私はコペルニクスの地動説に匹敵するような画期的な理論を発見し、別ブログの「道徳観のコペルニクス的転回」において紹介しています。
「コペルニクスの地動説に匹敵する」とは大げさだと思われるかもしれませんが、実際そうなのだからしようがありません(私は「究極の思想」とも呼んでいます)。
これまでは「天動説的倫理学」から「地動説的倫理学」への転換について書いていたので、ちょっとむずかしかったかもしれませんが、これからはわかりやすくなります。
コペルニクスの地動説は、太陽の周りを地球や金星や火星が回っている図を見るだけで理解できますし、金星や火星の動きはニュートン力学で明快に説明できます。
コペルニクス以前のプトレマイオスの天動説の天文学でも、金星や火星の動きを説明する理論が一応あったのですが、複雑で難解でした。
思想や哲学というと難解なものと決まっていますが、それはプトレマイオスの天動説と同じで、根本的に間違っているからです。
「道徳観のコペルニクス的転回」は第4章の5「とりあえずのまとめ」まで書いて、しばらく休止していましたが、今回公開分はその続きになります。
以前のものを読まなくても、これだけで十分に理解できますが、「道徳観のコペルニクス的転回」について簡単な説明だけしておきます。
動物は牙や爪や角を武器にして生存闘争をしますが、人間は主に言葉を武器にして互いに生存闘争をします。言葉を武器にして争う中から道徳が生まれました。「よいことをせよ。悪いことをするな」と主張して相手を自分に有利に動かそうとするのが道徳ですが、この善悪の基準は各人の利己心から生まれたので、人間は道徳をつくったことでより利己的になり、より激しく生存闘争をするようになりました。
一方、争いを回避する文化も発達しました。道徳ではなく法律や規則などで社会の秩序を維持することで、これを法治主義や法の支配といいます。文明が発達してきたのは、道徳の支配のおかげではなく法の支配のおかげです(あと、経済活動も道徳と無関係に行われています)。
しかし、法の支配が及ばない領域があります。ひとつは国際政治の世界で、もうひとつは家庭内です。このふたつはまだ道徳と暴力の支配する世界です。
家庭内には夫婦の問題もありますが、ここでは親子の問題だけ取り上げています。
「究極の思想」の威力がわかるでしょう。
第5章の1「教育・子育て」
「道徳観のコペルニクス的転回」を理解すると、世界の見え方が変わってくる。
これまでは誰もが文明から未開や原始を見、おとなから子どもを見ていた。これでは物事の関係性がわからない。進化の系統樹は、バクテリアやアメーバを起点とするから描けるのだ。人間を起点として進化の系統樹が描けるかどうかを考えてみればわかる。地球を中心にして太陽系の図を描けるかというのも同じだ。
子どもが自然のままに行動をしていると、あるとき親が「その行動は悪い」とか「お前は悪い子だ」と言い出した。子どもにとっては青天の霹靂である。そして、親の言動は文明の発達とともにエスカレートし、子どもは自由を奪われ、しつけをされ、「行儀よくしなさい」「道路に飛び出してはいけません」「勉強しなさい」などと言われるようになった。それまで子どもは、年の近い子どもが集団をつくって、もっぱら小動物を追いかけたり木の実を採ったりという狩猟採集のまねごとをして遊んでいたのだ。
『旧約聖書』では、アダムとイブは善悪の知識の木から実を食べたことでエデンの園を追放されるが、この話は不思議なほど人類が道徳を考え出したことと符合している。人類は道徳を考え出したばかりに、「幸福な子ども時代」という楽園を失ってしまったのだ。
親は子どもを「よい子」と「悪い子」に分け、「よい子」は愛するが、「悪い子」は叱ったり罰したり無視したりする。子どもは愛されるためには「よい子」になるしかないが、そうして得られた愛は限定された愛であり、本物の愛ではない。本物の愛というのは、「なにをしても愛される」という安心感と自己肯定感を与えてくれるものである。
今の世の中、どんな子どもでも「悪いこと」をしたときは、怒られ、叱られ、罰される。親としては、子どもが「悪いこと」をしたのだから叱るのは当然だと思っているのだが、「悪いこと」の判断のもとになる道徳はおとなが考え出したものである。親が道徳を用いると、親は一方的に利己的にふるまうことになる。それに対して子どもが反抗するのは当然であるが、反抗的な態度の子どもを叱らないと、子どもは限りなくわがままになるという考え方が一般的なので、親はさらに叱ることになる。こうして悲惨な幼児虐待事件が起こる。
人間の親子はあらゆる動物の中でもっとも不幸である。最近は哺乳類の親子の様子を映した動画がいくらでもあって、それらを見ると、親は子どもの安全にだけ気を配って、子どもは自由にふるまっていることがわかる。子どもが親にぶつかったり親を踏んづけたりしても、親は決して怒らない。しつけのようなこともしない。動物の子どもはしつけをされなくてもわがままになることはない。未開社会の子どももしつけも教育もされず、子ども同士で遊んでいるだけだが、それでちゃんと一人前のおとなに育つ。動物の子どもや未開人の子どもを見ると、文明人の親が子どものしつけにあくせくしていることの無意味なことがわかる。
どんなに高度な文明社会でも、赤ん坊はすべてリセットされて原始人として生まれてくる。赤ん坊を文明化しなければ、その文明はたちまち衰亡してしまう。したがって、どんな文明でも子どもを教育するシステムを備えている。文明が高度化するほど子どもには負荷がかかる(親と教師にもかかる)。人間は誰でも好奇心があり学習意欲があるのだが、教育システムつまり学校は社会の要請に応えて、子どもの学習意欲とは無関係に教育を行う。つまり少し待てば食欲が出てくるのに、食欲のない子どもの口にむりやり食べ物を押し込むような教育をしている。
こうした教育が行われているのは、文明がきびしい競争の上に成り立っているからでもある。戦争に負けると、殺され、財産を奪われ、奴隷化されるので、戦争に負けない国家をつくらなければならない。古代ギリシャで“スパルタ教育”が行われたのは強い戦士をつくるためであったし、近代日本でも植民地化されないために、他国を植民地化するために“富国強兵”の教育が行われた。
個人レベルの競争もある。スポーツや音楽などは幼いころに始めると有利な傾向があるので、親はまだなにもわからない子どもに学ばせようとするし、よい学歴をつけるためにむりやり勉強させようとする。
個人レベルの競争もある。スポーツや音楽などは幼いころに始めると有利な傾向があるので、親はまだなにもわからない子どもに学ばせようとするし、よい学歴をつけるためにむりやり勉強させようとする。
いわば親は“心を鬼にして”教育・しつけを行うので、そうして育てられた子どもは、親とは鬼のようなものだと学習して、自分は最初から鬼のような親になる。そうすると、生まれてきた赤ん坊を見てもかわいいと思えないし、愛情も湧いてこないということがある。これも虐待の原因である。
子どもにむりやり勉強させて、かりによい学歴が得られたとしても、むりやり勉強されられた子ども時代が不幸なことは間違いない。最大多数の最大幸福という功利主義の観点からも、子どもの不幸は無視できない。今後文明は、子どもが「教育される客体」から「学習する主体」になる方向へと進んでいかなければならないだろう。
最近、発達障害が話題になることが多いが、発達障害もまた多分に文明がつくりだしたものである。
たとえば学習障害(LD)は読み書き計算の学習が困難な障害だが、こんな障害はもちろん狩猟採集社会には存在しなかった。注意欠如・多動性障害(ADHD)は集中力がなく落ち着きがない障害だが、これは長時間教室の椅子に座って教師の話を聞くことを求められる時代になって初めて「発見」されたものである。自閉症スペクトラムは対人関係が苦手な障害だが、これも文明社会で高度なコミュニケーション能力が求められるようになって「発見」されたものだろう。
つまりもともとさまざまな個性の子どもがいて、なにも問題はなかったのであるが、文明が進むとある種の個性の子どもは文明生活に適応しにくくなった。個性は生まれつきのもので、変えようがないので、親や学校や社会の側が子どもに合わせるしかないのであるが、不適応を子どもの“心”の問題と見なし、子どもをほめたり叱ったりすることで子どもを文明生活に適応させようとした。実際には叱ってばかりいることになり、その個性の上に被虐待児症候群が積み重なった。おとな本位の文明がこうした子どもの不幸をつくりだしたのである。
したがって、発達障害という診断名がつくようになったのは、当人にとっては幸いなことである。虐待のリスクが少なくなるからである。
現在、子どものしつけや、習い事、進学などで悩んでいる親にとって、「道徳観のコペルニクス的転回」を知ることは大いに意味があるだろう。おとな本位の考え方を脱して、子どもの立場から考えられるようになるからである。
「問題児」という言葉があるが、存在するのは問題児でなくて「問題親」である。つまりさまざまな問題は、子どもではなくおとなや文明の側にあるのである。