person-695654_1920

映画監督の榊英雄氏、俳優の木下ほうか氏、映画プロデューサーの梅川治男氏による性加害報道が相次いで、映画界のセクハラ体質が問題になっているところに、園子温監督も女優に対してセクハラ・性行為強要を行ったと週刊誌が告発しました。
園監督は謝罪文を公表しましたが、「ご迷惑とお騒がせ」をしたことを謝罪しただけで、告発内容については「事実と異なる点が多く」と、むしろ否定しています。

私は園監督のかなりのファンです。園監督は多作ですが、私はメジャー作品の8割ぐらいは観ていますし、園監督の書いた本も3冊読んでいます。
私は映画界全体のことはよくわかりませんが、園監督のことなら多少はわかります。
園監督によるセクハラ・性行為強要はあったのでしょうか、なかったのでしょうか。


園監督は『獣でなぜ悪い』という本の中で、映画監督と女優の関係についてこのように書いています。
僕は映画を撮っている最中、俳優をまずひとりの人間として見て、その存在を尊重することが大切だと思っている。
そして、基本的に女優とは恋愛関係になっていると思う。自分の希望とは違うキャスティングをプロデューサーとかから無理矢理当てられたとしても、一生懸命努力してその俳優を好きになり、本当に好きになっているような気になることができる。しかし、クランクアップした瞬間に、その気持ちはスッと消えていく。
あるいは、実際に恋愛をしている女優をキャスティングする場合もあるが、その場合は撮影後もそれが続いていることもある。とにかくどういう形であれ、撮影中は恋愛状態にあり、それが本気か本気じゃないかわからなくなるくらい夢中になっている。

吉高由里子さんや満島ひかりさんは園監督の映画に出演することで女優として高く評価されるようになりましたが、この二人は園監督にとっても特別な存在だったようです。
いま思えば、吉高や満島との仕事はエキサイティングだった。普通の女優と監督の関係は指揮者とオーケストラ奏者だと思う。しかし、彼女ら二人と僕はバンドのようだった。バンドは、オーケストラと指揮者よりもっとお互いの距離が近い。僕らは映画づくりにおいてバンド仲間のような「共犯関係」にあったと思う。
彼女たちとの出会いに共通するのは、ある種の「隙」だ。何か油断があるほうがいい。共犯関係に陥るような出会いにはさり気なさが必要だ。

園監督の演技指導はかなりきびしいようです。
映画「紀子の食卓」で吉高さんと吹石一恵さんは姉妹の役で出ているのですが、園監督は吹石さんにはきびしく当たらなかったといいます。
一方で吉高に対しては厳しく、ファーストテイクから数えきれないほどやり直させた。その回数は、朝から日が暮れるまでのあいだに百回くらいに及んだ。それは吉高が相手役の男の子と教室で二人きりで話すシーンだったから、彼もまた同じ演技を繰り返すことになって気の毒だった。しかし当の吉高はといえば、人生最初の撮影現場だったこともあり、それが普通だと思ったらしく文句も言わずに何度もやった。
演技は最初のシーンの最初のカットがいちばん大事だから、僕はそこで役者をこれでもかと追い込む。追い込むことで、役者の「演技なんてこんなもん」という思い込みを消し、緊張感を生み出し、役者を自分自身と向き合わせて、いまもっている殻を自分自身で破らせ、その人だけがもっているカラーを生む。厳しいことを言えば吉高も泣くことがあったが、僕は何のケアもしなかった。そうしたケアは、僕以外の誰かがしてくれる。

「きびしい演技指導」と「パワハラ」は紙一重です。
そこに園監督の場合は「恋愛関係」が入ってくるわけですから、「セクハラ」とも紙一重です。

それに、園監督の映画の特徴は、エロスとバイオレンスに彩られていることです。
そうなると、園監督のセクハラ・性行為強要は限りなくありそうに思えます。

園監督自身はそれを性行為強要と認識していない可能性があります。
たとえば『けもの道を笑って歩け』という本によると、園監督は「東京ガガガ」というパフォーマンス集団を主宰していたころ一回だけ関係を持った女性から、5年ぐらいたってから電話があってファミレスに呼び出されます。その女性は「私は組長の娘だけど、あのときあなたは私をレイプしたよね?」と言います。外を見ると、黒い車がずらっと並んで、ヤクザがこちらをにらんでいます。
連れていかれた組事務所は、建物の出入口からエレベーター、最上階の扉まですべてオートロックで施錠され、絶対に逃げ出すことはできない。事務所に入ると、ジャラジャラ鳴っていた麻雀の音がピタッと止まった。「オメエか。娘をレイプしたのは?」と組長に凄まれて目線を落とすと、ギザギザのガラスの灰皿が置いてあった。小説でよく、走馬灯のように人生が駆け抜けるというけどまったくそうで、いろんなことが思い起こされて、死ぬんだと覚悟しました。
こんな時、「レイプはやってません!」と事実を主張しても、ただの間抜け。灰皿でボコボコにされるのがオチです。せめて死ぬ時は明るくさわやかにいこうと、大声で「ヤリました~!」と言うと、チューイングガムのぺちゃくちゃが一斉に止まった。唖然とした組長が娘を見ると、バツの悪い顔をしたのでハッとした。レイプではないと気づいたのです。長い沈黙の後、「駅まで送ってやれ」と組長が言って無罪放免になりました。腹を括るしかなかっただけですが、結果的に、人生最高の選択になっていました。

園監督はこのエピソードを別の本にも書いていて、そこにははっきりと「僕はもちろんレイプなどしていなかった」と書いています。
私はこれを読んだときは、そのまま受け止めていましたが、よく考えるとおかしなところがあります。
完全な合意の上の性行為なら、5年もたってからこんな電話がかかってくるでしょうか。
実際は限りなくレイプに近かったのではないでしょうか。
組長の娘は、園監督が映画監督として売り出しているのをテレビなどで見て、レイプされたときの悔しさがよみがえり、仕返ししたくなったと考えると、一応腑に落ちます。

このように考えると、園監督のセクハラ・性行為強要疑惑は限りなく黒に近いと思えます。
もちろん断定はできませんが、黒という前提に立つと、ここは園監督がきちんと謝罪しなければなりません。
本人は納得いかない気持ちがあるかもしれませんが、組長に対して「ヤリました~」と言ったのと同じことです。映画監督生命を守るためにも謝罪するしかありません。


園監督が謝罪したとすれば、今度は世の中が園監督を許すか否かを問われることになります。
謝罪しても過去の罪は消えないという考えもありますし、そんな罪を犯した人間の映画なんか観たくないという人もいるでしょう。

私はというと、園監督の罪は許すべきだという考えです。園監督の映画のおもしろさは常識の枠を破ることにあるのですから、常識で裁いて、園監督の映画を排除するのはまったく愚かなことです。


先ほどの組長の娘に呼び出される話もそうですが、園監督はさまざまな常識外れの体験をしている人です。
たとえば園監督は17歳のときに家出して東京に出てきます。行くあてもなく駅前でギターを弾いていると、女性に声をかけられます。これは逆ナンパに違いないと思って、童貞を捨てるチャンスと女性をラブホテルに誘うと、女性もあっさりと了解していっしょにホテルに入ります。
そうすると、女性はこんなことを言います。
「実は旦那と喧嘩して家出してきて、田舎に帰ろうと思ってたんですが帰れない。あなたが拾ってくれたのもなにかの縁……」と言って、カバンから大きな植木バサミを取り出した。彼女は「これで一緒に死にましょう」と言う。
僕はあまりの展開になす術がなかった。殺される……もうこれまでかと思ったとき、彼女が、「二つの選択肢をあげる。ひとつはここで一緒に死ぬこと、もう一つは私の田舎に行って旦那になりすまして、私の母親と一緒に暮らすこと」と言った。つまり「sex or die」の二択だ。死にたくない……僕はもちろん田舎に一緒に行くことを選んだ。すると彼女は植木バサミをしまって、「じゃあ、セックスでもしますか?」と言ったが、僕はセックスなんかできる状態じゃなくなっていた。

園監督はタクシーで彼女の実家に連れていかれ、彼女の母親に「なんだかちょっと若いね」と怪しまれながら、しばらくいっしょに暮したということです。
このときの体験から、レンタル家族を題材にした「紀子の食卓」の発想が生まれました(先の組長の娘の話から、ヤクザの組長が自分の娘を主役にした映画を撮ろうとする「地獄でなぜ悪い」の発想が生まれます)。

園監督は途中で逃げ出すこともできたはずですが、わけのわからない状況に突っ込んでいくのが園監督の生き方です。

園監督は統一教会に入っていたこともあります。
五反田の駅前で「神を信じますか?」と声をかけられ、「信じたら飯が食えるのか?」と聞くと、「もちろん」と言うので、ついていきます。当時は貧乏だったので、ご飯にありつけるならなんでもよかったのです。教会に行くとご飯が食べられたので、教会に住むことになり、しばらく宗教理論の授業を受けたり、奉仕活動をしたりしていました。
「愛のむきだし」はオウム真理教をモデルにした映画ですが、統一教会での体験が下敷きになっています。

園監督がハリウッド進出を目指したときも、ハリウッド通の日本人と人脈をつくるより、渡米して直接人脈をつくったほうが早いだろうと判断して、2007年に実行します。20世紀フォックス、ソニー・ピクチャーズ、ディメンション・フィルムズなどを回って、偉い人に会わせてくれと警備員に頼んでいると、ハリウッド村は狭いので、へんな日本人がぐるぐる回っていると話題になり、20世紀フォックスの会長がおもしろがって会ってくれました。その後、ディメンション・フィルムズの社長、MTVの副会長、ソニー・ピクチャーズの人など、ありとあらゆる人に会ったそうです。
そして、園監督がハリウッドで初監督したニコラス・ケイジ主演の映画が2021年に公開されました。

普通の人なら尻込みするようなことでも突き進んでいくのが園監督流です。

合法・非合法という区分も園監督にとっては意味がないようです。
「東京ガガガ」というパフォーマンス集団で「ガガガ」と叫びながら道路を練り歩いていると、どんどん人数が増えて2000人ぐらいになりますが、デモの届けもなしにやっているので、毎回逮捕者が出ます。
また、渋谷のスクランブル交差点を占拠して、鍋を囲んで一家団欒をするというドリフターズのようなコントもしますが、これなど完全に道交法違反でしょう。

園監督の実質的にメジャーデビュー作となった「自殺クラブ」には、新宿駅などのホームで女子高生二、三十人が並んで手をつなぎ、一斉に電車に飛び込むというシーンがありますが、これはJRの許可なしにゲリラ的に撮影されました(実際には飛び込んでいません)。
今なら撮影手法が非難されて、映画の公開もできないかもしれません。

世の中が常識とか法律にとらわれていたら、園子温という才能は世に出ていなかったかもしれません。


もちろん性暴力はいけないことです。
園監督の作品はエロスとバイオレンスが特徴で、性暴力の場面も少なくありませんが、ベクトルは性暴力を否定する方向です。

映画界から性暴力を追放するのは正しいことですが、間違って映画から性暴力を追放するようなことはしないでもらいたいものです。


【追記】
私は園監督を高く評価しているのですが、評価する理由をはっきり書かなかったため、園監督の性暴力に寛容な印象を与える文章になったかもしれません。そこで、少し書き加えておきます。

園監督の父親は東大受験に失敗して外語大に行った人で、学歴コンプレックスを持っていて、園監督が幼いころから「お前は東大に行って、将来は官僚になるんだ」と言い聞かせ、口を開けば「勉強しなさい」と言っていたそうです。四角四面の堅物で、他人のことなど眼中になく、自分のことばかりしゃべっているような人です。
母親は、父親が黒と言えばなんでも黒、白と言えばなんでも白という人で、園監督にとっては存在しないも同然でした。父親からは「この子がだめなのはお前の血のせいだ」と繰り返し言われ、また祖父からは何度も殴られていました。しかし、実家の親戚などとお酒を飲んでいるときはよくしゃべり、別人のようだったというので、園家では自分を殺していたのでしょう。
園監督は家でも学校でも怒られてばかりだったので、通学路を歩いているときがいちばん楽しかったといいます。小学校では新聞部と放送部に所属して、新聞づくりや映像づくりをしていて、もしそれができなかったら自殺していたかもしれないということです。

このように自分の家族の問題を赤裸々に語れるのが園監督の特別なところです。
最近は家族の問題を描く映画がふえていますが、まだまだきれいごとの感じがします。しかし、園監督が描く家族は、負の側面まで深く掘り下げています。それは園監督自身の家族の問題とつながっているからでしょう。
園監督と女優の関係に不適切なところがあったとすれば、それは園監督の家族に負の側面があったことの反映でもあるでしょう。これを機に、それは克服してもらわねばなりませんが、園監督は2011年に神楽坂恵さんと結婚しているので、もはや過去のことである可能性もあります。

ともかく、園監督には家族の負の側面を描く映画作家として今後も活躍してほしいと願っています。(4月17日22時20分)