村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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お笑い芸人の松本人志氏が「ワイドナショー」出演者らとともに安倍首相と焼肉店で会食しました。
首相と親しくつきあうのはキャスターとしてどうかと思いますが、松本氏はもともと安倍政権支持で、「安保法制反対は平和ボケ」という発言をし、共謀罪について「冤罪も多少あるかもしれないですけど、プラスのほうが多い」という発言をしたりしています。
 
問題発言の多い松本氏ですが、きわめつけは体罰擁護発言を繰り返していることでしょう。
日野皓正氏がドラム演奏をやめない中学生をビンタした事件のとき、体罰について「なぜ今はだめで昔は良かったのか。明確な理由がわからない」とか「体罰を受けて育った僕たちは失敗作みたいな形で言われているような気がして、どうも納得がいかない」などと発言しました。
 
さらに日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件についてはこのように語っています。
 
 
「人を張り倒して投げ倒す世界。その世界で土俵以外のところで一切暴力ダメというのは無理があると思う」
「稽古と体罰はすごくグレーなところで。それで強くなる力士もいる」
「球技と違って格闘なので。1発や2発、手出ることはあると思う」
「じゃあ、ボクサーはどうなるんですか? 練習する時にスパーリングもできないんですか? リング上でグローブつけているからOK? でも、リングなんて各ジム1個しかないからね。他のところでもやらないと」
 
 
格闘技のプロが人に暴力をふるうことは絶対に許されないという常識と真逆のことを言っています。とくにボクシングのスパーリングと暴力を混同しているところは、完全に破たんしています。
 
松本氏は父親が亡くなったとき、「そんなにオヤジとは折り合いがよくなかったんで。最終的には僕のこと、1回も褒めてくれなかったんで」と語っています。
「体罰を受けて育った僕たち」とも言っていますから、父親から体罰を受けていたのかもしれません。
 
体罰が幼児の脳に損傷を与えることは今や常識です。厚生労働省も全国の自治体に資料を配布しています。
 

体罰・暴言で子どもの脳が「萎縮」「変形」厚労省研究班が注意喚起

 
 
ボクシングのスパーリングと暴力の区別がつかないところなど、松本氏の脳が損傷を受けたせいかもしれません。
 
体罰の体験は毒のある笑いとも関連しているでしょう。
 
毒のある笑いといえば、ビートたけし氏も同じです。
たけし氏は「たけしくん、ハイ!」(北野武著)で、父親は母親を殴り、自分は母親から殴られるという幼少時の壮絶な体験を書いています。
おそらくその影響で、たけし氏の映画には暴力描写が多く出てきます。
しかし、たけし氏は暴力を暴力として描いています。暴力を正当化することはしていません。
そこが松本氏と決定的に違うところです。
 
ボクシングのスパーリングと暴力の区別もつかない人間がキャスターとして安全保障を論じているとは、これこそ“毒のある笑い”です。

謝罪会見をしたのに、みのもんた氏への批判はかえって強まっているようです。
しかし、その批判は的外れなものばかりのように思えます。
 
たとえば週刊文春は、みのもんた氏が次男のために南青山の一等地に2億円の豪邸を建てているということで批判しています。しかし、これは批判されることでしょうか。
みのもんた氏自身は鎌倉の豪邸に住んでいて、これが17億円だと報道されています。だとすれば、次男に2億円の家を援助するのは普通のことに思えます。というか、なんの援助もせず、次男が自分の収入だけで普通の家に住んでいれば、みのもんた氏は薄情と批判されかねません。
もっとも、「子孫に美田を残さず」という考え方からすれば、みのもんた氏のやり方はよくないことになりますが、「子孫に美田を残さず」という考え方が絶対正しいわけでもありません。自分に多額の収入があれば一族に恩恵を与えるやり方のほうが普通です。
 
結局、週刊文春の批判は、金持ちに対するやっかみでしかないと思われます。
 
みのもんた氏はキャスターとして他人の不祥事はきびしく批判してきたのだから、自分の不祥事で批判されるのは当然だという主張もあります。あるいは、自分のことは棚に上げて他人を批判してきたのはけしからんという主張も似たようなものでしょう。
これは筋の通った批判のように見えますが、こうした批判は本来、次男の不祥事がなくても成立するものです。
人間は誰でも叩けばホコリが出るものです。ですから、キリストが「汝らのうち罪なき者、石持てこの女を打て」と言ったとき、その場にいたパリサイ人は誰も石を投げなかったのです。
ところが、現代の日本では、みのもんた氏も一般の人もみんなが石を持って投げつけています。みのもんた氏の場合は、たまたま次男の不祥事が発覚したにすぎません。
みのもんた氏が番組をやめたあと、後任のキャスターがみのもんた氏と同じようにきびしく人を批判したとしたら、今みのもんた氏を批判している人はどうするのでしょうか。きっと後任のキャスターといっしょになって石を投げつけるのでしょう。今みのもんた氏に石を投げつけているように。
 
みのもんた氏はセクハラについても批判されています。セクハラが事実だとすれば、これは確かに重大な問題です。
ただ、今の時点では、セクハラの被害者が訴え出ていません。もちろん局アナと大物芸能人という関係で訴え出ることができないのだということは十分に考えられます。しかし、被害者の訴えがないというのはセクハラ成立の最大の要件が欠けているわけですから、あくまで“セクハラ疑惑”にとどまります。
 
このように考えると、みのもんた氏への批判は的外れか決め手を欠いたものばかりのようです。
 
とはいえ、みのもんた氏が“無実”であるというわけではありません。確実に“有罪”であると思われることがひとつあります。
それは、次男に対する体罰です。みのもんた氏は会見の中で、「私は殴るタイプなんです」と言っています。「殴ったのはいくつくらいまで?」という質問に対して、「中学の二年くらいまで殴ってました」と答えています。
これは「任意の自白」ですから、“有罪”と見なしていいはずです。セクハラが“疑惑”にとどまるのとは違います。
 
中学の二年まで殴っていたということは、次男の体が大きくなって一方的に殴れなくなったからやめたということでしょう。反省してやめたというのではなさそうです。
 
大阪市立桜宮高校で体罰を受けた生徒が自殺して以来、マスコミはスポーツ界の体罰についてはきびしい姿勢で追及しています。
みのもんた氏の場合は、家庭内の体罰です。いや、「体罰」といわずに「暴力」といったほうがいいでしょう。ドメスティックバイオレンスです。マスコミはドメスティックバイオレンスは追及しないのでしょうか。
 
みのもんた氏は「私は殴るタイプなんです」と、タイプという言葉を使っています。つまり、子どもを殴ったことを個人的行為ととらえるのではなく、暗に自分と同じタイプの人間がいるだろうと言っているわけです。そして、当然マスコミの中にも同じタイプがいるので、マスコミはこの問題を追及しないのでしょう。
 
みのもんた氏が番組を降板したのは、直接には次男の不祥事が原因です。とすると、次男に対して暴力をふるっていたことはいちばんに取り上げるべき問題のはずです。
また、番組キャスターがDVをしていたということももちろん大きな問題です。これでは学校運動部の体罰問題の追及もできませんし、幼児虐待の問題などの追及もできないはずです。
さらにいうと、石原慎太郎氏や橋下徹氏などタカ派政治家は体罰肯定論者である傾向があって、DVは政治的立場とも関連しています。DVの過去のある人間を政治的発言のできるポストにつけてきたテレビ局も批判されるべきです。
 
ともかく、みのもんた氏のDVを批判せず、的外れの批判ばかりしているマスコミは倫理観がマヒしているといわざるをえません。
 

みのもんた氏の謝罪会見がいろいろな波紋を広げていますが、それにしても、みのもんた氏もずいぶんと嫌われたものです。それまでは視聴率男としてもてはやされていたわけですから、まさに天国と地獄です。
 
そのきっかけは次男が窃盗未遂で逮捕されたことですが、これは結局起訴猶予になったとの報道がありました。もしこの事件なり逮捕なりがなかったら、次男も普通に日テレ勤務を続けていたでしょうし、みのもんた氏もなんのバッシングも受けずにテレビ出演を続けていたでしょう(セクハラ疑惑は別にありますが)
 
とはいえ、みのもんた氏が20歳すぎの次男の行為についての自分の責任を認めたということは重要です。これは「教育責任」という言葉で表現するのがわかりやすいでしょう。
 
では、みのもんた氏にはどんな「教育責任」があったのでしょうか。1026日の記者会見の全文起こしから引用してみます。
 
【質疑含む完全版】みのもんた氏記者会見 全文文字起こし 10/26()
 
 
確かにあの子は私の子です。
しかし、成人して大人になって社会人になったはずなのに家庭をもったはずなのに、
こんなことをしでかす、どこかが子育ての中で何か間違っていたんじゃないのかな
不完全な形で世の中に送り出してしまったのか、
だとしたら父親としての責任があるなと思い至りました。
親子の縁は切れない、間違いなく我が子だ、
どこかが狂って社会に送り出したのだ
その責任は父親である私にあります。申し訳ありません。
 
これが親の責任を認めた部分です。
これについてはいまだに「20歳すぎた子どもの行為に親の責任はない」と主張する人がいますが、行為というのはその人の人格から生じるものですから、行為と人格は切っても切り離せません。親が子どもの人格形成に関与していたなら、子どもが何歳になっても親の責任はあります。
 
ところで、「20歳すぎた子どもの行為に親の責任はない」という表現は20歳未満の子どもの行為には親の責任があると認めているようですが、現実にはそれすらも認めていません。たとえば、子どもが非行で少年院送りになった場合、親がなにか責任を取るということはありません。本来なら、子どもが非行をした場合は、親(保護者)も子どもといっしょに更生プログラムを受けるべきです。しかし、現実には少年法の厳罰化は、少年だけを対象にして、保護者は対象になっていません。こんなおかしな法体系ができるのは、無責任な親が法律をつくっているからです。
 
つまりこの世の中は、無責任な親がやり放題をする世の中なのです。
 
で、みのもんた氏の「教育責任」ですが、みのもんた氏の教育のどこが間違っていたのでしょうか。氏は質疑応答でこんなことを語っています。
 
[質問者]
あの先ほどみのさんがね、あの子育てが間違っていたのかな
問題があったのかなって、今日のラジオの番組でも、自分の生き方を見せてきた。
その生き方が間違っていたのかなという風に仰っておりましたけれども
今ご自身間違っていたとしたら、具体的にどんなところが間違っていたのかという風に
思っていらっしゃいますか?
 
[みのもんた氏]
ちょっと厳しすぎたのかなと思いました。育て方が厳しすぎたかなと思いました。
 
[質問者]
例えば具体的にどんなところが厳しかったんでしょうか。
 
[みのもんた氏]
お小遣いにしても合宿にしても、大変厳しかったようです、僕は。
何十万も与える人もいるかもしれませんが、私は女房の決めたとおりの額しか
渡しませんし、悪いことやったときには悪いことやったと。
いけないことかもしれませんが、私は殴るタイプなんです。
嫌なら出て行け。そういうタイプの父親です。
それが僕は父親としてのええ格好しの悪い結果に繋がったなと、
何か起きても分からなければ分からないようにしちゃおうと、
親父に分からないようにという道に繋がったんじゃないかと思います。
何でも話せる親じゃなかったみたいです。
 
[質問者]
殴ったのはいくつくらいまで?
 
[みのもんた氏]
中学校の二年くらいまで殴ってました。
 
みのもんた氏の認識では、きびしすぎたのがよくなかったということです。
 
もっとも、これに対して週刊文春は11月7日号の「みのもんた『バカヤロー!』会見の大嘘」という記事で、次男は南青山に豪邸を建築中で、むしろみのもんた氏は甘やかして育てていたということを書いています。
だいたい世の中の認識は、「甘やかすのはよくない、きびしくするのはよい」というものですから、そういう認識にそった記事です。
みのもんた氏はコネ入社もさせていたようですから、その点でも甘やかしていたことになります。
 
しかし、甘やかすのもきびしくするのも、ベクトルは逆ですが、だめなことでは同じです。
よく過保護な親に、過保護はよくないと指摘すると、「じゃあ突き放せばいいんですね」という答えが返ってきますが、この親にとっては「過保護」か「突き放す」かの二者択一になっているわけです。
世間の教育観も、「甘やかす」か「きびしくする」かの二者択一になっています。
しかし、実際は、「甘やかす」のでもなく、「きびしくする」のでもなく、「普通に愛情を持って接する」というのが正しいわけです。
 
叱るのはよくない、ほめて育てるべきだということもよく言われます。世の中には子どもを叱る親が多く、ほめる親は少ないので、こうした主張に説得力があります。
しかし、「叱るよりほめろ」というのは、アメとムチのたとえで言えば、ムチの比率を少なくしてアメの比率を高くしろと言っているのと同じです。どちらにせよアメとムチで子どもを操作しようとしているわけで、子どもに愛情を持って接する態度ではありません。
 
おそらくみのもんた氏は次男に対して、お金などの面では甘やかし、個々の行動の面ではきびしくするというやり方だったのでしょう。どちらの面でも次男は親の愛情を感じることができませんでした(お金を出すことはみのもんた氏にとってはなんでもないことで、「お金ですます」という感覚だったのでしょう)
 
みのもんた氏と次男の関係がどのようなものであったかは、次のやりとりからうかがわれます。
 
[質問者]
保釈中ですけども、今現在もお話はされてないと。
 
[みのもんた氏]
一度だけ自宅に会いに来ました。
 
[質問者]
そのときにはどのようなお話をされたのですか。
 
[みのもんた氏]
何も喋りませんでした。顔だけ見て五分で出ました。
 
[質問者]
謝罪の言葉とか何かなかったですか?親に対して。
 
[みのもんた氏]
彼からはありました。僕からは何も喋っていません。
 
[質問者]
それは感情が、どういう?
 
[みのもんた氏]
彼は正座して、板の間で、玄関口で僕の顔を見てごめんなさいと、
何か言いかけましたけど、僕は無視して、顔だけ見て出ました。
 
好意的に解釈すると、普段は親子関係は良好なのだが、次男が事件を起こしたためにこんなに冷却したのだということになりますが、実際のところは、もし普段の親子関係が良好なら、逮捕・保釈という出来事の直後こそいっぱい話し合うことがあるはずです。
 
つまりみのもんた氏は昔から、殴るタイプで、嫌なら出ていけというタイプの父親ですから、親子関係が良好であるわけないのです。
 
私がみのもんた氏で覚えているはの、お昼の「おもいッきりテレビ」という番組の生電話での悩み相談コーナーで、悩みを持った相談者にきびしい言葉を浴びせかけている姿です。そして、そうしたきびしさが視聴者に受けていたようです。
 
週刊文春も、みのもんた氏のきびしい面は批判せず、お金に甘いところだけ批判しています。
 
しかし、正しくは、きびしい面とお金に甘い面の両方を批判するべきでしょう。
 
みのもんた氏と次男との親子関係の問題が次男の窃盗未遂という行為にどう結びついたのかはわかりません。しかし、親子関係に問題があったのは事実でしょう。ですから、みのもんた氏は責任を認めたのです。
 
みのもんた氏が親の責任を認めたということは、今後さまざまな影響を及ぼすのではないかと思います。少なくとも、「子どもが20歳すぎれば親に責任はない」というような身勝手な主張は通らないことになります。
 
もっとも、子どもがいくつになっても親に責任があるというのはおかしいと考える人もいるでしょう。それももっともなことです。親と子は別人格だからです。
 
ですから、最初から、つまり子どもが小さいときから、子どもを一個の独立した人格として尊重して接すればいいのです。そうすれば「親と子は別人格」といって、子どもの行為の責任は子どもが負うべきだと主張することができます。
そして、子どもの人格を尊重する親なら、子どもが何歳になっても子どものためになる行動ができるはずです。
 

みのもんた氏の次男(31)が窃盗未遂容疑で逮捕され、みのもんた氏はTBS系の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」の出演を自粛すると発表しましたが、これについて論争が起きています。
みのもんた氏の次男が実際に犯罪行為をしたのかは今の時点でわかりませんし、みのもんた氏はほかに女子アナへのセクハラ疑惑もあって、問題は複雑です。ただ、今論争の的になっているのは、親は31歳にもなった子ども(あるいは20歳以上の子ども)の行為に責任があるのか、ということです。
 
ちょうど「週刊現代」10月5日号が「大論争 みのもんたは責任を負うべきか、否か」という記事を掲載していて、何人もの有識者の意見が紹介されていますが、ほとんどの人は親に責任はないという意見です。「大論争」という記事のタイトルに引かれて読んだ人は肩透かしを食います。
とはいえ、世の中にはみのもんた氏をバッシングする意見が多いので、世の中では「大論争」が起きているのも事実です。
 
ただ、みのもんた氏は芸能人であり、かつ報道番組の司会者でもあるので、その点は「親は20歳以上の子どもの行為に責任を負うべきか」という一般的な問題と分けて論じなければなりません。
たとえば、三田佳子さんの次男が覚せい剤取締法違反で逮捕されるということがありましたが、そのときに、みのもんた氏は三田佳子さんの「親の責任」を追及したかもしれません。また、ほかの出来事でも、芸能人の道義的責任を追及したかもしれません。だとすると、みのもんた氏が今回責任を追及されてもしかたがないということになります。
 
ですから、みのもんた氏も「みのもんたの朝ズバッ!」(及び「みのもんたのサタデーずばッと」)の出演を自粛すると発表したのです。ほかのバラエティ番組などは自粛しないということです。
 
つまり、みのもんた氏は報道番組出演を自粛したこと以外、なにも責任を取っていないのです。そして、そのことを批判する人は、「週刊現代」の記事もそうであったように、ほとんどいません。
 
では、世の中で「大論争」が起こっているように見えるのはどういうことかというと、例によってネットでの匿名の批判と週刊誌による暴露報道が盛り上がっているからです。みのもんた氏の次男の過去の行状とか、テレビ局にコネ入社だったとか、みのもんた氏の高収入とか豪遊ぶりとか、セクハラ疑惑とか、批判のネタにはこと欠きません。
しかし、有識者などはほとんどが「親は20歳以上の子どもの行為に責任はない」という意見のようです。
 
「親は20歳以上の子どもの行為に責任はない」というのは社会通念です。
ということは、逆にいえば「親は20歳未満の子どもの行為に責任がある」ということになるはずですが、実際そうなっているでしょうか。
 
子どもが野球をしていて、ボールがどこかの家の窓ガラスを割った場合、子どもに賠償能力がないので、親が代わりに賠償することになります。これは常識です。
また、小学校5年生の起こした自転車事故で被害女性が今もいわゆる植物状態となっているケースで、神戸地裁は7月4日、少年の母親に対して9500万円の損害賠償を命じる判決を下して、話題となりました。これも子どもの行為の責任を親が負った(負わされた)例です。
 
しかし、これらはいわゆる民事です。
刑事については、親に責任が負わされることはありません。
 
子どもが万引きをした場合、親がその店に謝罪して弁償するということはありますが、親の刑事責任が問われているわけではありません。
 
近年、少年の起こした犯罪は厳罰化傾向にありますが、20歳未満の少年の犯した罪が懲役10年に匹敵するとなれば、親が少年の代わりに10年服役することになるはずです。少なくとも民事ではそういう論理で判決が出ています。
あるいは子どもと親が5年ずつ服役するということがあってもいいはずですが、もちろんそんな話は聞いたことがありません。
 
光市母子殺害事件では、犯行当時19歳だった少年について、被害者遺族の本村洋氏がマスコミで大いに語ったこともあって世論は厳罰を要求し、最高裁で死刑判決が確定しました。しかし、このとき少年の親の責任を問う声はありませんでした。母親はすでに自殺していましたが、父親は少年を小さいころから虐待していたのです。
 
(これについて私は「光市母子殺人事件・死刑囚の真実」という記事を書いています)
 
20歳未満の少年が犯罪をした場合、親は免責され、少年だけが刑務所や少年院に入れられ、ときには死刑になるというのが現実です。
 
つまり、親が子どもの行為の責任を取るのは、20歳未満の子どもの場合で、しかも民事など限られた部分だけです。子どもが20歳以上になれば、親はいっさい免責されます。
 
これは“バカ親天国”というべきでしょう。子どもがたとえ殺人者になっても親は罪を問われないので、バカ親のやりたい放題です。
 
もっとも、これに対しては、「子どもは親と別人格なのだから親の責任が問われないのは当然」という反論があるでしょう。
確かに親と子は別人格ですが、親は子どもを立派な人格の人間にするべく教育・しつけをしてきたはずです。その結果、立派な人格にならなかったら、その責任は誰にあるのでしょうか。
当然、子どもではなく親にあるはずです。
これは「教育責任」という言葉で表すことができるでしょう。
 
親が子どもに、規則や法律を守る、人に迷惑をかけないといったことを教育し、その結果、子どもが規則や法律を破り、人に迷惑をかけるおとなになったら、親の「教育責任」が問われることになります。
 
「教育責任」は、子どもが20歳以上になればなくなるというものではありません。むしろ逆で、子どもがおとなになったときに生じるものです。子どもが小さいうちは、「まだ教育の途中ですから」という言い訳が通用します。
 
日本では1995年に「製造物責任法」が施行され、製造物の欠陥によって損害が生じた場合は製造者の責任が問われることになりました。
しかし、「教育責任法」はいまだ存在しないので、親は子どもを思いやりのある人間にしたい、人に迷惑をかけない人間にしたい、東大に入れたい、音楽家にしたい、医者にしたい、巨人の星にしたいなどと好き勝手に教育目標を掲げて教育し、その結果、ろくでもない人間になったり、犯罪者になったりしても、「親と子どもは別人格。20歳すぎれば親に責任はない」という言い訳が通用して、いっさい責任は問われません。
 
これはどう考えてもおかしな理屈ですが、有識者も誰もこのことを指摘しません。
なぜかというと、有識者もたいてい親であり、かつ社会的ステータスもみのもんた氏に近く、自分の責任が問われるようなことにはしたくないからです。
 
「教育責任」ということを考えた場合、みのもんた氏は子どもの教育をしてきたでしょうから、当然責任を問われることになります(氏の次男が犯罪行為をするようなだめな人間であるということが前提ですが)
そして、どのように教育してきたかということが明らかになれば、世の親にとって他山の石となるでしょう。
 
 
子どもがおとなになっても親の「教育責任」が問われるという考え方に納得のいかない人もいるでしょう。
というか、誰でも自分の子どもの行為であっても、自分の責任は追及されたくないでしょう。
だったら、子どもを教育しなければいいのです。
もちろん、子どもが生きていくために必要な知識などは教えなければなりませんが、子どもの人格、性格、人間性には触れなければいいのです。
そうしたら、「親と子どもは別人格」と主張することができますし、子どもがどんな人間になっても、かりに犯罪者になっても、親に責任はないことになります。
実に簡単な理屈です。
 
そもそも、落ち着きのある子にしたいとか、強い子にしたいとか、嘘をつかない子にしたいとか、勉強には意欲的で遊びには意欲的でない子にしたいとかいうのはすべて親の邪心や利己心であって、子どもの人格形成のさまたげです。どんな子であれそのまま受け入れるのが親の愛というものです。

週刊文春10月4日号が「大沢樹生・喜多嶋舞長男(15)が虐待告白『僕はパパに殺されます』」という記事を載せています。子どもが親の虐待を告発するというのはひじょうに珍しいケースなので気になり、コンビニで立ち読みしましたが、結局買ってしまいました。
というのは、私は少し前に「息子はダメ人間」という記事で、「赤ん坊のときはどうだったか」という発想はいろんなときに役に立つと書きましたが、これはちょうどそのよい例と思えたからです。
「息子はダメ人間」
 
大沢樹生さんは元「光GENJI」のメンバーで男優、喜多嶋舞さんは女優ですが、私の世代にとっては喜多嶋舞さんというと、当時のスーパーアイドルだった内藤洋子さんの娘さんというイメージが強いです。
2人は1996年に結婚し、翌年に長男・文也君(文春記事における仮名)が生まれます。2人は2005年に離婚しますが、親権は喜多嶋舞さんのほうに、そして文也君は大沢樹生さんと同居するという形になりました。
親権者と同居者が別になったために、文也君はあまり同居者である親に依存することができず、それが親の虐待を告発するという異例の行動を可能にしたのかもしれません。また、文也君は小さいときに警察や児童相談所と関わったことがあり、祖母との関わりもあり、それも親への依存をへらすことになったのかもしれません。現在は中学時代の同級生の自宅にかくまわれているということで、そういうかくまってくれる場所があることも大きいでしょう。
 
文春の記事によると、両親が離婚する前から文也君は喜多嶋舞さんに虐待されていたということです。ウェブ版がないので、手で打ち込んで引用します。
 
僕の記憶にあるのは、家族三人で暮らした目黒の家なんですけど、この頃からママにボコボコにされる毎日を過ごしていました。ママはアメリカ育ちで英語がペラペラなので、僕にもそうなって欲しかったんでしょう。保育園から戻るとまず英語のレッスンをしていました。AからZまでアルファベットが並んだ教材があって、押すとappleとかcatとかお手本の声が流れるやつ。だけど、僕が単語をうまく発音出来ないと、思いっきりビンタされるんです。ママの表情を見ていれば、うまく言えたかどうかわかるので、ビクビクして顔色を窺っていました。
保育園のお弁当のことでもいつも殴られていました。「お弁当を残しちゃだめよ」と言われていたのに残してしまう僕も悪いのかな、と思っていたんですけど、蓋を開けて食べ残しを見つけると、弁当箱ごと僕の頭に叩きつけるようなことはしょっちゅうでした。ケチャップまみれになったり、お米まみれになって泣いていたのを覚えています。
(中略)
小学校に入ってから“風呂”が始まりました。水を張った浴槽に向かって立たされて、肩を浴槽の縁に押しつけながら、後頭部の髪を掴んで水に沈めるんです。息が苦しくて、「もダメ、死ぬ」という時に、プロレスのタップみたいなことをママにするんですけど、そうすると一瞬だけ上げてくれるんです。でも息が出来るのは一回だけで、またすぐ水に浸けられてしまうんです。それを何回も繰り返すんですけど、終わったころには動けないくらいぐったりしちゃうんです。ママは満足するのか、何もなかったかのようにキッチンに戻ったりするんですけど、僕はその場でいつまでも泣いていました。
怒り出すとすぐに包丁を僕の喉元に突きつけたりするので、だんだん僕もおかしくなってきて、小学校一年生の時には僕の面倒を見に来てくれていた、お父さん方のお祖母ちゃんに叱られただけで、包丁を持ち出したこともありました。
(中略)
離婚の本当の理由はわかりませんけど、ママが出て行った日に何が起きたかははっきりと覚えています。あの日、パパは一階のリビングのソファーで寝ていました。ママは何かを理由に僕のことを怒り終わると、寝ているパパのところに連れていき、「パパにちゃんと謝りなさい」って言ったんです。
僕がパパを起こせないでいると、ハイヒールのヒールの部分で僕の頭を思いっきり殴ったんです。頭が切れて、周りが血だらけになりました。パパは僕の悲鳴で目を覚まし、二人が殴り合いのケンカになりました。ママがボコボコにされて「出ていくわ」という話になって、結局、その日のうちに出て行きました。
 
こうして2人は離婚し、文也君は大沢樹生さんと2人で暮らすようになりますが、今度は大沢樹生さんから虐待されるようになります。これについてもかなり詳しい描写がありますが、それは省略して、最後の場面だけ引用します。
 
そんな中で、先週日曜日、僕が家を出て行くことに決めたあの“事件”が起きました。居酒屋のバイトの帰り、門限に遅れて、家の鍵を開けるとパパが無言で蹴っ飛ばしてきたんです。有無を言わさず蹴られ、その後はパンチが十五分ぐらい続きました。「風呂に入れ」と言われたので言われたとおりにすると、今度はいきなり押さえつけられ、日本刀を喉に突きつけられました。パパはすごい恐ろしい顔で僕を睨み付け、「これ引いたら死ぬぞ。オイ、ナメてんじゃねえぞ。どんだけ俺たちを裏切ったら気が済むんだ」というと、さらに僕を殴りつけました。この時、僕は「ああ、もうこの家に僕の居場所はないんだな」とはっきりわかったのです。
翌朝、僕は家を出ました。
 
以上は、文也君が語ったことです(正確には文春の記者が聞き取って書いたことです)
もちろんほかの人にはほかの人の言い分がありますから、それも引用します。
以下は、大沢樹生さんと再婚相手の早苗夫人が文春の記者に取材されたときのやり取りです。
 
――文也君は大沢さんからも長年にわたり暴行を受けていると語っています。
「それはありません。中学に入ってからはほとんど手を上げていません。小突く程度はありますが、どこの親でもある程度の話です」
――大沢さんが文也君に包丁を突きつけたことは?
(早苗夫人)「私が彼(文也君)に包丁を突きつけられたんです。包丁はひっきりなしでした。最初は祖母にやっていました。『助けて』と声がして行くと、祖母に至近距離で包丁を突きつけて、『殺すぞ』と」
(大沢)「あの子は虚言癖があって、自分が加害者でも被害者にすり替えて話すんです。心療系のクリニックにも通わせています」
 
次は、祖母に取材したところの、祖母の言葉です。
 
文也君から包丁を突き付けられたことは「ああ、あれは幼稚園くらいのまだ物の分別が付く前のことです」とのことだった。
 
そして、喜多嶋舞さんも取材に応じて、次のように語りました。
 
――英語のレッスン中に殴ったことは?
「私が彼に勉強ごとを教えたということは一切ございません。英語の玩具自体も家になかったと思います」
――包丁を突きつけた?
「小二の頃、一度、家庭教師さんと祖母がいたとき、彼が包丁を出して暴れたというのを聞きました。また、他のときに祖母に包丁を突き付けたと祖母から聞きました」
――水をはった浴槽に顔を押し付けることは?
「彼ね、水泳が好きで一年生のころから一人でお風呂に入ってたんですよ。『見て見て、イルカだよ』とか言ってお風呂に潜ったりするのを見せてくれたりして、後は自分で身体を洗ったりしてたので、彼が浴槽にいるところに近寄ったこともないので、何なんだろうというのが正直な感想ですね」
――ハイヒールで殴ったことが離婚の原因では?
「そんなことしたら、すごいですよね。私が一番悲しいのは、本人がそう思い込んでしまっていること。どうしてこういうことを思うようになっちゃったのか」
 
まさに「藪の中」です。これがあんまりおもしろいので、長々と引用してしまいました。
 
文春の記事は虐待を強く疑わせるような結末になっていますが、虐待があったと断定しているわけではありません。
 
実際のところはどうなのでしょうか。「藪の中」だから、真実はわからないということですませてしまっていいのでしょうか。
 
問題は文也君の「虚言癖」です。文也君はほんとうに虚言癖なのでしょうか。
 
ここで「赤ん坊のときはどうだったのか」という発想が効いてきます。
「生まれつきの虚言癖」なんて聞いたことがありません。いったいどこの時点で虚言癖になったのでしょうか。
両親ともに虚言癖でないのに子どもが虚言癖になるということがあるのでしょうか。
そもそも文也君はなぜ嘘をつく必要があるのでしょうか。嘘をついてなにか利益があるのでしょうか。
一方、両親のほうは嘘をつくことで世間の批判をかわすことができます。
 
こう考えると、文也君はほんとうのことを言っていて、両親が嘘を言っているという結論になるはずです。
両親は文也君を虐待した上に、虚言癖という汚名まで着せたのです。
 
しかし、世の中には親による幼児虐待を隠蔽し、子どもが嘘をついているという結論に持っていきたい人がたくさんいます。
アメリカでは1980年代に、幼児期に親に虐待(とくに性的虐待)されたとして親を相手に賠償金を求めるという訴訟が相次ぎました。最初は訴えが認められていましたが、そのうち虐待を隠蔽したい人たちが基金をつくって訴えられた親を支援し、また心理カウンセラーが虐待された記憶をねつ造しているという本が書かれるなどして、敗訴が相次ぐようになり、現在ではこうした訴訟はなくなってしまいました。
 
大津市の中二男子生徒自殺事件において、もっぱら学校でのイジメが自殺の原因とされ、親が虐待していたのではないかという疑惑が完全に隠蔽されているのも同じ構図といえます。
 
韓国の元慰安婦の証言を嘘と決めつける人が多いのも同じです。
 
自民党新総裁に選ばれた安倍晋三氏の「美しい国」にも、幼児虐待などはないことでしょう。
 
家族の問題を正しく理解しないと国家の問題も社会の問題も理解できません。

さすがに全国紙ではほとんど取り上げていないようですが、週刊誌やネットで話題になっているのがお笑い芸人河本準一さんの母親が生活保護費を不正受給していたのではないかという問題です。国会議員までが取り上げていますが、有名芸能人とはいえ、あくまで個人の問題です(厳密には有名芸能人の母親の問題です)。国政の場で個人の問題を取り上げていいのでしょうか。
 
片山さつき「河本を罰するのが目的ではないがグレー許さん」
お笑いコンビ・次長課長の河本準一(37才)の「母親生活保護不正受給疑惑」。自民党参議院議員の片山さつき氏や世耕弘成氏がネット上で言及し、厚労省に調査を依頼するなど、その波紋は広がるばかりだ。
 推定年収5000万円という河本だが、母親のことは扶養していないと主張している。これだけの高給取りでありながら、母親ひとり養えないというのは本当なのだろうか…。
 生活保護を受けようと思う人は、原則として本人が居住地の自治体窓口に申し出なければならない。自治体ではその際、本人の預金通帳や給与明細のコピー、年金の照会書などの提出を受け、その人が実際に生活保護が必要なほど困窮しているかどうかを調査する。
 だが、調査の範囲は、あくまで申し出人本人に限られる。ある自治体の担当者がその調査の限界について打ち明けた。
 「生活保護を希望する本人の収入や財産についてはできる限り調査します。しかし、調査権は別居している家族にまでは及びません。『扶養照会』といって、お子さんなどご家族の方に扶養する能力があるかどうかを調査することにはなっています。収入を証明する書類の提出もお願いします。が、それでも“経済的余裕がない”といわれてしまえば、それまでなんです。
 仮にお子さんに何千万円もの収入があることがわかっていても、借金を背負っているといわれればそれまでです。本人以外の経済的な事情を強制的に調査する権限は、法律上、市区町村にはないんです」
 親に生活保護を受けさせるか否か。それはこの場合、扶養者=子をはじめとする家族と、被扶養者=親、双方のモラルに委ねられる部分が大きい。そしてそこに、生活保護制度をめぐる“グレーゾーン”が広がる余地がある。
 だからこそ片山氏はいう。
 「非常に問題なのは、売れっ子芸人として若者たちにとても大きな影響力を持つ河本さんほどの立場の人が、生活保護をめぐるグレーゾーンについてきわめて鈍感であることです。この問題を取り上げるのは、彼を罰することが目的ではありません。ただしこのケースも含め、グレーは許さない、あくまで黒にしていくよう国会で取り上げ、法改正をしていかなければならないと思っています」
  ※女性セブン2012531日号
 
昔あった「噂の真相」という雑誌は、芸能人はオピニオンリーダーという面もあり、選挙に出て政治家になる可能性もあるので、公人に準じる“見なし公人”であるという理屈で芸能人のプライバシーを書きまくっていました。しかし、政治家が母と子の関係という個人のプライバシーを取り上げるのはまた別の問題です。
片山さつき議員や世耕弘成議員はネット情報に敏感な政治家です。いわば“2ちゃん脳”の持ち主なので、個人のプライバシーには鈍感なのでしょう。
 
しかし、これからはこうしたことが政治の場でどんどん取り上げられるようになるでしょう。というのは、アメリカの保守派がもっとも重視するのが「家族の価値」だからです。片山議員や世耕議員のような日本の保守派も基本的には同じですから、これから日本でも「家族の価値」が重視されるようになっていくでしょう。
となると、母と子の関係はプライバシーだとばかりはいえなくなってくるかもしれません。
 
そこで、もうすでにプライバシーが表面化してしまったので、河本準一さんと母親との関係について考えてみることにします。
 
河本準一さんがかなりの高所得者であることは間違いないでしょう。そして、生活保護制度では三等親内の血族には扶養義務があるということですから、河本準一さんが母親の生活の面倒を見るべきだというのが、片山議員や世耕議員に限らず世の中の多くの人の考え方でしょう。
しかし、それはあくまでまともな家族関係を前提とした話です。河本準一さんと母親との関係がまともでなければ、扶養義務はありません。早い話が、子どものころ母親に虐待されていて、今も怨みに思っているというのであれば、母親の扶養を拒否しても許されます。
 
では、河本準一さんと母親の関係はどうだったのかということになりますが、これはまさにプライバシーのもっとも深い部分です。そういうところまで政治家や一部マスコミは踏み込んでしまっているわけです。
 
もっとも、河本準一さんの場合は母親のことを笑いのネタにしています。河本さんのオカンネタは確実に笑いの取れる“鉄板ネタ”だということです。そして、それをもって河本さんと母親の関係はよいはずだと考える人がいます。
しかし、これは考え違いでしょう。たまたま5月20日の朝日新聞に漫才コンビ「ナイツ」の塙宣之さんの言葉が載っていて、それによると、学校時代のある日、テレビで芸人が自分のコンプレックスを笑いに変えて、笑いをとっているのを見て、自分もイジメにあっていたコンプレックスを笑いに変えたら、その日以来イジメはなくなり、人気者になったということです。
つまり笑いのネタというのはたいていコンプレックスがもとになっているのです。たとえば自分はブサイクであるとか、バカであるとか、女にもてないとか。
河本さんがオカンをネタにしたのは、それが自分にとってのコンプレックスだったからでしょう。
ちなみに既婚者の男の芸人で、芸能人を妻にしている人を別にすれば、自分の妻の言動を笑いのネタにする人はまずいません。ほとんどの場合、それをすれば妻を笑いものにしたということで、妻との関係が壊れてしまうからです。
河本さんの場合、母親の存在が自分にとってのコンプレックスで、すでに母親との関係が壊れているか、壊れてもいいと思ったから母親を笑いのネタにしたのではないかということが十分に想像できます。
 
河本さんは2007年、「一人二役」という本を出版しています。これは自分と母親のことを書いた本で、母親は離婚後父親役も兼ねるようになったという意味で「一人二役」という題名になっているそうです。この本の印税がかなりの額になるので、それも河本さんを非難する材料に使われています。
 
私は「一人二役」という本は読んでいませんが、内容は母親を讃えるものであるようです。しかし、それを額面通りに受け止めるわけにいきません。題名のように母親はやさしさときびしさと両面を持った人だったのでしょう。河本さんは母親のきびしさがトラウマになっていて、それをなんとか糊塗するためにこの本を書いたということがやはり十分に考えられます。
たとえば、親から暴力をふるわれたことがトラウマになっている人が「親がきびしく育ててくれたおかげで今の私があるのだ」というふうに暴力を肯定するのと同じ原理です。
31歳の若さで自分と母親との関係を一冊の本に書いた動機はなにかと考えてみると、河本さんの心の葛藤が想像できるはずです。
 
私がここで書いたことはすべて私の想像ないしは推測ですから、それが正しいと主張するわけではありません。
しかし、片山議員や世耕議員や世間の多くの人は、まったく逆の推測に基づいて河本さんを非難しているわけです。
どちらが正しいかは今の時点ではわかりません(というか、河本さんと母親以外にはわかりません)
河本さんを非難している人たちは、自分の非難がなんの根拠もない推測に基づいていることを知らねばなりません。
 
 
これからは政治の世界でも、こうした家族のあり方がどんどん取り上げられるようになるでしょう。
たとえば、「大阪維新の会」が「家庭教育支援条例案」なるものを発表し、結局取り下げましたが、これも家族関係が政治の場に持ち出された一例です。
ちなみに橋下徹大阪市長は体罰肯定論者ですが、石原慎太郎都知事は戸塚ヨットスクールの支援者で、かつて「スパルタ教育」なる本をものしています。
政治の世界では、右翼や左翼、保守や革新という概念がほとんど意味を持たなくなっています。代わって家族観の違いが新しい対立軸になっていくでしょう。
 
原発は“安全神話”にささえられていました。
古い家族観は“愛情神話”にささえられています。
これからは「愛情のある家族」と「愛情のない家族」がきびしく仕分けされていく時代です。

島田紳助さんのメール106通が週刊誌に公開されました。「黒いつきあい」というので、暴力団幹部とのメールかと思ったら、そうではなくて、元ボクシング選手の渡辺二郎被告とのメールです。それも、メールのやりとりではなくて、島田さんから渡辺被告への片方のメールだけが公開されているのです。どうして刑事事件被告のメールは非公開で、一般人というか芸能人のメールだけ公開なのでしょうか。
私的なメールを一方的に公開することが不当なのはもちろんですが、ここではそれはおいておいて、なぜ島田さんばかりが一方的に非難されるのかについて考えてみます。
 
つきあいというものは、普通は一方的なものではなく、相互的なものです。対等なものといってもいいでしょう。
しかし、暴力団と島田さんの場合は対等とはいえません。暴力団は圧倒的に前科者の比率が高く、今後も犯罪をする可能性が高く、金の稼ぎ方もまともではありません。つまり反社会的存在、あるいは日陰者なのです。一方、島田さんは才能ある大物芸能人で、その芸で多くの人を楽しませています。もし暴力団が島田さんと対等のつきあいをしていたとすれば、マスコミは暴力団に対して、「お前たちに島田さんとつきあう資格はない」と非難するべきです。
ところが、マスコミは暴力団ではなく島田さんを非難しています。どうしてでしょう。
ひとつは、暴力団をいくら非難しても、彼らは少しもこたえないので、非難しがいがないということがあるでしょう。その点、島田さんを非難するのは、大いにやりがいがあります。
つまり、マスコミは弱い者イジメをしているのです。暴力団は手ごわいから、弱い芸能人をやっつけてやろうということです。
 
さらにいうと、いちばん悪いのは、暴力団の排除に失敗した警察です。警察が暴力団をのさばらせているのです。暴力団がのさばっている以上、暴力団とつきあわざるをえない状況も出てきます。警察がちゃんと暴力団排除に成功していれば、暴力団とつきあう者もいません。
ところが、マスコミは警察を非難しません。小さな不祥事は非難しても、警察の基本方針を非難するような根性はありません。
 
つまりマスコミは、権威ある警察を非難できず、手ごわい暴力団も非難できず、そのため、島田さんのような弱い芸能人を非難しているのです。
 
そして、一般の人も島田さんを非難しています。島田さんは人気とお金があるので、やっかみもあるでしょうし、芸能人は差別しやすいということもあるでしょう。
 
マスコミ、一般人、芸能人が騒いでいるのを、警察と暴力団が上から眺めています。

島田紳助さんが芸能界引退を表明した理由は、暴力団との交際だということです。一般常識として、暴力団と交際するのはよくないことですし、芸能人の場合はとくによくないこととされています。しかし、よく考えるとおかしいですよね。暴力団と交際して犯罪を共謀するというのならいけませんが、ただ交際するだけのことがなぜいけないのでしょう。
 
見ただけで暴力団員とわかる人ばかりではありません。近所に住んでいて、知らずにつきあってしまう場合もあるでしょう。暴力団員とわかった瞬間につきあいをやめるというのは相手に失礼ですし、それに近所づきあいとして最低限のことはしないわけにいきません。
また、暴力団員とわかっていても、人間同士ですから、それなりの対応をしなければなりません。たとえば、暴漢に襲われたとき、暴力団員が助けてくれたとします(紳助さんの場合もこれに近いものがあります)。その場合も、恩人としての対応をしてはいけないのでしょうか。
つまり、暴力団員も同じ社会に人間として生きているのですから、どうしてもつきあわざるをえない場合もあるのです。
ですから、暴力団と絶対つきあうなというルールのほうがおかしいのです。
 
では、どうしてこんなおかしなルールができたのでしょうか。それは、警察に責任があります。
 
もともとヤクザは少なくとも江戸時代から存在し、社会で一定の位置を占めていましたが、戦後、警察はこれを暴力団と呼んで排除するということを始めました。最初は頂上作戦といって幹部を逮捕する作戦を、第一次、第二次、第三次とやり、それから資金源を断つという作戦をやり、さらに、いわゆる暴対法をつくり、最近は地方自治体で暴力団排除条例の制定を進めています。その結果どうなったかというと、暴力団構成員の数が少しへったぐらいの成果しか上がっていません。つまり、警察は暴力団を排除することに完全に失敗したのです。
東京電力は原発事故処理の工程表を発表し、冷温停止の時期を示していますが、警察は暴力団排除の“工程表”を発表したことはなく、いつ排除に成功するかの時期も示していません。おそらく国民のほとんどは、警察は暴力団の排除に永久に成功しないだろうと考えています。
しかし、警察は失敗を認めようとせず、もちろん謝罪もしていませんし、誰も責任を取っていません。
むしろ警察は、みずからの非を国民に押しつけようとしています。そのためにつくったのが、暴力団とつきあってはいけないというルールです。
さっきも言ったように、そこに人間がいるのにつきあうなというのはむりなのです。そこに人間(暴力団員)がいるのは、警察が失敗したせいです。しかし、警察は逆に、暴力団とつきあう国民が悪いというイメージをつくりあげて、自分の失敗をごまかそうとしています。
 
警察は、暴力団排除の“工程表”を発表して、暴力団排除に成功する時期を示さなければいけませんし、それができないなら、暴力団排除の作戦を中止しないといけません。
今は勝ち目のない戦いに戦力を投入し続ける“ガダルカナル状態”で、その損失をこうむるのは国民です。
警察・司法・法務の官僚はみずからの間違いを認めて、作戦を中止するべきです。
 
 
作戦を中止したとき、暴力団対策はどうすればいいかは、次のエントリーを参考にしてください。
「暴力団追放運動の不思議」
 

田代まさし被告に3年6カ月の実刑判決が下されました。刑期を務めたからといって、それで田代さんが立ち直るわけでもなく、こうした判決にはむなしさが募ります。私が前からいっているように、この手の犯罪者には刑罰ではなく治療や支援が必要なのです。
 
私は前に一度田代さんに会ったことがあります。確か2度目の事件で執行猶予判決が出たあとです。そのとき、やけに「家族のささえ」や「家族のために」ということを強調していたのが気になりました。そのわりに家族との関係の具体的な話がなかったからです。のちに実刑判決を受け、服役中に離婚しています。
 
出所後、田代さんは「審判」(創出版)という本を出しました。私は読んではいませんが、ニュースサイトにはこんなふうに書かれています。
 
毎日jp重大ニュース参考記事「田代まさしさん:覚せい剤事件で服役 刑務所生活つづった本出版」(09822日掲載)
 
しかし、乗り越えられたのは「ファンらの励ましがあったから」。出所後に開いたトークライブで少女から手紙をもらった。以前田代さんと一緒に撮った写真を手術中、枕元に置いてがんと闘ったと記されていた。
 
 最近は雑誌連載やトークライブ、音楽イベントの司会など仕事が少しずつ増えてきた。「中傷は今も受ける。でも、励ましてくれる人が一人でもいる限り頑張ることが恩返しになる」と再起を誓う。
 
 
今度は家族ではなく「ファンのささえ」を強調しています。どうやら自分のイメージをよくするには、そういう“感動話”がなければならないと思っているようです。
田代さんは芸能人としての人気を維持するために、つねにそういうなんらかの作為ないし演技をしてきたのでしょう。
もっとも、それは誰でも大なり小なりしていることではあります。普通のサラリーマンでも実力がありそうな演技を少しはしているはずです。
しかし、たいていの人は社会的な場面ではそういう演技をしていても、家族など親しい人の前では素顔に戻ってリラックスした時間を持つことができます。
 
田代さんがその点どうだったのかはわかりませんが、推測することはできます。
ウィキペディアによると、田代さんの出生後まもなくして父親がほかの女性のもとに走って両親は離婚。母のもとで暮らすが、夜の仕事をしていた母が留守の間は大家に預けられていた。13歳のときに母が再婚。その後まもなくして父と父の再婚相手である女性といっしょに住むことになったが、その生活にになじめず素行不良が目立つようになり、酒、タバコ、シンナーに手を染めた、ということです。
一般論として、恵まれない家庭で育った人間はなかなか幸福な家庭をつくることができません。また、ありのままの自分を受け止めてもらった経験がないと、ありのままの自分を人の前で出すことができません。
田代さんは芸能界の人気者となり、人気の維持に大きなエネルギーを費やしましたが、その一方でリラックスのできる家庭をつくることができなかったのではないでしょうか。そのためクスリにしか救いを求めることができなかったのかもしれません。
 
ところで、田代さんが問題を起こし、逮捕されることを繰り返すと、それまで田代さんに同情し、応援していた芸能界の仲間が非難する側に回るということが多くありました。私から見ると、これもへんなことです。病状が重くなっていく患者を非難するのと同じだからです。
 
世の中が正しい犯罪対策に目覚めるのはいつの日でしょうか。
 

私は、覚せい剤で複数の逮捕歴のある芸能人の誌上対談の原稿を担当したことがあります。そのとき、彼がなぜ覚せい剤にはまってしまったのか、そしてなぜ覚せい剤を断つことができないのかがわかった気がしました。
 
対談のテープ起こし原稿を読むと、明らかにつじつまの合わないところがいくつもありました。前にいったことと、あとでいったことが違うのです。その意味で、ロス疑惑の三浦和義さんの原稿と似ています。
(三浦和義さんについては「ロス疑惑についての一考察」で書いています)
 
私は原稿を読んで頭をかかえました。明らかに矛盾したことを書くわけにはいきません。文章のテクニックでごまかすことはできますが、あいまいなところがいっぱいある文章はつまらなくなります。
このときはまだウィキペディアも充実していなくて、ネットで調べてもわかりませんでした(ちなみにウィキペディアは芸能人の情報が多いということでよく批判されますが、メディアの仕事をしている人には確実に喜ばれていると思います。インターネットが発達する以前、なにが調べにくいかというと、芸能関係の情報なのです。わからないことは図書館に調べに行くことになりますが、芸能関係の情報は図書館にほとんどないからです)
 
私は繰り返し原稿を読み、どれが正しい事実なのかを考え、そして、ついに真実にたどりつきました。
彼が自分から先に話したことは事実なのです。しかし、対談相手がそれを誤解することがあります。
たとえば、彼が「22歳のときに大きな転機がありました」といったとします。それからほかの話題に移り、また転機の話に戻ったとき、対談相手が「転機は20歳でしたね。そのときあなたは……」といったとします。彼はそれを訂正しないのです。そのため、転機があったのは20歳のときという前提で話が続いていくので、前半と後半が違ってくることになります。
対談をしていると(対談に限りませんが)、当然誤解が生じることがあります。それは当然、そのつど訂正して対談を続けていかなければなりません。
彼は相手の話をさえぎって、「いや、そうじゃなくて、転機があったのは22歳のときです」というべきなのです。
しかし、これは“話の腰を折る”という行為です。一瞬、話の流れが断たれます。
彼は“話の腰を折る”ことができないのです。そのため、対談相手の誤解は放置され、いったん放置された以上、あとになって訂正することもできなくなります。
22歳と20歳というのは目に見えやすい誤解ですが、目に見えにくい、つまり水面下の誤解というのもあります。それも全部放置されます。そのため、対談の原稿を読むと、矛盾だらけになってしまったのです。
私は、この人は“話の腰を折る”ことができない人なのだ、相手の誤解を訂正しない人なのだという前提で原稿を読みました。そうするとすべてのことが矛盾なく、明快に解釈できたのです。
それによって、なんとか対談原稿をまとめることができました。
 
この人はなぜ“話の腰を折る”ことができなかったのでしょうか。それは、気が小さかったからです。瞬間でも、相手の不興を買うようなことができなかったのです。
私は対談原稿をいっぱい担当しましたが、こんなに気が小さい人は見たことがありません。若い女性タレントでも、自分について誤解されればすぐに訂正します。
 
この、複数の逮捕歴のある芸能人は、実はコワモテの役柄を演じることを得意とする役者でもあります。あのコワモテのイメージの人が、実際はひどく小心者であったのです。
このイメージの落差、つまり外面と内面の差をとりつくろうには、相当な精神的エネルギーがいったでしょう。それに疲れ果て、つい覚せい剤に手を出してしまう。そういうことだったのではないでしょうか。
 
芸能人に限らず、繰り返し覚せい剤に手を出す人は、意志が弱いと非難されます。
しかし、その人のことを深く知れば、そんな意志の問題ではないことがわかってきます。
覚せい剤に手を出す人は、非難されるべき人ではなく、救済されるべき人です。

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