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新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長は2日の衆院厚生労働委員会で、東京五輪について「今のパンデミックの状況でやるのは普通はないが、やるということなら、開催規模をできるだけ小さくし、管理体制をできるだけ強化するのが主催する人の義務だ」と述べました。

ずいぶん踏み込んだ発言かと思いましたが、これは開催を前提とした発言ですから、政府に反旗をひるがえしたものではありません。
開催のせいで感染が拡大したときに責任逃れをする布石でしょう。

しかし、そのあとに「こういう状況の中でいったい何のためにやるのか目的が明らかになっていない」「なぜやるのかが明確になって初めて市民はそれならこの特別な状況を乗り越えよう、協力しようという気になる。国がはっきりとしたビジョンと理由を述べることが重要だ」と言ったのはなかなかの正論でした。

五輪開催は感染リスクを高めるのですから、それなりの理由や意義が示されなければいけません。
しかし、今のところ「感動」や「希望」や「夢」や「絆」といった空虚な言葉ばかりです。
IOCのバッハ会長までが「五輪の夢を実現するために誰もがいくらかの犠牲を払わないといけない」と「夢」という言葉を口にしました。

菅義偉首相は2日夜、尾身会長の発言を受けて、五輪開催の意義について、「まさに平和の祭典。一流のアスリートが東京に集まり、スポーツの力で世界に発信していく」と語りました。
橋本聖子五輪組織委会長は3日、「コロナによって分断された世界で人々の繋がりや絆の再生に貢献し、再び世界を1つにすることが今の社会に必要な五輪・パラリンピックの価値であると確信しています」と語りました。
丸川珠代五輪担当相は4日、「我々はスポーツの持つ力を信じて今までやってきた」と語りました。
やはり空虚な言葉です。

つまり五輪開催の意義を誰も語れないのです。


本来、五輪開催国にはそれなりのメリットがあります。
オリンピックは「国別対抗メダル獲得合戦」という形態をとっているのが奏功して、どの国もナショナリズムが高揚するため、世界最大のお祭りとなっています。
お祭りは見ているより参加するほうが断然楽しいものですが、外国で開催されていると、現地に行ける人はごく少数で、ほとんどの人はテレビ観戦になります。
しかし、自国で開催されると、多くの人が生で観戦できますし、海外の選手や観光客と触れ合ったり、ボランティアで参加したりして、お祭りに参加する喜びを味わえます。
そのため、日本でも自国開催がけっこう支持されて、ボランティアにも多くの人が集まりました(莫大な開催費用に見合うかは疑問ですが)。

しかし、感染対策で無観客になれば、海外の選手との触れ合いもありませんし、騒いで盛り上がることもできません。テレビ観戦するだけになってしまえば、日本で開催している意味がありません。
つまり自国開催のメリットがほとんどなくなって、感染拡大のデメリットだけがあるというのが今の状況です。

このデメリットを上回るような意義が示されていないと尾身会長は言ったわけです。


しかし、「意義」はともかく「メリット」ならあります。
開催されると膨大な放映権料が入ってきて、これはメリットです。
さらに損害賠償請求などを回避できるというメリットもあります。
メリット、デメリットを天秤にかけて、開催という判断になることは十分にありえます。

ただ、放映権料が高いから、つまりカネのために開催するとは誰も言えません。露骨に利己的なのは誰もが嫌うからです。
ましてやこの場合、命とも関わってきます。
そのため誰もが空虚な言葉しか言えなくなっているのかもしれません。


しかし、ちゃんと考えれば、「意義」はあります。
莫大な放映権料が発生するということは、世界の多くの人々がオリンピックのテレビ観戦を楽しんでいるということです。
ですから、東京五輪を開催することは、世界の人々にオリンピック観戦の楽しみを提供することになります。
とくに現在は、コロナ禍でステイホームしている人が多いので、オリンピック観戦への期待はより大きいはずです。
「コロナ禍で苦しんでいる世界の人々にオリンピック観戦の喜びを届ける」というのは立派な意義です。

日本は感染拡大というデメリットを負うが、世界にはオリンピック観戦というメリットを与える――これは利他行動というものです。
人間には生まれながらに利他心が備わっているので、こうした利他行動をすることは喜びにもなります。
人に親切にするといい気持ちになるのと同じです。

利他行動がなぜ喜びになるかというと、「損して得取れ」という言葉があるように、利他行動はいずれ自分の利益になって返ってくることが多いからです(これを互恵的利他行動といい、ゲーム理論で説明されます)。

開催国が五輪を開催するのは当たり前のことで、義務でもあります。日本はたまたまコロナ禍と重なって貧乏くじとなりました。
感染拡大を恐れて開催をやめる選択肢もありますが、多少の感染拡大は受け入れて世界の人々のために開催するという選択肢もあります。
前者を選択しても、世界は許してくれるでしょうが、後者を選択すれば、世界は歓迎し、感謝してくれるでしょう。

もっとも、日本が世界から感謝されるには、日本が主体的に選択した場合に限ります。
現状では、日本はIOCに従うだけの存在に見えますから、開催しても、同情されることはあっても感謝されることはありません。

安倍前首相が「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」と言ったのが間違いの始まりで、その後も菅首相らが空虚な言葉を並べ立てているうちに、日本は世界から感謝されるチャンスを逃してしまいました。


「コロナ禍で苦しんでいる世界の人々にオリンピック観戦の喜びを届ける」というのは立派な開催意義です。
政治家や五輪関係者が誰もこのように語らないのは不思議です。
彼らの心は利己心ばかりで、利他心がなくなっているのでしょうか。