村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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オウム真理教関係の7人が死刑執行されたあと、松本智津夫元死刑囚の遺骨の行方が問題になっています。
松本元死刑囚は執行前に遺体は四女に引き渡すように意思表示したということですが、松本元死刑囚にそんな理性的な判断と意志表示ができたのか疑問に思っていたところ、案の定、松本元死刑囚の三女がブログでこんなことを書いていました。
 
 
しかしながら、東京拘置所は、最初は親族間で争いがあるという理由を挙げ、わたくしたちが母を含め、四女以外はただ父の死を家族だけで静かに悼むという同じ願いを持っているとお伝えすると、「本人が(遺体の引取先として)指定した人がいる」という旨おっしゃり、遺体の引き取りはできないとのことでした。能力的に父が意思表示などできるはずがないと申し上げると、今度はそのようなことは言っていないと、言葉をひるがえしています。
 
 報道によれば、父が指定した相手は、わたしの妹、父にとっては四女の聡香だということになっております。遺言状はありません。何度もおうかがいをしたにもかかわらず、東京拘置所は7月9日現在にいたるまで、父が指定した相手が四女だということを、わたしたちには話をしてくださいませんでした。
 
 わたし自身は、父が四女を遺体の引取先として指定したという話について、父が東京拘置所の職員と意思疎通ができなかったという客観的な事実からも、作られた話ではないかと感じております。
 
 
どう考えても、法務省が嘘をついているようです。安易に嘘をつくのも“アベ化”のひとつでしょうか。
四女は松本元死刑囚の子どもの中でただ一人教団との縁を切っているので、法務省は四女に引き渡すために嘘をついたと思われます。
四女は、今遺骨を引き渡されると「身の危険を感じる」として拘置所でしばらく保管するよう求めていましたが、その後、遺骨をパウダー化して太平洋に散骨するという意向を表明しました。これが法務省の望むシナリオなのでしょう。
 
 
上川陽子法務大臣は死刑執行の日の午後に記者会見しましたが、なぜこの時期に死刑執行をしたのか、なぜこの7人を選んだのかについてはなにも説明しませんでした。
また、死刑制度の必要性や意義についても語りませんでした。
もちろん語るべき言葉がないのでしょう。マスコミは「国民感情」や「被害者遺族感情」を死刑の理由に挙げますが、同じことを法務大臣が言ったら、それは世界に報道されますから、そんなことは死刑の理由にならないと世界から批判されたでしょう。
 
ちなみにEUは死刑執行のあった6日、日本政府に対して、死刑は犯罪抑止にならないことや冤罪の場合に取り返しがつかないことを理由に、死刑制度の廃止を前提とした執行停止を訴えました。
これに対して日本政府が死刑の必要性を訴えるとしたら、「正義」しかありません。「われわれは正義を行った」と主張したら、EUもなかなか反論できないでしょう。
 
もっとも、死刑の理由に正義を挙げると、犯罪者もそれをまねするようになります。つまり誰かを殺したいほど恨んでいるとき、正義を理由にすれば殺してもいいのだということになって、殺人を後押しすることになります。また、自分が不幸なのは世の中が悪いからだと思っている者は、世の中の人を殺すことは正義だとして通り魔事件を起こすかもしれません。
 
正義を理由に人を殺すのは、法の論理かもしれませんが、犯罪者の論理でもあります。
 
もっとも、これに対しては「死刑は殺人に対する報いとしてあるので、ただの殺人とは違う」という反論があるかもしれません。しかし、自分は死ぬほどの苦しみを味わっていると思っている人間の主観では同じことです。
 
 
人間には人を殺したくないという本能があります。
日本の絞首台には、本物のボタンとダミーのボタンがあって、3人ないし5人の刑務官が同時にボタンを押して、心理的負担を軽減するようになっているそうです。
軍隊で銃殺刑をするときは、一丁だけ空砲の入った銃を混ぜておくという習わしがありました。
 
日本で裁判官になるということは、死刑判決を出すかもしれないということです。裁判官を志す人間というのは、人間のもっとも土台である本能が毀損した人間ではないかと私は思っています。
裁判官だけではありません。死刑制度の維持に必死になっている法務官僚も同じです。
彼らは収入もあって社会的地位も高いので、犯罪をすることはありませんが、もし社会の底辺にいて、なにもかもうまくいかなくなれば、殺人事件を起こしているかもしれません。
現につまらない嘘をついて松本元死刑囚の遺骨を思い通りにしようとしています。
 
こういう人間観は常識と違うかもしれませんが、すべての偏見をなくして、ありのままの人間を見れば、死刑囚も法務官僚も同じです。

ベッキーさんとの不倫で有名になったゲスの極み乙女の川谷絵音氏が「週刊文春」にタレントのほのかりんさんと交際中だと報じられ、川谷氏は活動自粛を発表しました。
川谷氏は独身ですから、交際には問題ないはずですが、19歳のほのかりんさんがデート中に飲酒していたことが問題視されたようです。
 
川谷氏が法律違反をしたわけではありませんし、19歳での飲酒がそれほど問題かという気もします。
 
そもそも酒、タバコ、ギャンブル、ポルノにおける年齢制限というのは、合理的な理由がありません。
 
酒の場合、適量なら健康にいいという説があり、若いころから飲むとアルコール依存症になりやすいので、どこかの年齢で線引きすることに一応意味はあります。
しかし、タバコの場合、百害あって一利なしですから、20歳すぎれば喫煙が許されるのはおかしなことです。
ギャンブルやポルノにしても、年齢制限のある理由がよくわかりません。
 
酒、タバコ、ギャンブル、ポルノというのは、享楽的で、非生産的で、健康を害することがあり、身を持ち崩すこともあるので、やらないにこしたことはありません。
この点で、同じ年齢制限のある運転免許などとは根本的に違います。
禁止するなら年齢に関わりなく禁止するべきなのです。
 
酒、タバコ、ギャンブル、ポルノについては「未成年禁止」あるいは「18歳未満禁止」と言われていますが、「成人免責」あるいは「成人特権」と言ったほうが正確な表現です。
これが理不尽なため、若者が反発してかえって酒、タバコに手を出したくなったりします。
 
今、一律に禁止すると、特権を享受してきた人たちが反発しますし、タバコなどは簡単にやめられませんから、たとえばタバコの禁止年齢を、今年は20歳ですが、来年は21歳、再来年は22歳と、毎年1年ずつ上げていけばいいのです。
ギャンブルなどは、逆に年齢制限をなくして、子どもでもできるようにするという方法もあるかもしれません。
 
「在日特権」はほとんど妄想ですが、「成人特権」は現実のものです。「成人特権」をなくすことには意味があります

日弁連は10月7日、人権擁護大会で死刑廃止宣言を採択しましたが、反対・棄権もあって、賛成は7割弱でした。
瀬戸内寂聴さんが採択反対派の弁護士のことを「殺したがるばかども」と呼んだことで物議をかもす一幕もありました。
 
弁護士でありながら死刑賛成とはどういう論理でしょうか。
「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」は採択反対の声明を発表し、その中で「凶悪犯罪の被害者遺族の多くは加害者に死をもって償って欲しいと考えており、宣言は被害者の心からの叫びを封じるものだ」と主張しています。
要するに「被害者遺族の感情」を死刑賛成の理由にしているのです。
 
「感情を理由に殺人を肯定する」というのは殺人犯の論理そのものです。
これでは「殺したがるばかども」と呼ばれてもしかたありません。
 
弁護士法の第一章第一条には「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」とあります。
つまり「人権」と「正義」がうたわれているのです。
しかし、最近は「正義」の価値が下落しているので、もし死刑賛成の理由に「正義」を持ち出したら、「正義とはなんだ」「テロリストの正義とどこが違う」などと反論されてしまうでしょう。
ですから、もっぱら「正義」の代わりに「被害者(遺族)の感情」が死刑に限らず厳罰化の理由に持ち出されるのです。
 
しかし、人間の感情は正しいとは限りません。
傷ついた人間の感情はなおさらです。
 
犯罪被害者が「犯人を死刑にしたい」という感情に駆られるのは自然なことではありますが、これは要するに「暴力の連鎖」です。
弁護士が「暴力の連鎖」に加担することは許されません。
 
犯罪被害者支援に取り組む弁護士は、被害者の傷ついた心をいやすことを優先し、被害者の思いを社会に発信するのは、被害者の心がいやされてからにするべきです。
 
 
今のように「被害者の感情」が重視されるようになったのは、法務省など司法当局が厳罰化を進める道具に利用してきたからです。
司法当局は死刑制度の維持のために「国民感情」も利用しています。
マスコミも容疑者バッシングのために「被害者の感情」を利用しています。
そのため日本は「感情を理由に殺人を肯定する」という殺人犯の論理がまかり通る国になってしまいました。
 
最近はアメリカも死刑制度を廃止する州がふえています。
そのうち先進国で死刑制度のある国は中国と日本だけということになりそうです。

厳罰化の風潮が強まる中で、珍しく裁判員裁判で殺人事件に執行猶予つきの判決が出ました。
普通、殺人事件の判決というと、「人間性のかけらもない」とか「身勝手で冷酷」とかの言葉で被告が断罪されるものですが、この判決は被告に同情的です。どういう事情があったのでしょうか。
 
 
「妻と娘を守る義務がある」 三男殺害、父への判決
 就寝中の息子の胸を刃物で刺し、命を奪った父に告げられたのは、執行猶予付きの判決だった。東京地裁立川支部で先月下旬にあった裁判員裁判。裁判長は「相当やむを得ない事情があった」と述べた。ともにプラモデル作りが好きで、二人三脚で大学受験に臨むほど仲が良かった父子に、何があったのか。
 
 三男(当時28)への殺人罪に問われたのは、東京都八王子市の父親(65)。黒のスーツに青紫のネクタイを締め、法廷に現れた。事件までは、監査法人の会社員。同僚からは「まじめ」「誠実」と思われていた。
 
 事件の経緯を、検察の冒頭陳述や父親の証言からたどる。
 
 約10年前、三男は都立高2年のとき、精神の障害と診断された。通信制高校に移るなどしたが、浪人生活を経て大学にも進学。充実した学生生活を送った。卒業後はガス会社に就職した。
 
 しかし、次第に変化が生じる。仕事がうまくいかず、職を転々とした。「自分をコントロールできない」と本人も悩んでいた。昨年夏ごろから家族への言動が荒くなり、次第に暴力も始まった。
 
 今年5月下旬、母親が三男に蹴られ、肋骨(ろっこつ)を骨折。「これから外に行って人にけがさせることもできる」。三男はそんな言葉も口にした。
 
 父親は、警察や病院、保健所にも相談を重ねた。
 
 警察からの助言は「入院治療について、主治医と話し合って。危害を加えるようでしたら110番して下さい」。保健所でもやはり、「入院について主治医と話して下さい」。
 
 一方、主治医の助言は、「入院してもよくなるとは言えない。本人の同意なく入院させれば、退院後に家族に報復するかもしれない」。ただ、「警察主導の措置入院なら」と勧められたという。
 
 措置入院とは、患者が自身や他の人を傷つける恐れがある場合、専門の精神科医2人が必要と認めれば、本人や保護者の同意がなくても強制的に入院できる制度だ。
 
 主治医は法廷で、「家族の同意によって入院させた場合、三男は入院についてネガティブに考えると思った。警察主導の措置入院なら、本人の認識を変えるきっかけになると思った」と証言した。
 
 ただ、警察は措置入院に前向きではなかった。被告が相談に行っても、「措置入院には該当しないのでは」との返答。三男は暴れても、警察が駆けつければ落ち着いたし、警備業のアルバイトを続けられていたことなどが理由だった。
 
 いったい、どうすればいいのか――。父親は追い詰められていった。
 
 6月6日、事件は起きた。
 
 この日、父親は1人で病院に行き、主治医に三男の入院を相談。ソーシャルワーカーを紹介されたが、入院については、あくまでも警察主導の措置入院を勧められた。
 
 午後8時半。妻からメールが入る。妻が誤って三男のアルバイト先の仕事道具を洗濯してしまい、三男が「殴る蹴る以上のことをしてやる」と怒鳴っている――。そんな内容だった。
 
 父親は急いで帰宅した。暴れる三男を目にして、110番通報した。
 
 駆けつけた警察官に、父親は再度、措置入院を懇願した。三男はこの日、両親の顔を殴るなど、いつも以上に暴力を振るっていた。しかし、三男は警察官が来てからは落ちついた。「措置入院にするのは難しい」。警察官は言った。
 
 警察官が帰ると、三男は就寝し、父親は風呂に入った。
 
 弁護人「風呂では、何を考えた?」
 
 父親「主治医や警察に入院をお願いしたが、最終的には措置入院もできなかった。今の精神医療の社会的仕組みでは、私たち家族は救えないのではないか。そう思いました」
 
 弁護人「今後ますます暴力は激しくなると」
 
 父親「はい。三男は『今度は刃物を使うから覚悟しろよ』と言っていた。今度は刃物を振り回すと思った。私は逃げられても、妻はひざが悪いので逃げられない」
 
 一家は当時、両親と三男、三男の妹である長女の4人暮らし。ただ、母親も長女も三男の暴力におびえ、追い詰められていた。
 
 弁護人「家族で逃げることは考えなかったのですか」
 
 父親「家を出ても、三男は私の勤務先を知っている。職場に怒鳴り込んでくると感じました」
 
 弁護人「警察に被害届を出すことは」
 
 父親「警察に突き出すことは、三男を犯罪者にしてしまうこと。その後の報復を考えると、それは出来ませんでした」
 
 父親は法廷で、「三男は自分が犯罪者になることを恐れていた。家族がそうさせることはできなかった」とも話した。
 
 7日午前3時前。父親は風呂を出ると、2階にあった出刃包丁を持ち出し、三男の部屋に向かった。寝ている三男の横に中腰で座り、左胸を1回、思い切り突き刺した。
 
 父親「わたしは、妻と娘を守る義務がある。警察や病院で対応できることには限度があるが、暴力を受ける側は悠長なことは言っていられない。私は夫として、父として、こうするしか思いつきませんでした」
 
 刃物を胸に突き刺すと、血が流れ出る音がした。しばらくして、手を三男の鼻にかざした。息は止まっていた。
 
 父親はそのまま、三男に寄り添って寝た。
 
 弁護人「何のために添い寝を」
 
 父親「三男とは、もとは仲が良かった。三男のことを考えたかった」
 
 父親は法廷で、何度か三男との思い出を口にした。
 
 ともにプラモデルが好きで、かつて三男は鉄人28号の模型を自分のために作ってくれた。大学受験の時には一緒に勉強し、合格通知を受け取った三男は「お父さん、ありがとう」と言った。大学の入学式、スーツ姿でさっそうと歩く三男をみて、とてもうれしかった――と。
 
 弁護人「あなたにとって、三男はどのような存在でしたか」
 
 父親「友達のような存在でした」「三男にとっても、私が一番の話し相手だったと思います」
 
 朝になり、父親は家族に事件のことを話さぬまま、警視庁南大沢署に自首した。
 
 家を出る前、「主治医に相談に行かない?」と尋ねた妻に、「行くから。休んでて」とだけ告げたという。
 
 母親「主人は子どもに向き合い、とにかく一生懸命でした」
 
 証人として法廷に立った母親は、涙ながらに語った。
 
 母親「私は三男と心中しようと思ったが、できませんでした。警察などに何回も入院をお願いしても、できなかった。どうすれば良かったか、私にはわかりません」
 
 一方で父親は、事件から半年を経て、いまの思いをこう語った。
 
 父親「今から思えば、三男を家族への暴力行為で訴え、世の中の仕組みの中で更生の道を歩ませるべきでした。三男の報復が怖くても、三男のことを思えば、そのように考えるべきでした」
 
 地裁立川支部は11月21日、父親に懲役3年執行猶予5年を言い渡した。検察側の求刑は懲役6年だった。
 
 裁判長「被害者の人生を断ったことは正当化されないが、相当やむを得ない部分があったと言わざるを得ない。被告は、被害者の人生の岐路で、父親として懸命に関わってきた」
 
 ただ、こうも続けた。
 
 裁判長「家族を守ろうとしていたあなたが、最終的には家族に最も迷惑をかけることをした。これからは、もっと家族に相談するよう、自分の考えを変えるようにして下さい」
 
 父親は直立し、裁判長の言葉を聞いた。
 
 法廷には、母親のすすり泣く声が響いていた。(塩入彩)
 
 
裁判員と裁判官は被告に同情して寛容な判決を下したのでしょう。
これは基本的によいことだと思います。被告つまり犯罪者の心理をよく理解することは、判決を下す上での大前提です。
それに、刑を重くすれば反省するというものでもありません。逆に寛大な判決で人の心の温かさに触れて反省する可能性があります(インサイダー取引とか贈収賄のような経済的利益を求める犯罪には厳罰が抑止力になるので、話は別です)
 
では、この判決に問題はないかというと、そんなことはありません。殺された被害者への同情がほとんどうかがえないのです。
いや、同情とかではなく、被害者の命の重さが無視されています。
これは大問題です。
なぜこんな判決になってしまったのでしょうか。
 
被害者は「精神の障害」と診断されたということです。
統合失調症かとも思いましたが、転職が多いだけで普通に勤めていますし、措置入院を何度も断られていることからして、統合失調症ではなさそうです。おそらくなんらかの発達障害でしょうが、高校2年生で初めて診断されたということは、それまで目立たなかったわけで、発達障害でもごく軽いものではないかと思われます。
とはいえ、「精神の障害」というレッテルが貼られているわけで、これが裁判員の判断に影響したということはありえます。
つまり裁判員に、精神障害者への差別意識があったのではないかということです。
 
また、この事件は親が子どもを殺したという事件で、昔風にいえば卑属殺人です。
昔の刑法では、子が親を殺す尊属殺人は特別に刑が重くなっていました。卑属殺人の刑を軽くするという刑法の規定はありませんが、尊属・卑属という言葉が親と子の差別的な関係を示しています。「子どもは親の所有物。煮て食おうと焼いて食おうと親の勝手」という価値観です。
今の刑法に尊属・卑属という区別はありませんが、昔風の価値観が今回の判決に入り込んでいる可能性があります。
 
それから、被告は監査法人に勤める65歳の会社員で、被害者は当時28歳のフリーターです。つまり社会的立場にかなりの上下があります(通り魔事件などの殺人事件は、社会に恨みを持つ若いフリーターが普通の社会人を殺すというケースが多いのですが、この事件では逆です)
裁判員の判断に社会的地位の上下が影響したということも考えられます。
 
つまり精神障害者への差別、尊属・卑属という差別、社会的地位への差別という三重の差別があって、被害者の命が軽んぜられたのではないかと思うのです。
 
つけ加えると、普通の殺人事件では被害者遺族がいて、犯人への憎しみや厳罰を求める声を上げるのが普通ですが、この事件の場合はそうした声を上げる人がいません。犯人に甘い判決を下しても、裁判員は誰からも批判されないわけです。
 
 
私が思うに、この判決は被害者のことをまったく考えない判決です。被害者の立場に立って考えると、事件はまったく別の姿を見せるはずです。
 
被告すなわち父親は三男と「大学受験の時には一緒に勉強し」たということですが、父親が大学受験をする息子といっしょに勉強するという話を私は聞いたことがありません。
また父親は、三男は「友達のような存在でした」「三男にとっても、私が一番の話し相手だったと思います」とも語っています。
このことから父親は三男に対して過保護・過干渉だったと想像できます。
そのため三男は父親から自立できなかったのです。
 
三男は家庭において父親から自立するための戦いをしていましたが、家庭以外ではちゃんと勤務もしていますし、主治医や保健所や警察の前では普通だったのでしょう。だから、誰も措置入院させようとしなかったのです。
 
三男はまた、「これから外に行って人にけがさせることもできる」「今度は刃物を使うから覚悟しろよ」と警告を発しています。父親はこの警告を受け止めて、自分を変えるチャンスがあったわけですが、結局入院させることと三男を殺すことしか考えられなかったわけです。
 
とはいえ、この父親を批判する気にもなれません。この父親はどうしても自分自身の問題を認識することができなかったのです。これは「バカの壁」です。
 
とはいえ、三男においては悲惨なだけの人生です。
 
相田みつをの詩に「育てたように子は育つ」というのがあります。
この三男は、育てられたように育った挙句、育てた人間に殺されてしまったわけです。
そして、裁判員から同情されることもなく、おそらくこの新聞記事を読んだ読者からもほとんど同情されることなく、犯罪被害者として扱われることもなく葬り去られていくのでしょう。

2月8日、法務大臣の諮問機関である法制審議会は、罪を犯した未成年への厳罰化を求める意見を受けて、少年法で定める有期刑の上限を15年から20年に引き上げることなどを盛り込んだ少年法の改正案を答申しました。少年に対する厳罰化の流れが今も続いています。
保育園の子どもの声がうるさいと苦情が出たり、電車内にベビーカーを入れるのはマナー違反だという声が出たりして、日本は今や子ども迫害社会」と化してしまったようです。
 
それにしても、少年に対する厳罰化はどういう理念に基づいているのでしょうか。厳罰化が正しいことなら、少年法にスライドさせて「大人法」(こんな言葉はありませんが)も厳罰化させないといけないはずです。少年だけ厳罰化して、自分たちはそのままというのは大人の身勝手でしょう。
 
少年と大人を平等に扱うべきだという理念なのでしょうか。だとすると、少年にも選挙権を与え、酒・タバコも許可し、わいせつ図画も自由に見られるようにしないといけません。権利は与えず厳罰化だけするというのは、やはり大人の身勝手でしょう。
 
法制審議会のメンバーというのは当然法曹界の人が多いのですが、犯罪者にも少年にも冷酷であるようです。おそらく今ヒット中の映画「レ・ミゼラブル」も見ていないのでしょう。「レ・ミゼラブル」を見れば、厳罰化がどういう結果を招くかわかるはずです(映画「レ・ミゼラブル」については「『レ・ミゼラブル』における寛容対不寛容」で書いています)
 
もっとも、法曹界といっても、大きくふたつに分けることができます。
ひとつは警察官、検察官、裁判官であって、これは犯罪者を刑務所に送り込む側です。
もうひとつは、保護観察官、保護司であって、これは刑務所から出た人間を世話して更生させる側です。
 
今、マスコミで取り上げられるのは警察官、検察官、裁判官という刑務所の入口のほうばかりです。刑務所の出口のほうにいる保護観察官、保護司のことはまったくニュースにもなりません。
そのため、保護観察官、保護司のことをほとんど知らない人もいるのではないでしょうか。
ウィキペディアを見ると、保護観察官は全国で約1000人しかいなくて、現場で保護観察に従事する者は約600人だそうです。これでは知られていなくて当然です。
保護司は全国で約4万9000人いるそうですが、これは無償のボランティアです。
 
保護司は刑務所を仮釈放になった者や少年院を仮退院した者の更生を手助けするわけですが、ヤクザや殺人犯の相手もしなければならず、それでいてまったく日の当たらない仕事です。最近は保護司の高齢化が進んでいるそうです(ちなみに私の母方の伯母が長年保護司をやっていたので、私にとっては比較的なじみのある仕事です)
 
刑務所の入口側は注目され、お金も人手もかけられているが、出口側はまったく注目されず、ほとんどお金もかけられていないということになります。金融危機のときに行われる異例の金融緩和を終わらせることを「出口政策」と言いますが、刑務所については「入口政策」だけあって、「出口政策」がないというわけです。その結果、犯罪は必ずしもふえているわけではないのに、厳罰化が進んで刑務所は満杯になっています。
 
ほんとうにたいせつなのは、刑務所の入口政策ではなく出口政策です。犯罪者を更生させて二度と犯罪を起こさせないようにすれば、社会の治安もよくなりますし、入口側のコストをへらすこともできます。
 
 
ところで、少年法と「大人法」を平等にするべきだと考えるなら、少年犯罪の厳罰化のほかにもうひとつやり方があります。
少年法の精神というのは「刑罰よりも保護更生」というものですから、「大人法」もこの精神に則って、「刑務所の少年院化」をはかればいいのです。こうすれば少年の犯罪と大人の犯罪が平等に扱われることになります。
 
法務省のホームページの「少年院」のトップにはこう書かれています。
 
少年たちは,少年院での教育を通して,自らの問題を見つめ,改善して社会に戻っていきます。二度と犯罪・非行を犯さないという決意を実現するためには,本人の努力のほかに,社会の人々の温かい心と 援助が不可欠です。
立ち直りつつある少年たちへの御理解と御支援をお願いします。
 
「少年」を「大人」に、「少年院」を「刑務所」に書き換えると、こうなります。
 
大人たちは,刑務所での教育を通して,自らの問題を見つめ,改善して社会に戻っていきます。二度と犯罪・非行を犯さないという決意を実現するためには,本人の努力のほかに,社会の人々の温かい心と 援助が不可欠です。
立ち直りつつある大人たちへの御理解と御支援をお願いします。 

8月3日、2人の死刑が執行されました。滝実法相のもとでの死刑執行は初めてのことです。例によって賛否両論がわき上がっています。
今、死刑に関する世界の情勢は、アメリカと中国が死刑大国として存在し、また途上国の多くでも死刑は行われていますが、ヨーロッパなど先進国ではほぼ死刑制度を廃止しているという形になっています。
アメリカと中国は犯罪大国でもありますが、日本は世界に冠たる犯罪小国です。人口当たりの殺人件数は世界で最低レベルです。
 
「殺された人の数の国際比較」
 
現在、日本は昔のように経済力を誇ることもできず、自信喪失気味ですが、治安がよくて安全な国であることは大いに誇るべきことです。観光客を呼び込むためにも、日本のこのよさを世界にアピールしていくべきですが、そうした努力がなされているようには見えません。逆に今回のように死刑執行が世界に発信され、死刑国家イコール犯罪多発国家という連想を招いて、日本のイメージダウンになってしまっています。
 
なぜ日本のように治安のいい国がアメリカや中国のまねをするのかは世界の不思議です。日本人としては中国のまねをしているつもりはなく、あくまでもアメリカのまねなのでしょうが、そのアメリカ式犯罪対策とはどのようなものなのでしょうか。
 
雑誌「選択」7月号に『破綻した米国の「犯罪政策」――大統領選の隠れた争点に』という記事があったので、その内容の一部を紹介します。
 
アメリは2011年末で約240万人を刑務所に収監しています。中国でさえ約160万人、日本は約8万人ですから、アメリカは桁違いです。成人の100人に1人が収監され、保釈や保護観察中も含めると31人に1人が司法当局の管理下にあります。その費用は巨額で、昨年時点で7州が高等教育費より多くを刑務所に費やしており、刑務所予算は教育予算をはるかに上回るペースで伸びています。
刑務所運営の民営化も進んでいます。業界最大手のCCAという会社は、各州知事に刑務所を買い取りたいという書簡を出したのですが、そこにはふたつの条件があって、ひとつは運営を20年以上任せること、もうひとつは、刑務所を常時90%埋めることというものでした。刑務所運営のために「囚人を安定供給しろ」と要求しているわけで、本末転倒もきわまる話です。
しかし、統計的には犯罪率は下がっています。それでも収監者がふえるのは、政治家が次々と犯罪対策の強化を打ち出すためです。なぜ犯罪対策の強化が打ち出されるのかというと、選挙では「犯罪には厳罰で臨む」と公約する人が選ばれ続けてきたからです。また、保守系メディアが「犯罪はふえ続けている」というイメージをつくってきたことも影響しています。
そして、収監者には人種的な偏りがあり、黒人男性は100人中3人が収監されているのに、白人男性は100人中0.4人です。つまり犯罪対策とは差別主義と表裏一体なのです。
 
この記事はこう締めくくられています。
『ニューヨーカー誌は、米国の刑務所を「スターリン時代の収容所列島より大きい」と形容した。政治家たちが大衆迎合するうちに、米社会の深奥の亀裂まで照らす、怪物が出来上がってしまった』
 
日本でもメディアが主導して厳罰化の流れがつくられ、世論も死刑賛成が多数になっています。アメリカのまねをすることの愚かさに気づくべきでしょう。
 
 
ところで、ヨーロッパでは死刑制度廃止が主流となっています(EUは死刑制度の廃止が加盟の条件)。ヨーロッパの犯罪についての考え方はどうなっているのでしょう。
実はこれについては報道がほんどないので、私もよくわかっていませんでした。しかし、7月26日の朝日新聞に映画監督の森達也氏が「正義を掲げ追い込んだ先に」と題する文章を寄せておられて、これを読んで大いに納得がいきました。
 
昨年7月にノルウェーで77人を殺害するテロ事件がありました。事件の被告であるアンネシュ・ブレイビクの公判が6月22日に結審しましたが、彼の受ける罰は最大禁錮21年だそうです。なぜならノルウェーでもっとも重い罰が禁錮21年だからです。
この事件が起きたとき、日本のメディアは、この事件がきっかけでノルウェーでも厳罰化を求める声が大きくなるのではないかという記事を書いていました。森氏は、テロ事件のときの法相だったクヌート・ストールベルゲ氏と話す機会があったそうですが、元法相はその見方をあっさり否定しました。死刑を求める声は、遺族からもまったく上がらなかったそうです。
 
以下、森氏の文章をそのまま引用します。
 
2009年にノルウェーに行ったときに会った法務官僚は、「ほとんどの犯罪には、三つの要因があります」と僕に言った。「幼年期の愛情不足。成長時の教育の不足。そして現在の貧困。ならば犯罪者に対して社会が行うべきは苦しみを与えることではなく、その不足を補うことなのです。これまで彼らは十分に苦しんできたのですから」
これは法務官僚個人の意見ではない。ノルウェーの刑事司法の総意だ。つまり善悪を二分化していない。罪と罰の観念が根底から違う。もちろん、被害者や遺族への救済は国家レベルでなされるのが前提だ。
ただし、寛容化が始まった80年代、治安悪化の懸念を口にする国民や政治家は多数いた。でもやがて、国民レベルの合意が形成された。なぜなら寛容化の推進と並行して、犯罪数が減少し始めたからだ。
つまり理念や理屈だけの寛容化政策ではない。犯罪の少ない社会を本気で目指したがゆえの帰結なのだ。満期出所者には帰る家と仕事を国家が斡旋する。彼らが社会に復帰することを本気で考えている。一方、この国の刑事司法は、本気では犯罪の少ない社会を作ろうとは考えていない。むしろ追い込んでいる。クラスの多数派が誰かを追い込むように。悪と規定した標的やその家族をネットとメディアが追い込むように。
 
ひじょうによくわかる文章です。ヨーロッパで死刑制度が廃止された背景にはこういう考え方があるのならば、死刑廃止の信念が揺らぐことはないでしょうし、彼らが日本の死刑制度に文句をつけてくるのもわかります(8月3日の死刑執行については、アムネスティはもちろん、EUのアシュトン外交安全保障上級代表も「ひじょうに遺憾だ」とする声明を発表しています)
 
単純に言えば、犯罪対策にはアメリカ式厳罰主義とヨーロッパ式寛容主義があって、日本はアメリカ式厳罰主義を採用しているということになります。
もちろん日本人が採用したわけではなく、法務官僚とマスコミが主導してその方向に持っていっているわけです。
厳罰主義と寛容主義のどちらが正しいかは、アメリカとヨーロッパの犯罪事情を見比べればはっきりすると思います。
 
 
 
関連したことを書いた過去のエントリーを挙げておきます。 
日本の法務官僚がなぜ死刑制度を推進するのかについて自分なりの考えを書いたエントリー『法務官僚の「殺しのライセンス」』
 
ノルウェーのテロ事件被告アンネシュ・ブレイビクは愛情のない家庭で育ったのではないかという自分なりの推測を書いたエントリー「テロリストの素顔」

偶然同じ5月25日に、裁判関係の大きなニュースがふたつありました。ひとつは、肺がん治療薬の副作用についてのいわゆるイレッサ訴訟で、大阪高裁(渡辺安一裁判長)は国と企業の責任を認めず、原告側逆転敗訴となったというニュースです(大阪地裁の一審判決では企業の責任は認められていました)。もうひとつは、いわゆる名張毒ブドウ酒事件で、名古屋高裁(下山保男裁判長)は奥西勝死刑囚の再審請求を棄却する決定をしたというニュースです。私は両事件については詳しくありませんが、裁判所は相変わらずだなあと思って、ニュースを聞いていました。
 
26日の朝日新聞朝刊に、例によって裁判員制度3周年ということで、映画監督の周防正行さんのインタビューが載っていました。周防さんは痴漢冤罪事件を扱った映画「それでもボクはやってない」の脚本・監督をしたことがあり、裁判についてはかなり詳しい方です。その周防さんはインタビューの中でこんなことを語っています。
 
刑事裁判の不条理を問うた映画「それでもボクはやってない」(2007)の取材で行き着いたのは、日本の刑事裁判を悪くしたのは裁判官だという結論でした。一人ひとりはとても優秀な人たちなのに、99.9%という有罪率が前提となり、裁判所という組織の判断を重んじる人材ばかりが優遇される背景もうかがえました。裁判官が変われば、日本の刑事裁判は変わると思っています。
 
「日本の刑事裁判を悪くしたのは裁判官だ」とここまではっきりと言える人は日本にはなかなかいません。
新聞の司法担当記者などは裁判の事情にそうとう詳しいはずですが、こういうことは言いません。
 
司法は立法、行政とともに三権を形成しています。立法、行政、つまり国会と内閣は日々マスコミの批判の対象になっています。政治家、閣僚は名指しで批判されています。しかし、裁判官は名指しで批判されることはまずありません。
 
いうまでもないことですが、判決は裁判官の価値観によって左右されます。
西部劇には「縛り首の判事」というのが出てくることがあります。つまりなんでもかんでも縛り首の判決を下すので有名な裁判官で、その裁判官に当たった犯人はがっくりするというわけです。
日本では、少年犯罪の裁判には温情派の裁判官と厳罰派の裁判官に分かれる傾向があるといわれます。これは一般の人でも体罰賛成派の人と体罰反対派の人がいるのと同じようなものでしょう。
 
映画「それでもボクはやってない」について検索していたら、映画評論家兼弁護士の坂和章平という方のブログにこんな記述がありました。
 
判決は裁判官が下すものだから、裁判官がどんな価値観・人生観を持っているかが決定的に重要だが、一般的に裁判官の個性やカラーは表示されないため、容易にそれを知ることはできない。田舎の裁判所であれば、裁判官も弁護士も数が少ないから、それぞれのキャラをお互いに理解しているが、東京地裁の大きさになると、その事件ではじめて顔を合わせる裁判官というケースがほとんどだから、弁護士だって裁判官のキャラを全然知らない人が多いはず。
 そんな場合大切なのは、裁判官の訴訟指揮のやり方や証人尋問への介入の仕方そして自らの尋問(補充尋問)における質問内容に注目し、裁判官の考え方を理解すること。一人前の弁護士ならそれに注視していれば、裁判官がどんな心証を形成しているのか、ほぼ正確に予測がつくはず・・・。
 
そんな弁護士の目で見ると、最初に金子徹平事件を担当した大森裁判官は無罪判決を書く裁判官として有名だというだけあって、「疑わしきは罰せず」を地でいっている実に珍しい裁判官。これは、行政訴訟で住民側勝訴、行政側敗訴の判決をたくさん書いて有名となった、かつての東京地裁の藤山雅行裁判官と同じような異例中の異例。大森裁判官が司法修習生に対して、刑事裁判における原理・原則を心の底から熱く語っている姿を見ると、きわめて感動的。
 ところが、徹平や荒川弁護士にとって不運だったのは、審理の途中で裁判官が大森裁判官から室山裁判官(小日向文世)に交代したこと。裁判官に定期的な転勤があるのはやむをえないが、裁判官の交代が致命的な影響を与えるケースは多い。しかして、室山裁判官の訴訟指揮と証人尋問の内容は・・・?彼の訴訟指揮、すなわち、証人尋問への介入や自らの質問そして弁護側申請の証人採否の判断等がかなり偏ったものであることは、一目瞭然。荒川弁護士ほどのベテランになれば、これを見ているだけで、こりゃいくら弁護側が頑張ってもムリ、つまり、結論ありきの判決になることは予測できたはず・・・?
 
マスコミは判決の内容は報道しますが、明快に判決を批判することはありません。せいぜい解説文に批判的なニュアンスが感じられることがあるくらいです。
もちろんマスコミが裁判や判決を批判していけない理由はなにもありません。間違っていると思えば堂々と批判すればいいのです。
その際、裁判官の名前はもちろん、その裁判官の人となりも紹介しつつ批判してほしいものです。そういう人間くさい部分に多くの人は反応するからです。
 
それから、最高裁判所裁判官国民審査というのもずいぶんひどい制度です。この国民審査は総選挙と同時に行われ、無記入は信任と見なすことになっているので、絶対確実に全員が信任されてしまいます。これでは審査の意味がありません。
こんなおかしな制度ですが、批判しているのは一部の人たちだけです。マスコミはまったく批判しません。
こんなおかしな制度をみずから改めようとしない最高裁の裁判官も、まともではありません。
 
マスコミや国民は政治家ばかり批判していますが、その同じくらいのエネルギーを裁判官批判に向けてもいいはずです。

5月21日で裁判員制度が施行されて3周年だということで、メディアは改めて裁判員制度について特集を組んだりしています。
裁判員制度は、なぜ人が人を裁けるのかという根本的な疑問は別にしても、おかしなところがいっぱいある制度です。
 
たとえば、裁判員は量刑までも判断しなければならないのですが、これは過去の判例などを知った上で判断しなければならず、本来は素人の仕事ではありません(結局、裁判官から教えられて判断するわけです)。ちなみにアメリカの陪審員は有罪・無罪の判断をするだけです。
なぜ日本の制度が量刑までも判断するものになったかというと、日本の刑事裁判は有罪率が99.9%なので、有罪・無罪の判断にはほとんど意味がないからです。
有罪・無罪についての判断は、事実についての判断ですが、量刑についての判断は“罪”についての判断ですから、神の領域だということで、その判断はしたくないという人もいるでしょう。
 
また、行政裁判には裁判員制度は適用されません。行政裁判は、9割近くが国側勝訴に終わるといわれているので、本来はこういうところにこそ市民感覚を生かすべきなのですが、裁判員制度をつくった人たちは国側寄りの人たちなのでしょう。
 
また、裁判員裁判の対象になるのは、重大な犯罪に限定されています。具体的には殺人罪、傷害致死罪、強盗致死傷罪、強姦致傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、保護責任者遺棄致死、覚せい剤取締法違反、危険運転致死罪などです。これらは数も少なく、いわば“特殊な犯罪”です。
窃盗や傷害などのような、数の多い“普通の犯罪”に触れてこそ犯罪の本質が見えてくるわけで、今の制度ではせっかく裁判員をしても犯罪の本質が見えないままになるおそれがあります。
 
では、「犯罪の本質」とはなにかということですが、朝日新聞の5月22日朝刊の裁判員制度に関する記事の中に、それを感じさせるくだりがあったので、引用してみます。
 
神戸地裁で知的障害がある38歳の男性被告が自宅に放火しようとした放火未遂事件を担当した会社員男性は障害者支援のあり方を考えるようになった。
公判では被告が同居していた家族から暴力を振るわれ、邪魔者扱いされていたことがわかった。養護学校も家庭環境が改善されるよう働きかけていなかったと感じた。
判決は実刑。社会の中で更生させるのは難しいという評議の結果だった。「障害に対応しきれていない社会が、犯罪者を生み出している面もあるのではないか」と思い始めている。
 
放火未遂事件は重大犯罪ですから裁判員裁判の対象になったわけですが、これは「犯罪の本質」について考えざるをえない事件です。
知的障害のある男性被告は家族から暴力を振るわれ、邪魔者扱いされていたということですが、こうした立場の人間に罪を問うということ自体がおかしいわけです。少なくともこの男性被告が家族からまともな扱いを受けていれば、自宅に放火するなどということはしなかったはずです。
この行為が犯罪になり、実刑判決がくだるというのが今の刑事司法制度です。
私に言わせれば、この被告を有罪にすることで、この被告に暴力を振るい、邪魔者扱いをしてきた家族や、なんの働きかけもしなかった養護学校の職員を免罪しているようなものです。
つまりいちばん弱い立場の者に罪をかぶせ、周りの人間を救うのが、ある意味、刑事司法制度の本質です(これがつまり「犯罪の本質」でもあります)
 
当然、障害者は犯罪者に仕立て上げられやすくなり、刑務所の中には多く障害者が収容されていることになります。このことは「累犯障害者」(山本譲司著・新潮文庫)という本に詳しく書かれています(著者の山本譲司氏は元国会議員で、秘書給与詐取で実刑判決を受けた人です)
 
もちろん障害者以外の犯罪者もいっぱいいますが、たいていの犯罪者は、親が離婚するとか、死ぬとか、暴力を振るうとかの崩壊家庭で育ち(あるいは崩壊家庭から逃れて親戚の家や養護施設で育ち)、当然あまり教育は受けられず、また、障害者といえるほどでなくてもあまり能力に恵まれず、そのため社会の底辺で悲惨な生活をし、生きていくために窃盗をしたり、誰かに利用されたために犯罪をしたりした人です。
こういう人は犯罪を繰り返しますから、犯罪の多数はこうした人によって占められていますが、重大犯罪にいたることはめったにないので、ほとんどは裁判員裁判の対象になりません。
 
犯罪者の多くがこうした悲惨な人生を歩んできた人である一方、犯罪者を裁く裁判官、検事はエリートとして恵まれた生活をしています。
恵まれた裁判官、検事が恵まれない人間に有罪を宣告して刑務所送りにするのが法廷という場所です。
 
重大犯罪だけを対象とする裁判員制度では、こうした「犯罪の本質」がなかなか見えてきません(重大犯罪では犯罪の凶悪さに目を奪われて、犯罪者の境遇が軽視されてしまいます)
 
裁判員制度はうまく考えられています。“特殊な犯罪”だけを選び出して、国民に国民を裁かせ、そして、“普通の犯罪”の中に見える「犯罪の本質」を覆い隠しているわけです。

29日、3人の死刑囚の死刑が執行されました。記者会見に臨んだ小川敏夫法務大臣は「刑罰権は国民にある。国民の声を反映するという裁判員裁判でも死刑が支持されている」と述べました。
行政訴訟では「国民の声」などまったく無視した判決が連発されるのに、こんなところだけ「国民の声」を持ち出すとは、司法関係者も身勝手なものです。
「国民の声」を持ち出すのは、死刑そのものに論理的な根拠がないからです。「正義」を持ち出しても、「正義ってなんですか」と問われると、誰も答えられません。
「国民の声」ももちろん論理的なものではありません。「国民の声」とは要するに「国民感情」といってもいいでしょう。「感情」とは不合理なものです。
 
たとえば、話は変わるようですが、AIJ投資顧問が1000億円以上を消失させ、年金基金に大きな損失を与えたという事件があります。27日、衆院財務金融委員会にAIJ投資顧問の浅川和彦社長が参考人として出席し、質疑に答えましたが、私はこの人はまだ逮捕されていなかったのかと、軽い驚きを覚えました。お金の行方はまだよくわかっていません。浅川社長は隠しているお金を持って行方をくらませる恐れがないとはいえないので、早く身柄を拘束したほうがいいと思うのですが。
それはともかく、この事件が国民に与える損失はきわめて大きいものですが、この事件について国民感情はあまり大きく動きません。
それは考えてみれば当たり前で、殺人事件は具体的にイメージできますし、被害者や被害者遺族の心の痛みもわがことのように思うことができますが、1000億円の損失というのは具体的にイメージできません。それに、年金をもらうのは20年も30年も先だという人はますますピンときません。
 
つまり、私たちの感情が合理的ではないのです。殺人事件は少数の人に大きな痛手を与え、AIJ事件は多数の人に小さい痛手を与えるのですが、トータルしてどちらの痛手がより大きいかというと、AIJ事件のほうかもしれません。
 
私は株式投資を少しします。「少し」というのは、私はあまり投資向きの性格ではないことがわかったので、あまり売買をせず、株主優待と配当目当ての株を少し持っているだけにしているからです。
それでも、一応株式投資をした経験から、人間の感情はいかに不合理なものであるかを痛感しました。
つまり素人が感情のままに株式の売買をすると、たいてい損をするのです(プロはそういう感情でなく売買して儲けているわけです)
ですから、最近は経済学や投資の世界では、行動経済学や行動ファイナンスといって、人間の不合理な行動や感情を研究することがブームとなって、多くの本が出版されています。
 
ところが、法学や司法の分野では、相変わらず「感情」を根拠にして判決が下され、死刑が執行されています。
もちろん「感情」に合理的根拠があるか否かということはまったく検証されません。
たとえば、よく「足を踏まれたほうは痛みを覚えているが、踏んだほうはすぐに忘れてしまう」ということが言われます。そうすると、痛みの記憶を根拠に復讐すると、復讐されたほうは納得がいかないので、復讐がどんどんエスカレートしていく可能性があります。同様に「感情」を根拠に人を罰していると、社会の「処罰感情」がどんどんエスカレートしていく可能性があるわけです。
 
死刑のような重大事項は、「感情」という非合理的なものを根拠にして行うべきではありません。
一方、AIJ事件のようなことは、「感情」がなくてもきびしく追及していかなければなりません。
 
法学や司法の世界は、「感情」ではなく合理的な論理によって運営されるべきです。

平岡秀夫法相が13日、殺人事件の被害者遺族宅を訪ねて謝罪したというニュースがありました。いったいどういうことかというと、こんな事情があったわけです。
 
「大津の16歳暴行死 法相陳謝」20111115  読売新聞)
2001年3月に大津市で高校入学目前の青木悠さん(当時16歳)が少年2人に暴行されて死亡した事件を巡って失言したとして、平岡法相が大津市内の母和代さん(62)方を謝罪訪問した13日、面会で遺族の深い悲しみと支援の必要性を繰り返し訴えた和代さんは「謝罪の気持ちは伝わったが、心に響く言葉はなかった」と話した。(西井遼)
事件は少年法改正の直前の01年3月31日に発生。少年2人(当時17歳と15歳)に「高校の合格祝いをしてあげる」と呼び出された悠さんは、市立小の校舎裏で約2時間にわたって2人から暴行を受け、同4月6日に死亡した。
平岡法相は07年6月、少年法改正などについての討論番組で、和代さんらとともに出演した際、加害者について「それなりの事情があったのだろう」と発言した上、和代さんに「加害者に、死の恐怖を味わわせれば幸せか」などと質問もしていた。(後略)
 
 
4年も前のことが蒸し返されたわけです。
確かに面と向かって「加害者に、死の恐怖を味わわせれば幸せか」という発言をするのは失礼ですから、謝罪したほうがいいでしょう。しかし、加害者について「それなりの事情があったのだろう」と擁護する発言をしたのは大いに評価できます。しかも、その発言をした人間が法相を務めているというのは、なかなか画期的なことかもしれません。
 
昔、司法の世界では犯罪被害者や犯罪被害者遺族に対する支援や配慮はないも同然でした。それが犯罪被害者や犯罪被害者遺族の心情にスポットが当てられ、犯罪被害者等基本法が制定されるなど、被害者サイドへの支援は強化されています。
しかし、犯罪加害者への支援はどうかというと、むしろないがしろにされる傾向があります。犯罪少年への罰は強化されましたし、死刑執行もふえました。マスコミも犯罪者のバッシングを強めているようです。犯罪者の更生を支援する保護司はボランティアであって、最近はなり手が少なく、高齢化が問題になっています。保護司の活動がマスコミに取り上げられることもまずありません。
 
もっとも、犯罪者が憎まれ、バッシングされ、抹殺されるのは昔からのことです。それは人間として自然な感情です。しかし、それは、家の中をきれいにしたいからと、ゴミを玄関から道路に掃き出したり、隣の家の敷地に投げ入れたりするのと同じです。昔は犯罪者は所払いや島流しになっていました。家からゴミを掃き出すようなものです。今は刑務所に入れることになっています。つまり、ゴミ集積所に入れておくようなものです。
しかし、それは正しいゴミ対策ではありません。リサイクルがもちろん正しいゴミ対策です。
犯罪者をゴミにたとえるとは失礼千万ですが、これまで人類は犯罪者をそのように扱ってきたということです。
 
こうした考え方を私は天動説的倫理学と呼んでいます。根本的に間違った犯罪対策だということです。
正しい犯罪対策は、犯罪者の事情を理解して、犯罪者の更生を目指すことです。平岡法相の「それなりの事情があったのだろう」という発言は、ですから評価できるのです。
 
 
犯罪者の事情をまったく考慮しない天動説的倫理学のゆきつく果てはどうなるかというと、ゴミ集積所すなわち刑務所が満杯になります。
次のニュースがそれを示しています。
 
「マイケル元専属医早期釈放? カリフォルニア刑務所満杯」 (20111112日 朝日新聞)
米歌手マイケル・ジャクソンさんの急死事件で、過失致死罪で有罪評決が出た元専属医、コンラッド・マレー被告(58)が思わぬ「恩恵」を受けそうだ。29日に言い渡される量刑は最高禁錮4年の可能性があるが、カリフォルニア州の刑務所が過密で、早期に釈放される可能性が出ている。
米連邦最高裁は5月、定員約8万人の同州の刑務所に十数万人が押し込められ、健康を害したり自殺したりする例が出ているとして、受刑者約3万人の削減を命じた。州は10月、凶悪犯ではない受刑者を中心に、州刑務所から郡刑務所に移す法を成立させた。
マレー医師も郡刑務所に移される見通しだが、ロサンゼルス郡のスティーブ・クーリー地方検事は朝日新聞の取材に「郡刑務所も満杯。(医師は)早期釈放となるだろう」と語った。ロイター通信は医師の収監が数カ月となりそうだと報じた。
すでに早期釈放の前例も出ている。飲酒運転などで有罪の米女優リンジー・ローハンさんは保護観察条件の違反で30日の収監を命じられたが、刑務所が満杯のため、今月7日、5時間足らずで出所した。(ロサンゼルス=藤えりか)
 
 
アメリカはもっとも進んだ文明国ですが、犯罪対策は世界でも最低レベルです。
そして、日本は犯罪対策でアメリカに追随しようとしているのですから、なんともあきれた話です。
 
日本は犯罪被害者や犯罪被害者遺族への支援をある程度やるようになりましたから、これからは犯罪加害者への支援をいかにしていくかが問われることになります。
加害者の事情や心情をどこまで理解できるかで、その人の知性や人間力のレベルがわかってしまいます。マスコミも加害者の事情をもっと報道しなければなりませんし、裁判員も加害者の事情を理解した上で判決を下さなければなりません。
 
今のところマスコミの論調やネット世論は、被害者感情を理由にすれば加害者バッシングが許されると思っているようですが、そういう時代の終わりが近づいています。

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