村田基の逆転日記

親子関係から国際関係までを把握する統一理論がここに

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日本の昨年の出生数は初めて70万人を下回り、合計特殊出生率も1.15と過去最低となりました。
政府はあれやこれやと少子化対策をしてきましたが、まったくといっていいほど効果がありません。
それはしかたのないことで、先進国はどこも出生率は低いものです。

アメリカはずっと人口が増え続けてきましたが、それは移民を受け入れてきたからです。
アメリカの白人に限ってはずっと出生率2.0を下回っています。
ヒスパニックの出生率は高いとされてきましたが、最近は急速に低下して2.0を下回りました。
少子化は先進国病なのです。

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ですから、日本が少子化を克服しようというのはむりな話です。出生率をいくらか上げて、少子化の進行を少しでも遅らせることができれば上出来です。

先進国では少子化が進んでも、人類全体では人口は増え続けています。
現在は約80億人で、国連の「世界人口推計」によると2030年に約85億人、2050年に約97億人となり、2100年には約109億人でピークに達すると予測されています。

ですから、人類の存続を心配することはありません。
日本政府も人類のために少子化対策をしているのではありません。
では、なんのためにしているかというと、日本の経済、財政、年金のためです。
しかし、子どもをつくる人は日本の経済、財政、年金のことなど考えていません。自分と子どもの人生のことを考えています。
ここに政府と子づくり世代の齟齬があります。


それにしても、先進国で少子化が進むのはなぜでしょうか。
一応の説明として、先進国では女性の社会進出が進み、結婚や出産のタイミングが遅れること、家族よりも個人の自由や自己実現を優先する価値観が広がることなどが挙げられます。
低収入や雇用の不安定などの経済的理由も挙げられますが、貧しい途上国で出生率が高いのですから、経済的なことは理由にならないのではないでしょうか。
子育てのための補助金などもあまり効果はないはずです。

では、先進国で少子化が進む原因はなにかというと、文明が発達するほど人間が一人前になるのが困難になることです。

狩猟採集社会では、子どもは遊びの中で狩猟や採集のやり方をみずから学んで一人前になりました。ですから、親はなにも教える必要はありませんでした。
しかし、文明が発達して社会が複雑化するとともに一人前になるために学ぶべきことが増えてきますし、親などのおとなが教えるべきことも増えてきます。
人間はしゃべることは自然に覚えますが、読み書きは誰か教える人がいないと覚えることはできません。そのため近代になると義務教育が始まります。
文明の発達は加速度的に速くなり、義務教育の年限は延長され、今では義務教育は中学校までとされますが、高校まで行くのは最低限に必要とされます。大学に行くのも普通となり、より有利な立場を求める人は大学院に行きます。
江戸時代には多くの人は寺子屋にも行かなかったのですから、短期間に大きく変わりました。

子どもに高度な教育を受けさせるにはお金がかかりますが、負担はそれだけではありません。親は子どもに対して「勉強しなさい」などと言って圧力を加えなければなりませんが、その心理的な負担もあります。
子どもにはみずから学ぶ意欲が備わっていますが、自発的な学習だけでは今の社会には適応できないと考えられています。そのため、どこの国でも同じですが、親は子どもに勉強を強制しなければなりません。
勉強させたい親と勉強したくない子どもが争うことになります。
子どもが学校に行きたがらないという事態も起こります。日本では中学までは教育を受けさせる義務が親にありますから、親はむりをしても学校に行かせようとして、ここでも親子が争うことになります。

学校教育以外に、音楽やスポーツなどの習い事というのもあります。今の日本には習い事をまったくやっていない子どもはひじょうに少ないでしょう。
ピアニストになるつもりもないのにピアノを習って意味があるのかと思うのですが、ピアノの技量を伸ばした経験がほかのことをやるときにも役立つと考えられているのでしょう。
しかし、子どもがみずからやりたがっているならいいのですが、やる気がないのにやらされているのでは、子どもにとっても負担ですし、親にとっても負担です。

ともかく、先進国では「一人前」になるためのハードルがひじょうに高いので、親が子どもを一人前に育てるまでの負担がたいへんです。
しかも、先進国は核家族制なので、その負担はほとんど親だけにかかります。
途上国では親族や共同体の人間が周りにいて、子育てを手伝ってくれるので、その違いは大きいといえます。


一人前になることは、子どもにとってもたいへんです。
江戸時代には寺子屋に通っていない子どもは「勉強しなさい」と言われることもなく、親の仕事ぶりを見て覚えるだけで一人前になれました。
今は二十歳前後までずっと勉強の連続です。
どこの国でも学校にいじめがつきものなのは、勉強がストレスだからでしょう。

1972年、ローマクラブは「成長の限界」と題するレポートを出し、資源の枯渇や環境汚染によって人類の経済成長はいずれ限界に達するだろうと警告し、世界に衝撃を与えました。
しかし、人類の経済成長を制約するものは、資源と環境のほかにもうひとつあります。それは「能力の限界」です。
人間の能力は生まれつき決まっています。これは原始時代からほとんど進化していません。
文明が発達して社会が複雑化すると人間の能力が追いつきません。
これまでは教育を強化することで補ってきましたが、それも限界です。
日本の出生率は1.15ですが、韓国は0.75で、中国は1.00(2023年国連推計)です。儒教文化圏は受験競争が激烈です。自分の子どもを受験競争に駆り立てたくないという人が子どもをつくらないのでしょう。


先進国はどこも出生率2.0を下回っているのを見ると、文明の水準はすでに人間の能力を超えてしまっていると思われます。
少子化を克服しようとすれば、文明社会のあり方を根本的に変革するしかありません。
今の社会は知的能力の高い人が勝ち組になって、知的能力の低い人が負け組になる社会です。
自分の子どもが負け組になるのは誰でもいやですから、それも少子化の大きな原因です。
競争社会から転換して、知的能力の低い人もそれなりに幸せになれる社会を目指すべきです。

もっとも、そういう根本的な社会変革はいつできるかわかりません。
手っ取り早い方法もあります。

今の社会はおとな本位の社会で、子どもが不当に迫害されています。
たとえば赤ん坊の泣き声がうるさいと主張するおとなが多くて、赤ん坊を連れた親は肩身の狭い思いをしなければなりません。
「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがありますが、今のおとなは泣く子に勝とうとしているのです。
公共の場で子どもが騒いだり走り回ったりするのも非難されます。
公共の場にはおとなも老人も子どももいていいはずですが、子どもは排除されているのです。
そして、子どもが騒ぐと、「親のしつけがなっていない」と親が非難されます。
こうした「しつけ」の負担が親に押しつけられていることも少子化の原因です。

そもそも子どもが騒いだり走り回ったりするのは子どもの発達に必要な行為ですから、おとなの身勝手な理由で止めることは許されません。
子どもがもっとたいせつにされる社会になれば、少子化はいくらか改善するはずです。

とはいえ、21世紀中は人類の人口は増え続けるわけですから、日本は少子化対策をしなければならないわけではありません。
少子化を前提に経済、財政、年金を考えるべきです。


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学術会議法案が国会で採択されようとしていますが、学者は反対運動をしても、一般の人を巻き込むまでにはなっていません。
アカデミズムや科学、学問に対する一般人の価値観が変わってきているのです。
こうした傾向は日本よりもアメリカで顕著に見られます。

第二次トランプ政権は、発足当初から科学予算の大幅削減に着手しました。
NASAの科学予算は約半分に削減される予定です。米国立衛生研究所(NIH)の助成金も削減され、この影響でとくに医学や気候変動分野の研究が打撃を受けています。
これに対し世界の科学者約2000人が「科学界は壊滅的な打撃を受けている」と警告する書簡を公開しました。
「Nature」誌が3月に実施したアンケートによると、アメリカの科学者の約75%がアメリカを離れることを検討しているということです。

トランプ政権はハーバード大学やコロンビア大学を攻撃しているので、リベラルな大学を攻撃しているように見えますが、最初から大学、科学、学術を攻撃しているのです。
トランプ政権は反科学です。
保健福祉長官に就任したロバート・ケネディ・ジュニア氏は有名な反ワクチン活動家で、さまざまな陰謀論を述べてきました。保健福祉長官はアメリカ食品医薬品局(FDA)、アメリカ国立衛生研究所(NIH)、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)を監督する立場です。

なぜトランプ政権が反科学なのかというと、聖書の記述を絶対視するキリスト教福音派に寄せたのかなと思います。
キリスト教はもともと反科学的なところがあります。
ガリレオ・ガリレイの時代に戻っていきそうな感じです。

しかし、キリスト教との関係だけでは説明しきれないものがあります。
世の中全体に反科学ないしは反アカデミズムの気分が広がっています。
トランプ政権がハーバード大学を攻撃しても、それをいい気味だと思っている人たちがかなりいるようです。


この傾向は日本でも同じです。
この背景にはもちろんインターネットの普及があります。
オールドメディア対ニューメディアということが言われましたが、それにならっていうとオールドアカデミズム対ニューアカデミズムという状況が生まれているのです(かつて浅田彰氏が登場したころニューアカデミズム=ニューアカという言葉がありましたが、それとは別の言葉です)。

新聞、雑誌、テレビがオールドメディアで、SNSを中心としたインターネットがニューメディアです。
新聞には右から左までさまざまな論調がありますし、インターネットにも多様な意見があるので、メディアによる意見の偏りはほとんどないはずです(ニューメディアには新聞、テレビのようなチェック機能がないので、陰謀論がはびこりやすいという傾向はあります)。
ただ、新聞、雑誌、テレビには権威があり、既得権益もありそうですから、ニューメディアに拠る人々は“マスゴミ”という言葉を使ったりしてなにかとオールドメディアを攻撃します。

オールドメディア対ニューメディアの対立が極端に表れたのが斉藤元彦兵庫県知事をめぐる問題です。
オールドメディアは圧倒的に斎藤知事を批判しましたが、ニューメディアにおいて急速に斎藤知事支持の論調が高まり、オールドメディアに拠る人たちとニューメディアに拠る人たちの対決という形になりました。
なぜメディアによって論調が変わるかというと、やはりニューメディアには陰謀論が多いということがありました。それに、ニューメディアの人はオールドメディアを批判するのに、オールドメディアはニューメディアをほとんど批判しないということがあります。たとえばオールドメディアが「告発者のプライバシーを言うべきではない」とか「告発者のプライバシーに問題があっても、告発内容とは関係ない」といったことを主張していれば、かなり変わっていたでしょう。


科学に関することでも、オールドメディアとニューメディアで論調が違いました。
地球温暖化問題では、化石燃料を今まで通りに燃やしたいというのが一般の人の素朴な思いですから、どうしても温暖化を否定する説を信じたくなり、陰謀論も信じてしまいます。その代表的なものが、「気温の低下を隠す策略(trick)を終えたところだ」という気象研究者のメールが流出したことです(このメールは切り取られたために意味が違うとされています)。
新型コロナのワクチンが問題になったときも、できたばかりのワクチンの注射なんか打ちたくないというのが人々の素朴な思いですから、陰謀論でもいいので反ワクチンの説を信じてしまいます。

そうしてネットの中に、アカデミズムの大勢とは別の説がはびこります。この説はもっともらしい科学の体裁を整えているので、反科学ではなく疑似科学かニセ科学というべきものです。
ですから、オールドアカデミズム対ニューアカデミズムと表現することにしました。

科学界隈のことでは、「政府はUFOの存在を隠している」とか「古代史には宇宙人の痕跡がある」とか「異星からきたヒト型爬虫類が人類を支配している」といったものから「〇〇は健康にいい」とか「〇〇で運気を上げる」といったものまで、さまざまあります。バカバカしいような説でも、ネットでは同じ考えの人が集まって、エコーチェンバー効果でどんどん確信を強めていきます。


ニューアカデミズムを信じる人は、オールドアカデミズムは既得権益のために古い説にしがみつく科学者に支配されていると見なすので、科学者へのリスペクトもありませんし、アカデミズムの権威も認めません。
そういう気分は一般社会にも広がっているので、たとえば学術会議法案に反対する人が「学問の自由」を守れと主張しても、学者が特権を守ろうとしていると受け止められてしまいます。
これはマスコミが「報道の自由」を主張すると、自分たちの特権を守ろうとしていると思われるのと同じです。
ですから、「学問の自由」がなぜたいせつなのかから説明しないといけません。


日本学術会議法案とはどういうものでしょうか。
『【学者が猛反対】菅政権の任命拒否から5年、今度は法人化ゴリ押し、国が「日本学術会議」を狙い撃ちする理由を探る』が詳しく説明しています。

なにがいちばんの問題かというと、学術会議の独立性が損なわれて、政府の管理下に置かれてしまうのではないかということです。
ひじょうに複雑な仕組みになっていて、要約するのがむずかしいので、直接引用します。
2026年10月の新法人発足時とその3年後の会員選定では、特別に設置された選考委員会が候補者を選ぶ。この委員会のメンバーは、会長が首相の指定する学識経験者と協議して決めなければならない。
 その後は会員で構成された委員会が候補者を選ぶが、その際、会員以外で構成される「選定助言委員会」に意見を聞くことが半ば義務付けられている。
活動に関しても外部から目を光らせる仕組みができる。いずれも会員以外で構成される「運営助言委員会」、「監事」、「評価委員会」が新たに設置されるのだ。監事と評価委員会のメンバーは首相が任命する。

坂井学・内閣府特命担当大臣は5月9日の衆議院内閣委員会で「特定のイデオロギーや党派的主張を繰り返す会員は今度の法案で解任できる」と答弁しました。法案の本質を表現しています。

この法案に反対してもらうには、学術会議の独立性のたいせつさを理解してもらうことから始めねばなりません。

今の日本は民主主義ですが、国政選挙は数年に一度しかなく、民意を政治に反映させるには不十分です。
政府は膨大な情報を管理しているので、意図的な操作が可能です。国民に真実が知らされないのでは、選挙も意味がなく、容易に独裁国になってしまいます。
そこで重要になるのはジャーナリズムによる調査報道です。その意味で「報道の自由」は絶対に必要です。
同様に必要なのが「学問の自由」です。学問や科学は政府に不都合なことを示すことがあります。政府が学問を支配しようとするのは独裁化の兆候です。
そもそも菅内閣が新会員として任命を拒否した6人も、政府批判の意見を述べたことのある人たちです。

したがって、学術会議を政府の管理下に置くのはあってはならないことですが、世の中には政府から金をもらっているのだから、政府が口出しするのは当然だという意見もあります。
たとえば橋下徹氏は5月11日、フジテレビ系「日曜報道THE PRIME」において「公金が入るなら公のチェックが入るのは当たり前じゃないですか」「そもそも、お金をもらって、後は全部自由にさせてくれというのは、仕送りをもらっているろくでもない学生と同じですよ」などと言って、法案に反対する学者を非難しました。
公金が不正に使われていないかをチェックするのは当たり前ですが、使いみちにまで口を出すのは政府の役割ではありません。子どもに仕送りして、金の使いみちにまで口を出す親がろくな親ではないのと同じです。


インターネットの普及によって、学者もアカデミズムの権威の上にあぐらをかいていられなくなりました。
さまざまな陰謀論や橋下氏のような愚論とも戦っていかねばなりません。

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私は30代前半に究極の思想ともいうべき「地動説的倫理学」を思いつきました。
これは人類史においてコペルニクスによる地動説の発見に匹敵するぐらい重大な発見です。
そんなことを言うと頭のおかしいやつと思われますが、どう思われようと、この重大な発見を世の中に伝えないわけにいきません。
発見したことの重大さに比べて、私の能力があまりにも過小であるという困難を乗り越えて、なんとか一冊の本になる形に原稿をまとめて、別ブログ「道徳観のコペルニクス的転回」で公開しました。

しかし、あまり理解されません。
どうやらむずかしく考えすぎたようです。
私が「地動説的倫理学」を思いついたとき、これは常識とあまりにも違うのでなかなか理解されないだろうと思いました。そこで、思いついた過程を丁寧に説明し、また、科学としても認められるようにしようと配慮しましたが、そのため読みにくくなったかもしれません。

しかし、世の中の価値観はその当時とは大きく変わりました。今ではすんなりと理解する人も少なくないでしょう。「なぜもっと早く教えてくれなかったのだ」と文句を言われるかもしれません。

「地動説的倫理学」そのものはきわめて単純です。
天文学の地動説は小学生でも理解しますが、それに近いものがあります。
考えてみれば、コペルニクスがどうやって地動説を思いついたかなんていうことは、地動説を理解する上ではどうでもいいことです。

ということで、ここでは「地動説的倫理学」をもっとも単純な形で紹介したいと思います。



人類は霊長類の一種で、優れた言語能力を有することが特徴です。
人類が使う多様な言語の中に「よい」と「悪い」があります。「よい天気」と「悪い天気」、「よい匂い」と「悪い臭い」、「よい味」と「悪い味」、「よい出来事」と「悪い出来事」など、あらゆる物事に「よい」と「悪い」は冠せられます。
「よい」とは人間の生存に有利なもので、「悪い」とは人間の生存に不利なものです。新鮮な肉は「よい肉」で、腐った肉は「悪い肉」です。これは「良性腫瘍」と「悪性腫瘍」、「善玉菌」と「悪玉菌」という言葉を見てもわかるでしょう。
人間は森羅万象を「よい」と「悪い」と「どちらでもない」に見分けながら生きています。

この「よい」と「悪い」を人間の行為に当てはめたのが道徳です。
自分が困っているときに助けてくれる他人の行為は「よい行為」であり、それをするのは「よい人」です。
自分にとって不利益になる他人の行為は「悪い行為」であり、それをするのは「悪い人」です。
こうして「善」と「悪」すなわち道徳ができました。
そうして人は「よいことをするべきだ。悪いことをしてはいけない」と主張して、相手を自分の利益のために動かそうとしてきました。

ここで注意するべきは、腐った肉は誰にとっても「悪い肉」ですが、人間の行為はある人にとっては利益になる「よい行為」となり、別の人にとっては不利益になる「悪い行為」になるということです。つまり道徳には普遍性がありません。
そのため、強者が自分に都合のいい道徳を弱者に押しつけることになりました。


動物は同種間で殺し合うことはめったにないのに、人間は数えきれないほど戦争をしてきました。また、奴隷制や植民地支配によって人間が人間を支配してきました。
人間は道徳をつくりだしたためにかえって悪くなったのではないでしょうか。
それを確かめるには「道徳をつくりだす以前の人間」と「道徳をつくりだした以降の人間」を比較する必要があります。
この比較は簡単なことです。赤ん坊や小さな子どもは道徳のない世界に生きているので、子どもとおとなを比較すればいいのです。

道徳のない世界では、子どもは自由にふるまって、親はそれを見守るだけでした。これは哺乳類の親子と同じです。動物の親は子どもにしつけも教育もしません。
未開社会でも親は子どもに教育もしつけもしません。
納得いかない人は、次の本を参考にしてください。



しかし、文明が発達すると、子どもの自然なふるまいが親にとって不利益になってきます。
定住生活をするようになると、家の中を清潔にするために子どもの排泄をコントロールしなければなりません。子どもに土器を壊されてはいけませんし、保存食を食べ散らかされてもいけません。
それに、文明人の親は多くの知識を持ち、複雑な思考ができますが、赤ん坊はすべてリセットされて原始時代と同じ状態で生まれてきますから、親の意識と子どもの意識が乖離します。共感性の乏しい親は子どもに対して「こんなことがわからないのか」とか「こんなことができないのか」という不満を募らせ、子どもに怒りの感情を向けるようになります。
そうした親は道徳を利用しました。親にとって不利益な子どもの行為を「悪」と認定し、その行為をすると叱ったり罰したりしたのです。こうすると子どもを親の利益になるように動かせるので、このやり方は広まりました。「悪い子」を「よい子」にすることは、その子ども自身のためでもあるとされたので、叱ることをやましく思うこともありませんでした。

これは子どもにとっては理不尽なことです。これまでと同じように自然にふるまっているのに、あるときから「悪」と認定され、叱られるようになったのです。
この「悪」は子どもの行為にあるのではありません。親の認識の中にあるのです。
「美は見る者の目に宿る」という言葉がありますが、それと同じで「善悪は見る者の目に宿る」のです。
いわば人間は「善悪メガネ」あるいは「道徳メガネ」を発明したのです。

以来、人間はなんとかしてこの世から「悪」をなくそうと力を尽くしてきましたが、まったく間違った努力です。「悪」は見る対象にあるのではなく、自分自身の目の中にあるからです。

私はこれを「道徳観のコペルニクス的転回」と名づけました。
これまで世の中を支配してきたのは、自己中心的で非論理的な「天動説的倫理学」だったのです。

「天動説的倫理学」の支配する世界でいちばん苦しんでいるのは子どもです。親は「子どもは親の言うことを聞くべき」とか「行儀よくするべき」とか「好き嫌いを言ってはいけない」とかの道徳を押しつけ、親の言うことを聞かないと「わがまま」であるとして叱ったり罰したりします。これはすなわち「幼児虐待」です。
私がこの理論を思いついたとき、これはなかなか世の中に受け入れられないだろうと思ったのは、まさにそこにあります。
当時は、幼児虐待は社会的に隠蔽されていました。ごくまれに親が子どもを殺したという事件がベタ記事として新聞の片隅に載るぐらいです。この理論は幼児虐待をあぶりだすので、社会から無視されるに違いないと思ったのです。

しかし、今では多くの人が幼児虐待に関心を持っているので、幼児虐待を人類史の中に位置づけたこの理論はむしろ歓迎されるかもしれません。
この理論は幼児虐待の克服に大いに役立つはずです。

今の世の中は「親は子どもに善悪のけじめを教えなければならない。教えないと子どもは悪くなってしまう」と考えられています。
しかし、子どもには「よい子」も「悪い子」もいませんが、親には子どもを愛する「よい親」と子どもを虐待する「悪い親」がいます。
おとなの中にはテロリスト、ファシスト、差別主義者、殺人犯、レイプ犯、強盗、詐欺師、DV男、利己主義者などさまざまな「悪人」がいます。そうした「悪人」が子どもを「よい子」にしようとして教育やしつけを行っているのが今の「天動説的倫理学」の世界です。

こうした状況をおとなの目から見ているとわけがわかりませんが、子どもの目から見ると、すっきりと理解できます。
複雑な惑星の動きが太陽を中心に置くとすっきりと理解できるのと同じです。
しかし、これはおとなにとっては認めたくないことかもしれません。それも私がこの理論はなかなか理解されないだろうと思った理由です。


道徳は強者が弱者に押しつけるものであるというとらえ方は、マルクス主義とフェミニズムも同じです。マルクス主義は資本家階級が労働者階級に押しつけ、フェミニズムは男性が女性に押しつけるとしました。私は親が子どもに押しつけるとしたのです。
ここまで踏み込むことで善と悪の定義ができました。.これは画期的なことです(これまで善と悪の定義はありませんでした)。
道徳は強者が弱者に押しつけるものだということを知るだけで、道徳にとらわれない自由な生き方ができるはずです。

私はさらに、この理論と進化生物学を結びつけました。これが正しければ、この理論は「科学的」と称してもいいはずです。
マルクス主義は「科学的社会主義」を称して一時はたいへんな勢いでしたが、結局「科学的」というのは認められませんでした。
「地動説的倫理学」は「科学的」と認められるでしょうか。



これを読んだだけでは、いろいろな疑問がわいてくるでしょう。
「道徳観のコペルニクス的転回」で詳しく書いているので、そちらをお読みください。


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ハーバード大学と喧嘩するトランプ大統領は、「ハーバードから30億ドル(約4300億円)の助成金を取り上げ、全米の職業訓練校に与えることを検討している」とソーシャルメディアに投稿しました。
進歩的なハーバード大学から保守的な大学に振り向けるならともかく、職業訓練校に振り向けるのでは、アメリカの科学や学問の破壊です。
しかし、こうしたやり方を喜ぶトランプ支持者がたくさんいます。
ラストベルトに多くいるといわれる、「自分たちは見捨てられた」という意識を持っている白人労働者です。


トランプ政権は外国製品に高い関税をかけることで国内に製造業を復活させようとしています。
製造業の衰退したラストベルトに住む白人労働者のためとされます。
しかし、アメリカで製造業は復活するでしょうか。

J.D.バンス副大統領はラストベルトとされるオハイオ州の出身で、貧しい白人労働者の家庭に生まれました。親の離婚、何人もの継父、DV、麻薬、犯罪などの悲惨な家庭環境や地域環境の中で育ちましたが、そこから海兵隊、オハイオ州立大学、イェール大学のロースクールを出て弁護士になり、31歳のときに『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』を出版するとベストセラーになって注目され、上院議員になり、副大統領になりました。まさに「丸太小屋からホワイトハウス」を地でいったわけです。

『ヒルビリー・エレジー』にはラストベルトの白人労働者の実態がよく描かれていると思いました。そこからひとつのエピソードを紹介します。

バンス氏は大学を卒業してロースクールに進む前の夏、引っ越し費用などを稼ぐために地元の床タイルの会社で働きました。倉庫係として、重い床タイルの箱をパレットに載せ、出荷の準備をする仕事です。時給13ドルは魅力的で、しかも定期昇給があり、ここで何年か働き続ければ一家族が生活を維持できる収入が得られます。
ところが、その会社は長期で働いてくれる人材を確保できないでいました。バンス氏が辞めるときには倉庫係はみな26歳のバンス氏よりも年下でした。
19歳のボブという作業員には妊娠中のガールフレンドがいました。上司は親切にもそのガールフレンドを事務員として迎え入れ、電話の対応を任せました。ところが、ガールフレンドは3日に一度の割合で無断欠勤をし、「休むときは事前に連絡するように」と繰り返し注意をされ、数か月で辞めました。
ボブも欠勤の常習者で、1週間に一度は姿を見せません。しかも遅刻ばかり。1日に3回も4回もトイレにこもり、一度こもると30分は戻りません。結局、ボブも解雇されることになり、それを知ったボブは上司に「クビだって? お腹の大きいガールフレンドがいると知っているのに?」と詰め寄りました。
バンス氏が働いていた短い期間に、そのほかに少なくとも2人が辞めるか辞めさせられました。

バンス氏は次のように書いています。
タイル会社の倉庫で私が目にした問題は、マクロ経済の動向や国家の政策の問題よりもはるかに根が深い。あまりにも多くの若者が重労働から逃れようとしている。よい仕事であっても、長続きしない。支えるべき結婚相手がいたり、子どもができたり、働くべき理由がある若者であっても、条件のよい健康保険付きの仕事を簡単に捨ててしまう。
さらに問題なのは、そんな状況に自分を追い込みながらも、周囲の人がなんとかしてくれるべきだと考えている点だ。つまり、自分の人生なのに、自分ではどうにもならないと考え、なんでも他人のせいにしようとする。

バンス氏はまた別のエピソードも書いています。
バーで会った古い知り合いから、早起きするのがつらいから最近仕事を辞めたという話を聞かされます。その後、彼がフェイスブックにオバマ・エコノミーへの不満と、それの自分の人生への影響について投稿しているのを目にします。
バンス氏は、彼がよい人生を歩んでいないのはオバマ・エコノミーのせいでないのは明らかだとし、「白人の労働者階層には、自分たちの問題を政府や社会のせいにする傾向が強く、しかもそれは日増しに強まっている」と書きます。

このふたつのエピソードから、白人労働者に「地道に働く」という気風が失われていることが感じられます。
製造業の仕事はたいてい、つまらない作業を、ミスなく、一定以上の水準で続けなければならず、根気や忍耐心が必要です。

人口学者のエマニュエル・トッドは著書『西洋の敗北』において、ウクライナ戦争がロシア有利に展開しているのは製造業の問題だと指摘しています。つまりアメリカでは人材が金融とITにシフトしたため、エンジニアリングを専攻する学生の比率はアメリカ7.2%、日本18.5%、ロシア23.4%、ドイツ24.2%となっています。そのためアメリカはウクライナに砲弾などを十分に供給できないのだというわけです。
アメリカは製造業を復活させようにも、技術者不足という問題に直面します。

技術者だけでなく、バンス氏が指摘するように労働者にも問題があります。
中国が「世界の工場」といわれるようになったのは、幅広い分野で一定以上の水準の製品を安価で製造してきたからです。そこには勤勉な中国人労働者の存在があります。ここには国民性や民族性があるので、まねできる国はそんなにありません。
今やアメリカ人労働者も中国人労働者のようには働けないでしょう。
それに、アメリカの給与水準は中国やメキシコよりもはるかに高いので、アメリカ人労働者のつくった製品は当然高価になり、それを買わされるアメリカの消費者はたいへんです。
どう考えてもアメリカ国内に製造業を復活させるのは困難です。


先ほどのふたつのエピソードからは、責任転嫁あるいは他責の思考法も見えます。
責任転嫁するので向上心がなく、働き方も怠惰になるのでしょう。

責任転嫁の発想は、アメリカ人には昔からありますが、トランプ政権になってからとくにひどくなりました。
第一次政権のときにトランプ氏は新型コロナウイルスを“チャイナウイルス”と呼んで、中国に巨額な損害賠償を請求すると息巻きました。
アメリカ国内に麻薬が蔓延するのはメキシコやコロンビアなどの麻薬犯罪組織のせいだとずっと主張してきましたが、最近は中国がフェンタニルの原料をメキシコやカナダに輸出しているせいだと主張しています。
アメリカ国内の犯罪もみんな不法移民のせいにしています。
貿易赤字も、昔から日本などのせいにしてきましたが、今は全世界のせいにしています。


人間はどういう場合に責任転嫁するかというと、解決困難な問題に直面して、努力して問題を解決するのを諦めたときです。問題を誰か他人のせいにして、その他人を非難することで解決に向けて努力しているふりをするわけです。

アメリカは麻薬性鎮痛薬のオピオイドが蔓延し、そのために年間10万人ほどが死亡しています。麻薬中毒患者は高値でも麻薬を買おうとするので、供給を絶とうとしてもうまくいきません。麻薬患者を出さないようにするしかありませんが、それが困難なので、麻薬犯罪組織や外国のせいにしているわけです。
犯罪も同じことです。犯罪者を出さないようにするのが困難なので、不法移民のせいにしています。


それに加えて、もうひとつ責任転嫁していることがあります。

ラストベルトの白人労働者は、それほど恵まれていないわけではありません。
白人世帯の資産は黒人世帯の資産の8倍あるとされますし、黒人世帯の所得は白人世帯の所得の約60%だとされます。
大統領選の前にテレビのニュース番組がよくラストベルトの白人を取材していました。そこに登場するトランプ支持の白人は、みな庭つきの小さくない家に住んでいて、失業者もいません。このところアメリカ経済は好調で、完全雇用に近い状態が続いています。
少なくとも黒人やヒスパニックよりも断然恵まれています。
しかし、白人労働者はもっと給料のいい仕事がほしいのです。

アメリカは貧富の差が激しいので、上には上がいます。東海岸や西海岸に住み、金融、IT、エンタメ業界やその他の知識集約型産業に従事している人には驚くほどの高収入を得ている人がいます。つまり白人の中にも階級差があるのです。
白人労働者はこの格差に不満を持っています。

とはいえ、この階級差を乗り越えるのは容易ではありません。
パンス氏の地元ではアイビーリーグの大学に行く人はまったくいません。自分たちとは別の世界だと思っているのです。実際、入るにはコネも重要です。
バンス氏が父親にイェール大学に行くことになったと告げると、父親は「黒人かリベラルのふりをしたのか?」と言いました。普通の白人は入れないと思っていたのでしょう。
実際、バンス氏担当の教授は、州立大学の学生はロースクールに入れるべきでないという考えの持ち主でした。

バンス氏がイェール大学のロースクールに入ってから地元に帰ったとき、ガソリンスタンドで給油していると、隣で給油していた女性がイェール大学のロゴ入りのTシャツを着ていました。
「イェールに通っていたんですか」と聞くと、「いいえ。甥が通っているの。あなたもイェールの学生なの?」と聞き返されました。
そのときバンス氏は、彼女と甥はオハイオの野暮ったさや、宗教や銃への異常な執着を話題にして笑っているに違いないと想像し、その同じ立場に立つことはできないと思って、「いいえ、イェールに通っているのはガールフレンドなんです」と嘘をつきました。
イェール大学のエリートとオハイオの地元民では階級も文化も違うのです。
イェールのロースクールを卒業するだけで当時で10万ドルを越える年収がほぼ確実になります。労働者階級とは別の世界です。

SF映画の「第九地区」や「エリジウム」は、天上にエリートや富裕層の住む世界があって、地上に貧困層が住んでいるという設定になっていますが、アメリカの格差社会はそれに近いものがあります。


私はテレビでラストベルトの白人労働者を見るたびに、現状が不満なら東海岸か西海岸に行って一旗揚げればいいではないかと思ったものです。それがアメリカンドリームというものです。
しかし、現実には階層が固定化されていて、下の階層から上の階層に上がるのがきわめて困難です(バンス氏はきわめてまれなケースです)。
それに、彼らはこれまで“白人特権”にあぐらをかいてきて、チャレンジ精神をなくしているのかもしれません。

本来なら、貧富の差を問題にし、富裕層へ累進課税や資産課税を強化して富を再配分せよと主張するべきです。そうしないと、トマ・ピケティが指摘するように、格差は限りなく拡大していきます。
しかし、アメリカではそうした主張は社会主義だということになり、一般のアメリカ人の発想にはありません。


そこで、白人労働者が考えたのは、リベラルに責任転嫁することです。
リベラルが黒人やヒスパニックやLGBTQを優遇し、自分たち白人を迫害しているので自分たちは不幸なのだと考えました。
それにリベラルは概して高学歴高収入なので、攻撃しやすいということもあります。

つまり白人労働者は、ほんとうは富裕層に富が集中して自分たちが不幸になっているのに、リベラルのせいで不幸になっていると間違って思い込んだのです。
富裕層にとっては好都合な思い込みです。
トランプ氏はこの思い込みを利用してリベラルを攻撃し、白人労働者の支持を得ました。

ハーバード大学に対する攻撃もこの一環です。ハーバード大学を攻撃しても、アメリカにとってはなんの利益にもならず、不利益しかありませんが、責任転嫁にはなります。

そんなことをしている一方で、トランプ政権は大規模な減税法案を通そうとしています。減税で得をするのは高所得層です。
国内の製造業復活の見通しはなく、ラストベルトの白人労働者は忘れられたままです。


アメリカ人は責任転嫁をやめて、貧富の差、犯罪、麻薬汚染に正面から取り組むべきです。
そうしないと世界にとっても迷惑です。

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失われた30年などといわれ停滞の続く日本ですが、目立ったよい変化もありました。
それはジャニー喜多川氏、松本人志氏、中居正広氏などによる性加害の被害者が声を上げられるようになったことです。
これまで権力者の前に泣き寝入りしてきた被害者が声を上げ、権力者がその座を追われるようになりました。
こうしたことの積み重ねは社会のあり方を変えていくに違いありません。

この動きの背景には、時代の変化もあります。
ジャニー喜多川氏の性加害に対する告発は1980年代から雑誌や単行本で行われていましたし、1999年には「週刊文春」が記事にし、ジャニーズ事務所は名誉棄損で文芸春秋を訴えましたが、記事は「その重要な部分について真実」とする判決が確定しました。にもかかわらずほかのマスコミや世の中はほとんど無視していました。被害者が警察に被害届を出そうとしても受理してもらえなかったそうです。そうなると、被害を訴え出たほうが逆に非難されることになります。

状況が変わったのは2023年3月、イギリスのBBCが喜多川氏の性加害についてのドキュメンタリーを放送し、同年4月にカウアン・オカモト氏が実名・顔出しで記者会見を行ったことです。ここから性加害告発の流れができました。
そして、松本人志氏、中居正広氏に対する告発へと続きます。

しかし、これも容易なことではありません。事実関係について争いが起こるだけでなく、告発した被害者への誹謗中傷がすさまじいからです。
世の中には性加害をする人間の側に立つ人間がたくさんいます。
そういう人たちは、加害者に味方するには被害者を攻撃して黙らせるのがいちばんいい方法だとわかっています。
これまではそのやり方が奏功していましたが、今では被害者を攻撃する声よりも被害者を守る声のほうが大きくなり、状況が変わりました。

これは当然、世の中の価値観が変わったからです。
そして、裁判所も世の中の価値観に合わせるだろうと想像できます。松本氏が文芸春秋への訴訟を取り下げたのもそういう判断からでしょう。

価値観が変わる前の告発は、ジャニー喜多川氏への告発がそうだったように、逆に反撃されて、声を上げた被害者がひどい目にあいかねません。
実はアメリカでそういうことがありました。


前回の「いちばん認識しにくいがいちばん大切なこと」という記事で、子どもは親から虐待されたことをなかなか認識できないということを書きました。
中でも認識しにくいのが性的虐待、つまり娘が実の父親にレイプされるというケースです。
本人も認識しにくいですが、周りの人間も認めたくないので、かりに娘が周りの人間に訴えても聞いてもらえません。逆に否定されます。
心理療法においても、権威あるフロイト心理学は幼児虐待を認めないので、性的虐待の被害者は放置されてきました。

しかし、1980年代から一部のカウンセラーが催眠や薬品を使って記憶を回復させる「記憶回復療法」を行うようになり、それによって父親からレイプされたという記憶を回復させる患者が多く出てきました。
そして、こうした性的虐待の被害者が家族(多くは父親)を告発し、裁判に訴えるケースが頻発しました。

ジャニー喜多川氏は、親代わりの立場で未成年者に対して性加害を行ったわけですが、近親相姦ではありません。
アメリカの場合は、多くは父親と娘という近親相姦です。
しかも、子ども時代の性的虐待をおとなになってから訴えるのですから、物的証拠はほとんどなく、当事者と周囲の人間の証言しか判断材料がありません。困難な裁判になりますが、カウンセラーやフェミニスト団体が支援体制をつくり、公訴時効を延長するなどの法改正も行われました。

法廷において親と子が対決するという状況に家族制度の危機を感じたのが保守派です。
保守派は反撃を開始し、その先頭に立ったのが心理学者のエリザベス・ロフタスです。ロフタスはおとなの被験者に対して「5歳ごろにショッピングセンターで迷子になったが、親切な老婦人に助けられ、両親と再会することができた」という偽の記憶を植えつける心理実験を行い、約4人に1人の割合で偽の記憶を植えつけることに成功しました。
「ショッピングセンターで迷子になった」というのは「父親にレイプされた」というのとはあまりにも違いすぎますし(トラウマになるような心理実験は許可されません)、植えつけに成功したのは4人に1人でしかありませんが、ロフタスや保守派はこの実験をもとに、セラピストが患者に幼児期に父親にレイプされたという偽の記憶を植えつけたと主張しました。
そして、「偽りの記憶症候群」という言葉がつくられ、「偽りの記憶症候群基金(FMS基金)」なる団体が組織され、寄付が集められて、被告の法廷闘争を理論面と資金面から支援しました。
これは保守派対リベラルの戦いとなり、「記憶戦争(Memory War)」などと呼ばれました。

マスコミは最初、親を告発した子どもを正義、告発された親を悪人として報道していました。
しかし、保守派は極左のセラピストや過激なフェミニストが患者を洗脳して家族を破壊しようとしていると主張しました。
そして、マスコミはセラピストを悪人とするほうに乗りました。
そうして裁判は次々と親側が勝訴していきました。
さらに、親側はセラピストを不正医療行為をしたとして訴え、セラピストは100万ドル、240万ドル、267万ドルといった巨額の賠償金または和解金を支払わされる破目になりました。
「記憶戦争」は親側、保守派の全面勝利で終わったのです。

このことについて私は「『性加害隠蔽』の心理学史」という記事の中で書きました。
ウィキペディアの「過誤記憶」もわかりやすいまとめになっています。


ところで、性的虐待の被害を訴えた人には、悪魔主義の儀式に参加させられたという人が少なからずいました。たとえばウィスコンシン州で看護助手をしていたクールという女性は「悪魔儀式に加わり、赤ん坊を貪り、性的暴行を受け、動物と性交し、8歳の友人が殺されるのをむりやり見させられた」と主張しました。
こんな荒唐無稽な話は嘘に決まっているということで、被害者の訴えは信用性をなくしました。
しかし、「ディープ・ステート」という陰謀論の核心は「世界は小児性愛者の集団によって支配されており、悪魔の儀式として性的虐待や人食い、人身売買を行っている」というものです。
こちらの話を信じる人が多いのはどういうことでしょうか。
実際のところは、悪魔主義の儀式は水面下でかなり行われていて、セラピストの治療はその暗部をあぶり出したのではないでしょうか。
悪魔主義を描いた小説や映画が多数存在するのもゆえないことではないでしょう。
なお、悪魔主義の儀式に小児性愛の儀式はつきものであるようです。



裁判の結果がどうなろうと、子どもに対する性的虐待は確実に存在します。
Copilotに「アメリカにおける子どもへの性的虐待の件数は?」と聞いた答えを示しておきます。
アメリカでは、2021年に約59,328人の子どもが性的虐待の被害を受けたと報告されています。これは、虐待全体の約10.1%を占める数字です。ただし、性的虐待は報告されないケースも多く、実際の被害件数はさらに多い可能性があります。
また、18歳以下の子どもの4人に1人の女の子、6人に1人の男の子が性的虐待を受けているという統計もあります。さらに、児童性的虐待の被害報告の中央値は9歳とされており、特に幼い子どもが被害に遭うケースが多いことが分かっています。
この問題は非常に深刻であり、アメリカでは防犯対策や性教育の強化が求められています。もし詳しく知りたい場合は、こちらの情報を参考にしてください。
さらに「親が自分の子どもを性的虐待した件数は?」と質問すると、「アメリカでは、児童性的虐待の加害者の約30〜40%が家族であると報告されています。特に、加害者の多くは親や親族であるケースが多く、児童虐待全体の中でも深刻な問題とされています」ということです。


おそらく裁判のほとんどは親が有罪になるべきだったでしょう。
訴えるのが早すぎたのです。
日本でジャニー喜多川氏への早すぎる告発がすべて無視されたのと同じことになりました。
いや、アメリカでは裁判が行われたために、不都合な判例が積み上がってしまいました。
今や子どもが親を告発するということはほとんど不可能でしょう。


保守派は家庭という強固な足場を得て、人権運動に対する反撃に出ました。
その典型的な動きが、「母親の権利」を掲げる保守系団体の運動です。人種差別反対や多様性推進を主張するのは子どもへの洗脳だとして、そうした本を学校図書館から排除するように要求し、こうした「禁書」の動きは全米に広がっています。また、保守派のデサンティス知事のいるフロリダ州では「教育における親の権利法」という州法が成立し、これによりLGBTなどの「性的指向や性自認に関する教室での指導」が禁止されました。
アメリカは親が子どもを支配する国になり、子どもの権利がまったく認められなくなりました。

子どもの権利だけでなくマイノリティの権利も認められません。
今のアメリカでは人種差別反対をいうと白人差別だとして攻撃されます。
このような流れの中でトランプ政権が誕生しました。


アメリカがあきれるほどの人権後進国になった転換点は「記憶戦争」にあります。
日本はアメリカのようにならずによかったですが、アメリカが人権後進国になったのは喜べません。


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