村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

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長野県は47都道府県で唯一、淫行条例(淫行処罰規定)のない県ですが、ここにきて長野県は条例制定に向けて動き出したということです。
しかし、長野県に先駆けて淫行条例を制定した東京都を見ていると、条例制定の意味はほとんどないといえます。
 
淫行条例というのは、18歳未満の子どもに対してみだらな行為をしたおとなを罰するというものですが、条例が成立すると、おとなを罰するよりも、もっぱら少女を補導し、取り締まるために使われます。
 
たとえば次は、「THE PAGE」の『唯一の非条例県 長野県が「淫行条例」制定にかじを切った背景とは』という記事からの引用です。
 
 
 長野県では歴代知事が条例によらない県民運動方式を尊重してきましたが、ここへ来て阿部知事が条例化に大きく舵(かじ)を切ったのはなぜか。県は、インターネットが広がったことなどで青少年が性被害に巻き込まれるおそれが大きくなっていることなどを挙げています。
 
 また、県警が把握した過去2年間のケースとして、大人に誘われたり脅されるなどして性行為に応じた青少年が17件、20人に上り、これらは現行法では摘発できなかったことなども参考例としてこれまでの有識者などの検討会議などに提示。条例制定への地ならしにしてきた経過もあります。
 
 
淫行のケースが17件、20人と書かれていますが、これは被害者側の子どもの数です。加害者側のおとなの数は書いてありません。おとなよりも子どものほうにフォーカスがいっているのです。
「大人に誘われたり脅されるなどして性行為に応じた青少年が17件、20人に上り、これらは現行法では摘発できなかった」という文章も、おとなを取り締まったり罰したりするよりも、青少年を摘発したいという思いが表れています。
 
 
次の記事は、青少年が被害者となった犯罪のデータを紹介する記事ですが、やはり加害者のことが書いてありません。
 
 
交流サイトで被害の18歳未満、最多1652人 警察庁
 インターネットで見知らぬ人と交流できる「コミュニティーサイト」を利用して、昨年事件に巻き込まれた18歳未満の少年・少女は1652人で、前年より231人多く、記録が残る2008年以降で最多だった。有害サイトへのアクセスを制限する「フィルタリング機能」を利用しなかったケースが目立った。警察庁が14日発表した。
 
 被害者の96%は女子。年齢別では、16歳451人▽17歳386人▽15歳315人▽14歳274人――と、14~17歳が86%を占めた。13歳以下は226人で、10歳の少女も4人被害に遭っていた。
 
 サイトへのアクセス手段はスマートフォンが1427人で86%。3年で約9倍になった。フィルタリング機能の利用の有無が確認できた764人のうち、95%は使っていなかったという。
 
 ログイン前の続き事件の罪種別では、淫行などの青少年保護育成条例違反が最多の699人で、裸の写真の撮影など児童ポルノ関連が507人、児童買春が359人だった。
 
 凶悪事件に巻き込まれたケースもあった。横浜市では昨年9月、無職の男(36)がコミュニティーサイトで知り合った少女(当時16)の首を絞めて窒息死させたとして殺人容疑で逮捕された。このほか、強姦(ごうかん)が19人、略取・誘拐と強制わいせつが各9人、強盗が1人だった。
 
 一方、出会い系サイトを利用して事件の被害にあった少年・少女は前年より59人少ない93人だった。08年の法改正でサイトの運営が届け出制になり、利用者の年齢確認が厳格化されるなどしてから減少傾向だ。(八木拓郎)
 
 
青少年の被害者についての記事だといってしまえばそれまでですが、犯罪対策をするなら加害者についてのデータのほうがたいせつです。とくにこの場合、憎むべき“少女の敵”とでもいうべき犯罪者ですから、なおさらです。

「淫行などの青少年保護育成条例違反が最多の699人で」というのも不思議な文章です。加害者であるおとなのことが書かれていないので、被害者である少年少女が悪いことをしたみたいです。
 
それからこの記事は、「昨年事件に巻き込まれた18歳未満の少年・少女」「凶悪事件に巻き込まれたケース」というように「事件に巻き込まれた」という言葉づかいをしていますが、これは日本語として間違っています。
「アメリカの戦争に巻き込まれる」とか「暴力団同士の抗争に巻き込まれる」というように、向こうに加害の意図がないのにこちらが被害にあってしまうときに「巻き込まれる」という言葉を使います。
この記事の場合、明らかに加害者は少年・少女を狙って犯罪をしているのです。とくに「首を絞めて窒息死させた」とか「強姦」といった事件にまで「巻き込まれた」という言葉を使うのは犯罪的ですらあります。
昔、幼女に対する性犯罪を“いたずら”と表現していましたが、それに近いものがあります。
 
どうしてこのようになるのでしょうか。
それは、淫行の犯人が中年オヤジであると単純化していえば、警察もマスコミも中年オヤジが支配しているので、中年オヤジ同士がかばい合うからです。
そのため淫行条例をつくっても、犯人追及はそっちのけで、少女に対する補導にばかり力が入ってしまいます。
 
東京都では淫行条例をつくってから、ガングロやルーズソックスやブルセラなどで話題を提供していたコギャルが一掃され、日本はますます元気がなくなりました。
長野県も、淫行条例をつくってもろくなことはないと思われます。

25日深夜の「朝まで生テレビ」のテーマは「激論!暴力団排除条例と社会の安全」でした。このブログで何度も暴力団について書いたこともあって、ついつい最後まで見てしまいました。
パネリストは以下の人たちです。
 
平沢勝栄(自民党・衆議院議員、元警察官僚)
青木理(ジャーナリスト)
石原伸司(作家、通称「夜回り組長」)
江川紹子(ジャーナリスト)
小沢遼子(評論家)
小野義雄(元産経新聞警視庁・警察庁担当記者)
木村三浩(一水会代表)
古賀一馬(元警視庁刑事、調査会社副代表)
原田宏二(元北海道警察警視長)
三井義廣(弁護士、元日弁連民暴委員会委員長)
宮崎学(作家)
 
 
番組は警察庁からの出席も求めたのですが、断られたそうです。警察にとっては広報のいい機会のはずなのに、情けない話です。
そういうこともあってか、番組全体の流れが警察批判に傾きがちで、司会の田原総一朗さんがなんとか暴力団批判の方向へと流れを変えようとする場面が何度も見られました。
 
私はもともと暴力団について詳しいわけでなく、島田紳助さんのことがあってから、にわか検索で得た知識をもとに暴力団について書いてきましたが、私の書いてきたことが基本的に正しかったことが今回の「朝生」で確認できました。暴力団や暴排条例について詳しい人たちが同じようなことを語っていたからです(もちろんそれに反対の意見の人もいます)。むしろ私のほうが歯切れがいいぐらいです。
たとえば、こうしたことが語られていました。
 
・条例で「交際」を禁止するのは異常だ。「交際」自体は悪くない。
・警察の暴力団対策は、頂上作戦以来ずっとうまくいっていない。
・島田紳助さんは警察に助けてもらえない。
・社会から落ちこぼれる人間がいるのが問題だ。
・暴力団は落ちこぼれの受け皿になっている。暴力団をなくすともっとひどくなる。
・暴力団員は離脱すると生活できない。
・警察は離脱支援や就職支援をしていない。
 
覚せい剤犯罪における暴力団関係者の比率は半分ぐらいで、あとの半分は暴力団関係者以外によるものだとか、警察の逮捕率は戦後しばらくのころよりはるかに低下しているとか、最近の警察は情報を金で買わないので情報収集力がほとんどないとか、興味ある事実も語られていました。
 
私は、暴力団事務所を追放しようという住民運動があるが、これは地域エゴだ、マスコミはなぜ批判しないのだろうということを「暴力団追放運動の不思議」というエントリーで書きました。
その住民運動に関して、ジャーナリストの青木理さんが語っていました。地元(浜松市)の商店街の会長さんだかに取材すると、地元は暴力団と祭りのときも協力するなどうまくやっていたのだが、警察に言われて訴えたのだ、ほんとうはやりたくなかったのだということです。この話を聞いて納得しました。暴力団事務所の追放運動など単なるいやがらせで、なんの解決にもならないことは誰の目にも明らかだからです。
 
暴力団対策がうまくいかないのは警察のやり方が間違っているからで、警察がやり方を改めない限りこれからもうまくいきません。
 
私は暴力団のことも警察の暴力団対策のことも詳しく知りませんでしたが、それでも大筋は正しく考えることができます。それは倫理の根本を知っているからです。
私は「暴力団員も私たちと同じ人間だ」ということを出発点にして考えていきます。しかし、多くの人は「暴力団は悪い、警察は正しい」ということを出発点にして考えていくので、どこまで行ってもデタラメな世界から抜け出られません。
マスコミも「暴力団は悪い、警察は正しい」という前提で報道するので、まったく現実をとらえることができません。
 
暴力団員が私たちと同じ人間なら、なぜあのような悪いことができる人間になるのかという疑問が生じます。この疑問を追究することで善や悪や正義というものがわかってきます。それを私は「科学的倫理学」と名づけています。
「科学的倫理学」の発想を身につければ、世の中の善、悪、正義に関わる問題のほとんどが明快にわかるようになります。

このところ週刊誌をにぎわしているのは「黒い交際」です。見出しから少し名前を拾っただけでも古関美保、TUBE前田亘輝、沢尻エリカ、松方弘樹、和田アキ子、中居正広など。「黒い交際」なんていう言葉を使うと、もうそれだけでいけないことのようです。しかし、人と人がつきあって悪いはずがありません。悪いのは、暴力団が犯罪をするのを助長するようなつきあい方です。
 
「黒い交際」がいけないというのは、カタギがヤクザとつきあうと、カタギが黒く染まってしまうからということでしょう。しかし、これは負け犬の発想です。こんな考え方で暴力団排除ができるはずありません。
むしろカタギはどんどんヤクザとつきあって、ヤクザをカタギの世界に引き込んでいくという発想でなければ、暴力団をなくすことはできません。
カタギがヤクザと友だちになって、「お前、そんなヤクザな稼業はやめて、まともな仕事をしないか。俺が働き口を紹介してやるよ」とか「俺の会社で働かないか」とか言うようになると、暴力団は消滅していくと思われます。
公共広告機構で「あいさつするたび友だちふえるね」というCMがありましたが、あいさつの対象をヤクザにして、「あいさつするたびヤクザがへるね」というCMもつくってほしいものです。
 
もっとも、現実にはこんなことはないでしょう。カタギというのはだいたいが小心者で、自分さえよければと思って生きているわけですから、ヤクザと対等の口を利くこともむずかしいわけです。
ヤクザというのは、修羅場を何度もくぐり抜けてきて、きびしい組織の掟にも従って生きています。鍛え方がカタギとはぜんぜん違うのです。ですから、たくさんのヤクザ映画がつくられてきたことを見てもわかる通り、昔からカタギはヤクザの生き方に憧れてきました。そして、ヤクザとつきあうことはむしろ自分のステータスを上げることでもあるのです。
警察はカタギの力を使って暴力団排除をしようと思っているようですが、それはそもそもむりな話です。
 
1013日の「朝日新聞」夕刊に、警察庁は暴対法の改正を目指しているという記事が出ていましたが、その解説記事では、「暴対法は施行から19年が経ち、これまでに4回改正したが、暴力団勢力はさほど減っていない」とあります。つまり暴力団対策は完全に失敗しているのです。そして、失敗の理由もちゃんと書いてあります。
「暴対法は、構成員の暴力団からの離脱と就職の支援もするとしているが順調ではない。毎年600人前後が離脱するのに、就職できた人は減少傾向で昨年は7人だった」
 
離脱しても食べていけないのなら、離脱するわけがありません。警察は就職支援のほうにむしろ力を入れるべきです。
そして、私はいいことを思いつきました。ほんとうは警察は自分たちの天下りの指定席を全部離脱者に譲ってやれと言いたいところですが、警察はそんことはしないでしょう。もうちょっと現実的な方法があります。
今、駐車違反の取り締まりは民間委託されていますが、この駐車監視員に離脱者を雇えばいいのです。警察が委託する民間業者を指導すれば簡単にできます。
 
そして、これが警察とヤクザの本来の姿なのです。江戸時代、町奉行所は博徒や的屋を目明し、岡っ引きとして使っていたのですから。

2、3年前、アメリカでは犯罪がふえ続け、「成人の100人に1人が刑務所の中にいる」というニュースがありました。そのとき私は、「このまま犯罪がふえ続ければ、アメリカ人は受刑者と看守の2種類の人間しかいなくなるだろう」というギャグを思いつきました。
 
アメリカの裁判は、被告が起訴事実を認めるとすぐに判決が下されますし、スリーストライク法(3度目の有罪で終身刑になる)みたいに厳罰化が進んでいるようです。それにしても、100人に1人が受刑者というのはかなり異常で、街の中にも元受刑者がいっぱいいるということになります。
 
犯罪対策として、ゲーティッド・シティー(ゲーティッド・コミュニティ)というのがつくられています。ゲーティッド・シティーというのは、塀で囲まれた町で、出入りがチェックされ、厳重な防犯体制がとられているところです。もちろん住むのは富裕層です。
リーマン・ショック以来の不況によって、最近はゲーティッド・シティーの建設は進んでいないかもしれません。しかし、アメリカでこのところ連日行われている経済格差に反対するデモが11日、マンハッタンの高級住宅地にまで及んだということです。これがきっかけになってまたゲーティッド・シティーに住みたいと思う人がふえるかもしれません。
 
アメリカ人が受刑者と看守だけになってしまうということはありませんが、アメリカ人は刑務所の塀の中に住む人と、ゲーティッド・シティーの塀の中に住む人と、その中間地帯に住む人の3種類に分かれ、刑務所とゲーティッド・シティーの人口がどんどんふえていき、中間地帯の人口はどんどん減少していくということになりそうです。
 
それにしても、ゲーティッド・シティーに住む人は、そこが安全だと思って住んでいるわけです。つまり彼らは、犯罪が起こる理由を知っているのです。
ゲーティッド・シティーに住む人はみんな豊かです。豊かな人は少々のものを盗んでもあまり意味がありませんし、盗みがバレたときに失うものが多いので、まず盗みをすることはありません。一方、貧しい人は、少しのお金でも大きな価値があり、盗みがバレて刑務所に入ることになってもそれまでの劣悪な生活とそれほど違いがないので、容易に盗みに走ってしまいます。
ですから、豊かな人ばかりのゲーティッド・シティーでは、窃盗や強盗はまずないと想像できるのです(愛憎のもつれなどによる犯罪は普通にあるでしょうが)
 
貧困が犯罪の大きな原因であることはまぎれもない事実です。ですから、昔の社会主義者は貧困をなくし、十分な福祉を行えば、犯罪はなくなると考えていました。完全になくなると考えるのは間違いですが、それでも9割ぐらいの犯罪は貧困対策と福祉の充実でなくすことができるのではないでしょうか。
 
しかし、社会主義思想が消滅するととともに、こうした犯罪についての考え方も消滅してしまったようです。
今では、犯罪の原因は犯罪者の心の問題に帰結するとされ、犯罪対策といえば“割れ窓理論”(小さな犯罪を徹底的に取り締まることで犯罪全般をへらせるという理論)ぐらいしかないのが実情です。暴力団対策というのは、対策の名にも値しないものです。
 
警察司法関係者は頭こそいいはずですが、犯罪対策についてはまったく無能です。

101日をもって暴力団排除条例が全国で施行されました。なんとも奇妙な条例で、人権無視、憲法違反の疑いが濃厚です。しかし、マスコミはぜんぜん批判的ことを書きません。まったくなさけないことです。
と思っていたら、産経新聞が山口組組長へのロングインタビューを掲載しました。暴力団の言い分がメディアにまとまった形で出るのはめったにないことでしょう。産経新聞、あんたは偉い、と言いたいところです。
本来なら、人権尊重とか差別反対とかを主張する進歩的なメディア、たとえば朝日新聞こそがこうしたことをしなければならないはずです。しかし、朝日新聞の記者は学歴社会の勝ち組で、エリート意識という点で警察のキャリア官僚と共通しており、暴力団など社会のダニといった意識なのでしょう。産経新聞の記者は、負け組というほどではありませんが、あまりエリート意識がないので、暴力団への差別意識も少ないのではないかと思われます。
 
ともかく、暴力団対策を立てるためにも、暴力団の言い分を聞くのはたいせつなことです。
産経新聞のインタビューの中でとくに重要と思われるところを引用します。
 
 
山口組を今、解散すれば、うんと治安は悪くなるだろう。なぜかというと、一握りの幹部はある程度蓄えもあるし、生活を案じなくてもいいだろうが、3万、4万人といわれている組員、さらに50万人から60万人になるその家族や親戚はどうなるのか目に見えている。若い者は路頭に迷い、結局は他の組に身を寄せるか、ギャングになるしかない。それでは解散する意味がない。ちりやほこりは風が吹けば隅に集まるのと一緒で、必ずどんな世界でも落後者というと語弊があるが、落ちこぼれ、世間になじめない人間もいる。われわれの組織はそういう人のよりどころになっている。しかし、うちの枠を外れると規律がなく、処罰もされないから自由にやる。そうしたら何をするかというと、すぐに金になることに走る。強盗や窃盗といった粗悪犯が増える。
 
 
これは重要な指摘です。果たして警察は暴力団を排除した結果を考えているのでしょうか。暴力団がなくなると、きれいな社会が実現するなんていうことはありません。多数の元暴力団員が一般社会に溶け込むことになるのです。
自分の意志で暴力団を抜けた者なら、みずから一般社会に溶け込もうと努力するでしょう。しかし、暴対法や暴排条例や警察の圧力のために組が解散し(たぶんそうはならないでしょうが)、自分の意志でなく暴力団員でなくなった者はどうするでしょうか。
元暴力団員を全員生活保護で丸抱えするというわけにもいかないので、働ける者には働いてもらわねばなりません。となると、たとえばあなたの会社にも元暴力団員が入社してくることになります。
暴力団員というのは、なにもしなくても、切ったはったの世界で生き抜いてきたすごみがあります。そのすごみこそが武器だともいえます。暴力団をやめても、人間のあり方は変わらないでしょう。そんな人間が会社の同僚や部下になるわけです。歓迎する人がいるでしょうか。
 
警察の暴力団対策は根本的に間違っているといわざるをえません。暴力団員は暴力団員のままでいてくれたほうが、一般社会で暮らすわれわれも安心していられるのです。

アメリカには賞金稼ぎという職業があります。賞金のかかった指名手配犯を探し出し、捕まえて賞金を稼ぐという職業です。ライセンスが必要ですが、逮捕権があり、犯人が抵抗すれば殺してもかまいません。
日本人で、アメリカへ渡って賞金稼ぎをしている人がいて、私はその人から話を聞いたことがあります。
賞金稼ぎといっても、そんなにもうかるものではないようです。逮捕すればその経費は請求できますが、逮捕できなければ一銭にもなりません。賞金の高い犯人は、賞金稼ぎ同士の競争になり、先を越されるとやはり一銭にもなりません。また、逮捕の瞬間は、犯人が銃を持って抵抗する可能性もあって、まさに命がけです。
なぜそんな危険な仕事をしているのかと思いますが、いろいろ話を聞いていると、その人は19歳ごろ、友だちが暴力団にひどい目にあわされたというので、1人で暴力団事務所に殴り込んだことがあったそうです。また、子どものころ母親が自殺し、その死体の第一発見者になったそうです。
どうやら命に対する感覚が普通の人と違うのです。いわゆる「命知らず」というやつです。
この人は高校中退ですが、六本木で外国人とつきあううちに英語を覚え、アメリカに渡りました。正義感が強い人なので、裏社会に行くことはありませんでしたが、もし裏社会に行っていたら、暴力団の幹部にもなっていたでしょう。
 
一昨日の「暴力団と裏社会」というエントリーで「胆力」という妙な言葉を使ってしまいました。
 
「胆力」という言葉には、武術や禅などのイメージがありますので、ここでは「命知らず」という言葉に言い換えて、もう少し具体的に表現してみようということで、今日のエントリーを書いています。
 
 
俳優の宇梶剛士さんは、高校野球部のときはプロを目指すほどの野球少年でしたが、暴力事件を起こしたことでプロ野球への夢が断たれ、自暴自棄となり、喧嘩に明け暮れる日々を送りました。1人で100人以上を相手に喧嘩したこともあったそうです。
母親との関係にも問題があったと宇梶さんは語っています。ただ、宇梶さんが子どものころ母親とよく映画を見に行って、それはよい思い出だったそうです。
宇梶さんは暴走族のトップにまでなりましたが、俳優を志して裏社会には行きませんでした。もし裏社会に行っていたら、やはり暴力団の幹部にはなっていたでしょう。
 
家族関係の問題やさまざまな人生体験から、人は「命知らず」になってしまいます。「命知らず」は人と物理的、肉体的な戦いをするとき圧倒的に有利なので、裏社会では上層に行きます。暴力団は主にこうした人によって構成されています。
 
暴力団員は決して特殊な人間ではありません。ちゃんと理由があってそうなったのです。
そうしたことを踏まえた暴力団対策が必要ですが、今の暴力団対策はハエ叩きでハエを叩いているようなレベルです。

どんな世界であれ、つねに生存競争が行われ、勝者が上層に、敗者が下層にという階層社会が形成されます。たとえば小説家の世界では、ベストセラー作家や文学賞受賞作家が頂点に、三流作家が下層に、さらに作家志望者が裾野にという階層社会が形成されます。学校の勉強の世界では、もっとも勉強のできる者が東大、次が京大、その下のほうに三流大、いちばん下に高校中退、中卒という階層社会になります。
 
裏社会でも生存競争が行われます。裏社会というのは、家庭から落ちこぼれた者と学校から落ちこぼれた者と被差別者によって主に形成されます。これらの者は表社会で生きようとしても最下層でしか生きられないので、裏社会に来るわけです。
裏社会における生存競争は、特定の才能ではなく(特定の才能がある者はその世界で生きられるので裏社会にはいない)、いわば人間の総合力によって行われます。
人間の総合力というのは、具体的には知力であり、腕力であり、さらには胆力です。
胆力というのは、一見勇気に似ていますが、勇気とは違って、自分は死んでもかまわないという思いです。こういう思いがあると戦いでは圧倒的に有利です。
この裏社会における生存競争に勝って最上層に登った者がヤクザであり暴力団です。
 
ですから、暴力団をなくそうとすれば、裏社会をなくすしかありません。裏社会がある限り、そこでの勝者が暴力団となるからです。
 
暴力団をなくそうと企てるのは、警察司法官僚であり、学校の勉強の世界での勝者です。こうした人間は裏社会のことをまったくわかっていないので、不可能な企てをしてしまいます。
警察司法官僚は暴力団対策を根本から見直さなければなりません。

「ボタンのかけ違い」という言葉がありますが、暴力団対策はまさにボタンのかけ違いで、最初が間違っているので、どこまでいっても成功するということがありません。
 
暴力団というのは戦後できた呼称で、その源流をたどれば博徒、的屋、火消し、ヤクザ、侠客、渡世人などになりますが、ここでは単純化して博徒ということにしておきます。
江戸時代、博徒は日蔭者ではありましたが、社会に一定の居場所を持っていました。清水次郎長、新門辰五郎などは社会的に尊敬される存在でもありました。明治になって、刑法で博打が禁止されましたが、そのとき失業する博徒に対してなんらかの補償が行われたかというと、そんなことはありません。むしろ逆に迫害されたのです。
その典型が1884年に制定された「賭博犯処分規則」という法律です。これは刑法の賭博罪に代わるもので、裁判によらずに(行政処分で)懲役刑を科すことができるというものです。この法律によって博徒は大弾圧を受けたのです。
ところで、博徒には自由民権運動に参加する者が多く、この法律は自由民権運動を弾圧する目的もあったとされています。
この法律は帝国憲法と整合性がないということで1889年に廃止されますが、司法当局は博徒の取り締まりは違憲であっても許されると考えていたのでしょう。つまり、取り締まるほうが不当なやり方をしていたのです。
 
1991年制定の暴力団対策法も、結社の自由を制限して違憲であると、故・遠藤誠弁護士らが訴訟を起こしました。確かに、ある特定の集団だけを準犯罪者扱いにするという妙な法律です。
 
「罪を憎んで人を憎まず」といいますが、博徒、ヤクザ、暴力団に関しては、警察司法当局は「罪よりも人・組織を憎む」という方針で取り締まっています。
取り締まり方が不当だから、暴力団対策はうまくいかないのです。
 
博徒は親分子分、兄弟分という強い絆で結ばれ、独自の掟を持ち、暴力的でもある集団で、近代社会においてこういう集団が存在するのは確かに不都合です。しかし、ある集団をなくそうとすれば、それなりのやり方があります。たとえば、日本の繊維産業が途上国に追い上げられて危機に瀕したとき、構造不況業種に指定するというやり方で中小企業に対する転業支援が行われました。博徒に対しても転職支援をすればよかったのです。
しかし、警察司法当局にそういう発想はありませんでした。なぜなら彼らは学歴エリートで、もっとも差別意識の強い人間ですから、博徒にも差別意識で対してしまったのです。
 
学歴エリートがもっとも差別意識の強い人間だというのは私の考えで、もしかして社会常識と違うかもしれませんが、誰でも素直な気持ちになれば理解できるはずです。
 
マスコミの人間も学歴エリートという点で警察司法当局の人間と共通しています。また、学者や評論家などもたいていは同じです。そのため、警察のやり方が不当なのだということを認識できません。
 
警察の不当な取り締まりによって、博徒も変質しました。虐待された子どもの性格がひねくれるのと同じです。昔は講談にうたわれた森石松のように、博徒は愛される存在でもありましたが、今はそういう人間も少ないでしょう。暴力団と呼んでいるうちに実質も暴力団になってきているかもしれません。
しかし、ボタンのかけ違いをしたのは警察司法当局なのですし、暴力団対策を成功させようとすれば、そこまでさかのぼって考え直すしかありません。

島田紳助さんの引退に関して朝日新聞が「どう見てもアウトだ」というタイトルで社説を書いていましたが(8月25日朝刊)、なんともひどいものです。完全に思考停止状態というか、パブロフの犬状態というか、「暴力団」という言葉に反射的に反応しているだけです。
「アウトだ」というとき、その基準は誰が決めたのでしょう。朝日新聞でしょうか。警察でしょうか。
一部を引用します。
 
 
芸能界と暴力団とのつながりは、深くて、広い。山口組が昭和の時代、浪曲の興行に進出したのが始まりとされる。
 芸能の主舞台がテレビに移っても、タニマチになったり、争いごとに介入したりと、いろんな場面で見え隠れしてきた。多少のヤンチャは芸の肥やし、とみる向きもあった。
 だが、もはやそんな時代ではないことは、誰でもわかっているはずだ。
 暴力団対策法が施行されてから、すでに19年。けれど構成員・準構成員の数は8万人前後で、大きな変化はない。かたぎを装う「共生者」とともに市民生活や企業活動に巧みに入り込み、稼ぎ続けているのだ。
 そこで、ここ数年、暴力団に利益を与えた側を罰する条例があちこちにでき、各業界は暴力団排除の約款作りに乗り出している。大相撲も野球賭博事件を機に、関係断絶を迫られた。
 暴力団に対して、より厳しい態度で臨もうという意識が社会全体に強まっている。それだけに、この一件は看過できない。
 
さすがに朝日新聞は現状を正しくとらえています。
「暴力団対策法が施行されてから、すでに19年。けれど構成員・準構成員の数は8万人前後で、大きな変化はない」
まさにその通りです。警察の暴力団対策はなんの結果も出していないのです。
いったいなんのために暴力団対策法をつくったのでしょう。暴力団対策法をつくってから、警察はなにをしていたのでしょう。
これは明らかに警察の怠慢か失敗です。朝日新聞はなぜこれを追及しないのでしょう。
これに比べたら、島田紳助さんのことなどあまりにも小さいことです。
これまで警察は暴力団対策でなにをやってきて、どれだけ経費をかけて、その成果はどんなものであったかをきっちりと検証しないといけません。
もちろん成果といえるものはなにもないはずです。
現在、地方自治体で暴力団排除条例の制定が進められていますが、それによっていかなる効果があるのかも示されていません。
つまり、警察がやっている暴力団対策はまったくのデタラメで、時間と経費のむだなのです。
ところが、朝日新聞に限らずマスコミは警察を追及せず、逆に島田紳助さんや大相撲などを悪者に仕立て上げようとしています。
 
ヤクザを暴力団と名づけて排除することは、戦後警察が始めたことです。
官僚の常として、自分の間違いを認めようとしません。一度始めたことは、明らかに間違いとわかっても、なかなかやめません。支那事変を始めた軍部は、戦いに勝てないことが明らかになっても、戦いをやめることができず、太平洋戦争にまで突っ走ってしまいました。今、警察がやっている暴力団対策も同じようなものです。
 
ヤクザというのは、確かに近代社会では奇妙な存在です。しかし、それは大相撲が奇妙な存在であるのと同じようなものです。大相撲を排除せず、これまで共存してきたのですから、ヤクザと共存できない理屈はありません。
ヤクザを排除するという作戦がうまくいけばそれでよかったかもしれませんが、今はうまくいかないことが誰の目にも明らかになっています。
新聞記者は警察庁の記者会見などで、「暴力団対策はいつ成功するのですか」と声を上げてください。
もし警察が暴力団対策に成功していれば、島田紳助さんも芸能界を引退する事態にはならなかったのですから。

暴力団追放運動というのが昔からありますが、私にはこれが不思議でなりません。
たとえば、暴力団事務所の使用差し止め訴訟というのがあります。地元住民が出ていってほしいと思うのはわかるのですが、マスコミがこの手の訴訟で住民側に好意的なのは不可解です。なぜならこれは地域エゴ、住民エゴだからです。
追い出された組事務所は、結局どこかほかの土地に移ることになるはずです。ほかの土地の住民のことを考えれば、単純に賛成できることではありません。
暴力団追放運動は全国的に展開されていますから、追い出された暴力団はどうすればいいのでしょう。日本にいる限り追放運動にあってしまいます。いずれ海の中にでも消えていってくれるというイメージなのでしょうか。
 
いや、暴力団追放運動は最終的に暴力団の解散を目指しているのでしょう。
しかし、暴力団が解散を決めたら、解散した暴力団の元組員は一般社会で就職し、1人の市民として普通のアパートなどに住むことになります。一般社会は元組員を受け入れなければなりません。そこでまた元組員追放運動が起きるとしたら、マンガとしかいいようがありません。
 
ですから、暴力団追放運動は元組員受け入れ運動と表裏一体で展開されなければなりません。
しかし、元組員受け入れは誰もがいやなものです。そのため、今は暴力団追放運動だけの片翼飛行のような状態になっているわけです。
アメとムチでいえば、ムチだけあってアメがない状態といえましょうか。
そして、今の暴力団員は自分たちが一般社会からなかなか受け入れられないことを知っているので、暴力団員であり続けざるをえません。
昔の兵法では、城攻めをするときは完全に包囲するのではなく、逃げ道をつくっておけという教えがあります。逃げ道がないと死に物狂いで戦ってくるからです。今の暴力団追放運動は、逃げ道をつくらないやり方になっています。
したがって今、警察庁やマスコミがやるべきことは、暴力団追放運動よりも元組員受け入れ運動に力を入れることです。
元組員が一般社会に受け入れられ、幸福に暮らしていけるような世の中をつくることこそが最大の暴力団対策です。
 
暴力団追放運動ばかりが展開されている今の世の中は、いわば石が流れて木の葉が沈む、アベコベの世界です。

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