村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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安倍晋三氏が政権から遠ざかって世の中が落ち着いてきたと思ったら、代わりに維新の会がのさばってきました。
もっとも、維新の会をのさばらせたのは立憲民主党です。
いったいどちらの罪が大きいのでしょうか。


きっかけは菅直人元首相が1月21日、橋下徹氏に関して述べたツイートです。

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これに対して橋下氏は、「弁舌の巧みさはお褒めの言葉と受け取っておく」としたあと、「ヒトラーへ重ね合わす批判は国際的には御法度」として菅元首相を批判しました。

これを受けて、日本維新の会の副代表である吉村洋文大阪府知事も「とんでもない発言」「国際法上あり得ない。どういう人権感覚をお持ちなのか」と菅元首相を批判。

日本維新の会の藤田文武幹事長は26日午前、立憲民主党本部を訪れて抗議文を手渡し、菅元首相の投稿の撤回と謝罪を要求しました。

さらに、産経新聞の「<独自>維新の抗議文判明 菅直人元首相のヒトラー投稿」という記事によると、『維新幹部は産経新聞の取材に「立民が逃げ回るならば党本部に乗り込む。維新を怒らせたらどうなるか徹底的に思い知らせる」と語った』ということです。


橋下氏の「ヒトラーへ重ね合わす批判は国際的には御法度」という主張はまったくでたらめです。
国際的にご法度なのは、ヒトラーを賛美したり肯定したりすることです。ヒトラーを批判したり、ヒトラーもどきの政治家を批判したりするのがご法度なわけがありません。
ちなみに2013年に麻生太郎副総理が「憲法はある日気づいたらワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね」と発言しましたが、これはナチスを肯定しているので、まさに国際的にご法度の発言です。

橋下氏がヒトラーに重ね合わせて批判されたとき、「私はヒトラーとはまったく違う。いっしょにするな」と言って反論するのはありです。
ところが、橋下氏は「ヒトラーを重ね合わせた個人批判は一律禁止」だと主張しました。
こんな主張が通ったら、ヒトラーと同じような政治家が出てきたとき、「彼はヒトラーみたいだ」と言って批判するのも禁止されることになります。
橋下氏の主張は、日本でヒトラーのような政治家が登場する地ならしをしているようなものです。

したがって、菅元首相や立憲民主党はきちんと反論し、こんな主張はつぶさなければなりません。


菅元首相は投稿の撤回と謝罪は拒否し、ツイッターで維新批判を繰り広げていますが、ヒトラー問題ではこれという反論はしていないようです。
立憲民主党の泉健太代表はインターネットテレビの番組に出演した際、ヒトラーを持ち出して個人を批判することについて、「警鐘を鳴らすということはあり得る」「一律だめとはならない」と述べましたが、いかにも弱い表現です。
「橋下氏の主張は間違っている。撤回するべきだ」ぐらい言わなければなりません。


今回の橋下・維新側と菅・立民側のやり取りを見ていると、圧倒的に橋下・維新側が攻めて、菅・立民側は防戦一方という感じです。

維新のやり方は、ヤクザかヤンキーが大声で相手を恫喝するみたいなもので、立民側は相手の大声にびびって、言うべきことが言えなくなっているようです。
テレビのコメンテーターなども、維新の大声にびびるのか、橋下氏の「ヒトラーを重ね合わせた個人批判は一律禁止」を肯定するようなコメントをしています。


日本の劣化とも見えますが、もともと政治とはこういうものです。
政治は言葉を武器にした戦いです。

インターネットの登場で、その戦い方が変わりました。
掲示板やSNSで短い言葉のやり取りで議論するので、大きな思想や理念を戦わせるのではなく、その場その場で相手を論破するというやり方になりました。
このやり方が巧みだったのがトランプ前大統領です。政敵を罵倒する能力だけでアメリカ大統領にまでのぼり詰めました。
日本では、ネトウヨという言葉があるように、左翼よりも右翼のほうがインターネットでの議論に熱心で、その分議論もたくみです。

維新は喧嘩慣れしたヤンキーみたいです。論理はむちゃくちゃですが、相手を威圧しています。

立憲民主党の人たちの議論の下手さはあきれるばかりです。
しかし、同じリベラルでも、れいわ新選組は議論がひじょうにたくみです。
この違いは、インターネットでの議論に慣れているかどうかの違いでしょう。

最近「論破王」の異名をとるひろゆき(西村博之)氏は、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の創始者ですから、おそらく最初のころから2ちゃんねるに書き込んで議論していたのでしょう。その圧倒的経験で論破王になりました。


実は私も2ちゃんねるによく書き込んでいた時期があります。
私は自分の思想の「道徳観のコペルニクス的転回」を世に問うとき、反対する人もいるだろうから、論争の技術を磨き、誹謗中傷されることにも慣れておこうと思ったのです。
いちばん激しく論争するのは右翼対左翼ですから、右翼対左翼の論争が常時行われていて、あまり大規模でない「板」を選んで、私が左翼に加勢することで論調を転換できるか試してみました。
2004年にイラク日本人人質事件があり、人質たちの「自作自演」だという書き込みがあふれた2ちゃんねるが世の中から注目されました。そのころから数年間、わりと熱心に書き込んでいました。

今回、その「板」をちょっとのぞいてみると、ものすごく劣化していて、まともな議論が行われている雰囲気はありません。昔はもうちょっと人間的なやりとりもありました。今では「2ちゃんねるによく書き込んでいた」などと言うと、恥ずかしいだけかもしれません。

最初は「名無し」で書き込んで議論し、やがて慣れてきて「コテハン(固定ハンドルネーム)」を使って積極的に論戦を挑むようになると、百戦百勝しました。
その中で培った論戦のノウハウを紹介しましょう。


大きなテーマを選ばない
議論に勝ちたいなら、大きなテーマを選んではいけません。これは当たり前のことです。性善説か性悪説かみたいなことはいくら議論しても決着しません。小さなテーマ、狭い分野、具体的なことほど逃げ道がないので、相手を追い詰めることができます。

攻撃する。守る立場にならない。
「攻撃は最大の防御」というのは論戦でも同じです。このことはわかっていても、人はつい自分の主張したいことを主張してしまいます。そうすると、「考えが甘い」とか「こういう場合はどうするのか」と攻撃されて、守りの立場になってしまいます。守りの立場である限り、勝利はありません。「差別はよくない」と言うのではなく、「それはヘイトスピーチだ」とか「人を傷つけて平気なのか」というように攻撃します。

特定の個人を攻撃する
いくら正しいことを主張しても論破したことにはなりません。論破するというのは、特定個人に間違いを認めさせることです。実際には間違いを認める相手はほとんどいなくて、沈黙するだけです。そのとき「あいつは逃亡した」と言って、反論がないことを確かめてから、勝利宣言します。これが実際の論破ということです。
多数から攻撃されて守りの立場になったときも、攻撃してくる人間を見極めて、いちばん勢いのある個人を名指しして(匿名でもIDを指定します)、その個人を攻撃します。
健全な常識からすると個人攻撃はよくないとされますが、間違った考えをする連中の代表を言い負かせば世の中はよくなると考えればいいのです。

論理の矛盾または主張の根拠を追及する
攻撃するときは焦点を絞らないといけません。相手の主張に矛盾があるというのはいちばん攻撃しやすい標的です。それから、相手の主張のソース(情報源)を問い、根拠のない主張であったり、あやしい根拠の主張である場合は、その主張を否定します。
この目標設定が正しければ、論争は必ず勝てます。つまり論争というのは、始まった瞬間に勝敗が決まっているのです。
議論しているうちに、自分の主張したいよけいなことを言ったり、相手に挑発されてよけいなことを言ったりして、議論が目標からそれていくこともしばしばありますが、そのつど最初の目標を思い出して軌道修正します。ボクシングで相手をコーナーに追い詰める感覚です。

相手の言いすぎを追及する
議論していると、相手が言いすぎて、間違った主張をすることがあります。そういうときは、目標を変更して、そちらを追及するのもありです。
自分も言いすぎることがありますが、そういうときはすぐに修正します。そうすれば問題はありません。ところが、たいていの人は言いすぎを正当化しようとしてドツボにはまります。

論争に慣れる
最初のうちは、相手から攻撃されると、冷静さを失って、思考力が働かなくなります。また、相手を強く攻撃すると、想定外のカウンターパンチを食らうのではないかと不安になって、なかなか強く攻撃できません。しかし、論争に慣れれば、冷静に思考できるようになります。勝てそうだと思うときだけ論争を挑めば、百戦百勝できます。


このような議論は、思想の戦いではなく、論理力の戦いです。
正しいほうが勝つのではなく、論理力の強いほうが勝つのです。
裁判所が支払いを命じた賠償金を平気で踏み倒すひろゆき氏が論破王になっているのを見てもわかります。
釈然としない人のためには「正しき者は強くあれ」という言葉を贈っておきます。



このような私の経験から菅元首相と橋下氏の論争を見ると、橋下氏はさすがに論争の仕掛けがうまいなと思います。

発端となった菅氏のツイートを見ると、橋下氏のことも維新のこともまったく批判していません。それでいて「ヒットラー」という言葉が出てきます。論理が矛盾しているといえます。橋下氏はそこを突きました。

菅氏としては、このツイートを正当化するのは容易ではありません。「橋下氏はヒトラーのようだから言ったのだ」と主張しようとしても、橋下氏の過去の言動にヒトラー的なものはそれほどありませんし、現在は政治家でもありません。維新の会には優生思想的な発言をする議員や候補者が何人もいましたから「維新の会はナチス的だ」という主張はできなくもありませんが、維新の会と橋下氏は別です。
ですから、「弁舌の巧みさがヒトラーを思い起こすと言っただけで、それ以上の意味はない」と弁解するか、「ヒトラーという言葉を使ったのは適切ではなかった」と謝るぐらいでしょう。
不利な状況では戦わないこともたいせつです。

ところが、橋下氏は「ヒトラーを重ね合わせた個人批判は一律禁止」だと主張しました。調子に乗って言いすぎたのです。
ここは反転攻勢に出て、「じゃあヒトラーみたいな政治家が出てきても、『彼はヒトラーみたいだ』と言って批判してはいけないのか」と言って、発言撤回に追い込みたいところです。

また、テレビコメンテーターとして活躍する橋下氏は日本維新の会とは無関係ということになっています(大阪維新の会の法律顧問という肩書はありますが)。
ところが、橋下氏が侮辱されたとして日本維新の会は立憲民主党に抗議文を提出しました。
橋下氏が「政党間のバトルは私人として関知しないので好きなようにやってくれたらいいが、俺を巻き込まんでくれ」とツイートすると、日本維新の会の足立康史議員は「私の衆院予算委で使ったパネルでは、意識して橋下氏の名前を消しましたが、抗議文では消し忘れました。失礼しました。橋下氏はマスコミ人。有権者が維新と重ね合わせて見ないよう、私たちも改めて注意しなければなりません」とツイートしました。
抗議文の提出者は馬場伸幸共同代表となっていますが、文章を書いたのは足立康史議員だったようです。

「抗議文では名前を消し忘れた」とはひどい話です。立憲民主党は「書き直して再提出してください」と要求するべきです。
しかし、書き直すことができるでしょうか。抗議の出発点は橋下氏がヒトラーにたとえられたということにあるからです。
ちなみに抗議文の全文はこうなっています。

令和4年1月26日
立憲民主党
代表 泉 健太 様
日本維新の会
共同代表 馬場 伸幸

抗議文

さる1月21日、貴党の菅直人最高顧問が自身のツイッターに、わが党に関して、創設者の橋下徹元大阪府知事の名を挙げ「弁舌は極めて歯切れが良く、直接話を聞くと非常に魅力的」「主張は別として弁舌の巧みさでは第1次大戦後の混乱するドイツで政権を取った当時のヒットラーを思い起こす」などと投稿した。

世界を第二次世界大戦に巻き込み、ユダヤ人虐殺など非道の限りを尽くしたナチスドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーを、民間人の橋下氏および公党たる日本維新の会を重ね合わせた発言であり、看過できない。いったい、どのような人権感覚を持っているのか。怒りを覚えるとともに、断固抗議する。

菅氏の投稿は、言うまでもなく、まったく事実に基づかない妄言であり、誹謗中傷を超えた侮辱と断じざるを得ない。
国会議員としてはもとより、人として到底許されるものではない。

ましてや菅氏は民主党政権下で内閣総理大臣を務め、なおも野党第一党の重責を担う大幹部である。
その発言の重大性を真摯に受け止めるべきであり、これを放置するのであれば貴党の責任も問われると考える。

貴党ならびに菅氏に対し、今月末日までに当該投稿(発言)を撤回し、謝罪するよう強く求める。
以上
https://torachannel.work/archives/13149341.html

「維新の会と橋下氏は無関係」としながら、「橋下氏が侮辱されたので維新の会が抗議する」というのは明らかに矛盾ですから、ここはいくらでも追及できます。
「この抗議文を出すことを橋下氏は了解しているのか」とか「この抗議文に対する回答は橋下氏に知らせるのか」と具体的に質問するのがコツです。
「人権」という言葉も出てきます。「誰の人権ですか」と聞きたいところです。「橋下氏の人権です」と答えるはずです。「維新の会のメンバーの人権です」などとごまかせば、「具体的に誰ですか」とさらに質問します。

「発言を撤回しろ」という要求もあります。
もしかすると菅氏の発言は橋下氏への名誉棄損になるかもしれませんが、それは橋下氏が対処するべき問題で、維新が口出しすることではありません。
「この抗議文は、理由なく発言を撤回するよう求めている。これは言論の自由の否定だ」と言って、抗議文の撤回と謝罪を要求することができます。
維新の会が要求に応じなくても、ネチネチと追及すれば自然と優位に立てます。


こういう低レベルの争いをしていていいのかと思われるでしょう。
確かにその通りです。
根本的な原理の転換をしなければなりませんが、それについては「すべての思想を解体する究極の思想」を参照してください。

橋下徹
橋下徹公式ウェブサイトより

大阪都構想が住民投票で否定されて、「都構想は一丁目一番地」としてきた維新の会の存在意義はほとんどなくなりました。
ツイッターでは「#維新はいらない」が一時トレンド入りしました。

そもそも「都構想は一丁目一番地」というのがおかしな話です。
都構想は行政をよくする手段のひとつでしかないはずです。
維新の会とはどういう存在でしょうか。

維新の会(現在は大阪維新の会と日本維新の会)は大阪府知事だった橋下徹氏と自民党を離党した府議らが結成したもので、実質的に橋下氏の個人政党でした。つまり理念でできた政党ではなく、橋下氏の個人的人気でできた政党です。
橋下氏は現在も維新の会の顧問であり、メディアではつねに維新の応援をしています。
ですから、橋下氏の思想が維新の会の理念だと言っていいぐらいです。

では、橋下氏の思想とはなんでしょうか。

橋下氏はもともと「茶髪の弁護士」としてテレビに出てきました。当時は法律家といえば四角四面の人ばかりというイメージなので、大いに目立ちました。
そのころは政治家になるような感じはまったくありませんでしたが、人間であれば必ずなんらかの政治的な思想はあります。
その思想のもっとも根底的な部分が次の記事からうかがえます。

橋下徹氏、選挙制度で持論披露「産まれた子供たちにも一票を与えて、親が行使」
 元大阪府知事の橋下徹氏(51)が2日、TBS系「グッとラック!」(月~金曜・前8時)にリモートで生出演。大阪市を廃止して4特別区を新設する「大阪都構想」の賛否を問う住民投票が1日に投開票され、反対票が賛成票を上回り、2015年5月の実施に続いて否決されたことに言及した。

 橋下氏は現状の選挙制度について「投票率も高齢者の方が高いので、今の選挙制度では高齢者の方に目を向けるようになってしまいます」とどうしても高齢者を重視したものになってしまうと指摘。

 その上で「僕の持論は、産まれてからの子供たちにも一票を与える。その子供たちが選挙権が行使できないので、親が行使する」と持論を披露。「これを言うと僕は7人子供がいるから、自分の家庭のことを考えて言っているだろと言われてしまうんだけど。僕は産まれた子供たちにも一票を与えて、親が行使するということをしないと、未来に向けた政治が出来ないと思っています。ただ、政治家はやらないですよ。高齢者から票をしっかり集める政治家はやらないでしょうね」と実現は極めて難しいと推察。

 また、電子投票についても「これをやると若い人がちが簡単に投票をしてしまう。高齢者を支持層としている政治家がたくさんいるので、若い人たちが簡単に投票することを嫌がる国会議員は多いですね。子供に一票を与えて親が行使する、僕が言っているこんな話を永田町に言ったって、全然動いてくれないでしょうね」と見解を語った。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d8b6e1fda771dba9bce301f51b5ea0c797fe0462

実は私も、選挙権の年齢制限を撤廃し、子どもには生まれたときから選挙権を与えるべきだという考えです。
3歳ぐらいではさすがにむりでしょうが、小学生ぐらいになれば政治に興味を持って、自分も投票したいという子どもが出てきますし、政党も子どもや若者にアピールする政策を打ち出すようになり、政治が未来志向になります。

橋下氏も私と同じ考えかと思ったら、ぜんぜん違いました。
橋下氏は「子どもの人権」も「子どもの意志」もまったく無視しています。
子どもを親の所有物だと思っているのです。
親が子どもの代わりに投票したら、子どものための政治ではなく、親世代のための政治になってしまいます。

それから、橋下氏はまったく触れていませんが、子どもの選挙権を行使するのは父親か母親かという問題があります。
子どもの数が偶数なら分け合えても、奇数ならそうはいきません。
橋下氏がこのことに触れないのは、子どもの選挙権は自分(父親)のものと思っているからでしょう。
「子どもの意志」を無視するだけでなく「妻の意志」も無視しているのです。

選挙権年齢が今の18歳のままであれば、親は50歳ごろまで一人で2票とか3票の投票ができることになります。そうすると中年世代の投票数が大幅に増えて、高齢者と18歳以下の若者の意志が相対的に政治に反映されなくなります。
橋下氏の「生まれたときから選挙権」説は、一見子どもや若者のためのようですが、実際は親世代のためのものです。

都構想も、維新の会は若い世代のためになると言っていますが、実際は維新の会のためのものかもしれません。


橋下氏が若い世代のことを考えないのは昔からです。

橋下氏はもともと体罰肯定論者で、2012年に大阪市立桜宮高校のバスケットボール部のキャプテンが顧問教師から体罰を受けて自殺した事件が大きく騒がれたときも、最初のうちは体罰肯定の立場でしたが、世の中の空気を読んで途中から体罰反対に転換しました。
しかし、家庭内では体罰を続けていたようです。
今年1月の記事でこのように語っています。

橋下徹氏 以前は「バリバリ体罰の親」だったが…改正児童虐待防止法で難しさ語る
 元大阪市長で弁護士の橋下徹氏が4日に放送されたカンテレ「モモコのOH!ソレ!み~よ!」にゲスト出演し、子育ての難しさについて語った。

 メインMCのハイヒール・モモコに「子供には厳しく怒ったりする?」と尋ねられた橋下氏は「下2人まではかなり厳しくやった。手を上げてたし。今ちょうど、児童虐待の法律を変えて、体罰のガイドラインを変えたんです。親であっても体罰的な指導はダメだというガイドラインができた」と、改正児童虐待防止法に関連し、厚労相が昨年12月に公表した虐待に該当する指針に触れた。
 橋下氏は自身のしつけを振り返り「全部それに当てはまる。バリバリ、体罰の親」と自認。モモコが「あれは確かに厳しいですが、それ以上のことをやってしまう親もいるのが事実」と意見を挙げた。橋下氏は「上の子は、親バカですが、まあ外に出してもちゃんとやってくれそうな感じ。下の2人は自由すぎる。だけど人に迷惑をかけない程度だが、あの程度でもいいのかなと。そこまで手を上げて押さえ込んでやらなくていいのかなと正直、思いますね」と、悩みながらしつけ方法を模索していることを語った。
(後略)
https://www.daily.co.jp/gossip/2020/01/04/0013008505.shtml

これを読めば、いかにひどい親かわかります。
親の体罰は子どもの脳の萎縮・変形を招くので、まったく正当化できません。


橋下氏のこのような強権的で暴力的なやり方が維新の会の体質をつくっています。
松井一郎大阪市長、吉村洋文大阪府知事の強権的なふるまい、尊大な態度は橋下氏譲りです。
都構想の住民投票にしても、賛成するのが当たり前というような、上から目線のところが維新の会にはあったのではないでしょうか。


橋下氏は、元農水省事務次官の熊沢英昭被告が長男を殺害した事件について、「僕が熊沢氏と同じ立場だったら、同じ選択をしたかもしれない」「僕は熊沢氏を責められない」などと殺人を肯定するかのようなツイートをしたので、私は『橋下徹氏の「予防殺人」論について』という記事を書いて批判したことがあります。


体罰や殺人を肯定する橋下氏がテレビに出続けているのは信じがたいことですし、維新の会には橋下氏の思想や体質が今も染み付いているように思えます。

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大阪都構想の賛否を問う住民投票は、反対多数で否決されました。

私は京都出身ですが、東京在住が長いので、都構想については詳しくありません。しかし、外から見てろくなものではないだろうと見当はつきます。都構想がそんなにすばらしいものなら、京都府や愛知県や神奈川県でも同様の議論が起きてもいいはずだからです。

敗北が決まってからの維新関係者のコメントを聞いても、そのことがわかります。
松井一郎大阪市長は、任期満了後の政界引退を表明するとともに、「これだけ大きな問題提起ができたことは政治家冥利に尽きる」「やることをやった。全く後悔はないしこれ以上できない。心が晴れている気持ちだ」などと語りました。
吉村洋文大阪府知事は「大阪都構想は間違っていたのだろう。僕は政治家を続ける中で、都構想に挑戦することはもうないと思う。本当にやりきったという思いだ」と語りました。

いさぎよく敗北を受け入れるのはいいのですが、コメントがあまりにも自己中心的です。
「二重行政のむだ」を訴えてきたのですから、「これからも二重行政のむだが続いていくと思うと残念だ」ぐらいのことは言うべきです。
言わないのは、やはり「大阪都構想は間違っていたのだろう」ということなのでしょう。

松井市長が政界引退を表明したのも不可解です(吉村知事も引退をほのめかすようなことを言いました)。
大阪をよくするために政治家になったのなら、都構想はだめになっても、大阪に尽くすことはできます。
政界は自分を目立たせるための舞台だったのでしょうか。


国政というのは、外交安保、憲法改正など大きな問題を扱い、右翼と左翼、保守とリベラルなど大きな対立がありますが、地方政治は、税金を正しく使って住民サービスを向上させることが中心で、地味なものです。

「大阪維新の会」は地域政党ですから、そういう地道なことをするのが本来の姿です。
ところが、松井市長や吉村知事、橋下徹氏などは目立ちたがりで、大きなことをやろうとします。
都構想というのは、地方政治でできるいちばん大きなことかもしれません。
要するに大風呂敷を広げることが目的で、風呂敷の中身は最初からどうでもよかったのです。

かつて「道州制」というのがかなり議論されたことがありましたが、今はすっかり忘れられています。それと同じで、要するに地方政治で「やってる感」を出すためのアイテムです。


また、松井市長や吉村知事、橋下徹氏らは、いかにも大阪らしい人ですが、どうも“大阪愛”が感じられません。
たとえば「都構想」というのは、東京コンプレックスからくる発想ではないでしょうか。
京都人なら都構想なんていうことは絶対に考えません。

大阪の地域政党なら、大阪らしさを追求して、大阪人が誇りを持てる大坂をつくるべきですが、これまでの大阪維新がやってきたことは、統合型リゾート(IR)誘致とか万博誘致とかで国から金を引っ張ってくることです。これなら与党である自民党と変わりません。


もともと大阪人は東京に対抗意識を持っていました。
東京が政治の中心地なら、大阪は経済の中心地だというような意識です。
「王将」にうたわれる坂田三吉が大阪人に愛されるのは、実力名人を名乗って東京の将棋界に対抗したからでもあります。
1970年の大阪万博を中心になって企画した小松左京も大阪を強く意識していた作家で、「物体O」という短編は、ある超常現象で関西が隔離され、大阪を首都とする国を関西に築いていくという物語ですし、長編の「日本アパッチ族」は、再び全体主義化した戦後日本において、大阪の屑鉄泥棒たちが鉄を食う“食鉄人種”に変身して国に対抗するという物語です。

そういう東京への対抗意識が大阪を元気にするのではないかと思うのですが、都構想は大阪をミニ東京にしようというものですから、それと真逆です。
それに、松井市長らは安倍首相や菅首相とのつながりを利用してきました。これでは地域政党の意味がありません。

意味がない政党なので、松井市長にしても簡単に引退できるのでしょう。



ただ、松井市長は政界引退を表明しましたが、これはほんとうかという問題があります。
松井市長は現在56歳です。2年半後の任期満了ののち、おとなしく消え去るとは思えません。
橋下氏は府知事選出馬について「2万%ない」と言いながら出馬しましたし、府知事を辞めたあと「政治家はやりません」と言いながら、政治家と変わらない動きをしています。
そして、橋下氏の引退とともに都構想も終わったはずなのに、5年後にまた住民投票になりました。

そもそも政治的信念がなく、自分が目立ちたい人たちなので、なにか目立つことをやってくるのは確実です。
森嬉朗元首相が政界引退後も東京オリンピックを牛耳る立場になっているので、松井市長は大阪万博を牛耳る立場になるのでしょうか。


住民投票のためにコストもエネルギーも費やされました。
信念のない政治家は困ったものです。

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法律の世界に「予防拘禁」という言葉があります。犯罪をしそうな人間をあらかじめ拘禁するというものです。
もろんあってはならないことで、日本では戦前の治安維持法のもとで一時的にあっただけです。

元農水省事務次官の熊沢英昭容疑者が長男を殺害した事件で、熊沢容疑者は「川崎市で小学校児童など20人が死傷した事件が頭に浮かんだ。自分の息子が第三者に危害を加えるかもしれないと思った」と殺害理由を供述しました。
殺人事件を防ぐために殺人をしたという、いわば「予防殺人」の論理です。

もちろん自分の殺人を正当化するために言っているだけです。
ある人間が将来殺人事件を起こすかどうかは神でなければわからないことで、「予防殺人」など認められるわけがありません。

ところが、テレビのコメンテーターなどでこの論理に共感を示す人が少なくありません。
その筆頭が橋下徹氏です。弁護士でもある橋下氏はいったいどういう理屈で「予防殺人」を正当化しているのでしょうか。


橋下徹氏、長男殺害容疑の元農水次官に「同じ選択をしたかも」「責められない」
 前大阪市長の橋下徹氏(49)が3日、自身のツイッターを更新。元農林水産事務次官の熊沢英昭容疑者(76)が東京・練馬区の自宅で長男(44)を殺害したとされる事件に私見をつづった。

 橋下氏は、熊沢容疑者が川崎の20人殺傷事件を踏まえて「長男も人に危害を加えるかもしれないと思った」などと供述したとする報道に関し「何の罪もない子供の命を奪い身勝手に自殺した川崎殺傷事件の犯人に、生きるための支援が必要だったと主張する者が多いが、それよりももっと支援が必要なのはこの親御さんのような人だ。自分の子供を殺めるのにどれだけ苦悩しただろうか」とツイート。

 さらに「自分の子供が他人様の子供を殺める危険があると察知し、それを止めることがどうしてもできないと分かったときに、親としてどうすべきか?今の日本の刑法では危険性だけで処罰などはできない。自殺で悩む人へのサポート体制はたくさんあるが、このような親へのサポート体制は皆無」とした。

 続けて「他人様の子供を犠牲にすることは絶対にあってはならない。何の支援体制もないまま、僕が熊沢氏と同じ立場だったら、同じ選択をしたかもしれない。本当に熊沢氏の息子に他人様の子供を殺める危険性があったのであれば、刑に服するのは当然としても、僕は熊沢氏を責められない」とつづっていた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190603-00000107-sph-soci

「もっと支援が必要なのはこの親御さんのような人だ」と支援の必要性を訴え、現状では「このような親へのサポート体制は皆無」と言っています。
しかし、引きこもりをかかえる親や家庭内暴力に悩む親へのサポート体制は、十分とはいえなくても、ちゃんとあります。
では、橋下氏はどんなサポート体制が皆無だというのでしょうか。
それは、「自分の子供が他人様の子供を殺める危険があると察知し」て悩む親へのサポート体制のことです。
そんなサポート体制があるわけありません。
そういう人がいるとすれば、必要なのは妄想性の精神病へのサポートです。
橋下氏は、「予防殺人」を正当化するために、「サポート体制の不備」という問題をでっちあげているだけです。


「他人様の子供を犠牲にすることは絶対にあってはならない」というのが橋下氏のもっとも強く主張することのようです。
しかし、「他人様の子ども」を犠牲にしないために「自分の子ども」を犠牲にするというのは、ありえない理屈です。

人の命に軽重をつけるのは安易にやってはいけないことですが、はっきりとやれる場合もあります。それは「自分の子ども」の命にかかわる場合です。
たとえば、暴走車が突っ込んできて、自分の子どもか他人の子どもかどちらかしか救えないというとき、誰でも自分の子どもを救うに決まっています。
自分にとっていちばんだいじなのは自分の子どもの命です。これは自分の遺伝子を残したいという生物のもっとも基本的な本能です。

ところが、橋下氏は他人の子どもを救うためなら自分の子どもを殺すべきだという考えなのです。
自分の子どもの命をたいせつにしない人間が他人の命をたいせつにするわけがありません。
私は橋下氏のこの主張を聞いただけで、橋下氏のすべての主張が信じられなくなります。

橋下氏はどうしてこういう考え方をするのでしょうか。
軍国主義の時代には、自分の子どもの命を国家に捧げることが称揚されました。そうした価値観の影響を受けていることが考えられます。
それから、自分の体面ばかり考えている人間、つまり外づらのいい人間は、自分の家族をないがしろにします。それが極限までいってしまったのでしょう。

ちなみに熊沢容疑者も外づらのいい人間でした。長男が家庭内暴力をするようになっても、そのことを隠し続けました。外部に助けを求めていれば、まったく違っていたでしょう。

橋下氏には7人の子どもがいます。どういう父親であるかというと、プレジデントオンラインの「橋下徹通信」で「僕は子育てを妻に任せっきりにしてきた。今の風潮からすれば、完全に父親失格である」と書いて、さらにこう書いています。

うちの子供たちだって今後、他人様を傷つけることがあるかもしれない。子育てには常にそのようなリスクが付きまとう。だからこそ、「他人様を絶対に犠牲にしちゃいけない。それはたとえ自分が死を決意したときでも」と、僕はうちの子供たちに言い続けていく。
https://president.jp/articles/-/28837?page=4

自分の子どもが人を殺すかもしれないと思っているのです。
熊沢容疑者と同じです。
橋下氏が熊沢容疑者と同様に「予防殺人」を肯定するのも納得です。

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