村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:野球

8月半ばになって甲子園の高校野球も佳境に入ってきましたが、高校野球というのは考えてみると奇妙なものです。
まずユニフォームがすべて白ないし灰色ですし、ほとんどの学校が丸刈りです。それに、夏のいちばん暑い時期に行われます。
 
昔、多くの中学高校で丸刈りが校則で強制されていましたが、今ではほとんどないはずです。しかし、野球部だけはまだほとんどが丸刈りです。
スポーツのユニフォームは一般にカラフルなものです。柔道着もかなり前にカラー化されましたが、高校野球だけはカラー化されません。
真夏に屋外で長時間の試合をするのも、熱中症などの危険性があります。しかし、時期をずらそうという議論もないようです。
 
要するに高校野球は昔のままなのです。
 
なぜそうなのかというと、高校野球が戦争の記憶と結びついているからではないかと私は思っています。
 
戦時中につくられた「ハワイ・マレー沖海戦」という映画があります。主人公の少年が予科練でのきびしい訓練を経て一人前のパイロットとなり、真珠湾攻撃やマレー沖のイギリス艦隊攻撃に参加していくという物語ですが、この映画の大半は予科練の生活を描くのに当てられています。予科練の制服は白ですし、もちろん予科練生は坊主頭です。そして、炎天下でもきびしい訓練をします。
私は予科練の訓練を見て、高校野球を連想しました。おそらく多くの人が同じように思うでしょう。
 
甲子園の日程の中に必ず8月15日の終戦記念日があり、その正午にはサイレンが鳴って全員が黙祷します。このことも高校野球と戦争の記憶を結びつけます。
また、試合開始と試合終了のときには必ずサイレンが鳴らされますが、サイレンの音というのも、空襲警報など戦争と結びついています(サイレンは高校野球だけでなく社会人野球で一般的に使われているようですが)
 
そして、高校野球というのはきわめて精神主義的です。我慢、根性、自己犠牲が称揚されます。これもまた戦争当時の価値観です。
 
ちょうど「選択」8月号に「高校野球の『深い闇』」という記事が載っていたので、その一部を引用します。
 
高校野球の魅力とは、端的に言えば「滅びの美学」だ。ファンは疲れた体にムチを打ち、ボロボロになるまで戦う姿に感動する。前出トレーナーが言う。
「甲子園ほど体に悪いものはない。こんな暑い時期に、あんなに暑い地域で、もっとも暑い二時前後にも当たり前のように試合を組んでいる。ここ数年、足をつる選手が続出しているのですが、あれは完全に熱中症状。外に出ることさえ控えるべき環境の中で連投させて、しかも平気で百球以上投げさせるなんて、虐待以外の何物でもないでしょう。それを喜んで観ているファンも相当、悪趣味です。アメリカ人がクレイジーだというのも、もっともです」
 
 「滅びの美学」というのも、戦時中の価値観と同じような意味でしょう。
 
戦争当時の価値観を色濃く残す高校野球と、それを喜ぶファンが多数いるという現実を見ていると、日本人の平和主義は意外に底が浅く、また容易に戦争に熱狂するのかなと思ってしまいます。

今日いちばん驚いたのが、巨人の球団代表兼ゼネラルマネージャーの清武英利氏がナベツネこと渡辺恒雄氏を告発する会見を行ったというニュースです。この出来事は、巨人という球団の内紛といってしまえばそれまでですが、渡辺恒雄氏は読売新聞グループ本社会長で絶対的権力者ですから、たとえば北朝鮮で金正日を政権幹部が公然と批判したも同然です。ですから、ただちに粛清されても不思議ではありません。
清武氏がそういう力関係の中で告発に踏み切ったのは、どういうことでしょうか。
 
私が最初に思ったのは、希望的観測も含めて、渡辺恒雄氏の独裁体制が崩壊しつつあるのかということでした。渡辺氏は85歳の高齢です。さすがに読売本社内部で反渡辺の機運が高まっていて、それと連動している可能性があると思いました。
もうひとつの可能性として、渡辺氏に健康不安があって、そのことを知った上での告発かもしれないと思いました。
いずれにしても、清武氏は渡辺氏にさからっても勝てる可能性を見ているのではないかというのが、私が最初に思ったことです。
 
次に、清武氏は勘違いしているのかもしれないと思いました。
私は昔はけっこうプロ野球ファンでしたが、最近はあまり興味がなくなり、清武氏がどういう人物かまったく知りません。しかし、ある野球評論家が「球団代表があんなに目立ってはいかん」と批判しているのを聞いたことがあります。
清武氏はみずから中心になってプロ野球に育成枠というのを導入したそうで、巨人の育成枠から何人もの選手が育ったことで清武氏もマスコミに出る機会がふえました。今調べると、著書も2冊ありますし、テレビ東京の「ルビコンの決断」という経済ドキュメンタリードラマでも清武氏の活躍が取り上げられました(名高達男が清武役)
こうしたことから清武氏は、自己イメージがふくれ上がって、自分は渡辺氏にも対抗できるほどの人物であると勘違いしてしまったのかもしれません。
そうであれば、この出来事は清武氏が追放されて終わりということになってしまいます。
 
今は事情がよくわかりませんし、清武氏がどういう人間であるかも少なくとも私にはわかりません。
しかし、もし清武氏か渡辺氏かどちらの味方をするかをどうしても決めなければならないとしたら、私は迷わず清武氏の味方をします。
理由は簡単です。渡辺氏が権力者だからです。「弱きを助け、強きをくじく」というのが正しい倫理学の基本原則です。
 
渡辺氏が読売グループに絶対的権力者として君臨しているのは困ったことです。権力の集中化や絶対化はよくありません。
渡辺氏は政治にも深くかかわっています。鳩山政権や菅政権は読売新聞の論調が違っていたらもっと長持ちしたでしょう。渡辺氏は野田政権は支持しているようですが、個人の恣意がマスメディアを通じて政治を動かしているのはもちろんよいことではありません。
 
渡辺氏のこうしたあり方を同業者は批判しにくいものです。たとえば朝日新聞が渡辺氏批判をしたら、商売敵だから批判するのだろうと思われてしまいます。
ですから、ここはネットの出番ということになりますが、日ごろ「マスゴミ」だのなんだのとマスコミを批判している人たちも、渡辺氏にはそれほど批判的ではないようです。「弱きを助け、強きをくじく」ではなく、権力に弱い人が多いのでしょうか。
 
渡辺氏もさすがに高齢ですから、権力の座からすべり落ちる日も近いでしょうが、その日がきてから批判してもあまり意味がないと思います。

私は10年ほど前、賞金王にもなったことのある人気プロゴルファーに会ったことがあります。私はプロゴルファーに会うのはその人が初めてでした。会ったあとで思ったのは、まったくスポーツ選手らしいところがなかったなあということです。が、そのとき私は、「スポーツ選手らしさ」ってなんだろうと思い直しました。
私の思う「スポーツ選手らしさ」というのは、中学高校大学の運動部などの、いわゆる体育会系のイメージで、それも野球、サッカーなどの団体競技を念頭に置いています。しかし、ゴルフはもちろん個人競技ですし、そのプロゴルファーは小さいときから英才教育を受けてきました。私の考える「スポーツ選手らしさ」がないのは当然です。
いわゆる体育会系では、個人競技であっても、柔軟体操やランニングなどのトレーニングは集団でやりますし、先輩後輩の厳格な関係を教え込まれます。それによって独特の集団主義的な雰囲気をみんな身につけます。私はそれを勝手に「スポーツ選手らしさ」と思い込んでいたのです。
 
私はまた、ホームラン王になったことのある野球選手に会ったことがあります。その選手は日本人選手には数少ない、長打力のある典型的なホームランバッターです。そのときも、この人はホームランバッターらしくないなあと思い、やはりまた、自分の偏見に思い至りました。
その人はちょうど引退するときで、これから野球解説者になる予定だったこともあり、野球理論についてなかなか内容のあることを語りました。それが私にはホームランバッターらしくないと思えたのです。
私はホームランバッターというのは、大ざっぱな性格で、あんまり頭もよくないだろうと思っていました。いや、たいへん失礼な偏見で、申し訳ありません。
 
しかし、こうした偏見は私だけではないのではないでしょうか。野球のスイングについて、少なくとも日本の野球界では、「コンパクト」「シャープ」ということが推奨され、「大振り」というのはいけないこととされます。また、バントやヒットエンドランなどが巧みな、いわゆる小技の利く選手が高く評価され、大柄で大振りタイプの選手は低く見られがちです。そうした価値観からホームランバッターは頭が悪そうに見られるのではないかと思います。
逆に、イチローのようなタイプは、頭がよく見られがちです。しかし、彼の発言をよく聞いてみると、とくに頭がよさそうでもありません(これも失礼な表現でごめんなさい)
いしいひさいちのマンガ「がんばれ!!タブチくん!!」はそうした偏見にまるまる乗っかって書かれた作品です。実際の田淵幸一さんは監督や数々のコーチを務められているので、頭が悪いはずはありません。
 
私は実際に人に会うことによって、自分の偏見を訂正してきました。偏見を訂正すると、世界が正しく見えます。しかし、世の中には自分の偏見を訂正しない人がいます。そういう人は、たとえばこんなふうにいいます。
「あのプロゴルファーはちょっと成績がいいと思って天狗になってるな。そのうちダメになるぜ」
「あの野球選手はむりして理屈っぽいことをいってるな。あれじゃ続かないぞ 」
 
つまり偏見に固執する人というのは、相手を低く見て、その分自分が偉くなるのです。その人の言葉だけ聞いて判断すると、世界があべこべに見えてしまいます。
 
で、世界には偏見に固執する人がいっぱいいるのです。

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