村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:習いごと

英才教育とか早期教育というと音楽と切っても切り離せません。モーツァルト神話というのがあって、モーツァルトは父親から早期教育を受けて才能を開花させた、だから、早期教育をするとモーツァルトみたいになれる――という非論理的なことが信じられているようです。
 
私は幼少期にバイオリンを習っていました。私は1950年生まれですが、この世代では周りにバイオリンだのピアノだのを習う子どもはほとんどいませんでした。
私は小さいころ、夜店で買ったラッパなど音の出るもので遊ぶのが好きだったらしく、両親はこの子は音楽の才能があるに違いないと思って、バイオリンを習わせたわけです。最初に行ったバイオリン教室では、先生は私が小さすぎて教えるのはむりだと思ったようで(4歳ぐらいだった?)、聞いているだけでよいというやり方でした。
その後、個人レッスンを受けるようになり、小学生5年生ごろまで続けていましたが、結局まったくものになりませんでした。自分で練習しないのでうまくなるわけがありません。本人にやる気がないと、なにを習わせてもだめだというよい例です。
 
両親は教育熱心で、ほかにも水泳教室、柔道教室に通わされました。習いごととは違いますが、ボーイスカウトにも入っていました。
当時、家の近くには学習塾はありませんでした。私が中学になったころに、かなり離れたところにようやくできました。もし近くに学習塾があったら、それも通わされていたかもしれません(当時、子どもの習いごとはソロバンか書道ぐらいで、学習塾というのはなかったのです)
 
あとで調べたのですが、私が子どものころすでにバイオリンの早期教育法である「スズキ・メソード」がかなり普及していました。両親もその考え方に影響を受けたのでしょう。
 
しかし、私はバイオリンの早期教育を受けた結果、バイオリンがものにならなかっただけでなく、クラシック嫌いになってしまいました。いや、音楽もあまり好きではないかもしれません。
 
私の1歳上の兄はきわめて音楽が好きで、ジャズとロックのレコードをいっぱい集めていました。私は兄がいたおかげでアメリカンポップスやビートルズを人並みに聞いていました。
私には音楽の才能はなかったでしょうが、もしバイオリンを習っていなければ、もっと音楽を楽しむ人生を送れていたような気がします。
 
私の数年あとの世代にはピアノなどを習っていた人がいっぱいいます。もっともピアノを習ったからといって、それが人生に役立っているという人はあまりいないようです。日本の家庭にはたくさんの高価なピアノがむだなスペースを占拠しています。
 
ピアノだのバイオリンだのを習っても、それを職業にできる人はわずかしかいません。“情操教育”という言葉がありますが、音楽を習った人の“情操”がどうなるのかわかっていないのではないでしょうか。
私の考えでは、小さい子どもには、童謡や子ども向けアニメの主題歌や「おかあさんといっしょ」で歌われるような、つまり子ども自身が好きな歌が合っているのです。クラシック音楽というのはもっとも子どもに合わない音楽です。子どもにクラシック音楽を学ばせるのは、子どもに足し算引き算ではなくいきなり高等数学を教えるようなものです。
 
とはいえ、クラシック音楽の世界では早期教育を受けた者しかやっていけません。これはもうクラシック音楽の世界が間違っているとしかいいようがありません。つまり間違った早期教育によって間違った音楽が成立しているのです。
いや、オーケストラの採算が取れないことを考えると、もはや成立しているとはいえないかもしれません。
今ではクラシック音楽よりロックなどのマーケットのほうがうんと大きくなっています。
親が子どもの将来を考えるなら、クラシックではなくロックの早期教育をするべきではないかとイヤミを言いたくなります。
 
ともかく、私は自分の経験から、子どもが学ぼうとする前に教える早期教育はよくないことだと考えるようになりました。
そして、普通の学校など教育のほとんどは、子どもが学ぼうとする前に教えており、これもよくないことに違いないと考えるようになりました。
 
「教育された自分はほんとうの自分ではない」というのが私の考えです。

親子関係にある問題というのは、外からは見えにくく、しかも複雑ですから、なかなか手に負えません。前回の「息子の汚い言葉遣い」というエントリーで、新聞の投書を取り上げましたが、同じ投書欄に昨日も気になる投書があったので、取り上げてみます。
 
 
意外だった娘へのいじめ相手
主婦(東京都江東区 48)
小4だった娘をいじめていた女の子のことを思い出した。10年も前のことだ。
その子は笑顔ではきはきとしたあいさつをする、とても感じのよい子だった。その母親は、「本人がやりたいっていうから」週にいくつも習い事をさせている、とうれしそうに話す教育熱心な方だった。
だから、学校で娘がいじめられている、と同級生のお母さんから聞いたときは、私自身耳を疑った。教室での度を超した言葉の暴力だったらしい。
娘に聞くと「いじめられていない」と言う。「言い返さないの?」と私。「言うともっと言われる。それに、あの人には言ってもしょうがない」と娘。
結局その後のクラス替えで別のクラスになってからは、接触はなくなった。
娘の心には、いじめられた心の傷が残っていると思う。でも、娘と私を「絶対にいじめをしない人」にしてくれたこの体験に、心から感謝したい。(朝日新聞「声」8月3日)
 
 
これは、外側からはまったく問題が見えないケースです。
母親が「本人がやりたいっていうから」と言えば、それを信じるしかありません。また、「笑顔ではきはきとしたあいさつをする、とても感じのよい子だった」ということなら、そこに問題があるとはとても思えません。
しかし、その女の子がイジメをしていたとするなら、そこになにか問題があったのでしょう。そう判断するしかありません。
つまり、「火のないところに煙は立たない」のですから、煙が立てばそこに火があったと判断するしかないというわけです。
 
推測するに、この女の子の母親は無言のプレッシャーによって娘を支配し、娘は母親にとっての「理想の女の子」を演じていたのでしょう。習い事をみずから進んでやるのが「理想の女の子」で、笑顔ではきはきとしたあいさつをするのも「理想の女の子」というわけです。
しかし、母親の前や母親の知人の前では演技ができても、クラスの友だちの前ではその反動が出てしまったというわけです。
 
「無言のプレッシャー」というのは、娘が少しでも自分の気に入らないことをすると、にらみつけたり、声の調子が冷たくなったりするといったことです。つまり言葉ではなく態度で娘の行動をコントロールしているわけです。
前回の「息子の汚い言葉遣い」というエントリーで取り上げた母親は、もっぱら言葉によって息子を支配しようとしているので、誰の目にも見えます。しかし、言葉ではなく態度で支配しようとしている場合は、周りにはなかなか気づかれませんし、支配されている本人すら気づかないことがあります。こういう場合は、おとなになってから、母親に対する複雑な感情に苦しんだりします。
 
ともかく、学校でイジメをする子どもはどんな子どもなのかということについて、この投書はひとつの判断材料を与えてくれると思います。
イジメをする子どもを罰するのは筋違いではないでしょうか。
 
 
ところで、今の子どもの多くはいくつもの習い事をしていますが、あれはほんとにいいことなのでしょうか。
いや、もちろんなにかを習えばそれなりによいことはあるでしょうが、それを習うことでほかのことができなくなっているわけです。
早い話が、習い事をした分、子ども同士で遊ぶことが少なくなります。このプラスマイナスはどうなのでしょうか。
 
なにかを習うというのは一般的に、教室でおとなの先生から一方的に習うということになります。学校の授業も同じです。これによって知識や技術が身につきますが、ここでの人間関係は一方通行です。
 
子ども同士で遊ぶときの人間関係は相互的なものです。そこでは、自分がこう出れば相手はこうくるということが学べます。ここまでやれば相手がキレて喧嘩になるといったことも経験できますし、喧嘩したときの仲直りのやり方も学べます。
最近の若い人はそうした経験がないので、友だちがつくれなくて悩んだり、異性とつきあうことにも消極的で、草食系と呼ばれたりして、結婚もなかなかできません。また、就活のときに人間関係能力のなさを痛感したりします。
 
現在の教育についての考え方は、知識や技術の習得がすべてになっていて、人間関係能力の向上ということを忘れているように思われます。
理科や社会科とともに「つきあい科」という学科をつくって、人間関係を学校で教えるようにするべきです――というのは冗談です。授業という形で人間関係を学ぶことはできません。実地で、つまり遊びの中で学ぶしかないと思います。
 
また、親が見ている中で子ども同士を遊ばせているということがよくありますが、子どもが喧嘩すると親が止めに入るのではあまり意味がないのではないかと思います。
 
習い事をしすぎることが子どもにとってストレスになって、それがイジメのひとつの原因になっているということもあるのではないでしょうか。
 
学力をつければいい、習い事をさせればいいという教育についての考え方は根本的に改めるべきではないかと思います。

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