村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:表現の不自由展

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「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」を巡る騒動が終わったところに、日本赤十字社が献血のキャンペーンに巨乳のアニメキャラを使ったのはセクハラだという騒動が起きました(献血キャンペーン騒動についてはこちらを参照)。
このふたつの騒動を見て思ったのは、「表現の自由」の裏には「見ない自由」があるのだなということです。


1993年、筒井康隆氏の短編小説「無人警察」が高校の国語教科書に収録されることになったところ、てんかんの記述が差別的であるとして日本てんかん協会が抗議し、それに対して筒井氏が断筆宣言をするということがありました。筒井氏の作品に関しては、差別問題のほかに政治的、宗教的な点でもつねに批判や抗議にさらされてきましたが、このときに限って断筆宣言に至ったのは、作品が教科書に収録されたからです。
筒井氏の作品が雑誌や本に載っている限り、読みたくない読者はスルーすることができます。つまり「見ない自由」があります。しかし、教科書に載ると、生徒に「見ない自由」はありません。そのため日本てんかん協会も強く抗議したのでしょう。

企業や団体の行うキャンペーンは、より多くの人の目に触れるように行うので、「見ない自由」が侵害されます。そのため日本赤十字社の巨乳キャラを使った献血キャンペーンは批判されました。
ただ、批判されたのはあくまで日本赤十字社のキャンペーンで、巨乳キャラの原作マンガが批判されたわけではありません。

似たようなケースとして、ホラー映画のテレビCMもあります。ホラー映画を嫌う人は多くいますが、そういう人は「見ない自由」を行使するので、問題はありません。ただ、ホラー映画のテレビCMが流されると、否応なしに目に入ってしまい、「見ない自由」が侵害されます。かつてはテレビの視聴者から批判が出たこともありました。そのため最近は、ホラー映画のテレビCMにはあまりショッキングなシーンを使わないように配慮しているようです。

そういうことを考えると、「表現の自由」の裏には「見ない自由」が必要なことがわかります。
「見ない自由」がないと、「表現の自由」が危うくなります。
逆に言えば、「見ない自由」があるときに「表現の自由」を侵害することは許されません。


そうすると、「表現の不自由展」に抗議した人たちはなんだったのかということになります。
展覧会に関しては、誰にでも「見ない自由」があります。
少女像は日本人の誇りを傷つけるとか、昭和天皇の写真を燃やすのはけしからんとかいう人は、「見ない自由」を行使して展覧会に行かなければいいだけの話です。

それなのに彼らは威力業務妨害の電凸攻撃をし、テロ予告の脅迫までして展示中止を要求しました。
これは「表現の自由」の侵害であり、「見る権利」の侵害です。作品を創作した人も作品を見たい人たちも傷つけました。
自分たちの思想に反するものを排除し、表現や言論を統制しようとしているとしか思えません。

そもそもほとんどの人は、作品を鑑賞もせずに、断片的な伝聞だけで、「作品を見て傷ついた」などと騒いでいたのです。

今の日本国民には基本的に「見ない自由」があるということを念頭に置けば、「表現の自由」に関する議論の混乱はなくなるはずです。

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「あいちトリエンナーレ2019」が10月14日に閉幕しました。入場者数は65万人以上で、あいちトリエンナーレ史上最高だったということです。
一時は「表現の不自由展・その後」が展示中止になり、どうなることかと思われましたが、津田大介芸術監督は、「一度マイナスになったが、プラスマイナスゼロをめざし、プラスで終われた」と語りました。

私が今回のことで思ったのは、ノイジーマイノリティに世の中を動かされることの危険性です。
昭和初期、日本が軍国主義に走ったのは、軍部や右翼のテロが頻発し、反戦や反軍部の言論が抑え込まれたからです。
今回は、ネトウヨなどの電凸攻撃が一時的に思想表現を抑え込んでしまいました。
これがかつてのテロのように世論を支配することになるとたいへんです。

しかし、展示中止の間に冷静な議論が行われ、流れが変わったと思います。
少女像を「反日だ」とするのは一方的な決めつけですし、かりにそれが正しいとしても、展示中止を求めるのは「表現の自由」の否定であることは明らかです。
また、「こんなものはアートではない」という声も、アートか否かを決める資格もないのに言っているだけだということがわってきました。

あと、「公金を使っての反日は許されない」という声もありましたが、公金を出す人間が自分の思想で公金を左右してはいけません。それは「公金の私物化」です。

その「公金の私物化」をしたのが宮田亮平文化庁長官です。宮田長官が「あいちトリエンナーレ」への補助金不交付を決めました。
不交付の理由は、「補助金を申請した愛知県が、展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告することがなかった」「審査段階においても、文化庁から問い合わせを受けるまでそれらの事実を申告しなかった」ことです。
ほんとうは思想的な理由で不交付にしたのに、手続き上の理由にするという姑息な手を使いました。

宮田長官は官僚出身ではなく、もともと金属工芸の芸術家で、東京芸術大学学長も務めていました。
安倍首相や荻生田文科相の意を汲んでの決定かと思われますが、どんな理由にせよ決定した責任は重大です。
「あいちトリエンナーレ」の津田芸術監督は、ずいぶんひどい個人攻撃をされました。
宮田長官がほとんど批判されていないのは、いわゆるリベラルの甘いところです。


そして、「表現の不自由展・その後」展示に反対する理由として最後に残ったのが、「天皇の写真を燃やすのはけしからん」というものでした。
その急先鋒が竹田恒泰氏です。

「表現の不自由展」は税金を使った“日本ヘイト” 「昭和天皇の写真が焼かれる動画に国民は傷付いた」竹田恒泰氏が緊急寄稿
 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」でいったん中止になった企画展「表現の不自由展・その後」が、6日にも再公開される。最大の焦点は、昭和天皇の写真をバーナーで焼き、灰を足で踏みつけるような映像作品などに、税金を投入して公の場で公開することだ。明治天皇の玄孫(やしゃご)で、作家の竹田恒泰(つねやす)氏が、緊急寄稿した。
 「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」が再開されることになった。
 日本はいつから「ヘイト」を芸術と称して、許容する国になってしまったのか。「狂気の沙汰」という他ない。
 同展をめぐっては、慰安婦像(=慰安婦とされる少女像)に関する批判が目立ったが、私は昭和天皇のご真影(=お写真)が焼かれて、踏み付けられる動画の展示を問題視している。
 まず、昭和天皇のご長男の上皇陛下や、孫の天皇陛下をはじめ皇族方は、どのようなお気持ちで、この動画をごらんになったであろうか、察するに余りある。
 皇族に限らず、誰でも自分の大切な家族の写真が焼かれて踏まれる動画を見たら、深く傷付くに違いない。多くの国民がこの動画で深く傷付いた。
 まして、昭和天皇は、日本国憲法で「日本国」「日本国民統合」の象徴と規定される天皇であらせられた。天皇への侮辱は国家への侮辱であり、国旗を焼くパフォーマンスと同じ要素を持つ。
 従って、この動画は「日本ヘイト」以外の何物でもない。
 あまつさえ、この動画は民間施設ではなく、公共の施設で展示されたのである。税金の使い方として「不適切」だと指摘されて、当然である。
 企画展は「表現の自由」(憲法第21条)について一石を投じる意図があったようだが、ならばなぜ、「反日」の偏った思想から作られた表現ばかりを展示したのか。
 行き過ぎた保守思想の表現も併せて展示すれば、問題提起にもなり得た。
 「表現の不自由」とは単なる看板に過ぎず、実体はただの「反日展」に成り下がっている。これでは、「表現の自由」を振りかざし、税金を使って「日本ヘイト」をしたに等しい。
 また、愛知県の大村秀章知事が「表現の自由は何よりも保障されるべきだ」と発言したことも問題だ。
 では、大村知事に聞きたい。「ヘイト」も保障されるべきなのか?
 憲法が明記するように、「自由」とて「公共の福祉」に反せば制限を受ける(憲法第12条)。知事はそれもご存じではないのか?
 トリエンナーレの芸術監督の津田大介氏は関係者に謝罪したが、この動画で傷付いた人に対する謝罪の言葉は、私には聞こえてこない。
 津田氏は被害者のような振る舞いをしているが、加害者であることも指摘しておきたい。
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/191005/dom1910050004-n2.html

「昭和天皇のご長男の上皇陛下や、孫の天皇陛下をはじめ皇族方は、どのようなお気持ちで、この動画をごらんになったであろうか」と書いていますが、たぶんごらんになっていないはずです。
展覧会というのは、見にいきたい人だけが行くものだからです。
「誰でも自分の大切な家族の写真が焼かれて踏まれる動画を見たら、深く傷付くに違いない」と言いますが、傷付きそうな人は見にいかなければいいだけの話です。

かりに上皇陛下や天皇陛下がごらんになったとしても、どんな感想を持たれるかは誰にもわかりません。
ところが、竹田氏は「深く傷付くに違いない」と一方的に決めつけています。これはたいへん失礼な行為です。
そして、その決めつけた「上皇陛下や天皇陛下のお気持ち」を自分の政治的主張に利用しています。

私の個人的な考えを言えば、上皇陛下や天皇陛下が展覧会の中止を望まれるようなことはなく、むしろ竹田氏が「上皇陛下や天皇陛下のお気持ち」を利用して展覧会中止を主張していることを不愉快に思っておられるに違いありません。

竹田氏は自分を天皇陛下の親戚だと言いますが、あくまで一般人であり、皇族ではありません。
一般人が自分の政治的主張のために皇族の名前を勝手に利用することが許されるでしょうか。


それから、竹田氏は「ヘイト」や「日本ヘイト」という言葉を使っていますが、これは単に「憎悪」という意味なのか、「ヘイトスピーチ」の「ヘイト」の意味なのか、まぎらわしくなっています。

ウィキペディアは「ヘイトスピーチ」をこう定義しています。

ヘイトスピーチ(英: hate speech、憎悪表現)は、人種、出身国、民族、宗教、性的指向、性別、容姿、健康(障害)といった、自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて、属する個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のことである。

自分の憎悪を表現するだけでは「ヘイトスピーチ」になりません。
相手の「自分から主体的に変えることが困難な事柄」を理由に攻撃することが「ヘイトスピーチ」です。
自分の側の「憎悪」ではなく、相手の側の「属性」によってヘイトスピーチか否かが決定されます。
たとえば「あいつは嘘つきだ」と言って罵詈雑言を浴びせ、盛大に憎悪を表現しても、それは「ヘイトスピーチ」にはなりません。しかし、「韓国人は嘘つきだ」と言って攻撃すれば、それは「ヘイトスピーチ」です。

竹田氏はYouTubeの自分のチャンネルがヘイトスピーチを理由に閉鎖されたことがあるので、ヘイトスピーチの定義には詳しいはずです。
「ヘイト」や「日本ヘイト」という言葉を使って、「ヘイトスピーチ」とまぎらわしくさせるのは、言論人のすることではありません。


自分の政治的主張に天皇制を利用するのは、戦前の右翼や軍部がやってきたことです。
竹田氏のこの記事は、もとは産経新聞のサイトに載り、さらにヤフーニュースにも載ったものです。
こういう記事を配信するほうの見識も問われます。

10月22日は新天皇の「即位礼正殿の儀の行われる日」で、改めて天皇制が注目されるでしょうが、竹田氏のように天皇制を政治的に利用する動きがあれば、徹底糾弾しなければなりません。

S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像
S. Hermann & F. RichterによるPixabayからの画像


バンクシーの「退化した議会」という絵画が13億円で落札されたというニュースがありました。
イギリス議会とおぼしいところに人間の議員ではなくチンパンジーがずらりといるという絵画です。
政治風刺の意図がわかりやすすぎてどうかという気もしますが、チンパンジーの姿がリアルでおもしろいので、高額で落札されたのは納得です。

その絵をこのブログに張るわけにはいかないので、代わりにバンクシーのストリートアートの写真を張っておきました。
「退化した議会」を見たい人は次で見てください。

バンクシー 退化した議会の画像

この絵を見て、不愉快に思う人もいるでしょう。バンクシーは政治や社会を批判する意図で芸術活動をしているので、当然です。
しかし、「バンクシーの絵は不愉快だから公開するな」と主張する人がいても、そんな人を相手にする必要がないのも当然です。


ピカソというと、「あんな絵のどこがいいかわからない」という人がいます。
今はピカソの評価が定着したので、そういう人は少なくなりましたが、昔はいっぱいいました。
抽象画についても、「わからない」という人がいっぱいいます。

「わからない」という人をわからせようと説得するのは無意味です。
芸術は、理屈で理解するものではないからです。

「ピカソの絵はわけがわからんから、ピカソの展覧会なんかやめろ」と主張する人はまずいないでしょうが、「バンクシーの『退化した議会』は英国議会への冒涜だから、公開するな」と主張する人は、もしかしているかもしれません。
そんな人を説得しようとするのもむだというものです。


展示中止になっていた「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が10月8日にも再開されそうですが、それについて「コールセンター」がつくられるそうです。

【あいちトリエンナーレ】アーティストの「コールセンター」が誕生。電凸抗議を作家が直接聞く。

コールセンターをつくる高山明氏は、演劇とパフォーマンスのアーチストなので、コールセンター自体がアーチストとしての活動になるのかもしれませんが、基本的にこういうことで話し合っても無意味ではないかと思います。

「表現の不自由展」に文句をつけてきた人は、芸術に意見が言いたいということではなく、単に政治的主張をぶつけてきただけでしょう。
これに対応すると政治論議になってしまいます。
また、芸術作品として、「作者の意図はこうです」などと説明しても説得できないでしょうし、鑑賞の自由を制限して、芸術のあり方に反します。


そんなむだなことをしなくてもいいように、「表現の自由」があります。「表現の自由」を盾にすれば、議論する必要はありません。

そもそも「表現の不自由展」開催に反対する人の論理はあまりにもお粗末です。

たとえば、ヤフーニュースにも載った『「表現の不自由展」は税金を使った“日本ヘイト” 「昭和天皇の写真が焼かれる動画に国民は傷付いた」竹田恒泰氏が緊急寄稿』という記事で、竹田氏は「国民は傷ついた」と言いますが、国民の心はひとつではありませんし、見て傷つくような人は展覧会に行きません。
竹田氏は「昭和天皇の写真が焼かれる動画は『日本ヘイト』だ」とも言っていますが、勝手な決めつけです。それに、「ヘイト」という言葉を「ヘイトスピーチ」と混同させる形で使うのも不適切です。

「あいちトリエンナーレ2019」に国の補助金が出ていることから、「公金をもらう以上制限を受けるのは当然だ」という意見もありますが、公金というのは恩恵として下されるものではありません。文化芸術基本法と文化芸術推進基本計画には、「文化芸術の多様な価値」を発展させ、「文化芸術立国」を目指すことがうたわれていて、それを実現するための補助金です。自由な環境がないと文化芸術は発展しません。

「表現の不自由展」開催に反対する人は、政治を芸術の上に置いている人です。
政治が芸術を支配すると、社会主義リアリズムやプロレタリア文学やナチスの退廃芸術批判や日本の戦意高揚芸術のように、ろくなことになりません。

政治を芸術の上に置いている人も、広い意味で「芸術のわからない人」です。

私もすべての芸術がわかるわけではありませんが、自分のわからないものを否定したり公開するなと主張したりはしません。

バンクシーの「退化した議会」を見て「これは英国議会への冒涜だ」という人や、ピカソの「泣く女」を見て「こんなものは芸術ではない」という人や、「『表現の不自由展』は日本ヘイトだ」という人の声が世の中を支配するようになると、芸術の進歩もなくなるので、そんな声は無視するしかありません。

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源五郎さんによる写真ACからの写真 

「表現の不自由展・その後」に寄せられた抗議は、慰安婦像に対するものと天皇の写真を燃やしたとされるものに集中しました。

「天皇の写真は神聖である」という国家神道の立場から、天皇の写真を燃やすことに抗議する人がいるのは、理屈としては理解できます。もちろんそんな宗教的な主張を押しつけることは許されませんが。

では、慰安婦像の展示に抗議する人はどういう理屈なのでしょうか。

ある種の暴力描写や性描写は“有害”なので公開を制限するべきだという考え方がありますが、そういう類ではないでしょう。抗議する人たちも「慰安婦像は見る人に有害だ」という主張はしていないと思います。

そもそも慰安婦像が問題になったのは、2011年12月、ソウル市の日本大使館前に、慰安婦問題で日本政府に謝罪と賠償を求めるデモの1000回目を記念してブロンズの慰安婦像が設置されたことがきっかけです。
ウィキペディアには、『ボン大学のラインハルト・ツェルナー教授も「像自体は平和的に見えるが、基本的に日本を道徳的に非難する物」であると述べている』と書かれていて、これが妥当な評価でしょう。
人間は非難されると、かりに自分が悪い場合でも、自己防衛のために反発するものです。
そのため多くの日本人が反発しました。

その時点では、「慰安婦像」への反発ではなく、日本大使館前に像を設置するという「韓国側の行為」への反発でした。

そして、2015年に日韓合意が結ばれ、安倍首相は元慰安婦に対して「心からおわびと反省の気持ちを表明」し、慰安婦問題は終結しました。
もっとも、日韓ともに不満は残りました。
日本大使館前の慰安婦像もそのままでした。

ここが分岐点だったと思います。
安倍首相が「おわびと反省の気持ちを表明」しているのですから、日本の大使館員たちは慰安婦像の前を通るときに、一礼するなり手を合わせるなり、ときに花を供えるなりすればよかったのです。その姿は韓国民の気持ちを動かし、慰安婦像は日韓友好の象徴にもなったでしょう。

実際は逆の方向に行きます。
日本側は韓国側に対して大使館前の慰安婦像を「適切に解決されるよう努力する」ことを要求し続けました。
これは理屈としてはおかしなことです。慰安婦問題が片付けば、慰安婦像は日本にとっても不愉快な存在ではなくなるからです。
そして、プサンの日本総領事館前に新たに慰安婦像が設置されたことをきっかけに、日本は大使を召還するなどの強硬措置をとりました(このいきさつについては「日韓炎上の黒幕は誰か」に書きました)。
こうして「慰安婦像」問題が始まったのです。

「慰安婦像」問題は日本にとって圧倒的に不利です。
日本がいくら反対しても、韓国側は慰安婦像をどこにでも設置することができるからです。現に韓国に多数あるだけでなく、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ドイツなどにも設置されています。
それに、慰安婦像は正しくは「平和の少女像」といい、作者が「少女像は反日の象徴ではなく、平和の象徴である」と語っているように、いかにも清純そうな少女の姿です。そういう像の設置に反対する日本は、誰が見ても変な国だということになります。
日本が慰安婦像に反対することは、反日的韓国人の思うつぼです。

日本としては「慰安婦像」問題を早く終わらせなければなりません。
その方法は簡単です。
安倍首相が元慰安婦に対して「心からおわびと反省の気持ちを表明」したのですから、日本人は慰安婦像に頭を下げて、「おわびと反省の気持ち」を示せばいいのです。

もっとも、私は像などに頭を下げるのは宗教的ないし呪術的行為と思うので、したくはありません。
今、慰安婦像に反対している人は慰安婦像を呪物と見なしているわけですから、考え方を転換すれば、頭を下げることに抵抗はないはずです。
安倍支持者は率先して慰安婦像に頭を下げて、日韓友好に貢献するべきです。

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「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になったのは、テロ予告の脅迫などがあった以上やむをえないかと思いますが、今後同じようなことがある場合に備えて、理論武装をしておくにしくはありません。

芸術祭の事務所や愛知県庁に寄せられた抗議のメールや電話は、半数が慰安婦像に関するもので、4割が天皇の写真に関するものだったそうです。
慰安婦像については前回の「いまだに慰安婦像にこだわる愚」という記事で書いたので、今回は天皇写真について書きます。


「表現の不自由展」の内容は、次の記事が紹介していました。

「表現の不自由展」は、どんな内容だったのか? 昭和天皇モチーフ作品の前には人だかりも《現地詳細ルポ》


大浦信行氏の「遠近を抱えて」という作品があって、昭和天皇の写真がコラージュされています。これが富山県立近代美術館に展示されたとき、抗議によって公開中止となり、美術館は作品を売却、図録を全部焼却するという事件がありました。その後、大浦氏は映像作品の中で「遠近を抱えて」の図像を繰り返し用い、「表現の不自由展」のために制作された映像作品には「作品を燃やすシーンが戦争の記憶にまつわる物語のなかに挿入され」ているということで、それが今回問題になりました。

私はその映像作品を見ていないのでなんとも言えませんが、「表現の不自由展」に抗議した人もほとんどは見ていないはずです。「天皇の写真が燃やされる」という情報だけネットで見ているのです。小説でも映画でも自分が鑑賞せずに批判するというのは、してはいけないことです。

慰安婦像に抗議する人も、ニュース番組などで慰安婦像を見ているだけでしょう。一度本物を自分の目で見ることには価値があります。

ともかく、「天皇の写真が燃やされる」ということに抗議する人はどういう論理なのでしょう。
どこかの未開人は写真を撮られると魂を抜かれると信じているという話がありますが、同じ論理で写真には魂が宿っていると信じているのでしょうか。


帝国憲法では、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」でしたし、ご真影も同様に神聖とされていました。ですから、「天皇の写真は神聖である」という理屈が成り立ちます。

しかし、日本国憲法では、天皇は「象徴」であり、「神聖」という言葉はありません。昭和天皇は人間宣言をして、現人神でなくなりました。
しかし、天皇家は神道の儀式を行い、世襲制という特別な地位もあります。
つまり現在の日本においては、天皇は神聖とは言えないが、神聖でないとも言えないというグレーゾーンの存在です。

天皇が神聖であるとも神聖でないとも言えないグレーゾーンの存在であることが、天皇制を巡る議論をむずかしくしています。

保守派は「天皇は神聖である」と言いたいのですが、はっきり言うと反発を招くので、言えません。
リベラルも「天皇はただの人間である」と言うと反発されるので、なかなか言えません。


そういう状況で「天皇の写真を燃やす」作品が問題になりました。
抗議する側は、「天皇の写真は神聖である」と考えています。しかし、そう口に出すと反発されるので、理由を言わずにひたすら「けしからん」と主張します。
ですから、「天皇の写真を燃やすのはなぜいけないのですか」と聞けばいいのです。そうすると彼らは答えに窮するはずです。
「天皇の写真を燃やすと傷つく人がいる」と言うかもしれませんが、作品を見るのは美術展に行く人だけですから、傷つく人はいません。


「天皇の写真は神聖である」という考え方は呪術的思考です。
「慰安婦像はけしからん」というのも呪術的思考です。
最近の日本の右翼は、天皇の写真、慰安婦像、徴用工像、旭日旗などの“呪物”にばかりこだわっています。

こうした呪術的思考を打ち破るのは合理主義精神です。
その具体的な手段のひとつは、「国益追求」を掲げることです。
本来「国益追求」というのは右翼の専売特許なのですが、今は逆です。

たとえば「れいわ新選組」の山本太郎代表は、最近の日韓関係について、「 日本から韓国への輸出総額は6兆円(2.8兆円の貿易黒字)ですよ。この6兆円がなくなってもいいと思うなら、好きなことを言ってください」「ホワイト国除外をすることによって、日韓の間柄における輸出入に大きな障害が出来たことは間違いない。『それによって得られるものは何なのか』と言ったら私はマイナスの部分しか見えない」と言って、安倍政権のやり方を批判しました。
https://lite-ra.com/2019/08/post-4893.html

相手が呪術的思考だとわかれば、おのずと対処の方法もわかってきます。

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韓国 ソウル 日本大使館前の少女像 (源五郎さんによる写真ACからの写真) 

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の中の企画「表現の不自由展・その後」が、電話やメールによる抗議や脅迫が殺到したことで中止に追い込まれました。

過去に美術館や展覧会などから撤去されたり、内容の変更を求められたりした作品を集めるという企画ですから、ある程度の抗議は想定していたはずですが、朝日新聞によると、開幕した8月1日だけで抗議は電話200件、メール500件、事務局は抗議電話に対しては意見を聞く姿勢で、職員も増強しましたが、電話やメールは愛知県庁にも寄せられ、対応に忙殺され、芸術祭の運営そのものに支障をきたしかねないところまで追い込まれたということです。抗議の内訳は、慰安婦像に関するものが半数で、昭和天皇を想起させる作品に関するものが4割程度でした。

「抗議電話には意見を聞く姿勢」というのがどうだったのでしょうか。

こういう“電凸”をする人は、いわゆるネトウヨで、ネットで情報を共有して集中的に抗議のメールや電話をしてきます。企業に消費者がクレームをつけてくる場合は、いくら理不尽な主張であっても、企業は対応しなければなりませんが、こういう「抗議のための抗議」にまともに対応するのは戦略の誤りです。

こういう抗議をしてくる人は、匿名だから卑劣なことができるのです。「撤去しなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する」というファックスもあったということです。

メールやファックスは放っておけばいいことですが、電話はそうはいきません。
電話の抗議に対しては、「匿名の電話には対応しません」と言って、向こうの名前と電話番号を聞いて、こちらから電話をかけ直すというやり方をすればいいのです。そのときの会話は、相手の了承を得て録音します。
もちろん名乗らない相手には、すぐに電話を切ります。

「余命三年時事日記」というブログに扇動されて、多数のネトウヨが特定の弁護士に懲戒請求をするという出来事がありましたが、懲戒請求は実名で行われたため、弁護士から逆に慰謝料請求の訴訟を起こされ、次々と慰謝料支払いを命じる判決が出て、ネトウヨがあわてるという事態が現在進行中です。

匿名だから卑劣な行為ができます。
「実名の抗議電話には意見を聞く姿勢」がよかったのではないでしょうか。


匿名で脅迫する人間も卑劣ですが、それに便乗して表現の自由を冒そうとする人間はもっと卑劣です。
河村たかし名古屋市長は、「日本国民の心を踏みにじる行為で、行政の立場を超えた展示」として、展示中止を求める抗議文を出しました。松井一郎大阪市長も、「われわれの先祖があまりにも人としての失格者というか、けだもの的に取り扱われるような展示」として批判しました。
個人としてどんな思想を持つのも自由ですが、展示をやめろと主張することは表現の自由を冒すこと以外のなにものでもありません。

なお、河村市長と松井市長が言っているのは、慰安婦像(正しくは「平和の少女像」)のことと思われますが、この像にはなんの悪意も込められていません。
つけ加えると、安倍首相も2015年の日韓合意において「日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明」しているので、慰安婦像に文句をつける意味がわかりません。


かつての日本で表現の自由が制限されたのは、わいせつなどを別にすれば、社会主義思想を弾圧するためであり、戦争遂行のために反戦思想や厭戦表現を抑えるためでした。つまり一応、国家の存続に関わることでした。
ところが、今回の表現の自由の問題は、主に慰安婦像のことです。

「慰安婦像」と「表現の自由」では、重さが違いすぎて、天秤にかけることもできません。

いまだに慰安婦像にこだわって電凸などする人間は、日本の国益を損なうだけです。

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