村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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幼児虐待の原因として「虐待の世代連鎖」があることは最近知られてきました。つまり親から虐待された子どもが親になると自分の子どもに同じことをするということが次々に連鎖していくのです。
しかし、虐待の原因は「虐待の世代連鎖」だけではありません。「虐待の社会連鎖」もあります。
 
「虐待の社会連鎖」というのは私の造語です。
要するに虐待を次の世代にするのではなく、同時代の身近な人間にすることです。
 
たとえば、会社で部長から理不尽な怒られ方をした課長が自分の部下に当たる。その部下は家に帰ると妻に当たる。妻は子どもに当たるというようなことです。
こうした「当たる」という行為は、一見理不尽ですが、実際は広く行われています。プロ野球の監督は、選手が失策をすると、ベンチやロッカーに当たっています。
 
「やられたらやり返せ」という言葉があります。本来は自分をやった相手にやり返せという意味でしょう。しかし、自分がやられたということは、相手は自分より強いはずで、やり返すことはほとんど不可能です。そこで、自分より弱い相手にやり返すわけです。それでもやられた屈辱感や敗北感はある程度解消できます。
 
とはいえ、なにも悪いことをしていない人に対して、自分の不満を解消するために、悪いことをしたと言って非難したり暴力をふるったりするのは、誰が見てもよくないことです。
そのため、このような「当たる」という行為が広く行われていることは隠されてきました。
人間はもう少し理性的で道徳的だと思いたいのでしょう。
しかし、対人関係のストレスが極限までたまった人間は、ところかまわず当たりちらします。それを表現する「八つ当たり」という言葉もあります。
 
ただ、誰にでも当たるわけではなく、あくまで自分よりも弱い者に対してです。
強い人間は当たる相手がいっぱいいますが、弱い人間にはあまりいません。
 
幼児虐待は貧困家庭に多く発生することが知られています。
貧困な人は、貧困自体がストレスであるだけでなく、社会の下層にいるということで、周りの人間に対して劣等感や敗北感を抱きがちです。
それを解消するために当たる相手は自分の子どもしかいないということで、幼児虐待は貧困家庭に多く発生すると思われます。
 
つまり幼児虐待には、「世代連鎖」と「社会連鎖」のふたつの原因があると考えると、その発生が正しくとらえられるのではないでしょうか。
 
 
「虐待の社会連鎖」というのは、自分より弱い者をいじめてうっ憤晴らしをするという行為が広く行われ、最終的にいちばん弱い者にいじめが集中することをいいますが、そうすると、それは幼児虐待のほかに学校のいじめもあります。
 
親は子どもを学校に行かせ、勉強させ、生活態度を細かく注意し、教師は子どもに勉強させ、規則を守らせ、集団行動に従わせます。これらはすべて子どものストレスになりますが、親や教師にやり返すわけにはいかないので、結局子ども同士で解消をはからねばならず、結局いちばん弱い子どもがいじめられることになるのです。
 
ストレス解消のために弱い者いじめをするのは、誰が見てもひどいことです。
ですから、そんなことをするのは幼児虐待をする親とかいじめっ子とかの特殊な人間だということにしておきたいので、私たちは虐待親やいじめっ子を非難することに熱心です。
しかし、実際は「虐待の社会連鎖」は広く存在していて、誰も無縁ではいられません。

幼児虐待がこれだけ問題になれば、親のあり方も問われて当然です。
あの親の子育てはよいとか、この親の子育てはだめだとか、テレビのワイドショーなどでも議論するべきでしょう。
たとえばバイオリニストの高嶋ちさ子さんの子育てなど格好の材料です。
 
高嶋さんには小学校6年生と3年生の2人の男の子がいます。しかし、最近仕事が忙しくて子どもといっしょの時間が持てなかったようです。
高嶋さんは3月10日に1年ぶりにブログを更新し、子どもといっしょにいられるようにしたいので、「仕事はセーブさせて頂きます。それで干されても良いです」と宣言しました。
 
この宣言が絶賛されています。
確かに「干されても良い」というのはいさぎよい態度です。
 
しかし、高嶋さんの子育てといえば、「ゲーム機バキバキ事件」が有名です。
高嶋家では平日に子どもがゲームをすることを禁止しており、にもかかわらず長男が金曜の夜にゲームをしているのを発見、怒り狂った高嶋さんは「ゲーム機を手でバキバキと折った」というもの。さらにその日、次男がチェロの練習をしていなかったため「次男の分もへし折って壊しました」ということで、2人に向かって「あなたはゲームが一生できないことを嘆くより、ママからもう二度と信用されないということを心配しなさい!」と怒りました。
高嶋さんはこのことを新聞のコラムに書いたために、炎上しました。
 
私はこのことをこのブログで取り上げたことがあります。
 
「世界一わかりやすい毒親」高嶋ちさ子
 
今はテーブルをたたいたり壁を殴ったりするのもDVとされているので、子どもの目の前でゲーム機を壊すのも立派な幼児虐待です。
高嶋さんがこうしたやり方を改めていないなら、仕事をセーブして子どもといっしょの時間をふやしても、無意味どころか、かえって子どもによくないかもしれません。
 
高嶋さんは仕事をセーブする理由について、ブログでこのように書いています。
 
そもそも子供が生まれた頃は、コンサートの本数も減らし、なるべく一緒に居られる様にしていました。それがいつのまにか流れでどんどん入れる様になってしまい、現在平日もほとんど家にいられません。
(中略)
まだまだ可愛い息子が、この1ヶ月荒れに荒れてます。原因は私です。一緒にいればわかる事、出来ることが何も出来ていなくて、本当に可哀想な思いをさせています。
 
高嶋さんは、子どもが荒れている理由は自分がいっしょにいないからだと考えているようです。
しかし、親がいっしょにいないと子どもは寂しがるのが普通です。たまにいっしょになると子どもがべたべたと甘えてくるというなら、子どもといっしょにいてやるのがいいでしょう。
しかし、子どもが荒れているのにいっしょにいる時間をふやしたら、ますます荒れることになりかねません。
 
人間関係は量よりも質です。
親子関係であれば、親がどれだけ子どもを愛しているかです(子どもが親を愛しているのは当たり前です)
 
ところが、もっぱら量を問題にする人がいます。「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業に固執する人は、母親が外に働きに出ると子どもがかわいそうだと主張してきました。
最近、そういう主張はあまり見なくなりましたが、高嶋さんが子どもといっしょにいるために仕事をセーブすると宣言したのが絶賛されているのを見ると、そういう考えの人が声を上げているのかなと思ったりします。
 
本来なら、高嶋さんが家にいられないなら、その分を旦那さんがカバーすればいいことです。
高嶋さんは旦那さんについてなにも言っていないので、そのへんのことはよくわかりません。
高嶋家の子どものことを考えるなら、旦那さんの役割についても問いただしたいところです(そもそも旦那さんがしっかりしていれば、子どもが荒れることもないはずです)
 
 
これまで人の家庭の事情に立ち入ることはタブーでした。
しかし、それでは幼児虐待は防げません。
高嶋さんは子どものことを公表しているのですから、この際、高嶋さんの子どもはなぜ荒れるのかということをみんなで議論すればいいのではないでしょうか。
 

東京都は体罰禁止条例を都議会に提出し、国会でも児童虐待防止法の改正や民法の「懲戒権」見直しへの動きが起きています。
そこで議論になっているのが、しつけと虐待の境界線です。
 
児童虐待は、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(養育放棄)、心理的虐待の四つに分かれるとされます。体罰は身体的虐待です。
この中でむずかしいのは心理的虐待です。
 
セクハラの場合は、「職場において労働者の意に反する性的な言動が行われ、不利益や業務の支障が生じること」と定義され、「本人が不快に思えばセクハラだ」ということが言われます。
それにならって、「子どもが不快に思えば虐待だ」ということにすれば簡単です。
しかし、そうすると、子どもに予防注射をするとか、お菓子を食べる時間を限定するとかも虐待になってしまいます。
 
子どもが不快に思っても、子どものためになることなら虐待ではありません。
子どもが不快に思って、かつ子どものためにならないことが虐待です。
 
「親が子どものためにならないことをするわけがない」と思う人がいるかもしれませんが、たとえば「あなたのため」と言いながら、自分の虚栄心のために子どもに合わない学校をむりやり受験させる親などもその例です。
親が「子どものため」と言うと、子どもはなかなか反論できないので、親はいくらでも虐待ができてしまいます。
「しつけ」もそうしたもののひとつです。
 
「しつけ」は辞典ではこう説明されています。
 
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
社会生活に適応するために望ましい生活習慣を身につけさせること。基本的生活習慣のしつけが中心になるが,成長するにつれて,家庭,学校,社会などの場における行動の仕方へと,しつけの内容が拡大していく。(後略)
 
百科事典マイペディアの解説
社会生活への適応に必要な望ましい生活習慣を形成すること。田の植付けや着物を仕立てる際のあら縫い(仕付)の意から,子どもに幼児から礼儀・作法を教え込むことをいうようになり,〈躾〉の字が用いられるようになったとされる。(後略)
 
「社会生活への適応に必要な望ましい生活習慣」を身につけることは子どものためです。
ただし、身につけるには、子どもの発達に応じた適正な時期があります。
ところが、親は適正な時期よりも早めにしつけをしがちです。早く行儀を身につけてくれると好都合だからです。
 
早すぎるしつけに対しては子どもは抵抗します。
そのとき、親が引き下がれば問題はありません。
ところが、子どもの抵抗を「わがまま」ととらえる親がいます。
そして、世の中には「子どものわがままを許すと、子どもは限りなくわがままになる」という“思想”があります。
そのため、親は抵抗を無視して徹底的にしつけをしようとし、子どもはさらに抵抗をし、こうして虐待が発生します。
 
つまり「早すぎるしつけ」と「子どものわがままを許してはいけないという思想」が虐待の原因です。
ですから、親は早すぎるしつけをしがちだということを自覚して、子どもに無理強いしないように心がけていれば、虐待は起こりません。
 
原理的なことを言えば、動物の親は子どものしつけをしませんし、狩猟採集生活をする未開社会でもしつけや教育はありません。
つまり子どもは生活に必要なことはみずから身につけることができるのです。
親はしつけをするときは、本来子どもに必要ないことをしているのだと思っているとちょうどいいのではないかと思います。

両親から虐待を受けて死亡した船戸結愛(5歳)ちゃんがノートに「もっともっときょうよりかあしたはできるようにするからもうおねがいゆるして」などと書き残していたことがあまりに悲惨だということで、「児童相談所はなにをしていたのだ」といった声が上がっていますが、児童相談所にできることには限界があります。
幼児虐待も元から断たないとだめです。
 
動物の世界では、たとえば哺乳類においては、親が養育困難な状況だと判断すると生まれたばかりの子どもを食べてしまったり、障害のある子どもの養育を放棄したり、オスのライオンがハーレムを乗っ取ったときに前のオスの子どもを全部殺してしまったりということもあります。しかし、人間のように育てながら虐待するということはありません。
 
なぜ人間は自分の子どもを虐待するのでしょうか。
幼児虐待をする親は、自分も子どものころ親から虐待されていたことが多いとされ、幼児虐待の世代連鎖といわれます。
そうすると、虐待の世代連鎖をどんどん過去にさかのぼっていくと、「人類最初の虐待親」にたどりつく理屈です。
もちろんそんなに正確に世代連鎖するわけはありません。これはあくまで思考実験です。
「人類最初の虐待親」がどのようにして誕生したかがわかると、幼児虐待が発生した理由がわかり、対策もわかるはずです。
 
幼児虐待が動物の世界になく人間の世界にだけあるとすれば、その発生は文明の黎明期までさかのぼれるはずです。
文明の黎明期になにがあったかというと、たとえば火の使用です。火の使用こそ人間が文明をつくる第一歩だったでしょう。
火は危険です。おとなはそのことがわかっていますが、小さな子どもはわからないので、火傷するかもしれません。親は子どもが火に近づかないよう監視し、近づくと止めなければなりません。
土器をつくるようになると、土器は壊れやすいので、注意して扱う必要があります。しかし、子どもは土器の周りでも平気で遊び回ります。ぶつかって壊してしまわないよう、ここでも親は子どもを監視し、動きを止めなければなりません。
つまり文明が始まると、親は子どもを監視し、動きを制限しなければならなくなったのです。
 
そして、たとえば子どもが水の入った土器を壊して、住まいである洞窟の中を水浸しにするということがあったかもしれません。そのとき親が怒って子どもをたたいたら、それが「人類最初の虐待親」ということになります。
 
親は文明人であっても、生まれてくる赤ん坊はすべてリセットされて、原始人として生まれてきます。
文明が進めば進むほど、親と子どもは乖離していきます。
 
江戸時代には、江戸や上方では庶民もいい家に住み、洗練された文化的な生活をするようになりました。だからといって、洗練された文化的な赤ん坊が生まれてくるわけではありません。子どもは、障子やふすまを破り、畳に食べ物をこぼし、さらには床の間に飾ってある高価な掛け軸や置物を壊すかもしれません。そうならないように親は「しつけ」を行うようになりました。
「しつけ」はもともと武士階級で子どもに礼儀作法を身につけさせることを意味する言葉でした。江戸時代には庶民階級もしつけを行うようになったわけです。
子どもは成長すれば、障子は破るものではなく、置き物は壊すものではないとわかるし、食べ物をこぼさずに食べることもできるようになります。しかし、親はそれを待っていられないので、しつけをするわけです。
 
 
現代のような高度な文明社会では、文明人である親と、原始時代のままの子どもは、大きく乖離しています。
文明人が未開人を見ると、なかなか未開人の考えや気持ちがわかりません。文明人が赤ん坊を見ても同じです。
ですから、文明人の親は自分の子どもができると、子どもの地点まで下りていくという心の作業をしなければなりません。
それをしないと子どもと心の交流ができません。
 
それが簡単にできる親もいます。自分がそういう親に育てられてきたからです。あと、生まれつきの共感能力も関係しているようです。
一方、子どもの気持ちのわからない親に育てられ、かつ生まれつき共感能力が低い人は、文明人の意識のままで子どもに対することになります。
いわば「上から目線」で子どもを見てしまうのです。
そうすると、子どもの自然なあり方に対して「なぜこんなことができないのか」「なぜこんなことがわからないのか」と不満を募らせ、ついには虐待にいたってしまうことになります。
 
冒頭の事件の結愛ちゃんは、小学校入学に備えてひらがなの練習をさせられていました。文明人の論理、おとなの論理の子育てです。
これは教育熱心ということで社会的には評価されます。
 
では、この両親になにが足りなかったかというと、子どものところまで下りていくという心の作業です。
そのため子どもの気持ちがわからず、文明人の論理、おとなの論理を一方的に押しつけてしまったのです。
 
これまで人類は文明の進歩をよしとして、前へ前へと進んできました。
親が原始人へと戻る心の作業をすることはベクトルが逆なので、これまで社会的には無視されてきました。そのため親はそれぞれ個人的にその作業をしてきたわけです。
しかし、それも限界にきているようです。
 
よく運転免許と同じように子育てにも免許や資格がいるようにすればいいという議論があります。
では、子育ての資格はどうすれば取得できるかというと、どんな文明社会でも赤ん坊はすべて原始時代と同じ状態で生まれてくることを理解し、文明の論理やおとなの論理を頭から追い出して子どもと向き合うようになることです。
 
今の子育てはむしろ逆で、子どもの論理を無視して、子どもを親の論理に従わせることが勧められており、これは虐待を生むもとです。
 
動物の世界では、親はしつけも教育もしないので、子どもは親の周りで自由に遊んでいます。子どもが親にぶつかったり親を踏みつけたり親の眠りを妨げたりしても、親は子どもを怒ったりしません。親が子どもに強制力を行使するのは、天敵が接近して子どもを守らねばならないようなときだけです。
人間の子どもも幼いときは、動物と同じような親子関係でいるのがいいと思います。

バイオリニストの高嶋ちさ子さんが、子どもが約束を破ったからとゲーム機を壊し、これはDVではないかと炎上騒ぎになっています。
 
私の偏見と思われてけっこうですが、クラシック界の人には変人が多いです。幼少時からきびしいトレーニングをしないと一流になれない世界なので、親から強制されてやることが多く、そのため人格がゆがんでしまいます。モーツアルトなどその典型です。
高嶋ちさ子さんもそうとう変人なようです。
 
 
怒り狂って息子のゲーム機をバキバキに破壊 高嶋ちさ子の“しつけ”に非難殺到
 
バイオリニストの高嶋ちさ子が寄稿し、212日の東京新聞に掲載されたコラム「ゲーム機バキバキ事件」に非難が殺到し、炎上状態となっている。
 
コラムによると、高嶋の家では子どもが平日にゲームすることを禁止しており、週末宿題が終わって時間が余ったらゲームをして良いというルールにしていた。にも関わらず、金曜の夜に長男(小学校低学年)がゲームをしているところを発見、怒り狂った高嶋は「ゲーム機を手でバキバキと折った」という。長男は悲鳴を上げ、すごく落ち込んだとしている。また、次男(小学校低学年)も、その日はチェロの練習をしていなかったため、「次男の分もへし折って壊しました」とのこと。そして、「自分で働いたお金で買ったゲーム機を自分で壊す気持ち、あなたに分かるの?あなたはゲームが一生できないことを嘆くより、ママからもう二度と信用されないということを心配しなさい!」と二人に怒ったと明かしている。
 
 
ネットでは、高嶋のゲーム機を壊して叱るというやり方に否定的な声が多く寄せられている。
「子育てではなくただの虐待」
「そもそも何故子供が親に信用されなければならないのか。本来は子供が親を信用するもの」
「働けもしない子供に働いて稼いだものを壊す気持ち?」
「そもそも子供がこうなったのも親の指導力不足でしょ」
「子供の所有物を勝手に壊す権利は親には無いと思う」
「躾と称して子供の自由を奪う行為で躾けた気になっている親は醜い」
「息子という奴隷が欲しかったんですね」
「下手すれば子供から報復されてもおかしくないほど危険」
「ものをたいせつにという大事な教育観点が抜けている」
 
 
一方、「約束守らなかったのが発端だから、悪いのは子供 極端すぎるのは確かだけど」、「そう思われても、結果的に子供のためになるからこうしてるんじゃないですか?」と一定の理解を示す声もある。
 
 
ニートの息子のゲーム機をハンマーや芝刈り機などで壊す海外の親をたまに見かけるど、日本にもいた。ただ、「あなたはゲームが一生出来ないことを嘆くより、ママから二度と信用されないことを心配しなさい」という発言に関しては異論反論ありそう。 pic.twitter.com/QFgguoZTuN

—キネ (@djgicc) 2016, 2 12

 
 
もちろんこれは批判されて当然です。物を壊して恐怖心を与えるのもDVの一種です。
 
ただ、約束を守らなかった子どもも悪いので、ある程度のことはしつけのためにも必要だという意見もあるようです。
 
しかし、「約束を守らない子どもも悪い」という考え方は、根本的に間違っています。
約束というのは、契約もそうですが、対等の関係でするものです。
この場合、親と子ですから、対等ではありません。子どもはほんとうは週末しかゲームをしてはいけないという約束などしたくなかったのですが、お母さんが怖いので、やむをえずしたのです。もし「そんな約束はしない」と言ったら、お母さんは怒り狂って、その場でゲーム機をバキバキにしたかもしれません。
 
ですから、これは「強要された約束」で、ほんとうの約束ではありませんから、約束を破ったから悪いとはいえないわけです。
 
 
では、高嶋ちさ子さんが一方的に悪いかというと、単純にそう言い切れないところがあります。
 
「あなたはゲームが一生できないことを嘆くより、ママからもう二度と信用されないということを心配しなさい!」というのはひどい言葉です。母親というのは無条件で子どもを愛するものですが、この母親は条件をつけています。
これは典型的な「毒親」の姿です。
「勉強のできない子は私の子じゃない」「親の言うことを素直に聞かない子は愛してやらない」というように、愛情に条件をつけることで子どもを支配するのが毒親です。
しかし、実際はこのような言葉を発することはありません。あくまで態度で示すだけです。言葉だけ聞いていると、むしろよい親のようです。
そのため子どもは、毒親を毒親と認識することができず、心を病んでしまうことが多いのです。
 
その点、高嶋ちさ子さんは自分の愛情に条件があることを公言していますから、子どもにとってとてもわかりやすい毒親です。
こんな毒親はほかにいないと思われます。
 
高嶋ちさ子さんは、テレビ番組でのトークがとてもおもしろいので、私は好んで見ています。
高嶋ちさ子さんの子どもは、将来大きくなったとき、心を病むこともなく、「自分の母親はこんなひどい母親だった」とおもしろおかしく語ることができるのではないでしょうか。
そういう意味では、高嶋ちさ子さんはそんなにひどい母親ではないということになります。
 

2011年に書いた『「試し行動」って知ってた?』という記事に今でもけっこうアクセスがあります。「試し行動」について詳しく書いたサイトがほかにあまりないようです。
 
 
「試し行動」は里子に見られるだけではなく、実の親子関係でも男女の恋愛関係でも見られるものですが、「試し行動」についての知識がないと、それが「悪意の行動」に見えて、人間関係がこじれてしまいます。ですから、ぜひとも知っておきたい重要な概念です。
 
そうしたところ、朝日新聞に専門家が「試し行動」について詳しく語るインタビューが載っていました。
私の記事よりもはるかにためになると思われるので、全文引用を避けるために一部だけ省略して、以下に紹介します。
 
 
 
「自分は愛されているのか」 親の覚悟を試す子ども
 
■家庭養護促進協会大阪事務所理事 岩﨑美枝子さんに聞く
 
 多くの人にとって最も大切で、かつ面倒くさい人間関係のひとつが「親子」ではないだろうか。親子関係の本質とは何か。複雑に絡んだ関係の糸をどうほぐせばよいのか。実の親が育てられない子の育て親を新聞を通じて募集し、血縁のない人同士が「親子になる」ことを50年近く支援してきた岩﨑美枝子さんに聞いた。
 
 ――実の親子でも悩みの種は尽きません。血縁のない人同士が親子になるには、並々ならぬ苦労があるのでは。
 
 「確かに、実の親子なら小さなトラブルで済むようなことが、大ごとになる場合もある。だけど、意識的に親子になろうとする分、逆に親子関係の本質が見えてくる面もあります」
 
 ――どういうことですか。
 
 「だいたい1歳半以降の子どもたちが、施設から育て親の家庭に移った際に、共通して見られる行動パターンがあります。引き取って1週間ぐらいはみな聞き分けのよいお利口さんで、私たちは『見せかけの時期』と呼んでいます。だけど、その後は豹変(ひょうへん)する。赤ちゃん返りをしたり何かを激しく求めたり、様々な形がありますが、親が嫌がったり困ったりすることを執拗(しつよう)に繰り返すのが特徴です」
 
 「例えば、お母さんが女の子を引き取るのでじゅうたんを新調したのに、子どもがその上でお漏らしをしてしまった。その時に『せっかく買ったのに』と顔をしかめたらそれを見て、おしっこをする時に必ず同じじゅうたんの上に行って『おしっこ出る出る、出たあ』とやるんです」
 
 「スナック菓子しか口にせず、食べ残しを床いっぱいにばらまく子。色とりどりのビーズをひもに通すよう親に求め、それができると、バラバラにしてはまたひもに通させる、ということを延々と続ける子。私たちはそれらを『試し行動』と呼んでいます。個人差はありますが、平均すると半年ぐらいはそれが続きます」
 
 ――言葉もまだ十分にしゃべれない子どもたちが、大人を「試す」のですか。
 
 「どこまで意識してやっているのか分かりませんが、弱点を見抜き、そこを的確に攻め込んでくる。親の嫌がる雰囲気は子どもに確実に伝わっていると思います。その上で『嫌がることを繰り返す私を、あなたはどれだけちゃんと受け止めてくれるのか』を確かめようとしている。子どもたちの中には、『そこまでやらないと大人を信じられない』という何かがあるのではないか」
 
 ――それは、子どもたち自身の経験が影響しているのですか。
 
 「そうだと思います。大多数の赤ちゃんは、生まれてまもなく親に抱きとめられ、母親の胎内で感じていたであろう安心感がそのまま引き継がれる。だけど、何らかの事情で生まれてすぐに親から引き離された子は、自分が守られるべき世界が突然なくなった恐怖を感じたはずです」
 
 「乳児院で育てられても、何人もの保育士が赤ちゃんをケアするから、特定の大人と信頼関係を取り結ぶことはなかなか難しい。そんな中で、子どもたちは『誰かに心の底から受け入れられたい』という欲求をあきらめてしまう。育て親になろうという人が現れ、『この人なら受け入れてもらえるかも』という思いが芽生えた時、受け入れへの欲求が再び目覚め、試し行動が始まるのでしょう」
 
 ――たとえ血がつながっていても、心の底から親に受け入れられることを、あきらめてしまった子どもも多いのでしょうね。
 
 「確かに、うちで世話する子どもたちは、関係が固まってしまった実の親子よりも、試し行動という形で育て親に素直に欲求を出しやすいとも言えます」
 
 「試し行動をやめさせようとすると、かえってひどくなる。最近のケースでも、2歳の女の子が『いやや、いやや!』と泣きわめくばかりで、おしめも換えられないし、お風呂にも入れられない。親御さんは『そんなにつらいことがいっぱいあるねんな。ごめんな、何もできなくて。あなたがどれだけ泣いても付き合うわ』と話しかけ、待ち続けた。その対応がよかったのか、泣き続けるのは3日ほどで終わりました」
 
 「泣きやまずに近所から虐待を疑われたり、施設に戻されたりするケースもあります。逆に片時も親から離れようとせず、トイレに行く時までくっついて、親を疲れ果てさせる子も多いです」
 
 ――試し行動を受け入れ、終わりを待つしかないのですか。
 
 「待ち方にも色々ある。いくら泣きわめこうと『私はあなたの親になるつもりで付き合っているねんから、それを分かってよ』というくらいの覚悟が親にあると、子どもはその覚悟を読みます」
 
 「高い所に立って『こっから落ちて死んでやる!』と言った5歳の男の子に、『あんたが死んだらお母ちゃんも死ぬ!』と叫んだ親がいる。そしたら『お母ちゃんは死んだらあかんから、僕も死なない』と。そういうことをとっさに言えるのが覚悟の表れでしょう」
 
 ――頭で考えた生半可な言葉では子どもは納得しない、と。
 
 「誰にもなつかない子、神経質で難しい子ほど、本当は育てがいがある。ひとたび心を開けば表情が柔らかくなり、ほおずりをしたり、顔を見つめて何度でも『かあちゃん』と呼んでくれたり。かつては試し行動に疲れ果てていた育て親が『抱きしめると、ふわーっと体にもたれかかってきて、本当にかわいいんですう』と報告しに来たりもします」
 
 ――一方で、思春期に育て親との関係がこじれてしまう子も少なくないと聞きます。
 
 「血のつながりがあってもなくても、思春期は『第二の試し』の時期です。『私はそれなりに親に愛されてきたから、自信をもって世の中に出ていける』ということを確信するため、親にもう一度揺さぶりをかける。それまでの子育てで手抜きがあると、親子関係が壊れてしまうこともあります」
 
 ――家庭養護促進協会編の「親子になろう!」という本には、3歳の時に引き取った中学2年の娘に対する、母親の嘆きが紹介されていますね。「自己確立がなく、周囲とのトラブルが際限なく起こります。1歳なら1歳、2歳なら2歳の時に刷り込んでおかないといけないことは、後年になってどんなに努力しても、その子自身の血や肉にはならない」と。
 
 「生まれてからの3年分を取り戻すのは大変です。このケースでは、子どもが試し行動として赤ちゃん返りを起こしましたが、母親が十分応えられなかった。子どもは『この人なら自分を受け入れてくれるかも』という期待を裏切られた。思春期になり、その揺り返しが出たという見方もできます」
 
 ――親自身も、自分の親から受け入れられて育ったとは限らない。親に厳しすぎませんか。
 
 「確かに100%の親はいません。逆に『親のどこが悪かったんやろう』と私たちが首をひねるケースもあります。親が逃げようとしたり、自分を正当化したりすれば、子どもはますます反抗する」
 
 「子どもに『こうあって欲しい』と望み過ぎる親や、子どもが本当は何を求めているのか理解できない親は、子どもにとってしんどい。『お母さんは自分の中の弱さを認めてくれなかった。それがすごくつらかった』と、大人になってから話してくれた子もいました。だけどたいていの子どもたちは、親が子を見捨てさえしなければ、いつか親のところに戻ってくる。そう信じさせてくれる子どもたちを見てきました」
 
 ――なぜ、しんどい仕事を50年近くも続けているのですか。
 
(中略)
 
 「周囲に対して、バリアーを張っている強情な子がいる。そういう子がちらりと見せる笑顔や、ちょっとした時の目つきに、しびれるぐらいの魅力を感じます。その子の奥に何があるのか、私は見たい。人間が好きだし、人間がおもしろいからです」(聞き手・太田啓之)
 
     ◇
 
《家庭養護促進協会》 児童相談所と協力し、新しい家庭が必要な子どもに育て親を探し、縁組する「愛の手運動」を1962年から行う公益社団法人。縁組後の支援もする。大阪と神戸に事務所があり、大阪は毎日新聞、神戸は神戸新聞とラジオ関西で子どものプロフィルを紹介し、育て親のなり手を募集している。

シリーズ「横やり人生相談」です。今回は赤ん坊と夫との関係についての妻からの相談です。
たいていの物事は、過去にさかのぼらないとよく理解できません。たとえばひとつの夫婦喧嘩にしても、ずっと過去からのいきさつがあるわけです。イスラム過激派のテロにしても、その原因をさかのぼっていくと少なくともイスラエル建国にまでたどりつくはずです。尖閣諸島や竹島の帰属問題も、歴史的な事実をすべて踏まえていないと判断できません。
しかし、赤ん坊であれば、その過去を問う必要はありませんから、簡単に判断できるはずです。
 
 
子供がなつかないと拗ねる夫   憂鬱母さん 2013317 2:35
 0歳8ヶ月の子供がなつかないと夫が拗ねています。
「俺は一生懸命働いているし、子供に出来るだけの事はしているのに子供がなつかない。」と言います。
一生懸命働いてくれています。しかし、定時の日もたくさんありますし休みもあります。
仕事から帰宅し即テレビを付け趣味の小一時間トレーニング。終わればビール片手にテレビとインターネット。合間に子供を抱っこします。テレビをつけず絵本を読んでやる、オモチャで遊んでやる。15分でも散歩に連れていくなどすれば良いのにと私は思うのですが。しかし夫は「俺は仕事で疲れているからそんな体力ない。」と言います。夫の接し方がまず子供にはもの足りないのだと思うのですが。もちろん母親が絶対一番な時期でもあるので夫がさみしく思う気持ちもわかります。しかし夫の≪ながら関わり≫にも原因があると思いませんか?
子供と父親の関わり。皆さんのご家庭ではいかがですか?
 
 
この相談は掲示板「発言小町」に載ったもので、これに対するレスは、夫の態度を批判するものがほとんどです。ごく少数、妻に対して、夫と子どもといっしょに遊ぶようにすればという助言があります。子どもが悪いという意見はひとつもありません。
 
子どもが悪くないのは当たり前のことです。となると、夫が悪いということになります。子どもになついてほしければ、夫が態度を改めるしかありません。
しかし、この夫は自分が悪いという認識を持つことができません。「俺は一生懸命働いている」などという子どもには関係のないことまで持ち出して、自己正当化をはかろうとしています。かといって子どもが悪いと決めつけることもできず、その結果「拗ねる」という子どもっぽい態度に出ているわけです。
 
そして、妻のほうも夫がよくないに違いないという認識はあるものの、断定するまでにはいたっていません。そのためこの相談を書き込んだわけです。
 
こうした相談が書き込まれるということは、「子どもは悪くない」という認識が世の中で完全に共有されるまでにはいたっていないということでしょう。
 
その理由としては、ひとつには子ども自身が発言できないということがあります。そのため、世の中はおとなの(自分勝手な)言い分ばかりがあふれることになります。
 
その結果、どういうことが起こるかというと、子どもがなつかないということを理由に子どもを虐待する親が出てきます。
これは義理の父親のケースが多いようです。つまり妻の連れ子が自分になつかないということで、それは自分が悪いわけではなく、子どもが悪いと考えて虐待してしまうのです。
もちろん実の父親や母親が虐待するケースもあります。母親の場合、「子どもがかわいくない」ということが虐待の理由になります。
「子どもがかわいくない」のは、自分の認識の問題ではなく、子どもの問題だと考えてしまうのでしょう(客観的に見ると、かわいい赤ちゃんとブサイクな赤ちゃんがいますが、まともな母親なら自分の赤ちゃんは必ずかわいく見えるはずです)
 
ともかく、「子どもがなつかなかったから」ということを理由にした虐待事件がしばしば起こるのは、「子どもは悪くない」という認識が社会に共有されていないからでしょう。
今回の相談のように、実の父親と8カ月の子どもの関係であれば、悪いのは子どもではなく父親であることがはっきりします。
 
子どもが2歳、3歳になって、言葉がわかるようになると、親は「子どもが悪い」という認識を正当化しやすくなります。子どもが親の言いつけを聞かない、食べ物をこぼした、夜泣きする、片付けをしない、だらしない、わがままだなどということが虐待の理由になります。
しかし、子どもが言葉を理解するようになったからといって、親と子どもの関係になにか本質的な変化が生じるということはありません。ただ、親が子どもを虐待する理由を言葉で表現しやすくなるだけです。
 
世の中のさまざまな出来事は、すべて過去につながっているので複雑ですが、赤ん坊に限っては、過去がないので単純です。
「赤ん坊は悪くない」ということが社会の共通認識になれば、それだけで幼児虐待はかなり少なくなるはずです。
 
また、赤ん坊を基準にものごとを考えると、世の中を悪くしているのは誰かということもわかってきます。

人を礼儀知らずとかマナーをわきまえないとかいって非難する人は、その人自身がろくでもない人だというのが私の考えです。
もっとも、こんなことをいうと、ほとんどの人は日常的に人を礼儀知らずとかマナーをわきまえないとかいって非難しているので、総反発を買ってしまいそうです。
そこで、実例を示してみましょう。東京都では保育所不足が深刻で、杉並区の待機児童をかかえた母親らが行政に異議申し立てをしましたが、これについて2月27日付朝日新聞朝刊東京版に「杉並・保育園問題、区議ブログに批判殺到」という記事が載りました。
その区議ブログは次のどちらでも読めます。
 
BLOGOS
一抹の忸怩なき待機親に一抹の疑義あり
 
田中ゆうたろうブログ
一抹の忸怩なき待機親に一抹の疑義あり
 
このブログのさわりの部分だけ引用しておきます。
 
私は、今のこの不況を本質的に打破するためにも、女性力を思い切って爆発させることは必要だと考えている。仕事と子育てを真に両立できる社会を創らねばならないと強く願っている。だが、それゆえにこそ、「子育ては本来は家庭で行うもの」という基本中の基本を忘れるべきではないと痛感する。一抹の遠慮も忸怩の念もなく、声高に居丈高に「子供を持つなということか」「現状のおかしさに気付いて」などと世を恨むかのような態度は、それこそどこかおかしい、どこか的を外している。「お願いです。私達の子育てをどうか手伝って下さい」、これが待機親に求められる人としてのマナー、エチケットというものではなかろうか。
 
 
この田中裕太郎区議は、仕事と子育ての両立を考えている人のようです。となれば、異議申し立てする母親たちと同じ立場に立ってもいいはずです。
しかし、それはタテマエで、本音のところは男権主義的な考えなのでしょう。そのため、女たちが集団で行政に抗議してくるということががまんならなかったに違いありません。また、田中区議は幼稚園の主事を務める教育畑の人で、そのため人に道徳を説くということも普通のことと思っているのでしょう。
そこで、行政に文句をつけてくる母親たちを「声高に居丈高に」「世を恨むかのような態度」と決めつけ、「人としてのマナー、エチケット」を説いてしまったというわけです。
 
ここでのマナー、エチケットはまさに人を非難・攻撃する道具となっています。
 
ただ、田中区議の誤算は、自分は政治家で、マナー、エチケットを説いた相手が有権者であったことです。政治家対有権者という関係では、有権者のほうが優位です。そのためブログには批判が殺到してしまいました。
 
もしこれが夫と妻の関係であったらどうでしょうか。夫が妻に対して優位に立っているときは、「お前はマナー、エチケットがなっていない」「夫に対する感謝が足りない」などという主張がそのまま通ってしまいます。
 
 
また、電車内でベビーカーを利用することについてマナー論議が起きたことも記憶に新しいところです。
一般乗客にとって、満員電車にベビーカーで乗り込んでこられるのは確かに迷惑なことです。ですから、ベビーカーの利用をやめろという主張があるのは不思議なことではありません。ただ、これはあくまで利己的な主張です。
利己的な主張がいけないというのではありません。むしろみんなが利己的な主張をすると、問題がはっきりと見えてきます。
 
「こんな満員電車にベビーカーで乗ってくるな。どうしても乗りたければ子どもを抱っこしろ」
「いちいちベビーカーを畳んで抱っこするのはたいへんなのよ。それぐらいのスペースは空けなさいよ」
 
こうしてお互いに利己的な主張をぶつけ合って、妥協点を探ればいいわけです。
 
ただ、一般客のほうが多数で、ベビーカー利用者が少数であるという問題があります。そのため多数派有利の結論に導かれがちです。
その結果どうなるかというと、「ベビーカー利用者はマナーを守れ」という主張が通り、「ベビーカー利用者に対して一般客はマナーを守れ」という主張は退けられてしまいます。
これがつまりベビーカーのマナー問題の本質です。
 
田中区議のブログ発言や、電車内ベビーカー問題について考えると、人に対してマナーを説くというのはどういうことかわかるのではないでしょうか。
 
ちなみに私は、人の行為を迷惑に感じたときは、マナーを説いたりせず、「その行為はやめてもらえませんか」とやんわりと頼みます。これは相手の思いやりに期待するやり方です。
一方、マナーを説くというのは、圧力をかけて相手を動かそうとすることですから、相手と衝突する恐れがありますし、少なくとも相手を不愉快にすることは間違いありません。
どちらが世の中をよくするかは明らかではないでしょうか。

もうクリスマスになり、1年が終わろうとしています。世の中の動きは目まぐるしいものです。政治の世界では、この前までは日本維新の会が台風の目でしたが、今は安倍政権に注目が集まっています。
ということで、今日も安倍政権について書こうと思ったのですが、クリスマスにはふさわしくないと思い直して、政治の話はやめます。
 
もっとも、クリスマスといっても、昔の日本ではドンチャン騒ぎをしていました。最近のクリスマスは欧米化されて、そのため正月と変わらなくなっています。クリスマスと正月の関係については、1年前に書いた記事を参照してください。
 
「クリスマスはドンチャン騒ぎ」
 
日常の原理とクリスマスの原理はまったく違います。それはたとえば、子どもとサンタクロースの関係を考えてみればわかります。
 
小さな子どもは、サンタクロースの実在を信じています。というか、親が信じさせるようにふるまいます。そして、子どもがクリスマスのプレゼントはサンタクロースではなく親が持ってくるのだということを知り、サンタクロースの存在を信じなくなると、親は残念がります。
これは当たり前のように行われていますが、よく考えてみるとへんです。子どもが間違った認識を持っていることを喜び、正しい認識を持つようになると残念がるのですから。
 
なぜこんなことになっているかというと、ひとつには、子どもがいつまでも子どものままでいてほしいという気持ちがあるからです。それは親にとって今の親子関係が幸せで、子どもが成長していくとこの幸せは失われていくということでもあります。
そして、もうひとつは、子どもは親が教えなくても(というか、親が間違ったことを教えても)成長とともにみずから正しい認識を持つようになるだろうという子どもへの信頼があるからです。
 
つまり、子どもとの現在の幸福な関係と、いずれ子どもは自力で正しい認識を持つようになるだろうという信頼があるから、親は子どもがサンタクロースの実在を信じていることを喜ぶのです。
 
これがクリスマスの原理だとすると、日常の原理はまったく逆です。
親は子どもの言葉が遅いのではないかと心配し、おむつを早く取ろうとし、習いごとの上達が早いと喜びます。また、子どもを放っておくとテレビやインターネットや友だちなどから間違った知識を持ってしまうのではないかと心配し、正しい知識を教えなければならないと考えます。
 
なぜ日常の原理とクリスマスの原理が逆になるのかというと、要するに日常生活では親は子どもを教育・しつけしようとしているのです。このもとには、教育・しつけをしないと子どもは悪い方向にいってしまうという考えがあり、これは子どもへの不信感といえます。
しかし、クリスマスのときは伝統的な親子関係のあり方に戻り、教育・しつけということを忘れてしまい、子どもへの信頼を取り戻すのでしょう。
 
ちなみに正月のときは子どもにお年玉を上げますが、これもクリスマスの原理と同じです。最近はここに日常の原理を持ち込んで、子どもにたくさんのお年玉を渡すのは教育上よくないと主張する人がいますが、これも子どもへの不信感に基づく主張といえます(子どもを信頼していれば、年齢にふさわしくない金額をもらっても、子どもはそこからまたなにかを学ぶだろうと考えることができます)
 
子どもを教育・しつけしなければならないと考えるのは、親にとっても子どもにとっても不幸です。
クリスマスと正月をきっかけに、親子関係を見直してみるのもいいのではないでしょうか。
 
ところで、政治の話がクリスマスにふさわしくないのは、政治の世界というのは結局は戦いであり、不信感のぶつかり合いだからです。
クリスマスと正月をきっかけに、政治の世界のあり方も見直してみたいものです。
 

11月8日の報道ステーションで、ほめれば学習効果がアップするということが科学的に立証されたということを言っていました。しかし、この実験はかなりへんです。ほめられたグループと、ほめられなかった(ほとんど無視された)グループの比較しかしていないからです。ほめられたグループと叱られたグループを比較しないと意味がないのではないでしょうか。
 
「ほめれば上達」実験で証明
人体の生命活動を解明する国の研究機関である生理学研究所が、「ほめられると学んだことをより忘れにくくなることが証明された」と発表した。生理学研究所の実験チームは、右利きの成人男女48人を対象に、左手でパソコンのキーボードを早く、そして正確に入力するトレーニングをさせた。その直後、48人を「トレーニングの成績にかかわらずほめる」「他人がほめられている映像を見る」「自分の成績を示したグラフだけを見る」という3つのグループに分けた。そして、翌日に再び同じ作業をしたところ、ほめられたグループは前日よりも約20%多く入力できた一方、ほかのグループは約14%にとどまっていたという。
 
この実験結果は、報道ステーションでしか報道されていません。ほかのメディアはこの実験のおかしさに気づいていたので、報道しなかったのではないかと思われます。
 
また、1020日のNHKEテレで「すくすく子育て『子どものほめ方』」という番組をやっていました。
番組の最初に、ある夫婦が3歳ぐらいの子どもがなにかするたびに大げさにほめているVTRが紹介され、それを材料に専門家を交えて話が進められます。
子育て中の夫婦5組が視聴者参加という形でその番組に出ていたのですが、司会者に聞かれると全員が同じようにほめていると答えていました。そういう夫婦を番組に集めたと言ってしまえばそれまでですが、「ほめて伸ばす」という考えが相当広く受け入れられているということでもあるでしょう。
 
ところが、その番組に出ていた2人の専門家は、大げさにほめることには否定的です。「下心が見えるようなほめ方はよくない」とか「お父さんお母さんにとってつごうのよいことをしたときにほめられるということを学習してしまう」といったことを言っていました。
確かにわざとらしい感じのほめ方はよくないでしょう。それでは親子關係がほんとうの人間関係にならないはずです。
 
それにしても、子育てに限らず、社員教育やスポーツのコーチングでも、ほめることのたいせつさが強調されます。なぜほめることのたいせつさが強調されるかというと、おそらくみんな叱りすぎているからです。
子育て中のお母さんで、毎日子どもを叱ってばかりで、叱り疲れして、お母さん自身が悩んでいるという話もよくあります。
 
ほめることと叱ることはワンセットで、要するにアメとムチにたとえられます。
人を自分の思う通りに動かそうとするとき、相手を説得するという方法もありますが、それは時間がかかりますし、相手がこちらの考えに同調してくれるとは限りません。それよりはアメとムチで動かすことが手っ取り早い方法です。
とくに相手が小さい子どもだと、説得するにも相手に理解力がありませんから、アメとムチでやるしかないのが実情です。
 
アメとムチをバランスよく、適切に使い分けるのがよいはずですが、なかなかそうはいきません。どうしてもムチに頼りがちになります。
その理由は簡単です。アメよりもムチのほうが効果的だからです。
アメがほしいのはがまんすることができますが、ムチの痛みはなかなかがまんできません。とくにムチには即効性があります。
たとえば子どもがうるさくしているとき、「いい子だから静かにしてね」とやさしく話しかけるよりは、「うるさい!」と叱りつけたほうが簡単で効果的です。そのため誰もがほめるよりも叱ることに傾きがちです。
そして、主に叱られて育った子どもは、自分が親になると同じように子どもを叱ります。いや、さらに叱るほうに傾きます。つまり世代を経るごとにほめるよりも叱るほうに傾いていくのです。
そうして今では、親は子どもを叱りすぎて、自分でも理不尽だと思いながら止められないというような状態に陥っています。これに暴力が伴うと虐待ということになります(実際は暴力が伴わなくても精神的虐待です)
 
このような“叱りすぎ社会”だからこそ、ほめることのたいせつさが強調されるというわけです。
 
 
ところで、そもそも子育てにアメとムチはほんとうに必要なのでしょうか。
たとえば企業ではセールスマンの成績を向上させるために、成績が悪いと叱り、成績優秀者には特別の褒美を出すというようにアメとムチが使われていますが、これは会社の利益のために行われているわけです。
子育てでアメとムチを使うのは、子どものためだということになっています。つまり、子どもを善悪の判断ができる人間にするためだということです。
しかし、アメとムチで操作されてきた人間が自分で善悪を判断できるようになるでしょうか。
アメとムチで人間を操作することは、決してその人間のためではなく、操作する側の利益のために行われているのが実態ではないでしょうか。
NHKEテレの「すくすく子育て『子どものほめ方』」でも、専門家は「ほめる」ことよりも「大好き」と伝えることがたいせつだと言っていました。
 
親が子をアメとムチで操作すること自体が悲しいことです。

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