村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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安倍首相は保守主義者ということになっています。
といっても、今は保守主義者だらけです。右翼は右翼を名乗るのがカッコ悪いので自分は保守主義者だといいますし、中島岳志北海道大学公共政策大学院准教授など、どう見ても左翼ではないかと思える人まで、保守主義者を名乗っています。
 
保守主義とはなにかというと、むずかしくいえばいくらでもむずかしくなりますが、いちばん単純にいうと、古い制度を守ろうとする思想です。
 
そうすると、古い制度とはなにかという問題が出てきます。
フランス革命のときは旧体制を守ろうとするのが保守主義で、社会主義思想が出てきたときは資本主義体制を守ろうとするのが保守主義です。
しかし、今の日本においては、いろいろな立場の保守主義があります。
それについて考えるのにいい手がかりが朝日新聞の「天声人語」にありました。
 
(天声人語)明治日本がどう見える?
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明治の初期のころの庶民はたいそう機嫌がよかったらしい。いつもにこにこして、晴れ晴れしかった。大森貝塚の発見で知られる米国の博物学者エドワード・モース(1838~1925)が『日本その日その日』に書き残している▼3回にわたり滞日した。日本は子どもたちの天国だと、モースは繰り返し強調する。大切に注意深く扱われ、多くの自由を与えられつつ、自由を乱用はしない。その笑顔からして、彼らは〈朝から晩まで幸福であるらしい〉とまで書く▼偏見に曇った眼鏡よりは共感に満ちたバラ色の眼鏡を。そう信じたモースの記述はくすぐったい感じもするが、失われた時代の貴重な証言だ。彼は膨大な収集品も残した。火鉢や箱枕から店の看板や大工道具まで、暮らしの中の身近な品々である▼それらが里帰りしている。両国の江戸東京博物館で開かれている「明治のこころ」展である。品物だけではない。当時の日本の姿をいきいきと捉えたスケッチやガラス原板写真も数多い。いまだ文明開化の波の及ばぬ市井の日常がよみがえる▼赤ん坊をおぶった子らがにらめっこをする一枚に頬が緩む。障子紙をぼろぼろにしたイタズラ小僧たちも笑いを誘う。小林淳一(じゅんいち)副館長に聞くと、やはり子どもをめぐる展示に力を入れたという。いじめや虐待が絶えない今の世相が念頭にあった▼明治日本がただの異空間と映るか、それとも懐かしさやつながりを感じるか。見る側の機嫌のよしあしを占ってくれそうな試みである。
 
 
モースに限らず、幕末から明治初期に日本を訪れた欧米人は、とりわけ日本の子どもがたいせつにされていることに驚いたようです。また、子どもだけでなく、おとなの庶民も幸せだったようです。
 
こうしたことは次の本にも詳しく書かれています。
 
「逝きし世の面影」(渡辺京二著)平凡社ライブラリー
 
明治初期の庶民が幸せだったということは、明治維新以降、人々はどんどん不幸になっていったということになります。
明治維新以前の日本と明治維新以降の日本では、別の国といえるほどに違ってしまいました。
ですから、保守主義といっても、明治維新以前の日本に立脚するものと、明治維新以降の日本に立脚するものとではまったく違うことになります。
 
それから、明治維新以降の日本といっても、たとえば司馬遼太郎が「坂の上の雲」で描いたころの日本と、昭和の軍国主義化した日本とも大きく違ってしまいましたから、ここでも保守主義はふたつに分かれることになります。
 
安倍首相を初めとする多くの保守主義者は、軍国主義の日本に立脚しています。ですから、従軍慰安婦問題はなんとかなかったことにしたいし、侵略も言葉の定義が云々ということでごまかしてしまいたいわけです。

 
同じ保守主義者といっても、軍国主義日本に立脚している人と、軍国主義以前に立脚して、自由民権運動や大正デモクラシーなども視野に収めている人とではまったく違います。
 
そして、さらに違うのが明治維新以前の日本に立脚している人です。
「天声人語」にあるように、江戸時代の名残りのある明治初期の人々はいつも機嫌よくニコニコしていたようです。しかし、明治も中期以降になると、たとえば夏目漱石のように、みんな不機嫌になってしまいます。
となると、明治維新以前の日本に立脚するという立場があるのは当然です。むしろこれがほんとうの保守主義というべきでしょう。
 
しかし、そういう人はほとんどいないのが実情です。
多くの人は、明治時代の日本を伝統的な日本と思って、それ以前の日本を頭の中からまったく排除しています。
 
たとえば先日、アメリカのキャロライン・ケネディ駐日大使が信任状奉呈式のために馬車で皇居に入ったということがニュースになりました。馬車を使ったということが伝統的なやり方のように報道されましたが、明治以前の日本には馬車というものが存在しないので、あれは西洋式のやり方です。
日本の伝統的なやり方をするなら、牛車でやらないといけません。日本の皇室ないしは宮内庁は日本の伝統をないがしろにしています。
馬車に乗っているところなど外国のマスコミにとってはまったく珍しくありませんが、ケネディ大使が牛車に乗っているシーンなら、いかにも日本的だということで外国からも注目されたことでしょう。
 
これから日本が国際社会で存在感を持つためにも、日本人はなにが日本の伝統かということを正しく把握しないといけません。
 
それにしても、幕末から明治初期の日本人が機嫌がよくニコニコしていたということは、近代とか進歩というものについて根本的な見直しが必要になり、これを考えると否応なしに思想が深化していきます。
私などこれをつきつめて、文明の発祥のところまで行き着きました。
 
もっとも、「天声人語」は、「見る側の機嫌のよしあしを占ってくれそうな」ことと締めくくっています。「思想」ではなく「機嫌」の問題にしていることが巧みで、「天声人語」が万人受けするコツはこれかと思いました。
 

今年の8月15日は、韓国の国会議員が訪問しようとするなど、靖国神社周辺は例年以上に騒がしかったようです。
結局、安倍内閣としては、首相は靖国参拝をせず(私費で玉串料を奉納)、3閣僚が参拝しただけでした。
 
毎年繰り返される靖国参拝を巡る騒動ですが、考えてみると、8月15日というのは靖国神社にとってはなんの行事もない普通の日にすぎません。
ですから、この騒動は「靖国問題」ではなく「8月15日問題」と見なしたほうがいいのではないでしょうか。
つまり8月15日で終わったあの戦争をどうとらえるかについての対立がこの騒動を生んでいるのではないかと思うのです。
 
「勝敗は兵家の常」「勝敗は時の運」というのが戦争の勝敗についての昔からの一般的な考え方で、勝ったほうは領土や奴隷や賠償金を取っても、そこに善悪や正義はありません。ヨーロッパの騎士道や日本の武士道などはその典型です。しかし、アメリカ人は、自分たちは「神の国」「正義の国」という意識があって、戦争のとらえ方がまったく違います。第一次世界大戦の戦後処理にウィルソン大統領が戦争責任の概念を持ち込み、第二次世界大戦の戦後処理ではアメリカが主導してニュルンベルク裁判と東京裁判を行います。そして、日本では戦争指導者がA級戦犯として裁かれ、国の根幹をなす憲法も変えられます。
 
つまり勝者が敗者を犯罪者として裁くというのは、アメリカの特殊な考え方なのです。これは先住民の虐殺と黒人奴隷の労働の上に建国されたという特殊な事情からきているものと思われます。今もアメリカでは1年間に25人のうち1人が逮捕され、100人のうち1人が刑務所の中に入っていますし、ハリウッド映画にもアメリカ人の考え方が反映されています。
 
アメリカが世界史的にも特殊な裁く国であるということをとらえていないと、東京裁判の意味が見えてきません。
今回調べてみると、第一次大戦と第二次大戦は総力戦であったために戦争責任が問われるようになったという説が一般的なようですが、総力戦だから戦争責任が問われるという理屈は成り立たないと思います。
 
ちなみに中国は先の戦争において、アメリカとは対照的に“許す国”でした。蒋介石も毛沢東も賠償請求権を放棄しましたし、中国大陸の日本軍兵士は基本的に裁判にかけられることなく帰国できました。
中国人は昔から数限りなく戦争をしてきましたから、今は勝ったからといって敗者にきびしく当たると、敗者もいずれ国力を盛り返し、そのときに復讐されるということを学んでいるのです。
これは中国人に限らず人類に共通する“歴史の知恵”というべきものです。“歴史の知恵”がないアメリカ人が特殊なのです。
 
ともかく、日本は戦争に負けたために不当に犯罪国として裁かれ、それは当然日本人には屈辱ですから、国力が回復するとともに、この屈辱をすすぎたいという気持ちが生まれてくるはずです。
しかし、複雑な事情があって、必ずしもそうはなりませんでした。
 
すぐに冷戦が始まったために、右翼は反共を優先させて、必然的に親米になりました。
ですから、反米は左翼の専売特許になりました。しかし、その左翼も、戦時中は政府に弾圧されていましたから、政府の指導者を裁いてくれたということで東京裁判を歓迎しました。
 
右翼はアメリカに憲法を押しつけられたといいながら親米になり、左翼は反米でありながら東京裁判や平和憲法を歓迎するという複雑な図式になっています。
 
冷戦が終わっても、右翼は親米をやめません。惰性が続いているということもありますし、アメリカの日本支配がより巧妙になったということもあるでしょう。
左翼は反米である理由を失いました。
また、アメリカは世界で唯一のスーパーパワーになり、アメリカに反抗するのはますます困難になりました。
ということで、冷戦後はますます日本は親米国家、あるいは従米国家になっています。
 
そのため、日本人は東京裁判は不当だと思いながら、アメリカはけしからんということがいえません。「パール判事はすばらしい」とはいいますが、「パール判事以外の判事はけしからん」とはいいません。
また、「オスプレイ配備はけしからん」とはいいますが、「オスプレイ配備を強行するアメリカはけしからん」とはいいません。
ひじょうに屈折した心理状態にあるわけです。
 
そうした心理状態のはけ口になっているのが中国と韓国です。
日本人は中国と韓国にだけは強くいえます。アメリカにいえない分までいっているような状態です。
南京虐殺や慰安婦問題などは、本来は日本が文句をいえる筋合いではないのですが、中韓の言い分のアラ探しをして文句をいっています。
政治家が靖国参拝をするのは政教分離の点からも問題ですが、靖国参拝について中韓から文句をいわれると、それへの反発のために靖国参拝賛成の声が強くなります。
そうして毎年8月15日になると、日本と中韓の間で騒ぎが起こるというわけです。
 
問題は、アメリカに対して「勝者が敗者を裁いた東京裁判は不当だ」とか「欧米の植民地主義は不当だ」ということがいえない日本にあります。
これをいえずに、代償行為として中韓にいっていても、問題を混乱させるだけです。
 
先住民虐殺と奴隷制の上に建国されたアメリカこそ植民地主義を生み出した悪の帝国であり、アメリカにいかに反省させるかということが人類史における最大の課題です。
ところが、日本はそれに逆行したことをしています。オリバー・ストーン監督が日本に文句をつけるのもそのためです。
 
靖国問題は日本と中韓の間の問題ではなく、むしろ日本とアメリカの間の問題ととらえるべきです。
安倍首相が今年靖国参拝を行わなかったのは、もちろんアメリカの意向があったからです。アメリカにものがいえない国は、中韓にもものをいうことができないというのが現実です。

人類はあらゆる分野で進歩を遂げてきました。経済、科学技術、芸術、文化などですが、もうひとつ進歩してきたものがあります。それは「悪」です。
なぜ悪が進歩してきたかというと、善人と悪人が戦うと悪人が勝つからです。つまり生存競争において善人は淘汰され、悪人は生き残り、その結果、世の中は悪人ばかりがはびこることになりました。
 
善人と悪人が戦うと悪人が勝つというのは理解できるでしょう。悪人はだまし討ちも平気ですし、善人にはできない残酷な手口を使うこともできます。善人が勝つときもあるでしょうが、善人は相手を徹底的にやっつけることはしません。しかし、悪人が勝つと、相手を徹底的にやっつけ、さらに奴隷にしたり、手下にしたりします。
 
ですから、善人は負けたくなければ、自分も悪人になるしかありません。
たとえば、江戸時代の日本は平和で、庶民は幸福でした。ペリーがきたときも、追い払ってしまいたかった。しかし、列強と戦うと負けることが明らかになりました。そのため日本は列強と同じ悪い国になる道を選択したのです。
軍事技術を学ぶだけで戦争の強い国になれるわけではありません。人殺しのできる人間が大量に必要です。そのため庶民は学校と軍隊で非人間的な訓練を受けることになり、日本は平和でも幸福でもない国になりました。
しかし、悪人は自分と他人をだます悪知恵を持っています。日本は近代化したよい国になったとされました。
 
白人と黒人が奴隷海岸で出会ったとき、なぜ白人が黒人を奴隷にし、その逆ではなかったのでしょうか。
それは文明化した白人のほうが黒人よりも悪人だったからです。黒人はあまりにも善良だったので、白人と戦うことすらせず奴隷にされてしまいました。
そして、白人は、黒人は人間ではなく動物である、野蛮である、愚昧である、犯罪的であるなどと理由をつけて自分を正当化しました。ここでも悪知恵を働かせたのです。
 
以上述べたことは、現在の倫理学の常識とは正反対だと思います。
つまり倫理学のコペルニクス的転回です。
この新しい倫理学を私は「科学的倫理学」と呼んでいます。
 
「科学的倫理学」によると、われわれ現代人は史上最悪の悪人だということになります。
自分が悪人であるということはなかなか認めたくないものです。そのため今まで、倫理学はまったくでたらめな学問となっていたのです。
自分が悪人であると認めた人には真実の扉が開かれます。

盗みで生計を立てている泥棒家族があったとします。小さな子どもは見張りなどをして親の盗みを助けていて、親からは「よい子だ」とほめられていました。しかし、その子どもはある日、「盗みはよくないことだよ。もう手伝わない」といい、親から「悪い子だ」と叱られてしまいました。
ヤクザの世界では、カタギを脅してでも親分に多くの金を上納するのがよいヤクザで、カタギを脅すのはいやだというのは悪いヤクザです。
ナチス支配下においては、ユダヤ人を強制収容所送りにすることがよいことで、ユダヤ人をかくまうことが悪いことです。
つまり、悪人の世界においては、悪が善で、善が悪だということです。
 
では、私たちの住んでる社会は、どうなのでしょう。私たちは善人の世界に住んでいると思っていますが、ほんとうなのでしょうか。
SFでは、枢軸国が連合国に勝利した世界というのが古典的なネタとしてあります。その世界では当然、英米などの価値観は退廃的な悪い文化とされています。
連合国が勝利した世界と、枢軸国が勝利した世界と、どちらが善人の世界なのでしょう。私たちは連合国が勝利した世界が善人の世界だと信じていますが、その根拠はあるでしょうか。もともとは英米が先行した帝国主義国で、ドイツや日本は遅れた帝国主義国でした。
 
はっきりいうと、私たちの世界が善人の世界だという根拠はありません。
もし私たちの世界が悪人の世界なら、私たちが善と思うことは実は悪であり、悪と思うことは実は善だということになります。
それなのに、学者、知識人を含む多くの人たちが、「あれが善で、これが悪だ」と善悪の判断をしています。まったく愚かなことです。
 
私たちの世界では、戦争、テロ、犯罪が絶えません。娯楽映画の多くは実は大量殺人を描く映画です。ビンラディンが殺害されたときは、多くの人が歓声を上げました。これはむしろ悪人の世界に似ていないでしょうか。
ちなみに、山口組と住吉会が抗争したとき、善と悪が戦っていると考える人はまずいないでしょう。ほとんどの人は悪と悪が戦っていると思うはずです。連合国と枢軸国の抗争も同じようなものでしょう。
 
私たちの住む世界は悪人の世界ではないか。そこを出発点にすると、あなたの思想はどんどん深化していくはずです。

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