村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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本書は同じ著者矢部宏治氏の「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」の続編であり、また、矢部氏がプロデュースする「<戦後再発見>双書」という歴史シリーズの一冊でもあります。
このシリーズを読んでいる人と読んでいない人では、戦後日本の見方がまったく違うのではないかというほど重要なシリーズです。
 
「日本はなぜ、『戦争のできる国』になったのか」では、「基地権」と「指揮権」というふたつの概念を使って複雑な問題を解き明かしていきます。
 
沖縄の基地問題がまったく解決しないのを見て、「日本はまだ占領状態だ」と言うのは「基地権」のことを言っているわけです。
日米安保条約+日米地位協定+密約によって、アメリカは「日本中のどこにでも、必要な期間、必要なだけの軍隊をおく権利」を有していると矢部氏は言います。
事実、北方領土返還交渉において日本政府はロシアに「北方領土が返還されるとそこに米軍基地ができる可能性がある」と述べたために、プーチン大統領は返還をやめてしまいました。このことを見ただけで、アメリカが基地権を持っていて、日本が拒否できないことがわかります。
 
なお、細かい密約を決めるのは日米合同委員会という組織です。これはアメリカの軍人と日本の高級官僚によって構成されるという、まさに占領状態を示す組織となっています。
 
矢部氏の本を読んだ田原総一朗氏は「日経ビジネスオンライン」にこんなことを書いています。
 
 
 先日、僕はBS朝日の「激論!クロスファイア」で、ゲストとして本書の著者である矢部氏と石破茂元防衛大臣を招き、日米地位協定について議論をした。石破氏は、「この協定に少しでも触れたことを言おうとすると、『そんな話はしてはいけない』という空気がある」と述べた。いわば、この話はタブー視されているというわけだ。
 あるテレビ番組の取材で、外務省の元北米局長に日米合同委員会について尋ねると、「日米合同委員会については、何も知りません。そんなものがあるのかすら知りません」と答えた。
 北米局長は、同委員会の日本側の代表だ。何も知らないわけがない。しかし、何か知っていることを認めれば、日本国内で信用をなくし、誰からも相手にされなくなってしまうから言えなかったのだろう。
 
 
日米合同委員会については、外務省のホームページでその組織図が公表されていますから、元北米局長が「何も知りません」と言ったのは、あまりにも苦しい嘘です。
 
なお、「密約」といっても、多くはアメリカ側で公開された公文書を証拠としているので、説得力があります。
 
 
こうした基地権の問題はかなり知られるようになってきましたが、矢部氏はほかに指揮権の問題もあると言います。
 
指揮権の問題は朝鮮戦争と密接に関連しています。
 
朝鮮戦争において国連軍が組織されますが、これは国連憲章43条に基づかない非正規なもので、アメリカに「統一指揮権」と「国連旗の使用」が認められます。
「アメリカが指揮する国連軍」というのはおかしなものですが、ともかくアメリカは“錦の御旗”を手にしたわけです。
 
日本にいたアメリカ軍が朝鮮に出撃したあと、米軍基地を守るためにつくられたのが警察予備隊です。このときから「憲法破壊」が始まりました。
 
そして、アメリカから朝鮮半島近海に海上保安庁の掃海艇部隊を出すように要請がきます。吉田首相は「国連軍に協力するのは、日本政府の方針である」と言って、出動を許可します。
掃海艇部隊は日本近海の機雷除去を任務としていたのですが、朝鮮半島近海で敵が敷設した機雷を除去するのは戦争行為です。まだ占領下の日本とはいえ、これもまた「憲法破壊」でした。
 
なお、この掃海艇部隊は、1隻が機雷に触れて爆発、沈没し、1人の「戦死者」を出します。このことは長く秘密にされてきました。
このとき、25隻の部隊のうち、3隻が船長の判断によって戦場を離脱し日本に帰還したといいますから、そうとうなドラマがあったのでしょう。
 
このとき組織された国連軍は今も存在していて、板門店などの警備をしていますし、沖縄と横田基地にも国連軍後方司令部が置かれています。
そして、在日米軍というのは、「頭部は国連軍司令部、体は在日米軍というキメラ(複合生物)」であると矢部氏は言います。
そして、さまざまな法的トリックにより、戦時には自衛隊は米軍の指揮下に入る密約があるのだと言います。
現実に自衛隊はほとんど米軍と一体化しているので、そうなるに違いないと私も思います。

新安保法制はその具体化であったわけです。
 
 
韓国での有事指揮権はアメリカ軍(米韓連合軍)が握っていますが、文在寅大統領は韓国軍に移管させる方針で、交渉しています。
戦争になったら韓国軍よりアメリカ軍が指揮したほうがうまくいくと思いますが、少なくとも韓国では指揮権のことが議論になっています。
 
ところが、日本では指揮権のことはまったく話題にもなりません。
平和勢力は戦争のことを具体的に考えようとしない傾向がありますが、自衛隊が“参戦”するときに自衛隊の指揮権はどうなるのかということを安倍首相に問いただしてもらいたい気がします。
 
 
国連軍が一度組織されたのに二度目がないのは不思議ですし、その一度目がいまだに存在し続けているのも不思議でしたが、要はアメリカが国連をないがしろにしつつ国連軍という“錦の御旗”だけは手放したくないからだと考えると納得がいきます。
また、アメリカが決して北朝鮮と平和条約を締結せずに休戦状態を続けているわけもわかります。

憲法や安保法制について考えている人には必読の本です。

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パオロ・マッツァリーノ著「みんなの道徳解体新書」(ちくまプリマー新書)を読みました。
 
パオロ・マッツァリーノ氏の著者紹介には「イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認」とふざけたことが書いてあります。イザヤ・ベンダサン式の外国人を装う日本人ではないかと想像されます。
 
マッツァリーノ氏のデビュー作は「反社会学講座」です。これがめっぽうおもしろかったので、力のある名の通った書き手が別名で書いているのだろうと想像しました。そして、脳内サーチをしたところ、ある作家の名が浮かびました。思想傾向と文章が似ていますし、なによりも、その作家には社会学を批判する本を実名(それも筆名ですが)では発表しにくいという個人的な事情がありました。
 
その作家は元の筆名で小説と割とまじめなエッセイを書き、戯作的な社会批判をパオロ・マッツァリーノ名義で書くという戦略でやっているようです。
 
「パオロ・マッツァリーノの正体」で検索したところ、的外れの推測はされていますが、その作家の名前は挙がっていません。まだ誰も気づいていないようです。
 
私がここでその名前を書いてもいいのですが、本人があえて正体を隠しているのですから、その意向を尊重することにします。
もっとも、私も推測しているだけで、証拠があるわけではありません。ただ、正しいという確信があります。賭けてもいいです。
 
 
で、「みんなの道徳解体新書」ですが、北野武著「新しい道徳」が売れたので、それに触発されて書いたのではないかと思ったら、マッツァリーノ氏は自分の公式ブログで、北野氏の本が出る前から企画して下調べもしていたと主張していました。
 
 
『みんなの道徳解体新書』内容紹介
 
 
このページに内容紹介がされているので、ここで書くことがほとんどなくなってしまいました。そこで、道徳の副読本に書かれているさまざまなエピソードから、おもしろいものを紹介しておきましょう。
ちなみに道徳副読本は一般の人は容易に読めないので、ここに紹介するものはけっこう貴重ではあります。
 
 
子ねこのネネ(教育出版3年)
かわいがっていた子猫が死んでしまい、悲しみに沈んでいる女の子。
その子の誕生日がやってきて、誕生会が開かれます。同級生の男の子は、女の子を勇気づけようとプレゼントを渡します。
箱を開けると、なかには死んだ猫にそっくりの猫が……
 
 
なまはげ(光文書院1年)
なまはげは家をまわって、いけないことをした子を探します。
うそをついた子はいねが!
人の物をとった子はいねが!
いじわるをした子はいねが!
みなさんも「なまはげ」になって、してはいけないことを探してみましょう。
 
 
ナンシーのゆめ(教育出版3年)
ナンシーは夢を見ています。
夢の中では、ナンシーの臓器たちが会話をしています。
心臓や脳や手や足が不満を漏らします。おれたちはナンシーのためにいろいろ働いているのに、胃ぶくろのやつはなにもしていないじゃないか。彼らは胃ぶくろを懲らしめてやることにしました。
するとナンシーの体から力が抜けていきます。
心臓や脳は「私たち、まちがっていたのかしら……」
「胃ぶくろさんは、食べものをみんなにわけてくれていたのね……」
そこでナンシーは目を覚まします。「よのなかの生きものは、互いに関わりあっていのちを支えているんだわ。この地球だって……」
 
 
これらのエピソードについてマッツァリーノ氏がツッコミを入れていくわけです。
もとのエピソードがへんてこなので、いやおうなくおもしろくなります。
 
今後、小中学校で道徳が正式の教科に格上げされるので、こうしたツッコミは大いに意味があります。
 
本書には道徳教育の歴史がきちんと調べて紹介されているので、そこにも価値があります。
 
ただ、マッツァリーノ氏は北野氏の「新しい道徳」について、あまり調べずに根拠のないことを書いていると批判的に見ていますが、それは違うでしょう。
マッツァリーノ氏の「みんなの道徳解体新書」は道徳教育批判の書ですが、北野氏の「新しい道徳」は道徳批判の書です。
道徳教育批判よりも道徳批判のほうがより本質的です。
 
ちなみに、道徳教育批判は要するに政府や文部科学省や教育者を批判するだけですが、道徳批判はすべてのおとなと社会全般を批判することになるわけです。
 
道徳批判というのは、ルソーとマルクスがやっているのですが、そのあとを継ぐ者がいません。
本来はダーウィンがしなければならなかったのですが、ダーウィンは間違ってしまいました。そのためいまだに道徳についての言説は混乱しっぱなしです。

 
アメリカのトランプ次期大統領の主張は、ナントカ主義とかナントカ思想と名づけられるものではなく、要するに“むき出しの道徳”です。
道徳批判の視点がますます重要になってきました。その意味からも本書は大いに価値があります。

橘玲著「言ってはいけない残酷すぎる真実」(新潮新書)が売れているようです。
 
進化生物学、脳科学、認知科学などによる人間の科学的・実証的な研究がどんどん進んで、今や人間観を根底から変えなければならない時代です。しかし、この手の本はどうしても専門的になり、むずかしいし、おもしろくありません。
その点、橘玲氏は作家だけにおもしろく読ませる力がありますし、犯罪、暴力、お金、セックスなど読者が食いつきたくなる題材を扱い、専門家でないために総合的な視野もあります。
 
そういうことでおもしろく読め、いろいろなことも学べます。
 
たとえば、われわれは面長の男性と顔の幅の広い男性とを見比べると、顔の幅の広い男性のほうを攻撃的と判断して、この判断はかなり正確なのだそうです。というのは、男性ホルモンであるテストステロンが濃いと顔の形が幅広になるからだというのです。
私は昔から、政治家というのはなぜかブルドッグみたいな顔の人が多いなと思っていましたが、これを読んでその理由がわかりました。攻撃的な人が政治の世界で出世するのです。
トランプ氏も幅の広い顔で、いかにも攻撃的です。
一方、オバマ大統領や谷垣禎一自民党幹事長は面長で、政治家としては異色です(谷垣幹事長は自転車で転倒して入院中ですが、自転車が趣味というのも政治家としては異色です)
 
こんな興味深い話がいろいろ書かれているのですが、読んでいるうちにこれは“残念な本”だということもわかってきます。
 
たとえば、アメリカにおいて白人の知能の平均を100とすると黒人は85になるのだそうです。この数字が正しいか否かは別にして、人種と知能に関係があっても不思議ではありません。
 
本書では、容姿の美しさについてもいろいろ書かれ、「美人とブスでは経済格差は3600万円」だそうです。
私の経験では、美人とブスの問題にも人種は関係あります。ラテン系は美人が多いですが、アングロサクソン系にはあまりいません。東南アジアの女性は鼻が横に広く、あまり美人はいません。日本と韓国では韓国に美人が多い気がします(ネトウヨによると整形のせいだそうですが)。また、国内でも地域差があって、私はこれまで京都、名古屋、東京に住んできましたが、京都と東京には美人が多く、名古屋にはあまりいません。
 
ところが、本書には美人と人種の関係についてはなにも書かれていません。知能に関するところにだけ人種が持ち出されるのです。
しかも、知能と人種の関係を論じることはタブーにふれることだと強調されます。そのため「個人差」ということが無視されてしまいます。

黒人はみな肌が黒く、白人はみな肌が白いので、「黒人の知能は白人より劣る」と言われると、黒人はみな白人より知能が劣ると思う人がいるかもしれません。しかし、これは間違っていて、これが差別主義です。
 
自然界の現象の多くは釣鐘型(ベルカーブ)の正規分布になることが知られていて、知能も同様です。白人の平均知能が100、黒人が85だとすると、それぞれ釣鐘型に分布するのですから、かなりの部分が重なり合うでしょう。ですから、ある白人とある黒人の知能を比べると、黒人の知能が高いケースはいくらでもあることになります。これは差別主義者にとっては「残酷すぎる真実」でしょう。
 
名古屋には京都や東京より美人が少ないといっても、名古屋出身の美人女優やモデルがいっぱいいることを見てもわかるように、ごくわずかの差です。ですから、私も本来ならこんなことは言いません。問題はあくまで「個人差」です。
 
 
橘玲氏は性差についても同じような議論を展開します。
幼い子どもに絵を描かせると、女の子は暖色を多く使って人物やペットや花や木を描き、男の子は寒色を多く使ってロケットやエイリアンや車など動くものを描こうとする。これは親や教師が「男の子らしい」あるいは「女の子らしい」絵を描くように指導したからではなく、生まれつきの性差によるのだ。文化や教育が性差をつくってきたというフェミニストの主張は間違いだ。
 
確かにフェミニストは生物学的性差を軽視ないしは無視してきて、これは間違いです。
しかし、橘玲氏の主張も「性差」を強調するあまり「個人差」を無視しています。
生物学的性差の男らしさ、女らしさにも「個人差」があり、釣鐘型に分布するので、女の子らしい男の子、男の子らしい女の子も存在することになります。
橘玲氏の主張はLGBTの人への差別につながります。
 
 
ダーウィンの進化論以来、社会ダーウィン主義、優生学、エドワード・O・ウィルソンの社会生物学と、科学と差別主義を結びつけることが行われてきて、本書もその末席に連なることになりました。
読んでためになることもいっぱい書かれているので、なんとも“残念な本”と言わざるをえません。
 

北野武著「新しい道徳」が売れています。
私はこの本についてすでに書評を書きました。
 
北野武著「新しい道徳」書評
 
北野氏はこの本で、道徳についてさまざまな疑問を呈して、「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」と主張しています。ところが、北野氏は母親から「食べ物が美味しいとか不味いとかいうのは下品だ」とか「行列に並んでまで食い物を喰うのは卑しい」と教えられ、それは受け入れていて、奥さんの料理にも「うまい」と言わないのだそうです。
おいしいものを食べる喜びを家族で共有するというのは、人間の幸せのもっとも基本的な部分ですが、北野氏にはそれがないわけです。
 
なぜ北野氏は母親から教えられたことは無批判に受け入れてしまうのかということが気になって、北野氏の「たけしくん、ハイ!」を図書館から借りてきて読んでみました。
 
 
「たけしくん、ハイ!」は、1947年生まれの北野武(ビートたけし)氏が幼少期の思い出を書いた本です。貧乏な暮らし、塗装業だった父親の仕事を手伝ったこと、紙芝居、ベーゴマ、川遊び、凧揚げなどの遊びのことが細かく書かれています。テレビドラマにもなったので、ご存じの方も多いでしょう。ここでは、北野氏と母親との関係に注目して、引用してみます。
 
 
小学校6年生ぐらいのとき、北野氏は母親といっしょに神田に行って、5教科全部の参考書や問題集を買ってきます。
 
そんで、帰ってきたら、
「さぁ、勉強しろ」
って始まっちゃってさ。
で、初めは目新しいから、一応すわってやるんだよね。そしたらおふくろ、にやにや笑って喜んでるわけ。三日目になったら、おっぽりだして、なにもやらなかったら大変よ。なぐるけるでさ、すごかったよね。
もう、パンチの雨なんだもの、うちのおふくろ。押し入れの中にまでけっとばされたりしてさ。鬼のようだったね。本当に、鬼子母神のようだったよ。恐かったなぁ、あれ。
そういう母親なんだもん。まぁ、すごい母親だったね。あれ。そいで、おやじが、酔っぱらいであれだもんね。異常な世界だよ、俺んとこ。
 
 
俺もほんと悪いガキだったけど、やっぱりおふくろだけには勝てなかったよね。
なにがダメというより、なにをやってもおふくろにもう見破られたってとこあるからね。なにやったって俺しかいないんだから、悪いことすんのは。だからあのころ、何をするにもおふくろとの対決だったんだよ。おふくろをだますか、見つかっておこられるかのどっちかだったからね。
 
 
あるとき、近所の質流れの店にお兄さんといっしょにグローブを買いに行きます。それもなぜか台風の日に必死で行くのですが、わずかにお金が足りなくて買えません。
 
兄きは異常に口惜しがってね。ついに泣きだしちゃったんだよ、質屋の前でね。それがまたすごく悲しくてさ、二人で泣きながら帰ってきたんだ、うちまでね。
うちまで泣きながら帰ってきたら、おやじがおふくろをぶんなぐってるの。夫婦ゲンカしてるのよ、いつものね。それ見て情けなくなっちゃってさ。情けないっていうか、もうなんとも悲惨だったんだ、あのころ。
日曜日だし、雨降ってるからペンキ屋できないわけよね。仕事はできねえし、おふくろは仕事がねえからって、おやじのことののしったらしくてさ。おやじは一升ビンかなんかで酒飲みながら、おふくろをけっとばしたりして。兄きは兄きで、グローブ買えなかったのが口惜しくて泣いてるし。とりあえずオレも泣かなきゃしょうがないって、意味もなくオレも泣きだしちゃってね。ほんと、それが情けなかったんだ。
おやじはいつも殴ってたんだよね、おふくろのことを。婆さんが出てくると、その婆さんまでけっとばしたりしてたんだもの。おやじの実の母をだよ。おやじのおふくろは、義太夫の師匠でさ。俺のおふくろと、つまり嫁と姑の仲がいいわけよね。そんで婆さんは、自分の息子であるおやじがどうしょうもないダメ人間なのを知ってるから、
「すまないね、すまないね」
って、いつもおふくろにあやまってるんだ。それをきくとおやじはいつも怒ってさ、
「テメェの息子に対して、なんだこのババァが」
とかいって、けっとばすんだよ、婆さんをね。八〇いくつの婆さんをだぜ。ムチャクチャなんだから、もう。地獄なんだ、俺んち。
 
 
この本は、古きよき時代を描いたノスタルジックなムードの本と思われているようですが、よく読むと、ドメスティック・バイオレンスと幼児虐待の本でもあります。私は読んでいて、元少年Aの家庭に近いのではないかと思いました(時代が違うので、こちらの家庭は開かれていますが)
 
母親はとても学歴にこだわる人で、北野氏はきびしく勉強を強制され、明治大学に進学しますが、結局中退して母親の期待を裏切ってしまいます。
当然北野氏には母親に対する恨みなど複雑な思いがあるはずですが、ウィキペディアの「ビートたけし」の項目によると、『1999年(平成11年)8月に母が死去した際には通夜の後に記者会見で、「俺を産んで良かったと思って欲しい…」と絶句し、泣き崩れる場面を見せた』ということです。
 
父親については、暴力だけではなく、人間的な描写がいろいろとあります。たとえば、ある年のクリスマスに高校生のお姉さんがケーキを買ってきます(母親はクリスマスらしいことをしなかったようです)。そこに酔っぱらった父親が帰ってきて、ちゃぶ台の上のケーキを見て、「バカヤロー。ペンキ屋の家でクリスマスパーティーもなにもあるかい」と言ってちゃぶ台をひっくり返し、北野氏とお姉さんはぐずぐずになったケーキを見てわんわん泣いて、父親はまた家を出ていってしまいます。しかし、よく見たら玄関に大きな紙袋が置いてあって、ひげのついたセルロイドのめがねと、クラッカーが入っています。おそらく父親は必死の覚悟でそのクリスマスセットを買ったものの、それを子どもに出すことができず爆発してしまったのだろうと察して、そのとき北野氏は泣いてしまったそうです。
 
つまり父親についてはそうした人間的な弱さを洞察しています。しかし、母親についてはそういう描写がありません。
母親から「食べ物が美味しいとか不味いとかいうのは下品だ」と言われたとき、母親は料理が苦手だからそんなことを言うんだろうという洞察があれば、その教えに縛られることはなかったでしょう。
親から虐待された子どもは、それを虐待と認識することができず、逆に親をかばいます。北野氏はいまだそういう段階にあるのではないかと思われます。
 
「新しい道徳」は道徳について深く考察した本ですが、母親との関係が洞察できていない分、不徹底になってしまいました。

北野武著「新しい道徳」(幻冬舎)を読みました。
 
「はじめに」という前置きがあります。
そこには「他人の書いたことを鵜呑みにする性癖のある読者は……これから先は読んではいけない」「これから書くのは、あくまでも俺の考えだ。その考えを誰かに押しつけるつもりはまったくない」「なんだかおかしいなあと思うから書いただけだ」というふうに、毒舌家の北野氏にしては珍しく謙虚な姿勢が打ち出されています。道徳を批判することに対するタブー意識がそれだけ強いということでしょう。
 
「道徳はツッコみ放題」というのが第1章のタイトルですが、これは全編にわたってのテーマでもあります。学校の道徳の教材を初めとして世の道徳に対してどんどん突っ込んでいきます。そこを紹介しましょう。
 
文部科学省の小学1・2年生の道徳の教材には「自分を見つめて」と書いてあるが、これがおかしいといいます。子どもに必要なのは、虫だのカエルだのを追いかけ回したり、野球やプロレスごっこをしたりして、好き勝手に遊ぶことだ。子どもはそこからいろんなことを学ぶ。小学1年生が自分を見つけるわけがないというわけです。
それから、「いちばんうれしかったことを書きなさい」というのもおかしい。そういうのは年を取ってから、昔を振り返ってすることだ。子どもに昔を振り返らしてどうしようっていうんだ。
 
道徳の教科書にはやたら老人とゴミが登場すると北野氏は言います。年寄りに席を譲る。年寄りの荷物を持ってやる。年寄りの道案内をする。道に落ちているゴミを拾う。ゴミを分別して出す。誰かが道にゴミを捨てたら注意する。老人とゴミが、子どもになにかいいことをしろと教えるときの定番になっているのです。
そうすると、老人とゴミはいっしょで、老人は社会の邪魔者だと思う子どもがふえてもしかたがない。
それに、老人だから善人とは限らない。刑務所の中は老人でいっぱいだ。重い荷物を持っているじいさんに声をかけて、家まで運んでやった子どもがそのまま家の中に連れ込まれたら、老人に親切にしろと教えた先生はどうするんだ。
やっぱり毒舌も好調です。
 
道徳はフラクタルだと北野氏は言います。つまり大きい世界の道徳も小さい世界の道徳も相似形のはずだと。
子どもに仲良くしましょうと教えているなら、国と国だって仲良くしないといけない。「隣の席のヤツがナイフを持ってるので、僕も自分の身を守るために学校にナイフを持ってきていいですか」って生徒が質問したら、「それは仕方がないですね」と答える教師はいるわけない。だとしたら、隣の国が軍拡したから我が国も軍拡しようという政策は道徳的に正しくないことになる。いかなる理由があっても喧嘩をしてはいけないと子どもに教えるなら、いかなる理由があっても戦争は許されないということになる。
ところが、おとなたちは戦争は必要悪だとか、自衛のための戦争は許されると言ったりする。もしそれが正しいのなら、子どもにも喧嘩をするなと教えるな。道徳はフラクタルなのだから。
 
さすがに北野氏は鋭く突っ込んでいます。
 
それから北野氏は、道徳は時代によって変わると言います。バブルの時代を経て、若くしてIT長者になることが可能な時代になると、農耕時代のような勤勉の道徳は通用しない。今、ノロマなカメでもコツコツ努力すればウサギに勝てるなんていう幻想を子どもに植えつけたら、まじめなカメはみんな頭のいいウサギの食い物になってしまう。
この指摘も鋭いです。
 
結局、本書の結論は、「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」ということと、「道徳は自分でつくる」ということです。
 
私はその結論にだいたい賛成ですが、少し突っ込んでおきます。
 
北野氏は、支配者が庶民に押しつける道徳と親が子に伝える道徳は違うと言います。
北野氏の母親は「食べ物が美味しいとか不味いとかいうのは下品だ」とか「行列に並んでまで食い物を喰うのは卑しい」と教えたそうで、北野氏はその“道徳”を肯定しています。だから、今でも行列には並ばないし、奥さんの料理にも「うまい」と言わないのだそうです。
これはおかしな話です。道徳はフラクタルだと言ったことと矛盾しています。それに、奥さんが心を込めてつくったおいしい料理にも「うまい」と言わない“道徳”がいいわけがありません。
 
北野氏ほどの人でも、自分の母親のことになると客観視できないのです。
 
それから、「道徳は自分でつくる」といったって、どんな道徳をつくってもいいわけではありません。正しい道徳をつくらなければいけないわけで、そのためのヒントや方向性を示さないのは不十分です。
 
今の道徳がどのようにしてつくられたかは、北野氏自身も書いています。
「道徳は社会の秩序を守るためのもの……といえば聞こえはいいけれど、それはつまり支配者がうまいこと社会を支配していくために考え出されたものなんだと思う」
「道徳は時代によって変わる。
誰が変えるのかといえば、もちろん力を持っている奴だ」
「戦争の勝ち負けと、どちらが正しいかは別問題だと思うけれど、現実には勝った方の正義が通って、負けた方は間違っていたってことになる」
 
つまり道徳とは、力のある者に都合よくできているのです。ですから、自分なりの道徳をつくるとすれば、そこのところを訂正するべきだということになるでしょう。
私は「弱きを助け、強きをくじく」という道徳を最上位に位置づければいいのではないかと思っています。
 
私の考えとは少し違いますが、道徳についてこれほど深く考えた本はまずないでしょう。きわめて読みやすく、ためになります。

安田浩一著「ネット私刑」を読みました。
安田浩一氏といえば「ネットと愛国」で在特会の実態を取材したジャーナリストです。
 

ネット私刑(リンチ) (扶桑社新書)  2015/7/2  安田浩一 ()

内容(「BOOK」データベースより)
正義を大義名分にネットで個人情報を暴露・拡散する悪行=ネットリンチ。さらす人、さらされた人それぞれの実態に、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した気鋭のジャーナリストが迫る!川崎の中学生殺害事件の現場を直撃取材!
 
ヘイトスピーチなどネットで起こっていることは、リアルの世界にも影響を与えて、ますます重要になっています。
たとえば、自民党の大西英男議員が党の勉強会で「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」と発言しましたが、これはネットの中では昔から言われていて、実行もされてきたことです。
また、安倍首相は衆院予算委員会において、民主党議員に対して「日教組!」とヤジを飛ばし、さらに答弁で「日教組は補助金をもらっている」と述べましたが、これなどもまさにネットで見たことを真に受けたものでしょう。
 
本書には、上村遼太君が殺された川崎中1殺害事件、大津いじめ自殺事件、「ドローン少年」として逮捕された15歳の少年のこと、著者の知り合いである在日コリアンの女性が男子高校生から嫌韓のヘイトスピーチを受けた出来事、フジテレビへのデモの現場、フリーライターの李信恵氏や参議院議員の有田芳生氏へのヘイトスピーチなどが扱われ、ネット上で殺人犯扱いされたお笑い芸人のスマイリーキクチ氏へのインタビューも載っています。
 
大津いじめ自殺事件では、まったく無関係の人間が加害者側の親族として誤認され、プライバシーをあばかれ、勤務先に多数の抗議電話がかかってくるなど、たいへんな目にあいました。また、教育長がリアルで男子大学生に襲われるということもありました。このようなリンチを行う人間はどんな人間で、どのような論理で行っているのかということが具体的に書かれています。なんでもかんでも在日や反日や日教組のせいにする彼らの論理は、ネットでは当たり前になっていますが、こうして具体的に書かれると、そのおかしさが際立ちます。
たとえば「在日特権」のひとつとして大手マスコミには「在日枠」なる採用枠があって、そのために偏向報道が行われているなどということを真面目に信じているようなのです。
 
著者はネット上でヘイトスピーチやリンチをする人間にリアルで取材しているので、そこが本書の値打ちでしょう。
私がとくに興味深かったのは、大津いじめ自殺事件で無関係の人間を「加害者の祖父」としてネット上で攻撃し、刑事告訴されて罰金30万円の略式命令を受け、さらに損害賠償裁判も起こされているという30代無職の男性のことです。
著者は彼を取材しに行ったときのことをこのように書いています。
 
 
私は今回の取材で彼の自宅を訪ねた。
兵庫県内の山間部に位置する小さな町だった。彼はそこで両親とともに暮らしている。
彼の知人によれば、子どものころから人づきあいを苦手とするタイプだったという。地元の高校を卒業してからは仕事を幾度も替えた。どれも長続きしなかった。そこまではよくある話だ。今どき珍しくはない。
彼が熱中したのはネットだった。そしてハマった。朝から晩まで、寝る時間を惜しんでネットに夢中になった。「ネットの世界こそがすべてではなかったのか」と、その知人は話す。
自宅のドアを叩くと、顔を見せたのは父親だった。
父親は私が取材者だと知ると激怒し、そして落ち込んだ表情を見せた。
「親の気持ちがわかりますか?」
ため息とともに苦しげな声を漏らした。
「うちの子をあなたに会わせるわけにはいかない。わかってほしい」
顔に刻まれた深い皺が、父親の苦悩を表していた。なんとしてでもわが子を守りたいという愛情が伝わってくる。
「あの子なりの正義感だったとは思う。親として止めることができず、残念でならないんです」
パソコンの画面を見つめるだけの毎日。叱っても、励ましても、わが子は自室から動かなかった。
明け方になっても明かりの消えない部屋を、父親は情けない思いで見ていた。
父親はネットのことをよく知らない。自分とは違って、外に刺激も交流も求めないわが子を弱い人間だと思った。だから「強くなれ」と何度も叱咤した。今から振り返れば、それがプレッシャーになったのではないかとも感じている。
わが子が大津の事件に必要以上の興味と関心を抱いたことには、「心当たりがないわけではない」と漏らした。
「息子は子ども時代、私には何も言わなかったけれども、おそらくいじめられっ子だった。私も薄々とそのことは感じていた。今にして思えば父親として力になってやることができなかったのが悔しい。うちの子はそのときの傷を抱えたまま大人になったに違いない。いじめ事件に異常な反応を示したのも、そうした彼の経験が背景にあるのではないか」
そう話すと父親は、さらに深いため息をつき、下を向いた。
彼は彼の世界で闘っていたのだろう。理不尽ないじめに、そしてそれを許容している社会を相手に。
彼は自殺した少年の姿を自分と重ねていたに違いない。だから許せなかった。許してはいけなかった。情報の正誤など考えている余裕はなかった。
正義の名のもとに、彼は理不尽な社会悪を倒さねばならなかったのだ。
30万円の罰金刑を受け、警察からも相当に絞られた。そうしたこともあり、わが子も深く反省をしているという。
だが、私が訪ねた日も、彼は自室でネットの世界に籠もっていた。
「私の闘いはまだ続いているんですよ」
苦悩で震える父親の声は、一筋縄ではいかない未来を暗示しているようでもあった。
 
 
私は前から、ネットリンチをする人間はたいてい学校でいじめを体験しているに違いないと思っていましたが、彼はその典型的な例です。
 
ちなみに著者の安田氏も子どものころ転校を繰り返していじめられ、いじめられないために自分もいじめるという経験をしたそうです。
 
学校がどんどん息苦しくなり、その影響が社会全体に及んでいる気がします。
 
それから、この父親は息子がいじめられていることを薄々知りながら、なにもしませんでした。いや、息子を叱咤したことがいじめみたいなものです。そのため息子は引きこもり状態になってしまったのではないでしょうか。
 
ちなみに大津いじめ自殺事件において、私は自殺した少年は家庭で父親から虐待を受けていて、学校でのいじめよりむしろそれが自殺の主な原因ではないかと推測し、そういう観点からこのブロクでいくつも記事を書きました(「大津市イジメ事件」というカテゴリーにまとめてあります)
 
酒鬼薔薇事件の元少年Aも母親からひどい虐待を受けていました。
 
この国は、学校と家庭の両方で生きづらくなっており、それがネットリンチやヘイトスピーチやさまざまな犯罪となって現れているのではないかと思います。
「ネット私刑」を読んで、改めてそのことを感じました。

このところ続けて「絶歌」を読んだ感想を書いています。
 
14歳の少年が異常な殺人事件を起こしたら、その少年の家庭はどのようなものだったのだろうと誰もが考えます。
今ならその少年は幼児虐待の被害者ではないかと疑われるでしょう。幼児虐待は“魂の殺人”とも言われます。自分が殺されるような体験をしていたら人を殺しても不思議ではありません。
 
しかし、酒鬼薔薇事件が起きた1997年には、幼児虐待はまだあまり社会的に認知されていませんでした。そのため少年Aは普通の家庭で普通に育ったのに異常な殺人を犯したということで「心の闇」ということが言われたのです。
 
それに対して、秋葉原通り魔事件が起きたのは2008年です。犯人の加藤智大は当時25歳でしたが、この時代には幼児虐待が社会的に認知されていたので、週刊誌は加藤が子ども時代に母親から虐待されていたことを派手に報道しました。
その報道は加藤の認識にも影響を与えたのでしょう。彼は獄中で4冊も本を出して、中の1冊は「殺人予防」というタイトルです。私は読んでいないのですが、おそらく幼児虐待が犯罪の原因になることを言っているものと思います。
 
そう判断するのは、加藤は「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人である渡邉博史の被告人意見陳述書に共感して、手紙を「月刊創」の篠田博之編集長に送ってきたからです。渡邉の意見陳述書は自分の犯罪の原因を悲惨な幼児期に求めたものです。
つまり秋葉原通り魔事件の加藤も、「黒子のバスケ」脅迫事件の渡邉も、自分の幼児期の虐待が犯罪の原因であるという認識を持っているのです。
 
このへんの事情は次の記事に書きました。
 
「黒子のバスケ」脅迫事件被告からのメッセージ
 
元少年Aもそうした認識を持っていいはずです。
元少年Aの場合は、とりわけ母親にきびしくしつけられました。小学校3年のときにこんな作文を書いています。
 
・「ま界の大ま王」  914923(小3
 
 お母さんは、やさしいときはあまりないけど、しゅくだいをわすれたり、ゆうことをきかなかったりすると、あたまから二本のつのがはえてきて、ふとんたたきをもって、目をひからせて、空がくらくなって、かみなりがびびーっとおちる。そして、ひっさつわざの「百たたき」がでます。お母さんはえんま大王でも手が出せない、まかいの大ま王です。
 
ところが、「絶歌」にはそうしたことはまったくといっていいほど書かれていません。むしろ逆に母親は事件の原因ではないと書かれています。
 
母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった。事件後、新聞や週刊誌に「母親との関係に問題があった」、「母親の愛情に飢えていた」、「母親に責任がある」、「母親は本当は息子の犯罪に気付いていたのではないか」などと書かれた。自分のことは何と言われようと仕方ない。でも母親を非難されるのだけは我慢できなかった。母親は事件のことについてはまったく気付いていなかったし、母親は僕を本当に愛して、大事にしてくれた。僕の起こした事件と母親には何の因果関係もない。母親を振り向かせるために事件を起こしたとか、母親に気付いてほしくて事件を起こしたとか、そういう、いかにもドラマ仕立てのストーリーはわかりやすいし面白い。でも実際はそうではない。
(中略)
「僕の母親は、“母親という役割”を演じていただけ」
「母親は、ひとりの人間として僕を見ていなかった」
少年院に居た頃、僕はそう語ったことがある。でもそれは本心ではなかった。誰も彼もが母親を「悪者」に仕立て上げようとした。ともすれば事件の元凶は母親だというニュアンスで語られることも多かった。裁判所からは少年院側に「母子関係の改善をはかるように」という要望が出された。そんな状況の中で、いつしか僕自身、「母親を悪く思わなくてはならない」と考えるようになってしまった。そうすることで、周囲からどんなに非難されても、最後の最後まで自分を信じようとしてくれた母親を、僕は「二度」も裏切った。
(中略)
あんなに大事に育ててくれたのに、たっぷり愛情を注いでくれたのに、こんな生き方しかできなかったことを、母親に心から申し訳なく思う。
母親のことを考えない日は一日もない。僕は今でも、母親のことが大好きだ。
 
これはいかにもそらぞらしい文章です。「絶歌」には留置所に面会にきた母親に「はよ帰れやブタぁー!」と叫ぶ場面も書かれているので、それとも矛盾します。
しかし、「絶歌」に対する反応を見ていると、これをそのまま信じている人もいます。
 
好意的に解釈すれば、母親がこれ以上社会的に非難されないように配慮したのかもしれません。
しかし、私自身は、元少年Aは自分が社会に受け入れられるために社会の常識に合わせて書いたのではないかという気がします。
 
現に「絶歌」はベストセラーになっています。
 
しかし、真実を偽ったのでは、むなしいベストセラーというしかありません。

これは戦後最大の必読書です。日本の問題をここまで明快に指摘した本はほかにありません。とても読みやすい本ですが、あまりにも内容が衝撃的なため、私は書かれていることを胸に収めるために、何度も読む手を休めねばなりませんでした。


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内容紹介
なぜ戦後70年たっても、米軍が首都圏上空を支配しているのか。
なぜ人類史上最悪の事故を起こした日本が、原発を止められないのか。
なぜ被曝した子どもたちの健康被害が、見て見ぬふりされてしまうのか。
だれもがおかしいと思いながら、止められない。
 日本の戦後史に隠された「最大の秘密」とは?
 
 

著者の矢部宏治氏は出版プロデューサーとして「〈戦後再発見〉双書」を手がけた人です。私はその中の「戦後史の正体」(孫崎享著)を読んでいますが、これもたいへん素晴らしい本です。今回、自分で本を書いたということは、その集大成を目指したのでしょう。
 
現在の政治の混迷は、民主党政権が失敗し、政権交代の可能性がほとんどなくなってしまったことからきています。
では、なぜ民主党政権は失敗したのか。これについてマスコミや政治学者ははっきりしたことを語りません。
しかし、本書は明快にその理由を語ります。
 
 
第1章では基地問題が取り上げられます。
ここに書かれていることの多くは、私もあらかじめ知っていたことです。たとえば、沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落したとき、米軍が現場を封鎖し、大学関係者、マスコミはもとより日本の警察すら立ち入れなかったこと、砂川判決を出す前に日本の最高裁は判決内容をアメリカに伝えていたこと、米軍基地の騒音訴訟などで裁判所は騒音被害は認定しても米軍機の飛行差し止めは決して認めないこと、鳩山政権が辺野古移設問題でアメリカと交渉していたとき、日本の外務省の官僚がアメリカの交渉担当者に対して助言していたことなどです。
マスコミはこれらのことを報道しますが、その背後にあるものはまったく伝えません。しかし、本書はこれらの事実の背後には法律や条約や協定や(アメリカ側で公表された)密約があることを示します。
 
ところで、鳩山政権が辺野古問題で迷走しているころ、私は「日本辺境論」(内田樹著)を読んで、日本に外交力がまったくないことに妙に納得してしまいました。ただ、これはもっぱら文明史の観点から論じた本です。
それに対して本書は、もっぱら法制面から論じています。その分、具体的ですから、誰もが納得せざるをえないでしょう。
 
第2章は原発問題が取り上げられます。
これについては私も知らないことがいっぱいでした。
 
アメリカではトモダチ作戦に参加した米軍兵士が被曝の補償を求めて東電を訴えており、原告の数は200人にもなったということが報道されていますが、日本ではこうした訴訟はありません(これを書いたあとで知りましたが、日本でも訴訟は行われていました)。
その理由は日本の法律にあるということを初めて知りました。
 
大気汚染防止法 第27条 1項
この法律の規定は、放射性物質による大気の汚染およびその防止については適用しない」
土壌汚染対策法 第2条 1項
この法律において『特定有害物質』とは、鉛、ヒ素、トリクロロエチレンその他の物質(放射性物質を除く)であって()
水質汚濁防止法 第23条 1項
この法律の規定は、放射性物質による水質の汚濁およびその防止については適用しない」
 
また、環境基本法は、放射性物質については「原子力基本法その他の関係法律で定める」となっていますが、実はなにも定めていないということです。
 
これでは訴えられないのは当然です(健康被害は訴えられそうですが、これは水俣病裁判がそうだったように立証するのがたいへんです)
 
また、野田政権は原発稼働ゼロを目指すエネルギー戦略を閣議決定しようとしましたが、いつのまにか再稼働容認に変わってしまいました。これについて当時の報道で納得のいく説明はありませんでした。
 
本書によると、藤崎一郎駐米大使がアメリカのエネルギー省のポネマン副長官と国家安全保障会議のフロマン補佐官と面会し、日本政府の方針を説明したところ、「強い懸念」を表明されて、それで方針転換したのだということです。
 
これだけでは陰謀論のようですが、こうしたことの背後には日米原子力協定があるといいます。この協定は「アメリカの了承がないと、日本の意向だけでは絶対やめられない」ような取り決めになっているのです。
 
これを読んだとき、小泉純一郎元首相が「原発ゼロの方針を政治が出せば、必ず知恵のある人がいい案を作ってくれる」と繰り返す理由がわかりました。日本が原発をやめるには、なにか特別な知恵が必要なのです。

第3章以降は、こうした構造の解明と、歴史的な成立過程の解明に当てられます。
 
国際条約や国際協定は国内法の上位にあるとして、憲法はどうなのだということが論じられます。原発再稼働や危険な普天間基地の米軍使用は、健康で文化的な生活を営む権利を侵害する憲法違反なのではないか。
しかし、日本の最高裁は、安全保障のような高度な政治的判断を必要とすることには判断しないと決めています。これは「統治行為論」などと呼ばれますが、世界の法学の常識にはありません。国民の人権が侵されても裁判所はそれになにも言わないというのですから。
 
そのため安保条約や日米地位協定や日米原子力協定などの安保法体系は日本国憲法の上位に位置することになります。そして、日本の官僚は憲法ではなく安保法体系(とアメリカ)に忠誠を誓っているというわけです。
 
そして、安保法体系がつくられた過程を戦時中と占領時代にさかのぼって解明していくところも、きわめて説得力があります。
 
ほんの一例を挙げると、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、「自分はどうなってもいいから国民を救ってほしい」と言ったので、マッカーサーは感激して天皇制を存続させることにしたという話があります。私はこういう“美談”は眉唾ものだと思いますが、本書はまったく別の説をとっています。昭和天皇はアメリカに占領された場合は自分が助かる可能性があるが、ソ連に占領されると処刑されるに違いないと思っていて、原爆投下ではなくソ連の参戦によって降伏を決意した。戦後も、共産主義革命が起こると自分は殺されると思っていて、そうならないように米軍駐留を望んだというのです(「沖縄メッセージ」と言われる)
 
つまりこれは「自発的隷従」というべきものですが、これが隠されているため、日本に共産主義革命の起こる可能性のなくなった今でも「自発的隷従」から抜け出すことができないというのです。
いや、ますます「自発的隷従」が強まっていることは、最近の安保法制の議論を見ていればよくわかります。
 
あと、日本国憲法制定過程や国連憲章の敵国条項などについても「目からウロコ」のことが次々と出てきます。
 
今後、日本のあり方について議論しようとする者は、本書の主張に賛同するかどうかは別にして、本書に書かれている個々の事実を無視するわけにはいかないでしょう。そういう意味でも必読書です。

忘れられているかもしれませんが、私は小説家でもあります。これまでに5冊の小説本を出版してきましたが、今回そのうちの1冊が電子版として角川書店より発売されましたので、お知らせします。
 
 
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  夢魔の通り道
 
   著者 村田基
  ジャンル 文芸 日本文学 ホラー
  レーベル 角川ホラー文庫
  出版社名 KADOKAWA / 角川書店
  配信開始日 20150122
  ページ概数 357
 
 
 
著者の描き出す奇怪で不気味な物語たち。ホラーファン待望の精選短編集!
 
「夢」と「現実」の隙間から這い出してくる虫。あらゆる生物が生きたまま腐敗する世界。たった一日で悟りを得られる宗教の流行。植物と交わる女。子供を教育することが許されない未来、突如おのれの寿命を悟ってしまう人々の出現、永遠に終わらない悪夢の中に閉じこめられた男、などなど……。轟音とともに、この世界が崩壊する。13の研ぎ澄まされた悪夢の剣。ホラーファン待望の精選短編集!
 
(C) Motoi Murata 1997
 
価格272円(+税)294(税込)(01/29 23:59までの価格です)
 
 
 
「夢魔の通り道」(ブックウォーカー)
 
「夢魔の通り道」(アマゾン)
 
 
要するにホラー小説の短編集です。
 
このブログを読む人にはあまり興味はないかもしれません。
 
ただ、私がこのブログで書くことと、私がホラー小説を書くことは密接に関わっています。私はホラー小説から人の心の奥底を見ることを学びました。
一方、私はSF小説も書きます。SFからは、文明や人類を大きな視野でとらえることを学びました。
この両者がドッキングしたところに私の思想が生まれました。
この思想を「科学的倫理学」と名づけています。
 
今問題になっているイスラム過激派のテロですが、「科学的倫理学」からすると、決して悪ではありません。むしろアメリカ中心の国際社会のほうが悪です。
アメリカはテロ組織の殲滅を目指しています。おそらくうまくいかないでしょうが、かりにうまくいったとしても、それはよい社会ではありません。おそらくものすごい監視社会になります。
では、よい社会とはなにかというと、テロリストがテロをする動機をなくしてしまうような社会です。
こういう考え方が「科学的倫理学」というわけです。
 
私は「科学的倫理学」にかまけて、小説を書かなくなってしまいました。
小説に集中していたら、どんな人生になっていたかということは考えますが、これも必然なので、しかたありません。
 
ホラー小説が好きな方には電子版「夢魔の通り道」はお勧めだと思います。

「バカの壁」(養老孟司著)400万部を超える記録的ベストセラーですが、これだけ売れたのはタイトルの効果も大きかったでしょう。
「バカの壁」というのは、自分の頭の中に「バカの壁」があって、正しい認識を妨げているという意味ですから、「認知バイアス」という言葉で表現できます。しかし、「認知バイアス」というタイトルの本では売れないでしょう。
 
また、「バカの壁」という言葉を、自分のことは棚に上げて、もっぱら人のバカを責めるために使っている人もいます。
「自分のバカは棚に上げて他人のバカを批判する」というのも、「バカの壁」のひとつの現れです。
というか、「自分と他人を公平に比較できない」「なんでも自分に都合よく考える」ということこそ「バカの壁」の最たるものでしょう。
 
そういう意味では、最近の出版界では“バカの壁本”あるいは“バカ本”とでもいうべき本があふれているように思えます。
そう思ったきっかけは、この本が週間ベストセラーの中に顔を出していたことです。
 
「住んでみたヨーロッパ 9勝1敗で日本の勝ち」(川口マーン恵美著)
 
著者はドイツ在住30年の日本人で、「住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち」という本も出しています。
 
この本のタイトルがおかしいのは、日本人が日本とヨーロッパを比較して勝ち負けを判定しているところです。それでは客観的・中立的な判定のできるわけがありません。
スポーツの世界では、国際試合の審判は中立的な国の人間が務めるというのが常識ですが、それでも審判は、ホームタウンデシジョンといって、地元に有利な判定をしがちです。
 
ちなみにアマゾンで「住んでみたヨーロッパ――」のレビューを見ると、かなり評価は低いです。
それでもベストセラーになるのですから、こうしたタイトルの本に引きつけられる人が多いのでしょう。
 
竹田恒泰氏が評論家としてメジャーな存在になったのは、「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」という本を出したことがきっかけです。この本のタイトルもいかにもへんですが、これがベストセラーになりました。
 
今、書店には嫌韓本があふれていますが、もちろんほとんどは日本人が書いたものです。その内容は、日本人に都合のよいものになっているに決まっています。
日本と優劣を比較せずに韓国を紹介する本なら読む価値がありますが、嫌韓本はそういうものではないはずです。
 
「日本人が日本と外国を比較して日本を持ち上げる本」がよく売れているというわけですが、こういう本を読んでも偏った知識しか得られません。
おそらくもともと偏見を持っている人が読んで、ますます自分の偏見を強化しているのでしょう。
 
テレビ番組でも、外国人に評価される日本文化や、外国で活躍する日本人を紹介するものがやたらにふえています。もちろんその番組をつくっているのは日本人ですから、これもまた偏見を強めるだけのものでしょう。
 
「バカの壁」を乗り越えるのではなく、「バカの壁」の前であぐらをかいている格好です。
 
こういう人がふえたのでは、日本が沈滞するのは当然です。
そうなった原因は、右翼思想が蔓延したからであり、自民党の治世が長く続いたからだと思っています。
 

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