村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:自助・共助・公助

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菅義偉首相の掲げる政治理念「自助・共助・公助、そして絆」が議論を呼んでいます。

「自助を筆頭に挙げるのは、弱者切り捨ての新自由主義思想だ」とか「公助をどうするかが政治家の役割だ。自助や共助を言うべきではない」というのが主な批判です。
賛成意見は「当然のことを言っているだけ」といったものです。


この理念は菅首相個人のものというより自民党のものです。
自民党は下野していた2010年に新綱領を制定しましたが、その中に「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組を充実する」とあります。

自民党のホームページにもこう書かれています。
自民党は、タックス・ペイヤー(納税者)重視の政党です。
わが党は、汗を流して懸命に働き納税義務を果たしている人々が納得できる政治を行います。『自助・共助・公助』の考えを基本に、“がんばる人が報われる政治”を実現します。
https://www.jimin.jp/news/policy/130412.html
脱税している人以外は全員「納税義務を果たしている人々」ですし、消費税があるので、日本人は全員が「タックスペイヤー」です。
しかし、自民党が重視する「タックスペイヤー」とは、そういう一般人ではなく、高額納税者、つまり高所得者のことでしょう。
また、「汗を流して懸命に働き」という言葉は、病人や障害者の除外を意味しますし、“がんばる人が報われる政治”は、“がんばらない人は切り捨てる政治”でもあります。

つまり自民党は完全に新自由主義の政党になったのです。
このとき自民党は下野していたので、民主党との差別化をはかるために新自由主義路線を明確化したということもあるでしょう。


ともかく、自民党は綱領にもあるように、「自助」を重視し、「共助」と「公助」は補助的な位置づけにしています。
「自助」重視が新自由主義路線だとすれば、福祉国家路線は「公助」重視ということになります。
今、このふたつの路線で対立が起きています。



こうした議論からすっぽり抜け落ちているのが「共助」の部分です。「共助」をどうとらえるかが実はいちばん重要なところです。

菅首相は新総裁に選出されたあとの記者会見で、「自助・共助・公助」を説明して、「まず自分でやってみる。そして地域や家族がお互いに助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りをします」と語りました。
つまり「共助」とは、家族や地域の助け合いです。

しかし、誰かが失業したとき、地域の人が生活のささえになってくれるかというと、そんなことはありません。そこは家族しかありません。
つまり「共助」とは実質的に家族の助け合いです(災害時や緊急時は地域の助け合いがだいじです)。

しかし、家族の構成員の数は文明の進歩とともにへる傾向があって、大家族から中家族、核家族となり、最近はシングルマザーなど一人親家庭がふえています。
大家族であれば、一人ぐらい失業者がいても抱えていけましたが、核家族や一人親家庭ではそうはいきません。


人類の歴史は家族崩壊の歴史である――と、なにかの名言風に言ってみました。
人間は家族的な人間関係から逃げたいようなのです。

昔は家族以外にも家族的な人間関係がいたるところにありました。

前回の「個人崇拝の時代」という記事に「パターナリズム」という言葉を紹介したのですが、あまり一般的でない言葉なので、気になっていました。
よく考えると、「パターナリズム」などという言葉を使わずに、「家族主義」という言葉でよかったのです。

1970年代、私は中小企業向け経営雑誌の編集部にいたことがあるのですが、当時の中小企業経営者のほとんどが、人手がほしいこともあって、「わが社は家族主義経営だ」と言っていました。ドライな雇用関係ではなく、人情味のある会社だということです。従業員のために独身寮をつくって、社長の奥さんが面倒を見ているというのもよくありましたし、女性従業員に花嫁修業をさせて、うちから何人嫁に出したということを自慢する経営者もいました。

江戸時代の落語には「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」と言いながら、間借り人のお節介を焼く大家がよく出てきます。
昔の徒弟制度の親方と弟子の関係というのも、要は家族主義です。
ヤクザの親分子分の関係も家族主義です。家族のいないはみ出し者は、ヤクザ組織という疑似家族の中に居場所を見つけるということがありました。
また、昔の家族は「居候」というのを抱えていることがよくありました(今「居候」はほぼ絶滅したでしょう)。
ついでにいえば、「日本人はみな天皇陛下の赤子である」という戦前の日本は、国全体が家族主義だったといえます。

こうした家族主義もどんどんすたれていきました。
というのは、中小企業の家族主義経営も、従業員のほうはドライな雇用関係を望んでいたということがあるからです。

田舎には濃密な人間関係がありますが、多くの人はそれよりも都会の希薄な人間関係を好むのが事実です。
それと同様に、家族も家族主義も崩壊し続けてきたのが人類の歴史です。


その原因については改めて論じたいと思いますが、ともかく「共助」を担う家族や家族主義が崩壊し、機能を縮小しているのが現実です。

そうした現実を反映して、シリアスな小説、映画、ドラマのほとんどは家族崩壊の問題を扱っています。
一方、よい家族を描くものとして「サザエさん」や「寅さん」や小津映画がありますが、これらはすべて“古き良き時代”のものとして認識されています。

「サザエさん」や「寅さん」はフィクションなので問題ありませんが、困るのはNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」です。現実にはさまざまな家族があるのに、この番組はいい家族ばかり紹介して、国民に偏見を植えつけています。この番組は「突撃!隣の家族」というタイトルに変えて、どんな家族も分け隔てなく紹介する番組にするべきです。

自民党も家族の現実を直視せず、“古き良き時代”の家族を夢見ています。
自民党が夫婦別姓に反対し続けているのは、「家族の絆を壊すから」という理由からですが、夫婦別姓とは関係なく家族の絆は壊れ続けています。

2008年、リーマンショックが起き、大量の派遣切りが出たとき、会社の寮などで生活していた人が行き場を失うということがありました。
普通なら会社の寮を追い出されたらとりあえず実家に帰るでしょうが、帰るべき実家のない人がたくさんいたのです。

家族崩壊が進んで「共助」が機能しなくなっている現実があらわになりました。

このときNPOや労働組合によって「年越し派遣村」が日比谷公園内につくられました。
そのときは自民党の麻生内閣でしたが、厚生労働省が講堂を宿泊所として提供するなど年越し派遣村に協力しました。
「共助」が機能しないなら「公助」で支えるしかないという認識が自民党にもあったのでしょう。


しかし、その後自民党は新自由主義政党に変質しました。それまでは多分に家族主義的な政党だったと思います。

自民党や菅首相は「自助・共助・公助」と三つを同列に並べますが、これが間違いのもとです。
歴史的に「共助」が衰退するという現実があって、今はそれにどう対処するかが問われているのです。

「共助」が衰退した分を「自助」で補うか「公助」で補うかといえば、結論は明白ではないでしょうか。

菅ブログ
すが義偉オフィシャルブログより

次期総理大臣として本命視される菅義偉官房長官は、これまでの言動を見ていると、これといった政治理念のない人のようでした。
しかし、菅氏は総裁選出馬表明の記者会見とそのあとのテレビ出演で、何度も「自助・共助・公助の国づくりをしていきたい」と語りました。
「自助・共助・公助」というのが菅氏の政治理念のようです。

菅氏は9月5日、自身の公式ブログで総裁選の政策発表を行い、その見出しも「自助・共助・公助、そして絆 〜地方から活力あふれる日本に!〜」となっています。

「自助・共助・公助」というのはよくできたキャッチフレーズだと思ったら、防災対策の基本理念にある言葉でした。
それを丸パクリしたようです(防災の基本理念をつくるのに菅氏がアイデアを出したという可能性もないではありませんが)。

「自助・共助・公助」というのは、災害時にはこの三つがうまく機能することがたいせつだということです。とりわけ大規模災害時には、行政の「公助」が迅速には対応できないので、みずから行動する「自助」と、地域で助け合う「共助」がたいせつになります。


菅氏は災害時の理念を平時の理念に転用しています。
「絆」という言葉も、東日本大震災のときによく言われたものです。

菅氏は災害時と平時の区別がつかないのかというと、そんなはずはありません。
要するに国民は災害時のつもりで、できる限り「公助」を当てにせず「自助」と「共助」でなんとかしろと言いたいのでしょう。
為政者としてはなんとも虫のいい考えです。


菅氏を擁護する人もいるでしょう。
「自助」も「共助」もたいせつなことだから、菅氏が主張するのは当然だという具合です。

しかし、たいせつなことは国民もわきまえています。政治家に言われる筋合いはありません。
政治家の役割は、「公助」の部分です。政策として掲げるのは「公助」をどうするかということで十分です。


「自助がたいせつ」というのは要するに道徳です。
政治家が国民に道徳を説くのは自民党の伝統です。

菅氏は秋田県の農家に生まれ、高卒で集団就職で上京してきたと自身の経歴を語りましたが、新潟県出身の田中角栄首相を連想した人も多いでしょう。
田中角栄首相は首相になるとすぐ、「五つの大切、十の反省」なる道徳を国民に提示しました。
これは「人間を大切にしよう」「 自然を大切にしょう」とか「 友達と仲良くしただろうか」「 お年よりに親切だったろうか」といった、当たり前すぎるというか、あまりにくだらないものだったので、国民の総スカンを食い、たちまち葬り去られてしまいました。

田中首相は教育勅語を真似したのでしょう。
自民党はずっと教育勅語の復活を目指してきました。

西洋社会では、道徳はキリスト教と結びついていました。
明治政府はそれを真似て、天皇と結びついた教育勅語をつくりました。
現人神の権威で国民に道徳を説いたわけです。
そのため、道徳と宗教が結びつくのは普通のことですが、日本では道徳と国家が結びつくという奇妙な伝統ができました。

戦後、教育勅語は失効しましたが、自民党は為政者が国民に道徳を説いた時代が忘れられず、教育勅語の復活と道徳教育の復活を目指してきて、道徳教育の教科化までこぎつけました。

菅氏もこうした自民党の伝統にのっとっているのでしょう。
しかし、民主国家の政治家のあり方ではありません。

ですから、菅氏が「自助・共助・公助」や「絆」を説くのを見て、「立派なことを言っている」などと反応するのは愚かです。
「国民をバカにするな」とか「何様のつもりだ」というのが正しい反応です。

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