村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:経済学

3月4日の夜のニュース番組を見ていた人はびっくりしたでしょう。安倍総理が突然アカペラでわけのわからない歌を歌う映像を目にしたからです。
この日、来日したIOC評価委員会のメンバーを前に安倍首相がスピーチをし、その中で東京オリンピックにまつわる思い出の歌を歌ったのです。
 
その歌とスピーチはここで見られます。
 
安倍首相IOCに熱唱アピール ノーカット
 
このところ安倍首相の政権運営は絶好調です。TPP交渉参加の方向は決まりましたが、反対派は沈黙しています。日銀総裁人事についても、麻生財務相は明らかに元財務次官の武藤敏郎氏を推す意向で、安倍首相と衝突するのではないかと思われましたが、すんなりと黒田東彦氏でまとまりました。なにしろ野党が弱体なので、党内がまとまれば怖いものはありません。
 
では、安倍首相はどんどん自信を深めているかというと、そうは見えませんでした。
私はテレビで安倍首相を見るたびにその表情に注目していましたが、いつも浮かない顔に見えました。おそらくお腹の調子がよくないのに違いないと私は推測していました。
安倍首相は常温の水が入った水筒を持ち歩き、国会の委員会の質疑中にも何度も席を外してトイレに行っていたということですから、その推測には十分根拠があります。
 
ところが、4日のスピーチで歌ったときは、明らかに浮かれた表情になっていました。いったい安倍首相になにがあったのでしょうか。
 
そう思って調べてみると、理由がわかりました。安倍首相は2日と3日は休暇を取っていたのです。
 
安倍首相:山梨の別荘で休息
 毎日新聞 20130303日 東京朝刊
 安倍晋三首相は2日、山梨県鳴沢村の別荘に入った。3日まで滞在し、公務は入れずに趣味のゴルフなどを楽しむ予定。妻の昭恵さんも現地で合流した。年明け以降、アルジェリア人質事件、国会審議、2回の海外出張などほぼ休みなく働いてきた首相にとって、つかの間の休息になる。
 
 週明けから国会で13年度予算案の審議が本格化し、中旬には次期日銀正副総裁人事案の採決も控える。周辺は「飛ばしにこだわるゴルフで気分転換したいのでは」と首相の気持ちを代弁した。【飼手勇介】
 
2日と3日、完全休暇を取ったことでお腹の調子がよくなり、それで4日にはしゃいでしまったというわけです。
実にわかりやすい人です。
 
逆に言えば、今の安倍首相にとって障害はお腹の調子だけということでもあります。
マスコミも安倍首相にはきわめてやさしいと言えます。
たとえば先の訪米も、アメリカとの絆を確かめたということになっていますし、森元首相が安倍首相の特使として訪露し、プーチン大統領と話し合ったことも外交の前進ということになっています。
しかし、プーチン大統領は領土問題について「引き分け」という言葉を使い、島の面積を二等分するという考えを持っているようです。かつて鈴木宗男氏が国会議員のときに二島返還論を述べたら大バッシングにあってしまいましたが、それと比べると大違いです。
また、中国や韓国との関係修復もまったく進んでいませんが、そのことも問題とされません。
 
なぜマスコミ(と国民)がこのように安倍政権に甘いかというと、やはりアベノミクスが一応うまくいっているからでしょう。
 
私はかつて「『アベノミクス』はバブルを生む」という記事を書いたことがあります。
 
今も考えは変わっていません。金融緩和や公共投資では実体経済はよくならず、株や土地が高くなる資産バブルを生むだけだと思います(アベノミクスの第三の矢である成長戦略はうまくいくわけないと思っています)
とはいえ、バブルがどのようにして生成するのかを見届けたいという思いもあります。
 
週刊誌の見出しには「安倍バブル」という言葉が踊っています。
しかし、みんなが「これはバブルだ」と思っている間はバブルではありません。
しかし、どんどん株価が上がり、景気もよくなってくると、どんどん警戒心が薄まり、みんなが「日本経済は完全に復活した」「これが日本経済の実力だ」と考えるようになります。これがバブルです。
果たしてそんなときがくるのか、どのようにしてくるのかを見てみたいものです。
 
私は一応株式投資をしているので、うまくやればその過程でもうけることができます。
同じことを考える人が多くて、今ネット証券は新規口座開設ラッシュだそうです。
 
おそらく日本人のほとんどがバブル期待に胸をふくらませているのではないでしょうか。
それまで安倍首相のお腹がもってほしいものです。

竹中平蔵慶応義塾大学教授の存在感が再び増しています。日本維新の会の橋下徹代表代行のブレーンですし、日本維新の会の公募候補者選定委員長も務めています。また、自民党の安倍晋三総裁のブレーンでもあり、安倍総裁は次期日銀総裁に竹中氏を起用するのではないかとも言われています。
 
私自身は竹中氏について、小泉政権時代に不良債権処理をやったことについては評価するべきだし、規制緩和も基本的にはよいことではないかと思っていました。しかし、「東洋経済オンライン」の竹中氏のインタビューを読んで、トンデモ思想の持ち主だということがわかりました。
 
竹中平蔵()「リーダーは若者から生まれる」
 
このインタビューは、リーダー論を語っていることもあって、政治的な発言が多いのですが、なにを語るにしても、その根底には経済学者としての見識がなければならないはずです。しかし、こういう発言はどうなのでしょうか。
 
私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。
 以前、BS朝日のテレビ番組に出演して、堺屋太一さんや鳥越俊太郎さんと一緒に、「もっと若い人たちにリスクを取ってほしい」という話をしたら、若者から文句が出てきたので、そのときにも「君たちには貧しくなる自由がある」という話をした。
 
「みなさんには貧しくなる自由がある」はまさにトンデモ発言です。あまりにもトンデモなので、多くの人はどう反論していいのかわからなくなるかもしれません(それが竹中氏の狙いでしょう)
 
もしかして竹中氏は、「人間は自由の刑に処せられている」というサルトルの言葉を参考にしたのかもしれません。しかし、竹中氏が言っているのは人間の経済活動に関してですから、サルトルの実存主義思想とはなんの関係もありません。
 
経済学は「経済人」ないしは「合理的経済人」という人間観を土台にした学問です。つまり人間は損と得があれば得を選択するものだということが前提になっています(今は経済的に不合理な行動についても研究されていますが、それも進化生物学的な合理性が想定されています)
人間は貧乏になる自由や権利があっても、みずから貧乏を選択することはないのです(一部に破滅的な生き方をする人はいますが、そうした人は人格形成の問題や極度にストレスのかかる状況から必然的にそうするのであって、決して自由や権利を行使しているのではありません)
 
竹中氏は貧困国を見たとき、「この国の人は貧しくなる自由を行使しているなあ」と思うのでしょうか。あるいは、失業率のグラフを見て、「今月は先月より失業する自由を選択する人が増えたのか」と思うのでしょうか。
 
また、「頑張って成功した人の足を引っ張るな」という発言もひどいものです。経済行為の中にモラルを持ち出し、しかもそれを成功していない人にだけ求めているからです。
 
昔の経済学者には、世の中の貧困をなんとか解決したいと思って経済学を志した人が少なくありません。河上肇もその一人で、貧乏についての研究を「貧乏物語」として著しましたが、まだマルクス主義の影響を受ける前で、貧乏の解決を富裕層のモラルに求めたところが甘いと批判されました。
竹中氏はちょうど河上肇の真逆をいっているわけです。富裕層がより豊かになることを貧困層のモラルに求めています。
 
竹中氏の考えは経済学とはまったく関係ありません。新自由主義という政治思想というべきでしょうが、これは政治思想としてもお粗末です。
 
とはいえ、アメリカではこうした考えが広く存在するようです。先の大統領選のときに共和党のロムニー候補は、富裕層に選挙支援を求めるパーティにおいて、「何があってもオバマ大統領に投票する人が47%いる。彼らは政府に頼り、自らを犠牲者だと思い、所得税を払っていない」とした上で、「彼らの心配をするのは私の仕事ではない」と述べました。竹中氏はこうしたアメリカ的な考えをそのまま受け入れているのでしょう。
 
竹中氏はタフでディベート力もありますが、こういうトンデモ発言が野放しになっているのはいただけません。

経済学の入門書を読むと、たいてい「一物一価の法則」というのが書いてありますが、果たしてこれは「法則」というほどのことでしょうか。これは「当たり前」というべきです。初歩の段階で「一物一価の法則」を学んでしまうと、そのあとのことが頭に入りにくくなってしまいます。
経済学でだいじなのはむしろ「価格変動の法則」でしょう。同じ物でも場所と時間で価格が変動するということを理解すれば、「一物一価の当たり前」はどうでもよくなります。
 
価格変動といえば、需要と供給の法則ということになりますが、需要にせよ供給にせよ抽象的な概念です。そもそも需要とはどうして発生するのでしょうか。こういうことは具体的なことから説明してほしいものです。
 
人間が生きていくにはまず空気が必要ですが、空気はどこにでもあります。水もそれほど苦労せずに手に入ります。問題は食糧です。食糧がないと生きていけませんが、食糧を手に入れるのは簡単なことではありません。
これはどんな動物でも同じです。動物の最大の関心事は食糧を得ることです(次に子孫を残すことです)。食糧を得られないために死んでいく個体はつねに少なからずいます。
 
ですから、人間もつねに食糧を得るために必死であるわけですが、もともと人間は自分の食べるものを自分で得ていて、つまり自給自足の生活をしていたわけで、そうすると市場もありませんし、需要と供給も、価格変動もありません。
しかし、あるとき物々交換が始まりました。こうして市場ができ、経済学が存在する理由ができたわけですが、物々交換はどうして始まったのでしょうか。
物々交換は、双方ともに得だと思うことで成立するのですが、どうして物を交換することで双方が得をするのでしょうか。
これは人間の生理的欲求の性質によります。この生理的欲求は生物学的に規定されています。
 
山の民は主に獣の肉を食べて暮らし、海の民は主に魚を食べて暮らしていますが、いつも同じものを食べていると飽きてきて、別のものを食べたくなります。別のものを食べるとおいしく感じます。これは人間の生まれついての性質で、生物学的に規定されています。そうしてさまざまな栄養素を取り込むことができるわけです。
つまり、山の民はたまに魚を食べると獣の肉よりもおいしく感じ、海の民はたまに獣の肉を食べると魚よりもおいしく感じます。双方がまずいものをおいしいものと交換したと思うから、物々交換が成立するのです。
 
これはあくまで人間が生物学的存在だからです。このことを無視して物々交換の発生を説明することはできないと思います。
 
しかし、経済学の本には、人間の生理的欲求だとか、本能だとか、生物学的要素だとかはめったに書かれていません。たいていは、いきなり市場における価格決定のことから書かれています。
 
経済学の入門書は、人間がほかの動物と同じように暮らしていたところから書き出すと、とてもわかりやすくなると思います。
 

経済学に「限界効用理論」というのがあります。私はこれがどういうことかわかりませんでした。経済学の入門書を読んでもわからないし、経済学部の友人に聞いてもわからない。あるとき、NHK教育テレビでアニメを使って説明しているのをたまたま見る機会があり、今度こそわかるかと思って集中して見ましたが、やはりわかりませんでした。
 
私は、モノの価値というものを経済学はどう説明しているのかが知りたかったのです。マルクス主義経済学では労働価値説というのがあり、これが正しいかどうかは別として、考え方としてはわかります。それに対して、近代経済学では効用価値説というのがあるのですが、この「効用」というのがよくわからないのです。「効用」を理解するには「限界効用」を理解しなければならないのかと思ったのですが、結局「限界効用」もわからないということになってしまいました。
 
もっとも、こういうことはわからなくても困りません。今は市場というものが成立しているので、市場においてモノの価値が決定されるからです。そういう意味では、労働価値説でも効用価値説でもどっちでもいいということになります。
しかし、市場が成立する以前にもモノの価値はあったわけですから、私はそれが知りたかったわけです。
いろいろやってもわからないというのは、私の頭が悪いからだと思って諦めていましたが、やはり納得いかない思いが残ります。
 
ということで、今回ちょいと思いついて検索してみると、「限界効用」も「効用」もわかりました。そして、今までなぜわからなかったかもわかりました。私の問題意識が経済学とずれていたのです。
「限界効用」とはこのようなもののようです。
 
消費者が財を消費するときに得る欲望満足の度合いを効用という。しかし同じ1枚のパンの効用も、1枚目と2枚目とではその大きさは異なるであろう。通常は、1枚目のパンの効用よりも2枚目のそれのほうが小さく、さらに3枚目はもっと小さくなる傾向がある。このように、財の消費量が増加していくときの追加1単位当りの効用を限界効用といい、財の消費量の増加とともに限界効用がしだいに減少することを「限界効用逓減(ていげん)の法則」(または「ゴッセンの第一法則」)という。
(Yahoo!百科事典「限界効用」より)
 
 
なるほど、一枚目のパンより二枚目のパンの価値が小さいというのはよくわかりますし、それが法則化されているというのもわかりました。
しかし、私が知りたかったのは、一枚目のパンの価値はどうして決まるのかということなのです。そういう問題意識で経済学の入門書などを読んでいたので、ぜんぜんわからなかったのです。
 
一枚目のパンの価値について、経済学者はちゃんと論じているでしょうか。論じていないのではないかと思います。
文系の学問がだめなのはここです。いちばん根底のところをないがしろにしているのです。
 
一枚目のパンの価値を論じようとすると、人間はパンなしでは生きていけない存在、つまりただの動物であることを認めなければなりません。これは当たり前のことですが、とくに欧米の学者は認めたくないようです。そのため、経済学の根本のところがいい加減になってしまうのです。
 
たとえば、「水とダイヤモンドのパラドックス」といわれるものがあります。これも人間が動物であることをごまかしているので、よくわからない説明しかできていません。
 
価格の表す希少性は、効用とは区別すべき概念である[1]。伝統的には水とダイヤモンドを例として価値と価格のパラドックスを問題にしたアダム・スミスがいる。水はそれなしで人間が生きていけない程効用の大きなものであるが、豊富に供給されているためその限界効用(後述)は小さくなっており、市場価格は非常に安いものとなっている。一方、ダイヤモンドは単なる装身具であり、水に比べて効用は小さいが非常に希少であるため限界効用が大きく市場では高い価格で取引される。これが水のない砂漠であれば、人は容易に一杯の水のためにダイヤモンドを手放すであろう。水に希少性が出てきたのでダイヤモンドの限界効用を上回ってしまうためである。
(ウィキペディア「効用」より)
 
ウィキペディアにかみついてもしょうがないのですが、ウィキペディアがいちばんわかりやすく説明していたので、取り上げました。
 
砂漠の遭難者がコップ一杯の水のためにダイヤモンドを手放すというのはよくわかります。しかし、それは水に希少性があるからだけではありません。砂漠で希少性があるのは、ガソリンにしてもお米にしても同じです。しかし、ガソリンやお米のためにダイヤモンドを手放すことはありません(つけ加えれば、砂漠ではダイヤモンドの希少性も高まります。近くに宝石店がないので)
なぜ水のためにダイヤモンドを手放すのかといえば、水がなければ人間は生きていけないからです(ウィキペディアにも一応そのことは触れられていますが、市場価値を中心に論じているので、わかりにくい)。
 
つまり、モノの価値の根本には、「人間が生きていくために必要である」ということがあるのです。
ですから、空気、水、食べ物、衣服、住まいなどに価値があります。それらが満たされたときにダイヤモンドなどにも価値が出てくるのです。
ところが、経済学者は市場価値を基準に考えているようで、そのため私とかみ合わなかったのです。
 
これから経済学が真に科学といえる学問になるには、人間が生物であるという前提から組み立てていってもらわなければなりません。

このページのトップヘ