらなものだということになります。
 
私は、外国に行ったら誰もが外国になじむべきだと主張しているわけではありません。外国になじめない人がいてもしかたありません。“国際人”になれるのは日本人でもごく一部の人でしょう。
ただ、外国に行って、その国になじめなかったのを、「日本のよさを再認識した」などと言ってごまかすのはよくないことだと言いたいわけです。

ブータン国王夫妻が来日して、日本人の歓迎を受けています。ブータンは人口約70万人という小さな国ですが、日本人は特別な親しみを感じているようです。
まず国王夫妻は美男美女ですし、ブータンは「国民総幸福量」という概念に基づいて国づくりをしているということも日本人に比較的知られていますし、仏教国でもあるということも親しみを感じる理由でしょうが、国の成り立ちも日本に似たところがあります。
 
ブータンは主に高地と山地にある国で、いわば陸の孤島みたいなところです。ですから、島国の日本と共通したところがあると思えるのです。
ブータンは中国(チベット自治区)とインドと国境を接していますが、占領されたことがありません(近代になってイギリスには占領されますが)
日本も元寇は経験しますが、アメリカ以外に他国に占領されたことがありません。
 
ヨーロッパや中東の国は、何度も占領されたり占領したりということを繰り返してきました。そうした過酷な経験をすると人間がすさんできます。素朴さが失われ、知恵と悪知恵が発達します。
そして、文明も発達します。文明は知恵と悪知恵でできています。ヨーロッパ文明も中国文明も戦争の中で発達してきたのです。
 
日本には戦国時代がありましたが、このころの戦争は武士同士の戦争で、農民や町民に被害が及ぶことはほとんどありませんでした(織田信長は例外的に一向宗門徒を虐殺しますが)。ですから、日本人はあまり過酷な経験をすることがなく、素朴なまま生きてこられた民族なのです。
そして、中国文明の成果だけを学びました。
海の向こうの文明を学ぶというノウハウは、明治維新後欧米の文明を学ぶときにも役立ちました。ですから、日本は欧米以外で初めての近代文明国になれたのです。
 
日本人は素朴な心を持った文明人です。たとえていえば、都会の文化を身につけた田舎者です。
ですから、日本人は欧米人や中国人とつきあうとき、つねに違和感を覚えます。根本的にはわかり合えず、少し背伸びをしている感があります。そのため、欧米人とつきあうとき武士道や禅などを持ち出して自分をかさ上げしたりします(中国人は欧米人とつきあうときそうした違和感はないのではないかと思います)
 
その点、ブータンは陸の孤島として、過酷な経験をほとんどせずにインドや中国から文明を学んできた国ですから、日本と似ています。日本人が欧米人や中国人よりもブータン人に親しみを感じるのは当然でしょう。
 
反対に、日本人がもっとも親しみを感じないのはイスラエル人でしょう。ユダヤ民族は世界でももっとも過酷な体験をした民族だからです。中東で起こっているイスラエルがらみのさまざまな問題は一般の日本人の理解を超えています。
 
日本人はブータンとイスラエルの両方を見ると、自分の立ち位置が確認できるはずです。

私はこれまで海外旅行で20に近い国を見てきましたが、中でギリシャと並んで気に入ったのがトルコです。
トルコもヨーロッパから見れば田舎ということになります。イスラム国ということもあり、最初はとっつきにくい気もしますが、人間はやはり素朴な感じです。ひじょうな親日国でもあり、商人はどんどん日本語で話しかけてきます。
トルコ料理は中華料理、フランス料理と並んで世界三大料理のひとつとされ、ひじょうにおいしいですし、日本人にとってはユニークでもあります。
また、トルコには猫がいっぱいいます。これは野良猫と言っていいのかどうか微妙なところで、とくに朝街を歩くと、猫好きの人が路上で餌をやっているところをよく見かけます。日本には「地域猫」という言葉がありますが、トルコの猫の多くも「地域猫」かもしれません。水産市場にも猫がいます。猫に魚を盗られるのではないかとこちらは心配してしまいますが、市場の人は猫に小さい魚をやったりしています。
 
安倍晋三氏は首相になったとき、アメリカと日本は自由と民主主義という価値観をともにする国だと言いましたが、これは的外れな認識でしょう。アメリカは国民の多くが進化論を信じないというキリスト教国家であり、日本は神道と仏教の国です。また、アメリカ、イギリス、フランスあたりは、自分たちが世界の中心だと思っており、その点でも日本とは違います。
 
日本といちばん価値観が近い国はトルコだと思います。
世界は東洋と西洋に分けられますが、東洋と西洋の接点は世界にふたつあります。ひとつは日本で、もうひとつはトルコです。
日本は神道と仏教の国ですが、キリスト教の西洋と一体化することを国の方針としてきました。トルコはイスラムの国ですが、やはりキリスト教の西洋と一体化することを国の方針としてきました。トルコはNATOに参加し、さらにユーロに参加しようとしています。価値観の違う西洋と一体化する苦労を経験していることで、日本とトルコはわかりあえるはずです。
トルコが親日国になったのは、トルコの軍艦エルトゥールル号が日本近海で難破したとき日本人が必死の救助活動を行ったということが大きいのですが、もうひとつ、トルコはロシアの圧迫を受けていて、日本が日露戦争で勝利したことが歓迎されたということもあります。こうした地理的な要素も無視できません。
 
トルコはイスラエルと友好関係を持ち、かつ反イスラエルの国とも友好関係を持っているので、中東では外交的にも重要な国です。ですから、オバマ大統領が就任して最初の訪問国に選んだのがトルコです。日本が外交のあり方を考えるとき、アメリカや中国ばかり見ているのではなく、むしろトルコを見るべきでしょう。

中国の大連に行ってきました。ただの観光旅行です。旅順がすぐ近くなので、ロシア軍の要塞跡を見て、二百三高地にも登りました。
実は中国に行くのは初めてです。初めての中国旅行が大連だというと何人もの人に驚かれました。普通はまず北京か上海に行くのでしょうね(旅行の計画は妻主導で決まります。私はもともと引きこもり系なので、もし結婚していなかったら、海外旅行はしていなかったかもしれません)
 
驚いたのは、一般の人にぜんぜん英語が通じないこと。レストランで「ビアー」と言っても通じないのには閉口しました。結局、冷蔵庫の前まで行って指差して注文しました。白いご飯を注文しようと「ライス」と言っても、やはり通じません。「ハン」とか「パイハン」とか言っても、発音が悪いのかだめです。写真つきのメニューなので、ほかの料理は注文できるのですが、白いご飯はメニューに載っていないのです。
 
ちなみにスペインも、一般の人には英語がまったくといっていいほど通じません。そのことはあらかじめわかっていたので、「ビールをください」など必要な言葉は覚えておきましたから、たいした問題は起きませんでした(私にとってカフェでもレストランでもビールは必須です)
中国では「ニイハオ」と「シェイシェイ」だけ知っていればいいだろうというのは甘い考えでした。やはりちゃんと準備はしなければいけません。
 
これまで20カ国近くに行ってきましたが、その経験で言えるのは、あまり文明的でない、ちょっと田舎っぽい国のほうが旅行して楽しいということです。
たとえば、ヨーロッパでいちばん楽しかったのはギリシャです。もちろん遺跡など観光資源もすばらしいのですが、人間が素朴で、ふれあいがあり、こちらもリラックスできます(それにどこでも英語が通じます)
ギリシャには野良犬がいっぱいいます。それもシェパードやレトリバーのような大型犬が町中や遺跡などいたるところで昼寝しています。野良犬というと凶暴というイメージがあり、最初は警戒心を抱いてしまいますが、そのうちどの犬もおとなしいことがわかり、そうするとこちらも犬好きですから、野良犬を見かけることが楽しくなってきます。
 
私が学生のころはまだ日本にも野良犬がいました。夜中に1人で歩いていて、野良犬の群れに遭遇したときはかなりの恐怖でした。実際野良犬に人が襲われるという事件もよくありました。
当然、野良犬の態度は周りの人間の態度によって決定されます。少なくとも昔の日本人は野良犬にはきびしい態度だったのでしょう。そして、ギリシャ人は野良犬にやさしいのでしょう。ギリシャには野良犬の世話をするボランティアがいるということですが、それだけで野良犬があんなにおとなしくなるとは思えません(夜中にはギリシャの野良犬も群れて行動しているのかもしれませんが、人を襲うことはないのでしょう。もしあれば、野良犬をなんとかしろという声が出てくるはずです)
ギリシャの野良犬のやさしさは、ギリシャ人のやさしさでもあるのでしょう。
 
「その男ゾルバ」という映画があります。イギリス人の作家がギリシャでゾルバという男に出会い、その素朴な人間性や生き方に感銘を受けるというストーリーです。
 
ギリシャはヨーロッパでは田舎です。日本でもどこでも田舎の人は素朴です。文明化あるいは都市化されると、人間は素朴さを失います。つまり邪悪な心が芽生えてくるのです。
こういう考え方が「科学的倫理学」の基本です。
 
もっとも今、ギリシャは財政危機から国債のデフォルトが懸念され、国際金融危機の震源地になっています。
素朴なだけでは生きられません。これがこの文明社会のむずかしいところです。

海外旅行をすると、その国の紙幣に描かれた人物の写真や肖像画を見て、これは誰だろうと首をひねり、いろいろ推理することも旅行の楽しみのひとつです。もちろん一目でわかる人物もいます。イギリスならエリザベス女王とダーウィン、中国は毛沢東、ベトナムはホー・チ・ミンなど。
では、日本にきた外国人観光客は日本の紙幣を見て、どう思うでしょうか。夏目漱石、樋口一葉、野口英世を知る人はまずいないでしょう。最初から外国人にアピールするための人選ではありません。
外国人にわかってもらえないといけないわけではありませんが、紙幣の人物はやはりその国を代表するような人間であるわけですし、その人間が外国人にまったく知られてないというのは情けないことです。
そこで、外国人にアピールするような紙幣の人物はいないかと考えてみました。
 
外国人に写真だけでわかってもらえる人物といえば、東條英機と昭和天皇でしょう。しかし、これは紙幣の人物にはあまりふさわしいとは思えません。
あと、世界に知られている人物といえば、黒澤明監督でしょう。写真にアルファベットの名前をつけておけば、かなりわかってもらえるのではないでしょうか。
それから、ドラマ「おしん」は多くの途上国で大人気になりましたから、「おしん」のモデルであったヤオハン創業者の和田カツの写真を説明つきで載せると、多くの人が納得してくれるでしょう。
ヨーロッパでは大相撲の好きな人が多く、ロンドンのマダム・タッソーの蝋人形館には千代の富士の人形があったので(今はないようです)、千代の富士という手もありそうです。少なくとも相撲取りというだけで外国人は納得してくれそうです。
本田宗一郎、ソニーの井深大、盛田昭夫というのも日本らしくていいような気がしますが、外国人にはそれほど知られていないでしょう。
紫式部はちゃんとした肖像画がありませんし、外国人で文学研究者以外に知る人はまずいないでしょう。
織田信長、徳川家康、坂本龍馬も外国人にはまったく知られていないと思います。
 
このように考えてくると、要するに日本には世界的な偉人がいないということになります。世界第三位の経済大国にしてはかなり情けないことです。
もっとも、将来のことを考えると、世界的な人気作家の村上春樹、ips細胞の山中伸弥教授などが候補に上がってくるかもしれません。
いや、それだけではありません。村田基も有力な候補になるでしょう。
村田基って誰?
このブログ主の村田基ですよ。
 
私は、人類がいかにして道徳をつくり出したのかについての仮説を考え出しました。
人間を含めた動物は根本的に利己的な存在であり、人間はその利己的な性質をもとに道徳をつくり出したというのがその仮説です。
一方、ダーウィンも道徳の起源についての仮説を考えていました。それは、人間は利他的な性質をもとに道徳をつくり出したというものです。
果たして村田基の仮説とダーウィンの仮説とどちらが正しいのでしょうか。
それはこれから広範囲に検討されていくはずですが、最終的に私の説が正しいと認められるのは火を見るよりも明らかです。
となると、私はコペルニクス、ダーウィン、アインシュタインと並ぶ科学史上の偉人ということになります。
となると、紙幣の人物になってもぜんぜん不思議ではありません。
今からそのための写真を撮っておかなければ。
 
村田基の道徳起源についての仮説をより詳しく知りたい方は、村田基のホームページへ。

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