村田基の逆転日記

進化倫理学の威力を試すブログ

タグ:食べ物

麺をずるずると音を立てて食べるのは不快だから、そういう食べ方をヌードルハラスメント、略してヌーハラというのだそうです。
最近、ラーメン好きの外国人がふえてきていますが、外国人には麺をすすって食べるという習慣がなく、日本人の音を立てる食べ方に苦情を言うことがあるそうです。
それに対して「日本の食文化について外国人に文句を言われる筋合いはない。それがいやなら食べにくるな」などと反論が出て、一種の文化摩擦になっています。
 
人がものを食べる音は生理的に不快なので、できる限り音を立てないで食べるというのは世界共通のマナーです。ところが日本では、とくに日本そばについては逆に音を立てて食べるのがマナーとされます。
その類推でラーメンも音を立ててかまわないとされているようです。
 
世界の常識とまったく逆のマナーがどうしてできたのかについて、前に書いたことがありますが、もう一度書くことにします。
 
そもそも細く切った麺が食べられるようになったのは江戸時代のことです。ウィキペディアの「蕎麦」の項目にはこう書かれています。
 
 
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。蕎麦掻きと区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。
(中略)
蕎麦切りという形態が確立されて以降、江戸時代初期には文献に、特に寺院などで「寺方蕎麦」として蕎麦切りが作られ、茶席などで提供されたりした例が見られる。寛永20年(1643年)に書かれた料理書『料理物語』には、饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っている。17世紀中期以降に、蕎麦は江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着していった。
 
 
「江戸を中心に急速に普及し」と書いてあるところがポイントです。
つまり、江戸にはそば切りがあるが田舎にはない、という一時期があったのです。
 
「すすって食べる」ということは、すぐにはできません。外国人が苦手としているのを見てもわかるように、何度も食べているうちにできるようになります。
 
江戸に住んでいる人間は、いち早くすすって食べることができるようになります。ところが、田舎から出てきた人間はできません。
ですから、そば切りの食べ方を見れば、その人間が田舎者かどうかわかるわけです。
 
当時の江戸はどんどん人が流入して人口が増え続けていました。要するにみんな田舎者なのですが、それだけにわずかの違いを見つけて差別化しようとします。そのとき、そば切りの食べ方はいい材料になりました。
 
そば切りをすすれる人間は、すすれない人間の前で、わざと音を立ててすすって違いを見せつけ、田舎者をバカにしました。
わざと音を立てることは、そば切りはこうして食べたほうがうまいのだと言って正当化しました。
これがそばを食べるときのマナーになり、いまだに続いているのです。
 
なお、江戸前寿司は手で食べたほうがうまいといって、手づかみがマナーとされたのも同じと思われます。
江戸っ子はせっかちですから手づかみで食べ、箸で食べようとする田舎者をバカにしたのでしょう。
 
上方では、そばではなくうどんが食べられましたが、うどんについては、音を立ててすするというマナーはありません。上方では田舎者差別がそれほどではなかったからと思われます。
 
 
もともと食事のマナーは、人に不快感を与えないためにつくられたものですが、文明の進歩とともに行き過ぎてしまって、差別の道具にも使われるようになりました。
高級な西洋料理や日本料理のマナーは、やたらに細かくて複雑で、人に不快感を与えないということを通り越しています。高級な料理を食べつけている人がそうでない人を差別する道具にしたのです。
麺を音を立ててすするというマナーも差別の道具として生まれましたが、江戸時代の一時期に発達した特殊なもので、本来のマナーと真逆ですから、すたれるのは時間の問題と思われます。
 
寿司は手づかみのほうがうまいと言って手づかみで食べる人も最近はあまりいません。
日本そばをわざと音を立ててすする人はまだいますが、それが不快だという声はふえてきています。
 
ヌーハラ論争を外国との文化摩擦ととらえるとおかしなことになります。
本来とは真逆に発達したマナーのおかしさを外国人から指摘されているととらえればいいのです。
 
もっとも、ラーメンや日本そばは庶民の食べ物ですから、高級西洋料理のような厳格なマナーを要求されても困りますが。

世の中にはクチャクチャと音を立ててものを食べる人がいて、たいへんいやがられています。そういう人をクチャラーというのだそうです。「クチャクチャ食べ」で検索すると、恋人が立てるクチャクチャ音に悩む人、子どものクチャクチャ食べをどうして直せばいいのかと相談する人など、深刻な声がいっぱいです。
 
食事のときに、音を立ててスープを飲むとか、ナイフとフォークをカチャカチャさせるとか、音を立てるのはマナー違反です。とくに生理的な音はいやがられますから、クチャクチャと音を立てるのはよくないに決まっています。
 
しかし、ものを咀嚼するときに音が出るのは避けられません。誰もが音を出しているはずです。
クチャクチャ音を気にするほうに問題があるということも考えられます。
 
 
私は中学生のころ、父親が口にいっぱい食べ物を頬張って、クチャクチャと大きな音を立てているのがひじょうに気になったことがありました。そのとき、あまりに不快だったので、自分の不快感をしげしげと観察してしまったほどです。
そして、自分の感覚に問題があるのかもしれないとも思いました。父親が食べ物をいっぱいに頬張るのはいつものことですが、それまでそれを不快に思ったことはないからです。
 
結局、父親のクチャクチャ音が気になったのはその一度と、あと一度あったかどうかぐらいでした。
 
そして、やはり中学生のころ、1歳年上の兄が、いったいなにを食べていたのかよくわからないのですが、ポクポクと音を立てながら食べるのがひじょうに気になったことがありました。口を閉じて勢いよく咀嚼しているので、ポクポクという音がしたのです。
そのときもたいへんな不快感がして、もしいつもこんな不快感がするなら、これから先、兄といっしょに暮していけるか不安に思ったものです。たいていいっしょに食事していたからです。
 
もっとも、不快に思ったのはそのときぐらいで、そのあととくに不快に思うことはありませんでした。
 
ちなみに家には母親もいましたが、私は母親の食べる音を不快に思ったことはありません。
 
結局、私の場合、咀嚼音を不快に思ったのは、父親と兄だけで、それも一時的なものでした。
一時的なものですから、食べ方の問題ではなく(食べ方はいつも同じはずです)、私自身の感じ方の問題だと思いました。
 
友人や職場の人などと食事をともにする機会もいっぱいありましたが、とくにクチャクチャ食べが気になったということはありません。
ラーメン屋や牛丼屋のカウンターで、隣の人の食べる音が気になったこともありません。近いだけに大きな音がしているはずですが。
 
家族間の複雑な感情が咀嚼音に対する不快感という形で現れたのだと、私自身は結論づけていたのですが、クチャクチャ食べについて語る人はみんな食べ方の問題だと思っていて、中には「食べ方を直接注意したら直った」ということを言う人もいますから、今ひとつ自分の考えに自信が持てませんでした。
 
そうしたところ、明快に結論づけている記事を見つけました。
 
 
食事中の「くちゃくちゃ」、気にしすぎは病気か
 
 米カンザス州ミッションヒルズ在住のクリスティン・ロビンソンさん(49)は、夫のロバートさん(53)との夫婦水入らずでのディナーを楽しみにしていた。彼女は野菜のピザを焼き、カベルネのワインボトルの栓を開け、キャンドルをともした。
 
 夫はワインを一口すすり、口の中で回して味わった。その後、バリバリと音をさせながら、ピザをほおばった。「生地のパリパリという音、ピザのトッピングをかむ音、ワインをすする音、それが(その後の夫婦げんかの)原因だった」。妻クリスティンさんはそう述懐する。
 
 クリスティンさんはすっくと席を立ち、クラシック音楽をかけた。しかし、それでも夫のかむ音がなお聞こえ、音量を上げたが、それでもダメだった。そこで夫にこう頼んだ。「お願いだから、ゆったりして食事を楽しみましょう」。
 
 すると、夫は「申し訳ないけれど、そんなに気になるのなら、同じ部屋にはいられないね」と言い返し、部屋をすっと出て行った。
 
 食事中に他人が出す音に耐えられないとき、その人が口を閉じてかむべきなのだろうか。それとも、口を閉じて我慢すべきなのは、あなたのほうだろうか。
 
 専門家たちは、あなた方が我慢すべきだと指摘する。
 
 確かにマナーの悪い人は存在する。しかし、気になるからと言って、他人の食べ方を変えさせることはできない。
 
 特定の音を極端に嫌う人は、いわゆる「ミソフォニア(音嫌悪症)」に悩まされている。何かをかむ音や唇を鳴らす音など「口から出る音」を嫌う人が最も多いが、貧乏揺すりの音、ペンをカチカチ鳴らす音、鼻をすする音などを嫌がる人もいる。日常生活で一部の音を不快に思う人は少なくないが、音に過敏なことで生活に支障が出ている音嫌悪症の人は、人口の20%に上る可能性があると専門家は指摘する。
 
 これを精神疾患として扱うべきか否かについては、医師たちの間で現在議論が交わされている。音嫌悪症を扱ったドキュメンタリー映画「Quiet Please...(原題)」は来年夏に公開される。
 
 201410月に医学誌「Journalof Clinical Psychology」に掲載された483人を対象にした研究論文によると、音嫌悪症に悩まされる人々は、生活に最も大きな支障が出ている要因として、職場や学校での食事の際に出る音に自分たちが敏感なことを挙げている。家族との食事の際はそこまでは敏感にならないという。
 
 研究では、音嫌悪症に悩む人に不安症、強迫神経症ないしうつの症状がしばしばみられることが判明した。だが、それらと音嫌悪症の因果関係は分からないと研究チームは指摘している。専門家は音嫌悪症の原因の1つとして、脳の聴覚系、辺縁系、自律神経系間の神経結合の高まりにあるかもしれないと論じている。
 
 中には、ポップコーンを食べる音が気になるために劇場で映画を見られない人、ガムをかむ音が気になるために店で列に並べない人や、スープ類が出された時は家族のそばにいられない人もいる。どの食べ物、どの食事、どの人が最も嫌な音を出すかについての見方は、人によって異なる。
 
 冒頭に紹介したクリスティンさんは、夫の食事の音に耐えられないと最初に気付いたのは20年前だった。当時、2人はデートを重ねる間柄で、より静かな自宅で食事する機会が増え始めていた。
 
 クリスティンさんは長い時間をかけて、あらゆる対処法を試した。ジャズ音楽をかける、ヘッドホンをする、自宅でシリアルを禁止する、家族で朝食を抜く、耳をふさいで「ラララ」と口ずさむ、部屋を出る、などだ。彼女は何年もの間に何百回もの食事を逸してきたと推測する。それでも、いまだにかじる音やすする音で家族ともめる。娘の1人も今では、かむ音に極めて敏感だという。
 
 クリスティンさんは、夫だけでなく、他の人のかむ音にも悩まされている。医師から診断を受けたわけでないが、音嫌悪症であることは自覚しており、自分だけが悩んでいるわけではないと知って心が軽くなったと話している。
 
 冒頭のディナーで、怒った夫が出ていった時、彼女は後を追いかけ、またしてもこう言った。「悪いのはあなたではなく、わたしの方だ」と。
 
 一方、夫のロバートさんは「障害がある人と生活しているようなものだと思っている。家族と充実した時間を過ごしたいのであれば、わたしがそれに配慮しなければならない」と話した。
 
 専門家たちの意見ははっきりしている。音をうるさく思う人が変わる必要のある人で、対応法を学ぶ必要のある人だ。
 
 
明快というか、ちょっと一方的すぎるかもしれません。多少は食べ方の問題もあるはずです。食べ方2割、感じ方8割というところでしょうか。
 
ネットを見ると、子どものクチャクチャ食べを直そうとして何年も注意し続けているという母親がいたりします。これは注意するほうもされるほうも不幸です。このお母さんは子どもではなく自分を直すべきなのです。

音を立てずに咀嚼することはできません。自分だってクチャクチャという音を立てているに違いないのです。
 
「汝自身を知れ」ということのたいせつさを改めて思います。

昔、握り寿司は箸でなく手で食べたほうがおいしいとされ、箸で食べると寿司通にバカにされたものです。しかし今、握り寿司を手で食べる人はめったにいません。手で食べると手が汚れて不愉快だからでしょう。
もともと箸を使うようになったのは、手で食べるよりもそのほうが食べやすかったからに違いありません。西洋でナイフとフォークが発達したのも、手で食べるよりも食べやすかったからであることは明らかです。
つまり箸やナイフとフォークを使うのは、基本的に使う本人にとってそのほうがいいからです(インド人もそのうち手づかみをやめるかもしれません)
 
しかし、今では本人にとっていいからではなく、見る人にとっていいことが求められます。つまりテーブルマナーです。
 
たとえば刺し箸、寄せ箸、迷い箸などはマナーが悪いとされます。しかし、こうした細かいマナーに縛られることでかえって不幸になっている面があるのではないでしょうか。
 
次は「ヤフー知恵袋」に寄せられた質問です。
 
家の祖父と祖母はお互いに寄せ箸をします。(器を箸で引き寄せたり、押したりする...
 too11583さん
 
家の祖父と祖母はお互いに寄せ箸をします。(器を箸で引き寄せたり、押したりすること)この事はよくないというのをあるサイトで見るまでは知りませんでした。しかし、判ってからやるのを見ていると非常に情けなく思います。たいした事無いかもしれませんが、皆さんの周りにも同じようなことをする人はいませんか?こんなに気になるのは私だけなんでしょうか?
 
これに対する回答でベストアンサーに選ばれたのは、「祖父母ともお年のようだから治りようがないでしょう。見て見ぬふりをするしかありません」というものです。
 
この質問者は、寄せ箸がよくないということをサイトを見て知ったということです。もしそのことを知らなかったら、悩むこともなかったと思われます。
つまり食事のマナーがあるばっかりに(知ったばっかりに)不幸になってしまったという例です。
 
寄せ箸がいけないのは、もともとはその器をひっくり返してしまう恐れがあるからでしょう。しかし、ひっくり返さない自信があれば、やってもいいはずです。
私は今は刺し箸はしませんが、考えてみると、子どものころはやっていました。里芋など子どもの不器用な手でつかみにくいものは、刺したほうが食べやすいということもあると思います。
 
見ていて不愉快に思う人がいるからやってはいけないとなると、行動の自由がひとつ失われることになります。
こうしたマナーがどんどんふえていくと、どんどん不自由になっていくことになります。
これを「洗練」とか「上品」といって肯定し、どんどんその方向に進んできたのが文明というものです。
しかし、みんなが同じように上品になるわけではありません。上品な人と下品な人の間に溝が広がることになります。
 
次は掲示板「発言小町」に寄せられた相談です。
 
こんな夫と一緒に食事をしなくてもいいでしょうか?  くらら 2013215 9:51
 1年以上夫と一緒に食事をしておりません。
私が作って食べ、その後に夫が食べます。
 
夫は食事マナーが悪く(肘をつく,寄せ等)、私が注意すると「うるさい!」と言うので、
言わないで我慢してきましたが、ある日私がまだ食事中なのにすぐそばで鼻をほじくりました。
そのときから私は夫がいると、食事が喉を通らないようになりました。
育ちが悪くてマナーがなっていないのなら、まだよかったのです。知らないのは仕方がないので。
でも、夫の実家はきちんとした家です。
 
夫が来ると私は食事をやめて別室に行くので、夫は私が食べているときは台所に入って来なくなりました。
 
一人で食べるごはんは本当においしいのですが、家族としてこれでいいのかな?とも思います。
本当は以前のように、笑いながら一緒に食事をしたいという気持ちもあります。
もう二度とそんなことはできないのでしょうか?
 
これもマナーがあるばっかりに不幸になってしまった例です。
もっとも、トピ主のこのあとの書き込みを見ると、夫婦間にはいろいろ問題があったようです。それがテーブルマナーの問題に集約されて出てきた格好です。
 
この解決策としては、夫がマナーをよくするべきだと考える人が多いのではないでしょうか。しかし、妻がマナーのことを気にしないようにするという解決策もありますし、それが私のお勧めです。
 
私が「洗練」や「上品」には限度があるはずだと考えるのは、赤ん坊には「洗練」も「上品」もないからです。つまり上品な人間をつくるには、子どもにマナーを教えなければなりませんが、教える作業がおとなにとっても子どもにとっても重荷になるなら、ほどほどにしたほうがいいと思うのです。
 
今ではむりやり子どもにマナーを教えている家庭が多いのではないでしょうか。そのことがまた不幸を生みます。
 
箸の持ち方直せ、と友人Aが友人Bに注意、喧嘩になってしまい…  せい 2013122 12:46
 私と友人Aと友人Bが外食した時の話です。
私と友人Aは箸の持ち方は普通です。Bは良く見たらちょっと
違うかな、という持ち方をしてます。
というか私はそれに全く気がつきませんでした(汗
友人Aが友人Bに「箸の持ち方がおかしい、
社会人になってそれじゃあ
会社の人とか彼氏の両親とかと食事した時恥だから治したほうがいいよ」
と忠告。
友人Bは「うんそうだね…」とこのときは普通に終わったのですが。
それから三ヶ月。何度か食事しましたが友人Bの箸の持ち方がなおってないらしく。
そのたびにAが口うるさく注意してました、この前とうとうBが切れて
「練習はしてるよ。でも中々なおらないんだ」
「え? すぐなおせるもんだよ。あんた練習してないんじゃないの?」と二人喧嘩になってしまいました。
私が仲裁に入りましたが、二人は喧嘩したままです。
こういう場合、どちらについたらいいのかもわかりません。
ABのためを思って言ってるのはわかりますし、でもBも練習しているのに(実際矯正箸をかって練習してるのみました)一々煩い。と思う気持ちもわかりますし。
どうしたらいいのでしょう? 箸の持ち方なんて一々気にしてみてなかったんで、
気にする人の心理さえわからず困ってます。
 
友人に口うるさく言えば、喧嘩になって当然です。なぜ口うるさく言ってしまったのかというと、自分が子どものころ親から口うるさく言われたからではないでしょうか。
 
そもそも食卓でマナーのことを口うるさく言っていては、食卓が楽しいものになりません。人を不愉快にしないためのものがマナーであるはずなのに、マナーを教えるために食卓が不愉快になっては本末転倒です。
 
世の中の常識は、マナーを身につけるのはよいことで、子どもにきびしくマナーを教えるのもよいことだというものでしょう。
私の考えはそうした常識とは逆ですから、納得いかない人も多いかと思いますが、人を不愉快にしない、食卓を楽しくするという原点を踏まえれば、私の考えも理解してもらえるのではないでしょうか。
 
テーブルマナーに関して、私の好きなこんな話があります。
洋食のコースでフィンガーボールが出てきて、知らない人が飲み物だと思ってその水を飲んでしまったとします。こんなとき同じ食卓にいる人はどうするのが正しいマナーかと聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか。
正解は「自分も飲む」です。
自分もいっしょに恥をかけば、その人の気持ちが楽になるからです。
 
それからこんな話もあります。
中華料理はうるさいテーブルマナーのないのが特徴ですが、料理をこぼすのはさすがにみっともない行為です。真っ白いきれいなテーブルクロスだと、なおさらこぼしにくくなります。ですから、客人を招いた主人は最初にわざと自分が料理をこぼしてテーブルクロスを汚すのだそうです。そうすれば客人はテーブルクロスを汚すことを気にせずリラックスして食事できるようになるというわけです。
 
テーブルマナーというのは、知識として知っているのはいいことですが、こだわるのは愚かなことです。
私自身は、人のマナーを批判することだけはしないように心がけています。

食事のマナーというのは、人に不快感を与えないのが基本ですから、音を立てて食べてはいけません。西洋料理で音を立ててスープをすするのはもっとも無作法ななことですし、日本料理でも吸い物を音を立ててすすったらいやがられます。
ところが、ざるそばに限っては、音を立ててすするのがマナーとされます。逆に音を立てずに食べると、そばの食べ方を知らないやつだとバカにされます。
音を立てて食べるのがマナーであるというのは、おそらく世界でも日本のざるそばぐらいしかないのではないでしょうか。
どうしてこんな奇妙なマナーが成立してしまったのかを考えてみましょう。
 
そばは小麦粉のように粘りがないので麺にしにくく、ずっと団子や粉の形で食べられてきました。小麦粉をつなぎにして麺の形にすることが広がったのは江戸時代になってからです。
以下は、ウィキペディアの「蕎麦」の項からの引用です。
 
 
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。古くは、同じく蕎麦粉を練った食品である蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練りとも言う)と区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。(中略)
17世紀中期以降、蕎麦切りは江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着した。
 
 
そばきりが普及しつつあったころの江戸は、全国から人が流入し、急速に発展していました。ですから、江戸っ子といってももとはみな田舎者なのですが、ほんの少しでも先に江戸に来ていた者はそれなりに江戸の文化を身につけ、あとから来た者を田舎者としてバカにしていました。田舎者をバカにするのは生存競争におけるひとつの手段でした。
 
江戸に来た田舎者は初めてそばきりに接し、その食べ方にとまどったでしょう。というのは、麺をすするというのは簡単にできることではないからです。
今の日本人は誰でも麺がすすれると思いますが、麺をすするというのはかなり日本的な文化で、外国人はほとんど麺をすすれません。外国人はカップ麺などもすすらずに食べていますし、イタリア人はスパゲッティをフォークで丸めて食べます。
ですから、当時の江戸で、そばきりをとまどいながら食べているのは田舎者ということになり、食べ慣れて、すすって食べているのは江戸っ子ということになります。つまり、そばきりの食べ方が江戸っ子度を判定するバロメーターになったわけです。
 
というわけで江戸っ子はそば通であることを自慢し、そばをすすれない田舎者の前で、これみよがしに音を立ててそばをすすって、「そばは音を立ててすすったほうがうまいのだ」などと田舎者に講釈を垂れたのでしょう。こうしてそばは音を立ててすするものだというマナーができたのだと思うのです。
つまりこのマナーは、互いに相手を田舎者として差別しようとする特殊な江戸文化の中で生まれたのです。
 
同じようなことは握り寿司にもあります。握り寿司はやはり江戸時代に江戸で発達した食べ物です。寿司通はすなわち江戸っ子ということになります。
とはいえ、江戸っ子は時間もないので手づかみで寿司を食べていました。これは普通はよいマナーとはいえません。しかし、江戸っ子は田舎者に対して、「寿司は手づかみで食べたほうがうまいのだ」などと講釈を垂れて、自分を正当化しました。こうして寿司は手で食べるものだというマナーができたのです。
私が若いころは、寿司屋で箸で寿司を食べるとバカにされるのではないかという雰囲気がまだありました。
 
 
というわけで、そばは音を立てて食べるものだという世界でも特殊なマナーは、発展期の江戸という特殊な条件の中で生まれたものだというのが私の考えです。
私は歴史の専門家ではないので、データを示して実証することができませんが、これが唯一合理的な説明だと思います。
 
最近は、音を立ててそばをすすると周りの人にいやがられるので、音を立ててそばをすする人がへってきたようです。これが本来の姿でしょう。
 
ちなみに西洋料理の厳格なテーブルマナーも、上流階級が下層階級を差別するためにつくったという意味がおおいにあるでしょう。

ある新婚夫婦の話ですが、妻が初めておでんをつくったら、夫はなぜ豆腐が入ってないんだと怒り、妻はおでんに豆腐は入れないものだといい返して、それが初めての夫婦げんかだったそうです。
 
吉野家のCMで、仲村トオル部長が部下に「飯っていうのはそういうものだ」と説教しているのを見て、思い出してしまいました。人間はいろいろな思い込みを持って生きていますが、とりわけ食への思い込みは強固で厄介です。夫婦げんかの原因になるのもわかります。
ちなみに、おでんに豆腐を入れることはありますが、高温で長く煮ると固くなってしまいますし、やわらかい豆腐だと崩れることもあるので、豆腐を入れないことも多いようです。
 
昔、大根がとんでもない高値になったときがありました。ある奥さんは、サンマの塩焼きの献立にするとき、大根があまりに高いので、大根おろしなしで食卓に出したそうです。すると夫がサンマの塩焼きに大根おろしがないとはなにごとだと激怒し、やはり夫婦げんかになったそうです。
 
また、定年退職したある男性は、奥さんから勧められて料理を覚えようとしたのですが、レシピに「塩少々」と書いてあるのを見て、「少々とはどれぐらいだ」といって怒ったそうです。
 
 
今取り上げた男性3人はみんな食のことで怒ったのですが、この怒りは正当なのかどうかについて考えてみます。
つまりここからは食というよりも人間関係がテーマになります(もともとそういうブログなので)
 
「塩少々」に怒るのは、どう見てもおかしいですよね。その表現は料理業界の習慣なのですし、そもそもレシピを書いた人はそこにいないのですから、誰に怒っているんだということになります。
まあ、この男性は几帳面な性格で、技術系の仕事をしていた人なのかもしれません。会社でもささいなことで部下を怒っていたのではないでしょうか。はた迷惑な人です。
 
では、サンマの塩焼きに大根おろしがないと怒った人はどうでしょうか。
この人は大根がとんでもない高値になっていることを知らなかったのかもしれないので、それは割り引くことにすると、けっこう共感する人も多いのではないでしょうか。サンマの塩焼きに大根おろしがなかったら俺も怒るぞという人、多そうですね。
 
ここが問題です。なぜそこで怒るのでしょうか。よく考えてください。
あると期待したものがなかったら、そのとき生じる感情は、とまどいや喪失感や悲しみではないでしょうか。
だから,この夫は「エーン、大根おろしがないよー」と泣いてもよかったのです。
 
ただ、この献立をしたのは妻です。つまり、ここには妻の人為が加わっています。
この夫は妻に対して怒っているのです。
なぜ怒るかというと、妻は自分に対して不当な仕打ちをしたと思っているのです。そう思わなければ怒りは発生しません。
つまりここには妻に対する不信感があります。
妻を十分に信頼していれば、なんか事情があって大根おろしをつけられなかったのだろうと考えます。そのときは、「えっ、なんで大根おろしがないの?」というふうに反応します。少なくともいきなり怒るということはありません。
 
以上をまとめるとこのようになります。
 
「大根おろしがない」
  ↓  ↓  ↓
「喪失感・悲しみ」
 
これが普通の反応です。怒る人の場合はもうひとつのファクターが加わります。
 
「大根おろしがない」
↓  ↓  ↓
(妻が自分に不当な仕打ちをしたという邪推)
↓  ↓  ↓
「怒り・敵意」
 
おでんに豆腐がないと怒った夫も同じです。
「えー、豆腐の入ってないおでんなんておでんじゃないよ」と嘆けばよかったのです。
そこから夫婦でおでん談議をして、さらに絆が深まったかもしれません。
 
いうまでもなく、怒りは愛情の対極にあるものです。
よく怒る人は自分自身をよく振り返ってください。
世界中の食卓から怒りがなくなりますように。
 

このページのトップヘ