村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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映画「バイス」(アダム・マッケイ監督)を観ました。
 
息子ブッシュ大統領のもとで副大統領を務めたディック・チェイニーを描いた映画です。
クリスチャン・ベイルがチェイニーの20代のころから70歳ぐらいまでを演じていますが、特殊メイクがすごくて、ほんとうにその年齢に見えます。
ブッシュ大統領を演じたサム・ロックウェルはブッシュ大統領にそっくりで、よくこんなそっくりな俳優を見つけてきたなあと思いましたが、これも特殊メイクを使っていたのでしょう。
 
今も存命の実在の人物を批判的に描いているので、訴えられないように徹底的に事実にこだわったのでしょう。それがおもしろいと同時に、物足りないところでもあります。
たとえば、20代のチェイニーは大学を中退して田舎で電気工をしていて、飲酒運転で警察に逮捕されます。のちに結婚する恋人リンに「私が見込んだのはこんな男じゃない。このままだと別れる」と泣かれ、そこから一念発起して大学に入り直し、政治の道に入ってどんどん頭角を現していきます。
そのときどのように心を入れ替えたのかを知りたいところですが、それは描かれません。わかったことだけが描かれているからでしょう。
 
映画というのはストーリーの流れが中心にあるものですが、この映画では事実がレンガのようにいっぱいあり、それがうまくつながっていません。ただ、ひとつひとつの事実がおもしろく、観客は自分なりに頭の中でそれをつないで観ていくことになります。
 
.11テロのあと、イラク戦争へ突き進んでいくところが見どころです。ありもしない大量破壊兵器をあることにし、ありもしないイラクとアルカイダの関係をあることにします。なにも考えていないブッシュをチェイニーがあやつります。パウエル国務長官は国連でイラクは大量破壊兵器を持っていると不本意な演説をします。イラク戦争でチェイニーが大株主である石油会社ハリバートンは大儲けします。それらのことは当時の報道からもだいたいわかっていましたが、はっきり示されるとやはり衝撃的です。
 
妻のリンはすごく優秀な女性ですが、当時のアメリカでは女性が社会的に活躍する道はほとんどないので、チェイニーを成功させることで自分も成功を手にしようとします。
チェイニーの娘は同性愛であることをカミングアウトします。これはチェイニーの保守主義と相容れませんが、チェイニーは受け入れます。
こうしたことをチェイニーがどう思っていたのか、よくわかりません。しかし、保守主義の矛盾が浮き彫りになります。
 
マイケル・ムーア監督の映画のように笑えるシーンがいくつもあり、コメディ映画だともいえます。しかし、映画館では笑い声は起きませんでした。アメリカの愚行は世界にとって深刻なことですから、笑う気になれません。
マイケル・ムーア監督の映画はドキュメンタリーですが、この映画はそれをドラマ仕立てにしたともいえます。
 
チェイニーは何度も心臓発作を起こし、心臓移植手術を受けます。検索してみると、手術は71歳のときでした。71歳の老人が心臓移植手術を受けるには、かなりの金と権力を使ったのでしょう。
 
この映画を観ると、アメリカの政治がいかに金と権力によって動いているかがわかります。
日本の政治も基本的に同じでしょうが、レベルが違います。
 
小泉首相はイラク戦争のとき、自衛隊をサマワに派遣しました。国連とは関係なく、占領軍の一員として行ったので、まさに他国の領土を軍靴で踏みにじったわけです。
イラクに大量破壊兵器がなかったことで、自衛隊のサマワ派遣は日本の歴史の汚点になりました。
しかし、大方の日本人は、「アメリカが間違ったのだから、日本の責任ではない」という感覚でしょう。独立国としての意識に欠けています。これではアメリカに対抗できませんし、辺野古移設問題が解決できないのもわかります。
 
アダム・マッケイ監督が脚本も書いています。よく事実を調べた上で物語にしたなあと感心します。俳優の演技も素晴らしく、きわめて完成度の高い映画です。
 
トランプ大統領のようなおかしな大統領が出現したのも、この映画を観ると納得できます。

「華氏119(マイケル・ムーア監督)を観ました。
トランプ大統領を描いた映画というよりも「トランプ時代のアメリカ」を描いた映画です。
日本のマスコミだけではわからないアメリカの姿が見えてきます。
 
たとえばミシガン州フリント市の水道水が鉛汚染され、子どもたちに重大な健康被害が及んでいるという問題。これは行政によって隠蔽され、まるで日本の水俣病みたいです。ここは黒人の多い貧困地域のため、放置されてきました。オバマ政権でも解決しなかったのです。
 
また、2016年の民主党予備選ではヒラリー・クリントン候補とバニー・サンダース候補が最後までデッド・ヒートを演じましたが、サンダース候補は民主党の不正により代議員票が獲得できず、敗北します。これによりサンダース候補支持者たちの多くは大統領選で棄権しました。
 
トランプ勝利には民主党側にも問題があったということです。
 
トランプ大統領への批判にはそれほど時間を割いていません。おらそくムーア監督が今さらする必要もないぐらいに批判されているからでしょう。
ただ、トランプ氏が娘のイバンカにキスしたり体に触ったり、性的な関心を示す目で見つめたりという近親相姦的シーンを集めたところは、いかにもムーア監督らしいところです。一般のメディアにはできないでしょう。
実の娘に性的関心を示すとは、もっとも忌み嫌われる行為ですが、トランプ氏の場合はほとんどマイナスになっていません。むしろ支持者は、美人の妻と娘に恵まれてうらやましいといった反応を示しているのではないでしょうか。
ただ、こうしたトランプ氏の人間像にはあまり切り込んでいきません。
 
ムーア監督が力を入れたのは、アメリカにとっての希望の方向を示すことです。
 
たとえば、ウエストバージニア州の教員はきわめて低い給与水準にあったということで、大規模な教員ストライキが起こりました。ストライキはSNSなどを通して拡大し、最後には勝利しました。
高校での銃乱射事件をきっかけに、高校生が先頭に立って銃規制を求める運動を展開するようになりました。
また、中間選挙では女性やマイノリティの候補が多く立って、支持を集めました。
 
これらを見ていると、アメリカの分断の構図が見えてきます。
アメリカ独立宣言では基本的人権がうたわれましたが、先住民にも黒人にも人権はなく、また選挙権は成人男性だけでしたから、女性と子どもにも人権はなかったことになります。
つまり建国のときから白人成年男性VS女性・子ども・黒人・先住民という分断があったのです。
トランプの支持者は白人男性が中心です。
今も白人成年男性VS女性・子ども・マイノリティという分断の構図が続いていることになります。
 
また、教員ストライキやサンダース旋風のもとにあるのは「社会主義」です。
最近アメリカでは若い世代を中心に社会主義の人気が高まっているということです。昔は「アメリカ=反共」と決まったものでしたが、そういう図式は成り立たなくなっています。
アメリカは冷戦に勝利し、世界に対立の構図はなくなりましたが、アメリカ国内に資本主義対社会主義という対立の構図が移し替えられたわけです。
 
日本のマスコミは、トランプ支持層であるラストベルトの白人ばかりを取り上げます。
しかし、彼らは現状への不満を移民やマイノリティにぶつけ、保護貿易に守ってもらおうとしています。今後、衰退していく一方でしょう。
トランプ政権はつねに支持率よりも不支持率のほうが上回っています。反トランプ派の動向のほうが重要です。

この映画には、いつものムーア監督の痛快な切れ味はないので、おもしろさを期待すると今一歩かもしれません。
しかし、アメリカの現在の姿がわかるという点で、やはり一見の価値があります。

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「ドローン・オブ・ウォー」(アンドリュー・ニコル監督)を観ました。
この映画は従来の戦争映画とはまったく違います。戦争映画というよりも、「あるIТ技術者の日常生活と仕事の苦悩を描いた映画」に近い感じです。
 
アメリカ軍は前からアフガニスタンやパキスタンなどでドローンを使った攻撃をしていましたが、その実態はまったく報道されないので、イメージがわきませんでした。この映画はフィクションですが、「事実に基づく」という字幕が出るので、かなり現実に近いものではないかと思われます。報道統制がきびしいので、「アメリカン・スナイパー」もそうでしたが、戦争の現実を知るには報道よりも映画に頼らなければならない時代です。
 
イーガン少佐(イーサン・ホーク)はラスベガス近郊の空軍基地に勤務しています。基地には“ボックス”と呼ばれるコンテナのようなものがずらっと並んでいて、その中に入ってドローンの操縦をします。
操縦といっても、ドローンはほとんど上空を旋回しているだけなので、もっぱらモニターを見て、攻撃対象を発見するのが仕事です。「この地域に目標となる司令官がいる」というように、ある程度情報が提供されています。モニターは、人物が識別できるくらいの解像度があります。
ターゲットを特定すると、レーザーを照射し、ミサイルを発射します。着弾するまでに10秒前後かかります。
 
殺されるのはターゲットだけとは限りません。銃を持った武装グループを狙ってミサイルを発射すると、近くにいる民間人もいっしょにやられます。あるいは、発射したら、そこにボール遊びをしている子どもが走ってきて、ちょうどその瞬間に着弾します。
 
同じ地域をずっと監視していると、女をレイプするひどい男を発見します。しかし、この男はターゲットではないので、見逃します
 
イーガン少佐は仕事に疑問を持ちますが、そこにCIAが関与してきて、CIAの指示を受けて仕事をすることになります。上官は、CIAは軍の交戦規定とは別の規定を持っているが、それに従えと言います。
 
狙っていた司令官が車で帰ってきて家の中に入ります。家の中には妻と子どもがいることがわかっていますが、CIAはそれでも撃てと指示します。イーガン少佐はしかたなく撃ちます。
 
標的のいる家を撃つと、壊れた家から人を助け出そうと、人々が集まってきます。その連中はほとんど仲間だから、それも撃てと指示されるので、撃ちます。
 
司令官を殺すと、人々が遺体を運び出して、葬儀が始まります。葬儀には司令官の弟も参列するという情報が入ります。葬儀は数十人で行われますが、そこにもミサイルを撃ち込みます。
 
イーガン少佐の部下は、こんなことをしてはかえってテロリストをふやすだけではないかと言いますが、上官は、テロリストを見逃すとそれだけアメリカの安全が脅かされるという論理を示します。
 
ドローンは3000メートル以上の高空を飛んでいるので、地上からは見えないそうです。ミサイルも見えません。地上の人にすれば、突然爆発が起こり、人が死ぬわけです。まったく不条理な状況です。
 
イーガン少佐は毎日車で基地に通勤しています。家に帰れば妻と子どもがいますが、だんだん酒びたりになり、妻や子どもとの関係もうまくいかなくなります。
イーガン少佐は実際の戦闘機に乗る勤務を希望しますが、希望は叶えられません。
 
ドローン操縦の仕事は、誰にとっても過酷なようです。どんどん人が辞めていき、つねに新人を入れなければなりません。
 
普通の戦争は、こちらが撃たなければ相手に撃たれるという状況です。したがって、相手を撃つことは正当防衛という意味もあります。しかし、この戦争は、こちらは絶対的に安全ですから、一方的な殺戮です。
これが逆に精神的なダメージになるようです。
 
一方的な殺戮は、映画を観ていても楽しいものではありません。
わが身を危険にさらすからヒーローになれるので、この映画にはヒーローはいません。
ただ、ハリウッド映画らしく、最後に少しカタルシスがあるようなストーリーになっています。
 
この映画の戦争シーンは、すべでモニターの中の映像です。
ドローンが離着陸したり、ミサイルを発射したりするシーンもありません(基地に止まっているドローンは映ります)
CIAの人間も姿は現さず、ただ電話で指示してくるだけです。
それがバーチャルな戦争というものを実感させてくれます。
 
そんなに楽しい映画ではありませんが、今の戦争を知るということではとてもいい映画です。 

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「チャッピー」(ニール・ブロムカンプ監督)を観ました。
ニール・ブロムカンプ監督といえば、「第9地区」で、宇宙人が地球人に差別されるという意表をついた設定で世の中をあっと言わせました。
ブロムカンプ監督は南アフリカの人です。欧米の人とは物事の見方が正反対です。
 
「エリジウム」では、やはりSF的設定で格差社会と移民問題を描きました。
今回の「チャッピー」では、人工知能を備えたロボットと犯罪を描いています。
 
舞台は2016年の南アフリカのヨハネスブルグです。犯罪が横行し、ギャングと警察が激しく抗争しているというのは、現実そのままでしょう。
ただ、ひとつ違うのはロボット警官が多数導入されているところです。
 
軍用・警察用ロボット製造会社に勤める技術者のディオン(デヴ・パテル)は、ロボットに搭載する人工知能をつくりだしますが、経営責任者(シガニー・ウィーバー)に採用してもらえず、やむなく壊れて廃棄予定のロボット警官に人工知能をインストールします。これがチャッピーです。
 
チャッピーは最初赤ん坊のようなもので、学習しながら成長していきます(実際の人工知能も学習しながら“人格”形成していくもののようです)
しかし、チャッピーはギャングに奪われ、ギャングの男女を親だと思い、そのため自動車泥棒などをするようになります。
 
しかし、チャッピーはもともと壊れたロボットであるために7日間しか生きられません。チャッピーはディオンの力を借りて自分の人工知能をほかのロボットに転送して生き延びようとします。
 
一方、ディオンのライバルである技術者のヴィンセント(ヒュー・ジャックマン)は、人間が操縦する強力な攻撃力を持ったロボットを開発していますが、ディオンが違法なやり方でチャッピーをつくったことに気づきます。そして、ギャングたちはチャッピーを使って現金輸送車襲撃を実行しようとしますが……。
 
チャッピーが学習して成長していくところは、ストーリーが進展しないのでちょっとだれる感じがありますが、それ以外は、“命”を持ってしまった人工生命の“死”の悲しみ、親と子の絆、“命”の創造者となってしまった技術者の苦悩、ギャング同士の抗争、ギャングと警察の闘い、ロボット製造企業のもうけ主義など、さまざまな要素がてんこ盛りで、飽きさせません。
 
 
私がとくにおもしろいと思うのは、ブロムカンプ監督の善と悪についての常識を超えた発想です。
無垢なチャッピーが“親”に教えられた通りに自動車泥棒をすることは誰も責められません。ということは、たとえば南アフリカの犯罪地域で育った者の多くも同じではないかということを考えさせられます。
 
また、キャスティングにもブロムカンプ監督の独特の狙いがあると思われます。
「エリジウム」では、SF映画の王道をいく「コンタクト」で正義の科学者を演じたジョディ・フォスターを、富裕層の社会を守る冷酷な防衛長官に配しましたが、今回は、「エイリアン」でヒロインを演じたシガニー・ウィーバーを、ロボット会社のもうけ主義の経営責任者に配しています。
これは明らかに既成の価値観をひっくり返そうというブロムカンプ監督の狙いではないでしょうか。
 
また、白人のシガニー・ウィーバーとヒュー・ジャックマンを悪役に配し、インド人のデヴ・パテルを人工知能をつくりだした“創造者”に配しているところにも、南アフリカで白人による人種差別を目の当たりにしてきたブロムカンプ監督の意図が感じられます。
 
ハリウッド映画の基本路線は、犯罪者やテロリストを、人を人とも思わずに抹殺していくというものです(アメリカの実際の犯罪対策やテロ対策も同じようなものです)
そうした映画ばかり見ていると、現在問題になっている安保法制についてもまともな判断ができなくなってしまいます。
「チャッピー」は、犯罪者や人工知能も同じ人間であるということを考えさせてくれる映画です。

ディズニー映画の「シンデレラ」(ケネス・ブラナー監督)を観ました。
 
このところ「アナと雪の女王」「マレフィセント」と、童話を題材にしたディズニー映画を観てきましたが、“王子様のキス”の価値が暴落しています。明らかにディズニー映画の価値観が変わっているのです。今回はどうなのでしょうか。誰でも知っているストーリーを今さら実写版でやるのですから、なにか新機軸があるはずです。
 
そう思って見始めましたが、ストーリーは思いっきりオーソドックスです。ほとんど原型のグリム童話そのままです。カボチャの馬車もガラスの靴も出てきます。
 
グリム童話と明らかに違うのは、シンデレラが舞踏会の前に王子と森の中で出会うところです。このとき王子は恋に落ちて、再びシンデレラと会うために国中の未婚の女性を招待した舞踏会を開催するわけです。
また、王子はシンデレラの顔を知っているのになぜガラスの靴に合う娘を探すのかといったことも、不自然にならないようにうまく設定されています。
 
王子は好青年ですし、シンデレラも計算高くガラスの靴を置いてきたなんていう女性ではありません。

舞踏会にシンデレラが美しいドレスで現れるシーンは、実写版ならではの壮麗さで、女性にはたまらないのではないでしょうか。
誰が観ても楽しめるディズニーらしい映画です。
 
グリム童話そのままのストーリーですから、最初は新機軸らしいものはなにもないと思いました。ただ、シンデレラをいじめる継母の側の事情も描いているところは新しいといえます。
 
シンデレラは両親から愛されて育ちますが、母親が病気で亡くなり、父親が再婚相手を連れてきます。
継母はあやしげな雰囲気の人間で、猜疑の目でシンデレラを見ます。しかし、継母が実の母のように子どもを愛してくれるということはめったになく、世の中はこれが普通でしょう。シンデレラは自分の部屋を義理の姉に譲らされ、屋根裏部屋に追いやられますが、前向きに受け止めます。
 
父親は亡くなった妻のことが忘れられず、シンデレラと亡き妻のことを語り合ったりします。それを継母が見てしまいます。これは継母が傷ついて当然でしょう。こうしたことが2度ほど繰り返されます。そして、父親が死ぬと、継母と義理の姉2人による本格的なイジメが始まります(義理の姉2人はただのバカっぽい人間として描かれます)
 
こうした継子イジメは、もともとのグリム童話にあるものですが、それをそのまま描いたところが新機軸ともいえます。
 
というのは、これまでのシンデレラの物語は、あくまで魔法の力で王子様と出会って結ばれるということに力点が置かれていたからです。
つまりこれは「恋愛第1、家族第2」という構成です。主人公が幸せになるのは恋愛によってです。
 
ところが、最近のディズニー映画は「家族第1、恋愛第2」という構成になっています。
「アナ雪」は、親から個性を封印されて育った姉が妹の力を得て自己回復を図るという物語ですし、「マレフィセント」は、オーロラ姫の呪いを解くのは王子様のキスではなく、親代わりとしてオーロラ姫を育てたマレフィセントのキスです。
 
今回の「シンデレラ」も、王子様との結婚で幸せになるという物語に見えるかもしれませんが、それよりも自分をイジメた継母との関係を清算することで幸せになるという物語と見るべきでしょう。それは最後の重要な台詞がシンデレラから継母へ向けられたものであることを見てもわかります。
 
私は「アナ雪」は親から個性を封印されて育った姉が妹の力を得て自己回復を図る物語だと言いましたが、こうした見方をする人はほとんどいません。親子関係にある問題というのは見えにくいものなのです。
 
ケネス・ブラナー監督といえば、私は「フランケンシュタイン」を思い出します。たいへん感動的な映画でしたが、当時はあまり評価されませんでした。もしかして早すぎたのかもしれません。
ウィキペディアを見ると、ケネス・ブラナー監督は「フランケンシュタイン」について、「父親に愛されなかった息子の物語」だと語ったということです。
そうするとこの「シンデレラ」については、「母親に愛されなかった娘の物語」だと語るのでしょう。
 
このように考えると、「アナ雪」「マレフィセント」「シンデレラ」と、最近のディズニー映画は家族関係、中でも親子関係をテーマにした映画をつくり続けているということになります。これがヒット連発の理由でしょう(もっとも、ヒロインが継母からイジメられながらも成長して幸せをつかむという物語は、昔は童話やマンガや少女小説にいっぱいあったので、先祖返りしただけともいえますが)。

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クリント・イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」を観ました。
アメリカではクリント・イーストウッド監督の作品としては過去最高の興行収入をあげ、日本でも公開された週の興行成績はトップでした。イスラム国の問題が関心を集めているというタイミングもよかったのでしょう。
 
イラク戦争で160人以上を射殺し、“レジェンド”といわれたスナイパー、クリス・カイルの自伝が原作です。
敵のほうにも、オリンピック出場経験のあるムスタファという凄腕のスナイパーがいて、その対決がストーリーの軸になっていて、多少エンターテインメント色がついています。
 
クリス・カイルはテキサス生まれ、ロデオが好きな、典型的なアメリカ人です。父親からは「人間は羊・狼・番犬の三種類しかいない。お前は羊になるな、羊を守る番犬になれ」という教えを受けます。そして、9.11テロを目の当たりにして、アメリカを守る番犬になるため志願してアメリカ海軍特殊部隊ネイビーシールズに入隊してスナイパーになります。
 
イラクに派遣されると、「仲間を守る」という行動原理で敵をやっつけ、仲間の海兵隊員を救い、功績をあげていきます。
彼らの敵はザルカウィ一派であり、中でもザルカウィの副官で“虐殺者”のあだ名で呼ばれる男です。
“虐殺者”はとにかく残虐で、電気ドリルで子どもを殺したりします。
 
敵が残虐であるということは、こちら側が正義であるという理屈になりがちです。アメリカでは、おおむねこの映画は愛国者に歓迎されたようです。
 
しかし、この映画は単純に「アメリカは正義、敵は悪」というものではありません。「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」をつくったイーストウッド監督がそんな描き方をしないのは明らかです。
 
朝日新聞にイーストウッド監督のインタビューが載っていて、それによると、原作には「野蛮」という言葉はなかったそうですが、クリス・カイルに問いただすと、実際には「野蛮」という言葉を使っていたということで、映画には「野蛮」や「蛮人」という言葉が出てきます。つまりアメリカ兵は敵を「野蛮」と見なしているのです。

「野蛮」といっているのはとりあえず敵の武装グループのことですが、イラク人やイスラム教徒全体を「野蛮」と見なしているということも否定できません。
 
これはイラク戦争の本質だと思います。
イーストウッド監督はちゃんと本質を見抜いて、映画に表現したのです。
 
この映画には、主人公のクリス・カイルとイラク人の人間的な交流は描かれません。
彼が守ろうとするのはあくまで仲間であるアメリカ兵です。イラク人を守ろうとするのではありません。
 
ハリウッドのエンターテインメント映画のお決まりのパターンであれば、まず主人公とイラク人少年の人間的な交流が描かれます。そして、邪悪な敵が現れて少年や町の人々が危機に瀕し、主人公が英雄的な戦いで敵を打ち負かします。ラストシーンは主人公が少年や町の人々の歓呼に迎えられるというものです。
 
しかし、この映画では主人公たちとイラク人との交流がないので、そのような展開にはなりようがないわけです。
 
原作がノンフィクションですし、この映画はイラク戦争の実態をかなり正確に描いているのではないかと思われます。
 
ベトナム戦争のときは多数のジャーナリストが戦場に入り込み、戦争の実態を伝えました。そのため反戦運動が高まったということがあったので、アメリカは湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争では徹底的な情報統制を敷き、私たちは戦争の実態がまるでわかりません。ですから、そういう意味でもこの映画は貴重です。
 
戦場帰りの兵士が精神を病み、家庭生活がうまく営めなくなるというところも描いています(ちなみに自衛隊員でイラクに派遣されたのちに自殺した人は28人にもなるということで、日本人にとっても人ごとではありません)
 
予告編で暗示されているように、クリス・カイルが女性や子どもを射殺するシーンもあります。それでいて戦闘シーンはそれほど派手ではないので、痛快な戦争エンターテインメント映画というわけにはいきません。
しかし、イラク戦争、さらには現在行われているイスラム国との戦いについて考えるにはとてもいい映画です。

今さらながら「アナと雪の女王」(2D/日本語吹き替え版)を観てきました。
興行成績は250億円を越え、「千と千尋の神隠し」「タイタニック」に続く歴代3位になったというのも納得の出来でした。
 
もうすでに論じ尽くされていて、今さら私が付け加えることはないかなあと思いながらヤフー映画レビューを見ていると、ストーリーに不満な人が意外とたくさんいます。また、ほめている人も、このストーリーのほんとうのよさに気づいていないのではないかと思われます。
ということで、私のとらえ方にも独自のことがあるかなと思って、ストーリーについての自分の考えを書いてみます(以下はネタバレになります)
 
この物語は「王子さまのキスでお姫さまが救われる」という伝統的な物語の枠組みを踏襲していないので、そこを評価する人もいれば、不満な人もいるというのはわかります。しかし、この物語にはほかにも斬新なところがいくつもあります。
 
王女エルサは、触れるものは何でも凍らせる魔法の力を持っています。なぜ魔法の力を持っているかの説明はありませんし、妹のアナにそうした力はないので、持って生まれた性質、個性というしかありません。
ただ、個性とはいっても、常識で理解できる範疇を超えています。
ですからこれは、親にとっては発達障害みたいなものかもしれません。たとえばアスペルガー症候群の人は、特定の分野に驚異的な能力を発揮することがあり、それに似ています。
 
それが個性や発達障害なら親は受け入れるしかありませんが、エルサの両親は、魔法の力を危険なものととらえて、手袋をはめさせ、力を封じ込めようとします。
 
そして、エルサの両親はあっけなく海難事故で死んでしまいます。
死んでしまったあとは、すぐに忘れられてしまいます。「ご両親があなたに手袋をはめるように言ったのは、あなたを思ってのことですよ」などという面倒くさいシーンもありません。
幼い主人公の両親がこれほどあっけなく、なんの余韻もなく死んでしまう物語はこれまでなかったと思います。
 
この物語は、「王子さまのキス」に価値がないという点で画期的ですが、「親の愛」や「親の恩」に価値がないという点でも同様に画期的です。
 
エルサは親に言われた通りに魔法の力を封印しようとしますが、うまくいかず、とうとう戴冠式の日に魔法の力を暴走させてしまいます。そして、エルサは一人で山に向かいますが、そのとき、「ありの~ままで~」の歌の通りに、ありのままの自分を受け入れて生きていこうと決心し、これが前半のクライマックスになります。
 
 
しかし、エルサが魔法の力の封印を解いたために、王国が冬の世界になってしまいます。妹のアナはエルサを救い、冬を終わらせるために山に向かいますが、この時点で、どうすればエルサを救い、冬を終わらせることができるのかわかりません。エルサは自分でも魔法の力を制御することができないからです。
 
しかし、これは最終的にうまくいきます。アナは自分を犠牲にしてエルサを救おうとし、アナの愛を感じたエルサは、アナを救うと同時に、魔法の力をコントロールする術を身につけます。
ここのところは論理的にうまく説明できているとはいえず、ちょっと納得いかない感が残ります。
 
ともかく、アナの愛によってエルサは魔法の力をコントロールすることができるようになったわけですから、最初に戻って考えると、両親がエルサの魔法の力を抑えるのではなく、ありのままを受け入れていれば、エルサは魔法の力をコントロールすることができていたのではないかと想像されます。
 
つまりこの物語は、親が十分に子どもを愛することができなくても、姉妹が力を合わせて自立を勝ち取っていくことの感動を描いたものです。
 
もちろんそれだけではなく、後半は男と女の関係が中心に描かれます。
親子関係という縦軸と、男女関係という横軸から物語が成り立っているといえます。
ただ、男女関係というのは誰でも認識できますが、親子関係を認識できる人はほとんどいないので、私のこの記事が新しい認識を提供することになるかもしれないと思って書いてみました。
 
 
ところで、私はエルサが魔法の力を持っていることを発達障害にたとえましたが、発達障害に詳しい岡田尊司氏は「発達障害と呼ばないで」という著書において、「発達障害」は「非定型発達」と言い換えるべきだと主張しています。つまり「正常な発達」に対する「異常な発達」というとらえ方をするのではなく、人間にはさまざまな発達の仕方があり、その中のひとつだというとらえ方をするべきだということです。
 
また、発達障害とまではいえない普通の個性であっても、それを受け入れられない親がいて、子どもの個性を抑えつけたり矯正したりしようとしています。つまりエルサの境遇に共感できる要素は幅広く存在していて、それもヒットのひとつの理由かと思われます。

映画「永遠の0」が観客動員ランキングで8週連続1位となり、「風立ちぬ」の記録に並んだということです(9週目は2位)
私はそれほどおもしろい映画とは思わなかったのですが、ヒットするにはそれなりの理由があるはずで、それについて考えてみました。
 
たまたま2月から3月にかけてCSの「日本映画専門チャンネル」で戦争映画をまとめてやっていたのですが、番組表の五十音順のインデックスを見ると、冒頭にこんなタイトルが並んでいます。
 
「あゝ海軍」
「あゝ零戦」
「あゝ特別攻撃隊」
「あゝ陸軍 隼戦闘隊」
 
そのほかに「海軍兵学校物語 あゝ江田島」というのもあります。
 
これはみんな大映作品ですが、「あゝ」シリーズという呼び方はないはずです。要するに当時の気分として、戦争を描くときには「あゝ」という詠嘆が似合っていたのでしょう。
ほかに「連合艦隊」(東宝)や「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(東映)というのもあります。
これらはすべて割と戦史に忠実につくってあり、太平洋戦争を描いているというのも共通しています。
当然映画の結末は重苦しいものとなり、「あゝ」といいたくなるのもわかります。
 
私は「永遠の0」を観たとき、これらの映画と比較して、リアリティがないなと思いました。
しかし、考えてみると、日本の戦争映画には別の系統もありました。
 
それは、岡本喜八監督の「独立愚連隊」シリーズと、勝新太郎主演の「兵隊やくざ」シリーズです。
どちらも戦争エンターテインメント映画で、軍隊では本来存在を許されないような型破りな主人公が活躍します。そういう意味でリアリティはありません。
戦史とはほとんど関係なく、どちらも中国戦線を舞台にしています。
なぜ中国戦線かというと、太平洋方面では悲惨な敗北をするので、エンターテインメント映画はつくりにくいからでしょう。
 
「永遠の0」は、太平洋戦争を舞台に、戦史に忠実につくられていますが、軍隊では本来存在を許されない型破りの主人公が活躍する戦争エンターテインメント映画です。
主人公は天才的なパイロットで、軍隊の論理ではなく家族のためという自分の論理で行動しますが、最後は軍隊の論理でもヒーローとなり、家族のためという論理でもヒーローになるというスーパーヒーローです。
つまり、ふたつの系統のいいとこ取りの物語となっています。
 
ですから、シリアスな戦争映画が好きな観客にも受けるし、家族もの、恋愛もののエンターテインメント映画が好きな観客にも受けるというわけです。
それが異例のヒットの理由ではないでしょうか。
 
 
ところで、「永遠の0」は戦争肯定ではありませんし、特攻作戦にも否定的ですが、にもかかわらず、最終的には特攻による死を美化した映画となっています。
これは原作者の百田氏の心の中にある矛盾からきているのでしょう。
矛盾というのは、表面的には平和を望んでいるといいながら、半ば無意識に戦争を望む気持ちがあるということです。
 
「永遠の0」では、ミッドウェー海戦において、敵空母発見の知らせがきたとき、艦載機には陸用爆弾が搭載されていたので、陸用爆弾を艦船用爆弾と魚雷に取り替えようとし、そうするうちに敵の爆撃機に攻撃され、1発被弾しただけで誘爆が起きて、たちまち4隻の空母が撃沈されるというシーンがあります。山本五十六長官は魚雷を搭載した艦載機をつねに用意しておけと命令していたのに現場は従わなかったこと、陸用爆弾でもいいからすぐに出撃するべきだという意見が無視されたことも描かれます。
これとまったく同じシーンが「連合艦隊」や「聯合艦隊司令長官山本五十六」や「あゝ海軍」にもあります。
つまりこれは太平洋戦争のターニングポイントなので、どうしても無視できないところです。
敵空母はいないだろうという油断、陸用爆弾で艦船を攻撃するものではないという杓子定規な考え方が敗北を招いたのです。
 
この場面にこだわるのは、敗戦の悔しさがあるからです。
世の中には、どうせ負ける戦争だから、そんなことは関係ないと考える人もたくさんいるはずですが、勝ち負けにこだわる人、負けたことに納得いかない人もいます。そういう人は心の奥底で、リベンジしたいと思っています。
 
私は前にこのブログで、戦争を望む心理についての記事を書いたことがあります。
 
「老人たちの望む戦争」
 
「永遠の0」の原作者である百田尚樹氏はもちろん戦後生まれですが、あの戦争に負けたことが悔しくて、リベンジしたい心理があるのでしょう。
 
百田氏は東京都知事選のときの田母神候補の応援演説の中で、「東京大空襲や原爆投下は米軍による大虐殺だ。東京裁判はそれをごまかすための裁判だった」といいました。
 
また、百田氏は2月にイランを訪問し、記者団の前でアメリカの原爆投下を非難し、「私はあるときアメリカのやったことを強く非難したが、彼ら(アメリカ人)は私のこの言葉に不快感を示し、私を普通ではないといったが、私は普通ではないのはアメリカ人のほうだと思う」と語り、これはイラン国営放送で大きく報道されたそうです。
 
百田氏は安倍首相のお友だちで、昨年12月には2人で対談集も出しています(これが「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」という恥ずかしいタイトルです)
 
安倍首相の心中にも百田氏と同じような反米の思いがあるに違いありません。国会答弁で、「教育基本法は占領時代につくられたが、衆参両院で自民党単独で過半数をとっていた時代も手を触れなかった。そうしたマインドコントロールから抜け出す必要がある」とか「憲法や教育制度を私たちの手で変えていくことこそが、戦後体制からの脱却になる」と語っています。
 
百田氏は明白に反米の姿勢を出していますが、安倍首相はうわべは親米、心中は反米という状態です。この矛盾が今後どういう形で表面化するのか、今いちばん気になることです。

映画「永遠の0」を観ました。
監督は山崎貴、出演は岡田准一、三浦春馬、井上真央などですが、それよりも気になるのは、原作者が百田尚樹氏だということです。百田尚樹氏は安倍首相のお友だちで、安倍首相はこの映画を観たあと、「感動しました」と語りました。
 
最近、「右傾エンターテインメント」という言葉があって、「永遠の0」はその代表的な作品とされます。
 
同じくゼロ戦を扱ったアニメ「風立ちぬ」をつくった宮崎駿監督は、「嘘八百」「神話の捏造」といった言葉で、名指しこそしないものの「永遠の0」を酷評しました。
 
とはいえ、映画は大ヒットしていますし、ヤフー映画のユーザーレビューを見ても「泣いた」という声がいっぱいです。
安っぽい「右傾エンタメ」なのか、泣ける感動作なのか、自分で確かめてみました。
 
あらすじはこんな感じです。
司法浪人が長く続き人生の進路を見失っていた佐伯健太郎(三浦春馬)は、姉に頼まれたこともあって、特攻隊員として死んだ祖父宮部久蔵(岡田准一)のことを調べ始める。するとかつての戦友たちは、宮部のことを臆病者、卑怯者、命を惜しむ男と酷評する。宮部は天才的に優秀なパイロットだったが、敵との空中戦になると、自分だけ安全なところに逃げていたというのだ。しかし、さらに調べると、宮部が命を惜しんだのは、妻子のために生きて帰りたかったのだということがわかる。しかし、そうすると、なぜ最後に特攻に志願したのか……。
 
これは謎を追求するミステリー仕立てになっているのですが、実は最後まで見てもよくわかりませんでした。しかし、原作のほうはちゃんと書いてあるので、これは映画が下手くそなのでしょう。
 
実は私は「永遠の0」の文庫本を持っています。知人と待ち合わせして会ったとき、彼はちょうど読み終えたところだからとその文庫本をくれたのです。それは明らかに、お勧めの本だから読めよという意味なので、私は読み始めましたが、2030ページで挫折しました。文章が肌に合わなかったのです。
私に合わないからだめな小説だとはいえません。感動したという人が多いのですから、きっとよい小説なのでしょう。
 
ですから、ここで書くのはあくまで映画評で、原作への評価とは別だと思ってください。
ほんとうなら私が原作を読んで、両方を評価するといいのですが、長い小説なので、そういうことに時間をさいていられません。
 
「1分でわかるネタバレ」というサイトがあって、小説「永遠の0」のあらすじが紹介されていました。それによると、戦争末期、教官としてパイロットを育てていた宮部は、自分の教え子たちが次々と特攻で死んでいくのを見て、自分だけ生き残ることが耐えられず、特攻に志願したというのです。
 
これは一応納得のいく理由です。映画でもそういうふうに描けばよかったのにと思います。
 
宮部は特攻に志願するのですが、それでも家族のことを思う彼はあることを……というのがミステリーの核心の部分になります。
 
映画は現在と過去のシーンが交錯して進んでいきます。ゼロ戦や空中戦のCGはよくできています。空母もリアルです。過去の日本映画に出てくる軍艦はみな円谷プロ風の特撮ですし、実際の軍艦の映像は粗くて暗いフィルムしかありませんから、リアルな日本の空母を見るのは初めての体験です。
 
とはいえ、これは戦争映画ではないかもしれません。あくまで宮部久蔵という1人の男の生き方を描いた映画で、戦争はむしろその背景です。
空中戦を描いた映画はこれまでいっぱいあって、やるかやられるかという緊迫感があるものですが、この映画の空中戦のシーンはまるでゲームのようで、緊迫感がありません。また、彼ら兵士がなにを食べ、どんなところで寝ていたかという日常生活の様子や過酷な訓練なども描かれません。
ですから、戦争の上澄みだけを描いたような映画です。
 
また、ゼロ戦愛みたいなものも感じられません。
山崎貴監督は「ALWAYS 三丁目の夕日」などを撮った人で、戦争やゼロ戦にあまり思い入れはないのでしょうか。
 
で、果たして泣けたかというと、私はまったく泣けませんでした。
主人公が最後に特攻で死ぬのですから、ある程度泣くことを覚悟していたので、むしろ意外です。
 
なぜ泣けないかというと、あまりにもリアリティがないからです。
宮部は家族のために“命を惜しむ男”です。これが妻子を残して赤紙で召集された男ならわかります。しかし、宮部は職業軍人です。15歳で入隊したようですから、いわゆる予科練です。入隊したときは、国に命を捧げる覚悟だったはずです。
入隊してから結婚して子どもが生まれ、そのことによって変わったということなのでしょうが、そんなに豹変するものでしょうか。妻子がいない時点でも両親はいたはずです。
 
それに、空中戦のときに自分だけ安全なところに逃げているというのも、現実にありそうもありません。同僚たちはそのことを察知しているのですから、上官に知られて問題になりそうなものです。
 
それに、宮部は仲間や部下の命もたいせつにする男です。しかし、空中戦で自分が離脱すれば、それだけ仲間を危険にさらすことになり、これも矛盾しています(原作ではうまく説明されているのかもしれませんが)
 
それに、先に書いたように、宮部が最後に特攻を志願した理由が映画でははっきりしないので、それも感動できない一因です。
 
宮部は家族のためとはいえ、仲間は死んでも自分だけが生き残ろうとする“超個人主義”の男です。これは現代の価値観からしてもリアリティがありません。
 
この映画は戦争を肯定したものではありませんし、特攻作戦にも批判的です。しかし、宮部の死は肯定的に描かれます。
それは、宮部がある方法で、自分の死を「意味ある死」にしたからです。
最後のほうに「私たちはその死をむだにしてはならない。物語を続けるべきだ」というセリフが出てきますが、これは宮部の死についてのみいえるセリフです。
 
大戦における310万人とされる日本人の死は、ほとんどがジャングルでの餓死や都市での焼死などの「無意味な死」です。
「意味ある死」などフィクションの中でしか存在しないといってもいいでしょう。
 
これはフィクションなのですから、それでいいですし、それに感動する人がいてもいいでしょう。
 
しかし、この映画は、そういうフィクションの中でしかありえない「意味ある死」と現在の平和における「享楽的な生」を対比して描いています。
そして、彼らの死があるから今の平和があるのだといわんばかりですし、現在の享楽的な若者を批判的に描いています。
 
フィクションを基準に現実を批判するのは反則手でしょう。
 
そういうことを映画を観ながら感じてしまったので、まったく泣けなかったのです。
 
この映画には「天皇陛下」という言葉が一度も出てきません(終戦の玉音放送は少し流れますが)
当時の軍人は、「天皇陛下の赤子として天皇陛下のために死ぬ」という価値観に制圧されていました。「家族のため」ということは口にすることもできません。
天皇制国家が集団狂気に陥った果てに生まれたのが特攻作戦です。
特攻作戦の中でのありえないひとつの死を描いたのがこの映画です。
安倍首相はいったいなにに感動したのでしょうか。

高畑勲監督のアニメ「かぐや姫の物語」を試写会で観ました。
 
宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観たあとなので、どうしても比較してしまいます。
こちらのほうがわかりやすく、素直に感動できます。というか、空を飛ぶことが好きで戦争の道具をつくってしまった男の物語にはどうしても素直には感動できないというべきでしょうか。
 
しかし、「かぐや姫の物語」がわかりやすいかというと、そうではありません。ストーリーは「竹取物語」と基本的な部分は同じですが、考えてみればもとの「竹取物語」がなんとも不思議な物語ですから、「かぐや姫の物語」もすっきりとは割り切れません。
というか、いろんなとらえ方が可能で、人によって解釈も違ってきそうです。
 
水彩画のような絵は美しく、観ていて飽きるということがありません。
とはいえ、2時間17分は少し長く、もう少し短くできる余地があったと思います。
 
最初、かぐや姫は竹取の翁と媼のもとで、自然豊かな田舎で育ちます。シカ、イノシシ、キジ、カエル、バッタなどの生き物に囲まれ、近所にはいっしょに遊ぶ子どもたちがいますし、木のお椀などをつくる木地師の一家もいます。定住しない木地師は被差別民だったという話もありますが、この田舎には差別というものがありません。
やがてかぐや姫は成長し、都に住むことになります。都は田舎とはうって変わって、貴賎と貧富が最大の原理である社会です。
つまり自然とともに生きる生活と、文明化され貴賎と貧富に支配される生活とが対比されます。自然の描写に力が入っていることから、高畑監督の狙いもここにあるではないかと想像されます。
 
そして、もちろんのこと男と女の物語でもあります。
かぐや姫は高貴な男たちの求愛を、無理難題をいってはねつけます。かぐや姫は「男を徹底的に拒む女」なので、フェミニストから高く評価されたりします。
ちなみにかぐや姫の声優をやった朝倉あきさんは、インタビューで「いちばん好きなセリフはなんですか」と聞かれて、「『私は誰のものにもならない!』です」と答えていました。
原作では拒んだ挙句に月の世界に帰っていくのですが、「かぐや姫の物語」では幼なじみとの恋が描かれます。色恋がまったくないのでは今の観客は納得しないので、これは当然の改変でしょう。
しかし、この恋の比重はそれほど重くありません。
 
それよりも重いのは、かぐや姫と育ての親との関係です。
竹取の翁と媼はかぐや姫を赤ん坊のときから育て(かぐや姫は成長が早く、1年で初潮を迎えます)、翁はかぐや姫に、高貴な人間になるような教育を授け、結婚相手を探して玉の輿に乗せようとします。しかし、かぐや姫は教育されることは好きではないし、結婚もしたくありません。ただ、媼はかぐや姫の理解者で、都の屋敷の一角に、田舎と同じような暮らしのできるところをつくります(マリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿の一角に田舎そのままの庭をつくったことが思い出されます)
 
教育や結婚を巡る親子の葛藤はあっても、翁と媼にとってかぐや姫を赤ん坊から育てたことは喜びであり、かぐや姫にとっても幸せな記憶です。
そして、この幸せは田舎暮らしと結びついています。
田舎では、子どもは野山で自由に遊んでいます。いくら騒いでも誰にも叱られません。
今の時代、親は子どもが騒ぐと、静かにしなさい、行儀よくしなさいと叱ります。そうすることでよい人間にしようと思っているのですが、実際のところはイジメをする人間やヘイトスピーチをする人間になるのがオチです。
 
親子関係でむずかしいのは、親離れ子離れですが、かぐや姫の場合は、月からの迎えがくるので必然的に親離れ子離れができてしまいます。翁と媼も、なにしろ竹の中から授かった赤ん坊ですから、そうした別れは予感していたと思われます。これはむしろいい形の親離れ子離れであるかもしれません。
 
そもそもなぜかぐや姫は月から地上にやってきたのかという疑問がありますが、それについては結末で説明らしいものがあります。また、「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーの説明にもなっているのかもしれませんが、私はあまり腑に落ちませんでした。ネタバレになるので具体的には書けません。
 
月の世界は超越的な世界です。地上は、愛することや別れることのある人間(生き物)の世界です。これもまた対比になっています。
 
自然と文明、男と女、親と子、天上と地上という重層的な構造の物語ですが、高畑監督の意図は、たとえば赤ん坊であるかぐや姫がカエルの動きをまねてハイハイをし、立ち上がるというシーンを見ても明白です。
 
ただ、へんに冷静な気分で見てしまったなあという思いがあります。
その理由を考えると、普通観客は主人公に感情移入して映画を観るものですが、かぐや姫はその存在そのものが謎で、なにを考えているのかよくわからないので、なかなかかぐや姫に感情移入できないということがあると思われます。
そのため物語に深く入っていけないのです。
ただ、それによって物語全体を鳥瞰することになり、人間についていろいろ考えてしまうという効果もあります。
 
宮崎駿監督の「風立ちぬ」は、宮崎監督の主人公に対する思い入れが深く、そのため矛盾もありますが、いろいろ考えさせられる作品です。
高畑勲監督の「かぐや姫の物語」は、高畑監督の思い入れは特定の人物ではなく物語全体にあると思われ、そのためにいろいろ考えさせられます。
いろいろな意味で対照的な作品です。

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