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YouTuberの「少年革命家ゆたぼん」(12歳)さんが自身のYouTubeチャンネルで「いよいよ今年度から中学生になんねんな。でも俺は、中学校に行く気はありませーん!」と不登校を宣言。義務教育については「教育は学校に行くことだけじゃないから。おれみたいにホームスクーリングとかフリースクールでもええねん」と主張しました。
これがきっかけで、「なんのために学校へ行くのか」という議論が巻き起こっています。

格闘家でYouTuberのシバター氏は、「ゆたぼん君に学校の良さを伝えたい」のタイトルで動画をアップし、「学校に行くとほんとうの友だちができる。仕事が縁で知り合った人間は多少なりとも利己的な部分があるが、子どものときにできた友だちは、2人に経済的な格差ができても、その関係は変わらない」と主張しました。
これに対してゆたぼんさんは、動画の中で「パパとかシバターさんの中学時代はネットもスマホもなく、友だちを作る場所が、たぶん学校しかなかったから、そんなことを言ってるんやと思う」「中には、学校に行ったけど友だちが一人もできひんかったって人もおるわけやん」などと反論しました。

2ちゃんねるの創始者である「ひろゆき」こと西村博之氏はツイッターで、ゆたぼんさんの親を批判し、「子供を学校に通わせないで、身の回りの出来事を学ぶことで生きる力を云々という頭の悪い親がいますが、身の回り生活からどうやって虚数の概念を学べるのか聞いてみたいです」「『虚数なんて知る必要がない』と考える人は知識が足りない」と主張しました。
ゆたぼんさんの父親はひろゆき氏に反論して、ツイッター上でバトルを繰り広げました。

虚数の概念を学ぶことにどれだけの価値があるのかというのはむずかしい問題ですが、いずれにせよ、学校に行かなければ虚数を学べないということはないはずです。

昔は学校に行かないと学ぶ機会はまずありませんでした。
発明王のエジソンは学校をやめたあと、教師の経験のあった母親から学びましたが、これは例外です。

しかし、今はインターネットがありますし、フリースクールなどの代替学校もあります。

最近は不登校の子どもが増えているので、文科省も「不登校は誰にも起こりうる」という認識に立ち、代替学校へ通ったことを「出席扱い」とするなどの対応を進めています。



どこでも学べるようになると、「なんのために学校へ行くのか」という問いに対しては、シバター氏のように「学校に行くと友だちができる」といったことしか言えなくなります。

あと、「集団(団体)生活に慣れるため」という理由もよく挙げられます。
しかし、これはおとなの論理です。
「集団生活に慣れたい」と思っている子どもはいないので、子どもを説得するためには使えません。


しかし、考えてみれば、学校はほとんどタダで幅広い教科を教えてくれるのですから、これほどありがたいところはありません。
それでも不登校の子どもが増えるのはなぜでしょうか。
それは、学校教育の目的が根本的に間違っているからです。


学校教育について理解するために、江戸時代の寺子屋と比較してみます。

寺子屋の目的は「読み書き算盤」を教えることです。
読み書き算盤は子どもが生きていく上で必要なことですから、親は月謝を払い、子どもも納得して寺子屋に通いました。
一斉入学ではないので、指導はすべて個別指導です(商人の子、職人の子、百姓の子によって教材も違いました)。
先生がきびしく子どもを指導するということもありません。そんなことをすれば子どもはほかの寺子屋に行ってしまいます。
子どもにとって寺子屋の先生は生涯唯一の師匠なので、その絆は深く、先生が亡くなるとかつての生徒たちがお金を出し合って筆子塚というお墓をつくることがよくありました。寺子屋の記録というのはほとんどないので、今に残る筆子塚を調べて、昔の寺子屋の数が推定されました。
つまり寺子屋の教育は「子どものため」でした。

明治5年、学制が公布され、学校制度が始まりました。
「学制序文」の冒頭はこう記されています。



人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ


「人々が立身し、生計の道を立て、業を盛んにして、よい人生を送る」ということを目標に掲げ、そのためには学問をするしかなく、そのために学校を設けるのだと言っています。

これは福沢諭吉の『学問のすすめ』と基本的に同じ考え方です。
このときの学制はフランス式で、個人主義、実学主義でした。
つまり学校に行って勉強すれば、社会的地位が高く豊かな生活ができるようになるということで、学校教育は寺子屋と同じで「子どものため」でした。

しかし、帝国憲法と教育勅語によって、教育の目的はがらりと変わります。

教育勅語(文部省による現代語訳)にはこう書かれています。



汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。


「公共の利益」や「世のため」や「皇室国家の為」がうたわれ、「一身を捧げ」ることまで求められています。
つまり学校教育の目的は「富国強兵」になったのです。



敗戦により、国のあり方は大きく変わりました。
その中で教育基本法が1947年に制定され、2006年に改定されました。
教育基本法の「教育の目的」はこうなっています。




(教育の目的)

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


「人格の完成」というよくわからない言葉が入っています。
「人間は死ぬまで修養である」というのが日本人の考え方です。
しかし、「人格の完成」というのは、どこかに行き止まりがあるわけです。プラトンの「イデア」か、アリストテレスやカントの「最高善」から持ってきたのでしょうか。
いずれにせよ、「人格の完成を目指したい」という子どもなどいないので、子どもにとってはよけいなものです。

意味不明な「人格の完成」という言葉を無視すると、ここには「国家及び社会の形成者」と「心身ともに健康な国民」の育成がうたわれていて、子どもを社会や国家に役立つ人間にしようとしていることがわかります。
「平和」や「民主」という言葉で飾られていますが、その実態は国家主義のままなのです。
左翼やリベラルがここを批判しないのは不思議です。

教育基本法を制定するとき、寺子屋や福沢諭吉の時代にまで戻らなければなりませんでした。
たとえば、次のようにあるべきです。

(教育の目的)
第一条 教育は、子どもの現在と将来の幸せを期して行われなければならない。

子どもは一人一人能力も性格も違いますから、必然的に個別指導にならざるをえません(一斉授業というのは教える側の都合だけで行われています)。
そういう学校なら、ゆたぼんさんも登校拒否をしなくてもすんだかもしれません。

現在の教育を巡る混乱は、「国家社会のための教育」か「子どものための教育」かという視点で見ると明快になります。
理不尽な校則による人権侵害が平気で行われているのも、子どものための教育ではないからです。
教師は、自分は子どものために働いているのか、国家の手先になって子どもを隷属化させるために働いているのか、考え直さなければなりません。


子どもが不登校になると、親や世の中はなんとかして子どもを学校に行かせようとします。
しかし、これは服が体に合わないとき、体を服に合わせようとするのと同じです。
子どもの人間性や能力や性格は生まれ持ったものなので、変えることはできません。
学校を変えて子どもに合わせるのが正しいやり方です。