村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会公式サイトより

東京オリンピックが終わりました。

閉会式は開会式以上にひどいものでした。
開会式にはドローンの編隊飛行とかピクトグラムのパントマイムとか、少しは見どころがありましたが、閉会式にはなにもありません。
光の細かい粒が川のように流れて五輪マークをつくる場面があって、これはいったいどういう仕掛けだろうかと思ったら、ただのCGによる映像で、会場の人にはなにも見えていないのでした。

「ろくな内容がないので音楽の力に頼ろう」という意図からか、音楽が多用されました。
もっとも音楽の間、ダンスやパフォーマンスが繰り広げられるのですが、これが「にぎやかし」としか思えない無意味なものです(「東京の休日の昼下がりの公園」を再現し、東京観光ができなかった海外選手たちに東京体験の場をつくりだそうという意図だったそうです)。

「東京音頭」の盆踊り、アオイヤマダさんの鎮魂のダンス、大竹しのぶさんと子どもたちによる宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりの歌」などもあるのですが、全体が無意味で退屈と、酷評の嵐です。


開会式がだめだった理由については、このブログで「東京五輪開会式はなにがだめか」という記事に書きました。
閉会式がだめなのも同じ理由です。安倍晋三前首相や森喜朗前東京五輪組織委会長が「ニッポンすごい」というナショナリズムの枠をはめていたからです。

閉会式でも国旗掲揚と「君が代」がありました。
開会式で国旗掲揚があったので(夜中に国旗掲揚はおかしいと思うのですが)、閉会式ではその国旗を降ろすのかと思ったら、また掲揚です。
大きな日の丸が日本人メダリストなど6人に運ばれて入場し、自衛官にバトンタッチされ、宝塚歌劇団の「君が代」斉唱とともに掲揚されるのですが、この一連の動作に5分間かかっています。
「君が代」斉唱は無意味ではありませんが、日の丸の入場行進は時間のむだで、こんなものを世界の人に見せようとする思想が間違っています。
日本の右翼の自己満足です。

安倍氏や森氏から制作チームに対して「日本の素晴らしさを表現しろ」という指示があったに違いありません。
そのため、各地の民謡の紹介や盆踊りや宮沢賢治の歌が盛り込まれました。
しかし、民謡というのは、日本人にもあまり人気がないからローカルな存在なので、世界の人が素晴らしいと思うわけがありません。
盆踊りは、踊っている人が楽しいので、人に見せるための踊りではありません。
宮沢賢治の詩は素晴らしいといっても日本語です。宮沢賢治の曲だけでは世界の人にはなにも伝わらないでしょう。

なお、宮沢賢治の歌を使ったことについて、開閉会式のエグゼクティブプロデューサーである日置貴之氏は、宮沢賢治が岩手県出身であることから、「東日本大震災からの復興の思いを込めた」と意図を説明しました。
しかし、それは世界の人に理解されませんし、日本人にもまず理解されません。

電通が編成した制作チームは(日置氏は博報堂出身)、日ごろからスポンサーの要望を受け入れることに長けているので、「国旗掲揚をやってくれ」「日本文化を入れてくれ」「復興も入れてくれ」と要望されると、すぐさまそれを実現したのでしょう。
そのため統一性がなく、意味不明になってしまいました。

ちなみに開会式で大工の棟梁のパフォーマンスと木遣り唄があったのは、週刊文春によると、都知事選で火消し団体の支援を受けた小池百合子都知事の強い要望があったからだということですし、聖火ランナーに長嶋茂雄氏と王貞治氏とともに松井秀喜氏が登場したのは、森氏が同郷(石川県)の松井氏を推したからだといわれています。

本来なら政治家など組織のトップは、才能あるクリエーターを選んだら、その人間が自由に仕事ができるようにささえるのが仕事ですが、今の政治家はやたら口を出すようです。
そのためまともなクリエーターは逃げ出して、政治家の口利きを受け入れるクリエーターばかりが残ります。


安倍氏と森氏は、税金を出す立場なのでスポンサーみたいなものです(安倍氏は今も東京五輪組織委の名誉最高顧問ですし、森氏を名誉最高顧問に復帰させる案があるとの報道が先月ありました)。
開閉会式は、基本的に安倍氏と森氏の望んだものになったはずです。
彼らは「大きな日の丸が会場に掲揚されるのを見て感激した」とか「日本文化を世界に発信できて誇らしかった」という反応を期待したのでしょう。
しかし、私はその手の反応をひとつも目にしませんでした。

これは考えてみれば当然のことで、開閉会式は世界の人が見るので、日本人も世界の人の視点で見たからです。
そうすると、国旗掲揚はただの時間のむだと思えますし、宮沢賢治の歌ではなにも伝わらないこともわかります。
安倍氏と森氏らの偏狭なナショナリズムは国際的イベントと相容れません。


多額の税金をつぎ込んだ開閉会式で、日本は世界に恥をさらしました。
そのために日置氏らの制作チームが批判されています。
確かに日置氏らにも責任はありますが、やはりいちばん責めを負うべきは安倍氏と森氏です。

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東京五輪開閉会式の演出の責任者であるCMクリエーターの佐々木宏氏が、タレントの渡辺直美さんにブタを演じさせるプランをスタッフにLINEで提示し、スタッフの反対にあって撤回していたと週刊文春が報じました。
渡辺直美さんは宇宙人家族に飼われているブタという設定で、その名も“オリンピッグ”というのだそうです。
女性をブタにたとえる侮辱とダジャレのくだらなさなどもあって非難が集中し、佐々木氏は開閉会式演出の「総合統括」を辞任しました。
開会式まであと4か月というときに演出の中心人物が辞めてしまったわけです。

ただ、このプランが提示されたのは昨年3月のことで、アイデアの原型みたいなものを仲間内に提示しただけで、すぐに撤回しています。辞任するほどのことかという声もあります。
しかし、文春の記事を読むと、「渡辺直美ブタ演出」は記事の“つかみ”の部分です。記事の中心は開閉会式演出チームの主導権争いという構造的な問題を扱っています。
文春の記事から主導権争いの部分を簡単に紹介します。


五輪開閉会式演出チームは最初8人でした。
肩書を書くのが面倒なので、ある記事から引用します。
2018年に発表した演出企画チームは、チーフエグゼクティブクリエイティブディレクターを狂言師の野村萬斎が担当。歌手の椎名林檎や振付師のMIKIKO、映画プロデューサーで小説家の川村元気、クリエイティブプロデューサーの栗栖良依、クリエイティブディレクターの佐々木宏と菅野薫、映画監督の山崎貴ら計8人のメンバーで構成される。
https://www.fashionsnap.com/article/2020-12-23/tokyo2020-hiroshisasaki/

最初は映画監督の山崎貴氏が中心となって企画を考えたもののうまくいかず、次に野村萬斎氏が責任者に選ばれたもののこれもうまくいかなかったということです。
文春の記事にはこう書かれています。

「野村氏は伝統芸能の人だからか、提案も観念的。森氏もプレゼンのたびに、野村氏に『意味が分からん』『具現化しろ』と批判し続けていた。最後は森氏主導で、野村氏は責任者を降ろされます」(同前)

 開幕まで残り1年に迫った段階で、企画案は白紙状態。組織委は19年6月3日、野村氏を肩書きはそのままに、管理側に“棚上げ”に踏み切る。〈演出チーム〉の一員だったMIKIKO氏(43)を“3人目の責任者”として、五輪開閉会式演出の「執行責任者」に起用するのだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7199b3bd0d68c0253397dc43ac4aa4534ef4e4bd

MIKIKO氏はPerfumeや「恋ダンス」を手掛けてきた振付師で、MIKIKO氏のまとめ上げた企画案はIOCからも絶賛されたということで、方針が固まったかに見えました。
しかし、そこに森喜朗前会長の後ろ盾のある佐々木宏氏が加わります。
佐々木氏は電通の出身で、電通代表取締役社長補佐・髙田佳夫氏の後ろ盾もあります。
佐々木氏は五輪が1年延期になったことをきっかけに“クーデター”を起こして主導権を奪い、栗栖良依氏、椎名林檎氏ら女性スタッフを排除し、最終的にMIKIKO氏も辞任に追い込みます。
そして、佐々木氏は「一人で式典をイチから決めたい」と言って、MIKIKO氏の案を反故にして自分の案を出しますが、佐々木氏の企画はIOCに不評で、結局MIKIKO氏の企画を切り貼りしたものを使うことになったそうです。

 MIKIKO氏、栗栖氏、椎名氏。自らの考えを主張する女性たちを“排除”し、森氏や髙田氏を味方に五輪開会式の“乗っ取り”に成功した佐々木氏。彼は今、どんな式典を思い描いているのか。今年2月時点の案を見たスタッフが明かす。

「問題なのは、顔写真入りで紹介されている主要スタッフの殆どが男性ということ。ヘアメイクや衣装も軒並み男性。キャストもブッキング済みなのは主に男性で、申し訳程度に『アクトレス』の枠が設けられ、配役は未定。こうしたバランスが世界にどう映るか。不安を覚える人は少なくない。ただ、佐々木氏の後ろ盾である森氏や髙田氏らの意向に、誰も逆らえなかったのが現実です」
森氏・佐々木氏・高田氏(電通)という女性差別勢力が開会式の企画を乗っ取り、その中から出てきたのが「ブタ演出」だというわけです。

しかし、マスコミは「ブタ演出」のところにだけ食いついて、その背後にある問題にはほとんど触れません。
これは“電通タブー”のせいであるようです(森氏のことも批判しにくいのかもしれません)。



ただ、問題は開会式がよいものになるかどうかです。佐々木氏がよい企画を出しているのであれば、たかが「ブタ演出」のために辞任に追いやったのは間違いということになります。
ただ、これについては渡辺直美さん自身が企画の評価を語っています。

「採用されてたら断る」 渡辺直美さん、演出問題語る
東京五輪・パラリンピックの開閉会式の演出を統括していた佐々木宏氏が、お笑い芸人の渡辺直美さんの容姿を侮辱するようなメッセージを演出チーム内に送っていた問題について、渡辺さんは19日夜に行ったYouTubeのライブ配信で言及した。
 開会式への出演依頼を受け、振付師・演出家のMIKIKO氏らが手がける開会式の演出案を聞いたときは「最高の演出だった。それに参加できるのはうれしかった」と振り返り、「(周囲からの助言で佐々木氏の案が却下されたのは)一つの救い」「もしもその演出プランが採用されて私の所に来た場合は、私は絶対断ってますし、その演出を批判すると思う。芸人だったらやるか、って言ったら違う」「これが日本の全てと思われたくない。(元々の演出案を)皆に見てもらいたかったし、私も頑張ってやりたかった。その悔しさが大きい」などと語った。

 また他人の容姿を揶揄(やゆ)する言動について「自分の髪色、着たい服、体のことは自分で決めたい。決めるのは自分自身」などと呼びかけ、「これ以上これが報道されないことを祈る。これを見て傷つく人がいるから」と語った。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14839674.html?_requesturl=articles%2FDA3S14839674.html&pn=2

渡辺直美さんはMIKIKO氏の案を高く評価して、佐々木氏の案はそうでもありません。
おそらく渡辺さんだけではなく、多くの人がそう思っていて、だからLINEの流出も起きて、佐々木氏は辞任に追い込まれたのでしょう。
つまり最大の問題は、「ブタ演出」問題ではなくて、よい案が採用されず、悪い案が採用されたことです。
「ブタ演出」を前面に押し立てて佐々木氏を辞任に追い込んだのはうまいやり方だったかもしれません。



ここまでは文春の記事に乗っかっただけなので、私の考えもつけ加えておきます。

文春は、森氏の女性差別がすべての元凶であるかのような書き方をしていますが、私はそこは違うのではないかと思います。
安倍前首相の名前は文春の記事に一か所しか出てきませんが、安倍前首相こそが黒幕です。

最初に責任者になった映画監督の山崎貴氏は、「永遠の0」と「海賊とよばれた男」を撮っていますが、どちらの原作も百田尚樹氏です。百田氏は安倍前首相のお友だちで、「日本国紀」という「日本すごい」本を書いています。
安倍前首相は「美しい国」や「新しい国」と称して「日本すごい」を主張しています(森氏も「神の国」発言をしています)。
つまり安倍前首相と森氏は「日本すごい」という開会式の演出を望んでいて、それで山崎監督に託したものと思われます。

実はこれが間違いです。
自国優越思想を打ち出したのでは感動的にはなりませんし、そもそも日本はそれほどすごい国ではありません。

具体的には1998年の長野冬季五輪の開会式の演出で「日本すごい」を打ち出したものの、大失敗しました。
開会式の総合演出を担当した劇団四季の浅利慶太氏は、日本文化のすばらしさをアピールしようとして、大相撲の土俵入りと長野県諏訪地方で行われる御柱祭を会場内で実演させました。
大相撲は世界にアピールできるコンテンツだと思いますが、土俵入り自体は見ていておもしろいものではありません。
御柱祭は宗教的行事としての意味がありますが、世界の観客にはなにもわかりません。
結局、世界の観客はわけのわからない退屈なものを延々と見せつけられたのです。

「日本すごい」と思っているのは日本人だけです。「日本国紀」も読まれるのは日本だけで、海外には翻訳されません。

もっとも、北京五輪の開会式では「中国すごい」を打ち出して大成功し、ロンドン五輪の開会式では「イギリスすごい」を打ち出して大成功しました。これは実際に中国とイギリスの歴史が人類史に大きな貢献をしていて、それをビジュアルで表現する演出がみごとだったからです。
北京とロンドンがあまりにもすばらしかったので、そのあとはなにをやっても見劣りしてしまいます。

ところが、安倍前首相と森前会長は、そのむりなことをやろうとしたのです。
山崎監督は期待に応えることができず、野村萬斎氏は伝統芸能の立場から「日本すごい」を打ち出せると期待されたのでしょうが、やはり期待に応えることができませんでした。
3人目のMIKIKO氏は、女性だということもあって「日本すごい」にこだわらない案を出して、IOCから高く評価されました。
案の内容は公表されませんが、佐々木氏のLINEからその一端がうかがえます。

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文春オンラインの記事より

どうやらMIKIKO氏の案は「オリンピックすごい」ないし「スポーツすごい」という内容のようです。
オリンピックが苦難の道を歩みながら発展してきて、多くの人がスポーツを楽しむ世の中を実現するのに貢献してきたという歴史は感動的なものになりえます。

世界の人を感動させるには、「日本すごい」ではなく、なんらかの普遍的な価値観が必要です。
リオデジャネイロ大会は、ブラジルの歴史を描く中でアマゾンの森林資源と地球環境の問題を打ち出して、成功していました。
長野冬季五輪では、パラリンピックの開会式は作曲家の久石譲氏が総合演出をし、自然と文明の共生というテーマがあったようですが、愛と勇気の物語になっていて、すばらしく感動的でした。

しかし、安倍前首相と森氏の頭には「日本すごい」しかなく、それが混乱を招いた元凶でしょう。


佐々木氏が辞任して、そもそも東京五輪が行われるかどうかもわかりませんし、開会式がどんな規模になるかもわかりませんが、もし行われるなら、世界の人を感動させる開会式になってほしいものです。

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東京五輪組織委員会の森喜朗会長の辞任が取り沙汰されているとき、「組織委の会長は五輪の顔としてふさわしい人物でないといけない」ということが言われました。
組織委の会長は、大会の開会式と閉会式でスピーチをし、IOCの役員らともつきあうので、そういう「五輪の顔」の役割があるということのようです。

結局、橋本聖子五輪担当相が後任会長に選ばれましたが、橋本会長は「五輪の顔」としてふさわしいのでしょうか。

橋本会長は国際的な有名人とまではいえなくても、冬季五輪4回、夏季五輪3回の出場経験があり、国会議員と五輪担当相になったという経歴を聞けば、誰でも「へえ」という反応をするでしょう。
しかし、「強制キス」疑惑も海外でかなり報道されているようなので、「顔」としての役割だけ考えるなら、ふさわしいかどうか微妙です。

では、森氏は「五輪の顔」としてふさわしかったのでしょうか。

森氏は一年間首相を務めましたが、世界でそのことを知っている人はほとんどいないでしょう。
しかも、首相だったときは内閣支持率ヒトケタという最低記録を出す不人気ぶりでした。
高校、大学でラグビーをやっていましたが、選手としての実績はありません。
森氏が開会式と閉会式でスピーチをすると、世界中の人が「なんでこの人が?」と思うでしょう。
IOCの役員らとつきあう上でも、森氏には知性も教養も語学力もありません。
性差別発言がなかったとしても、これほど「五輪の顔」に不向きな人はいないと言っていいぐらいです。


ところが、森氏でなければ「五輪の顔」は務まらないと主張する人がけっこういました。
そもそも「組織委の会長は五輪の顔としてふさわしい人物でないといけない」というのは、森会長を辞任させるなという意味で言われていました。
彼らは森氏は「五輪の顔」に最適だと考えているのです。
「五輪の顔」についての認識がまるで違います。

これはどういうことかと考えているうちに答えがわかりました。
森氏の「厚顔」が「五輪の顔」にふさわしいということなのです。
「厚顔」はすなわち「厚顔無恥」でもあります。単に「面の皮が厚い」といってもかまいませんし、「鉄面皮」という言葉でも同じです。

森氏は数々の失言をして批判されても、謝罪らしい謝罪もせず、平然としています。
首相時代、支持率ヒトケタになれば、普通の人なら自分から辞めるでしょうが、森氏は周りの“森おろし”によってようやく辞任しました。
今回も、女性差別発言をいくら批判されても、本人はまったく反省していないようです。
「厚顔」そのものです。

トランプ前大統領も似たところがあります(体型も似ています)。
トランプ氏も、山ほど嘘をついて、嘘を指摘されても平然としています。そうすると、嘘が嘘でないように思えてきます。
こうした「厚顔」は一種の才能かもしれません。

「厚顔」であることがどうして「五輪の顔」に向いているのかというと、日本人の欧米コンプレックスが関わってきます。


オリンピックは単なるスポーツ大会ではありません。オリンピズムという思想に基づいています。
オリンピック憲章の「オリンピズムの根本原則」にこう書かれています。
1.オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、 バランスよく結合させる生き方の哲学である。 オリンピズムはスポーツを文化、 教育と融合させ、 生き方の創造を探求するものである。 その生き方は努力する喜び、 良い模範であることの教育的価値、 社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。
2.オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。

これは古代ギリシャに発するヨーロッパ文化の精華を示したものです。
オリンピックはヨーロッパ文化と切っても切り離せません。

ところが、日本人は欧米コンプレックスがあるので、このようなヨーロッパ文化にうまく向き合うことができません。
IOCの役員も高尚なヨーロッパ文化を身につけた人ばかりに違いないと、コンプレックスがある日本人は考えてしまうので、ついつい卑屈になります。

その点、森氏は「厚顔」なので、自分に知性や教養がないことなどまったく気にしません。
IOCの役員に対しても対等な顔をしてふるまいそうです。
それゆえ「五輪の顔」は森氏でなければと考える人がいたのでしょう。
すべては日本人の欧米コンプレックスがなせるわざです。

しかし、会議の長いのが嫌いで、密室談合が得意な森氏にIOCとまともな交渉ができたでしょうか。
森氏を評価する人はいますが、IOCとの分担金交渉を日本有利にまとめたというような具体的な功績を挙げる人はいません。

安倍前首相も森氏と同じような役割を演じていた面があります。
安倍前首相はトランプ大統領やプーチン大統領など欧米の指導者と親しげな関係を演出し、「外交の安倍」などと言われていましたが、外交の成果といえるものはほとんどありません。
親しくもないのに親しげな態度ができるという「厚顔」だけの外交だったわけですが、欧米コンプレックスの強い日本人には支持されました。


オリンピズムといってもそれほど素晴らしいものではありません。
たとえばかつてアマチュアリズムはオリンピズムの重要な柱でした。
そのためにプロとアマを区別しなければならず、さまざまなトラブルがありましたが、方針転換してプロの参加を認めればなんの問題もなく、今ではアマチュアリズムにこだわっていた昔がバカみたいです。
オリンピズムというのは単なる美辞麗句で、今ではオリンピックは商業主義そのものです。


ヨーロッパ文化には優れた面もありますが、古代ギリシャ・ローマは市民よりも奴隷の数が多かったといわれる奴隷制社会で、差別主義もその文化には刻まれています。
具体的にはヨーロッパ文化至上主義があります。これは中華思想のヨーロッパ版です。

オリンピック大会の運営にはヨーロッパ文化至上主義がいまだに残っています。

たとえば開会式の入場行進は、毎回ギリシャ選手団が先頭です。
近代オリンピック大会の最初のうちは、参加国はヨーロッパばかりなので、それでよかったかもしれませんが、今ではオリンピック大会は完全に世界規模になりました。
世界規模の大会でギリシャが先頭だと、古代ギリシャに発するヨーロッパ文化は特別だという意味になります。
日本はヨーロッパ文化至上主義に反対し、各国を平等に扱うように要求するべきです。
また、聖火の採火式もギリシャのオリンピア遺跡で行われますが、東京大会ならば、富士山頂とか高天原で行うようにするべきです。


ともかく、オリンピックはヨーロッパ文化と深く結びついており、欧米コンプレックスの日本人はIOCとつきあうときにどうしても気後れを感じてしまいます。
だからといって、森氏の「厚顔」に頼るのは、みっともないことこの上ありません。

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東京五輪組織委員会の森喜朗会長が辞任するまでのドタバタ劇によって、日本の“不都合な真実”が世界に発信されてしまいました。
森氏が性差別発言をしても居座ったことで日本が性差別に許容的なことがバレましたし、辞任するときに83歳の森氏が84歳の川淵三郎氏を後継指名したことで日本が老人支配の国であることもバレました。

「老害」という言葉がありますが、これは「老人=害」と理解される恐れがあります。問題は社会のあり方なので、「老人支配社会」や「老人優位社会」という言葉が適切です(「老人支配社会」の害を「老害」と表現するのはありです)。

日本は「男性支配社会」かつ「老人支配社会」です。
男性の老人がのさばって、女性や若者の活躍を妨げて、そのため社会全体の活力が失われています。

こうした社会を変えるにはマスメディアの役割が重要ですが、日本はマスメディアも男性支配と老人支配を追認しています。
このことも今回のドタバタ劇で浮かび上がりました。


森氏が「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」という性差別発言をしたのが2月3日で、その翌日には記者会見を開いて、発言を撤回して、反省とお詫びを表明しました。
素早い対応で、常識的にはこれで問題は沈静化するはずでした。
ところが、この謝罪会見がむしろ逆効果になりました。

森氏は紙を読みながら反省とお詫びを表明しました。
そのあと質疑応答になりましたが、このときの森会長の態度が最悪でした。
これは実際の映像を見ないとわかりません。



これは「逆ギレ会見」と言われますが、キレる以前から記者を見下したような傲慢な態度です。謝罪する人間の態度ではありません。
最初の記者に対して「僕はね、マスクをされてると、どうも言葉がよくとれないんだよ」と不満を示しますが、あとのほうでは「ちょっと悪い。(マスクを)取ってくれ。聞こえないんだよ」とマスクを取ることを要求します。
密な会場ですから、普通だとこれだけで炎上して当然です。

森氏がこのような傲慢な態度を取るのは、普段から森氏と記者の関係がこういうものなのかなと想像してしまいます。
麻生太郎財務相が記者をバカにしたようなしゃべり方をする映像がときどきニュース番組で流れますが、あれと同じです。
菅義偉首相が官房長官時代、東京新聞の望月衣塑子記者とやり合っていたことも連想します。
現在の菅首相の記者会見も、記者の質問はすべて事前通告されたもので、菅首相は答えを読むだけです(最後の質問だけ事前通告なしのことがあるようです)。
第二次安倍政権以来、権力によって記者会見がほとんどコントロールされています。

この会見も、森氏の傲慢な態度に威圧されていた記者が多かったような気がしますが、「組織委員会の会長であるのは適任なのか」と骨のある質問をする記者がいて、森氏の「おもしろおかしくしたいから聞いているんだろ」という発言を引き出して、「逆ギレ会見」とされました。


ともかく、この会見の冒頭において、森氏が問題発言の撤回と、反省とお詫びを表明したのは事実です。
その部分に注目する人は、この問題は終わったとして、森氏を擁護しました。
しかし、後半の質疑応答を見た人は、森氏はぜんぜん反省していないとして、森氏を批判しました。
このことで議論が混乱したということがありそうです。


2月12日、東京五輪組織委員会の理事会と評議員会の合同懇談会の冒頭で森氏は会長を辞任することを表明し、15分ほどしゃべりましたが、ここでも差別発言についての反省はうかがえませんでした。
懇談会後の記者会見は武藤敏郎事務総長が行い、森氏は出てきませんでした。もし出てきて質疑応答をしていたら、また問題発言を連発したでしょう。


一部に骨のある記者はいますが、マスメディアは森氏の差別発言を本気で追及しようとはしません。
たとえば「森喜朗 発言」でグーグル検索すると、上位にずらりと出てくるのは「女性蔑視発言」とするものばかりです。「女性蔑視ともとれる発言」というのもあります。「問題発言」「不適切発言」もありますが、「女性差別発言」とするのはほとんど執筆者の名前のある記事です。
つまりマスメディアは、森氏の発言を「女性差別発言」とはしていないのです。

五輪憲章では「男女平等の原則の完全実施」が掲げられ、IOCは9日の公式声明で森氏の発言を「完全に不適切」としました。
ただ、森氏の発言を「女性差別発言」とはしていないともいえます。
つまりマスメディアは、なにかの公的な権威の裏付けがないと、森氏の発言を「女性差別発言」とする勇気はないのです。

マスメディアがこういう態度なので、森氏の辞任が遅れ、最後はドタバタ劇になりました。

新聞社、テレビ局の上層部に女性はごく少数で、もちろんみな高齢です。
日本社会の男性支配と老人支配の構造をささえているのはマスメディアだともいえます。

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